マンデリンさんのレビュー
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ねじの回転
ジェイムズ, 土屋政雄 / 光文社古典新訳文庫
巧緻を尽くした心理小説
9
19世紀イギリスの貴族館での出来事。両親を亡くした幼い兄妹が伯父の館に身を寄せることになったのですが、貴族である伯父はロンドンで気楽な生活をしていて子供の面倒を見るのが嫌で、代わりに館で子供を養育して…くれる家庭教師を探しました。幼い兄妹の家庭教師として雇われた若い女性が、館で遭遇した奇怪で悲惨な出来事を記した手紙が、数十年後に読まれるという形で物語は綴(つづ)られています。
貴族の館には二人の亡霊が出ました。二人の亡霊は、一人は身分の低い男性使用人、もう一人は前任の中産階級出身の女性家庭教師で、二人は、生前に兄妹と共に館で暮らしていました。この二人の亡霊は生前に邪悪な生き方をして身を滅ぼしたのですが、死んだ後も兄妹を自分たちと同じ邪悪な道へ引きずり込もうとして兄妹の前に現れるのです。
物語は家庭教師の手紙を通じて描かれますから、読者は、家庭教師の目を通してのみ様々なもの見ることができます。間接的にしか登場人物の会話も行動も見ることができません。薄曇りの窓硝子越しに物事を見ている、あるいは影絵を見ている感じですが、逆に家庭教師の心理は直接的に読者の目や心に訴えてきます。家庭教師の心を受け止めながら、起こっていることを自分で補いながら読み進めることが必要です。
更に、作品が書かれたビクトリア朝時代、教育を受けた人は不品行で恥知らずな事を口には決して出さないので、亡霊たちが行った肝心なところが婉曲的にしか言及されません。そういう意味でも読み解きが必要な作品です。
この作品は、極めて巧緻を尽くした技法によって描かれていますので、そういう面を味わうのが好きな人には楽しめる作品だと思います。
続きを読む投稿日:2015.01.02
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ペトラルカ 無知について
ペトラルカ, 近藤恒一 / 岩波文庫
人間中心主義へ
6
ペトラルカが活躍したのは、中世が終わろうとし、ルネサンスが芽吹き始めた時期です。中世ヨーロッパにはアリストテレスの著作が広く知られ、知識人にとって学問と云えばアリストテレスを基にしたスコラ哲学を指して…いました。彼ら中世知識人はアリストテレスを神を扱うように高い位置に置いて、アリストテレスを無批判に盲信して、名前だけアリストテレス唱え、アリストテレスの考えから逸脱したことを話していても、自分で気づかずにいるようなことさえありました。
ペトラルカは、早くからプラトンの著作を知り、プラトン哲学の素晴らしさを理解していました。プラトンを重んじ、アリストテレスを神のようには扱わないペトラルカは、当時の知識人から見れば、「無知」な人間としてみられたようです。
ペトラルカはベネチアの友人4名から訴えられて反論を書いたのですが、書簡は当初の目的である友人への反論を超え出て、知識とは知性とは何かと言う議論へと展開されて行きます。
ペトラルカは、アリストテレスを否定しているわけではなくその優秀性を認めさえしていますが、神のような高い位置からは降ろして他の思想と同等に批判的に吟味しようとしています。アリストテレスは、徳は何であるかを定義し教えてくれますが、徳をなすべく学ぶ者の心を励まし燃え立たせてはくれないと、ペトラルカは言います。いくら知識が増えたとしても、意志も魂も元のままでは意味が無いということです。
知識中心、権威中心であった思想を人間中心に捉え直そうとする姿勢がそこには現れているように感じます。人間中心主義へと大きく変わろうとするルネサンスという時代背景もあったのでしょうか。
こうして書いて来るとペトラルカは人間中心の合理主義者に映るかもしれませんが、彼はキリスト教の僧であり神を深く信仰し愛しています。合理的なもの、人間的なもの、人間の叡智を超えたもの、全てのものを受け止められる大きな精神活動をペトラルカの中に感じます。
続きを読む投稿日:2015.03.01
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ビリー・バッド
メルヴィル, 飯野友幸 / 光文社古典新訳文庫
正と悪と人間の良識
6
ビリー・バッドは、容姿美しく力逞しく性格も良好な青年で、商船から戦艦に徴用された時も船員達から好感を持って迎えらました。しかし、戦艦には先任衛兵長ジョン・クラガードという男がいて、ビリーを嫌いました。…クラガードの職務は船の警察署長のようなもので、その地位に物を言わせて目に見えない影響力を行使しては部下を操り、不快感を与えるような人物でした。そのクラガードが陰謀を仕掛けます。
ビリーは正を、クラガードは悪を体現したような人物ですが、二人は共に生まれがはっきりしないので、ある意味では、人間社会の外側から来た人物と言えるかもしれません。ビリーとクラガードという人間社会の枠を超えた正と悪が対峙したとき、その結果を艦長ヴィアという良識ある人間が裁くことになります。
一体、人間の良識は、(人間の枠を超えた)絶対的な正と悪について何を判断することができるのかという、著者メルヴィルからの深い問いかけがあるように感じました。象徴的な書き方や、(「白鯨」のように)本筋から逸れる記述が多い点など、ストーリーを把握しながら読むのに少し骨が折れるかもしれませんが、読み応えのある主題だと思います。
続きを読む投稿日:2015.09.22
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詐欺師フェーリクス・クルルの告白(下)
マン, 岸美光 / 光文社古典新訳文庫
「存在は健やかな幸せではない。存在は喜びと重荷である。」
5
上巻に引き続き、著者トーマス・マンの卓越した語りの力強さ、人間洞察の奥深さに驚かされる作品です。
ホテルの給仕として働くフェーリクスは、青年貴族ルイ・ヴェノスタと出会うのですが、ヴェノスタは、自分の…身代わりとなって世界周遊旅行に出るという提案をフェーリクスにします。何か魅惑的なこととして心惹かれるのですが、彼の理性は真に自分の人生を賭すに値するものであるかを冷静に問いかけます。(フェーリクスはいつも理性と冷静に対話しながら生きているのです。)そして、考えた抜いた末に、青年貴族の代役を引き受けて生きる決心をします。
フェーリクスは、パリから南北急行でとリスボンへ向かいます。食堂車で向かいに座った「星のような目」をしたクックック教授という古生物学者と知己になりますが、クックックは、食事の傍(かたわ)らフェーリクスに生物学の講義を授けてくれます。
生物が地球上に現れ現在に至るまで如何に進化してきたのか、フェーリクスにとって驚異的な教えでした。最初期の形態から生物は進化し続けて最高度の生物に至ります。しかもその間に全段階が存在し続け、これからも並存し続けるということ。何という驚異でしょうか。人間の根源的なものに関わって生きるフェーリクスにとって重要な意義を持つ話であったのです。
「存在は健やかな幸せではない。存在は喜びと重荷である。」
楽しく安らかなだけの生は真の人生ではなく、真の人生とは喜びと重荷の両方を真正面から受け止めて生きることだと語りかけています。
この後、リスボンでクックック教授の夫人や娘との神秘に満ちた邂逅が続いていきます。
著者トーマス・マンが、最晩年に、何か時間や空間を超越した人間存在の意味を追い求めようとしている印象を受けました。
続きを読む投稿日:2015.04.11
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月を見つけたチャウラ~ピランデッロ短篇集~
ピランデッロ, 関口英子 / 光文社古典新訳文庫
生への気づき
5
イタリアの作家・劇作家ピランデッロの短編集。一つ一つの短い物語には、炭鉱夫、農民、法律家、修道士など様々な人の生き様が書かれています。この短編集に収められている作品には、死や狂気という主題が扱われてい…るのですが、死や狂気は「生への気づき」の契機であったり裏返しであったりします。ここでいう「生への気づき」とは、医学的・生物学的な意味ではなく、哲学的・根源的な意味のものです。
例えば、「木々」という物語では、経済的に破綻した男マッテオが、自死を決意して自ら墓場に赴く様子が書かれています。自ら墓場に行くのは、残された家族が自分の葬式に少しでもお金を遣わなくて済むようにという非常に打算的で死ぬ間際までも現実的な理由による行動でしたが、いざ墓場へと歩き出してみると死を決意した心には世界が大きく変化して見えたのです。
『木々……おお、なんという驚き!木はこんな姿をしていたのか。これが木だというのか。』
主人公は、死を決意して、死の間際になって、「生への気づき」が訪れ初めて世界を真直ぐにそのままの姿で見ることができるようになりました。安楽に暮らすことだけに心を奪われている者や毎日の仕事に没頭している者は生という海に溺れている状態にあり、真の意味で生に気づいていないし、世界を真に見てもいないのではないでしょうか。
本書は、「生への気づき」を教えてくれる佳作であると思います。ピランデッロの登場人物に対する暖かい眼差しと、人生という現実に対する冷めた諦めの感情が織り交ぜになって、甘くも苦い複雑な味わいの作品集になっています。
続きを読む投稿日:2014.11.23
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これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル, 鬼澤忍 / 早川書房
幸福、自由、美徳から考え直す正義
5
正義とは何でしょうか。書斎の中で思弁的に正義を語ることはできるかもしれませんが、実際に社会に起きている複雑で泥臭い毎日の事件に即して、正義とは何かを考えるのは難しいと思います。本書では、幸福、自由、美…徳という正義の基盤となる考え方を道標(みちしるべ)としながら、読者は正義とは何かを探る旅へと導かれます。
世の中では、社会の最大幸福を追求すべきだとか、自由を尊重すべきだとか、言われるような気がします。しかし、自分を振り返ってみると、ある問題では皆が幸福であるべきだと考えているのに、別の問題では自由を尊重する立場に回ったりして、一貫性に欠けた幸福や自由を尊重していることに気がつきます。改めて、正義とは何かを考えさせられます。
幸福の最大化はわかりやすい考え方ではありますが、この考えを追求すると、人は大多数のために少数者の権利さえ犠牲にするという考えに陥りがちです。果たして、人権をそういう形で侵してもいいのだろうかということが問われます。
そこで人権を尊重する自由という考え方が出てきます。ところが、自由が拠って立つ基盤となるのは自己を所有しているという考え方ですが、この考えを突き詰めると、自分が同意さえすれば自分の命を絶つことが許されるという議論に陥ってしまいます。果たしてそういうことは許されるのでしょうか。
これらの考え方に対して、カントは自己所有とは異なるものに基盤をおいて彼の理論を作り上げたそうです。それは、人間は誰でも理性を持っていて、理性によって自ら行動することができますが、理性こそが人間の尊厳の基盤でもあるということです。さらに、人間は尊厳ある存在であるのだから命を絶つことは許されないというのが、カントの考え方です。
しかし、サンデルは、この確固としたカントの考えにも満足しません。カントの考えは余りにも理想的過ぎて実際の人生で立ち向かう現実との乖離がありすぎるということでしょうか。理想的な考えで正義が論じられるときには、人々が属している文化の美徳のようなものは無視されますが、果たしてそれでいいのでしょうか。自らのアイデンティティを形成してくれた社会から切り離された正義、ある意味非常に抽象化された正義に従うことが正しいのでしょうか。サンデルは、自らの人格形成に大きな影響を与えたコミュニティの道徳的な重荷と重要性を担いつつ、自由と向き合うことができる道を探しているのです。深い洞察と思索によって裏付けられた確固とした考えで、強い感銘を受けました。
続きを読む投稿日:2013.11.24