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総合評価

872件)
4.3
378
278
128
13
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    神は何故沈黙か。愛、依存。 胸が苦しくなる瞬間が多かった。 何をもって神なのか。 人間の執着に恐ろしさを感じた。 そして遠藤周作の引き込まれる文章素晴らしい。

    0
    投稿日: 2023.10.26
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    現実におきる残酷さと沈黙する神の残酷さ、耐えることとは、弱い人とは、いろいろな価値観を投げつけてくる小説。

    1
    投稿日: 2023.10.20
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    鎖国時の江戸を舞台に、日本にキリスト教を宣教するために訪れたポルトガル司祭が日本での厳しい取り締まりの中で苦悩する。隠れキリシタンや宣教師が受ける厳しい罰に対して「沈黙」を続けることに対する疑問を主人公は終始探っていく。信仰を捨てることと神に背くことが必ずしも等しくない、ということに気づかされた。

    1
    投稿日: 2023.10.18
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    遠藤周作のキリスト教観。 https://houjouwomamorenakatta.com/tinmoku-endosyuusaaku/1350/

    0
    投稿日: 2023.10.07
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    このレビューはネタバレを含みます。

     難しい作品だった。面白かったが、容易ならざる問題作だ。成る程これは評価の悩ましい作品だと納得した。  発表当初、之を禁書に指定する教会まであったそうだ。こんなものは基督教ではない、遠藤教だと物議を醸したとも。批判の内容に就いては兎も角、なかなか面白い表現ではある。言い得て妙だ。  基督教に就いては、自分の中にずっと以前から疑問があった。果たして此の宗教の謂う神とは何者なのか。其れは仏教で謂う空とか、道教の道とか謂うものと同じようなものなのか、将又根本的に全く異なる概念なのか。いま朧気ながらも、其れは後者なのではないかとの思いを強くした次第である。  踏み絵が大きなヒントになった。本作でもクライマックスに取り扱われる重要な概念である。  例えば仏教徒の場合はどうであろうか。仏像か何かを足蹴にせよと強要された場合、敬虔な仏教徒は如何にすべきだろうか。  こんな話がある。或る僧が焚き火で暖を取っていたが、薪が尽きたので仏像を燃やした。之を見ていた別の僧が咎めたところ、仏像を燃やした僧は、ならば燃やした仏像から舎利を取ってみよと反論した。  出典などは失念してしまったが、大体こんな感じの有名な説話があった筈だ。これはもしかすると基督教に於ける踏み絵と好対照を為すエピソードではないだろうか。  仏教徒が信仰しているのは仏の教えであり、仏像そのものではない。仏像は確かに有り難いものかも知れないが、然し如何に有り難くとも仏像其れ自体は信仰の対象ではなく、只のモノである。  だから別に燃やしたこと自体は問題にならないし、寧ろ仏像に執着する方が仏教としてはNGかも知れない。  翻って基督教の踏み絵はどうだろうか。銅板の基督は只のモノだから、作中で通辞が幾度も囁きかけた如く形式だけ踏んでおけば良いとは言えないだろうか。否、矢張り其れは出来ない。仏教が目指すのは生活の勝利者だが、基督教が目指すのは道徳の勝利者であり、人生の勝利者だからだ。  仏教は人間と人間以外の凡ゆる生命(或いは凡ゆる非生命)との間に隔たりを認めない。然し基督教では恐らく然うではない。人間には人間たる可き正義があり、尊厳がある。之を愛し、信じ抜く事こそが基督教の美徳なのだろう。  だから敬虔な信者であればあるほど踏み絵を踏むことは出来ない。現在の苦痛から逃れる為に信仰を棄てることは、取りも直さず道義の敗北であり、その行為は理性無き畜生にも等しいからだ。ここにこそ基督教と他の宗教との隔絶が存在するように思える。  だが然し『沈黙』作中に於いて最終的に司祭は棄教の道を択ぶ。基督は沈黙していたのではない。ずっと同じ苦痛の最中に在った。  こんなとき、基督ならどうするだろうか。それは全ての信者が常に生活の中で共有している命題ではなかろうか。基督ならば、痛みを分かち合う。何となれば丸ごと肩代わりする事も厭わないのでは無いだろうか。然う考えれば踏み絵を踏む事は基督の真意に適うとも言える。正にこの部分が批判の対象であり、物議を醸した問題のシーンなのだろうが。  何れにせよ何が正しいのか、誰にも答えられない問題である。従来の基督教の教理で解決出来ない領域に踏み込み重大な問題を提示した宗教的且つ文学的に意義深い作品であった。

    3
    投稿日: 2023.10.05
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    『海と毒薬』に続き、遠藤周作2作目。 引き込まれるように1日で読みきってしまった。 神ってなんなんでしょうね… キチジロー途中うざすぎてほんと嫌いだったけど、この人の弱さを自分も少なからず持っているから嫌いなんだろうなとも思った。

    1
    投稿日: 2023.09.15
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    このレビューはネタバレを含みます。

    主人公の、キリスト教団体の理想やしがらみという洗脳が解かれるまでの心の葛藤を描いた作品。そのプロセスがかなり残酷であるが、その残酷さを霞ませるほど、主人公の内面の苦悩が強く描かれていて、最後はドラマチックでガッツリ引き込まれた。 転じた先輩であるフェレイラが「日本人が信仰したものはキリスト教の教える神ではなかった」「我々の神を彼等流に屈折させ変化させ、そして別のものを作りはじめたのだ」と主人公に伝えるが、確かに日本人あるあるだと納得。日本人は頑固なのか、それとも本質が分かっているがための無意識の改変なのか。 そもそも当時の布教という行為が善意で美しいという体で読み始めないと、感情移入はしにくい。大航海時代に、他国の支配戦略としてキリスト教の布教が利用されたという理解で読むと、多分それを知らずに海を渡った真面目な主人公が、さらに哀れで救われない。

    9
    投稿日: 2023.09.11
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    潜入司祭ロドリゴの目の前で、切支丹達がどれだけ迫害されても、神は‘沈黙’したまま。それでも、貴方は神を信じますか? という話だが、何の救いももたらさない神を信じきれず、それでも縋らずにはいられないキチジローの苦しみこそ、ロドリゴの背教の苦悩よりも深かったのではないかと思った。

    2
    投稿日: 2023.09.09
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    神はなぜ沈黙を続けるのか というある種タブー的な問いがずっと付きまとう。 常に救いが欲しくなるシーンばかり。それほどに、拷問と自分の信じる心を試されるシーンがむごい、、、 そもそもなぜ、信徒たちは異常に棄教できないのか、キリストの教えに背くこと、踏絵を踏むことがなぜそれほど苦しめるのかが自分には分かれなかった。そもそもの信仰心が弱いからなのか、そういう教えだからなのか、理由はまだ分からない。 けど、異教徒としてはその信心深さに恐怖すら覚える。 海はかぎりなく広く哀しく拡がっていたが、その時も神は海の上でただ頑なに黙りつづけていた。 五島の海は本当に美しい、のに、この作中では常に恐ろしいもの、不気味なものとして描かれていた。

    9
    投稿日: 2023.09.05
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    21 感想 日本では根が腐る。もしかしたら今も舶来の教えは根付いていないのかも。新興宗教とは根腐れした姿なのかも。そんな問いにも神は応えない。

    0
    投稿日: 2023.08.24
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    このレビューはネタバレを含みます。

    終わり方がすごく好みでした。 モヤモヤする終わり方、なにだか報われない、つっかえるような感じでとても良かったです。 序盤から終盤まで、「気休めの平穏」と「連続する悲劇」を繰り返し続けるので、読んでいて中弛みしません。感情が盛り上がるシーンで、風景の描写が見事なタイミング・技巧で入るので、それがまた切支丹たちの苦しみをハッキリこちらに見せつけてきます。 とにかくドラマティックというか、いい意味で嫌な汗をかきます。最高でした。

    1
    投稿日: 2023.08.18
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    読書が好きになった一冊 国語の先生が授業の前に10分間本を読みましょうというのをしてくれてました。本を読まない私たち用にと持ってきた先生の私物で、薄いという理由で選んだ一冊 初めて文章に引き込まれるという感覚を味わった

    7
    投稿日: 2023.08.17
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    このレビューはネタバレを含みます。

     新潮文庫の100冊2023の棚から購入。  既にキリスト教が禁止された1640年頃の日本に布教のためにやってきた神父が、捕まって棄教を迫られる話。  絵踏みについては小学校か中学校の社会の授業で習うので覚えてはいるのだが、「心の中で信じておけばいいんだから、とりあえず形だけ踏んどけばいいじゃん」と思ったものだし、事実江戸時代にも形骸化していたという。  もちろん、当初は効果が絶大だからこそ実施されていただけあり、小説のなかでも絵踏みを拒否して投獄、処刑される人も登場する。  キリシタンの日本への布教のエネルギーは凄まじいものがあり、日本で棄教したフェレイラ神父については 「当時ヨーロッパ人の眼から見れば世界の果てともいうべき一小国でフェレイラが転宗させられたという事実は、たんなる一個人の挫折ではなく、ヨーロッパ全体の信仰と思想の屈辱的な敗北のように彼等には思われた」(p.10) とヨーロッパの一大事のように語られる。  もちろん未開の国の蒙を啓く、という考え方が当たり前な時代だからしかたがないのだろうが、自分たちの宗教が正しいという大前提は、 「正はいかなる国、いかなる時代にも通ずるものだから正と申します。ポルトガルで正しい教えはまた、日本国にも正しいのでなければ正とは申せません」(p.171) という主人公ロドリゴの台詞からも見て取れる。  こうした偏った考え方があるからか、異国日本においては当然のように排除される。もちろん、小説内において、キリスト教という宗教自体が否定されているわけではない。  キリストを裏切ったユダをモデルとして描かれるキチジローは、人間の弱さを晒しつつも、主人公に問いを突き付ける。彼が踏み絵を踏んだしばらく後、主人公に対しての問いかけ。 「じゃが、俺にゃあ俺の言い分があっと。踏絵ば踏んだ者には、踏んだ者の言い分があっと。踏絵をば俺が悦んで踏んだとでも思っとっとか。踏んだこの足は痛か。痛かよオ。俺を弱か者に生れさせおきながら、強か者の真似ばせろとデウス様は仰せ出される。それは無理無法と言うもんじゃい」 「パードレ。なあ、俺のような弱虫あ、どげんしたら良かとでしょうか。金が欲しゅうしてあの時、パードレを訴人したじゃあなか。俺あ、ただ役人衆におどかされたけん……」(pp.178-179) 雨の中でこう泣きわめくキチジローを放っておくことに 、主人公は一種の「快感」をおぼえているが、自分がやっていることが本当に正しい事なのか、だんだんと揺らいでゆく。  物語の最後のシーンでは、主人公の宗教観、キリストへの思いは、日本への布教に燃えていた当初のものとは大きく異なっている。これが神父として正しい姿なのかは分からないが、私には彼が幸せになったようにも見えた。

    1
    投稿日: 2023.08.15
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    このレビューはネタバレを含みます。

    厳しい状況の中、ただひたすらに信じ祈っても、神は沈黙を守られている。そのことが胸をかすめた時の恐怖や不安は想像を絶するものだろう。それを乗り越えた主人公が信じているものは、過去に彼が信じたキリスト教とはまた違うものなのかもしれない。 何か信じていたものを裏切る人には、その人なりの苦悶がある。それを想像することは、他人にとって難しいことだ。特に、一度もその人と同じような苦しい状況に追い詰められたことがない人にとっては。 このことは『沈黙』の世界に関わらず、現代でも当てはまるように思う。

    3
    投稿日: 2023.08.13
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    なるほど、キリスト教というのはすごい 本質が分かっていなくても救われるし、より深く本質を掘り下げていくとより深い学びがあるのか〜と。子供も楽しめるし、大人になって深さを感じるとより面白いジブリみたいだなと思った。 こういう浅い層も深い層も抑えられるコンテンツは強いよね。いろんな人が教徒なのも納得。 教会の人が追放だと言っても、それを決めるのはあの人だけ、っていう解釈は面白かった

    0
    投稿日: 2023.08.06
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    このレビューはネタバレを含みます。

    キリシタン禁制の日本に渡ってきた司祭目線の物語りは凄く新鮮だ。しかし、キリシタンのことをちゃんと知っているかと言えば、学校で学んだ事ぐらいの知識しかなく戸惑う。背教者フェレイラの出した日本人の宗教観には凄く納得する。そして追い詰められていくうちに信心に疑いを持ち醜く人間味を表すロドリゴからも目は反らせない。では、そんな彼らの生の反対側に存在しすがり来る信心たちは?死んでいった信者たちは?彼らが信じていたものは、本当は何だったのだろうか?基督教司祭達のそれとは噛み合っていない。彼らが願うパライソは存在しない。しかし司祭は嘘をつく。信心を失わせないために本当のことが云えなかっただけか。神はずっと沈黙している。信心のない私にしたら「そりゃそうさ」。神の救いって何なんだろう?宗教って何なんだろう? 司祭もただの捕われた人間だった。

    0
    投稿日: 2023.07.24
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    私は宗教を信じたことがなかったので、これまで歴史で習う「隠れキリシタン」や「踏み絵」をただの単語として捉えていた。 けれど、『沈黙』の中に示された信仰は、愛と依存を強く固めたものの様に思えた。もしかしたら私が知る中で1番近いものは家族への愛かもしれない。 作品の中で、登場人物たちはこの日本で、信ずるものや愛を、無慈悲に惨たらしく他者から変えることを強要された。拒めば死が待っている。 私たちの愛とはなんなんだろうと、信ずるもの、正義、清らさそういったものを象徴するキリストが自分に何もしてくれない。果たして自分の命よりこの信仰が大切なものなのか人はわからなくなっていく。確立された正義など世の中にはなく、それは環境や時代の産物なのかもしれない。 その愛を貫く正義を持てば、死ぬ。読み進めれば読み進めるほど胸糞悪くなる。けれど読むのをやめるのもダメな気がする。見届けなくてはいけない気がしてくる。 遠藤周作の文は本当にうまい。人を引きこむ。文字の技術というよりはむしろ、人の精神性を描くのが本当にうまい。考えて考えて鬱々としていく心を描くのがうまい。苦しくなる。それは『留学』を読んだ時にも思った。人を暗い気持ちにする。できれば引きずられたくないと思うものだ。

    0
    投稿日: 2023.07.23
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    キリスト教の禁教政策が苛烈さを増していくなかで、20年以上にわたって日本で布教活動をおこなってきたクリストヴァン・フェレイラ教父が棄教したという知らせが、ローマ教会にもたらされます。 ポルトガル人でイエズス会士のセバスチァン・ロドリゴは、フランシス・ガルぺとともに日本へ向かい、熱心な信仰者であったフェレイラがほんとうに棄教したのかどうかをたしかめるとともに、幕府の取り締まりの目を逃れて信仰の灯をつないでいる日本人信徒たちに神の教えを伝えようとします。しかし、心の弱さをかかえたキチジローという日本人信徒の裏切りによって、二人は囚われの身となり、「転ぶ」ことを求められます。 信仰をめぐる重い主題をあつかった作品ですが、あらためて読み返してみると、ほんらいはまったくべつであるはずのテーマが、著者のなかでひとつに混淆しているような印象を受けます。すなわち、神の「沈黙」というテーマと、キリスト教の神をいつのまにか変質させてしまう日本の文化的風土についてのテーマです。前者のテーマは、イエスの死後ただちに審判がもたらされることがなかったときからの、いわばキリスト教の伝統的な問題であり、後者のテーマは日本の特殊性を信仰のありようのうちに認めようとする態度によってつくり出されたものであるように思います。 日本でカトリック教徒として生きることになった著者自身が、この二つの問題をひとつにかさねあわせて思い悩んだことは理解しやすいのですが、本作の主人公であるポルトガル人宣教師のロドリゴが、これらの問題を本書にえがかれているようなしかたでかかえ込むことがあるのだろうかという疑問も感じています。

    0
    投稿日: 2023.07.16
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    登場人物の感情が文章からすごく伝わってくる作品だった。信仰というと自分にはスケールは大きいが、信じているものやこと、人に沈黙し続けられた時自分はどの登場人物にもなり得るような気がした。それはたぶん信じてる対象と信じてる深さ、信じ方からくるかもしれないなぁと。 歴史を学ぶという意味でも良い本だった。

    1
    投稿日: 2023.07.12
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    流石の文章力でぐいぐい引きずり込まれたが、これからも基督は沈黙を続けると云うことか?卑怯なだんまりを決め込むと云うこと! それ以外方法があるまい、解決の道無し宗教戦争

    1
    投稿日: 2023.07.02
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    またすごい本に出会ってしまった。 とんでもないものを目撃した気分。 作者について。 遠藤周作という名前だけは知っていたけど、どういう小説を書く人かは全く知らなかった。 キリスト教作家として有名な人だったとは。 彼自身もカトリックとして洗礼を受けているにもかかわらず、こういったものが書けることに驚きを感じる。 「神は存在するのか」という、「宗教」の根本を揺るがしかねない問いが作品全体に真摯に貫かれている。私が遠藤周作の立場だったらこんなの怖くて書けないよ、「神はいるよね、うんうん」と自分の中で納得させて終わらせるよ でもそこを書き切ったことに、作家としてのの覚悟と矜持を感じました 信じている宗教の有無に関わらず、私たちってなんとなく「人智を超えた何か」というものの存在を認めながら生きている気がする。 それがある人にとっては神であったり、霊だったり、あるいはお金だったり。 『沈黙』は単なる宗教小説ではなくて、「自分が無垢に信じてきたものが覆ったら、どうします?」という作者からのとんでもない問いかけな気がする。 いろんな人に読んでほしいと思う作品。

    13
    投稿日: 2023.06.29
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    2023.06.05?らへん 読了 ・キチジローとフェレイラがそのロドリゴとまた違う立場で各々の神の信仰を捉えていて、また話に深みを持たせてくれている ・今の時代でも言えるけど、神って言っても色んな捉え方/縋り方があるよなあって思った ・物語の話の展開の仕方も手紙だったり第三者視点だったりロドリゴ、記録だったりして切り口がめちゃ個人的にはそこも面白かった ・長崎の島原城、五島列島あたりの遺産は見た方がいい ・やっぱり遠藤周作は素晴らしい ・「神とは」「神への祈り」たるものというテーマ、傾倒している宗教のない人間にとってはかなり新鮮で重いテーマ

    0
    投稿日: 2023.06.19
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    映画を昔見たが、原作にも興味が湧き読んだ。映画の脚本との違いは特になく、迫害される中で沈黙を貫く神に対しての憤怒が後半部分では強く描かれていた。

    1
    投稿日: 2023.06.15
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    キチジローを完全には責められない自分がいる。多くの読者がそうなのではないか。人の心に平安をもたらす宗教は争いの種にもなりうる。信仰とは?神を信じることの意味は?深く考えさせられる作品だった。

    1
    投稿日: 2023.06.13
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     名作と謳われる今作を読んでみました。 実につらい。とことんまで悩みぬくし、希望もない。 そして最後に行きついたところは。これは宗教の話なのだろうか、いや人間の話ですね。 「沈黙」の意味。これが書かれた一文を忘れないでしょう。

    1
    投稿日: 2023.05.24
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    長崎を初めて訪れる予定があり、ふと浮かんだのがこの本でした。 最初の数ページがやたら字は小さいわ慣れない言葉が並ぶわで読むのに苦戦。長崎訪問前に読み終えたかったのですが、訪問から3ヶ月が経ってやっと読み終えました。。。 長崎では大浦天主堂などその土地のキリスト教に関する資料館も巡りましたが、この本に書いてあることは決して誇張されたものではないと分かったのでやっぱり読んでよかった。知ってから資料を見ると鮮烈に印象に残りますね。 日本人の宗教観がいかに特殊かということ、そして宗教とは一体何なのか?を悶々と考えさせられる1冊です。 宗教って最終的に信じる個々の解釈に依るのかなと思ってしまった。あくまで特定の宗教を信仰していない者の感想ですが。 宗教についてもっと包括的に学んでからまた読みたいです。感じ方が絶対変わると思う。

    1
    投稿日: 2023.04.28
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    キリスト教の知識が浅いため、あまり深く話はできないが、昔の人の信仰に対する想いが感じられる作品 遠藤周作氏の本は、『海と毒薬』しか読んでいなかった 『沈黙』は友人に映画がいいよと勧められた 予習の意味で先に本を一読した キチジローのように理想はわかっているが、現実の行動が伴わない例は世に溢れている 作品中の人々が信仰のために生命を落としていくなか、理想はそうするべきだと思いながらも生命を優先してしまうキチジローの存在は人間くささを感じさせてどうも憎めない 私は人間くささを感じさせる存在に弱いのだ 自分も理想や理論を掲げながら、そう振る舞えないことを知っているからかもしれない 重たすぎて複数回読むのはしんどそうな本

    0
    投稿日: 2023.04.05
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    純文学なるものに触れてみたくなり読んだ。 物語として興味深く読め、教養も深まる文章。 完成度の高い作品で、また純文学と呼ばれる作品を読みたくなった。 本書の中で日本人の信ずるキリスト教とポルトガルやスペインのカトリック信徒が思い描く神の像が異なっていると書いてあり、例えそれが捻じ曲げられていたとしても信じる心があれば良いと私は思ったが、実際の所どうなのだろうか?正しく宗教を信仰しない者は排他されるのだろうか?本作に於いて終始焦点が当たっていた人物、主人公らしき人はこのことに対し答えを出していなかったが深めて行きたい話題ではある。 人の死という非日常、非現実的な事が起こっても外界はまるでそんなことがなかったように、先程と同じ営みを続けている。これは私も似たような体験をしたことがあるから身にしみて共感できた。世界は分け隔てなく生命を照らし人の為に存在しているかのようだが、失われる時は無関心であり、救いの手などどこからも降ってこない。私が世界に対し抱いている認識を再認識する良い機会となった。 本書で宗教は苦痛から逃れる為の手段として使われていた。実際宗教の教義も合理的な理由が存在しているということも知っており、これから先の未来で宗教はどうなっていくのか気になった。 いいなと思った文章を残して終わりとする。 「しかし、基督は美しいものや善いもののために死んだのではない。美しいものや善いもののために死ぬことはやさしいのだが、みじめなものや腐敗したものたちのために死ぬのはむつかしいと私はその時はっきりわかりました。」 「人間とは妙なもので他人はともかく自己だけはどんな危険からも免れると心の何処かで考えているみたいです。」 「罪とは人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れることだった。」 「魅力のあるもの、美しいものに心ひかれるなら、それは誰だってできることだった。そんなものは愛ではなかった。色あせて、襤褸のようになった人間と人生を棄てぬことが愛だった。」 「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」 悲しみの質、苦痛の質などというものを他人を見下していた時に考えた事があったが、実際は不幸自慢をしたいだけであり、「人は皆苦痛を抱えて生きている」といったようなシェイクスピアの言葉もある通り誰一人として人を責める権利はないのだということを思った記憶が思い返された。

    0
    投稿日: 2023.03.31
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    信仰とはなんのために、そして誰のためにあるものなのか。キリスト教を広めれば世界は良き方向に向かうと、キリスト教を禁教とした日本に来たロドリゴ。キリスト教に関わるだけで迫害され、拷問される。その中で、犠牲になった人々のために死にきれない自分と、信仰を盾に自己中心的に沢山の犠牲を生んでしまった苦悩を感じた一冊だった。

    0
    投稿日: 2023.03.28
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    鎖国下の日本に到達したキリシタンの物語。キリスト教徒が禁止され拷問を受けたのは教科書で知っていたがそれ以上の絶望のようなものを感じた。綺麗事は誰でも言える。実際自分がどう行動するか考えさせられる。

    2
    投稿日: 2023.03.12
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    難しくて馴染みのない内容に、読了まですごく時間がかかったけど、本当に読んで良かった。何度でも読みたい。

    0
    投稿日: 2023.03.01
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    ミッション系の高校に通っていた時、「信じれば神に救われるなんて簡単なこと、あるはずがない。聖書は都合よく作られたストーリーだ」と思っていた私にとって、かなりリアルな内容だった。 藁にもすがるような思いで宗教を信じる人の気持ちが分かるような、分かりたくないような。

    0
    投稿日: 2023.02.25
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    島原の乱後、徳川時代のキリシタン禁制下、布教のために来日し迫害を受け転んだ(棄教)宣教師の不名誉回復を目論んでひそかに来日したポルトガル司祭が壮絶な潜伏布教活動を経てなぜ背教するに至ったのか。 前半は、苦労の末に長崎に上陸し、山中に逃れ隠れて細々と貧しき村人に布教活動を行う希望の見えない日々。 後半は、信徒の村人に裏切られ奉行所に捕縛されてからの転教を促す奉行への抵抗とその代償として拷問を受け命を亡くす信徒に対する精神的苦悩の日々。 沈黙を守る神への不信感や神は存在するのかという迷いと闘いながらついに踏み絵を踏んでしまう司祭の苦悩。 教徒ではないので聖書の逸話やイエス・キリストの逸話などや信仰の深さなど深く理解はできないが、究極の選択を迫られる切迫感を描いた素晴らしい作品でした。

    0
    投稿日: 2023.02.08
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    このレビューはネタバレを含みます。

    遠藤周作著『沈黙(新潮文庫)』(新潮社) 2003.5第36刷改版発行 2017.12.11読了  高3の受験期に一度読んだことがあったけど、拷問の呻き声を鼾と勘違いしてロドリゴが嘲笑するシーンが妙に印象に残っていた。当時、それだけ衝撃を受けたということだろうか。この本は読むのがとても辛い。ロドリゴは最終的に不食して病死する。彼は教会に属していた時とは違った形で今も主を愛していると語ったが、なぜ自ら命を絶ったのだろうか。結局のところ、彼は棄教したのだろうか。ご利益のない神は神ではないのか。奇蹟を起こさない神は神ではないのか。誰もが劇的な死や凄惨な殉教に至るわけではない。 転ぶ前の彼はただ聖者になりたかっただけなのだろうか。踏み絵の中のイエスは摩耗して痩せこけていた。通辞は後にこう言っている。「人のために尽くすには仏の道も切支丹も変りはない」と。彼は人を助けたかもしれないが、彼が転んだことで、殺された百姓たちも大勢いるだろう。だから、自らを犠牲にすることを選んだのだろうか。イエスもユダの裏切りを知りながら自ら十字架に架けられた。彼とイエスはそっくりではないか。きっと、神は姿形を持たず心の中に存在している。奇蹟を求める心は本当の意味では信仰とは言えない。奇蹟という見返りを求める者には、神が沈黙しているように見えるだろう。神は眼に見えない同伴者なのかもしれない。『沈黙』の読後、旧約聖書のヨブ記と、三島由紀夫の「海と夕焼け」を思い出した。 ※彼が埋葬された無量院は、伝通院という浄土宗の寺。浄土宗は阿弥陀如来を信仰し、来世において極楽浄土に往生することを願う教えで、まさにパライソ寺というべきものだろう。彼の墓碑はその後、カトリック信徒の手で、カトリック系の調布サレジオ修道院に移された。現在、伝通院には供養碑が建立されている。 ※『沈黙』末尾の切支丹屋敷役人日記は「査祆余禄」という史料がもとになっている。 URL:https://id.ndl.go.jp/bib/000007302036

    0
    投稿日: 2023.01.10
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    世評に違わぬ名作。 遠藤周作のコアでもある“信仰”につき、むき出しの疑問が読者に投げかけられており、作者はおろか神でさえも答えを提示しない。 むせ返る様な閉塞感と無力感、当時の宣教師達の腋臭は実際に匂ってくる様。 私は無宗教だが、一心に何かを信じる事の清さや尊さを感じる、気迫ある作品。

    3
    投稿日: 2023.01.08
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    宗教とは難しいものである。信じ切った者にとってはこの上なく絶対のものであるが、そうでは無い者には色々邪なものが見える。 キリスト教を日本へ布教しようとしたかっての宣教師たちは多くの迫害の元に倒れていった。 本人の苦しみはもちろん、信徒の辛苦の元にも沈黙したままのキリストに嘆き苦しんだ。 しかし、宗教というものは人間が生み出したものだと私は思う。(キリスト教では神が人間を作った)それゆえ、その国民性でそれは違ってくる。キリスト教布教とは何のためのものなのか? 日本に入ったキリスト教がそれなりに形を変えたとして、それを許さないのは何故だろうか。 色々な宗教観を考えさせる書であると思った。

    0
    投稿日: 2023.01.06
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    多くの宗教イベントを取り入れている日本と違い、司祭はキリスト教だけだった。踏み絵を踏んだけど別に形としてはキリストを馬鹿にしたとしても司祭の心には絶対絶えないキリストへの愛があって感動した

    0
    投稿日: 2022.12.31
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    このレビューはネタバレを含みます。

    信仰とは何か、という解釈によって肌触りが変わってきそうな作品。 我々日本人は無宗教と言われることも多く、特定の信仰を持たないとされている。しかし、決まった神に祈らないだけで、信仰自体は別の形で存在しているように私は思う。お寺や神社や御真影を拝むようなわかりやすいそれらとは別に、風俗の中に何かを信じて拠り所にする行為はありふれている。 ロドリゴはトモギ村で「形あるものを拝もうとする傾向は危険に思える」と手紙に記した。残念ながら彼のこの解釈は的中し、のちに彼をころばせる原因の一つともなっている。 ロドリゴが踏み絵を踏んでいいと村人に語りかけたのは彼が形のないものを信仰しているからで、村人が十字架に唾を飛ばすことを拒否したのは形式的なもの、形のあるものを信じていたから。序盤から日本人の信じるものとロドリゴの信じるものの違いが描かれ続けている。 共に日本に渡った相方のガルペの方がよほどこのあたりには気が付いていそうであったが、彼もまた彼自身の信仰のために犠牲になった。ロドリゴは本質を信仰するあまり、フェレイラとの邂逅の後までキリシタンの神と自らの神の違いに気がつけなかったのであろう。 また作中でロドリゴが特にこだわったユダの縊死は、遠藤周作の白い人・黄色い人でも触れられており、作者自身にとっての命題でもある。 確かにイエスがユダの運命を知りながら彼を見放したように、どこか排他的なところがキリスト教にはある。 遠藤が主張したのは弱いもののための神であり、同伴者イエスそのものの姿でもある。 その昔、棄教者は謂わば腐った林檎として扱われた。そのような弱者が政治や歴史から見放され沈黙の灰の中に埋められるにおいて、どうして彼らの裏切りの苦しみや悲しみを無視する必要があったのか。キチジロウのような弱い者にこそ神が手を差し伸べるべきではないか。 遠藤周作の懐疑に対して、神はまた沈黙する。我々は神について、信仰について、どのように向き合えば良いのだろうか。特定の神を信仰しない日本人の私にとって、ここまで究極的に宗教の本質を考える日は貴重であったと感じる。 キリシタンの人々の信仰はもしかしたら現代の我々と同じように、自らの生活の中にあったのかも知れない。形のないものは我々の現世には存在しないから、形のあるものを信じる。形式的なものを重んじる。ロドリゴにとってそれは、どのように異質に見えただろうか。彼からすれば間違った信仰のために死んでいった人々の苦しみは一体何のためだったのか。 そして彼自身が踏み絵を踏む際に、初めて彼の神は沈黙を破るのである。擦り切れた踏み絵に現れた神こそが同伴者イエスであり、ロドリゴの信仰の行き着く先であった。

    0
    投稿日: 2022.12.29
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    島原の乱が収束して間もないころ、イエズス会の高名な神学者であるクリストヴァン・フェレイラが、布教に赴いた日本での苛酷な弾圧に屈して、棄教したという報せがローマにもたらされた。フェレイラの弟子セバスチャン・ロドリゴとフランシス・ガルペは日本に潜入すべくマカオに立寄り、そこで軟弱な日本人キチジローと出会う。キチジローの案内で五島列島に潜入したロドリゴは隠れキリシタンたちに歓迎されるが、やがて長崎奉行所に追われる身となる。幕府に処刑され、殉教する信者たちを前に、ガルペは思わず彼らの元に駆け寄って命を落とす。ロドリゴはひたすら神の奇跡と勝利を祈るが、神は「沈黙」を通すのみであった。逃亡するロドリゴはやがてキチジローの裏切りで密告され、捕らえられる。連行されるロドリゴの行列を、泣きながら必死で追いかけるキチジローの姿がそこにあった。 長崎奉行所でロドリゴは棄教した師のフェレイラと出会い、さらにかつては自身も信者であった長崎奉行の井上筑後守との対話を通じて、日本人にとって果たしてキリスト教は意味を持つのかという命題を突きつけられる。奉行所の門前では、キチジローが何度も何度もロドリゴに会わせて欲しいと泣き叫んでは、追い返されている。ロドリゴはその彼に軽蔑しか感じない。 神の栄光に満ちた殉教を期待して牢につながれたロドリゴに夜半、フェレイラが語りかける。その説得を拒絶するロドリゴは、彼を悩ませていた遠くから響く鼾(いびき)のような音を止めてくれと叫ぶ。その言葉に驚いたフェレイラは、その声が鼾なぞではなく、拷問されている信者の声であること、その信者たちはすでに棄教を誓っているのに、ロドリゴが棄教しない限り許されないことを告げる。自分の信仰を守るのか、自らの棄教という犠牲によって、イエスの教えに従い苦しむ人々を救うべきなのか、究極のジレンマを突きつけられたロドリゴは、フェレイラが棄教したのも同じ理由であったことを知るに及んで、ついに踏絵を踏むことを受け入れる。 夜明けに、ロドリゴは奉行所の中庭で踏絵を踏むことになる。すり減った銅板に刻まれた「神」の顔に近づけた彼の足を襲う激しい痛み。そのとき、踏絵のなかのイエスが「踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。」と語りかける。 こうして踏絵を踏み、敗北に打ちひしがれたロドリゴを、裏切ったキチジローが許しを求めて訪ねる。イエスは再び、今度はキチジローの顔を通してロドリゴに語りかける。「私は沈黙していたのではない。お前たちと共に苦しんでいたのだ」「弱いものが強いものよりも苦しまなかったと、誰が言えるのか?」 踏絵を踏むことで初めて自分の信じる神の教えの意味を理解したロドリゴは、自分が今でもこの国で最後に残ったキリシタン司祭であることを自覚する。 マーチン・スコセッシが映画化した遠藤周作の傑作小説。 映画版では、ロドリゴとキチジローのキリスト教信仰を幕府の弾圧下で守りぬく中で浮かび上がる人間の強さと弱さを丁寧に描いていた。 原作では、何故江戸時代の日本にキリスト教が根付かなかったかを映画より詳しく描いている。 何故江戸時代の日本でキリスト教が根付かなかったか、それは当時の日本人が信仰していたキリスト教の神は日本人流に解釈した現世利益的なすがり殉教すれば苦しい現世から天国に連れていってくれる神と信じられていた。だから現世で生き残っていく時にキリスト教の信仰が邪魔になると弾圧下で思った信徒は、簡単に信仰を棄てる。 ロドリゴが踏み絵をする時に見たキリストは、西欧での誘惑をはねつけ強い意思をみなぎらせた神ではなく、全ての人間の弱さを受け止め救う神だった。 ロドリゴは、結果的に本当の信仰に目覚めたというラスト。 「私はお前たちの痛みや苦しみをお前たちと分かち合う。そのために私はいるのだから」

    3
    投稿日: 2022.12.18
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    物語としては面白かったです しかし、クリスマスや初詣や受験前の天満宮参拝など都合のいい時にだけ宗教に乗っかる自分には遠い世界の話でした 深く考察してみようにも信仰という概念が自分の中にはなかったのです あと聖おにいさんと並行して読んだのが良くなかったですね また歳をとったら読んでみようと思います

    0
    投稿日: 2022.11.30
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    キリスト教の宣教師たちが日本での布教活動のため、キリスト教を迫害対象にしていた異国日本に潜入するも、困難との直面、信教者の犠牲などにあえぎ、「転じてしまう」というストーリーに、あっという間に没入してしまった。 ロドリゴ本人が神の教えをもとに人々のために祈るのだが、ひどい仕打ちを身の回りの百姓に起き、それをただ祈り傍観し、助けを求めても一切答えない神の存在に懐疑的になっていく心の変遷を描いているところに、人間の弱さと宗教とは一体何かを考えさせられた。 もう一度、読むとまた違った観点で物事を見られるかもしれない小説。おもしろい。

    3
    投稿日: 2022.11.18
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    たしかに、すごい小説。 作者の立場がどうとか、時代考証がどうとか考えず、滑らかな表現に引き込まれていって、重い内容なのに、どんどん結末まで進んでしまった。

    3
    投稿日: 2022.09.14
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    自分がクリスチャンになる前と後で読み方が大きく変わった小説。伝道のために日本に来たはずなのに、自分がそうしたせいで民が拷問に遭うという矛盾の中で生じた、沈黙する神の存在への疑問。何もかも否定され、奪われ剥ぎ取られて味わう惨めさの遥か先にあるのは、現代の日本に生きる私たちにとってはとても身近でありながら、沈黙してみなければ見えてこない「何か」なのかもしれない。

    2
    投稿日: 2022.09.04
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     読書力養成読書10冊目。  なんだこれ、めっちゃくちゃおもしろい! 名作と言われるものはおもしろいからこそ読み継がれるのだと、実感できた一冊です。  舞台は、島原の乱後、キリスト教徒たちが厳しい弾圧を受けている真っ最中の日本。二十数年間日本で宣教を続けていたフェレイラ教父が、長崎で拷問に負け棄教したという信じられない不名誉な知らせが、ローマ教会に届きます。そこで、フェレイラ教父の教え子だった3人の若い司祭たちが真相を確かめようと、ポルトガルから日本へ向かいます。物語は、その司祭たちのひとり、セバスチァン・ロドリゴの書簡から始まります。  なんと苦しい葛藤でしょうか。〈神のなし給うことはすべて善きこと〉と信じ、命をかけ、使命と誇りをもって、キリスト教の布教活動をする宣教師たち。でもそのせいで、信徒となった日本人たちが目の前で拷問に苦しんでいる。 「なんのため、こげん責苦ばデウスさまは与えられるとか。パードレ、わしらはなんにも悪いことばしとらんとに」と信徒に言われても、返す言葉もなく、ただ祈りを唱えることしかできない。あまりの苦悩に、ロドリゴは〈主よ、あなたは何故、黙っておられるのです〉とつぶやきます。  本書では、基本的には宣教師の立場から見た当時の日本の禁教の厳しさが描かれていますが、同時にそれを行う日本の役人たちのつらさも書かれています。ただ厳しく踏絵や拷問を強いているわけではない、したくてしているわけではないという気持ちで、日本の役人たちもギリギリのところまで信徒や宣教師に説得を続けるのです。 「仁慈の道とは畢竟、我を棄てること。我とはな、徒に宗派の別にこだわることであろう。人のために尽すには仏の道も切支丹も変りはあるまいて。肝心なことは道を行うか行わぬかだ」という通辞の言葉に、私は深く共感します。

    2
    投稿日: 2022.08.30
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    重いけれど、考えさせられる本だった。方言や英語のカタカナ表記が読みづらかったが、引き込まれる文章で、ぐんぐん読み進めることができた。読み終わったあとも、神とは何か、と考え込む話。

    3
    投稿日: 2022.08.14
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    重い、苦しい。 信仰とは何か。 のどかな長崎の風景もこの物語の中では、沈鬱で無慈悲な情景に変わる。 喉の渇きや、じりじりと焼かれる太陽の光が手に取るように感じられる。 静けさによってドラマチックに魅せる逆説的手法が素晴らしい。 若い時と歳を重ねた後に読むのでは、また捉え方が変わりそう。

    1
    投稿日: 2022.08.14
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    自分は無宗教であるが、神について、宗教についていろいろ考えるようになった。実話を元に書かれているので、当時の歴史を学べたのも楽しかった。この本を読んで私が感じた事は、神は存在しないのでは、、という事だった。

    2
    投稿日: 2022.08.13
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    人がどんなに苦しもうとも裏切ろうとも互いに殺し合おうとも神はいつも沈黙したまま。 では信仰とは何なのか、救いとは何なのか。 それを問い続けることが信仰に生きるということなのだ、というのが当時の遠藤周作の答えだった。 最後の最後、長い沈黙を破るひと言をロドリゴは確かに聴く…。 晩年の「深い河」と対になる作品。

    3
    投稿日: 2022.08.12
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    「なんのため、こげん責苦をデウスさまは与えられるとか。パードレ、わしらはなにもわるいことばしとらんとに」 キチジローの偽らざるごくごく素朴な問いが、通奏低音のように物語を貫いている。 人々を救うべき信仰が、人々の命を奪っているのなら、もはや悲劇であり滑稽ですらある。 それでも神は沈黙していただけではないと言えるのか?自分の理解はそこまで及ばなかったけれど、人生の一冊に出会えた気分です。

    21
    投稿日: 2022.07.30
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    人生2回目の沈黙。 キリスト教が禁止された鎖国時代の日本において、布教のために若き魂を燃やすポルトガル人司祭の苦難と苦悩を描いた本作。 鎖国時代の日本のキリスト教徒への弾圧は苛烈で、拷問や虐殺といったことが当たり前に行われていたが、そうした信者の受難に対して神はなぜ沈黙しているの、それが本書のテーマ。 キリスト教は今や日本でも一般的な宗教ではあるが、どうしてもその信仰心の本質は理解できておらず、またどこか遠い国のものという思いがあった。 それが日本をテーマにした小説で描かれると、非常に親近感を持って理解ができる。また遠藤周作の文章は非常に美しいため、読んでいて惚れ惚れとする。 本作を名作と言わずして何を名作というのか、というレベルの作品。2回目も心から楽しめた。

    2
    投稿日: 2022.07.26
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    1.著者;遠藤氏は小説家。12歳の時に伯母の影響でカトリック協会で受洗。日本の風土とキリスト教の対峙をテーマに、神や人種の問題を書き、高い評価を受けた。「白い人」で芥川賞、「海と毒薬」で新潮文学賞・毎日出版文化賞、「沈黙」で谷崎潤一郎賞・・等を受賞。「狐狸庵山人」の雅号で軽妙洒脱なエッセイも多数執筆。ノーベル賞候補に上がる程で、今でも読み継がれている作家の一人。 2.本書;「神の沈黙」を主題にした歴史小説。江戸初期のキリシタン弾圧の渦中に置かれたポルトガル人司祭(ロドリゴ)を主人公に「神と信仰」を問うた名作。出版当初は、カトリック教会からの批判と反発が非常に強かったそうです。とは言え、「沈黙」は、13か国語に翻訳され、戦後日本文学の代表作と言われる程、高い評価を得ています。某読書会のコメントです。「この作品は作者が人生をかけた渾身の一冊。物語としてもドラマチックで非常に魅力的」である、と。 3.個別感想(印象的な記述を3点に絞り込み、感想を添えて記述); (1)『第Ⅳ章;セバスチャン・ロドリゴの書簡』より、(ロドリゴ=主人公)「人間には生まれながらに二種類ある。強い者と弱い者と。聖者と平凡な人間と。英雄とそれに畏怖する者と。そして強者はこのような迫害の時代にも信仰のために炎に焼かれ、海に沈められる事に耐えるだろう。だが弱者はこのキチジローのように山の中を放浪している。お前はどちらの人間なのだ」 ●感想⇒世の中には、「強者・聖者・英雄」よりも、「弱者・平凡・英雄に畏怖する者」の方が多いと思います。私も後者に入ります。負け惜しみかも知れません。私は、体力や経済的な強者よりも、精神的な豊かさのある人になりたいと思うのです。恩師の言葉です。「人間の中には、“成功したのは自分の努力だ”と、天狗になる人がいる。何事も一人では限界がある。有形無形の支援あればこその成功だ。人に対する恩を忘れずに、人を慈しみ弱者に寄り添う心が大切だ」と。人の気持ちを理解し、寄り添える心を持つ方法は、人生の師・宗教・書物・・等で学ぶ事。精神的豊かさを養う為に。但し、師匠や宗教に教えを乞う前に、自分で勉強し、経験を積んで自らの哲学(人生観)を形成するべきだと考えます。 (2)『第Ⅶ章』より、(フェレイラ=ロドリゴの恩師)「この国(日本)で我々の建てた教会で日本人達が祈っていたのは基督教の神ではない。私達には理解出来ぬ彼等流に屈折された神だった」「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない」「日本人は人間を美化したり拡張したものを神と呼ぶ。人間と同じ存在を持つものを神と呼ぶ。だがそれは教会の神ではない」 ●感想⇒NHKの「日本の信仰調査」によれば、“無宗教→49%、宗教を信仰している→39%(仏教→38%、キリスト教系→0.9%)”。他の調査でも、日本は人口の29%が神を信じていない無神論者。中国に次いで世界第二位と多く、日本人の信仰心は薄いと言えます。キリスト教を布教し難い国かも知れません。私が以前ブグログに載せた「日本人とユダヤ人」(イザヤベンダサン)に興味深い記述がありました。「日本人とは、日本教という宗教の信徒で、それは人間(人間性・人間味)を基準とする宗教。この宗教は、人間とはかくあるべきだとはっきり規定している」。ロドリゴは、「最も人間の理想と夢に満たされたものを踏む」と踏絵し、背教。彼は、日本的な心の持ち主かも知れません。 (3)『第Ⅷ章』より、(フェレイラ=ロドリゴの恩師)「わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。そのあとでここに入れられ耳にしたあの声(穴吊りにかけられた信徒たちのうめき声)に、神が何一つ、なさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかった」「お前(フェレイラ)が転べばあの者たちはすぐ穴から引き揚げ、縄もとき、薬もつけようとな。・・彼等(信徒)はもう幾度も転ぶと申した。だがお前が転ばぬ限り、あの百姓たちを助けるわけには行かぬと」 ●感想⇒大変悩ましい問題です。信徒達を餌に棄教を迫る役人の卑怯さは筆舌に尽くし難い暴挙。信仰している神に助けを求めても、神は「沈黙」したまま。フェレイラには二者択一の方法しかない。悩んだ挙句、棄教して、百姓達を助ける。彼は、百姓の命を救う為に、教会を裏切り、教会の汚点となったのです。この決断の評価は難しく、意見は分かれるでしょう。私は、「世の為、人の為に役立つ人になりなさい」と常々教えられました。従って、私はフェレイラの人助けによる棄教に賛成です。宗教は、人を救済するために存在するとすれば、「物言わぬ神」よりも正義を貫く人に喝采を送りたい。フェレイラは、棄教により重い十字架を背負い、心の悩みに苛まれたと思うと、心が痛みます。 4.まとめ;重い精神小説です。無神論者の多い日本で、果たしてキリスト教は意味を持つのかを考えさせられる小説です。先の感想でも述べたように、日本人はベンダサンの言う、日本教の信者であり、「神よりも先ず人間」である事を行動規範にしているのかも知れません。イエスの言葉です。「踏むがいい。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。私はお前たちのその痛さと苦しみを分かち合う。その為に私はいるのだから。私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいた」。ここで、棄教したロドリゴは踏絵を踏む事で自分の信じる神の教えを理解します。私は、遠藤氏の日本人としての心根を見た思いです。感動に浸りました。(以上)

    131
    投稿日: 2022.07.25
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    キリスト教が禁止された江戸時代に布教のため密入国したポルトガル人司祭の半生を描いた実話ベースの作品。 信者が拷問を受け、それでも沈黙を貫く神の存在に司祭は疑問を抱き始める。 背教に立たせれ、信者の命と神への信仰の2択を迫られた司祭の決断とは。 日本人が書いたとは思えない、挑戦的な宗教的小説である(このご時世国籍云々はナンセンスだと思うが)。まして、著者の遠藤周作はキリシタンであるから、吃驚に拍車がかかる。 我々日本人にとって、キリスト教圏と比較すれば神は神聖不可侵なものでなく、崇拝するような存在ではない。なんとなく概念としてあるように感じる程度のものだ。しかし、日本人には理解しにくい神と人間との関係を、ポルトガル人司祭の手記や客観的観点から生々しく、臨場感をもって描く本作と著者には畏怖せざるを得ない。 マーティンスコセッシによって映画化されているようなので、それも観たい。

    2
    投稿日: 2022.07.22
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    私の中の宗教に対する個人的なモヤモヤをそのまま描かれているような気がして、そうだよなあ、うーん、わかんないよ、わたしも、、となりました。 他の作品も読んでみようかな〜

    2
    投稿日: 2022.07.22
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    殉教シーンは凄惨だが同時に美しいとも感じた。愛するもののために命をかけられるほどの信念を持てるというのは少し羨ましい気がした。神は外側ではなくそれぞれの内面に存在するものなのかなと思った。

    3
    投稿日: 2022.07.13
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    "海と毒薬"と並んで、遠藤周作の代表作として著名な作品です。 キリシタン禁教令下の日本へ、潜んで信仰を続けるキリシタンのために訪れ、結果捕縛されて拷問の末、棄教させられた実在の司祭"ジュゼッペ・キアラ"をモデルに創作された歴史小説。 本作品は世界13ヶ国語に翻訳され世界中で物議を醸しました。 1971年国内で映画化され、出版から50年経った2016年にはアメリカからも映画化されています。 「クリストヴァン・フェレイラ」という高名な神学者が、日本の弾圧に負けて棄教したというニュースがイタリア・ローマにもたらされます。 尊敬するフェレイラの棄教が信じられない弟子の「セバスチャン・ロドリゴ」は、「フランシス・ガルペ」と共に、マカオで出会った日本人「キチジロー」の案内で、日本への潜入を果たします。 長崎の隠れキリシタンに出会い、密やかに教えを伝えていたのですが、やがて捕えられ棄教を迫られる。 タイトルの"沈黙"は、酷い弾圧、拷問、あまりにも理不尽な運命に対して沈黙を貫く神に対する言葉で、極限状態でそれでも祈りを捧げ続ける神父の中にある、一言で言い表せられない非常に複雑な思いが、その言葉には込められています。 どれほど酷い目にあったとして、教会の司祭が棄教してしまうことはあってはならないことのため、本作に対して当時、教会からの非難の声が多かったそうです。 また、特に終盤には"神が裏切った"と捉えかねない表現があり、意図と異なる非難の声は遠藤周作氏にとっては不満だったと聞きます。 特定の宗教を信仰しない典型的な日本人の私としては、本書で書かれる神を信じる者のあり方に驚きを感じるほどで、シンプルに「物言わぬ神」という問題に切り込んだ作品と感じました。 キリスト教徒であれば、あるいは特定の宗教を信奉していれば、どういう感想になるのか、聞いてみたいような気がします。 苦悩するロドリゴの心理描写がメインですが、陰惨な拷問や死傷の描写があり、文体はセンセーショナルです。 サスペンス・ホラーのように感じる場面もあるため、文学作品としてではなく、普通の読み物として楽しめると思います。 日本のキリスト教への弾圧は歴史的な事実であり、本作に書かれた内容に近いことが実際に行われていたと思うと、恐ろしいと思いますが、一方で、そんな日本でも密かに信仰を続けた人々がいたというのに、崇高さを感じました。 ロドリゴのモデルとなったキアラ神父の墓碑は、現在調布市内にあるそうです。 そのうち一度訪れて、歴史的ドラマの一端に触れてみたいと思いました。

    1
    投稿日: 2022.07.08
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    一神教を信じられるのは、擦りこみなのだろうか、八百万の神、九十九神 の方が人間らしい気がする。 妖精もその類いなのか? 一神教が、この世の争い、哀しみの根源なのでは? 沈黙は、沈黙にすぎず 神仏とは、関係ないのでは?

    0
    投稿日: 2022.07.07
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    学校ではさらっとしか触れられない出来事のために、どれほどの人が苦しみ、殺されたか。キリスト教という「善意」のために大変な思いをした国はたぶん世界にたくさんあるに違いないが、日本で筆舌に尽くしがたい拷問が行われたこと、島原の乱のように村ひとつが壊滅するほどたくさんの人が殺されたこと、その事実は忘れてはならないと思う。 読み終わると、タイトルと表紙の意味がより一層重たく迫ってくる。

    7
    投稿日: 2022.06.13
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    神はなぜこんなにも沈黙するのだろう。 重く難解な主題ではあるけれど、のめり込んで読める筆圧はすばらしかった。 何度読んでも違った感想がもてるだろう、再読必至本。

    3
    投稿日: 2022.06.12
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    私にとってはじめての遠藤周作さんの純文学。 とても肌に合った。 先の見えない展開と、差し迫る命の危険、宣教師として救いたい思いが交錯し先が気になる展開。 最後のあたり読み解くのに読解力がいるので、私の弱いそれでは理解がしきれていないと思う。

    2
    投稿日: 2022.06.10
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    神は人を救う存在ではないのか。 拷問され苦しむ切支丹達に神は沈黙するのみ。 重く辛い内容でしたが、主人公がどうなるのかが 知りたくて、ドキドキしながらも一気に読んでしまいました。

    5
    投稿日: 2022.05.18
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    通勤時間が長いため気分転換に文庫本を読んでいるが、内容がつらすぎて全然気分転換にならない。 信仰とは、宗教とは。簡単に語れる内容ではない。 カトリックの学校に通っていたが、家系はカトリックではなく、性格もひねくれているため正直神は信じていない。世は不条理であり救いがないことも多い。なのでここまで神を信じ、命を犠牲にすることが正直理解できない。 信じるものは救われる、というものだが、どんなに残忍な場面においてもひたすら「沈黙」を貫く神。 神は物理的な救いを与えるものでも、道を指し示してくれるものでもない。 ただ、絶望的な状況に陥って、一切の救いの道を絶たれたとき、唯一の希望となるのは信仰なのかもしれない。 強く正しい信仰心をもつパードレと、弱く卑しいキチジローの対比がまんま聖書に出てくる話のようだな、と。キリストをもてなす人がなぜか塩対応され、ふらっと現れろくに仕事もせずお喋りばかりしている人がキリストに愛されがち(放蕩息子とか)なところに違和感を抱いていたが、まさに、そういった正しくあれない人、罪人、弱い人にこそ救いの手を差し伸べるのがキリスト教なのかと。

    1
    投稿日: 2022.05.18
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    いやァ、ひたすらに重かった。 重いし、なんか背中ザワザワするし、明るい話が一切ないのに面白かった。 知らない言葉調べたり、それがどんなものかを調べ始めたりするとなかなか進まない上に、知り過ぎると更に背中ザワザワ… これは必読。

    3
    投稿日: 2022.05.13
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    重い、すごく重い。けれど、惹き込まれる。神はいるのか、なぜ、何も言わぬ、助けぬ。しかし、信じる心は変わらぬ。形だけの背教、葛藤。なんと壮絶な人生か。

    5
    投稿日: 2022.05.06
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    かつて日本では、キリスト教を弾圧し、キリスト教徒の改宗を迫り、拒むものには拷問、処刑を行なっていた。 この弾圧に対する反乱(島原の乱)も起こるが、鎮圧される。そんな時代に、日本に侵入したポルトガル司祭ロドリゴの物語。 信仰とは何か? 背教者の心情と司祭の心情、日本と西洋の思想の違いを浮き彫りにしていく。 本書は、映画化もされているので、そちらも鑑賞したい。

    5
    投稿日: 2022.04.04
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    深くて一度読んだだけでは理解できない部分もあったにもかかわらず、話に引き込まれてしまう素晴らしい小説でした。キリスト教とは、仏教や神道との違い、宗教とは、について深く考えさせられました。

    2
    投稿日: 2022.03.31
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    このレビューはネタバレを含みます。

    ブクログ内での評価も高く、手にしてみましたが、大満足の一冊でした。 時は島原の乱(1637-1638年)が鎮圧された頃の江戸初期。 キリシタンへの弾圧が強まる中、命をかけて日本に渡ったポルトガル人ロドリゴの物語。 隠れキリシタンとなった日本人に対して行われる容赦のない取り締まりで捕らえられた信徒に待つのは残忍な拷問。 逃げまどうロドリゴも信徒に裏切られ囚われの身に。 神は何故助けてくれないのか? 何故何も言葉をくれないのか? 苦悩するロドリゴは徐々に自ら神に対して疑心を抱くようになる。 私自身もそうですが、日本人は世界的にみても宗教とは少し距離を置いた人種だと思います。 神よりもどちらかと言えば先祖を祀り、亡くなった人のために経をよむ。 キリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教・ユダヤ教等々、世界には多くの宗教が存在し、多くの信徒がいます。 もちろん日本人の中にも熱心な信徒の方もたくさんいらっしゃるのも理解しています。 本作はキリスト教が中心の為、本作での「神」=「イエスキリスト」なのですが、「神」とは何なのか? 弱い人間を導き、道を示してくれる導師? 人々が苦難の時、迷い、悩んだ時、「神」は人々を救うために何かを語ってくれるのでしょうか? 「沈黙」 すごくすごく深い作品でした。 説明 「転びキリシタン」もまた、「神の子」なのか? カトリック作家が描く、キリスト教文学の最高峰。 島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制の厳しい日本に潜入したポルトガル人司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる……。 神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、〈神の沈黙〉という永遠の主題に切実な問いを投げかける長編。 著者の言葉 長崎で見た、踏み絵の木枠についた指の跡のことを、東京へ帰ってからも私は忘れられませんでした。夕べに散歩する時、夜に酒を飲む時、黒い指跡が目に浮かびました。 そして三つのことを考え続けたのです。ひとつは、踏み絵を踏んだ時の気持ち。次に、踏んだのはどんな人だったろうか。そして、私がその立場にたたされたら踏むかどうか。 強い信念を貫き通すより、踏む可能性の方がはるかに高いと思ったな。拷問は苦しいだろうし、やはり家族まで殺されるのは可哀そうです。私は弱虫なのです。これは、今日会場にいらっしゃるみなさんの三分の二は私と同じだろうと思う。 小説というのは、やみくもに書くのではなく、自分の視点から書くものです。そして『沈黙』は、〈迫害があっても信念を決して捨てない〉という強虫の視点ではなくて、私のような弱虫の視点で書こうと決めました。弱虫が強虫と同じように、人生を生きる意味があるのなら、それはどういうことか――。これが『沈黙』の主題の一つでした。(「波」2016年10月号、講演採録より) 本書「解説」より 主人公の必死の祈りにもかかわらず、神は頑なに「沈黙」を守ったままである。果して信者の祈りは、神にとどいているのか、いやそもそも神は、本当に存在するのか、と。 これは、キリスト教徒にとっては、怖ろしい根源的な問いであり、ぼくら異教徒の胸にも素直にひびいてくる悩みであろう。このモチーフを追いつめてゆく作者の筆致は、緊張がみなぎり、迫力にあふれていて、ドラマチックな場面の豊富なこの長篇の中でも、文字通りの劇的頂点をなしている。 ――佐伯彰一(文芸評論家) 遠藤周作(1923-1996) 東京生まれ。幼年期を旧満州大連で過ごす。神戸に帰国後、12歳でカトリックの洗礼を受ける。慶応大学仏文科卒。フランス留学を経て1955年「白い人」で芥川賞を受賞。結核を患い何度も手術を受けながらも、旺盛な執筆活動を続けた。一貫して日本の精神風土とキリスト教の問題を追究する一方、ユーモア作品や歴史小説、戯曲、映画脚本、〈狐狸庵もの〉と称されるエッセイなど作品世界は多岐にわたる。『海と毒薬』(新潮社文学賞/毎日出版文化賞)『わたしが・棄てた・女』『沈黙』(谷崎潤一郎賞)『死海のほとり』『イエスの生涯』『キリストの誕生』(読売文学賞)『侍』(野間文芸賞)『女の一生』『スキャンダル』『深い河(ディープ・リバー)』(毎日芸術賞)『夫婦の一日』等。1995年には文化勲章を受章した。

    52
    投稿日: 2022.03.20
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    切支丹が拷問を受ける場面は想像していた以上に壮絶で苦しかった。 かつて夢と希望を持って出発した天正遣欧少年使節団や信長統治の元、教会が建設され布教活動が活発に行われた豪華絢爛な安土桃山時代を思い出し、その行く先の悲劇をリアルに目の当たりにした思いだった。 昔学校の日本史で基督教徒の迫害について学んだが、それは歴史上の一事実であり迫害される側にここまで切り込んだものでは当然なかった。 神はなぜ沈黙を続けるのか、神は本当に存在するのかと迷い葛藤する司祭ロドリゴの姿は、基督教徒である作者自身にも重なるのではないかとも思った。 日本人として日本人が犯してきた過去、志を遂げる事の出来なかった多くの無念を知ること、忘れないことを改めて心に留める。

    3
    投稿日: 2022.03.01
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    時代は、島原の乱鎮圧後、切支丹禁制厳しい鎖国日本。ポルトガルの若き司教達が、残された教徒の為、密入国を企てる。 その一人、ロドリゴ司教の書簡の形をもって、物語は語られる。 当然、信徒も救えぬ、過酷な状況が待ち受ける。 「救い」とは、信仰の懐疑。 「沈黙」を続ける神。 キリスト教のみでなく、全ての信仰の限界点。 役人に対峙した、パードレ・ロドリゴは言う。 「強制的な情愛の押し売り」かと。 そうなのだ。一神教は他宗教を認め難く、他国でも、その地の教会を破壊したりしてきた。 布教された他国は植民地化されたりもした。 日本でも、日本人を奴隷として引き渡すことさえあったという。 役人は言う。 「日本は沼地なのだ。布教の根は腐る。」 日本は、西欧が考えていたものとは、違うであろう、 文化歴史、宗教観とも確立したものがあった。 随分若い頃、一度読んでいる。その時は、強固な信仰心に、改宗の強要に屈しない強さに、感動したが、拷問表現の凄惨さに、最後まで読めなかったと思う。 最後にロドリゴ・パードレは 神は沈黙していたのではなく、一緒に苦しんでいたと悟る。しかし、それは敬虔な信仰と過酷な経験を経ての悟りであろうと思う。私には「沈黙」が続いている。 感想と感情が入り混じってしまうが、著者が洗礼を受けた信者でありながら、信仰に対する疑問を投げかけ続けているのは、キリスト教を日本にカスタマイズしたかったのではないのかと思ったりする。 日本人の希薄な宗教観の批判を時折聞くことがあるが、薄いだけでなく、広いところに良さがあるのでは、と思うのよ。 l

    19
    投稿日: 2022.02.14
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    神は自分の中に存在すること。 これは仏教の教えでも一緒であり、元を辿れば根本は一緒であるということが、物語を通してわかりやすかった。試される中で真が見えてきて、神の沈黙は何を表すのかが最後の最後でわかり、背景が浮かんでくるようで感銘を受けた。 時代が違うと言えばそれまでだが、その歴史があったからこそ、今があること。 変わるもの、変わらないものがあるんだなと感じれた。

    1
    投稿日: 2022.01.17
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    このレビューはネタバレを含みます。

    神の沈黙、つまり神はいるのかという主題を扱った小説。基督教禁制の日本で布教を目指すポルトガル司祭ロドリゴが主人公。拷問のシーン、踏み絵のシーンは耐え難いものがあり、読んでいて苦しかった。 無宗教の私は、神の声とは結局自分の声だと思ってしまう。拷問などの極限状態で忍耐が限界を迎えたとき、自分を律する声、つまり神の声は沈黙せざるを得ないのではないか? 物語のラスト、神は沈黙していたのではない、一緒に苦しんでいたのだと言うが、実際には何をしてくれたのだろう。私にとっては全編を通して神は沈黙を貫いたように思えたが、殉教者たちが最期まで神を信じていられたのは、一緒に苦しんでくれる神がいたからなのだろうか?果たしてそれは彼らにとっていいことだったのだろうか??

    4
    投稿日: 2022.01.15
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    卒論の研究のために熟読しました! 主にキリスト教と日本人の考え方の違いと、ふたつが共存する術についてを問われている感じがしました。特に最後のイエスのシーンは、読者がキリシタンかそうじゃないかで、解釈が違ってくると思います。 弱い精神の日本人が描かれていて、自身はどういう精神性なのか、考えさせられます。

    2
    投稿日: 2022.01.07
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    おもろかった。拷問などがあまりにひどくて2度は読めない。人間にとって神を信じるということには努力が必要であるということを、分かっていたつもりで分かっていなかったと気づかされた。現代の不自由ない生活を送る人間が何らかの宗教の教徒でい続けるには、自分の意思で努力をしてキリスト教徒であるということを選び続けているのだと、当たり前だけど考えさせられた。日本では(大乗仏教や神道以外の)宗教についてのイメージが悪くて、宗教を信じる人間が皆頭が悪くて、洗脳されていたり、逃げ道としていたり、そう考えがちだけど間違いらしい。そもそもヨーロッパやアメリカなどでは「道徳」として教わるのがキリスト教なので、キリスト教を否定されるのは自身の当たり前だと思っている「よきもの」を否定される行為と感じてしまうわけだから、頭から否定するとこっちがやばい人、良識の無い野蛮人だと思われてしまう。「日本という国の野蛮人に良識を教えてあげよう」がパードレ達の根底にある思想だったわけだから、その言葉にはしないだろうが感じている傲慢さはどうしてもあったのだと思う。それが彼らの純粋な善意を乱したのではないだろうか。しかしもちろん、宗教というだけで馬鹿にして、知ろうともしない我々現代日本人の姿勢も同じ傲慢さを持っていると思う。身につまされた。キチジローはキリストであり、転んだパードレもキリストであり、めっちゃ省いて言うと、キリストはいつも共にあり、キリストは自身の中にあるから、転んでも大丈夫だとしたパードレこそ殉教者だった。表現が難しい···この本を最初から最後まで読まないと伝わらないものがキリスト教なんだろう。遠藤周作にとっては。

    2
    投稿日: 2021.12.30
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    名作とはこういうことか、と思わず言ってしまう程の美しさがあった。キリスト教が禁止されている日本が舞台。背教をせまられるパードレ。キリスト教徒ではない私はどこかで、踏むだけじゃん、という気持ちがあった。キリスト教の人が読むとこれは問題作になるのではないかと感じた。基督、あなたはなぜ黙っておられるのですか。この言葉が1番心に響いた。

    1
    投稿日: 2021.12.14
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    神の沈黙は最後まで貫かれるが、それはキリスト教徒への迫害に対してだけでなく、棄教に対しても同様である。 神は存在するのか、神とは何か、信仰による救いとは何かといったことを考えるきっかけになるような作品。

    0
    投稿日: 2021.12.04
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    去れ、汝のなすことをなせ。 キリスト教とは、人間の弱い面を炙り出そうとしたのかもしれない。だからこそヨーロッパ全土に広がったのかも。 しかし人間中心でない日本では、相いれなかった。転びバテレンと呼ばれて、さまざまな物語の題材にされたフェレイラやロドリコなどの生き方を理解しても容認できるかどうか分からない。 それよりも自粛警察を思わせる隠れキリシタン政策や拷問方法など、今の日本と変わらないではないかと、驚嘆。 信仰の迷いだけではなく、社会体制などについても深く考えるべき作品。

    0
    投稿日: 2021.11.13
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    隠れキリシタンの苦難の歴史は教科書や小説、ドラマでも扱われ、知ってる気になっていたけれど…。なぜそんなことが起こったのか、どうして後世にその事が伝わったのかには思いが至らなかったことに改めて気がつく。宗教のことを現実社会で話すことは今も昔もとてもむずかしい。統治する側は「人の心」を操り分断する仕組みを知り尽くしている。(政治的イデオロギーが利用されるのもこれか!)転ぶか、死を選ぶか。どちらが正しく信じるものを護るのか… 今もスコセッシ監督の映画のシーンが頭の中でぐるぐる巡っている。 #八蔵読書会

    7
    投稿日: 2021.11.07
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    神は存在するのかという根源的な問いに答えがないまま小説が終わった。多分いないのだろうけど、試練ばっかり与えてくるから信じたくはないというのが個人的な考え。

    1
    投稿日: 2021.11.03
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    雨天、なんぴとも訪れぬ期日前投票所で選挙立会人を務めながら読んだ。読書する認可が下りていなかったら俄かに駆け出して人喰い虎になり、野山で友人に諌められる末路を辿っていたろう。 夕刻を迎えいよいよ一日が不毛に終わろうとするとき、背教と信仰を彷徨うパードレ・ロドリゴの姿が己に重なってみえ、目頭を熱くした。きょうの我が努力はなんの意義もない滑稽な道化でしかないのかと悶々としながら家路に就いた。

    4
    投稿日: 2021.10.21
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    先生のおすすめで読んだ。 あまり今まで本を読んでこなかった自分にとって、難しい内容の本だった。他の方が書いた評価や感想を読んで、この本が、無宗教の人が多い日本人でも自分が今まで信じてしたものを強制的に覆させられることを強く訴えているということがわかった。 自分の国で、昔に、こんなに酷いある種虐殺のようなことが国によって行われていたことに驚いた。ロドリゴ司祭がなぜそこまでされてまでキリスト教を信仰できるのかが、無宗教の自分にとっては理解できなかった。キチジローが司祭を何度も裏切ってはその度に司祭にコンヒサンをしに来るのはある意味彼の強さではないかと感じた。

    2
    投稿日: 2021.10.06
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    生々しくむごい拷問と殉教の描写 歴史の授業でさらっと学んだだけではとても想像できなかった しんどいけど読んで良かった 真実かどうかはさておき奉行の話もわからないでもない かつて自分も教会に通ったことがあるけど、結局クリスチャンにはなっていない 神がいるなら、苦しみ祈る人々をなぜ助けてくれないのか、それは非クリスチャンにとって最大の疑問だと思う それは与えられた試練であり、全ては神のみぞ知る、なんだろうか 無神論者ではないけど、これほどまでになんらかの神が自分の救いであり人生の目的となることは想像もつかない

    3
    投稿日: 2021.09.29
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    自己啓発本なんて読んでる場合じゃないな…と思った。 自分が生まれる前に書かれた小説。読めてよかった。 島原の乱の後で厳しい弾圧が続く地に、だからこそ、と向かった司教たち。待ち受ける試練と信仰、神との対話。 「沈黙」が示すものは何か、信徒ではない身でも考えさせられた。 歴史の学習で見たなーくらいの踏み絵の重さも読む前と後で変わった。踏ませた人、踏ませられた人、踏めなかった人がいたこと、あれが命を左右した時代があったことを忘れてはならないと思う。 読了後も、司教の苦悩が脳裏をよぎる。 そんな時代があったこと、そこに生きた人々がいたこと。自分の中に刻むことができた。遠藤周作さんに感謝。

    5
    投稿日: 2021.09.26
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    このレビューはネタバレを含みます。

    最初はまえがきやロドリゴの書簡形式の文章から、ロドリゴという個が強調され、転んだ師の真相を確かめに行くある種の勇者的な側面が描かれている。しかし、その後三人称の文章でロドリゴが司祭と記載され物語が進んでいくと、ロドリゴも日本で転んだ数多の宣教師の一人に過ぎないという点が際立っていく。 信徒は沈黙することで役人に抗い、神は沈黙を貫き、信徒を飲み込んだ自然も沈黙したまま。その分、「神とは」「信仰とは」と心の中で考え続ける司祭の言葉が重くのしかかってきた。 転ぶときに主のことを本当の意味で理解したのが興味深い。

    0
    投稿日: 2021.09.23
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    自分の愛したものや、自分が乗り越えてきた人生をを否定しなければならないのは哀しいし、とても常人にできることではないと思った。「神の沈黙」という言葉すら初耳だったので、内容が新鮮で、とても面白かった。

    2
    投稿日: 2021.09.18
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    クリスチャンの友人に「信仰とはどんなものか?」と聞いてみたら、この本を勧められた。 タイトルの「沈黙」とは、「どんなに苦しい状態にあって神に救いを求めても、神は何もしない、沈黙したままである」という意味の沈黙。 本の中で、日本に来たポルトガル人の宣教師は、あまりの苦しさに何度も神に問いただす。「あなたはなぜ何もしないのか」と。 おそらくその答えは、p268のこの部分。 “ 踏むがいい。お前の足の痛さをこの私が一番良く知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分つため十字架を背負ったのだ。” 神は何もしないのではなく、すでにしている。それに気付くことが信仰なのではないか。 この私の感想に、友人は何と答えるだろうか。

    4
    投稿日: 2021.09.06
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    あらすじ 非情なキリシタン弾圧が行われている江戸初期の長崎を舞台に、自らの信仰心を極限まで試される若いポルトガル人宣教師の壮絶な葛藤の行方を力強い筆致で描き出す。 感想 ただ一言 むごい。

    1
    投稿日: 2021.08.27
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    この小説の中に、二つのねじれがテーマとして描かれているように思われる。 一つは、信仰を貫くが故に外型的に棄教する、ということが許されるのか?という問題。要は信仰とはどこまで信仰で、宗教とはどこまで宗教なのか?というような境界線についての問題だ。そして、その背景としてこの小説の主題になっている「神の沈黙」という命題がある。 二つ目は、西洋の産物が日本に入ってくる時に中身が骨抜きになって日本化してしまう、という問題。日本と西洋の文化的断絶という主題であって、映画を観たときにも感じたけれど、日本という国がキリスト教に対して取った態度を通して日本文化の本質を探ろうとするという、この小説の「日本文化論」のような側面である。 こういう個人の問題と全体の問題の2つの要素が綺麗に共存するような小説というのは他に見たことがない。そういう意味で傑作だと感じる。

    2
    投稿日: 2021.08.11
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    このレビューはネタバレを含みます。

    凄まじい小説。キリスト教徒では無い自分が、外から見ていて昔から疑問だった点、どうにも理解できない点が、ロドリゴ司祭の目を通して、あるいは、鳥瞰的にロドリゴ司祭を見つめることで、一つ一つ整理されていった気がした。 キリスト教に深い造形がある遠藤周作が、自ら通ってきた道を織り込んでいるからこそ、この凄味が感じられるのではないか。 自分は信仰にこれほど熱意は持っていないが、何かしらの信条をここまで深く考えて貫くことが出来るのかと考えさせられた。 自己犠牲などを軽く飛び越え、他者の落命が自分の強い信仰によって引き起こされる苦悶は計り知れない。 ロドリゴ司祭とあの人は、踏み絵の前は絶対的な支配者と服従者であるが、踏絵後には、あの人を決して裏切っていない、あの人を別の形で愛していると言い切っている。ロドリゴ司祭の中での信仰の形の変容がどの様に帰結したのか、初読では残念ながら消化できなかった。何度か読み返してじっくり考えたい。

    0
    投稿日: 2021.07.04
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    このレビューはネタバレを含みます。

    信仰とは何かを考えさせられる作品。なぜ神は沈黙しているのか。少しちがうのかもしれないが、わたしもキリスト教の授業を受けた時、なぜイエスはあのような悲惨な最期を迎えなければならなかったのだろうと思ったことを思い出した。 キリシタンの迫害は実際にあったこと。拷問にかけられたキリシタンたちは、助けてくれない神を恨んだのだろうか…

    7
    投稿日: 2021.06.27
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    苛烈なキリシタン迫害と、近世日本人にとってのキリスト教における神を描いた、遠い昔の作品かと思ったけれど、案外現代の日本人の精神性とも繋がっているのかもしれない。

    1
    投稿日: 2021.06.14
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    近代小説の中で一番ハマったかもしれない。 踏絵、島原の乱、キリスト教の禁制。 ただの知識でしかなく、その当時の人の気持ちを想像するなんてことは まったくなかった。 しかし、この司祭の葛藤… 信じているはずの神は沈黙を貫く。 よかれと思って続けていることが人々を苦しめる。 ただ苦しめるだけでなく、死にまで至らせる。 自分が信じてきた神は何だったのかが猜疑心に囚われる。 結局神とは自分の好意でしか表出されないものなのかもしれない。 背教したことにはなったが、本当の意味で神を自分の心の中に見出すことができた。 にしてもこんなにキリスト教への弾圧がすごかったとは驚きだ。 それほどキリスト教は幕府にとって都合が良くなったんだなと改めて実感。 小説の話としても面白かったし、自分の歴史観にも厚みを加えることができた。

    2
    投稿日: 2021.06.13
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    「圧巻」の一言です。 島原の乱直後のキリシタン禁制が最も過激だった日本へ潜伏した外国人司祭の話です。神の存在や背教の心理、西洋と日本の思想的断絶などをテーマにしています。なぜ神は沈黙を続けるのか根源的で永遠の謎に一つの解釈をとなえた作品です。 こんなん人生観揺らぐわ。 今まで人生において当たり前だと思っていた物を根こそぎ否定され、その価値観を真逆のものえと矯正されるそんな絶望を宗教観が薄い日本人にここまで考えさせられる文章力はただただ圧巻だった。 「拷問なんて怖くない!華々しく殉教してやる!」みたいに息を巻いていた若き司祭が実際に捕縛され処刑される順番が次第にジリジリと近づいてくる、そういった緊張感を文字だけで痛い程リアルに表してくれる。 雑談の合間に斬首された信者を見て(殉教とはこうも呆気ないものなのか、なぜ神はあなたの信者が殺されているのにも関わらず沈黙を貫いているんだ​──) あと、なぜ日本に特定の宗教が深く根付かないのかも著者ならではの目線で描かれてる。そりゃそうだ。と思える内容だった。 他の作品も読んでみたいです。

    2
    投稿日: 2021.06.06
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    時代や環境が違うところで同じ宗教がどう扱われるか、その差異が衝撃的だった。自分は無信者だが、神の存在というテーマは心に重く響いたし、その神を巡って今でも命を落としたり、追われたりしている人がいることを思うと恐ろしくなった。読んでよかった。

    2
    投稿日: 2021.05.28
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    学校の課題図書として学生時代に読んだが、宗教とは、それぞれの人の心を写す鏡だと感じた作品。救いにもなるし、泥沼にもなる。

    2
    投稿日: 2021.05.25
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    シトシトと降る雨に体が濡れ、体温が奪われていくような…そんな気持ちで読み進めました。心にズシン、とくる物語でした。読み終えて本を閉じたとき目に入る、「沈黙」というタイトルと、雲の切れ間から差し込む光の装丁がなんとも言えませんね。人に勧めはしないし再読もなかなか出来そうにないけれど…自分の心の底にずっと居座り続ける名作です。

    1
    投稿日: 2021.05.23
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    信仰とはその人だけのものである。満員電車の中で読んでいて1人唸ってしまった。それくらいズシンと来る小説だった。

    0
    投稿日: 2021.05.18
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    いまの世の中があるのに感謝する。。。 今をここまで平和に生きさせてくれている上で こういう過去の存在を周知しておくのは 強く生き抜くためにとても重要だと思う。 なぜ、こげん世の中に生まれあわせたか という本文中のセリフ。。 まあ胸に突き刺さる。。。。 本のセリフであることに安堵してしまうくらい。 タイムスリップできたとして これを面と面向かって言われたらどうしようもない醜さから多分気絶する。 読み終えた頃には 前向きに、とか明るく、とか楽しくとか そんな綺麗事ではないけれど 恵まれた現代で懸命に生きていこうと思えるはずです。。

    0
    投稿日: 2021.05.16
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    R2.9.16~R2.10.31 (あらすじ) 島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制のあくまで厳しい日本に潜入しtポルトガル人司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵にたたされる……。神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、<神の沈黙>という永遠の主題に切実な問いを投げかける書下ろし長編。 (感想) 上のあらすじ、本の裏表紙そのままなわけですが、そこに書かれていることが全てです。(笑) 大変面白かったわりに、読むのに時間がかかったな…。 ・隠れキリシタンの祈りの本質に踏み込んだシーンは割と衝撃。なるほど知らなかった…。日本のキリシタンってそう解釈できるのか…。 ・この物語、史実をもとに登場人物の名前やら地名やらいくぶん脚色しているようですが、せっかくなら調べた通りにしたらいいのにな、と思った。まあ、物語をある程度脚色したかったからでしょうけれど。 ・最後の「切支丹屋敷役人日記」、が読めない。。。  誰か訳して…。

    0
    投稿日: 2021.05.12
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    このレビューはネタバレを含みます。

    10年前に読んだきりなのに未だにトラウマの本。 キチジローは私だ、私だ…と自分の醜さを突きつけられながら読んだ。 後に遠藤周作自身が「キチジローは私だ」と書いているのを目にし、少しほっとしたことを覚えている。そう感じてもいいんだと。 最後の「神は共に苦しみながら隣にいる」との結論に、そうか、これが作者のたどり着いた信仰の答えなんだなと思った。

    0
    投稿日: 2021.05.09
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    このレビューはネタバレを含みます。

    うーん、難しい。 この国の人たちは、キリスト教を真に理解せず、苦しい世の中を生きるために利用しただけに過ぎなかったのかな……と、思ってしまった。

    0
    投稿日: 2021.05.05
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    信仰とは何か 神とは何か 正義とは何か キリスト教弾圧が行われた江戸時代に、異国の地ポルトガルから来た宣教師の物語を通して深く考えさせられる良著。 長崎には隠れキリシタンがいた、踏み絵が行われていた、今でもキリスト教信者が多い、と漠然と学んでいたものの、その背景や重みへ想像力を働かせることを行っていなかったと気付かされる。 自らの信仰を禁止されることの壮絶さや、苦しみの中で自分が信じるものを信仰できなくなる様は、物語を通して重く心に響いてくる。 結局のところ、信仰とは何か、神とは何か、信ずるものに委ねらる所ではあるのだろうが、多様性が叫ばれる昨今だからこそ、自分とは異なる考えを持つものへも想像力をもって接することが大切だと感じた。

    2
    投稿日: 2021.04.18