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総合評価

889件)
4.3
385
286
129
14
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    生涯の相棒から読書の意味を初めて教えていただいた作品です。 本を読む事によって、こんなにも心が揺さぶられる事を教えてもらいました。 これからも、沢山本を読みたいなって思った! 相棒&周作ありがとう〇

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    投稿日: 2018.04.14
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    このレビューはネタバレを含みます。

    名作ブンガク かかった時間150分(くらい) 師である司祭が日本で背教した。この情報への疑いから、また、迫害のなかで拠り所を求める信者たちのために、若いキリスト教司祭ロドリゴは、日本に潜入する。 貧しく虐げられた日本の農民が、神への信仰までも迫害によって取り上げられている。神は、司祭であるロドリゴに、ただキリシタンであるというだけで村を焼かれ、拷問にあえぎ、死んでゆく殉教者の姿を見せる。殉教者たちは、ロドリゴがかつて本国で夢想していたような、美しく誇りある死を迎えるのではない。彼らの死は、醜く、あっけなく、そして意味をもたない。 神はまた、人間の弱さや醜さを「キチジロー」という棄教者として見せる。役人に命じられてあっけなく踏み絵を行い、であるのにキリシタンの集落ではロドリゴを迎え入れる手引きをして歓待され、であるのに、キチジローはロドリゴを役人に引き渡す。 ロドリゴは、一方で「神の沈黙」を恐れながら、しかし、常に、受難のキリストと自身を重ね合わせ、その同一性によって奮い立ち、信仰に立ち返る。 キリシタン迫害の急先鋒、井上筑後守は、拘束されたロドリゴに背教を迫る。「愛するキリストのように」どんな拷問でも、殉死でさえも受け入れる覚悟を決めるロドリゴだが、筑後守が命じたのは、「ロドリゴが棄教しなければ、キリシタンたちを拷問し、殺す」という方針であった。キリシタン本人たちがどれほど棄教を叫んでも、ロドリゴが棄教しないかぎり、彼らは拷問され続ける。 筑後守が「今夜、パードレ(神父・ロドリゴのこと)は転ぶ(棄教する)だろう」と予言したある夜、ロドリゴが怠惰と傲慢、そして見せかけの安息の象徴として聞いていた「鼾」は、実は、穴倉に逆さに吊られ、即死を防ぐために耳の後ろに開けられた穴から一滴また一滴と血を流しながら苦しみに悶える棄教者たちの呻きだった。そして、それでも神は「沈黙」している。 ロドリゴはその中で、ついに踏み絵を行う。踏み絵に描かれたキリストは、気高くも美しくも優しくもなく、ただのみすぼらしい男の姿をしていた。そしてロドリゴは、「沈黙」する神の真意を悟る。彼が見出したのは、苦難に対して救いを与える神ではなく、人間とともに在り、苦難を分かち合う存在としての神であった―― というのが、大まかな内容である。すごく若いころ以来の再読だが、いくつか思ったことを挙げる。 まず、ロドリゴの若さ、というか、青臭さが印象的である。彼は無謀な夢想家で、愛するキリストとの同一化により、自ら信仰的英雄であろうとする。一方で、彼の、キリシタンたちへのまなざしは非常に高慢なものである。それを、ロドリゴ自身は愛や慈しみだと感じているが、読者にはそれが見下しであり、彼にとってのキリシタンたちは信仰的英雄である自身を引き立たせる存在(それこそ、ロドリゴ自身がキリストにおけるユダをそう解釈したように)にすぎないとわかる。 「神の沈黙」ばかりでなく、そのようなロドリゴの優越感も、たとえば簀巻きにされ海に沈んだキリシタンの生の意味を問う、彼の懐疑のもとになっているのだろう。 もう一つ気になったのは、師であるフェレイラとロドリゴの「相違」である。フェレイラに背中を押されて棄教したロドリゴはその後、月に一度、フェレイラと面会する機会をもつようになる。とはいえ、監視下にある二人には、業務上の会話を交わす自由しかない。その場面で、ロドリゴはフェレイラとの関係を、自身と同じ傷と弱さをもっている「醜い双生児」のようなものだと感じる。しかし、フェレイラとロドリゴは、本当に「同じ」なのか。確かに彼らは二人とも、棄教を迫られ、(最後には)自分自身ではなくキリシタンに与えられる拷問によって(表面的には)信仰を捨てる。二人は本国でも師弟であり、同じ信仰をもつものが、同じものに敗れ、同じように棄教した、という部分は一致する。しかし、以下のようにも考えられないか。 作品中では、井上筑後守も、そしてフェレイラも、日本にキリスト教は根付かないと述べる。また、現に、日本人は超越神の存在を描くことができず、キリスト教の形をしていながらも日本的にアレンジされた、ねじ曲がったキリスト教を信仰しているに過ぎない、と語る。ロドリゴはその意味を(少なくとも作品の中では)深く考えることはなかった。 さて、棄教後のロドリゴがキチジローの告解を受ける場面がある。ロドリゴはこのとき、自分は司祭職を追われたが、それでも自分は神を理解できるのだと考えた。だから、棄教してなお、自分は日本における最後のキリスト教司祭なのだ、と。もちろん、ここでロドリゴがいう「キリスト」は、前述の「ともに在る」神である。 神とは何か。ロドリゴは「沈黙」、つまり神の不在を恐れながら問い続け、そして、極限的状況にあって、神が「それでもなお、ともに在る」ものだと知った。 ここで、ロドリゴとフェレイラの「相違」に立ち返る。いや、「相違の可能性」というべきか。「ともに在る」神を見出したロドリゴの悟りが、同じく極限的状況にあったフェレイラの悟りと同じものなのかどうかは、本文の中で語られていない。むしろ、筑後守の屋敷で対面したフェレイラに対するロドリゴの印象から読み取れるのは、フェレイラの彼に対する他者性である。つまり、ロドリゴとフェレイラが見出したものは、同じではないという解釈も、成立しうる。 とすると、ここに、ロドリゴにとっては解決したはずの、「神とは何か」という問いが、再度読者の前に浮かび上がってくる。 この作品においては、信仰が大きな意味をもっている。信仰しているのは誰か。それは、ロドリゴである。フェレイラである。また、迫害されているキリシタンである。さらに、井上筑後守も、かつての信者である。 しかし、井上筑後守やフェレイラがいうように、キリシタンたちが、日本的に曲解されたキリスト教ならざるキリスト教を信仰していたにすぎないのだとすれば、ロドリゴの悟りもまた、そうなのではないか。ロドリゴは、彼の極限状況にあって神に救いを求めた。神は「ともに在る」という形でロドリゴに応えた。しかし、その「ともに在る」神は、ロドリゴの神である。それが、フェレイラの神と――あれほど「同じ」だと信じているフェレイラの神と、どうして同じであるといえるだろう。そういえば、この作品において、ロドリゴも、フェレイラも、キリシタンたちも、そし語り手さえも、「神とは何か」を示さない。 いや、むしろ、フェレイラはロドリゴと同じではなく、井上筑後守とこそ同じなのかもしれない。「ひとつの信仰」というものの難しさについて分かち合っている、という点で。また、ここからは勝手な読みになるが、井上筑後守はそれに絶望した人間、フェレイラはそれでもなお信じ続ける人間、と考えると、三者の関係が面白くなるような気がするのだが。そして、この場合、ロドリゴは結局フェレイラの信仰には到達できていない。若い、無謀な夢想家であったロドリゴは、老いた夢想家として生を終える。これも勝手な読みだが、最後の切支丹日記で、ロドリゴの三十年間があっさりと、しかも他に(キチジローも含めた他に)埋没して描かれているのは、そういうことではないだろうか。 というわけで、今回この作品で印象的だったのは、「信仰はひとつである」ということへの懐疑である。 やはり、面白い作品は面白い。たまにはいろいろ読み返してみたいものだ。

    1
    投稿日: 2018.03.31
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    生涯の相棒から読書の意味を初めて教えていただいた作品です。 本を読む事によって、こんなにも心が揺さぶられる事を教えてもらいまた。 これからも、沢山本を読みたいなって思った! 相棒&周作、ありがとう〇

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    投稿日: 2018.03.25
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    スコセッシが映画化した遠藤周作の古典小説の原作。キリシタン弾圧が行われていた長崎に殉教覚悟でやってくるポルトガル人のイエズス会宣教師が主人公。彼の手紙と、三人称描写が組み合わさった文体で構成されている。卑屈なユダのようなキチジロー、狡猾な奉行である井上、かつての師だが先に棄教しているフェレイラ、が主要なサブキャラ。宗教的なテーマは嫌いだが、物語の構成と場面の描写は秀逸。音、湿気、臭いまでしてくるような話だった。

    2
    投稿日: 2018.03.12
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    最初から最後まで一貫して不思議な緊張感があったのが新鮮だった。わかっている展開でも読み進めたくなるようなパワーがある。 潜伏しているあたりの描写が特に目が滑って読み進めにくかったし、文章の読みやすさの相性は悪かったけど、本当に興味深い内容だった。おもしろい…

    0
    投稿日: 2018.03.01
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    キリストの「愛」の描き方にうちふるえるほど感動しました。ちょっと大げさかなとも思いながらですが、キリストの「愛」の深さと広さを知り、そしてそれを感じ取ることの幸福を知ることのできるすさまじい小説だと思います。 無慈悲な展開をすごい力量で描ききっている。 遠藤周作自身がある程度の信仰への疑惑を持っていなければ絶対に完成しない作品という意味で、すごい力が必要だったと思います。 物語の流れに派手さは一切なく、歴史的な「迫害」が、教科書の出来事ではなくなる作品でした。 あまりにも容赦がない展開、救いを期待できない状況が描かれ、さらに司祭たちが信仰心を持って「救い」を期待するも、神は「沈黙」を貫く。 ロドリゴは「神はいるのか」とその存在すら疑い、絶望する場面まで描かれ、全編にわたって不可思議な緊迫感が張り巡らされています。 それはラストを迎えても緩むことがないところがすさまじい。 それでも、キリストの「愛」が描かれる場面には、これまでの無慈悲ともいえる展開の中で、なにが「救い」なのかを理解させる力がありました。 キリストの磔の意味などをルターの考え方などを少しばかり学んだことがあります。 キリストの「愛」というのが、人の考える「都合のいい救済」ではなく、キリスト自身がすべての罪や痛みを背負うことであるということなのだとその時は解釈していました。 この小説には知識としての解釈を超えた、キリストの愛を実感できるほどの疑似体験的なものが含まれている。 キリストの愛がどれほど深いものなのか、ロドリゴとともにその「愛」のあり方に打ち震えるような感覚を味わうことができる。 そこにものすごく衝撃を受けました。 まさに小説ならではの体験でした。 ある程度宗教の考え方を理解できないと、ラストが入りにくいかもしれないですが、この感覚は、ぜひ読んで味わってほしい。

    1
    投稿日: 2018.02.14
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    映画『沈黙』を観るために読んだ。 冒頭は状況説明から入るのでなかなかスムーズに読めなかったが、司祭が日本に来てからの物語の展開にはとても引き込まれ、仕事の合間も読みふけった。 さして長くもないのですぐ読み終えれたのもよかった。

    0
    投稿日: 2018.02.03
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    ポルトガルから日本にやってきた司祭(ロドリゴ)が主人公の小説だったんだなあ。客観的な歴史的記述に始まり、キチジローなど日本人との交流や出来事が描かれ、ついに、「転んだ」宣教師フェレイラと面会。神のこと、日本のこと、フェレイラに抱いた感情、などなど複雑な心理が語られる。 この小説をクリスマスのあたりに読んでいて、妙な気持ちだった。こんなにも信仰を禁じられた過去があるのに、クリスマスだけはなぜか楽しいイベントとして定着した日本… 個人的には、教会で牧師さんから聞いた、「クリスマスとは何かを与えることに喜びを見出す日」を胸に刻み近しい人にプレゼントをしたりして心があたたかくなる大好きな日(シーズン)だけれど、24日の夕方などに、ケンタッキーの袋とケーキの紙袋を両手にぶら下げた人々とすれ違うたび、一体クリスマスとは何なのだろうと思ってしまう。考えれば考えるほどよくわからなくなる。 フェレイラ氏は、キリスト教は日本には根をおろさぬと言っていた。 ***** 「知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということだけだ」 「根をおろさぬのではありませぬ」司祭は首をふって大声で叫んだ。「根が切りとられたのです」 だがフェレイラは司祭の大声に顔さえあげず眼を伏せたきり、意志も感情もない人形のように、 「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」 ***** 遠藤周作さんはフェレイラのこのセリフを通して何を言いたかったのだろう。 これがクリスチャンであるご自身から見た日本ということなのだろうか…

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    投稿日: 2018.01.30
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    キリスト教の厳しい弾圧の中で、布教に命をかけて渡った宣教師の行動と心が400年たった今でも目の前に現れてくるような遠藤周作の文章。 自分の信じるものに裏切られそうな状況でどんな気持ちが人間に浮かんでくるのか・・・ 魅力のあるもの、美しいものに心ひかれるのは誰でも出来るが、そんなものは愛ではない・・・ことを知ってはいるがなかなか出来ない等、教えと現実の狭間で動く心が印象に残った。

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    投稿日: 2018.01.17
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    著者の作品は概ね読んだが、この作品は時代設定や文体など種を異にする。映画化もされているが小説がおすすめ。というのも、キリシタン弾圧という凄惨な描写が散見されるため、映像で見せられると若干食傷気味になる。

    1
    投稿日: 2018.01.04
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    ひたすらに劇的。あとがきにもあるように、先の展開がわかりきっていてもなお引き込まれていってしまうのは、まさに遠藤周作の力量なんだろうなと。 侍を先に読んでいたので、日本での布教活動がいかに不毛で意味のないものか、とどのつまり日本人がいかにキリストの教えと相容れないか、についてはなんとなく分かってはいた。どんなひどい生活や人生にも意味を与えるのがキリスト教の役割であったと解釈してるけど、あまりにひどいことが続いてもなおそう思えるのかなーとはふと思った。これだけのことをしても報われない、これだけ苦しんでも何もいいことがない、そんな場合キリスト教信者はどうするのですか?ーーーただそれでも祈るのですーーーに踏み込んでくれたので個人的にはとてもスッキリした。 なんだってそうだけど、一生懸命やるからには報われたいし、良いことがないのに辛い思いはしたくない。人に備わる欲望や本能的なものはベースとしてあって、極限の無償の愛なんていうのは基本有り得ない。日本の対岸にいる者には決して分からないのだ、と。美しいものを愛するのは簡単なことであり、主が愛したものはいつでもみすぼらしかった。 ここはどうしても抜粋したいんだけど イビキと呻き声のくだりの後、自分が棄教しないせいで百姓が苦しみ続けることを知り あの人たちは苦しみの代わりに、永遠の喜びを得る→お前の弱さを美しい言葉で誤魔化すな→あの人たちが救われると信じていたからだ→ 「お前は彼らより自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶといえばあの人たちは穴から引き上げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼らのために教会を裏切ることが恐ろしいからだ」からの 「もしキリストがここにおられたら、彼らのために転んだだろう」 マジで痛快!!! 今の日本にはたくさんの教会があって、たくさんの学校があって、クリスマスなんか最高だけど、敬虔なクリスチャンは総じて金もってない?厳しい家で大切にそだてるツールの一つとしてキリスト教は根付いていて、文中にあるようなみすぼらしさを愛するキリスト教ではない気がする。もちろん戒律が厳しそうで敬虔に見えるけど全てに金が絡むカルト宗教はもってのほか。 侍でも沈黙でもそうだけど、元来日本人にはピュアなキリスト教の教えは馴染まないんだ。であるなら、ひん曲がってるとは言え、キチジローやら司祭達のように、主だけを愛し自分だけが救われるような対面型に特化するのが幸せなんだろう。当のキリストだって、隣人を愛せよ、ではなく、自分のように隣人を愛せよといっておられるのだから。

    0
    投稿日: 2017.12.25
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    信徒が残忍な拷問を受け殉教していく様を目の当たりにし、ロドリゴ司祭は神の存在を自問自答する。 神は全てをご存じのはずなのに、なぜ「沈黙」を保っておられるのか……。 久々に重めの作品を読んだので最初は読むのがかったるいと感じていたが、どんどん引き込まれる小説。 棄教を迫られるロドリゴ司祭の胸中の葛藤や、長崎奉行井上筑前守やフェレイラ司祭の日本におけるキリスト教の解釈は読み応えがあり面白かった。 キチジローの存在と、踏絵のキリストの捉え方にハッとさせらる。

    3
    投稿日: 2017.12.13
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    流れるように読みやすいくせに話の内容は重々しい。信仰という一つの重大テーマは僕に様々な疑問を投げかけた。人間、生きているだけが1番の平和的存在であることが望ましいのに現実はそう簡単に上手くいかないらしい。社会の闇はいったいどこまで深いのかと頭を抱えたくなる話だった。

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    投稿日: 2017.11.08
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    宗教の話って面白いなぁ。 作中で、日本人にはキリスト教が曲がって解釈されて信仰されるために、布教は成功しないといった言葉があったが、非常に共感できた。 僕だって形式上は仏教徒ということになるけど、精神的には無信教風八百万信仰が根をはっている。 遠藤周作の考える外国人宣教師から見た日本人って構図が面白い。 日本人こわすぎ。 「アガペーってどういうこと?」がテーマのようだ

    0
    投稿日: 2017.10.24
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    30年程前に大学のシスターに「氷点」と「沈黙」を紹介され、「氷点」はすぐ読んだのだが、「沈黙」は気になりつつも読んでいなかった。映画化後もしばらく経ってしまったが、今回、読むきっかけを得られたことに感謝。転ぶ、棄教・・・。読んでいて苦しくなった。「安心して行きなさい」に少しだけ救われた。

    0
    投稿日: 2017.09.25
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    ・・・・・・・っということで、映画を見た後に小説を読みました。 スコセッシ監督が原作にとても忠実だったことが分かります。 これだけ忠実に描いてくれるとは、泉下の遠藤も喜んでいることでしょう。 もちろん、差異はあちこち見受けられます。 大きなところで、映画は英語が基本でしたが、原作はポルトガル語です。 パードレとか、コンヒサンとか、パライソなんかはポルトガル語なんですね。 英語を日本語に捻じ曲げるにも程度が酷いなと思っていました。(^^ゞ さらに、司祭たちの心の動きが映画では映像で見せるところを、小説では言葉で解説しています。 その分、小説のほうが深く理解できます。 どちらが優れた表現かという意味ではありませんよ。 たとえば、最後に司祭が踏み絵を踏むクライマックスの場面。 小説では踏み絵のキリスト像が司祭に向かって、「私を踏みなさい」と命じたとあります。 それを後から聞いた奉行が、棄教した自分を正当化する言い訳だと司祭をなじるのです。 これは映画では描かれていません。 それと、映画で語られていたのにぼくが見落とした重要な台詞を思い出させてくれました。 それは、リーアム・ニーソン演じる上司の立場にある司祭が、日本は沼地のようで、我々が布教して種を蒔いて芽が出たと思ってもその根は腐ってしまう。 日本人が信じるキリスト教は、我々が布教するキリスト教とは似て非なるものに変化している。 だから、我々がどんなに努力しても無駄なのだと半ば諦めた態度でつぶやくのです。 それに対して、彼の部下である宣教師は、「信仰をかたくなに守って殉教していったキリシタンたちはいったい何を信じていたのだ。彼らの信仰は間違っていないはずだ。」と反論するのです。 いい場面ですね。 そこで、リーアム・ニーソンは言うのです。 先駆者で成功者として知られるフランシスコ・ザビエルは主のことを「大日」と訳した。 それは日本人にとって、「太陽」のことであり、神道の「天照大神」と同じだと日本人は解釈したのだというのです。 スッゲェ~~~でしょ? 来週から訪問する長崎の隠れキリシタンの史跡を巡るとき、彼らの信仰の本質を知る上でこれは大きなヒントになるとぼくは思うのです。 実際にこの足で現場を辿って、ぼくがどういう印象を持ち帰るか、とても楽しみです。(^^♪ 分かっていただけますかねこの面白さ?^m^ さらに、遠藤がなぜ神は「沈黙」を守ったかに対しても、ひとつの回答を出していることも面白い。 それは、死にゆく信徒が、それを見守る司祭が、なぜこんな場面でも神は沈黙を守るかという、非難にも似た疑問に対する答えです。 その答えというのは、「神も同時に苦しんでいた」というものです。 遠藤のこの解釈に、彼ほどキリスト教に対して真摯な姿勢を示した信者はいるのかと、いまさらながらに感心せざるを得ませんでした。

    0
    投稿日: 2017.09.19
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    この世の中には様々宗教があります。この「宗教」とは何なんでしょうか。そんなことを考えさせられます。 日本の歴史で習ったキリスト教を禁止するために行ったとされる江戸時代の踏み絵。日本に布教にきたパードレは禁教のため踏み絵をさせられる・・・。 自分の意志なのか、拷問の末の耐えられなさからか・・・命だけは助かるものの、彼は転んだ司祭として、日本名を与えられ惨めな立場となる。 踏み絵をしたことが、本当にキリスト教を捨てたことになるのか、司祭として恥ずべきことなのか。宗教とはそういうものなのだろうか。心の中で信仰心を忘れていなければよいのではないだろか。 神は自分が一番苦しいとき、声をかけてくれることはない。 道を示してくれるわけではない。きっと、じっと見守るだけ。決めるのは自分自身だからではないだろうか…。

    1
    投稿日: 2017.09.09
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    遠藤周作氏の作品は私の中では古典に入ると思っている。古典は苦手だが祝映画化で読んでみる。最初のページをめくると、島原の乱の後の頃のキリシタンの話と言うことで、歴史小説好きとしては心躍る。キリスト教が禁止されている時代、あえてキリスト教を布教させようと、密入国する神父の話。最初はその角度からの話は珍しいと興味を持ってページをめくるが、やはり難しい。何だろうね文章が頭の中に入ってこないというか、よく分からんと言うか。最後まで読むが、ラストも「そうなんだ」位にしか心動かされず。 五島には改めて行きたくなった。旅行するときに持って行ったらおもしろいかもしれない。

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    投稿日: 2017.09.07
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    17世紀島原の乱が終わりキリスト教を邪教とし鎖国政策を行なっていた日本に、密航してまで布教をしようとしたイエズス会の司祭がいた。 本書における日本の宗教観に対する著者の洞察には、目を見張るものがありました。ラストの 司祭の決断は、司祭の心の問いかけの重さから深い感動を覚えました。本書は、2016年にアメージングスパイダーマン のスパイダーマン役で有名なアンドリュー・ガーフィールドが主演として映画化されています。

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    投稿日: 2017.09.05
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    このレビューはネタバレを含みます。

    映画を見て、原作が読みたくなり今更ながら読んでみた。 ちょっとずつ読んでいたので、結構時間がかかってしまった。 ストーリーとしては単純で、遠い異国の地に布教に来て、捕まり、棄教を迫られ、 自分の信仰と生命(自分と信者の両方)を天秤にかけると言う話。 映画を見てオチも知っているし、というよりどう考えても分が悪い勝負なので、 オチも想像できるけど、 そこは特に問題ではなくて、そこに至る過程がやはり読ませる。 自分の命より大事なものや人と、自分の命や大事な人の命が天秤にかけられたらどうするのか。 信仰ではなく、仕事でも家族でもなんでもいい。 考えるだけで胸が張り裂けそうな気分になる。 分が悪いというのは、ジレンマみたいなもので、 棄教しなければ自分を含めた信者が殺される。 しかし、それは神父の立場からすれば 布教上の敗北と言ってもいいかもしれない。 その上殺されてしまうのであれば、神はなぜ信仰するものを助けないのか、 神は存在しないのではないかという説の補強になってしまう。 棄教するのであれば、それはもちろん信仰の敗北である。 考えてみれば農民は自分の信仰に沿って死ぬことができる。 しかし、神父は自分の信仰に沿って一人で死ぬのなら良いが、 他の人を巻き込むことはよいのか、また死んでしまうことは布教を進める上で 敗北ではないかというジレンマも存在する。 そういった意味で、やはり分が悪かったのではないだろうか。 究極的に言えば、神父は真実の愛を知ることができたのではないだろうか。 心から慕っていた人の肖像に足をかけた時、神父は多くの人間を救うことが出来た。 それは偽善的とは言え、勝利と言えなくはないか。 ただ、キリスト教徒の究極とはなんだろうか。 神の国に行くことだとしたら、信仰のために死ぬべきなのか、 多くの人に対して布教をするべきなのか、 それとも一人でも多くの人の命を助けるべきなのだろうか。 この問いに対する答えは聖書に書いてあるのか。 書いてないとしたら、神はそれに対して答えを与えてくれるのだろうか。 この物語の最終的な結末は、最後の審判が訪れるまでわからないのかもしれない。 以下は自分用の読書メモ ・映画を見たおかげで、場面がすんなりと頭に入ってくる。映像の利点。スラスラ読める。 ・宣教師たちは神の存在を疑っていない(当たり前だが) ・農民たちはどうだろうか?キチジローは神を都合のいい道具として使っているか ・農民たちが信仰をするのは、優しくされたからという一文が頭に残る(46ページ) ・きっかけは打算的なものでもいいのかもしれない。しかし、そのあと盲目的に神を信じるのが善いことなのか。。。 ・死ぬ直前まで信仰を貫くのか、それは神が望んだことなのか。 ・逆に盲目的に神を信じること自体はやはり危険なのではないだろうか。 ・カラマーゾフの兄弟がチラつく。あちらは神の存在について、喧々諤々議論がかわされていた。極限状態で信仰を捨てること自体も悪なのかという議論があったが、それも意識しているのか。カラマーゾフの兄弟でも、信仰を捨てることは赦されるという意見がリアリストからは出ていた。 ・スメルジャコフの話では、「信仰を捨てた瞬間。キリスト教徒でなくなるのだから、キリスト教の基準で裁かれるのはおかしい(生まれつきのタタール人が死んだあとにキリスト教の基準で裁かれるのがおかしいように)。また、信仰を捨てたという意識もあるのだが、それにしても信仰が篤い人間だとしても、山を動かし、海に入れることは出来ない。そんなことができるのは世界中で一人か二人だろうし、その人達もエジプトの何処かで修行しているに違いない(ここの世界の何処かにいるというのがロシア的だ)。つまりどんなに信仰が篤くても、あまり意味のあるものではないし、死の直前に奇跡を願っても奇跡なんかは起きないと思うと、天国になんかに行けるかは甚だ疑わしい。それであったら、信仰を諦めて、死んだあとの神様の慈悲に期待した方がいいし、生き残ればその後善行を積むことが可能だろう」。屁理屈にしか聞こえないが ・しかし、リアリストの合理的な選択というのは、信仰の前で意味があるのだろうかと思う。 ・神を試してはいけない。しかし、神を疑ってもならない。 ・ディープリバー、死海のほとり、イエスの生涯 ・ディープリバーも、キリスト教徒への誘惑がある(女性が男性に誘惑する)。彼はそれを断ち切り、インドに行き、そして殺される。インドの神は荒々しい川、ガンジス河は全ての生命を受け入れ、そこには生と死が混在している。 ・神の存在を疑う場面もある(105ページ)。しかし、それを疑ってしまうと今までの自分が失われ、全てが滑稽となるため、その考えを信じることはできない。コンコルド効果のようだ ・祈りが呪詛のように感じる(188ページ) ・なんだか囚人のジレンマみたいだ。転べば信徒を助けられるが、それは信じていたことの否定に通じる。それは死と何が違うのか(209ページ) ・日本という国が地獄のようだ(217ページ) ・日本のキリスト教における神は何か別物なのか(233ページ、映画におけるパライソ) ・信仰は困難な状況にこそ試されるものなのか。キリストに対する悪魔の誘惑のように ・宗教における究極とはなんなのだろうか。キリスト教では神の国に行くこと?そのためには善行を積み、異教徒に教えを説くことも必要なのか ・奇跡というのは信仰上の手段に過ぎないのかもしれない ・小説の構造として優れているのは、1人称から3人称に移っている点。これによって、背教するのが、かなりリアルに感じられる。

    1
    投稿日: 2017.08.30
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    今年の頭に映画を観たからその映像が自然に思い浮かぶ…そのくらい原作に忠実な映画だったんだと今さら知った。 たまたまこれの前に読んだのが「氷点」だったから2冊連続キリスト教の物語になってしまったのだけど、氷点よりはこの沈黙の方が、客観的に宗教というものを見つめているように感じた。 遠藤周作もクリスチャンではあるけれど、神の存在や信仰というものは絶対的なものではない、ということを描いているような。 信仰はあくまでも自分の心の中にあるもので、目に見える形として示せるわけではないし、踏み絵などで全てを否定できるものでもない。 だけどかつては棄教を迫られそれを拒絶して殉教していったクリスチャンが数多いた。そういう強い人間である人々の対になる存在として、キチジローという弱さを隠さない人物が要所要所で登場する。 裏切っては弱気になって反省して、を飽きることなく繰り返すキチジロー。彼の中の信仰とは自分を強くするためのものではなくて、あくまでも自分の弱さを救うためのものだということが分かる。 宗教に限らず、人でも物でも、何かを強く信じるということは自分の中での闘いなのだと思う。 例えば誰かに「それを信じるな」と言われたときにどうするのか、そして何かのきっかけで信じられなくなったときにどんな行動を起こすのか。1つのことを信じ続けることは果たして可能なのか。 自分にとって“信仰”はあまり身近ではないから色々と考えてしまった。信じたい、という気持ちが支えていくものだとは思うけれど。

    1
    投稿日: 2017.08.29
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    この時代とは比較になりませんが、現在でも仕事や私生活などで踏絵を踏まされるようなことはあります。 敬虔なクリスチャンにとってのイエス様の絵にあたるのが、生粋の大阪人にとってはタイガースの旗であり、アタクシにとってはマジックミラー号のDVDであり…。 他人から見ればバカなんぢゃないかと思われることでしょうが、自分の中にブレない芯を持つことの大切さを教えてくれます。 彼女にDVDを見つけられ「全部捨てなさいよ‼︎」と怒られたときに、穴吊りにされるまでもなく涙ながらに即日捨ててしまったアタクシは弱い人間だなぁと痛感しました。

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    投稿日: 2017.08.27
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    辛気くさそうで なんとなく避けていたけど薦められて読んだ。もっと早く読めばよかったと反省するくらい良かった。なんと深い話だろう。ぐっと伝わってくる、無信仰の私でさえ。

    1
    投稿日: 2017.08.26
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    キリシタン禁制によって迫害される日本人信徒たちの姿に苦悩するロドリゴ。彼のキリスト教徒としての内なる心の動きが描かれた物語。 日本に根付いている思想の中に、異なる強い思想が入ってきた時、政治的にそれを排除しようとするのは当然。 それに、本書に限らず、宗教が絡むと争いが絶えない。・・と思うのは宗教を持たない私。 丸く収まるのであれば、転ぶ方がいいじゃない・・とあたりまえのように判断する。 しかしながら、本書で描かれているのは、神を心底信じ信仰に信念を持っている人の、自分への問いかけ。もしくは神への問いかけ・・? それは頑なすぎて理解できないけれど、俯瞰してキリシタン禁制時代のキリスト教徒の心の動きを見た。 信じている対象より、信じることそのものに視点を合わせ見ると心が痛くなる。 読書後、DVDも観てみた。 永遠の問題作でしょうなー・・・・

    0
    投稿日: 2017.08.26
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    五島の旅の復習 その4。 すごい、すごいすごい。こんなとんでもない作品とは。なんで今まで読んでなかったんだろう。神の沈黙への問いかけ、おそろしいほどの緊張感。そして完璧とはほど遠い問題含みの結末もまたいい。これは何度も読み直さないと。

    0
    投稿日: 2017.08.16
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    久しぶりの遠藤周作。映画化もされた。江戸の切支丹弾圧と、その渦中へポルトガルから布教の情熱から長崎へ潜入する司祭。カトリックの洗礼を受けた著者が、中立な宗教観で綴る作品だと感じた。多神教の世界で育ちながら、一神教の基督教を遵奉する柔軟さ。異国からの司祭らが来なくても多くの殉死者を出す純粋さゆえの悲劇。数多の殉死者を出しながら、奇跡を起こすことなく沈黙する「神」を想えば、そして、拷問に苦しむ他者を見聞すれば棄教してしまうことを誰が責められよう。

    0
    投稿日: 2017.08.15
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    非常に引き込まれた。何かに祈るのはぼくらにもよくあること、そのときに「なぜ答えない?その沈黙は何だ?」程度は雲泥の差あれど、信じる者にとってのプリミティブな問いに胸を鷲掴みにされた。スコセッシ監督の映画化、に乗っかって読んだもの。広めようとしたもの、受け入れられた物が違ったものになっている(日本は沼地、根は腐る)と告白されたとき、何かを信じるということに変わりはないが、、。

    0
    投稿日: 2017.08.15
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    中学生の時に読んだものを読み返し。 江戸時代の日本でキリスト教宣教師が弾圧の中で布教に苦心するも、遂には棄教してしまうというストーリー自体は単純だ。 民衆や司祭にどんな弾圧が加えられようとも神は沈黙している。神はいるのか。いるならばなぜ沈黙しているのか。全宗教が孕むタブーともいえる急所。 安易に神はいるともいないとも結論を出すような作品ではもちろんない。だが、ロドリゴは、弾圧と棄教の末に、自己と離れた場所におはす神に対する教会を通じた信仰から離れ、自己の内面に宿る神の存在に気づく。その意味で、この作品は個人の内面における信仰を説く信仰義認説への回帰ともいえるのではないか。半分は自己の心から成る神との内省的な自問自答によって、自己や人間、宇宙に潜在している示唆を得る。外面的な様式や規範によるのではない、人間にとっての神や宗教の本来のあるべき姿に迫る作品。

    0
    投稿日: 2017.08.12
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    マーティ・スコセッシ監督による映画が公開されると知って手に取った一冊。上映時間のあまりの長さに尻込みして映画は見逃してしまったが、神の存在と信仰の意義を問う良書に出合えた。信仰心とは縁遠い筆者はキチジロウに寄っていきがちだが、異教者への弾圧に苦慮する小役人も憎めない。

    1
    投稿日: 2017.08.08
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    人の力は無限大!努力すれば必ず報われる!という言葉に疲れたらオススメ。 弱い人間は沢山いる。でもそのような人を責めたりしてはいけない。何故なら大体の人間は、弱い。立ち向かう前は屈強の精神を持っていると思っていても、屈する瞬間が訪れる場合がある。それでも、嘆き恥じる必要はないのではないか。そんなことしていたら毎日生きていけないのではないか。そんな話。

    1
    投稿日: 2017.07.25
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    スコセッシ監督の映画が公開され、原作を読みたいと思い購入。宗教問題はいつの時代も続いている。 遠藤周作さんの他の作品も読みたくなった。

    0
    投稿日: 2017.07.24
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    神はいるのか?信徒の危機に際して、なぜ「沈黙」したままなのか?次々と打ち寄せるられる過酷な現実への懐疑のなかで、にもかかわらず、最後までキリストの理路の中で決断していく。 弾圧、懐柔の描写が凄まじい。 結局、神への否定には至らなかったわけだが、一歩離れて見ると、神とはなんなのか、釈然としない気持ちを結末が代弁している気もする。 殉難に栄光があるのか、無駄死にに過ぎないのか。そもそも良い死と悪い死があるのか。 宗教の理路としては、善悪がある。宗教を離れれば、死そして人生に善悪はない。しかし、それでは生きる意味と社会の維持ができなくなってしまう。 宗教をめぐるジレンマは今も続く。

    2
    投稿日: 2017.07.09
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    キリスト教はなぜ弾圧されてしまったのか。文化の違い、文化の中の考え方の違い。信仰心というよりも、人間としてどうあるのか、その上での信仰。やっぱり内容は重かった。けれども深かった。

    0
    投稿日: 2017.06.30
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    映画に感化され、原作も。 先に映画観て良かった、文字だけだと景色がわかりにくい。 改めて、キチジローに強さを、海に青さを、イノウエ様に声の高さを加えた映画すごい。

    0
    投稿日: 2017.06.29
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    このレビューはネタバレを含みます。

    映画を観る前の慌てての読了だったが、色々悩ましい。 なまやけの知識で、私はずっと、「絵踏み」の難しさは「偶像」に対する考えにより違うものだと思っていた。 「信仰」そのものよりも「偶像」に重きを置けば、「絵踏み」は直接的に生き死にの問題になる。 「偶像」より「信仰」を重視すれば、もちろん「絵踏み」は背神行為であるものの、「踏むか死ぬか」にはならぬものと、勝手に考えていた。 だから、原作を読み終えた時、転びながらも信仰を捨ててはいないというパードレに納得したし、映画で最後にパードレが握り込むものに違和を感じてしまった。 だけど、よく考えなおせば、「偶像」は決して「信仰の対象そのもの」ではないとしても、「信仰の拠り所」であり「己の信仰を託す物」。 それを踏んでしまったということは、彼がどう言おうと、自分の信じるものに背を向けたことになるのかもしれない。 何となく、この作品はその辺りの答えを出そうとしているものではなく、探ろうとしているもの、という印象があるので、いずれ再読して、もう一度、考え直してみたい。

    0
    投稿日: 2017.06.25
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    キリシタン迫害という残酷さを描いている作品かと思いきや、司祭の心の葛藤や「神とは」など人間性や内面的な心の動きについて描かれているところが素晴らしかった。

    1
    投稿日: 2017.06.25
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    基督(キリスト)教が迫害されている時代の日本に、ポルトガルから布教のため司祭(パードレ)であるセバスチャン・ロドリゴがやってきます。しかし、布教活動はうまくいきません。日本人の基督信者たちが捕まり、拷問を受けます。苦しんでいる人々がいるのに、神は沈黙したままです。 ロドリゴが日本に来るときから手助けしていたキチジローも切支丹ですが、役人に捕まり脅されると恐怖に負けて、すぐに転んだり、人を売ったりします。けれどキチジローが何か悪いことをしたわけではないのです。時代が違えば、キチジローのような弱い人間でも、こんなに苦しむことはなかったのかもしれません。キチジローの弱さに共感して、私も苦しくなりました。 結局ロドリゴも捕まってしまい、苦しむ日本人の信徒たちを見て、踏み絵に足をかけてしまいます。それでもロドリゴはキリストを裏切っておらず、今までとは違った形で愛している、“この国で今でも最後の切支丹司祭(p295)”と思っています。基督とは、信仰とは、それぞれの心のなかにあるものなのでしょう。

    0
    投稿日: 2017.06.24
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    記録 長崎や田舎の方言が多くて ちゃんと理解できないところが たくさんあった。 基督教のこともあたしには難しかった。 いくら祈っても何にも答えてくれない神。 自分との葛藤や 日本人の残忍さが際立つ。 キチジローの話の中の役割が 最後までよくわからなかった。

    0
    投稿日: 2017.06.21
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    このレビューはネタバレを含みます。

    遠藤周作の作品を読むのは二冊目。古い小説なのに、そんなことを感じさせないくらいぐいぐい引き込まれる。すごく好きな小説家になりました。 本作では、ひたすら信仰や背教、日本の精神的側面に焦点を当てている。日本人にはとりわけ宗教というのはあまり身近なものではないと思うので、自分にとってもとにかく信仰というものが新鮮なものに感じた。文中にもあったが、「キリスト教が日本に浸透しない理由(なにか)」が気になった。豊かな自然を持っていた日本には、自然を超越し、自然を創った神という存在をなかなか想像できなかったのか……。 背教に至ったロドリゴだが、神を信仰することはやめていない、という点でこれもまた宗教の形の1つなのかなと思った。 最近読んだ西加奈子「サラバ!」にも通ずるものがあったが、自分が信じるものを他人に決めさせてはいけない、という考えを思い起こさせた。 次は「白い人」を読んでみたい。

    1
    投稿日: 2017.06.20
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    マーティン・スコセッシ監督による映画化もされた名作。 布教と政治。 弾圧化の中でも信仰を貫けば、救われるのか。 弾圧に屈してしまう弱い心の持ち主は救われないのか。 江戸時代初期、キリスト教弾圧化の長崎が舞台。 全体的に読みやすい。 内容は重い。

    1
    投稿日: 2017.06.20
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    遠藤周作「沈黙」読了。M.S.監督も映画化した事だし、内容は容易に想像出来るものの、著者作品の中では宿題となっていたので読んでみました。んで、全く予想通りでした。感想は有りますが宗教がらみは控えますです。f^^; #読了 #遠藤周作 #沈黙

    0
    投稿日: 2017.06.19
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    切支丹の司教が日本での布教を行うさまを描いた物語。 古い言葉だけでなく方言もまじるため、とにかく読みづらい。話としてはとても重いが、日本観、宗教観を考えさせれる。

    0
    投稿日: 2017.06.16
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    このレビューはネタバレを含みます。

    映画化を機に読んだ。遠藤周作は『海と毒薬』以来。 思っていたよりグロテスクな描写があるわけではない・・・というのは主人公自身も江戸期のキリスト教弾圧について思っていたことでもあるわけだけれども。 そんなわけで読み進めるのが辛い話ということは全然なく、どんどん引き込まれていった。これは凄い

    0
    投稿日: 2017.06.12
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    基督の沈黙も仏教における仏の慈悲も、共に苦しみ泣いて下さる事にのみ存在する。 救いや奇跡とは無縁な厳かさの中に信仰はある。 歳を重ね、其れなりの生きる苦しさも知ってこの本の素晴らしさがストンと心に落ちた。

    2
    投稿日: 2017.06.02
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    17世紀の日本。鎖国政策とキリシタン弾圧により一部の人間以外には世界から閉ざされた社会を舞台としたフィクション作品。キリストは、神は存在するのか、ということが物語の縦糸、日本での隠れキリシタンの生活とそれを取り締まる奉行や役人たちが横糸となっり、司祭ロドリゴを過酷な運命に導いていく。宗教的なことにはあまり関心はないのだが思わず引き込まれてしまった。 「彼等が信じていたのは基督教の神ではない。日本人はこれまで(中略)神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう(中略)日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた考える力をもっていない」

    0
    投稿日: 2017.05.30
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    人が本当に大切にしている支え、信条みたいなものに対し、外から力を加え歪めること以上の罪はないかもしれない。江戸時代のキリシタンと司祭の物語だけど、たった今、世界で日本でおこっている物語でもあると思うとやりきれない。 同時に信仰って何だろう。人の強さ、弱さとは何ではかるんだろうかと考えずにはいられない面白い小説だった。 マーティン スコセッシがどう映像化したのか楽しみ。

    0
    投稿日: 2017.05.23
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    このレビューはネタバレを含みます。

    引用 日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力をもっていない。日本人は人間を超えた存在を考える力を持っていない。 日本人は人間を美化したり拡張したものを神と呼ぶ。人間と同じ存在をもつものを神とよぶ。だがそれは教会の神ではない。 ネタバレあり: 日本でキリスト教が根ざさない理由として、八百万の神という概念から、キリスト教の神もその内の一つとして、一つの超越した存在ではなくその他多くの神と同列に捉えてしまうからではないか、という考えを持っていた。 「沈黙」は日本でのキリスト教迫害の時代の中でもその宗教観を守った人たちの話だと思っていたから、フェレイラが自身のこの結論を司祭に訴える場面は、意外さと自分の中での同意があって衝撃的だった。とても重く、ずっしりと心に残る小説で、読んでよかったけど、その重さゆえにきっと二度目は読みたくない小説だった。

    1
    投稿日: 2017.05.21
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    神の沈黙 神が居るか居ないかは別にしても、心の拠所に宗教があるのだろう。苦しいときにこそ安らぎを与える。自分の都合のよい思いかも知れないが苦しいときにこそ心に問いかけたくなる。

    0
    投稿日: 2017.05.21
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    このレビューはネタバレを含みます。

    信仰とは。人間の強さ、弱さとは。先般、スコセッシ監督で映画になった名作を読んでみた。 全体を通して暗く重苦しい雰囲気ですが、客観的記述と主観的記述がうまく織り交ぜられているので、飽きずに一気に引き込まれて読んでしまいました。 テーマは重いですが、信仰は別にしても自分の生き方について考えさせられる。読んで損はない作品だと思います。

    1
    投稿日: 2017.05.20
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    最近映画化された遠藤周作の原作。島原の乱直後のキリシタン弾圧時期に、日本で棄教したという元師匠の司祭を探し日本の信徒を救うため敢えてポルトガルから遙々日本に乗り込む若き司祭(パードレ、伴天連)の主人公たち。まさにキリストの最後と重なるように進むその運命。結末は読む前から明らかなのだが、目の前で日本の信徒達が処刑されていく中で沈黙を続ける神との主人公の対峙に引き込まれていきます。読み始めてしばらくすると、「あれっ、これもしかしてノンフィクション?」と思わせるような構成で小説は進行していくが、実際にはフィクション。もちろん歴史的な出来事や史実に基き、登場人物にもモデルがいるようだが、著者が描きたいテーマのためにそれらを再構成して重厚なドラマとして描かれています。信仰とは何なのか。なかなか考えさせられる。しかし、映画でポルトガル人の主人公だとかキチジローだとかが英語で喋っているのは台無しだろ、って思ってしまう。

    3
    投稿日: 2017.05.19
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    まず、控えめに言って傑作。 信仰というものにこれほどまで深く迫り、答えを炙り出そうとした著者の並々ならぬ情熱を感じる。 【以下ネタバレ】 沈黙を守り続けた神は、最期の最期になってようやくその沈黙を破る。ロドリゴは皮肉にも神を裏切ったその瞬間に、神の声を聴き、結果として基督教の真髄に達する。 それは大いなる赦しであり、契約であった。基督教の本質は教会制度ではない。司祭という称号を剥奪され、教会から憎まれようとも、キリストの声を聞き、心の中に堅い契りを結んだ彼は、永遠にキリストを愛し続けるでしょう。 そして、バチカンでふんぞり返ってる奴らが捧げる祈りなんかでなく、これこそが真の信仰というものなのでしょうね。

    0
    投稿日: 2017.05.18
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    このレビューはネタバレを含みます。

    「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」(294頁) 「たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。」(295頁) 映画を先に観ました。 神は信徒の苦難になぜ沈黙しているのかという問い。

    0
    投稿日: 2017.05.09
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    師の棄教の真相を求めキリシタン禁制の日本で隠れ祈る司祭ロドリゴはその眼で次々と酷たらしい現実を視る。 その度に異教徒は柔らかい声で転べと囁き 神は固く押し黙っていた。 神の沈黙がロドリゴの信仰に段々と昏い影を落としていく。 彼の心の変移が手に取れそうなほど克明に描かれ...

    0
    投稿日: 2017.05.08
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    【内容紹介】 島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制の厳しい日本に潜入したポルトガル人司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる……。神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、〈神の沈黙〉という永遠の主題に切実な問いを投げかける長編。 とても考えさせられる小説だった。何年かたってまた読み直したい一冊。オススメ

    0
    投稿日: 2017.05.03
  • 信じる者は救われる?

    映画のCMを見て原作に興味を持ち、読んでみました。遠藤周作の本は戦国時代物を読んだ記憶があるのですが、キリスト教関係の本をたくさん書かれていたとは知りませんでした。  この本とは関係なく、日本人ってそれほど神様に頼っていないのではないかと考えることがあります。地震や災害も神様が起こすこと、しょうがないよね、みたいな。  本作を読んで、キリスト教はイエスによる救いをより強く求めている感じがしました(もちろん誤解があるかと思いますが)。主人公の宣教師は色々と苦難にあい、今こそイエスの奇跡が起こるべきだと考えますが、何も起きません。キリストも磔刑の時に「神よなぜ私を見捨てるのですか」と言ったとされています。  そんなに都合のいい救いなんてないよね。と思ってしまう自分は普通の日本人なのでしょうか。  遠藤周作がクリスチャンだったことも初めて知りましたが、さらにこのようなキリスト教徒の受難の時代の、ほとんど救いのない話を書いていたことにさらに驚きました。どういう思いを持って書かれたのでしょうか。他の本も機会があれば読んでみたいと思います。  最後、主人公が心の中で折り合いをつけることができたのが、せめてもの救いでした。

    6
    投稿日: 2017.05.01
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    キリスト教については、教会付属の幼稚園を卒園したことで、割と身近にずっと感じてはいるが、しかしながら自分にとってはどこまで行っても人間が思いついたひとつの思想体系に過ぎないと思っていて、もちろん膨大な年月と人間が信じ、関わってきたものとしてリスペクトするし、茶化すつもりなど全くない。 本書は、遠藤氏自身のキリスト教への説に批判もあるようで、私にとってはそれも踏まえて、信仰がどうこうという角度では読み込むことにならず、むしろ、ひとつの普遍的な宗教の世界の中における(つまり何の宗教でもよかった)、人間の心の強さ、弱さ、についてのみ想いを巡らせ続けながら読了した。 あわせて、小説本編以外についても想うところを少々書き残しておきたいと思う。 ロドリゴ神父の来日後の葛藤と、彼の心がたどった道すじ、が丁寧に描写されていて、また、書簡によるストーリーテリングの部分があったり、構成としても遊びがあって、最後まで飽きることがない。神父が長崎の地を預かる奉行のイノウエと対話していくところが本書のクライマックスだと思うが、日本人によって、外から入ってきた宗教というものがどういう受け入れられ方を当時されていたか、そもそも日本人がどういうものだったのか、も考えさせられる。 それはまさにちょうど今週、巷にはハロウィーンに浮かれる人間が数多く見られ、クリスマスにしても、なんにしても日本人が新しいものをどう受け入れ、取り込んで独自のものにしてしまうか、本書でイノウエが示唆する日本人観と重なっている。 まあ、簡単に言えば、自分の信仰が、本来自分が救うはずの信者を苦しめてしまう状況が作り出されてしまい、棄教すれば信者を逆に救うことになる、という単純な葛藤に囚われて、さてどうする、という問いかけにひとつの答えを与えて、それを筋とした、という小説なのだが、さっきも書いた、書簡形式を差し込む構成や、キチジローという、ロドリゴのシャドウ的な登場人物をわかり易く配置する工夫も本書を読みやすく、また小説としてきちんと成立させている。 どう読んだかというと、だらだらと書いてしまったが、ま、そういうことです。重たいテーマ、と言えなくはないが、どうもビジネス本ばかり読んできて悪い癖がついているのだろう。なんだか、こういうことを言いたいのね、というのを分かろうとするような読み方になりすぎているのかも知れない。ロドリゴにもキチジローにも、誰にも感情移入もなく、ただイノウエというクレバーな奉行の人物像のみ、自分の頭で結び上げたイメージが残っている。 しかし、ものすごく久々に紙の本、文庫本を読んだのだが、やっぱり電子書籍より読みやすいかな。気がつくと、あらら?と思うほどすいすい読み進んでいて、まだまだインターフェースとして電子書籍は紙の本には敵わないかも。それでも、やっぱり読んだ後の保管が困るので電子書籍があればそっちを買うというのはたぶん変わらないが... しかし、これ、ブクレコに投稿しようとしてKindle版があることに気がついて、しまった!と思ったものの、Kindle版の方が100円以上値段が高いので、それならいいかとなるのだが、なんで...?あまり売れない本はKindle版の方が高いのかな? ほんとに垂れ流しで書いたろくでもない文章でしょうがないが、久々に文庫本もよかったし、昔読んだ本を読み返すと、当時の時間や空気を思い出してちょっとウェットな気分になるのも好きで、いいかな。お薦めはしませんが、良本です。

    0
    投稿日: 2017.04.28
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    「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は人間を超えた存在を考える力も持っていない」 「基督教と教会とはすべての国と土地とをこえて真実です。でなければ我々の布教に何の意味があったろう」 「日本人は人間を美化したり拡張したものを神と呼ぶ。人間と同じ存在をもつものを神と呼ぶ。だがそれは教会の神ではない」 「あなたが20年間、この国でつかんだものはそれだけですか」 「それだけだ」フェレイラは寂しそうにうなづいた。(236p) 映画を観たので原作を紐解いた。どうしても確かめたかった点があったからである。それは後述するが、フェレイラとドロリゴの対決場面や井上筑前守との対決場面は、基本は映画と同じで流石に詳しく描かれていた。 この会話は、加藤周一の「日本文化史序説」を読んでいる私には頷く所の多いものだ。日本の「土壌(文化)」には、確かにそれがある。しかし、それと日本人一人ひとりにその能力が有るか無いかとはまた別問題であるし(実際に「ホントの神」を信じた宗教家は何人かいる)、ましてやそういう文化的土壌があるからといって、人間の思想を権力が強制・弾圧するのは言語道断ではある。と、370年後の私が言っても仕方ないのだが。スコセッシ監督は、台詞をかなり選んではいるが、原作にかなり忠実であったことを確認した。問題のキチジローの描き方も、彼の存在そのものの解釈は様々に出てくるかもしれないが、基本的原作に忠実であった。 「主よ。あなたがいつも沈黙しておられるのを恨んでいました」 「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」 「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせと言われた。ユダはどうなるのですか」 「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」(294p) 私の解釈は、キチジローはやはりロドリゴの揺れる心の分身であったのだ。 映画ではロドリゴの日本人妻が彼の葬式時に密かに聖像を含ませた。紐解いて確かめたかったのは、これは原作にもあるのか、ということだった。「あれは妻を教化するほど、信仰を捨てなかったことだろう。あの場面の意味をどう考えるか、でこの作品内容は大きく変わる」という映画仲間もいたほどだ。結論からいえば、あれは映画のオリジナルだった。しかし、 聖職者たちはこの冒瀆の行為を烈しく責めるだろうが、自分は彼らを裏切ってもあの人を決して裏切ってはいない。今までとはもっと違った形であの人を愛している。私がその愛を知るためには、今日(こんにち)までのすべてが必要だったのだ。私はこの国で今でも最後の切支丹司祭なのだ。そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた。(295p) このラストのロドリゴのモノローグを映画的映像に「直した」のが、あの場面であったことがわかるのである。 無神論者の私が映画の時に感じた「一般的な思想弾圧」に対する感慨は、原作の時には微塵も感じることができなかった。純粋にキリスト教について、私は様々な感慨を持った。そしてそれこそが、おそらく小説と映画との違いなのだろう。 2017年4月13日読了

    17
    投稿日: 2017.04.23
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    昔昔、大学生のころ読んだはずですが、あまり詳細には おぼえていませんでした。 その時も心の痛みというか、重い感じが残ったこと については非常に覚えています。 今回も、引き込まれるように読んでいきましたが、やはり 感情が震える感じ、暗闇の大きさと重さを感じてしまうような想いになりました。 人の弱さ、正義とは、善とは、悪とは、それらの苦悩、信仰とは・・・ 映画も見に行きたいと思います。また、大学生のころに 著者の本をいろいろ読んだのですが、あらためて 再読してみたいと思います。 『海と毒薬』『白い人黄色い人』『砂の城』『留学』『私が棄てた女』・・・

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    投稿日: 2017.04.22
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    以前、とある新聞の書評で映画との違いについて、書かれていたので、映画も見ていないにもかかわらず、読んでみました。 やはり宗教は重いですね。遠藤周作氏がキリスト教を信仰しているせいか、キリスト教における「神」とはなんなのか、「信仰」とは何なのかを、深く考えさせられる本でした。 ある程度、キリスト教について知識を得ていたからなのかもしれませんが、もしキリスト教に対する知識がなかったら、そこまで考えさせられることもなかったのかもしれません。自分は、物事に対してそこまで熟考しているのか、まあお気楽に過ごしていますね。

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    投稿日: 2017.04.19
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    布教のため、師を追うように日本に渡る司祭ロドリゴは、キリスト教狩りが盛んな日本において棄教に走る。それまでの事柄が非常に陰鬱としており、それが彼の信仰の強さを際立てている。作中で、奉行の井上が多用する泥沼という言葉が非常にしっくり来る作品だった。泥沼のように暗く、陰鬱とした世界観にどんどん引き込まれた。

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    投稿日: 2017.04.19
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    外海の遠藤周作文学館で購入。映画を見た後に、高校生以来の再読。 「踏んでもいい」が強烈で、一つの解釈。ユダに対する「去れ、自分のなすべきことをしろ」が映画にはなかった部分で、スコセッシ監督は気に入らなかったか。

    0
    投稿日: 2017.04.16
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    読み手に神の存在を問う作品だと思う。 敬虔なる神父が日本に布教に行き、しばらくして行方不明になった。どうやら信仰を棄てたらしい。 尊敬する恩師を捜すため、日本に渡った彼が 見たものは、弾圧されながらも信仰を棄てない百姓たちだった。 物語は、彼らを救うため信仰を棄てるか これも与えられた試練だと、目をつぶるかでクライマックスを迎える。 この時代の日本の貧しさ、不衛生さが、臭いがしてきそうなほど赤裸々に描かれている。

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    投稿日: 2017.04.13
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    いやーすげー時代だな。神ねぇ。。などと思いながら読みましたが、宗教の問題は現代でもあるよな。とも思いました。

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    投稿日: 2017.04.09
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    生きるとは何か、愛とは何か、宗教を信じるとは何かを考えさせられる重い本であった。司祭ロドリゴが日本人信徒に加えられる残忍な拷問とうめき声に接して苦しみ、背教までしてしまいそうになる話だ。何故神は沈黙したまま助けないのだろうか?カトリックの普遍性とは、この国は沼地・根が腐り始める・穴吊りは考えられないこと、棄教せざるをえない=踏み絵を踏まされる、翻って我々の人生でもひどい仕打ちを受けることはいくらでもある。その時にどう立ち向かって希望を持ち続けられるか考えさせられる本であった。

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    投稿日: 2017.03.26
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    時代はキリスト教が禁止されていた江戸初期、島原の乱鎮圧から間もない頃の日本の話。読み始めるとすぐに引き込まれてしまい、あっという間に読み終わった。 キリスト教の弾圧が激しくなった日本へ、宣教師が師を探すため日本を訪れるが、そこでは主人公や日本人の信徒の様々な葛藤、苦悩が描かれている。「弱い者が強い者より悩んでいないとどうして言えるのか」「この時代じゃなかったら自分も善き信徒でいられた」といった言葉が心に残り、神について考えさせられる作品だった。 棄教より死を選ぶ信徒達の意志、想いが自分には想像できず、ショックを受けたと同時に、現代の社会に思想の自由があることがとても幸せに感じられた。 信仰とは何か、また葛藤、苦悩に自分自身共感する箇所もありとても胸が苦しくなったが、心に残る名作。

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    投稿日: 2017.03.21
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    マーティン・スコセッシの映画に感動したので読んでみました。 原作も感動的な作品でした。 映画を観た原作派の中でも「原作通り」「原作と違う」と意見が分かれていたのでとても興味がありました。私は、必ずしも原作通りではないけど、うまく商業映画作品として映像化してるなぁ、って思いました。 もう一回映画がみたいなぁ。

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    投稿日: 2017.03.18
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    このレビューはネタバレを含みます。

    平成29年3月  ちょっと前に映画で上映され、映画は見てないけど、内容は気になったので、読んでみました。 読み終わったら、映画見たくなった。でももう上映終了でした・・・。 司祭がポルトガルからはるばるキリスト教が禁教となっている日本に来て布教をする。って話。 なんでわざわざ禁教の日本に来るのかなって思ってたけど、日本にいるキリスト教(隠れてる)の信者にコンヒサンを与え、信者を救うためだったんだな。 「元々のキリスト教の神は、日本人の心情のなかで、いつか神としての実体を失っていった。」 古来からの多神教的な新教、仏教を信じる日本人が心の底から一神教であるキリストを信じれないだよね。キリスト教が農民まで浸透すればするほど、唯一新である神が違うものになっていっているんだろうな。 最後の踏み絵のシーンが泣ける。 心が痛いね。 踏む瞬間、私はお前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛さを分かつため、十字架を背負ったのだ。と踏み絵のキリストが語る。 キリストと同じように裏切られ、捕まりしても、結局は、キリストが神で司祭は司祭でしかない。キリストは許してくれる。すべてを許してくれる。ってこと。 本当の最後、 救いを求めても、神は助けてくれない。 沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのだ。 裏切ったことに対して、 ユダに去って、なすことをなせと言ったが、ユダはどうなるのか。 同じように踏み絵により、お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから。 強いものも、弱いものもない。強いものより弱いものが苦しまなかったと誰が断言できよう。 ・・・安心して、行きなさい。 と結局は、神はすべてを許してくれる。ってこと。

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    投稿日: 2017.03.17
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    2017.03.15読了 キチジローの言動に軽蔑したり共感したり、この人の存在がおもしろくしてくれた。キリスト教の話を仏教のことばで例えると怒られそうだけど無情を感じてしまった。

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    投稿日: 2017.03.16
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    キリスト教が弾圧されていたころの日本を舞台とした小説。知らぬ間に映画化までされていて驚いた。 神の沈黙という非常に難しいテーマを描いた素晴らしい作品だった。激しい弾圧の中、多くのキリシタンが命を落としていくのを目にした司教は、彼らを救おうとしない神をだんだん信じられなくなっていくのだけれど、単純に「これだから神なんていないんだ」という結論に至るのではなくて、それでもどこか違う場所、違う形での神を見出す司教ロドリゴの心の揺れ動きが繊細に描かれていた。これが宗教の本質かあという気がしなくもない。面白かった。 やはり遠藤周作の作品は好きだな、重い雰囲気の中で人々が葛藤する様は、読んでいて心動かされるものがある。

    0
    投稿日: 2017.03.16
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    言わずと知れた名作。 面白いとか面白くないとかは、もはや関係ない。読んだ方がいい。 すべての事象に意味があり、主人公が精神的に追い詰められていく様は見事。すごい完成度。 ただちょっとモヤっとするのは、最後の主人公の精神状態がよくわからない。 神はいないのではないか?とまで考え始めていたのに、んでもって結局棄教したのに、この国で最後の切支丹司祭とかキリストを愛しているとか言ってるし。 無神論者にはわからないものなのだろうか。 あと、キチジローにもっと優しくしてあげて…!

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    投稿日: 2017.03.14
  • 神の沈黙

    普遍的なテーマを扱っているせいか古びていない。簡潔でたしかにドラマチック、読みやすい小説でもある。 特に信仰のない身には「神の沈黙」は他人事ではあるが、この不条理な世界で寄る辺もなく一人きりであるという恐怖は信仰にかかわらず普遍的かつ根源的だと思う。

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    投稿日: 2017.03.12
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    同名の映画を見たあとで読んだ。 重い作品なんだけど、強く引き込まれて、ページをめくり続けてしまえる。 いい作品。

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    投稿日: 2017.03.09
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    切支丹禁制下の日本に潜入したポルトガルの若い司祭ロドリゴたちが最終的には捕らえられ,以前に棄教したフェレイラと会って,彼と同じように棄教してしまう話だが,二人の会話が最重要点だろう.「日本人は人間を美化したり拡張したものを神と呼ぶ,人間と同じ存在をもつものを神と呼ぶ.だがそれは教会の神ではない」とフェレイラから告白されたロドリゴ.この言葉は現代のキリスト者に著者が投げかけいるのだろう.井上築後守との議論も面白かった.キリストの受難とリンクしながら自分の立場を考えているロドリゴ.ユダに似せたようなキチジローの存在も良かった.

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    投稿日: 2017.03.09
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    映画もみたけど遠藤周作の原作”沈黙”では、映画では伝わりきれなかったエッセンスがあったと感じた。ちょうど、フェレイラと司祭とが対面するあたりに、現代社会に置き換えて、日本人には理解できても、外国人には全く理解できない側面とその理由を一言で言い表しているような象徴的な台詞があった。映画も良いが原作は本質的な問いを生み出す素晴らしい本。

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    投稿日: 2017.03.04
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    今年の合唱定演でカクレキリシタンの歌「おらしょ」を歌うことになり、、ちょうどタイムリーにマーティン・スコセッシ監督の「沈黙ーsilenceー」が公開。鑑賞したところ物凄く圧巻だった為、原作を読みたくなり購入。 定演前日に読了した。 映画に衝撃を受けたが、原作も活字にするとますます細かく描写されている部分があり、、

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    投稿日: 2017.03.03
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    沈黙を読むのは3度目だ。 昨日映画を見て、今日はそれについての解説の講座を受けるので、原作もあわてて読んだ。 映画は原作にとても忠実に作られていた。 この小説についての講座も受けたことがある。この作品はいろいろと考えさせるので、語りたい、語ってもらいたい作品なんだろう。 ストーリーは割と単純だと思うのだけれど、何度でも読めるのは、なぜだろう。 ちょっとスッキリしない感じがいいのだろうか。

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    投稿日: 2017.03.02
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     時は江戸幕府3代将軍家光の時代、1637年に勃発した島原の乱鎮圧から間もない頃。キリスト教の弾圧が一層激しくなった日本へ向けて、信仰の火種を絶やさないため、そして師であるフェレイラ神父の安否をたずねるため、セバスチャン・ロドリゴ司祭は同僚とともに出発した。北九州地方(長崎?)にあるトモギ村へ漂着した二人は、そこでキリシタン迫害の現実を目の当たりにする。弱き百姓である日本人信徒たちへの拷問の末にあるのは、踏絵による棄教か虐殺による殉教のどちらか。キリシタンがいることを密告した者には報酬が与えられることから、隠れながらの布教もままならない。ついに囚われてしまったロドリゴは、棄教しなければ日本人信徒が殺されていくという状況に置かれてしまう。棄教を是とせずに、また棄教しても司祭が棄教しないがために、多くの信徒たちが残虐な拷問の末に殉教していく。そんな悲惨な状況でも彼らの信ずる神が沈黙し続けることに、ロドリゴすらも主の存在への疑いが頭をかすめるのであった……。  読んでいて、日本人としてとても胸が痛くなった。全てが事実ではないことはわかっているのだが、史実に基づいて書かれたものであり、同じような状況が当時の日本で起こっていたのであろう。百姓である日本人信徒たちがあまりにも哀れで救いがない。神をまっすぐに信じる司祭たちのちぎれそうになる胸の内も想像できる。  だが、私が日本人だからだろうか、異教を排そうとする当時の日本人側の考えも理解できなくはない。というのも、宗教を押し付けてほしくないという現代日本人の宗教アレルギーが反応しているのだろう。統治する側としての不都合も理解できる。日本に勝手に変な思想を持ち込むなと反発する政府側の考えも理解できてしまうのだ。だが、かといってあの拷問や虐殺はやり過ぎだと思うが…。  それにしても、自身もキリスト教信徒である著者が、「神の沈黙」というテーマで本作を描いたことが驚きである。一歩間違えれば神への冒涜。著者である遠藤周作は、日本人として、キリシタンとして、日本のキリスト教徒迫害を見つめ、史実に残るポルトガル人背教司祭の心中を推察し自分なりの答えを導き出したのであろう。  その筆力は読者を圧倒し、私は束の間、息をすることさえ忘れていた。

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    投稿日: 2017.02.27
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    2人のポルトガルのキリスト教司祭が、日本での布教と棄教したという噂の師を探すため、キリシタン弾圧の厳しい鎖国日本へ渡るが間も無く捕らわれ、拷問、果ては棄教に追い込まれる話です。 当時、厳しい年貢の取り立てのため心身草臥れるまで働かされていた日本人信者たちにとって神様を信じることは、彼らの唯一の希望だった。だとすれば棄教は死に取って代わるほど耐え難いことなのかもしれないと無宗教の私でも想像できます。しかし彼らの信仰する神は、デウスから変容して得体の知れぬものとなってしまった偽物の神様であり、日本人には人間から離れた神という存在を信じるだけの力が無い、ということでした。だとしたら信者たちの壮絶な殉教や祭司たちの命懸けの布教は、無意味なのか。教会からすれば間違った信仰なんだろうけど、しかし彼らもまっすぐに神様を信じていました。私にはそれが間違いなのかどうか分かりません。踏み絵中のキリストは、踏むがいい。と喋ります。神は沈黙していなかった。その時、神様は彼だけの神様になったんだと思いました。私も自分の信じる神様を裏切ることのないよう生きていきたい。

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    投稿日: 2017.02.25
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    今月の猫町課題図書。中学校だか高校だかの課題図書になっていたのを読んだきりなので、おそらく四半世紀ぶりくらいで再読。「とにかくずっと拷問にかけられて、最後には『転ぶ』宣教師の話」という記憶しかなかったのだが、実際には主人公が拷問にかけられることは一度もないのであった。うーん、記憶とは、いい加減なものだな。 しかし、全編を通して陰鬱な話であることに変わりはなく、江戸日本におけるキリスト教の(偽りの?)受容と迫害を想像力豊かに描いて秀逸なテキストであるとは言え、喜んで読みたい類の本ではない。やっぱり遠藤周作は狐狸庵先生エッセイが面白く、キリスト教小説は今一だな。

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    投稿日: 2017.02.24
  • キチジローをどう見るか

    キチジローは、キリシタンでありながら、何度でも踏み絵を踏み、それでも信仰を捨てず、司祭についていく。 ズルいとか、弱いとか、そう見るのは簡単だが、作者はそうは見ていないのだと思う。 司祭は言う「あのキチジローと私とにどれだけの違いがあると言うのでしょう。」 人間は、誰もがそれぞれの人生を、悩みながら苦しみながら、少しでも良かれと思って生きている、そのことを作者は大きな愛で包んでいる。 暖かい本である。

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    投稿日: 2017.02.24
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    マーティン・スコセッシ監督の映画で、消化不良だった日本側の考え、フェレイラ神父の葛藤がよく分かる内容だった。 なぜ神は沈黙しているのか。答えはわからないままであるが。

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    投稿日: 2017.02.20
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    巨匠マーティン・スコセッシ監督が 原作に感動し、構想を温め続けて28年。 ついに映画化に漕ぎつけたことで 話題になっている映画「Silence 沈黙」 が公開されている。 映画を観る前に と思って原作を読んだのだが 原作でお腹一杯になってしまった。 映画は多分観ないと思う。 というよりも 辛すぎて観られない。 「白い人」のレビューにも書いたが 私は無信仰、無神論者なので 信仰を棄てる苦しみというものを 理解はできるものの実感ができない。 ローマ教会は芸術や建築を生み出すという 歴史的に大きな役割を果たしたが 航海術とともに「布教」に乗り出した 傲慢さが私にはどうしても理解できない。 特に 南アメリカ、アフリカなどで 行った血なまぐさい悪魔の所業が 「神の名のもとに」「民を救う」ために 行われたことは 消そうにも消せない 人としての罪だと私は思っている。 もちろん 平和的な布教のおかげで 救われた者たちは多いだろう。 だが切支丹が禁制になった国で パードレ=司祭たちができるのは 民に神を棄てさせることだけだ。 デウスもキリストも 民を救うことなど できないのである。 だから背教者フェレイラは言う。 「今まで誰もしなかった 一番辛い愛の行為をするのだ」 フェレイラはまたこう言った。 「日本は沼地のようなもので どんな種も根付かない。 どんな神も違う形になってしまう」 日本とはそんな国だ。 平たく言えば  パンやラーメンやカレーやスパゲッティ。 外来のものをあっと言う間に自分たち流に アレンジしてしまうのが日本人なのである。 司祭ロドリゴはキリストの言葉を ひたすら待ち続けるが キリストは沈黙を続ける。 当然のことと私は思う。 なぜなら 神というものがあるとすれば それは私たち一人一人の中にあるからで だからこそ ロドリゴが踏み絵に足をかけた時 キリストは言うのだ。 「踏むがいい」 この作品は 遠藤氏のテーマ 「日本人でありながらキリスト者という矛盾」が 見事に描き出されているが 信仰という「心の軸」が崩壊していく様と そこに巻き込まれる人間の哀れな姿が 踏み絵の上の足跡のように 私の心の奥にしっかりと残った。 実は私にとってこの本が初の遠藤周作作品である。 読んでよかったと思う。

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    投稿日: 2017.02.20
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    映画は見ていないが原書がなくなった祖父の本棚にあったのでもらってきた。 鎖国時代の日本のキリスト教の弾圧という背景に合わせ、単なる宗教の話ではなく、人間のずるさ・弱さとの葛藤が描かれている。

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    投稿日: 2017.02.18
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    もう何度読んだだろう。映画が公開され、見る前にもう一度小説を読んでおこうと思い数年ぶりに本棚から引っ張り出した。クリスチャンの間でも遠藤周作については賛否両論がある。ちゃんとした信仰じゃないだとか、神を冒涜してるだとか。今回沈黙を再読し、彼の信仰は本物だと感じた。人間はどこまでも弱く悪い存在である。その弱さと神の教えの狭間でもがき苦しみながら生きていくのが人間の一生なのではないか。最後神は沈黙していたのではなく、共に苦しんでおられた、という一文に遠藤周作が一生をかけて見つけた、彼なりの信仰が垣間見えた。私も本を読んでその答えが正しいのかもしれないと思った。神は絶対に見捨てない。沈黙されているように感じても、いつも共におられる。信じるか信じないかは個人の自由だけれでも、信じることが信仰なのである。

    3
    投稿日: 2017.02.18
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    このレビューはネタバレを含みます。

    実話に基づく話のようで驚いた。 キリスト教の布教については、島原の乱と踏み絵位の知識しか無かったが、キリスト教弾圧下の布教が如何に過酷で、その当時の宣教師への仕打ちがどれだけ酷いかを知る事が出来た。 主題として、神の存在そのものが語られている。キリシタンが拷問にかけられ殉教していく中で、神は沈黙したままなのはなぜか、ロドリゴは問うている。作中後半で、神は沈黙していたのではなく、共に苦しんでいたという解釈に変わったが、それは違うと思う。神はそもそも存在していないから、沈黙しているのだ。司祭というのはキリスト教を布教することに一生を捧げた人たちだが、拷問によって棄教を迫られ、棄教後も日本人の仏教徒としての生活を強要され、それまでの自分の否定を強制されたというのは、穴吊りという拷問と同じ位の酷い仕打ちだと思った。穴吊りに耐えて殉教した宣教師がいるというのも驚きだった。

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    投稿日: 2017.02.13
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    映画「沈黙−サイレンス−」鑑賞後にこちらの原作も読みました。 あらためてよくできた映画だっただなと思いました。 小説から心理描写や情景をより理解できたので楽しめました。

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    投稿日: 2017.02.13
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    日本人が受け入れたキリスト教は本来のものとは異なるもの。彼らは祭司たちのために死んでいった?司教の中の弱さ、傲慢さ(教えるだけで学ばない)にスポットをあてつつ、弾圧の様子を描く。confessさえすればいいのか。赦しに甘える人の存在とは、愛とは、真理とは。題材は面白いが、いまいち山場もなく。。

    0
    投稿日: 2017.02.12
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    2017/02/17 キリスト教弾圧下の江戸時代、ポルトガルから来た司祭が捕らわれ、棄教させられるまでの話。 パードレのロドリゴと彼を売ったキチジローがキリストとユダに重ねられている。自らの弱さ故に踏み絵を踏み、司祭を騙したキチジローは、別の時代に生まれていたら、もっと強ければと、タラレバを繰り返し謝罪する。そんな男を始めは軽蔑していたロドリゴ司祭だが、最後に自分も踏み絵を踏まされることになり、自らもキチジローのように弁解じみた言い訳をしていることに気付く。 日本には古来から仏教があり、今更キリスト教を教えるなどありがた迷惑なのだと奉行は強調する。 遠藤周作自身も中学生のときに洗練を受けたものの、ありのままのキリスト教が自分には合っていないのではと、迷い苦悶してきた経験が文中の言葉に溢れ出ていた。

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    投稿日: 2017.02.12
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    どうだろう、この圧倒的なドラマは。 恐らく20年以上ぶりくらいの再読だったが、その時に感じた畏れと痺れを思い出した気がする。キリシタン弾圧下の長崎に潜伏した宣教師の絶望と痛み。江戸時代の風景描写も痛々しい心象描写も、これでもかと描く筆力に舌を巻く。 信仰とは何か、我々はなぜ神に祈るのか、そしてどうして神は沈黙し続けるのか。 本作は、あくまでキリスト教という宗教思想下に於いてではあるが、古来ヒトの根源的な苦しみを余すところなく描いていると思う。 そしてやはり最後、かの宣教師は救われたのであろうと思う。

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    投稿日: 2017.02.12
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    苛烈なキリシタン弾圧が行われていた江戸時代初期に、日本人信徒の救済と高名な神学者が棄教した情報の真偽を確かめることを目的にロドリゴら3人の司祭が日本に密航して、という話。 むごたらしい現実を前に、神はなぜ沈黙を守るのか。この問いを通してロドリゴはキリスト"教"から離れキリストに近づいたのではないかと感じた。孤独な人にただ寄り添う、これがキリストの本来の姿ではないだろうか。 ところで、キリスト教が仮に禁教でなかったら日本はどうなっていただろうか。司祭らの言動から、私は暗い想像しかできなかった。

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    投稿日: 2017.02.12
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    鎖国時代の日本が舞台。ポルトガル司祭ロドリゴは、踏み絵を踏んでも、踏まなくても、キリストのようにはなれない。どちらを選択しても、誰かが犠牲になるという状況にある。どちらにせよ彼は神から許される存在であり、当時キリストのユダに対する思いというものを知っていく。主人公も所詮ひとりの人間であり、神にはなれないことを思い知らされる。その葛藤、心理描写がドラマティックに描かれている。 あと気になったのは周りの日本人から「形だけでもいいから踏んじゃえば、丸くおさまるんだから」と踏み絵を踏むことを勧めるのって、現代でもあるけど、あまりにも日本的だなあ〜と感じて面白かった。 映画はまだ観てないけど、観に行こうかなと思ったなあ。

    1
    投稿日: 2017.02.11
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    宗教、信仰について江戸時代に生きる人びとの視点から書き出した作品。小難しそうだと思われたが、案外読みやすい作品だった。島原の乱以降の江戸に生きる人にとっての宗教と信仰のあり方について掘り下げられていて、そこから見える本質を突いているという印象である。その中で司祭が人々の信仰心にどう伝達していけば良いのかなどの苦悩が垣間見え、宗教と人の考えの相違による苦悩、その狭間で揺れ動くものなどが感じられ、共感できる部分だと思う。基督教の歴史背景や、その中に渦巻く感情、スリルさ、宗教の新たな側面も体感できる。

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    投稿日: 2017.02.11
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    このレビューはネタバレを含みます。

    いわゆる"神の沈黙"をテーマに扱った作品は遠藤以降もいくつも著されているが、昭和初期の日本で洗礼を受けた信徒の立場から、成長の過程で感じてきたであろう様々な葛藤や疑問を真っ直ぐ見据えて書きつけられているという点で、やはり今作は一線を画する。 基督教とその神に帰依しても、直截的な救済が訪れることのない弱き人々の憤懣と諦念を忠実に代弁している一方で、古来より八百万の神を信じてきて、しかも宗教的に極めて可塑性の高い日本という風土において、かの一神教が根ざすことがいかに困難であるか、それに対する著者の苛立ちのようなものも込められている。 それでいながら最後は、キリストのユダに対する言葉を上手くロドリゴの心情と絡めて昇華することに成功しており、著者は決して基督教を諦めているわけではないこともよく分かる。 こうした思いがさらに時を経て、後年の「侍」といった作品につながっていくのだなあ、と推察してみるのも興味深かった。

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    投稿日: 2017.02.08
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    ここに登場するキチジローという卑怯者の苦しみは 例えば、家族を裏切って社会主義に走った津島修治の苦しみであり 否応なしにマイナー信仰を押し付けられた二世信者の苦しみでもあり あるいは、東西に良い顔をしなければならなくなった 戦後日本の、ある種の屈託と読み替えることもできるだろう だが… 「沈黙」は、伴天連キリシタンの棄教・転向に至るまでを描いた小説で その主人公たちには、けして敗北を認めない頑なさがあるのだけど しかし当時の日本にも 表向きの妥協さえ受け入れるなら その頑なさを黙認する程度のおおらかさがあったのだった それは、芥川龍之介のキリシタン小説に通じるもので 南アフリカにおけるリベラリストの敗北と転向をコント風味に書いた クッツェーの「恥辱」などとは似て非なるものなのだが キチジローの存在がかえってそのことを わかりにくくしている点は否めない ちなみに この小説の舞台となった時代、フランスにおいては ルネ・デカルトが神の存在証明を迫られていた

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    投稿日: 2017.02.08
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    歴史としては知っていた事柄を、考えもしなかった方向から見せられた。 同じものを信仰していると疑いなかったのに、彼我の神が違うものであるという示唆に感じるのは、圧倒的な孤独、断絶だ。 それは多神の世界観でなら当然の摂理だが、そうでないならば、どれぼど絶望的な溝だろう。 独善的な側面を拭えない宣教行為と、自己犠牲なのか陶酔なのか判別のつかないロドリゴ達の行動が百姓達を殺していく。殺していると思ってしまう。 しかしながら、苛烈な年貢と社会体制への疲弊も殺人的なほどなのだ。 泥沼、と思ってしまう。 踏絵の肖像はユダを赦す。心の痛みに共感し、解放する。弱さを抱えて屈する時、それでも許される歓びを知るのは弱い者だけだ。 弱い者のためにカルヴァリーの丘を登る人。 どんなに醜く弱き者でも赦しの中に取り込んでいく、その構造もよっぽど沼沢地だ。

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    投稿日: 2017.02.06
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    遠藤周作昭和41年の作品、このたび映画化され1月21日より公開されています。先日映画を久しぶりに観に行った時に知って、興味を持ったので購入しました。 話は島原の乱が鎮圧されて間もない頃、キリシタン禁制の日本に潜入した司祭ロドリコ。日本に上陸した時は、信者との連絡はとれたものの捕まり拷問を加えられ、最後に背教(「転ぶ」と表現されている)させれてしまいます。 そうなるであろう必然性をある意味感じさせながら、主人公の心の内側に入り込んでいく展開は、読むものをぐっと引き込む力を持っていると思います。根源的なテーマを突きつけた中身は、他のことにもつながると感じました。 映画の中で、どんな風に表現されているか、楽しみですね。 ぜひみなさんも読んでみてください。

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    投稿日: 2017.02.05
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    最初は中々読み進められなかったが、ロドリゴが捕まり執拗に”転ぶ”よう迫られ追い詰められていく心の葛藤の描写に圧倒され、一気に読み終わった。

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    投稿日: 2017.02.04
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     一人の農民がキリストの教えを捨てることを拒み死んだ。最期までの神の奇蹟を信じ、パライソへ導かれていくことを信じて。  その光景を目の当たりにしていた司祭は疑念を抱く。  海辺に打ち捨てられた死体は、まだ息をしていたときの姿と変わっていない。ただ動かなくなっただけだ。波が押し寄せては、また引いていく。海鳥が鳴いている。日常で繰り返される、ごく普通の、自然な風景が目の前に広がるだけだ。  殉教者が現れたというのに、なぜ神は何も語らないのか。  彼は数々の奇蹟を信じていた。殉教し列聖された聖人たちの最期には必ずや神の祝福があったはずだ。  今はなぜ奇蹟が起きない。なぜ世界はなにひとつとして変わらない。 農民だからか。聖職者でなければ奇蹟は起きないのか。  数々の疑念が司祭の頭をよぎる。  神よ、なぜ何も答えてくれないのですか!  彼の頭にある人物がよぎる。  役人どもに恐れをなし、仲間を裏切り、いとも簡単にキリスト教を捨てた(転んだ)のに、いまだ司祭の後を追ってきては、罪の告解を求めるキチジローだ。  キチジローは言う。自分は弱い人間だ。だから脅されれば簡単に転ぶ。でも強い人間だけしか信仰をしちゃいけないってことじゃないでしょう? 弱い人間がキリストを信じてはいけないのですか。 司祭の答えは如何に・・・  あらゆる宗教における根本的な矛盾に対して、疑念をはさむ人間の葛藤がとてもドラマティックだった。   ある神仏を信仰している信者に対して、いま苦しいのなぜですか、との問いには祈れば楽になるといい、楽になったら祈りが通じたからだと説く。苦しみがいつまでたっても取り除かれないときは、死後の救済を約束する。  キリスト教もイスラム教も仏教も、その辺はそんなに変わらない。  答えが正しいかどうかなんて証明しようがないのだ。信じるしかないのだ。 神や仏に答えを求めたときには、もうすでに聖職者ではないのかもしれない。 物語の最後に司祭が出した答えに対して、正しいかどうかの判断なんて、それこそ神でしか下せない。  そんなに厚い本でもないのに、詰め込まれているテーマは重厚だった。  映画も見ようかな・・・

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    投稿日: 2017.02.02
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    このレビューはネタバレを含みます。

    遠藤周作『沈黙』新潮社1966  遠藤周作(1923-1996)の作品で、タイトルのイメージから、キリスト教に関する内容がテーマであろうと想像はしていた。しかし、本書は単なる「神の沈黙」を描いた作品ではなかった。  もちろん、作品中で主人公とその友人たちは、様々な苦難に直面する。絶体絶命の状況下で、(キリスト教における)「神」が、なぜ救いの手を差し伸べない(何もしない=沈黙している)のかを問う。それは神に選ばれし者が、神に与えられた「試練」なのか?「見せしめ」なのか?それとも・・・。  キリスト教徒にとって神の存在を否定することは、自らの信仰を失うことになる。神への信頼と疑問。様々な葛藤の末に、主人公がたどり着いた境地とは・・・本書は、ある信仰者の内面的葛藤を描いた「回想録」である。  ちなみに『沈黙』というタイトルは、著者自身が付けたものではない。元々は「ひなたの匂い」というタイトルで脱稿した作品であり、後日に出版社からの意向を受け、タイトル変更したものである。(遠藤周作『沈黙の声』プレジデント社 1992)しかし、この「ひなたの匂い」という「原題名」に親しみを感じるのは私だけだろうか?  著者の代表作とも言える本作を読み進める中、主人公が自らの信念や信仰心が問われる瞬間は、私も本気で悩んでいた。読み応えのある一冊だった。 【備考】 遠藤周作『沈黙』新潮社 1966  *純文学書下ろし特別作品 第2回谷崎潤一郎賞・受賞 1966 映画『沈黙〜サイレンス』 2017

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    投稿日: 2017.02.01
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    【普遍的な宗教小説】 神はなぜ黙っているのか。いくら願っても、祈っても、神は絶対的な沈黙しか返してこない。答えは自分の胸の内に探すしかないのだ。

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    投稿日: 2017.01.31