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総合評価

872件)
4.3
378
278
128
13
0
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    このレビューはネタバレを含みます。

    神の沈黙に深く切り込んだ作品でした。私には信仰しているものはありませんが、主人公の信仰心には共感出来るものがありました。1度疑ってしまうと完全には疑いが晴れない悲しい現情をよく示していて、主人公が牢屋の中で「神がいないとしたら」と仮定してしまうところがとても悲しかったです。そして日本人にとってのキリスト教は、最早本当のキリスト教では無いということも胸が苦しかったです。生きる救いだったものが重りになってしまうそんな悲しいお話でした。悲しいだけではなく考えられるようになっているのが素晴らしかったでさ。

    1
    投稿日: 2021.04.14
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    赦し、保護、イスカリオテなど聖書を連想させる内容がいたるところに。 押し付けがましくない乾いた文体が素晴らしい。

    0
    投稿日: 2021.04.10
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    人は迷い、神は沈黙を保つ。信仰とは何か考えさせられる。神は存在するものではなく、信じる側が存在させているのだろうと思った。

    2
    投稿日: 2021.03.26
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    キリシタン禁制の厳しい日本に潜入したポルトガル司祭の苦悩を描いた傑作である。かつての日本の農民やそれ以下の扱いをされていた者たちの心の苦しみをキリスト教が救ったことやそれにより起きた島原の乱により、キリシタンへの取り締まりが厳しくなっていった中、敢えて日本に潜入し、布教(正確には既にキリスト教の洗礼を受けた隠れキリシタンへのミサ)した司祭の信仰心の揺らぎ等、当時の状況がいかに酷かったかが伝わるだけではなく、キリストが裏切り者ユダに対して取った行動の深淵に迫る等、今まで知らないで(敢えて知ろうとせず)にいた様々な事がわかり、心が大きく揺さぶられた。父が生前最後にキリストの洗礼を受けた事が、自分の中ではずっと疑問であり、敢えて宗教とは遠いスタンスをとって生きてきたが、単なる無知でいた事がはっきりした。上面だけで取り繕い生きてきた自分ともきちんと向き合う事の大切さを実感した。

    1
    投稿日: 2021.03.08
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    このレビューはネタバレを含みます。

    異国の地からやってきた司祭ロドリゴ。 彼が命を懸けてまで布教したかったもの。 淡々と描かれる日々の中で彼が目にした、切支丹たちが殉教していく様子。 なぜ主は何もしないのか。なぜ沈黙しているのか… 私がここで「転ぶ」と言えば、助かる人々がいる…でも言わないのは、自分の心を救いたいからではないのかと問われ… 一体、誰が背教したフェレイラを、そして殉教していく人々を見ていたロドリゴを責められよう。 出来るとしたら、それは主だけだろう… でも、主は責めることはしない…それが本人たちには辛いのではないか、救いはないのではないか。 そう考えると、フェレイラやロドリゴのそれからの見方が変わってくる。 終盤にいくに従って、ユダと基督、そしてキチジローとロドリゴが重なり、とてもドラマティックだった。 ロドリゴの葛藤と苦悩が、ひしひしと伝わってきて…足の痛みまで感じる様だった。 ロドリゴの踏絵のシーンは、非常に素晴らしく、胸に迫ってくるものがあった。

    7
    投稿日: 2021.01.24
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    遠藤周作恐るべし。 物語は穏やかに、やすらかに進んでいく。 それなのに、静かに主人公ロドリゴの苦しみや葛藤が叫ばれていて、すごく引き込まれた。 海をのんびり漂っていたらはるか遠くに流されていた感じでしょうか。 これは衝撃的ですね。 キリスト教を少し知っている自分でかなりの衝撃なので、一神教を信仰する人にとってはすさまじいのでは。 神様ってなんでしょう。信仰ってなんでしょう。 日本のキリスト教弾圧ってどうだったんでしょうか。 作者は本作を通して、立場を明確に据えずにそれらの問題について描いていたように思う。 とどのつまり、信仰は個人のものなんですね。 あたりまえなんですけど、はっとさせられます。 キチジローにはなにか引っかかるところがあった。ユダに重ね合わせて片付けるのでは足りない何かがある気がする。 映画も見てみよ。

    2
    投稿日: 2021.01.12
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    文体はシンプルで、ストーリーは淡々と進んでいき非常に読みやすいが、心理描写がすごい。どんどん入り込める。

    0
    投稿日: 2021.01.01
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    時は鎖国時代。バテレン追放令が発布されるなど、キリスト教に対して厳しい弾圧が行なわれている時代である。数名の司祭が命懸けの渡航、布教を行うが、当時の日本では、棄教を迫るための凄惨な拷問やそれによる仲間の死、踏絵など、あまりにも残酷すぎる事実が待ち受けていた。エンタメ要素はなく、史実に基づきながら圧倒的な緊張感で物語が進んでいく、言わずと知れた遠藤周作の名作の一つ。

    1
    投稿日: 2020.11.27
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    これは重い。全編通して、淡々とストーリーが進み、主人公のポルトガル司祭・ロドリゴの揺れる心が綴られる。タイトルの意味がラストで判明するが、これもラストまでの経過があって、重みが伝わってくる。 残虐極まりないキリシタン迫害、司祭に棄教させるために、日本人の信者を利用する数々の場面は、読んでいるだけで嫌悪感を覚えるほど。 キリスト教を押し付けられて日本は迷惑している、ここにはキリスト教は根付かない、信者が増えていた時期もあったが、信者が祈っていたのはキリスト教の主ではなく、別のものだったと言う。これは筑後守の考えなのか、それとも徳川幕府の意向だったのか、作者のフィクションなのか。

    2
    投稿日: 2020.11.22
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    長崎奉公の竹中うねめ采女は彼等を棄教させ 雲仙地獄の熱湯で彼等を拷問にかけることであった 約一週間程すると悉くことごとく悶死してしまいます 狡そうに光り 運命を委せまかせ マカオ澳門の夜は砲台を守る兵士達の長い物悲しい喇叭らっぱの音でやってきます 如何にも誰かに阿るおもねるよな笑い方はこの男の癖です こっかい告悔コンヒサン わ 日本人のユダとも言うべき卑屈な裏切り者のキチジロー 無類の狡智を発揮する井上筑後守 パライソ(天国) 我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった

    0
    投稿日: 2020.11.17
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    200ページ強がこんなにも重いなんて。 重い太い線がずっと続いて、その上をゆっくり歩いて、一緒に心と夜の闇を感じているような。 神様はいるのか、ってもうそれはその人の心の中にしか分からないことなんだろう。感じるのはその人自身の感覚なんだから。 踏むことすらも赦されていると感じるなら、私は生きていく道を選ぶと思う。 人は綺麗なもののためには死ねるが、汚く見窄らしい物のためには死ねない。 強い者より弱い者が苦しんでいないだなんてどうしてわかるのか。 心に凍みる言葉がたくさんありました。 世代によって感想が変わりそう。学生の時にも読んでおけばよかったなぁ。

    2
    投稿日: 2020.11.11
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    BGM Over The Hills And Far Away /The Mission 胸の奥の深いところで響く作品

    2
    投稿日: 2020.10.31
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    この本はずっしり重い。どんな信仰心でも、現実に目の前で行われる残虐行為や痛みに勝つことは困難である。まともな人間であれば、棄教するだろう。 このような問題は、宗教だけでなく、我々の人生において少なからず直面する。その時に自分の良心を優先する生き方をしたいと思うが、それはあくまでも究極の痛みを伴わない場合にしか貫けない。 遠藤周作の本は、軽いタッチで書いていても思いテーマを扱っていることが多い。その中でもこの作品は「凄い」と思う。

    5
    投稿日: 2020.10.24
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    神は身のうちにこそいる、んだろうか。わたしの神様は、姿形を持たない(芸術、と呼ばれるものたち)だからか、よくわからない。わかる日が来なくても、別にいい気がしている。

    0
    投稿日: 2020.09.22
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    日本でキリスト教が根付かなかった経緯を詳細に記していると思う。この本を、本当に理解することが出来ているのか分からない。でも、また読みたくなる日が来ると思う。

    0
    投稿日: 2020.09.07
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    圧倒された 宗教って神への永遠の片想いを誓うことに思えた。客観的には無慈悲に思うけど、そもそも信仰は主観的だから、主観⇔客観を行き来してしまう人間である以上、解釈に苦しみ続けるんだろうなあ こういう西洋の精神性との対峙を通して見えてくる日本の精神性をシニカルに描く系スキ

    1
    投稿日: 2020.08.22
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    圧巻。 主人公ロドリゴの信仰への葛藤と、当時日本で実施されていた徹底的なキリスト教弾圧の苦しみが、息を呑むほどの緊張感を生む。 偉大な宣教師が棄教したという知らせから物語は始まり、ロドリゴ目線の物語が四章、その後に三人称目線での物語が七章と続き物語は幕を閉じる。段階的に物語を進めていくことで感情移入しやすかった。そこに遠藤周作の技術を感じた。 どれだけ信仰心を持っても、どれだけ祈っても、どれだけ苦しんでも、神は沈黙を貫く。日本人を救おうと海を渡ったのに、日本人が自分のために命を捨てていく。果たして神は本当に存在するのか? キリスト教の、いやすべての宗教の根源的な問い。それを否定することがどれほど恐ろしいことなのか。ただ逆に、それほど根源的な問いに行き着いた時、初めて信仰というものが理解できるのかと感じた。 ある一人の宣教師が棄教するという、ある意味反キリスト教的なストーリーでありながら、読み終えた時にはこれが真の信仰なのではと心に思う。不思議な感覚だった。 何かを信じるということは何かに裏切られるということの一歩目なのかも。 もう少し時間が経った時もう一度読もう。

    2
    投稿日: 2020.07.28
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    キリスト教弾圧下の長崎、強い信仰と使命感を持って上陸した司祭の葛藤の道のり。 司祭の目前で磔にされ殺されていく信徒たち。信徒がこんなにも苦しんでいるのに、なぜ神は沈黙しているのか。神は本当に存在するのか。何が善で何が悪なのか。 踏み絵を踏んでは赦しを乞う、弱き者キチジロー。弱者に生きる場所はあるのか。 読み進めるのが痛く、苦しいけれど、信仰、信じることについてひとつの道を示してくれる。弱さを受け入れること、信じるものは自分の心の内にあること。 あの人は沈黙していたのではなかった。

    2
    投稿日: 2020.07.27
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    信仰と宗教は別物、当たり前だけど。その信仰も、個人差があったりで客観的に判断することは難しい。信仰は、実に個人的なものだと思う。 確か遠藤周作はカトリックではなかったでしょうか。彼も色々思うところはあったのでしょうかね。

    1
    投稿日: 2020.07.15
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    緊張感のあって、読み応えがある作品。こうした歴史があるから、「宗教の自由」が存在する。そう考えさせられた。

    3
    投稿日: 2020.07.10
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    沈黙の声、 神は沈黙の中で語っている。 すごすぎる。 沈黙の声を理解し尽くすには、 わたしの知識ではまだまだ辿り着けない

    1
    投稿日: 2020.07.07
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    「ああ、なぜ、こげん世の中に俺は生まれあわせたか」 自由な信仰を持つこともできず、心が弱ければ屈するしかできない。一度転んでしまえば、後ろ指をさされる。 主よ、あなたはいつまで沈黙を守るのですか。私たちを救うための言葉や御業を成しては下さらないのですか。 信仰や信じるとは何かということについて深く考えさせられる作品だと感じた。

    0
    投稿日: 2020.06.06
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    非常に深い。信仰すること、信じることとは? 宗教と科学に関して深く考えさせられた作品。 沈黙というタイトルこそ、信仰の本質をついていると感じた。

    2
    投稿日: 2020.05.22
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    自分が信じてきたものを棄てるということは、今までの人生を全て否定するということ。そうして生きてくことがどれだけ辛いことか。それが「罪」として扱うことで信じるものから離れないようになっていたが、それを強要されて死を選んだ人たちを見て、信じるものに疑念を持っていく。今までの人生の柱を疑い、それを棄てるまでの葛藤は相当なものだろうし、それがはっきりと描かれていた。

    3
    投稿日: 2020.05.22
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     キリスト教迫害が続く日本で棄教したと噂されるフェレイラ神父。彼の弟子、ロドリゴはその真偽の程を確かめるため、そして日本の信徒を救うべく日本に渡る。地下組織として潜伏しながらも布教活動を続けていたが、ある日当局に日本の貧しい信者たちとともに逮捕される。拷問にかけられ、ロドリゴの目の前で何人も殉教していく。殉教とは強い感動を伴なうもの、と思っていたロドリゴが愕然としたのは、その前後で何も変わらなかったこと。神はなぜ黙っているのか?いったい神とは?神に対する疑いすら抱き、師フェレイラと再会する。変わり果てた姿になったフェレイラ。そしてロドリゴが最後に出した結論は・・・棄教。踏絵を踏むこと。自らのアイデンティティかつ自分の一部たる神を足蹴にする行為で痛みを感じた時、始めて神からの語りを聞く。 「踏むがいい。私はお前たちに踏まれるためこの世に生まれ、お前たちの痛みを分かち合うため十字架を背負ったのだ」  神とは何か?生きとし生きる全てに等しく愛を授ける。それは強きもの、弱きものに等しく授ける。信仰を貫き通して死んでいった人たちにも愛を授ける。彼らは彼等で自分の運命と苦痛を納得して死んでいった。信仰を貫くことが出来ずに己を曲げて生き続ける者たち。彼らは生き続けることで、葛藤を持ち続け、苦痛を持ち続ける。体の痛み、心の痛み、そのすべてを受けとめる。それが神。たとえ神を否定したとしても、その人の中に生き続ける。神を否定した自分自身として、存在を続ける。そして神により、我々の苦痛はいずれ癒され、昇華される。神は我々一人一人の中に存在し、かつ我々自身でもある。神を愛する行為とは、自分自身を愛することに他ならない。そして、それは人を愛することでもある。それがたとえどのような人であっても。 「たとえあの人は沈黙していたとしても、私の今日までの人生があの人について語っていた」

    4
    投稿日: 2020.05.15
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    「一度このぬるま湯のような安易さを味わった以上、再び以前のように山中を放浪したり、山小屋に身を潜めるには、二重の覚悟がいるだろう」 「神父たちの孤独とは、自分が他人のために無益であるときだった」

    1
    投稿日: 2020.05.10
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    信仰する心って今の私には全然ないからこそ、当時の人々にとっては生活を投げ打ってでも守りたいものだったんだな。自分なら耐えられないかもしれない。あっさりころんでしまいそう、でもそこに信じる対象があれば頑張れるのかな。海ってずっと変わらずそこに在るから、今度長崎に旅してみたいな。

    1
    投稿日: 2020.05.06
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    有名な小説であり、キリストの沈黙というテーマに想像を持っていたが、どんな想像も越えていくドラマチックさで、司祭の内面をえぐっていく。

    1
    投稿日: 2020.05.02
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    佐渡島庸平さんの本を読んだ際に、お勧めの本の一つに掲載されていたため購読。 初め文章が難解で読みづらいと感じたが、読み進めていくうちにどんどん引き込れ読了。 キリスト司教の倫理観や葛藤、背徳の心理的描写が生々しく文章で表現されている。

    5
    投稿日: 2020.04.18
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    キリシタン弾圧の時代に密かに日本にやってきたポルトガル人宣教師の苦悩を描いた長編小説です。この国では宗教についてはなかなか本音を語ることがないように思います。それだけに宗教について考えることもあまりなく、正直に言って「宗教を捨てる」ということがあまり理解できませんでした。でも、現代社会で当たり前のように認められている信教の自由、言論の自由などを大切にしなければと思いました。

    1
    投稿日: 2020.04.17
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    「沈黙」を読んで以降、僕は遠藤周作の作品に惹かれた。禁教の時代、日本で基督の布教を試みたイエズス会司祭のセバスチャン・ロドリゴの葛藤や苦悩の日々を記録的に記している。 遠藤周作はほかに「海と毒薬」や「白い人」などがあるがどちらも僕の大好きな作品だ。キリシタンの糾弾やアメリカ人兵隊捕虜の生体解剖、思想犯の取り締まりなど、かつての日本で行われていた出来事を、頁を捲る手を躊躇わせてしまうほど残酷で生々しい描写で書いている。 思想や国籍の異なりを確執、暴力、迫害によって否定することを良しとする時代の渦中で、「人間の倫理観」の崩壊のさまが克明となっている。

    6
    投稿日: 2020.04.08
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    文化の違い、宗教の違いは本質では分かり合えない。世の中は分かり合えてると勘違いして進んでいる場面ばかりか。

    0
    投稿日: 2020.03.15
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    この小説を表現する言葉を僕は持ちません。 クリスチャンでも、まして宗教心というものを一切持たない僕にも、彼らの信仰とはなにか、そしてその意味がはっきりわかりました。 これこそ、文学の勝利だと確信します。

    3
    投稿日: 2020.03.04
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    このレビューはネタバレを含みます。

    嫌いだな、この物語 これは単に物語だから、いいんだけど 一神教信者の傲慢さ [・私の長い間の想像はまちがっていませんでした。日本人の百姓たちは私をとおして何に飢えていたのか。牛馬のように働かされ牛馬のように死んでいかねばならぬ、この連中ははじめて足枷を捨てるひとすじの路を我々の教えに見つけたのです。仏教の坊主たちは彼等を牛のように扱う者たちの味方でした。長い間、彼等はこの生がただ諦めるためにあると思っているのです。 ・司祭はマカオで見た仏像を思い出す。その仏像の顔には彼が見慣れてきた基督の表情のような感情の動きはどこにもなかった] 自ら神の存在を否定 [「わしが転んだのはな、いいか。聞きなさい。ここに入れられ耳にした穴吊りにされた人間たちのうめき声に、神が何ひとつ、なさらなかったからだ。わしは必死で神に祈ったが、神は何もしなかったからだ」 「だまりなさい」 「では、お前は祈るがいい。あの信徒たちは今、お前などが知らぬ耐え難い苦痛を味わっているのだ。昨日から。さっきも。今、この時も。なぜ彼等があそこまで苦しまなければならぬのか。それなのにお前は何もしてやれぬ。神も何もせぬではないか」  司祭は狂ったように首を振り、両耳に指を入れた。しかしフェレイラの声、信徒のうめき声はその耳から容赦なく伝わってきた。よしてくれ。よしてくれ。主よ、あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。もう黙っていてはいけぬ。あなたが正であり、善きものであり、愛の存在であることを証明し、あなたが厳としていることを、この地上と人間たちに明示するためにも何かを言わねばいけない]

    1
    投稿日: 2020.03.04
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    ずっと前に読んでいたはずですが、まったく覚えていなかった。フェレーラ牧師は「転ぶ」わけですが、あまりにも行き過ぎたストイシズムなのか、宗教だからこそできるのか。一般的な共感はよびませんよね、きっと。僕自身は、けっしてまねできないんですが、心の深いところで引き込まれている感じがあります。なぜなんだろう。 スコセッシの映画も見てみようと思います。

    2
    投稿日: 2020.02.28
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    「盲目の勇気にとりつかれて、日本国に迷惑かけることを忘れるものが多い」 「正は普遍」 「日本は沼」 100%綺麗に分かれる善や悪、白と黒は、ない。何かと何かとがぶつかって、混じって行くことこそ、普遍的なことのようにも思える。

    4
    投稿日: 2020.02.21
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    自分にとっての踏絵とは? 余りにしあわせな時代に生まれ、生きていると感じる。 生きるか死ぬかの選択はなかなかない。 個人の心の中のことである信仰ですら制限され、時に死に直結するのか? 自分だけでなく周りの人まで巻き込む。 映画も見たが、読む方がいい。 映像は余りに情報が多く、処理しきれない。 読んでから見たのに。

    2
    投稿日: 2020.02.09
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    今更、という気もしたが、やはり読んでいないのは良くないと思って挑戦。素晴らしく重厚でどっしりとした小説世界。読んで良かった。

    0
    投稿日: 2020.02.08
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    鎖国時代の日本において、キリスト教の司祭としてキリスト教を布教するためにキリシタン禁制が続く日本に来日した主人公が、自身や信徒に起こる悲劇を目の当たりにしながらも 、自身が信じるキリストを信じぬくことができるか、そして信じた先にはなにがあるのか、を語る物語。 自身が信じたことを一切曲げることなく信じぬくことの難しさを教えられる。

    0
    投稿日: 2020.02.08
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    読書会の課題本。遠藤周作の代表作。複数回の映像化もある。江戸初期に実在した「転びバテレン」をモデルにして描いた小説。学生時代以来の再読となる。映画は読んだ時のイメージを壊されたくなくて、見るのを躊躇している。本書で示されるイエス像は研究者の間で「同伴者イエス」というふうに言われるらしい。キリスト教嫌いの多いこの国だから書けた話だと思う。

    1
    投稿日: 2020.02.05
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    ‪ポルトガルより布教のために訪日した宣教師の、日本人信者との邂逅、神の存在への疑問・葛藤を描いた歴史小説。‬ ‪「神はなぜこの時にも黙っておられるのか」教徒にとってこの恐ろしい根源的な問いが何度も立ちはだかる。心中の描き方がとてもドラマチックで、心揺さぶられる。‬

    2
    投稿日: 2020.02.04
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    このレビューはネタバレを含みます。

    「沈黙」 前から読んでみたいと思いながらも叶わず、ようやく機会がやってきた。 人と宗教との関わりはとても濃厚なものであり、普段宗教を意識することの少ない私からすると非常に衝撃的な内容だった。 目の前でこんなにも苦しんでいる人がいるのに、神はなぜ沈黙しているのか? という問いに対してキリスト教の宣教師が懊悩し、遂には棄教に至る心理的過程が読んでいて苦しい。 神は救ったり答えを出してくれるのではなく、共に苦しんでくれる存在なのだというラストはとても腑に落ちた。

    0
    投稿日: 2020.01.24
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    舞台は島原の乱後の五島列島におけるキリスト教の布教活動と先に日本に渡った恩師の安否確認のためにローマ教会からくる司祭の物語。最終的には棄教という選択を選ぶことになるが、それまでの葛藤の心理が臨場感溢れている。当時の日本がいかにして異教を排除していたかが分かる。踏み絵のことは授業で習っていたが、本当の意味でこの本を読むことで理解できる。穴吊りという拷問は本当に恐ろしい。

    16
    投稿日: 2020.01.17
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    転んでしまえばいい、転んだとして誰が責められるだろう。いや責められたからといってなんだというのか。それでも確かに、ここに描かれている転んだ人間と信仰に殉じた人間とでは何かが違う。 信仰を捨てることで手放してしまう、失ってしまう何かとは、生死をかけなくてはならないほどのものなのか。曖昧を許さない時代の壮絶さと、だからこそ強調される人としての尊厳や矜恃、愚かさ、哀しさ。 信仰というものを通して人間の普遍的な性質を浮き彫りにした、日本が世界に誇るべき一冊。

    2
    投稿日: 2019.12.31
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    読み終えて、辛く悲しく何もしたくない気分になった。 自分の意思で何も出来ないどうしようもないこんな時代に生まれなくて良かった。 遠藤周作の描写は素晴らしく、簡単にその時代に行ってしまった。 この後映画も観たけど、やはり本だね。 想像をかき立てられて膨らんで行く。

    1
    投稿日: 2019.12.21
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     人に絶対勧めたい本を★5つにすることにしている。  この本、本当にありとあらゆる力のこもった凄まじい本だったから、印象的には★5つなんだけど、でも、絶対勧めるかというと、うーんまぁ勧めたいけどけっこう読んでてしんどかったから、微妙なところ。  そういう意味での★4つ。  どんなに辛い状況になっても、当然のように何もしてくれないし、何も語りかけてくれない神。じゃあ本当にいるの?もしかしていないの?神なんか本当はいませんでしたってなったら、神を信じて全てを捧げてきた自分という存在はいったいなんなの?そういう絶望が、一般人じゃなくて宣教師という立場から描かれているという点で余計に深刻度を増していて、辛かった。  神様の存在をいちばんに考えて生きてきて、それが何よりの自分のアイデンティティになっている。それを放棄することがどれだけ大変で苦しいことなのか。そこまで強く持つ信念ってなんなんだろうって考えた。今のわたしにそんなものないし、死ぬような思いをしたり拷問されたりしてまで守りたいものって全然ない。やばそうになったらたぶん全体的に平気で捨てるんだろうと思う。  だからこういう人たちの思考回路は全く未知の領域で、ただただ目から鱗っていうか、そういう世界もあったんだな、って想像するのが精一杯だった。  大学のとき、哲学概論かなんかの試験で「哲学と宗教の違いは何だと思うか」っていう問題が出て、「宗教は盲目的だけど哲学はそうじゃない」みたいなこと書いてそれだけ丸をもらえたのを今でも覚えている。あの先生の名前なんだったっけ。「先生は哲学なんかを長い間ずっとやっていて、もしかして実は物凄いお金持ちで何もする必要がない人なんですか」って聞いたら笑ってた、ハイデガーの第一人者みたいな感じの教授。田中なんとかさん。  結局、それが神様であっても何か目に見えるものとか存在であっても、わたしは何かに盲目的に自分の全てを捧げる人生は嫌だなって思う。少しでも疑いを持ってしまったり、失ってしまったりした瞬間、自分のそれまでの人生が選択権なく否定されることになるし、自分の芯みたいなものが一瞬で全部ポキって折れてなくなるし。全面的に何かにもたれかかってれば楽だけど。でもそのもたれかかれるものがなくなっても、結局生きていかなきゃいけないし。  って書いてて思ったけど生きることへの執着がすごい。とりあえず生きていきたいんだなわたしは。  それはそうと。  元気なくなったときにちょっと勇気づけてくれるもの的な感じで頼るのはありかなって思うけど、宗教への関わり方として果たしてそんなんでいいのかって気もするし。だからたぶんこれから先も宗教とは関わりのない生き方をするんだろうな。

    19
    投稿日: 2019.12.14
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    映画版以上に、小説だからこそ主人公の内面が生々しく描かれている キチヂローに対する思いや、日本人に対する不快感や空気感が伝わってきた 捉えられ、暗闇の中で彼を感じ、葛藤する心理の動き、揺れが凄まじい 映画版を先に観ていたから、そっちに引っ張られてしまったけれど、内面の描かれ方は見事 終わり方は映画の方が好きだった

    0
    投稿日: 2019.11.30
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    「神の沈黙」というテーマから、神の不在や信仰の滑稽さを描くのかと思ったが、信仰というもののあり方や地域と宗教、宗教とそれに対する信仰がどういった思考から生まれるかといったことを考えさせられる内容だった。 信仰心の強さを前提とし、神と共にあることで善い生き方を目指すための宗教、人間の持つ弱さを肯定してくれる宗教と「宗教」にも色々な種類のものがあるのだと感じた。 信仰というものにおいて大事なのは形式ではなく地域や個人の性質との同調性にあるのではないかと感じた。また、人が強く、より正しく生きるのには宗教というところに限らず尊敬する何か、信仰の対象となるものが必要であると感じた。

    0
    投稿日: 2019.11.11
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    なぜ苦しい状況のなか祈っても神は沈黙しているのか。本当に神は存在するのか。信仰の根源的な問題に迫った作品。 キリスト教についてあまり知らない人でもその信仰を続けることの苦しみが伝わってくるはず。 最後に司祭がたどり着いた結論も1つの信仰の形だと思った。

    4
    投稿日: 2019.11.08
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    島原の乱の後の頃、日本に渡ってきた司祭が棄教する話 弾圧され、今まさに酷い状況にある者を、神はなぜ助けないのか? どんな事があっても沈黙を続ける神 弱き者を助けるために自ら棄教することはそれでも罪なのか? イエスが磔刑に処されたのは同じではないのか? ストーリーの詳細はどこか他のところで読んでもらうとして 様々な対比がある イエスと自分 イエスとユダ 自分と弱き者としてのキチジロー そして弱き者としての自分 イエスはユダを拒絶したのか許したのか? 拒絶したとしたら、なぜ元々信徒に加えたのか? 日本に入ってきた時点で、キリスト教は本来のものではなく変質したもの 日本という沼にはキリスト教は根付かない 自らの痛みをもって踏み絵を行うことで信徒を助ける行為は転んだことにはならない むしろ、踏むことで司祭として正しい行いなのではないのか? キリスト教としてはいくつもの命題が散りばめられていると思う そりゃ問題にもなるわなぁ それと個人的な体験として、以前に神父さんと話したことがある 全知全能の神という存在は論理的矛盾をどう解決するのか? 全知全能であるならばなぜ人を試すのか? 終末とは何か? 神はなぜ人を助けないのか? 宗教戦争は正しいのか? 不躾を承知で突っ込んだことを聞いたが、納得のいく答えは得られず 僕は、神の存在を完全否定する程の無神論者ではないけど、「全知全能の神」という存在は論理的に受け入れられないのだと当時思った

    1
    投稿日: 2019.10.28
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    このレビューはネタバレを含みます。

    キリスト教布教の為、ポルトガルから日本に渡った3人の宣教師達と、日本の信徒達が日本という国から、キリスト教排除の為受ける厳しい禁制と拷問・殉教、そして宣教師達の棄教に至るまでの人々の沈黙と神の沈黙を描いた作品。 宗教とは何なのか?信じるとは何なのか? 自己の中にある神との葛藤。 自身を苦しめてまで守るべき教えとは何なのか? 自己暗示、洗脳? その先にあるものは何なのか? 厳しい現実世界よりも、死が安らかな世界として受け入れられるその世界観、価値観は何なのか? 想像すら出来ない厳しい現実を生きていた人々を想い苦しくなった。 悲惨な時代、狂った時代こそ、宗教が大きく広がる刻なのかもしれない。 救いのない世界こそ、救いを求め、人々は盲目的に宗教というひとつの教えに従い、楽になろうと願うのだろうか。 赤信号みんなで渡れば怖くない。 集団心理の最たるもの。 僕は、 赤信号は渡らない。 青信号も渡らない。 信号だけを信じない。 自分の目で見て、 感じで判断したい。

    0
    投稿日: 2019.10.09
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    こんなにも自由に自らの思想を抱ける時代に感謝したくなると同時に、今もなお固定概念に囚われ続けている部分もあるのだと思うと苦しい気持ちになる。燃えるような熱意と衝突と挫折があり、ストーリー的にはとても激しい内容だと思うが、波のない水面のような静けさを感じた。

    2
    投稿日: 2019.07.18
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    神とは、主とは、信仰とは。 政治や、侵略のために使われることがあってはならない、この世で最も自由であるはずのもの。 映画も素晴らしかった。静謐なエンドロールまでもが美しかった。

    0
    投稿日: 2019.07.15
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    神なんて人が作り出したキャラクターなのに、その神がなにも答えてくれないから苦しむという、壮絶な矛盾。 マーティン・スコセッシ監督の映画も素晴らしかった! http://chinmoku.jp/

    2
    投稿日: 2019.07.07
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    島原の乱が鎮圧されて間もない頃、キリシタン禁制の厳しい日本に潜入したポルトガル司祭の物語です。日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接し、苦悩し、ついに背教の淵に立たされる。神は本当にいるのか?その沈黙は何を意味するのか?永遠の課題に切実な問い掛けに答えはあるのか?

    0
    投稿日: 2019.06.24
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    このレビューはネタバレを含みます。

     先にマーティン・スコセッシ版の映画を観ていた。  スコセッシは異文化の人々に自らの神を半ば押しつけることの傲慢さを注視していたと感じたが、原作はキリスト教が根付かぬ日本の社会的風土のほうに重きが置いてあったように思う。  解説にもあったが、司祭ロドリゴにつかず離れず、絶妙な距離感で客観性を保ちながら紡がれた本作は、きっと読む人それぞれの思い描く「神」のすがたを反射するのだろう。  ロドリゴは、キチジローをユダに見立てた。 でも不信心者のわたしは、神とキチジローとの間に、いったいどれほどの違いがあるのだろうと思った。  力を貸してくれ、飯を分けてくれたと思えば裏切り、それでも後をついてきて離れないキチジローのすがたは、司祭その人が愛してやまぬ神のなしようそのものではないか。  映画ではキチジローを窪塚洋介が演じていた。観たときは「こいつ『フォーギブミー、パードレ!』って言っといたら何しても許されるとでも思ってんのか?」と思ってしまったが、恐らく観客とロドリゴの距離が近すぎるためだろう。(ロドリゴ役のアンドリュー・ガーフィールドがかわいくて不憫だからひいきしてるかもしれない……)  構成や演出がドラマチックで、さらりと書いた感じの文章の中に胸を刺す表現がごろごろ転がっている。作劇の面でも文体の面でも、すごい小説家の仕事をみたという気持ち。

    2
    投稿日: 2019.06.20
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    自然の驚異や疫病、死・・・苦難を理解し乗り越えるために人は“神”という物語を作り出したのではないか? だとすれば、教義以前に“神”の“声”は個々人によって少しずつでも異なっているはず。 クリスチャンでもない、きっとキチジローである私は踏むだろうし、むしろ踏むべきだと思う。

    3
    投稿日: 2019.06.20
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    2019/6/18 遠藤周作の沈黙といえば名作中の名作な訳ですが、今までこの時代の人の小説はあんまり読んでこなかったのでとても読み応えがあったように思います。 キリスト教を布教するために澳門から日本へとやってきた宣教師についての話です。 かつて日本にキリスト教を布教しようと入国したフェレイラがキリスト教から一転して日本のために仕事をするようになり、この本では転ぶと表現されていましたが、その実態を見定めに行くのとさらなるキリスト教の根を生やし布教しに行くために日本に乗り込んだものの、日本は完全に禁教体制を敷いていて、キリスト教の布教どころではなかった。 一般の人々はキリスト教徒であることが奉行所の役人にバレると尋問されたり処刑されたりするのだがこの宣教師に関しては尋問も受けることはなかった。 しかし、信者たちが次々と殺されていく様子を間近で見せられてもなお沈黙を貫き通す神に対して抱く気持ちの変化が非常に細かく繊細に描写されている。 また当時の史実に基づいている部分もあり、時代背景など日本のキリスト教に対する処遇の歴史を知る手がかりともなる。 読んでて歴史の背景も知ることができるし、とても読み応えがあります。

    6
    投稿日: 2019.06.18
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    おそらく高校生以来の再読。神の沈黙をテーマに取り上げたといわれるあまりにも有名な小説であるが、神はただ沈黙していたのではない、一緒に苦しんでいたのだ。無力な神。奇跡を起こせぬ神。(私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから。)と哀しそうにいう神。そこには、神は無私の愛のみで弱い者にも等しく寄り添うておられる、という著者のメッセージが込められていることに思い至る。

    2
    投稿日: 2019.05.29
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    罪とは人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れることだった。 敗北したものは、弁解するためにどんな自己欺瞞でも作りあげていうのだ。 そしてあの人は沈黙していたのではなかった。たとえあの人は沈黙していたとしても、わたしの今日までの人生があの人について語っていた。

    1
    投稿日: 2019.05.28
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    このレビューはネタバレを含みます。

    日本人なら必ず義務教育で学ぶキリシタン弾圧を外国人の視点から描くという点で興味深い小説だった。しかし、フェレイラをはじめとする神父が一時的にしろ棄教を決意する理由が、結局は過酷な拷問に耐えかねた結果、自身の棄教を正当化する抜け道を探し当てたというような中途半端な印象になってしまったのが残念だった。途中でフェレイラが言及していたように、日本人が祈るデウスの真の意味を知って絶望するという形を強調していたなら、もっと悲劇的かつドラマチックな印象に変わったんじゃないかと思う。

    1
    投稿日: 2019.05.22
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    キリスト教が禁止されていた江戸時代の長崎を舞台として宣教師が切支丹狩りが行われいていくなかで、悩みながら教えを守るとは…を自問自答していく。どれだけ助けを求めても沈黙を保つ神。 正しい宗教とは?と考えてしまう。

    0
    投稿日: 2019.05.04
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    遠藤周作、初めて読みました。 スコセッシ監督の映画サイレンスを見てからの読書でした。 淡々と行われる拷問の恐ろしさと、キリスト牧師の苦悩。 その時代背景には、キリスト教が侵略に使われた背景もあり日本人にキリスト教が根付かない原因はアミニズムや自然の豊かさや繋がりもあり、色々と考えさせられました。 一神教はやはり歪みや争いの原因となつていると思うのですが、信仰の自由との兼ね合いの難しさを思いました。

    4
    投稿日: 2019.04.16
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    2017年1月17日(火)にbookstudio姫路店で購入。映画化されたようで少し興味をもったので買ってみた。

    0
    投稿日: 2019.01.22
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    このレビューはネタバレを含みます。

    志の高い人々が身も心もズタズタにされていくところは胸が痛んだ。信じる神がいるということ、一生をかけて示すということ、内側で自らに問い葛藤する様はこちらをも苦しくさせるほどだった。拷問もそうだが、特にキチジローの存在が哀れで、登場する度に自分に蔑む眼が備わっていることを思い出させて辛かった。 司祭が、踏まれて歪み汚れた基督の顔と向き合ったシーンで涙が止まらなかった。ロドリゴの人生、基督の沈黙の語りを通じて、その苦しみと愛の一部を知ることができたように思った。

    1
    投稿日: 2019.01.17
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    単なるキリスト教弾圧や、宣教師の苦労話ではなく、信仰の自由がなかった時代の日本をも垣間見ることができる。読み進むのが辛い部分もあったが、読了後、表題の意味がわかる。

    0
    投稿日: 2019.01.04
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    2017.2記。以下、再掲。 映画鑑賞後、矢も楯もたまらず原作をほぼ30年ぶりに再読。たぶん、表紙の写真は昔と同じ。(以下、ネタバレありです) 読んで改めてわかったのは、思った以上に原作に忠実な映像化ぶり。例えばキリシタンが突然斬首される場面。白砂と血のコントラストが衝撃だが、小説にそのままの描写がある。そうかこの記述があのカメラアングルになるのか、と。 セリフの改変もかなり抑えられている、というかここまでそのままとは思わなかった。ハリウッド的なエンターテインメント性を度外視したスコセッシの執念のなせる業なのか、そもそも遠藤の文体が映像に親和的なのか。 それだけに、矛盾するようだが終盤の描写の違いの深さに感銘もひとしおなのであった。 小説では、踏み絵を踏んだあとのロドリゴ神父の内面が引き続き語られる。違う形で信仰を維持している、ということはかなりしっかり説明される。そして、自分を役人に売ったキチジローに対して、この気持ちはわかるまい、という突き放したとも言える態度を取る。 一方映画の方は、踏み絵後のロドリゴは、キリシタン禁制品の密輸摘発に協力さえしながらひたすら虚ろに生きているように描かれる。その内面はうかがい知れない。それだけに、最後の場面で、ああいう形で、ある意味「キチジローに救われる」とは・・・という感動がすさまじい。優れた指揮者の解釈がそうであるように、原典(スコア)を読み込んだ先の結論が文章(楽譜)どおりでないことはありえる。 ・・・と思っていたら今日の日経朝刊、スコセッシ監督本人コメントを含め大々的に取り上げているではないか。監督自身、最後の場面は繰り返し読んでどう解釈しようかを考えた、と。「ロドリゴは度重なる『転び』の中で、自分の信念を獲得していったのではないか」(記事より引用)。これはむしろ小説の記述に近い。押し殺していた信仰をキチジローに解放してもらった、という私の解釈はちょっと違っていたのかもしれない。まあ、優れた作品は一読者、一鑑賞者の自由な感想を受け入れる「開かれた作品」でもある、ということで許してもらおう。

    1
    投稿日: 2019.01.01
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    このレビューはネタバレを含みます。

    20年も昔の高校生の頃課題図書として読み 家にずっと保管されていたので久しぶりに読んでみました。 高校生の時はひたすら課題をこなすためだけに苦痛を 覚えながら読んだこの作品ですが今読むと のめり込んでしまうくらい面白かったです。 恩師の棄教を信じることが出来ずにまさにあらゆる困難を 越えてキリスト教弾圧が厳しい日本にやってきた 司教ロドリゴが自分なりの新たな悟りを得るまでの話。 神の沈黙に信仰が揺らぎながらもやはり信仰に生きる 司教の心情の移ろいは読み応え満点でした。 そして同じく棄教した恩師フェレイラとの対比も見事で 両者の違いや葛藤もとてもうまく描かれていました。 個人的には司教を転ばせるための奉行のやり口の巧妙さに 人間の狡猾さと残酷さが滲み出ており 宗教の弾圧のためにここまでするのかという思いと その弾圧の理由も納得できるところもあり これはこれで読み応えがありました。 最近ハリウッド映画化もされていたと思ったので 観てみたいなぁと思いました。

    2
    投稿日: 2018.11.30
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    遠藤周作著、「沈黙」。非常にドラスティックな作品であった。佐伯氏の解説によれば、遠藤周作は「海と毒薬」、「侍」などの他の作品においても、同様にドラスティックな作風だとされる。 「沈黙」は、江戸時代のキリスト教禁教下の日本を舞台として、宣教師や司祭が日本に布教を行うという物語である。もちろん禁教下であるので、布教が見つかれば罰せられ酷な拷問を受けるのであるが、それでもキリスト教を布教する使命を全うするため、危険を冒して日本に潜入する。本作は3部作になっており、まえがきで宣教師が棄教したという衝撃的な事実を述べ、続いてセバスチャン・ロドリゴの書簡で主人公の視点に読者を誘導し、最後に三人称描写の章がやってきて、棄教に至るプロセスを少しずつ進めて書いている。主人公の司祭が見た日本は、宣教師を希望の光として求める百姓達、「転ぶ」、すなわち棄教した宣教師、そして無害かつ有害な、意思の弱さを前面に押し出したキチジローという存在、さらにイノウエという、幕府の非常に賢い奉行など、様々な者が登場する。 彼らをすべて丁寧に整理して描写したところは素晴らしいが、それよりも素晴らしいのが、描写の仕方である。表現がリアリティを感じさせ、緊張を生むために読者を感情移入させやすくなっている。特に残酷で緊迫した場面においてそれは顕著であり、追い詰められた人間の感情を事細かに描写している。 読む価値のある、とても優れた作品である。

    7
    投稿日: 2018.11.28
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    2018/11/18読了。 正直に言ってしまうと、途中で読み進めていくことが辛い場面が何度もありました。 切支丹弾圧によって、多くの人の命が失われていく。けれども神は彼らを救うどころか、癒しさえ与えてはくれず、切支丹の百姓たちは苦しみながら死んでいく。 救いを信じることや、苦しみから逃れようとすることは、死ななければならないほど罪深いものなのでしょうか。 物語の中で、神は終始沈黙を破ることはありませんでした。百姓たちの死が、殉教ではなく無駄死にだと思うことも何度かありました。 神が本当に存在するのだとしたら、なぜ神はこれほどまでにむごいことから目を背けることができたのでしょうか。

    3
    投稿日: 2018.11.18
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    遠藤周作『沈黙』新潮文庫 読了。キリシタン弾圧下の鎖国日本へ来たポルトガル人司祭の内面に触れる歴史小説。自己の信仰心を棄て転ぶか、殉教を厭わぬ日本人信徒を見殺しにするか。その究極的な決断によって、神はその苦しみを分かち合っていたことに気付く。ジレンマと逆説で信仰の本質に鋭く迫る。 2017/02/13

    0
    投稿日: 2018.11.06
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    普遍的なテーマを扱っているせいか古びていない。簡潔でたしかにドラマチック 特に信仰のない身には「神の沈黙」は他人事ではあるが、この不条理な世界で寄る辺もなく一人きりであるという恐怖は信仰にかかわらず普遍的かつ根源的だと思う。

    4
    投稿日: 2018.11.05
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    たぶん再読だがもしかしたらそうでもないかも 島原の乱後に日本に来て棄教した宣教師の史実を基にした1966年の小説 小説としては洗練された構成だが内容に違和感 宣教師が日本での苦境に「神(主というべきか)」が沈黙していることへ疑問を感じる描写 かの時代の遥々日本までくるカトリック宣教師がそれしきのことで疑問に思うのか疑問 これは主人公対象が経験浅いからのあえてなのか当時日本人向けの味付けなのかもしれないが 神の存在にまで疑問を抱いている描写まであるのはいくらなんでもどうか 日本人が神社で買ったお守りとお札をライターで燃やすに躊躇い感じないくらい違和感ある 作者はカトリック教徒で高名な文学者だけれど それゆえに宗教とか信仰とか信心を無学な凡人よりわかっていないのでは 日本がキリスト教を独自に変奏させてしまう国だとも書かれているが 聖母信仰は原始キリスト教から変容してないのか その時代の宣教師として認識がおかしくないか 当時の宣教師の心境を正しく描写しなければならない理由はないから あえてそう書いているのかもしれないが腑に落ちない

    0
    投稿日: 2018.10.20
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    映画化されたので30年近くぶりに再読。中学生時代どのような心境で読んだか覚えていないが、十分理解できなかった気がする。 「強い者も弱い者もないのだ。強い者より弱い者が苦しまなかったと誰が断言できよう」は深い。 キチジローが窪塚洋介、井上筑後守がイッセー尾形か。楽しみ。

    1
    投稿日: 2018.10.09
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    映画になった史実に基づいたフィクション小説。江戸時代のキリシタン弾圧。島原の乱の後棄教したと伝えられた過去の師を探しに来た司祭がやがて捕まり棄教を迫られる。転ばなければ拷問を受けたり殺されるのは日本人信徒という状況下で司祭は…。当時のキリスト教の布教は貿易及び植民地化を視野に入れた活動であるとすればキリスト教徒である著者の書きぶりは如何にも一面に焦点を当てたもののように思える。宗教的価値観とはそのようなものと言ってしまえば身も蓋もないですが。

    0
    投稿日: 2018.10.09
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    鎖国下の日本における、一人の司祭の渡航から棄教までを描く。 「神は本当にいるのか?いるならばなぜ何も仰ってくれないのか?」という問いは遠藤の中でも痛切なものだったのだろう。 それに対する遠藤なりの答えがこの本だと思う。

    0
    投稿日: 2018.10.04
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    なんでもっと早く読まなかったんだろう。映画の「沈黙」が素晴らしかったので手に取った。想像の数倍読みやすく、映画でわからなかった部分がばちっと補完された。

    0
    投稿日: 2018.09.30
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    比較的短い小説にも関わらず、隠れキリシタンについて非常に綿密な調査/取材を行ったものと思われます。キリスト教の司祭の目を通して日本人の(もしかしたらあらゆる人類の)精神の根源を見通そうとする著者の眼差しに圧倒されました。

    6
    投稿日: 2018.09.18
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    映画が面白かったので読んでみた。 読んでる途中、常に『神とは?宗教とは?』を突きつけられ続けた気分。 すごく哲学的。 3~4回繰り返し読むと自分なりの答えが出るのでは。

    0
    投稿日: 2018.09.02
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    【G1000/16冊目】海外にこのような作品を上梓できるような人物は果たしているのだろうか。キリスト教徒に棄教を強いた国に生まれ育ったキリスト教徒遠藤周作がどのような思いでこの作品を沈黙と名付けたのか。昭和41年。わずか50年余り前の作品がこのような生々しい転びを紡ぐ。背教者ロドリゴは何に背いたのであろうか。基督に背いたのか、基督の思いに背いたのか。ロドリゴが岡田三右衛門となった時、彼は何を捨てさせられ、何を得たのか。宗教の本質とは何であるのかを日本語で考えさせてくれる事のできるかけがえのない作品である。

    0
    投稿日: 2018.08.25
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    このレビューはネタバレを含みます。

    気になっていながら手を出していなかった遠藤周作。 非常に読みやすく面白かったです。 冒頭のまえがきからノンフィクションなのか歴史小説なのかと疑うくらい説得力のある文章でのめり込みました。 基督教弾圧時代の日本に布教活動の為潜入するポルトガル人という、あまりに悲惨な負け戦が目に見えている展開をここまで膨らました手腕は素晴らしいです。 度重なる信徒の拷問や死を目前にして幾度と祈りを捧げても何も応えはしない神の「沈黙」に、不安や怒りや絶望感を味わいながら尚も救いを求める司教。 個人的には、流れのままに身を任せれば神が救ってくれることを祈りながら沈黙を続ける神に対して、「転ぶ」という勇気=救いを見出す姿は、弱い者も救われるということを見事に表現していると感じました。

    1
    投稿日: 2018.08.23
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    単なるキリシタン弾圧を書いた本ではない。 普遍的な価値とは何か、弱き者はどう生きればいいのか、 答えのない本質的な問いが凝縮されている。 いまこそ読むべき本。

    0
    投稿日: 2018.08.23
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    長崎の教会群が世界遺産候補になったというニュースを見て手に取った。 私はキリスト教徒ではないが「神様は見ている」的な勧善懲悪の考え方には馴染みがある。でも確かに悪いことをしても咎められなかったり良いことをしても報われなかったりして理不尽だと思う位なので、これを心の支えにして生きている人達には堪らないだろうなあ。

    0
    投稿日: 2018.05.21
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    このレビューはネタバレを含みます。

    GWに島原・長崎に行ったので読んでみる。苦難に晒されるのは司教ではなく子羊ばかり。イエスもあの場にいたら棄教すると言っただろう、というのは私もそんな気がするけど物議醸しそうな。あの温かい土地で多くの人が命を落としていったと思うと胸が詰まります。司祭とイエスの置かれた境遇を重ねていく描写・解釈が見事であると感じました。

    1
    投稿日: 2018.05.06
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    10年以上ぶりに読んでみた。他の遠藤周作のクリスチャン(浦上7番崩れとか)作品の記憶と曖昧になってた。映画も見よ。

    0
    投稿日: 2018.04.15
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    生涯の相棒から読書の意味を初めて教えていただいた作品です。 本を読む事によって、こんなにも心が揺さぶられる事を教えてもらいました。 これからも、沢山本を読みたいなって思った! 相棒&周作ありがとう〇

    0
    投稿日: 2018.04.14
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    このレビューはネタバレを含みます。

    名作ブンガク かかった時間150分(くらい) 師である司祭が日本で背教した。この情報への疑いから、また、迫害のなかで拠り所を求める信者たちのために、若いキリスト教司祭ロドリゴは、日本に潜入する。 貧しく虐げられた日本の農民が、神への信仰までも迫害によって取り上げられている。神は、司祭であるロドリゴに、ただキリシタンであるというだけで村を焼かれ、拷問にあえぎ、死んでゆく殉教者の姿を見せる。殉教者たちは、ロドリゴがかつて本国で夢想していたような、美しく誇りある死を迎えるのではない。彼らの死は、醜く、あっけなく、そして意味をもたない。 神はまた、人間の弱さや醜さを「キチジロー」という棄教者として見せる。役人に命じられてあっけなく踏み絵を行い、であるのにキリシタンの集落ではロドリゴを迎え入れる手引きをして歓待され、であるのに、キチジローはロドリゴを役人に引き渡す。 ロドリゴは、一方で「神の沈黙」を恐れながら、しかし、常に、受難のキリストと自身を重ね合わせ、その同一性によって奮い立ち、信仰に立ち返る。 キリシタン迫害の急先鋒、井上筑後守は、拘束されたロドリゴに背教を迫る。「愛するキリストのように」どんな拷問でも、殉死でさえも受け入れる覚悟を決めるロドリゴだが、筑後守が命じたのは、「ロドリゴが棄教しなければ、キリシタンたちを拷問し、殺す」という方針であった。キリシタン本人たちがどれほど棄教を叫んでも、ロドリゴが棄教しないかぎり、彼らは拷問され続ける。 筑後守が「今夜、パードレ(神父・ロドリゴのこと)は転ぶ(棄教する)だろう」と予言したある夜、ロドリゴが怠惰と傲慢、そして見せかけの安息の象徴として聞いていた「鼾」は、実は、穴倉に逆さに吊られ、即死を防ぐために耳の後ろに開けられた穴から一滴また一滴と血を流しながら苦しみに悶える棄教者たちの呻きだった。そして、それでも神は「沈黙」している。 ロドリゴはその中で、ついに踏み絵を行う。踏み絵に描かれたキリストは、気高くも美しくも優しくもなく、ただのみすぼらしい男の姿をしていた。そしてロドリゴは、「沈黙」する神の真意を悟る。彼が見出したのは、苦難に対して救いを与える神ではなく、人間とともに在り、苦難を分かち合う存在としての神であった―― というのが、大まかな内容である。すごく若いころ以来の再読だが、いくつか思ったことを挙げる。 まず、ロドリゴの若さ、というか、青臭さが印象的である。彼は無謀な夢想家で、愛するキリストとの同一化により、自ら信仰的英雄であろうとする。一方で、彼の、キリシタンたちへのまなざしは非常に高慢なものである。それを、ロドリゴ自身は愛や慈しみだと感じているが、読者にはそれが見下しであり、彼にとってのキリシタンたちは信仰的英雄である自身を引き立たせる存在(それこそ、ロドリゴ自身がキリストにおけるユダをそう解釈したように)にすぎないとわかる。 「神の沈黙」ばかりでなく、そのようなロドリゴの優越感も、たとえば簀巻きにされ海に沈んだキリシタンの生の意味を問う、彼の懐疑のもとになっているのだろう。 もう一つ気になったのは、師であるフェレイラとロドリゴの「相違」である。フェレイラに背中を押されて棄教したロドリゴはその後、月に一度、フェレイラと面会する機会をもつようになる。とはいえ、監視下にある二人には、業務上の会話を交わす自由しかない。その場面で、ロドリゴはフェレイラとの関係を、自身と同じ傷と弱さをもっている「醜い双生児」のようなものだと感じる。しかし、フェレイラとロドリゴは、本当に「同じ」なのか。確かに彼らは二人とも、棄教を迫られ、(最後には)自分自身ではなくキリシタンに与えられる拷問によって(表面的には)信仰を捨てる。二人は本国でも師弟であり、同じ信仰をもつものが、同じものに敗れ、同じように棄教した、という部分は一致する。しかし、以下のようにも考えられないか。 作品中では、井上筑後守も、そしてフェレイラも、日本にキリスト教は根付かないと述べる。また、現に、日本人は超越神の存在を描くことができず、キリスト教の形をしていながらも日本的にアレンジされた、ねじ曲がったキリスト教を信仰しているに過ぎない、と語る。ロドリゴはその意味を(少なくとも作品の中では)深く考えることはなかった。 さて、棄教後のロドリゴがキチジローの告解を受ける場面がある。ロドリゴはこのとき、自分は司祭職を追われたが、それでも自分は神を理解できるのだと考えた。だから、棄教してなお、自分は日本における最後のキリスト教司祭なのだ、と。もちろん、ここでロドリゴがいう「キリスト」は、前述の「ともに在る」神である。 神とは何か。ロドリゴは「沈黙」、つまり神の不在を恐れながら問い続け、そして、極限的状況にあって、神が「それでもなお、ともに在る」ものだと知った。 ここで、ロドリゴとフェレイラの「相違」に立ち返る。いや、「相違の可能性」というべきか。「ともに在る」神を見出したロドリゴの悟りが、同じく極限的状況にあったフェレイラの悟りと同じものなのかどうかは、本文の中で語られていない。むしろ、筑後守の屋敷で対面したフェレイラに対するロドリゴの印象から読み取れるのは、フェレイラの彼に対する他者性である。つまり、ロドリゴとフェレイラが見出したものは、同じではないという解釈も、成立しうる。 とすると、ここに、ロドリゴにとっては解決したはずの、「神とは何か」という問いが、再度読者の前に浮かび上がってくる。 この作品においては、信仰が大きな意味をもっている。信仰しているのは誰か。それは、ロドリゴである。フェレイラである。また、迫害されているキリシタンである。さらに、井上筑後守も、かつての信者である。 しかし、井上筑後守やフェレイラがいうように、キリシタンたちが、日本的に曲解されたキリスト教ならざるキリスト教を信仰していたにすぎないのだとすれば、ロドリゴの悟りもまた、そうなのではないか。ロドリゴは、彼の極限状況にあって神に救いを求めた。神は「ともに在る」という形でロドリゴに応えた。しかし、その「ともに在る」神は、ロドリゴの神である。それが、フェレイラの神と――あれほど「同じ」だと信じているフェレイラの神と、どうして同じであるといえるだろう。そういえば、この作品において、ロドリゴも、フェレイラも、キリシタンたちも、そし語り手さえも、「神とは何か」を示さない。 いや、むしろ、フェレイラはロドリゴと同じではなく、井上筑後守とこそ同じなのかもしれない。「ひとつの信仰」というものの難しさについて分かち合っている、という点で。また、ここからは勝手な読みになるが、井上筑後守はそれに絶望した人間、フェレイラはそれでもなお信じ続ける人間、と考えると、三者の関係が面白くなるような気がするのだが。そして、この場合、ロドリゴは結局フェレイラの信仰には到達できていない。若い、無謀な夢想家であったロドリゴは、老いた夢想家として生を終える。これも勝手な読みだが、最後の切支丹日記で、ロドリゴの三十年間があっさりと、しかも他に(キチジローも含めた他に)埋没して描かれているのは、そういうことではないだろうか。 というわけで、今回この作品で印象的だったのは、「信仰はひとつである」ということへの懐疑である。 やはり、面白い作品は面白い。たまにはいろいろ読み返してみたいものだ。

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    投稿日: 2018.03.31
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    生涯の相棒から読書の意味を初めて教えていただいた作品です。 本を読む事によって、こんなにも心が揺さぶられる事を教えてもらいまた。 これからも、沢山本を読みたいなって思った! 相棒&周作、ありがとう〇

    1
    投稿日: 2018.03.25
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    スコセッシが映画化した遠藤周作の古典小説の原作。キリシタン弾圧が行われていた長崎に殉教覚悟でやってくるポルトガル人のイエズス会宣教師が主人公。彼の手紙と、三人称描写が組み合わさった文体で構成されている。卑屈なユダのようなキチジロー、狡猾な奉行である井上、かつての師だが先に棄教しているフェレイラ、が主要なサブキャラ。宗教的なテーマは嫌いだが、物語の構成と場面の描写は秀逸。音、湿気、臭いまでしてくるような話だった。

    2
    投稿日: 2018.03.12
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    最初から最後まで一貫して不思議な緊張感があったのが新鮮だった。わかっている展開でも読み進めたくなるようなパワーがある。 潜伏しているあたりの描写が特に目が滑って読み進めにくかったし、文章の読みやすさの相性は悪かったけど、本当に興味深い内容だった。おもしろい…

    0
    投稿日: 2018.03.01
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    キリストの「愛」の描き方にうちふるえるほど感動しました。ちょっと大げさかなとも思いながらですが、キリストの「愛」の深さと広さを知り、そしてそれを感じ取ることの幸福を知ることのできるすさまじい小説だと思います。 無慈悲な展開をすごい力量で描ききっている。 遠藤周作自身がある程度の信仰への疑惑を持っていなければ絶対に完成しない作品という意味で、すごい力が必要だったと思います。 物語の流れに派手さは一切なく、歴史的な「迫害」が、教科書の出来事ではなくなる作品でした。 あまりにも容赦がない展開、救いを期待できない状況が描かれ、さらに司祭たちが信仰心を持って「救い」を期待するも、神は「沈黙」を貫く。 ロドリゴは「神はいるのか」とその存在すら疑い、絶望する場面まで描かれ、全編にわたって不可思議な緊迫感が張り巡らされています。 それはラストを迎えても緩むことがないところがすさまじい。 それでも、キリストの「愛」が描かれる場面には、これまでの無慈悲ともいえる展開の中で、なにが「救い」なのかを理解させる力がありました。 キリストの磔の意味などをルターの考え方などを少しばかり学んだことがあります。 キリストの「愛」というのが、人の考える「都合のいい救済」ではなく、キリスト自身がすべての罪や痛みを背負うことであるということなのだとその時は解釈していました。 この小説には知識としての解釈を超えた、キリストの愛を実感できるほどの疑似体験的なものが含まれている。 キリストの愛がどれほど深いものなのか、ロドリゴとともにその「愛」のあり方に打ち震えるような感覚を味わうことができる。 そこにものすごく衝撃を受けました。 まさに小説ならではの体験でした。 ある程度宗教の考え方を理解できないと、ラストが入りにくいかもしれないですが、この感覚は、ぜひ読んで味わってほしい。

    1
    投稿日: 2018.02.14
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    映画『沈黙』を観るために読んだ。 冒頭は状況説明から入るのでなかなかスムーズに読めなかったが、司祭が日本に来てからの物語の展開にはとても引き込まれ、仕事の合間も読みふけった。 さして長くもないのですぐ読み終えれたのもよかった。

    0
    投稿日: 2018.02.03
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    ポルトガルから日本にやってきた司祭(ロドリゴ)が主人公の小説だったんだなあ。客観的な歴史的記述に始まり、キチジローなど日本人との交流や出来事が描かれ、ついに、「転んだ」宣教師フェレイラと面会。神のこと、日本のこと、フェレイラに抱いた感情、などなど複雑な心理が語られる。 この小説をクリスマスのあたりに読んでいて、妙な気持ちだった。こんなにも信仰を禁じられた過去があるのに、クリスマスだけはなぜか楽しいイベントとして定着した日本… 個人的には、教会で牧師さんから聞いた、「クリスマスとは何かを与えることに喜びを見出す日」を胸に刻み近しい人にプレゼントをしたりして心があたたかくなる大好きな日(シーズン)だけれど、24日の夕方などに、ケンタッキーの袋とケーキの紙袋を両手にぶら下げた人々とすれ違うたび、一体クリスマスとは何なのだろうと思ってしまう。考えれば考えるほどよくわからなくなる。 フェレイラ氏は、キリスト教は日本には根をおろさぬと言っていた。 ***** 「知ったことはただこの国にはお前や私たちの宗教は所詮、根をおろさぬということだけだ」 「根をおろさぬのではありませぬ」司祭は首をふって大声で叫んだ。「根が切りとられたのです」 だがフェレイラは司祭の大声に顔さえあげず眼を伏せたきり、意志も感情もない人形のように、 「この国は沼地だ。やがてお前にもわかるだろうな。この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった」 ***** 遠藤周作さんはフェレイラのこのセリフを通して何を言いたかったのだろう。 これがクリスチャンであるご自身から見た日本ということなのだろうか…

    0
    投稿日: 2018.01.30
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    キリスト教の厳しい弾圧の中で、布教に命をかけて渡った宣教師の行動と心が400年たった今でも目の前に現れてくるような遠藤周作の文章。 自分の信じるものに裏切られそうな状況でどんな気持ちが人間に浮かんでくるのか・・・ 魅力のあるもの、美しいものに心ひかれるのは誰でも出来るが、そんなものは愛ではない・・・ことを知ってはいるがなかなか出来ない等、教えと現実の狭間で動く心が印象に残った。

    0
    投稿日: 2018.01.17
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    著者の作品は概ね読んだが、この作品は時代設定や文体など種を異にする。映画化もされているが小説がおすすめ。というのも、キリシタン弾圧という凄惨な描写が散見されるため、映像で見せられると若干食傷気味になる。

    1
    投稿日: 2018.01.04
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    ひたすらに劇的。あとがきにもあるように、先の展開がわかりきっていてもなお引き込まれていってしまうのは、まさに遠藤周作の力量なんだろうなと。 侍を先に読んでいたので、日本での布教活動がいかに不毛で意味のないものか、とどのつまり日本人がいかにキリストの教えと相容れないか、についてはなんとなく分かってはいた。どんなひどい生活や人生にも意味を与えるのがキリスト教の役割であったと解釈してるけど、あまりにひどいことが続いてもなおそう思えるのかなーとはふと思った。これだけのことをしても報われない、これだけ苦しんでも何もいいことがない、そんな場合キリスト教信者はどうするのですか?ーーーただそれでも祈るのですーーーに踏み込んでくれたので個人的にはとてもスッキリした。 なんだってそうだけど、一生懸命やるからには報われたいし、良いことがないのに辛い思いはしたくない。人に備わる欲望や本能的なものはベースとしてあって、極限の無償の愛なんていうのは基本有り得ない。日本の対岸にいる者には決して分からないのだ、と。美しいものを愛するのは簡単なことであり、主が愛したものはいつでもみすぼらしかった。 ここはどうしても抜粋したいんだけど イビキと呻き声のくだりの後、自分が棄教しないせいで百姓が苦しみ続けることを知り あの人たちは苦しみの代わりに、永遠の喜びを得る→お前の弱さを美しい言葉で誤魔化すな→あの人たちが救われると信じていたからだ→ 「お前は彼らより自分が大事なのだろう。少なくとも自分の救いが大切なのだろう。お前が転ぶといえばあの人たちは穴から引き上げられる。苦しみから救われる。それなのにお前は転ぼうとはせぬ。お前は彼らのために教会を裏切ることが恐ろしいからだ」からの 「もしキリストがここにおられたら、彼らのために転んだだろう」 マジで痛快!!! 今の日本にはたくさんの教会があって、たくさんの学校があって、クリスマスなんか最高だけど、敬虔なクリスチャンは総じて金もってない?厳しい家で大切にそだてるツールの一つとしてキリスト教は根付いていて、文中にあるようなみすぼらしさを愛するキリスト教ではない気がする。もちろん戒律が厳しそうで敬虔に見えるけど全てに金が絡むカルト宗教はもってのほか。 侍でも沈黙でもそうだけど、元来日本人にはピュアなキリスト教の教えは馴染まないんだ。であるなら、ひん曲がってるとは言え、キチジローやら司祭達のように、主だけを愛し自分だけが救われるような対面型に特化するのが幸せなんだろう。当のキリストだって、隣人を愛せよ、ではなく、自分のように隣人を愛せよといっておられるのだから。

    0
    投稿日: 2017.12.25
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    信徒が残忍な拷問を受け殉教していく様を目の当たりにし、ロドリゴ司祭は神の存在を自問自答する。 神は全てをご存じのはずなのに、なぜ「沈黙」を保っておられるのか……。 久々に重めの作品を読んだので最初は読むのがかったるいと感じていたが、どんどん引き込まれる小説。 棄教を迫られるロドリゴ司祭の胸中の葛藤や、長崎奉行井上筑前守やフェレイラ司祭の日本におけるキリスト教の解釈は読み応えがあり面白かった。 キチジローの存在と、踏絵のキリストの捉え方にハッとさせらる。

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    投稿日: 2017.12.13
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    流れるように読みやすいくせに話の内容は重々しい。信仰という一つの重大テーマは僕に様々な疑問を投げかけた。人間、生きているだけが1番の平和的存在であることが望ましいのに現実はそう簡単に上手くいかないらしい。社会の闇はいったいどこまで深いのかと頭を抱えたくなる話だった。

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    投稿日: 2017.11.08
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    宗教の話って面白いなぁ。 作中で、日本人にはキリスト教が曲がって解釈されて信仰されるために、布教は成功しないといった言葉があったが、非常に共感できた。 僕だって形式上は仏教徒ということになるけど、精神的には無信教風八百万信仰が根をはっている。 遠藤周作の考える外国人宣教師から見た日本人って構図が面白い。 日本人こわすぎ。 「アガペーってどういうこと?」がテーマのようだ

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    投稿日: 2017.10.24
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    30年程前に大学のシスターに「氷点」と「沈黙」を紹介され、「氷点」はすぐ読んだのだが、「沈黙」は気になりつつも読んでいなかった。映画化後もしばらく経ってしまったが、今回、読むきっかけを得られたことに感謝。転ぶ、棄教・・・。読んでいて苦しくなった。「安心して行きなさい」に少しだけ救われた。

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    投稿日: 2017.09.25