謎のアジア納豆―そして帰ってきた〈日本納豆〉―(新潮文庫)
高野秀行
新潮文庫
シルクロードならぬ納豆ロードを行く
日本では米よりも早くから納豆が食べられていたのかもしれない。東アジア原産の大豆を煮るか蒸して柔らかくする。麹菌で発行させれば豆豉や味噌や醤油になり、納豆菌で発行させれば納豆だ。 味噌が中国からやって来たのはほぼ間違い無いのだが納豆はよくわからない。中国では一般的には食べられていないからだが、日本でも普通は東の食べ物とされている。アジア納豆の分布を調べていくと日本から朝鮮半島一体と貴州、雲南からタイ北部、ミャンマー北部の山岳地帯からブータンやネパールまでの分布が見えてくる。なんというか山の食べ物なのだ。 普通は納豆は干した藁についた枯草菌の1種である納豆菌による発酵と思うだろう。しかし実は納豆菌自体はそこらにいる。金沢上空3000mので取れた黄砂に付着した納豆菌で作られたそらなっとうもある。茹でた大豆を葉っぱにくるんで保温しておいておけば条件が合えば勝手に納豆ができてしまうというわけだ。アジア納豆ではシダやバナナなど使いやすい葉っぱが使われている。藁包の場合は包む手間は大変だけど通気性がよく保温性に優れできた納豆が傷みにくい。仕込みの時期は元々は冬なので比較的涼しく、使える葉っぱがあると同時に優先されるタンパク源(魚など)があまり取れないところで食べられて来たのだろう。稲作の伝播とはどうも一致しないのだ。 探偵ナイトスクープ発の日本全国アホバカ考では新しい言葉は京都を中心に同心円状に広がっていく様子が丁寧に調べられている。言葉はだいたいこれに当たるが納豆はどうも当たらない。日本の納豆の発祥の地は秋田ということになっている。 大豆は優秀なタンパク源としてだけではなく味噌や醤油など調味料として使われて来た。そしてアジア納豆も同じく調味料になっている。乾燥した納豆を焼いた納豆せんべいを割って砕いたり、汁物にペーストを入れたりという使い方だ。日本では味噌が好まれたため調味料としての存在感はない。この本の素晴らしいところはアジア納豆が日本でもできるかを再現したところだろう。さらっと読めるが十分論文が書ける調査だ。続きはアフリカ納豆が待っているらしい。
0投稿日: 2020.12.29中国の行動原理 国内潮流が決める国際関係
益尾知佐子
中公新書
陰謀論と家父長制
多くの中国人は、近隣国が中国の文化にひれ伏して朝貢してきたと信じている。そして道徳的な優位性や文化の力によって世界からリスペクトされたいと言う願望が強い。経済力や軍事力によって大国の地位を得ることは、中国人にとって十分ではない。 中国人の世界観では陰謀論がきわめて強い。そして中国共産党は人類の明るい未来「和諧世界」実現のための崇高な任務を負っているということになるのだが70年経っても国内に多くの問題点があるとすれば理論上、「人類の不満」の主な源を国際情勢に求めざるを得ない。 尖閣諸島秋の漁船衝突に端を発する日本に対するレアアースの禁輸やTHAAD配備に対する韓国への不買運動など中国はそれが制裁だったとは認めていないが近隣国は中国の意に沿った行動をとるべきとの考えが強まっている可能性は否定できない。この辺りの感覚は親日的な中国人でもアメリカの陰謀説を唱えたりするので自分たちがどう見られているかに無自覚なのだろう。 中国社会の組織は伝統的な家父長制、強い権威を持つ父親と平等な兄弟という構造を持っている。これは政府にも会社にも共通する。共産党中央が親で党と軍と国家行政系統が兄弟に当たるが兄弟間では組織的な協力関係はなくそれぞれが親の権威に従う。胡錦濤政権では家父長の力が弱いと見られたため軍の突き上げに合い対外関係はむしろ緊張した。弱い家父長の下では兄弟達は自分たちの利益確保に走る。これは会社でも同じことが起こる。中国のリーダーとは恐れられ嫌われる存在なのだ。そして強い権威に対しては忖度が兄弟達の行動を決める原理となる。 2017年ダボス会議の基調講演で習近平は「グローバルで自由な貿易と投資を発展させ、開放性のなかで貿易と投資の自由化と簡便化を進め、保護主義反対の旗を鮮明に掲げていく」「中国の発展は世界のチャンスだということ、そして中国は経済グローバル化の受益者であり、さらにそれに貢献する存在だということだ。」中国共産党の最大のオリジナリティは、共産党の名前を掲げながら計画経済をあきらめ、自由主義経済ー彼らの伝統的な呼び方では資本主義経済ーに走ったことであろう。習近平は強い権威で国内を押さえて、国際的に尊敬される存在を目指している。真面目にだ。恐れられ嫌われることと尊敬されることは中国の組織では両立する。近隣国が中国をおそれ嫌うのは尊敬される過程ということになってしまう。 習近平体制は相当長期に続く可能性はあるが、強力な家父長を失ったあと中国社会は必ず拡散の方向に向かう。そして何がどうなるかだ。
0投稿日: 2020.08.18アストロボール 世界一を成し遂げた新たな戦術
ベン・ライター,桑田健
角川書店単行本
サイン盗みさえなければスカッとした話なのだが
2014年シーズンのヒューストン・アストロズは過去半世紀で最悪のチームだった。過去3年で324敗、この年も最下位争いをしていたがスポーツ・イラストレイテッド6月30日号の表紙は新人外野手ジャージ・スプリンガーの写真とともにYOUR 2017 WORLD SERIES CHAMPSと予想がのった。この本はアストロズがそれをどのように達成したかを追ったものなのだが、問題はこの本に書かれていないその後だ。この本の主役達GMのルーノウ、ベテランのベルトランそして監督のヒンチはサイン盗みを主導した。クライマックスとなる2017年のワールドシリーズではベルトランがダルビッシュの癖を読み攻略したことが描かれている。第3戦ではシーズン中26%の空振りを取るダルビッシュの49球に対しアストロズは25回バットを振り空振りは2回、わずか8%だった。 「実際のところ、アストロズの打者たちには読めていた。」 第7戦でダルビッシュは癖を修正したがやはり2イニングで5点を失いSIの予言は達成された。 サイン盗みはさておき、アストロズの再建はドラフト戦略から始まった。メジャーでプレイできる選手は1割にも満たない。セイバーマトリクスと従来のスカウトを組み合わせ、スカウトの直感まで数値化しようとした。真に価値のある情報と認知バイアスを分けるためだ。背景にはGMのルーノウが2009年セントルイスのスカウト部長時代に1巡目19番目でなぜもう1人の候補を選ばなかったか何度となく振り返ることになる後悔がある。逃したトラウトは大きかったのだ。 2012年のドラフトでは全体1位で全米最高の逸材と言われたバイロン・バクストンではなくプエルトリコの高校生カルロス・コレアを指名した。試合成績についてはどのチームも同じ情報を持っているがアストロズが重視したのはコレアの性格や成功したいと言う強烈な意思を持って努力し続けたことなどだった。また、契約金が安めに上がり下位指名選手への契約金上積みが可能になると言うことも後押しした。 チーム内の評価方法を変えたことでアストロズはスプリンガーやダラス・カイケルを見出だし、さらにホセ・アルトゥーべは長打を打てる打者に成長した。だが成功ばかりではない。 2013年シーズン終了後J・D・マルティネスはスイング改造に取り組んだ。いわゆるフライボール革命に適したアッパースイングを取り入れベネズエラリーグではOPS957と成果を出した。しかしアストロズのアルゴリズムは27歳の選手に他の打者の半分しかチャンスを与えず、20打席の内半分が代打だったこともありヒット3本で春季キャンプを終えアストロズはマルティネスを解雇した。それから4年間打率3割、平均32本のホームランを打つ選手に対し何の見返りを得ることもなく。 アストロズのドラフト戦略の成功や2017年夏のドラフト期限残り2秒でのジャスティン・パーランダーの補強、ベルトランがもたらしたチーム内の好影響などはノンフィクションとしては良いエピソードだ、サイン盗みさえなければ。
0投稿日: 2020.08.16囲碁ライバル物語
内藤由起子
囲碁人ブックス
ライバルのいた時代の物語
第1局 石田芳夫-林海峰 23歳で林海峰を破り本因坊を5連覇した石田だが7大タイトルは9つで挑戦手合は19回。林との対決では5-1とかもにした。年齢的には加藤正夫がライバルのはずだが、加藤の活躍は石田の5連覇の終わりと入れ違いのため0-3で加藤と対決は少ない。一方で6歳年上の林は2001年に59歳で依田に挑戦するなど息が長い。 林海峰の対戦成績は対坂田6-2、対加藤2-5、対小林2-3、対趙2-2 昭和40年代は坂田栄男の時代が終わり若い林海峰と石田が碁界の中心となっていった。 第2局 大竹英雄-林海峰 同い年で誰もが認めるライバルながら直接対決はわずかに2回。大竹の活躍は1975年に石田から名人をとった頃からで林からは10年遅れと言える。1976年以降加藤、武宮、趙、小林が次々とタイトルを取っており木谷門では石田に代わり年長の大竹が昭和50年代から平成までは木谷一門の時代でその前半を引っ張ったのが大竹と加藤だ。 大竹のタイトル戦は対趙が2-8と最も多く、対加藤は4-2、対小林1-5、対石田3-0、対武宮1-1と門下全てがライバルとなっている。 第3局 趙治勲-加藤正夫 趙が6歳で来日し内弟子生活を始めたころ、石田、加藤が次々に入段し1965年に武宮と小林が加わり10年近く一緒に暮らした。加藤が少し遅いとは言え17歳で入段したころ、趙はまだおもちゃのピストルを持って走り回る小学生だった。石田、武宮とともに木谷門の三羽烏と呼ばれた加藤はタイトルの数ではこの三人の中では大きく抜きん出ている。対小林4-6、対趙3-5 、対武宮3-1 第4局 小川誠子-小林千寿 第5局 小林光一-武宮正樹 学年と入段はともに武宮が2つ上だが木谷門下に入ったのはほぼ同時で初タイトルもほぼ同時。しかしタイトル戦の常連となったのは昭和60年代以降と2人の活躍は30代以降がメインだ。武宮がしかけた舌戦もあり、外野から見れば囲碁では珍しいプロレス的な対決だった。最終的な実績は小林に軍配が上がるが人気では武宮か。 武宮の対戦成績は対小林2-3、対趙2-4と木谷門下でのタイトル戦がほとんどだ。 第6局 趙治勲-小林光一 対戦成績は趙の8-2と偏ったが3大タイトルでの対決9回はまさにライバルだ。年は小林が4歳上だが木谷門では趙が先輩で小林の入門時は趙の方が強かった。しかし小林が先に入段した。初の7大タイトルもほぼ同時ながら20代の趙は次々とタイトルを重ね昭和60年代から平成の前半はこの2人が碁界の中心に居続けた。 趙の対戦成績は上記以外では対王立誠4-4、対依田2-2、対山下2-1など。 第7局 趙治勲-依田紀基 木谷一門の時代を終わらせるのは依田だと思っていた。15歳で入段し11連勝。18歳で名人戦リーグ入りしかしその後歌舞伎町におぼれ、バクチにハマりとこの辺はどん底名人で。7大タイトルは1995年の十段から2005年の碁聖までとほぼ30代だけと言うのは寂しい。 趙との4戦以外めぼしい対戦相手がないのはライバルといえる存在がいなかったと言うことだろうか。 第8局 山下敬吾-羽根直樹 第9局 張栩-高尾紳路 第10局 井山裕太-芝野虎丸 平成四天王は入段がいずれも平成になってから。タイトルは2000年山下21歳が最初で2000年代始めは趙、王立誠、依田から四天王の時代へと変わっていった。しかし井山の登場で全てが変わる。2010年以降は誰が井山からタイトルを奪えるかが焦点となった。2019年までの10年間で井山の出てこないタイトル戦はわずか15回だ。 井山の対戦成績は対張栩6-3、対山下11-1、対高尾6-2、対羽根1-0、対河野臨7-0、対村川大介3-2、対一力遼5-0、対許家元1-1、対芝野0-1 張栩は対山下6-2、対高尾3-2、対羽根1-0、対依田3-0、対芝野0-1 山下は対羽根5-2、対趙2-1、対河野0-3、羽根-高尾は2-0、以外だが山下-高尾のタイトル戦がない。 国内ではライバルのいない井山だが中韓には同等以上の相手がおそらく20人以上いてその上にAIがいる。 ライバル物語が描ける時代はもうあまり残っていないかもしれない。
0投稿日: 2020.06.14ハイパーハードボイルドグルメリポート
上出 遼平
朝日新聞出版
暗闇の中の寸胴は地獄の味か天国の味か
これはあかんヤツや。ヤバイところでヤバイヤツの食う飯を見に行く、秀逸なワンアイデアをディレクターひとりのロケで成立させる力業。こんなことをやるのは戦場カメラマンくらいにだろうにテレ東社員ディレクターがやってしまう。よく無事に帰ってきてくれました。 「リベリア 人食い少年兵の廃墟飯」「台湾 マフィアの贅沢中華」「ロシア シベリアン・イエスのカルト飯」「ケニア ゴミ山スカベンジャー飯」ここだけ見ればとても中華以外は美味そうには思えないが、上出遼平はどこに行っても出されたものを食う。そして意外と美味いものもある。潔癖症らしいのだがよくやるわ、ほんと。 内戦後のリベリアでは元兵士たちがもはや敵味方関係なく同じ廃墟に暮らしている。リベリア人ですら近づかない高リスクエリア。通常の取材であれば警官を護衛に雇って行くところだがそれでは飯を見せてもらうと言うところにはたどり着かない。とんだ突撃隣の朝ごはんだ。 2つのミッションをクリアした上出はわざわざ帰国を1日伸ばし、リベリアで最もヤバイ場所へ行く。国立共同墓地を貫くわずか50mのその通りは警察も立ち寄らない。カメラを持っているだけで襲われる理由としては充分な場所だ。他の場所はボスを見つけて話をつけ、終わったらボスに謝礼を渡すと言う一応のパターンがあるがここでは誰がボスかもわからない。持っていたGoProは一度取られる。ポケットの中には手が入ってくる。掏摸か強盗で金が入ったら飯を食って、残った金でコカインを買うそう言う場所だ。 上出が無事に脱出できたのは運もあった。墓場で頭蓋骨を持って微笑むファム・ファタールの名前はラフテー。200円で身体を売ってその金で飯を食う彼女の男は墓場のボスだった。ラフテーの食事は暗闇の中、蝋燭もなく屋根しかない食堂。芋の葉っぱと魚の燻製を煮込んでパームオイルをかけた煮込みと山盛りの米のセット。「様々な食材がごった煮にされて、もう作ってる本人でさえこれがなんなのかわからなくなっているのではないかと思うほど複雑な味がする。焦げ茶色のドロドロの液体は食味の沼のヘドロのように、旨味が澱のように凝縮されて、熟成されている。老舗鰻屋の継ぎ足しのタレのような芳醇な香ばしさに、干し魚の旨味、そして芋の葉の粘りと青い香りに、パームオイルの酸味。美味い。米がすすむ。」 渋滞の中を逆走し、待たせた飛行機にようやく間に合った代わりに財布を落とした。そして3日かけて日本へ帰った上出は翌日台湾へ飛んだ。待っているのはマフィア飯だがまだアポは取れていない。 しかしこの企画を通してしまうテレ東もどうかしてる。
0投稿日: 2020.06.09ローマ法王に米を食べさせた男 過疎の村を救ったスーパー公務員は何をしたか?
高野誠鮮
講談社+α新書
公務員のヴェンチャー起業物語
石川県羽咋市と言えば千里浜なぎさドライブウェイ。この本で紹介されているコスモアイル羽咋には月の石やルナ/マーズ・ローバーが展示されていてそれも100年間無償だそうだ。ヴォストーク帰還船の実物やシールドは本物のアポロ指令船もある。行けばよかった。 このコスモアイルを立ち上げたのが今ではスーパー公務員とまで呼ばれるようになった高野誠鮮師。師と言うのは公務員でありながら日蓮宗で代々続く本證山妙法寺の第41代住職でもあるからだ。 羽咋市のHP@H24とこの本によると以下の様な限界集落だった 農地面積2320ha(神子原には110haの棚田、耕作放棄地46ha@H17)、人口23412人、8501世帯(神子原では昭和59年度には196世帯832人いた人口がH16年12月末には169世帯527人、そしてH24は110世帯323人)そして農業人口541人@H24、そして高野氏が訪問直後の平均年収は87万円・・・ 平成13年冬「おまえみたいなヤツは、農林課に飛ばしてやる!」と上司に飛ばされたことがきっかけ。それもコスモアイルで使うために買ったUFOという800ドルの番組を800万円と上司が誤解したから。農林課の仕事で神子原村へ行ったのも補助金の説明でそこで村人達に言われた言葉が「わしら、この先5年は大丈夫だろうけど、そこから先はどうなるかわからんぞ。」 高野氏が「過疎高齢化した集落の活性化」をマニュフェストにして当選した新市長の元で目指したのが若者が出て行かない街づくりで①流通を変え農家が直接販売して利益を得る。②農作物のブランド化③雇用の創出(直売所、加工所など)が具体的なプランだったがここまではよくある話だろう。どうやって成功したかがこの話のポイントだ。 市長肝いりの事業の予算はわずか60万円。これでコンサルに頼みイベントをやるという道は無くなる。いかに自分で工夫するかをスタートにした。そしてこれがヴェンチャーだと言えるのは会議をやめ、企画書をやめ、すべて事後報告にしたこと。当然反対はあるが上司のバックアップと低予算を理由に押し通す。この後はかなり行き当たりばったりだが予算が少ないと言うことはこけても失敗が少ないし、簡単にすぐ始められることから始めたのも成功の要因だろう。小さく賭けてたくさん失敗し学習する。まあガバナンスの問題もあるから結果オーライではあるのだが。 最初のプロジェクトは空き家、空き農地の貸し出しで村の人は当然よそものを嫌がる。ほっとけば無くなる村でも心情的には受け入れがたい。問題になったのは空き家と言っても仏壇がある。そこをなんとかしたのは寺に生まれた物の知恵だった。仏壇から抜魂し位牌に移すというウルトラC。そんな方法があるのか?だがあるようだ。村人も納得した。しかも入村者選びは村人の好き嫌いに任せてしまう。お金を用意してあげるからどうか来てくださいではない。お客さんは要らない、どうしても来たければ入れてやってもいいとかなり上からだが仲間になれば歓迎するのも田舎ならではか。 都市住民との交流では烏帽子親農家制度といい仮の親子関係になって都会の若者に各家庭で泊まり込みで農業体験をしてもらう。最初に呼んだのがお酒が飲める女子大生。朝から農業で夜は宴会、しかも女の子は酒が強い。にぎやかな家には他の客も来て楽しんでいく。 本題のローマ法王にどうやって米を食べさせたかというと実は手紙だった。この手紙作戦はコスモアイルから使っていて、意外と外国人相手には効果がある。何よりそんなの無駄といわずにやってみたのが功を奏した。一方で科学的な取り組みも進めている。神子原の米はうまいというのが評判だったがタンパク質の含有率を人工衛星を使って調べる方法があるのだ。しかも意外と安い。(ヘリを飛ばすより安い)ついでにこの衛生写真を羽咋市役所がビジネスとして受けている。宣伝はもっぱらマスコミを上手く利用しており、それも最初は神子原にはUFO基地があるというほぼトンデモなところから、しかもこれを特ダネがあると週プレをつりあげた。乗る方も乗る方だ。 http://www.mlit.go.jp/common/000148780.pdf 高野氏の講演要旨がこのリンクにあるが、鍵は低予算と何にでも反対する人をどうコントロールしたかだったようだ。
0投稿日: 2020.05.30経済政策で人は死ぬか?:公衆衛生学から見た不況対策
デヴィッド・スタックラー,サンジェイ・バス,橘明美,臼井美子
草思社
失業率と自殺率を切り離すことはできる
どの社会でも、最も大事な資源はその構成員、つまり人間である。したがって健康への投資は、好況時においては賢い選択であり、不況時には緊急かつ不可欠な選択となる。 一般的な予測とは異なり不況は必ずしも健康を損ねないと言う「過去の自然実験」の結果がある。「1931年はアメリカ史上にあまり例がないほど健康な年になった」1929年から33年にかけアメリカの平均所得は一気に下がり、同時に総死亡率は10%減少した。33年以降経済の回復と同じく総死亡率も上昇を見せたのだ。 この多くは長期的な衛生状態の改善で説明がついたが、失業による自殺率の上昇が覆い隠されていた。逆に交通事故死の減少は自殺者数の増加を上回っていた。そしてこの2つの現象はリーマンショックでも繰り返され、アメリカでは4750人自殺者が増え、交通事故死は3600人減った。 健康への影響は他にもアルコール、うつ、公衆衛生予算の削減から来る感染症の増加、健康保険の喪失そしてホームレスの増加など様々な影響を受ける。100年前はニューディール政策が多くの人を救った。アメリカで実施された公衆衛生政策としては最大規模のものである。 東アジア通貨危機ではIMFに従い緊縮財政で予算を削減したタイでエイズによる死亡率が急増し、最初に経済が回復したのは支援を拒否し、社会保護政策への予算を増やしたたマレーシアだった。 リーマンショックではギリシャとアイスランドが好対照を示した。タックスヘブンを目指し銀行とごく一部の国民が投機に走ったアイスランドは2007年には世界で5番目に豊かな国になったがリーマンショック後にはIMFの支援の条件として保険医療関係予算の30%減を突きつけられた。しかしアイスランドの場合政府支出乗数が最も大きいのは保険医療と教育でいずれも3を超え逆に小さいのは防衛と銀行救済措置だった。2010年大統領はイギリスとオランダへの預金の返済を拒否した。リスクの高い投資者への返済を税金で補償する必要があるのか?そのため必要以上の予算削減までのまなければならないのかと。国民が団結したアイスランドは社会保障を維持したまま経済の回復も達成した。 一方で緊縮財政を受け入れたギリシャでは社会的弱者の命と健康が危険にさらされた。失業による自殺者の増加、ヘロインから来るHIV感染者の急増、そして政府は医療事情の悪化を無視し続けた。 自殺やうつを減らすための失業対策としては単純な現金給付よりもスウェーデンなどが実施したALMP、積極的労働史上政策が高い効果を上げた。アメリカのように「履歴書を用意して、シャワーを浴び、スーツを着ること」と言うパンフレットを渡すのとは違い、就職斡旋や職業訓練を実施し①速やかな再就職が可能になり②ジョブトレーナーと2人3脚で取り組むことで、しっかりとした社会支援があると思えることで精神衛生上のリスクを軽減し③失業の不安のある就業者にもなんとかなると安心感を与える。スウェーデンでは失業率が10%以上上昇したのにも関わらず、自殺率は一貫して減少し続けた。この研究によるとALMPに一人当たり190ドル以上の投資をした国では、失業率と自殺率の相関がゼロになっていた。ホームレス対策とともに健康にも経済の回復=財政再建にも効果が大きい。 現在アメリカでは史上最高レベルで失業者が増加している。日本もこれからだが過去の自然実験をぜひ無駄にして欲しくない。
0投稿日: 2020.05.07エピデミック
川端裕人
BOOK☆WALKER セレクト
作品のアドバイザーはまさかの8割おじさん
東京からほど近いC県T市、半島の先のさらに小さな半島のある街で、伝染性の肺炎が発生した。急激に重症化するこの病気はXSARSと名付けられ2人の国立感染予防管理センター隊員は発生源を見つけ「水道の栓を締める」ために調査に向かう。新聞報道で崎浜病と名付けられ周辺の住民は崎浜地区を封鎖にかかる。街には新興宗教団体の施設がありバイオテロの疑いも。最初の感染は一度きりなのか、それとも持続的な曝露なのか。謎の少年は何を知っているのか。 新柄コロナで言えば発生源はP4施設か、海鮮市場の野生動物なのか。最初の患者は誰か。感染者の共通点は何で感染経路はどこかというようなミステリーです。2007年の作品なのでSNSはないがコンピュータウイルス「リヴァイアサン」が現実のウイルスの暗喩として登場する。
1投稿日: 2020.05.05紙つなげ! 彼らが本の紙を造っている 再生・日本製紙石巻工場
佐々 涼子
ハヤカワ文庫NF
私は日本製紙の煙突の白煙が長いこと好きではありませんでした
東日本大震災で3700人を超える最も多くの犠牲者を出した宮城県石巻市、市内北東部のリアス式海岸沿岸は壊滅し津波は北上川を遡上し5km上流の大川小では児童74人が犠牲になっている。地図を見ているといくら川があるといっても東側にはいくつもの山が連なりこの山を越えて津波が襲うと言うのは知らなければ想像しがたい。日本製紙石巻工場があるのは南浜地区という牡鹿半島に守られた石巻湾に面しており、石巻市の中心部に近く、低い建物しかない石巻では日本製紙の巨大な煙突と吐き出される白煙がランドマークになっていた。 従業員のインタビューからは地震直後誰もが津波を心配していたという様子はない。例えば原動課長は津波よりも高温のタービンが急に止まると自重でたわんで歪んでしまうことを心配していた。それでも他の課が全て避難したため逃げることにしたのだがこれが地震発生30分後のことで、さらに30分後には津波が工場を襲った。工場のすぐ前には高さ60mの日和山があるが工場敷地は1km四方ほどもあり、もう少し津波の到着が早ければこの工場だけでもどれだけ被害が出ていたことか。 日本製紙石巻工場の震災前の生産量は年間約100万tなかでもN6という最新式のマシンは1日の生産量が1000tを超える世界最大級の設備であり、小さな製紙工場に匹敵する。このマシンの投資額は約630億円で、東京スカイツリーの総工費役650億円に匹敵する。石巻工場だけで日本製紙の洋紙国内販売量の1/4を供給していた。また、最初に復帰することに決まった8号機は雑誌や単行本やマンガなどに使われる出版用紙を作っていた。8号が動かなければ日本の出版業への影響が大きい。 工場長の倉田は震災直後から会社は石巻工場を見捨てないと信じてまず1台を動かす、期限は半年と宣言する。工場は津波が運んだがれきで埋まり、近隣から運ばれた家屋の2階部分が18棟、自動車が約500台そして後に工場内で41名の遺体が見つかっている。石巻工場がおかしくなれば日本製紙もおかしくなる。半年での復興は無茶な注文でもあり、従業員にとっての希望の光でもあったようだ。3月26日に工場入りした社長の芳賀も同じ思いで「これから日本製紙が全力をあげて石巻工場を立て直す!」と宣言した。「金の心配はするな。銀行と話はつけてきた」最終的には日本製紙の被害額は東京電力に次ぐ1000億円にのぼっている。 苦労の末半年後に8号機が震災1年後の3月9日にN6が立ち上がったがこの本が書いているのはプロジェクトXの話ではない。日本製紙の復興は一つのシンボルだが、目の前を流されていくのを助けられなかった人への思いや工場内に津波で運ばれ水が引くまで車中で我慢して佐藤達に助けられた女性の話。自粛ムードの中でも野球部を応援した会社と復活した野球部を応援した石巻の人達など様々なサイドストーリーがある。 工場外に流出した巻取(紙のロール)を回収に行った職員がついでにがれきを片付けると話に尾ひれがつき「日本製紙に頼めば瓦礫処理までしてくれる」とうわさがひろまった。ある工場では巻取1つのために会社はホイールローダー、4トン車、クレーン付きトラック、ゴミ収集車を手配し20台以上重なったトラックや乗用車を片付けた。それでも「あんたのところの製品さえ入ってこなければ、うちは壊れなかったんだ!」と非難の電話を受けることもあった。 ボイラーに火が入った翌日の市民からのメールがある「私は日本製紙の煙突の白煙が長いこと好きではありませんでした。でも震災が起きて、煙突から煙が出ないのを見て、さびしく思っていました。今日、煙突から白い煙が上がるのを見て、とても勇気づけられました。私たちも負けずに頑張ろうと思います」工場の復旧は従業員のためだけではなく、石巻市民にとっても復興の希望の光のひとつになった。
0投稿日: 2020.03.18しんがり 山一證券最後の12人
清武英利
講談社文庫
俺はまたも便利や使いされようとしているのか!
山一証券の破綻に際し前例のない企業内の詳細な調査を実施し、報告書を公開したのはそれまで日のあたらない場所にいた業務管理本部長の嘉本隆正常務をリーダーとする七人の調査委員とそれを助ける少数のメンバーだった。 会長の行平は捜査が本格化した後も「うちには違法行為はない」と言張り会長の座も日本証券業協会長の座も降りようとしなかったが8月6日後任社長人事に乗り出す。山一にはこれまで企画室の室長をしていなければ社長につけないという不文律があった。また法人営業部は山一の主流派であり社内権力と呼ばれている。行平は引責辞任の後も権力を手放すつもりはなく、社長選びは難航した。まず総会屋事件に関わっていたり監督責任を問われるものはだめだ。次に企画出身では内部の抵抗が大きい。その上で自分たちの言うことをきかせられる人物。一方で傍流のリテール部門や若手の役員たちは体制の変更を望んでいたがそれを自分がやるというものは結局現れず社長候補を擁立できなかった。そうして選ばれたのが自主廃業の発表時に「社員は悪くありませんから!悪いのは我々なんですから!お願いします。再就職できる様お願いします。」とテレビの前で泣き叫んだ野澤だった。 11月18日嘉本は経営企画室を所管する常務の藤橋から唐突に切り出される「実は、当社には含み損が約2千6百億円あります。」そして業務管理部がSESCの窓口として報告書を提出して欲しいと。翌19日には大蔵省から自主廃業を通達され22日には日経がスクープした。そしてその日の臨時取締役会で野澤社長がこう言った。「(不良債権が発生した経緯は)嘉本常務に依頼して調査を開始しました。」社長がこの調査を依頼したのはほんの1時間前の話だった。 俺はまたも便利や使いされようとしているのか! 怒りを腹の内ににしずめ嘉本は徹底的な調査を決意する。全権委任をこの場で取り付け嘉本と業務管理部が会社の中枢と山一の看板部門の法人部門に喧嘩を売った瞬間だった。取締会では立派なことを言いながらさっさと見切りを付け再就職した若手取締役に対し嘉本を含めた数人の取締役は調査委員として無給で働き始めた。一方で菊野は会社の清算を引き受ける。顧客から預かった株券や資産の返却、再就職の斡旋、そして債務隠しの真相をあばく社内調査それが12人の「しんがり」の山一での最後の仕事だった。 結論から言うと飛ばしの実態はバブル期以前に遡る。当時社長候補だった行平の部下が複数の架空子会社の決算期の違いを利用して債務を飛ばし、ある問題が発覚したとき行平が責任を取って海外に飛ばされた。行平復権を狙う法人部門はこれまで以上に利益追求に走り、顧客からの預かり資産を裁量で運用し、損失が出れば補填し利益が出れば他の損失を埋め合わせた。時には利益を個人で着服し、ある元副社長は年間5百万を越える飲食費やゴルフ代を会社につけまわした。役員たちは会社の金で遊んでいた。嘉本の元にはさまざまな内部通報が届いたがそこまで手は回らない。密告者は自分は表に出ず嘉本らに丸投げしようとした。リテール部門もそんなに上品なわけではなく目標達成のためによく分かってない相手に無理矢理売りつけるケースもあった。しかしそう言うことが出来ず疎まれたものが流されてきたのがこの業務管理部だったのだ。 嘉本らの調査の結果90年過去最高の決算を出した年に既に簿外債務は1300億ほどに膨らんでおり破滅的状況だった。ヒヤリングでは当時の大蔵省証券局長が飛ばしの支持をだしたとの証言が得られている。「私たちは私たちを変えてゆきます」91年秋に山一はこう新聞広告を出し業務管理本部を新設したが首脳陣の意識と行動は何も変わらず、行平の権力基盤は強化され、その一方で行平自身も当事者能力を失っていた様子がうかがえる。社長の三木はこう言った「行平さんがこれしかないと言うからしょうがないでしょう」後の副社長で経理担当常務だった白井はこう言う「会長と社長のハラが固まっていなかった。どんな意見具申をしても、上のハラが固まらないとどうしようもなかった」白井を含めて代表権を持つ副社長は5人もいたのだが何のための代表権だったのか。 そして最後にハラを決めたのがあぶれものの嘉本たちであり、自分も株主代表訴訟に会うことを覚悟で実名の報告書を公表したのだ。山一が自主廃業に追い込まれたのはスケープゴートになった面もあるが会社の幹が腐っていたからだ。何も知らない現場の社員にとっては迷惑な話だがその多くが再就職できたことが救いだ。
0投稿日: 2019.12.12