
イニシエーション・ラブ
乾くるみ
文春文庫
一番驚いたのは...
二度読み必至の本と評判だったので手にとったが、国鉄からJRに変わったばかりとか、テレフォンカードの度数がどうとか、なんか時代を感じさせるワードが出てきて、そこにまず驚いた。 で、やっぱり最後の一文を読んでまたビックリ。 訳がわからず別の解説を見て、ようやく腑に落ちた。 なるほどね。 目次の段階から仕掛けが始まっているとは...。 あらためて目次を眺めているだけで、各章のタイトルが曲名である理由も意味があったのだと。 ただ一番驚いたのは、著者名で検索していて、髭面のオジさまが出てきたこと。 てっきり女性作家だと思ってた。
0投稿日: 2024.08.21
高瀬庄左衛門御留書
砂原浩太朗
講談社文庫
時代小説の持つ強み
亡くなった北上次郎氏が本書を絶賛するなかで指摘していたのが、現代小説にはない時代小説の持つ強みだった。 いまと違って流れる時間がゆっくりとしているため、描かれる自然の描写が登場人物たちの会話の間に調和しやすいのだと。 絶え間なく響くおもい水音は間合いを詰めにじり寄る剣先と、花弁を散らす風は尾を引く名残りと、黄金色に輝く水面は若者の高揚感と呼応する。 この強みを実にうまく使っていたのが藤沢周平であり、著者は「藤沢教信者」と自認するほど小説の虜となった作家。 文体が似ているという指摘にも、理想型の一つと意に介さない。 例えば次の、甚十郎が宗太郎の養子受諾を知らせる場面。 「ずいぶん迷ったようだが、お前にも背中を押されたと言っていた」 「はて」庄左衛門は首をかしげた。「養子になれ、とすすめた覚えはないが」 「本人はそう思っているぞ」落ちついた声に、はじめて困惑の響きがまじった。 「それは、あの者のなかにあった答えだ」しずかに告げると、考えをめぐらすような間が空く。鶯とめじろの囀りが交じり、溶けあうようにして沈黙のなかへ広がっていった。
0投稿日: 2024.08.19
現実とは? 脳と意識とテクノロジーの未来
藤井直敬
ハヤカワ新書
脳が作った小さなものがたり
私たちは現実を感じられたとしても、自らの脳がどのように現実をつくっているかをを認知することはできない。 脳内では五感を通じ、絶え間なく情報が統合され更新され続けている。 身体のレベルでも同様のことが行なわれ、それによって現実世界は刻一刻と形作られる。 所詮、五感を通じてでしか知ることのできない現実世界は、はなから本当の現実世界ではないし、ごく一部のアクセス可能なものしか反映していない。 にもかかわらず私たちは、目で見て耳で聞くこの現実を心底信じきっている。 それがたとえ、脳が作った小さな物語に過ぎないにしても。 長いこと脳味噌が浸っていると、それが現実に変わってしまう経験は、都市生活者の日常においても、あるいは日々触れるお金や数についても起こっていること。 現実というのは確固とした絶対的なものでなく、我々がひいては脳が勝手に決めている恣意的なものに過ぎない。 また現実は言葉とも密接な関係を持っていて、言葉というフィルターを通して体験される非常に主観的な経験でもある。 関係者全員に共有された現実を改変するものとしては、戦争や死という体験があげられる。 とりわけ死は、それによって物理的存在から主観的に存在への転換が脳内で行なわれるため、ある種の制御不能な断絶も生めば、社会で共有される物語の改変を伴うものにもなる。 私たちは普段、現実に対して無自覚すぎるので、現実を疑うこともしなければ、その本質が何であるか探ろうともしない。 現在のXR技術を使えば、新たな人工現実を作り上げることなど雑作もないことで、疑わない限り現実にやられっぱなしになる時代がそこまで来ている。 著者が手がけるBMI技術はまたまだ未成熟なものではあるが、自身の内的な情報を可視化したり、テレパシー的に念じるだけで物を操作できたりするなど、従来の境界の殻を破る可能性を秘めている。 面白いのは対談相手である養老先生が現下に「気持悪いね」と否定していること。 テクノロジーによって、自己と他者との境界だけでなく、自己の基盤そのものを破壊してしまう危うさを感じているからだ。 わかってもらえず、そこから深みのある議論もできず残念な対話となってしまったが、そこから養老先生の謎を分析してみせ、興味深い。 なぜ養老先生は解剖学者で脳科学の分野にもあれほど造形が深いのに、あんなにも虫取りに夢中なのか。 飽きずに一日中でもゾウムシやアリを眺めていられるのに、分類というものをなぜあれほど嫌うのか。 「養老先生が面白いなと思うのは、意識に興味がありながら、実際に惹かれるのは形態であり、形態が作り出す分類が本当は嫌なのに、形態があまりに面白くて、その観察を突き詰めると、差異を系統立てて分類する必要があって、その延長には大嫌いな一神教の神が待ち構えているという構造だ。 議論の中でも、ただアリを見ていることが面白いというのと、同じようにゾウムシの形態を延々と見ていること自体が面白いのであって、本当は見るだけで十分なのに、それを理解して整理しようとすればする程、途端に脳の中に分類学が現れて、嫌なところへ連れて行かれてしまう。そのモヤモヤが養老先生の魅力なのだなぁと今回も思った」 日本人は脳内ARの国民だというところも面白い。 能楽師によれば日本人は昔から見立ての力がめちゃくちゃ強い。 能もそうだし、寺にある枯山水もそう。 これは様々なものに目に見えないものを観る力が日本人にあるためだ。 それと名付け(ワーディング)の重要性についても興味深い。 VRも「バーチャル・リアリティ」という言葉で名付けられることで、その後の発展が約束された。 白血病もそう。 もともと「血液化膿症」という仰々しい名前がついていたのを「白い血の病気」へと改名することで、その後の病気の理解にどれほど貢献することになったか。 痛みや感覚によってはじめて、人は現実の本質を知ることができるという指摘は、先日読んだ北九州監禁連続殺人事件の本をフラッシュバックさせた。 松永が被害者らに繰り返す通電の拷問。 最初は、ピリッとする遊び感覚で行なっていたものが、回数を重ねるごとにエスカレートしていき、苦痛も恐怖心も倍増していく。次第に被害者の頭を占めるのは、そのことだけ、いつ通電されるか、通電をどうすれば避けられるかだけが日々の関心事になる。 衝撃や痛みによる恐怖で容易くその人の現実を一変させ、支配することができることを知ったとき、別にVRだのSRだの使わずとも、アナログなテクノロジーで十分に操作可能ではないか。
0投稿日: 2024.08.17
なぜヒトだけが老いるのか
小林武彦
講談社現代新書
人間社会に「老い」と「シニア」は必要
死はすべての生物に共通する絶対的なものだが、老化は極めて例外的で、とりわけ長い老後はヒト特有の現象だ。 ヨボヨボな状態の生物など、ヒト以外ではまず見つからない。 ではなぜ、ヒトだけに長い老後があるのだろうか? 著者は老化をヒトの社会が作り出した現象だと定義する。 子育てや教育に貢献し、私利私欲なく集団内での調整役に優れた年長者が、徐々に社会から必要とされるような存在となり、生物学的にもそれが強い集団として選択されていった。 そのことでますます寿命が延びて、シニア量産の「正のスパイラル」がかかったのだとする。 すなわち、シニアの活躍が人の進化の過程で人類の寿命を延ばし、ひいては今の文明社会を築いたのだと指摘する。 ゆえに「なぜヒトだけが老いるのか」ではなく、老いた人がいる社会が選択されたために生き残ってきたのだ。 ここから人類の寿命延長に貢献してきた、著者独自のシニア論が始まる。 老害なんて言葉は差別だし言語道断だ、社会は元気なシニアをもっと活用すべし、有能なシニアを定年制などによって排除するなどもってのほか、教育現場などへシニア人材を投入していけば、やがて安心して子供が産めるような国にまた戻るのだ、と強調する。 本書の半分はこの調子で、生物学者の考える社会論が展開される。 シニアの役割を強調する主張に別に異論はないのだが、著者の専門とする研究成果についての掘り下げた知見を期待していた読者からすると、少し肩すかしの印象を拭えなかった。
0投稿日: 2024.08.09
102歳、一人暮らし。哲代おばあちゃんの心も体もさびない生き方
石井哲代,中国新聞社
文春e-book
一つ一つが上等でいとおしい
辞書をいつも手元に置き、新聞や本を読んでてわからない言葉があったらすぐに調べる。 「分からないままにするのが気持ち悪い」からだ。 亡くなった祖母の傍らにも常に小振りな辞書があったのを思い出す。 見るから使い込まれているが、布生地でオリジナルに装丁され、大事に思っていることが伝わってきた。 「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」が口癖で、疑問点はその場で質問攻めにしていたのも同じ。 本書は地方新聞で連載時から話題になり、大手の出版社から本にまでなった一冊。 読んでるとおばあちゃんと女性記者二人の心の通わせ方が実にいい。 ありきたりなご長寿の名物キャラを見つけて長生きの秘訣を聞き出して終わりということではない。 読んでると、おだやかな日常の裏に一人暮らしならではの覚悟や葛藤が潜んでいることに気づかされる。 「きょうも大丈夫か」と常に自問し、自身の気力・体力を確かめる。 論語では「四十にして惑わず、五十にして天命を知る」とのことだが、哲代おばあちゃんは80歳を過ぎたころからようやく、あるがままを受け入れられるようになったと言う。 感情の足し算と引き算を覚え、自分を励ます名人になれた、と。 記者が書棚で見つけた本の中に、手書きの詫び文がでてきたシーンは印象的だ。 子供ができず、家の後継者を残せなかった悔恨の念は、100歳を迎えようともついぞ離れることはなかった。 「この家をどうするか、人生をどうしまうか」という不安で心がいっぱいになると、日記に文字を書き連ねることで発散させ、くよくよした気持ちを引きづらないように務める。 「ようやく自分をご機嫌にさせるこつをつかめた気がしました」という言葉は重い。 何気ない風景に妙に見入ってしまい、一日一日、一つ一つがいとおしく思え、上等なのだと感謝する。 102歳の人の目に映る日常は、すべてが特別になるのかもしれない。
0投稿日: 2024.08.05
イラク水滸伝
高野秀行
文春e-book
5千年前の方がはるかに進んだ世界
不完全燃焼のまま強烈な違和感を残しつつ読了。 前の『ソマリランド』は面白かった。 拉致同然に連れ回され、支払いも取材費なのか身代金なのかもわからないまま、身も心もソマリアに没入していく過程がたまらなかった。 だが今回は、イラクの湿地帯を優雅に川下りして自由を味わいたい? それも現地の伝統的な舟をわざわざ造らせて? それでなんで川下りそっちのけに、舟上の様子を撮ってもらう撮影会で旅が終わっちゃうのよ? しかも現地のコーディネーターに民族衣装に着替えてないと逆ギレまでして。 舟どうなったの? 旅全体でいくら支払ったのか? そもそも旅の最初からイラクの湿地帯を"水滸伝"に見立てているため、現地で出会う人出会う人に"梁山泊"のメンバーのニックネームを割り振っていくのだが、文章で読み取れる現地の人たちの冷めた反応が伝わってきそうなほど、噛み合っておらず感覚がズレてしまっている。 「治安も悪そうだし、現地の人たちの気質のせいなのか歓待もされないし、自由にウンコもできないじゃないか」って不満言っているけど、どこまで身勝手なんだよ、知るかよ、と。 もともと外国人に対して警戒心が強いため、ジャーシム宋江という顔役がいないと取材もままならず、さらにはそのネットワークも厳格な氏族社会の前では蛸壺化するため、話を聞ける相手が相当に限定されている。 著者お得意の語学力も、十分に発揮されたとは言いがたい。 いつもの如く食レポはさすがの一言で、鯉の円盤焼きやゲーマルなど、感嘆の声が聞こえてきそうなほどおいしそうに食べている。 当然、どうやって作ってるのか聞き込みをするのだが、イスラムの社会のため女性が鶴化していて表に出てこない。 なんとか了承を取り付けて取材を許されても、夫が腕組みして同席していたり、熱い鍋釜の前で顔を覆って作らされるため、打ち解けて語らう環境としては最悪だ。 イラクでは女性が鶴化するだけでなく旅人も鶴化してしまうというのも厄介だ。 自分が日本人だと言うと、いらぬ詮索を生んだり犯罪に巻き込まれたりするため、「中国から来ました」と偽って旅をする羽目に。 ただそれでもイラク人の不滅のホスピタリティは素晴らしく、誰彼となく「うちに来て一緒に食事しよう」と声をかけられ、断るのに苦労するほど。 タクシー運転手でさえ、料金なんていいから食べに来いと誘われている。 しかもその食事がまた大量で、まともに付き合っていると身が持たないのだが。 アフワールは聖書に描かれるエデンの園のモデルにして人類文明発祥の地。 なのに著者はたびたび、シュメールのウル遺跡の博物館や最古の都市国家ウルク遺跡で、逆タイムマシン感覚に襲われている。 時間の流れがおかしい、過去の方がはるかに進歩的じゃないか、と。 シュメール時代には、土地の賃貸契約書まで交わされていたのに、いまの湿地帯エリアでは私有地すら存在しない。 最古の楔形文字が生まれているのに、現代のマアダンの人たちは読み書きすらできない人がいる。 歴史は決して不可逆ではないし、過去より未来の方が必ず進んでいるわけでもない。 むしろ過去より後退することさえあるのだということを、現代のわれわれ日本人ほど痛感させられている国民もいないのではないか。 かつては経済大国だ、世界ナンバー2の技術立国だと威張り散らしていたのは昔の話で、いまでは円の安さにつられて押し寄せる外国人観光客を相手に、インバウンド需要を取り逃すなと血眼になっている有様なのだから。 そんなイラクも出生率の高さは日本の倍以上ある。 ぜんぜん裕福でなくても第二、第三夫人をもて、子供をどんどん増やせる裏には、マアダン社会独特のゲッサ・ブ・ゲッサでの婚習慣があった。 一夫多妻OKだと言っても、普通に考えれば、「婚資」が高いイスラム社会で複数の妻を持つのは、経済的にかなり難しいはずだ。 それを彼らは、イトコ同士で自分たちの娘を交換しあい、自身の第二、第三夫人にしていくという手法を編み出した。 基本的に同族同士の取り替えっこなわけだから、婚資を支払わずに済む。 それゆえにこそ交換要員として、娘をたくさん用意する必要があるから多産になる。 それでも女性が不足すれば、町の娘を攫ってくればいい。
0投稿日: 2024.08.03
完全ドキュメント 北九州監禁連続殺人事件
小野一光
文春e-book
分断工作と通電の繰り返し
ただ起きた事実だけを、一切の修飾も効果もなしに、淡々と綴るだけで怖気が止まらなくなる事件がある。 本書はそんな事件を扱っている。 読後もしはらくは頭から離れずにいる。 読まなければ良かったと思わなくもないが、同時に読まなければ知ることのできないものでもあった。 事件の最初の一報段階から、多くの人はこれが単なる監禁事件に留まらない底深さがあることは知っていた。 警察発表に先行する形で、テレビや新聞・雑誌でさかんに報道されていたからだ。 「完全ドキュメント」を謳う本書は、そんな経過をこと細かく再現している。 時々の会見のレポや検察調書などが延々と綴られるため、本の分厚さはそれが原因なのかと訝む。 しかし事件発覚から第一審の判決が下る第2章までの、全体の1/3が終わって、その次の第3章が始まると、それまでがほんの序の口に過ぎなかったのだと悟る。 事件発覚から何しろ20年以上も経過しているし、その後の報道もこまめには追っていなかった。 本書を読んで反社会的サイコパスをどう社会が扱うかといった問題や、ハンナ・アーレントの「凡庸な悪」について改めて考えさせられた。 しかしまずは、次の4つの漠然とした思い込みから。 1)監禁致傷による逮捕から連続殺人までの裏付けは芋づる式に立証できた? 否。 元担当検事がしみじみと述懐している通り、「死体なき殺人」捜査の難しさを嫌というほど味あわされている。 死体が残された殺人事件であれば、DNAなど法医学的な検査が可能なのだが、「死体なき殺人事件」では、どうしても証言頼みとなるため、言い逃れの余地が生じてしまうのだ。 松永が撮影した無数の写真など、物証はかなりあるにはあるが、それ単体ではいずれも決め手に欠けた。 例えば被害者の腕や四肢に残る多数の痕を、検察は痒疹だと判定し多臓器不全の兆候を示していたと見るが、それは松永から少女が噛んだからだとか、ペンチで摘んだからなどと主張されれば、死因の決定的な証拠として扱えなくなってくる。 遺体が見つからないこと、解体時の遺留物の痕跡さえ見つからないこと。 決定的な物的証拠がないことで、殺人を立証することが極めて困難となった。 それでは証言があれば事足りるかと言えばそうでもない。 刑事訴訟法上は、有罪を認定する証拠が被告本人の自白のみである場合は、有罪にすることはできないと定められているからだ。 しかも松永・緒方とも完黙を続けたため、検察も殺人で立件可能なのか危ぶむほど及び腰になっていた。 松永は雑談には応じるが、緒方は自分が誰かを含め一切なにも口にしなかった。 突破口になったのは、逃げ出せた少女の証言だった。 しかも彼女は抜群の記憶力の持ち主で、川に捨てた包丁に刻印された文字まで描き出し、捜査陣を驚嘆させている。 しかし序盤の捜査が、少女の証言頼みだったため、不都合も起きた。 新聞に少女の父親の実名が出てしまい、それでひどく動揺したのだ。 慌てて警察は「未成年だし、信頼関係にヒビが入る」と報道の自粛を要請するが、マスコミは「殺人事件の被害者を匿名にできるか」と反発する事態に。 しかしとまれ、初動において少女の『お父さんが殺された』という証言がなかったら、単なる監禁事件で終わっていた可能性は極めて高い。 少女が捜査員に『とにかく部屋を見てほしい』と激しく訴えるシーンが印象的だ。 捜査員が家宅捜索で片野マンションの部屋に初めて足を踏み入れた時、文字どおり凍りつき、「生まれて初めて霊感のようなものを感じた」とその後に回想しているほどだ。 「部屋に入った途端、その光景に捜査員みんなが愕然とした。背筋がゾクッとするといった表現では足りない恐ろしさだった。そこでまず感じたのは、明らかに人間の血の臭い。部屋は真っ暗で、トイレから風呂場から部屋にあるドアというドアすべてに七、八個の南京錠がかけてあって、まさに異様な光景だった。部屋の片隅には商売ができるほどの量の消臭剤が積まれており、明らかに血の臭いを消すためだと、誰もが直感した」 慌てて所轄署に捜査本部が立てられることになったが、遺体もないのに殺人事件を想定して捜査本部が設置されるのは極めて異例だった。 そういう意味では警察の初動は早く、捜査員の「やれるだけのことはやろう」という意気込みは強かった。
0投稿日: 2024.07.26
ナイフをひねれば
アンソニー・ホロヴィッツ,山田蘭
創元推理文庫
ホーソーンの正体が知りたいか?
ぶっちゃけて言うと、ホーソーンの過去にそれほど興味が持てないんだよな。 そんなに小出しにしてジラしているつもりなのかどうかしらないが、一向に期待感が高まらないので、自宅を漁って守ってきた秘密を探る場面では、ページを飛ばしてやろうかと思うほどだった。 謎めいた名探偵の正体に関心が持てないのには理由がある。 ズバリ「魅力がない」というだけではない。 本シリーズが作中に著者本人が登場するメタ小説であること、そして読者はその成果物を読んでいること、さらに物語にかなり時差がつけられていることが、その理由である。 前作の第3作目『殺しへのライン』では、第1作の『メインテーマは殺人』がようやく上梓された段階で、本作の第4作目ではその1作目の評判が上々だが、いまは別シリーズの『ヨルガオ』を構想中。 次の2・3作目は題名は決まっているが出版されてもいないというのは、さすがにタイムラグをつけすぎではないか。 こうなるとすでに、フィクションのホーソーンの正体などほぼわかった状態の著者が、作中ではその秘密を知ろうと躍起になり、それが少しずつ明らかになっているという体裁をとっていることが際立たってしまう。 盛り上がらなくて当然だろう。 肝心の謎解きも退屈で、関係者への聞き込みのパートはずいぶん古臭い印象を受ける。 このシリーズには共通点があって、犯人がかなりのドジであること、そして動機(やその説明)が少し強引であることが挙げられるが、本作も同様だった。 初期には、何度か語り手である本人が殺されかけるというシーンがあったため、現実と空想の境界に溺れる体験を得ていたのだが、それも本書ではまったくなく、単に作中人物として現実の分身ホロヴィッツを登場させることで、同時代の世事を小説上で批評させようとするためだけに、この体裁がとられたのかと勘ぐりたくなってくる。
0投稿日: 2024.07.20
六人の嘘つきな大学生
浅倉秋成
角川文庫
就活中の嘘に焦点を当てたミステリ
採用面接という現場ほど、ミステリの舞台に相応しい場所はない。 面接での無茶ぶりに近い質問に対し、知ったかぶりの返答を返す学生。 猫をかぶり、善人を演じきり、嘘八百を並べ立てるのは、学生だけでなく企業も同様だ。 学生側は企業に気に入られるため、企業側は自分たちにとって都合のいいことしか伝えないことによって。 「嘘つき学生と、嘘つき企業の、意味のない情報交換 —— それが就活」 その嘘はその場限りのものではなく、企業が存続する限り永遠と循環し続ける。 おかしな学生はまんまと入社し、企業の嘘を知り愕然とする。 企業も採用時には嘘で固めてほいほいと引き寄せ、研修中に思った学生と違うことに気づいて愕然とする。 じゃあ、正直にやればOKかというとそうではなく、確実にいい人を選ぶというミッションそのものがインポッシブルなのだから、その金看板を降ろさない限り、嘘の循環は避けられない。 馬鹿馬鹿しいとは思いつつも、全員が被害者で、全員が加害者になる、この頭の悪い「就活」という儀式をこれからも毎年せっせと続けていくしかないのだ。 本書の採用面接は少し変わっていて、学生自らが一人の内定者を選ぶグループディスカッション方式。 選抜された精鋭の中から、最も秀でた一人を選ぶはずのこの方式はやがて、意図しない封筒の登場により告発合戦に発展し、誰が嘘をつきどう見破るか、ついには誰がこの室内で最もマシかを選ぶ、ババ抜きの様相を呈し始める。 ミステリの構造としては、駄犬の『誰が勇者を殺したか』に似ている。 こちらも魔王を葬った後に死んだ勇者を顕彰するためのインタビューが、本筋と平行して進む。 犯人が誰かだけでなく、この聞き手であり語り手が誰なのかも不明にしてあるところが共通している。 肝心の聞き取り結果も、あえて質問者と回答者との間の会話文とせず、回答者のみの独白文とすることで、あとでつながりを持ち、効いてくる枝葉を隠しやすくなるし、何より話者のイントネーションをそのまま残すことで、その人物の印象操作が容易になるという効果をもたらしている。
0投稿日: 2024.07.18
変な家 文庫版
雨穴
飛鳥新社
間取りの不自然さから推理した先に
いまの世の中、本を一冊最後まで読み通してもらうことも大変なんだろう。 その点では本書は成功しているし、事実よく売れている。 家の内部の図面を前にして、間取りの不自然さや違和感から、そこで暮らす住人の家族構成や隠された秘密を推理していく手法は、確かに面白いし新鮮。 だけど主人公が、オカルト専門のライターとホラー好きの設計士のタッグなので、案の定というか、窓のない部屋は監禁部屋に、謎の部屋は殺人を行なうための通路へと飛躍していく。 突飛で変な妄想と思われたが、やがて関係者の登場でさらに謎が深まり、横溝正史ばりの陰鬱な因習やシキタリの世界へ。 令和の時代に昭和の、それも戦争直後の金田一の世界観が出てくるのも感慨深い。 読者にそれほど違和感なく受け入れられるとしたら、日本人が本能的に希求する物語構造がそこにあるのだろうな。 片渕家本家の所在地が○○県と、「事情により詳細は伏せる」となっているが、なんとなく岡山だろうなと勝手に当たりをつける。 「間取りミステリー」とあるから、最後の最後には元に戻って、後から増設された三角部屋の謎の答えを栗原が語って、それまでの推理をひっくり返すのだろうと期待したが、そんなことはなかった。
0投稿日: 2024.07.15
