
日本史の法則
本郷和人
河出新書
日本の歴史はぬるく、まったりでなあなあ
読後感は、たまたま立ち寄った居酒屋で日本史の偉い先生に出会って歴史談義を聞いていたら思いのほか面白かったっていう感触に近い。 一方では強烈な違和感も芽生えていて、いままで意識してなかった疑問点が明確になってくる感覚も。 本を読んでるとたまにあるんだけど、出会った本で答えが見つかる時と、問題が見えてくる時がある。 今回は後者で、当然いい話が聞けたと、その店の主人なら「お代は結構です」と言っちゃいそうになる。 前回読んだ『日本史のツボ』と重複する部分は多い。 それにタイトルに『日本史の法則』とあるが、"これこれこういう法則があります"なんていう記述は一切ない。 著者は日本の歴史を一言で表現すれば「ぬるい」と断言する。 まったりしてるとか、なあなあだとも言えるが、『ツボ』ではこのキータームは出てこなかったんじゃないかな。 時系列的には本書が後になるので、このワードがしっくり来たのかも。 これはピンカーの『暴力の人類史』を読んでいた時から感じていたことだけど、日本の古代の争いがやけにあっさりしているなと。 ピンカーによれば見つかった古い遺骨を調べると、ほとんどがどこかに暴力的な損傷箇所があったと指摘している。 それは想像を絶するほどの暴力の痕跡で、仔細に調べれば調べるほど、無惨きわまりないのだが、世界的にはそれはどうもノーマルらしいのだ。 しかし日本では著者の述べるとおり、権力者の遺骨にほとんど矢や刀傷がない。 そりゃ権力者は闘わないでしょうと言ったらそうなのだけど、権力者は同時に武人でもあったわけで、そう考えるとおかしな話。 政変や代替りの際にもほとんど血が流れず、争いも起こらず、あっさりしている。 他国では前時代の外戚は排除され、一族皆殺しが当たり前なのに。 日本では藤原氏にしても、鎌倉北条氏にしても、外戚の地位自体が安定し世襲化されて受け継がれている。 天皇も最初は武人だったはずだ。 戦って戦い抜いて最後に勝者となったのが大王であり、それが後に天皇になった。 権力と軍事は密接な関係にあったはずなのに、なぜか日本では国が安定すると途端に穏やかでまったりする。 女性が権力のトップになったり、都にも周囲を囲む防壁が作られていない。 そもそも古代の日本は、白村江の敗戦に起因する外圧によって日本が形作られている。 なのにと言うか、面白いと言うべきか、当時のリーダーはそんな大失敗をやらかしたのに、それに取って代わろうとする勢力が現れなかったのだ。 国内には敵がいない状況だったのか、じっくりと日本の国のかたちをつくることができ、天皇という称号、日本という国号も定められ、律令の編纂も行なわれた。 日本では、内発的な革命や大変革が起らず、外圧頼みとよく言われるが、こういう性向の民族なのか内々ではまったりしちゃう。 もともと戦いが好きではなく、既存の秩序に従順で、なあなあですませちゃう。 やがて危機感は薄れ、天皇も軍人である必要もなく、なんなら子供でもいいとなる。 藤原氏が実権を握って影で操るようになるが、面白いのは自分が天皇になろうとはしないこと。 なぜならその方が権力が安定するし、世襲化して永続化できるから。 それはその後の権力者でも同じ。 国の転覆を考えたり、命をかけて大博打を打ったりする発想がない。 ときどき権力闘争はあるが、ほとんど人が死なない。 討伐令が出ても一年で許されたり、失脚してもよほどのことがなければ腹も切らされない。 考えてみれば菅原道真も大宰府に左遷されただけ。 政争に負けたのに一族皆殺しどころか、大宰権帥に任命されて行くだけ。 「これは九州を統括する長官ですから、相当に偉いのですね。それで恨んで祟るというのだから、日本史はどこまでぬるいんだ、日本人はどれだけ甘いんだという話です」 その意味で鎌倉北条氏だけが唯一の例外。 鎌倉で起った権力闘争は、日本史のなかでも唯一といっていいほど、血を血で洗う苛烈なものとなった。 それでも「天皇や貴族を打倒する」とか「自分が将軍になる」などのスローガンは出てこない。 執権という抜群の権力を手に入れても、北条氏は分をわきまえた出世にとどまる。 京都にも近づかず、将軍にもならない。 ましてや天皇になろうなんて話は全く出てこない。
0投稿日: 2024.09.24
予言の島
澤村伊智
角川ホラー文庫
予言を信じる心理の背後には...
「推理小説なんかみんな天文学的な偶然に乗っかった法螺話、作者都合の御伽噺や」 作中のこの決め台詞にもう一つ加えるなら、推理小説とは"最後には種明かしがなされるマジック"でもある。 奇術師である作家は、観衆に見せたい(見せていい)部分と隠しておきたい部分を持っている。 後者には、見えないように隠したものとは別に、見せているのに結果的に隠してるものがある。 読者は隠されていた部分のタネを最後に明かされ、それは気づかなかったと膝を打つか、そりゃあんまりにも都合良すぎるだろうと不満を述べるかに別れるのだが、今回の反応を見てると半々といったところか。 そんな作家都合の法螺話でも、探偵役の推理には、読者が納得するだけの切れ味が求められる。 つまるところそれは、霊媒師や占い師が行なっているホット(コールド)・リーディングの手法にも重なっている。 本書では、ある人物の絶対にしないことから、その人が抱えている問題点を言い当てる場面があるが、その他にも観察によって当然あるはずなのに、ないという事実から推論が組み立てられる。 疋田山に棲むヒキタの怨霊の正体は何か。 呪いは存在するのか。 呪いを呪縛に見立てれば、何も古くからの因習に支配された離島だけでなく、現代の都会生活においてもさまざまな呪縛に支配されていることがわかる。 出てくる登場人物たちは宇津木幽子の予言に縛られ絡み取られている。 「推理小説が作者都合の御伽噺なら、予言はさしずめ読者都合の暗号ね」 予言が、現実の出来事をなぞり、巧くこじつけたものにすぎないとわかって、カラクリも理解しているのに、それでも…。 宇津木幽子は生前、膨大な予言となる詩を残しているが、そんだけあれば数打ちゃ当たる方式で、どれかは予言通りになるかもしれず、一度信じてしまえば、受け手の方から如何様にも読みかえて確信を深めてくれる。 怪しげな医薬品も同じで、必ずしも万人に効く必要はない。 たった一部の人でも、効いたという実感が得られれば、あとは製薬会社が必死に売り込む必要もない。 「あれは効いた」「頭痛薬はこれじゃないと駄目だ」となり、最後には「これを飲んだから安心だ」となる。 臨床試験で、薬効成分が何も入っていないカプセルだけの偽薬でも、飲んで病が治ったと言う患者はどうであろうか? その場合、このプラセボ効果は彼らにとって偽物になるのだろうか? 完全な詐欺師の仕業と片付けられたらどれほどいいか。 宇津木幽子のように、人をハナから騙そうと思ってしているのではなく、自分の霊能力を信じ、それを使って人助けがしたいと思っている霊媒師は、案外多いのではないか。 手練手管を身につけ、どうすれば人を誘導し説得できるかを理解し実践しているにせよ、直感や霊感の働きを完全に否定できるか。 宇津木幽子がTVのロケで初めて霧久井島を訪れた際、低い方の山を見て恐ろしい霊気を感じ、時々下りてきて住民を苦しめているのではないかと指摘した時の、島民の「なんでわかったんや」という呟き。 怨霊の正体がわかり、その成立過程を見れば、通常とは逆のベクトルが存在していることがわかる。 怨霊は霊視によって"発見された"のではなく、霊視によって"作られた"のだということ。 しかもこの霊視は完全な口からデマカセでもなく、少し直感の鋭い人なら気づけるレベルの違和感を増幅したものが土台となっているとしたら、これは単なるカマシと言えるのか。 予言とは異なるが、地震予知も専門家に言わせれば相当に胡散臭い。 プレートの沈み込みに起因するメカニズムはわかっていても、実際の発生を言い当てられるかとなると話は別で、地震周期説も地球の歴史全体からみた場合、サンプル数が少な過ぎとても科学的とは言えない。 地殻の変動要因には様々なものがあり、能登半島地震では、従来のひずみの深さではなく、流体の移動が確認できたらしいが、それさえもたまたま観測可能であった要因の一部に過ぎない。 "南海トラフ地震臨時情報"が発令され、事前避難と1週間の警戒態勢がとられたが、何か予言と似ていないだろうか。 津波警報も、その時の海流の方向や、その地の海底や海岸の地形などは考慮に入れず、とりあえず避難、何をおいても即退避となっているが、我々の社会が安心を最優先に選択している証左に過ぎない。 「空振りを恐れず」というのがお決まりの合言葉。
0投稿日: 2024.09.17
春宵十話
岡潔
光文社文庫
数学の結果の確かさへの信頼
ここに数学者と画家がいる。 どちらもノートを広げ、片方は証明問題を、もう片方はデッサンに取り組み、切りの良いところで手を止めタバコを手に取る。 一服しながらノートを見返す時、画家はこれまでのデッサンはこれで良かったかを確認しているが、数学者は見返しながら以後どう進めるかを考える。 なぜなら数学の結果は常に「確か」であるからで、間違っていいるかもしれないというあやふやな状態にはならない。 これは天才数学者の言だからではなく、学校で数学を習い教える教育者に共通したものだ。 この「確かさ」は数学の属性の第一だからである。 過去を調べるのは何も画家だけではなく、すべての芸術家、他の学問の研究者も同じだろう。 だが、数学者の目は、過去を振り返りながらも目は常に未来を向いている。 この結果に対する「確かさ」への揺るぎない信頼が、本書を読んで一番心を打った箇所。 岡は、重ねてこう強調する。 この確かさへの信頼があるからこそ安心して足を踏み出し、前に進めるのだと。 数多くの数学的発見を成しているが、その時も同じである。 放心状態や一種のゆるみ、自然の風景を前に恍惚とした弛緩状態で突然訪れる気づき。 発見に至るまでに苦しい緊張状態と成熟の準備ができるまでの時間を要するのだが、見えた時にはすっかりわかってしまうので、正しいかどうかなど疑心暗鬼になりようがない。 喜びに体中が満たされ、恍惚となって帰りの列車で車窓をぼーと眺めているが、もう一度確認するなど不要で、あとはただ書き出すだけの状態になっている。 結晶化したものを拾い出すような感覚で、手に持った結晶の「確かさ」は揺るぎようがない。 数学の問題を解いている時の感覚は、確かに他の学問の問題を解いている時とは少し違っていたかもなぁとぼんやりと考えながら読んだ。 教育の目標が個人の幸福の追求になってしまっている。 個人の幸福とは、つまるところ動物性の満足に他ならず、獣性の侵入は何としても食い止めねばならない。 日本の秩序が古来保たれてきたのは法によってではなく、ひとえに人々の道義心によっていた。 安心して暮らせるのも、「人が法律的な責任を持つことに信頼しているのではなく、道義的な責任を持つことに」信頼を置いていたからである。 他人の善行に心打たれ、それを美しいと感じることで自然と情緒が育まれ、自分も善行を行わずにいられなくなる。 そこには少しも打算や分別は働いていない。 「これが古くからのこの国の国柄であり、こうして日本的情緒が出来あがったので、この色どりはちょっと動かせない」 純粋直観に導かれた真情の力はややもすれば「直観から実践へ」転じる傾向があり、情緒中心の日本人は、直観を疑わずすぐに実践に移してきたため、歴史的にはそれで数多くの失敗もしてきた。 いま道義心が失われているのは、学校で育まれていないからでもあるし、そもそも両親が6歳までに道義の根本をしつけていないからでもある。 1963年に毎日新聞社から発刊された本書は、毎日新聞に連載されたものをまとめたもの。 "至極の随筆"と評判だったから、まさか口述筆記のような形の本だとは思わなかった。 新聞連載中から大変な評判を呼び、本も出版されるやベストセラーになったらしいが、この執筆が当人でないというのは、どこか養老孟司の『バカの壁』を思わせる。 国際的な天才数学者が、あるいは有名な解剖学者が世相を斬るのも同じなら、読みやすく平易な文体で書かれ、どちらも大ヒットしたというのも同じだ。 「国が滅びる」という言葉も安易に使われるが、一向に滅びず、しぶといなと思ってしまった。 「日本民族絶滅の崖の淵」だと言いながら、50年以上たった後世の日本人もこうして普通に手に取って読んでいるという。 なにしろ進駐軍による義務教育制度にも心情的に反対で、新学制の下に始まった義務教育の10年間は「大変な失敗」だと語っているのだから、さらに50年以上過ぎた後の読者は、失敗に失敗を重ねた末の残滓にすぎず、もう手遅れではないのかと思わなくもない。 情緒や情操中心の教育に戻せ、初潮の低年齢化が心配だ、若者の間の動物性(獣性)の侵入を許すなと繰り返す。 実はオリンピックにも反対で、スポーツは若者にとって害悪だと言いながら、そのくせ自分は相撲や野球のテレビ中継を噛りついて観ているというチグハグさ。 小林秀雄との対談『人間の建設』は、もっと深遠な禅問答ぽくて、奥深かったんだけどなぁ。
0投稿日: 2024.09.15
儚い羊たちの祝宴(新潮文庫)
米澤穂信
新潮文庫
使用人たちが奏でる「奇妙な味」
その昔、江戸川乱歩が名付けたのだったか、推理小説には「奇妙な味」と呼ばれるジャンルがある。 論理的な推論を重ねたり、華々しい見せ場や勧善懲悪的なわかりやすいストーリーではなく、何かチグハグでモヤモヤさせて、悪趣味なまでにおぞましくもありながら、どこか滑稽でもあるような。 読後も"何だこれは"と嫌な後を引くのだが、不思議ともう一度ページをめくり直してみたくなる、そんな作品。 本書もそんな味わいの作品群で、自身が誇りとし縁とする拠り所(使用人・管理人・厨娘)に忠実たらんとすればするほど、現実と幻想の境が曖昧になり、やがてある種の狂気に至る。 巻末の解説者は、「玉野五十鈴の誉れ」を最高傑作と絶賛しているが、この中では一番劣る。 やはりタイトルの「儚い羊たちの晩餐」の方が数倍いい。 ある読書グループを除名された話と、成り上がりの吝嗇家の家にやってきた最高の料理人の話が、最初どうつながってくるのかわからないまま読みはじめ、最後に"あぁこう来るか"となる展開は思わず天を仰いだ。 ただこの連作短編、登場人物はどれも異なるが、物語の語り手がすべて女性で、自身のあるいは近親者の殺人の独白となっているのには少し違和感が残った。 物語の底意に、現実の複雑さから逃げ出し、自らの膜の中で夢想に耽る、浅はかで幼稚な女性という蔑みが透けて見えて不快でもあった。
0投稿日: 2024.09.13
宇宙人と出会う前に読む本 全宇宙で共通の教養を身につけよう
高水裕一
ブルーバックス
宇宙人的視点の必要性
緑やピンク色の夕焼け空に、晴れ渡った青空に沈む太陽、昼間の空に浮かぶ七色の七重連星。 宇宙にある様々な惑星の空の画像を組み合わせた宇宙のカレンダーという着想が素晴らしい。 月の半分の日付がタブって表記されたカレンダーを見て地球人は、まともなカレンダーを出してくれと売り場の店員に訴えると、宇宙ではこれが一般的だと教えられる。 太陽が1つという星がいかに珍しいか。 星の半分以上は連星なのだ。 さらに地球には月も1つしかない。 これがどれだけ特殊かは、同じ太陽系の惑星の衛星の数を見てみればよくわかる。 火星は2個、木星は72個、土星は53個と、衛星が1個しかないのは地球だけ。 太陽と月が1個ずつで、しかも大きさや距離の関係上、両者が地球に与える重力が見事に拮抗しているという絶妙な条件が、潮の満ち引きを生み、定期的な環境の変化をもたらした。 この独特なリズムがなければ生物は進化せず、我々のような知的生命体も誕生しなかったはずなのだ。 本書は地球を俯瞰した宇宙人的視点を持つことの大切さを説いている。 星座は視点によって見え方が全く異なる。 なぜなら星座は地球から見た星々を線で結んだもので、それも長いスパンでは図柄も変化する刹那的なもの。 だから二次元ではなく三次元の「立体星座」からの視点に立たなければ、惑星の識別などできないのだ。 「みなさん、はじめまして。私は天の川銀河の中心からはやや離れたところにあるG型星を回る地球という惑星からやってきました」 宇宙人と出会ってまず問題になるのが、自分がどこから来たか。 太陽が天の川銀河のなかのどこにあるか説明できるか。 位置の次は、太陽や惑星の色、大きさを説明できるか。 太陽はスペクトル的には緑色である。 まずは恒星の情報ありきで、これらは宇宙のどこでも通用し、かつ共有できる数少ないコモンセンスとなりうるのだ。 宇宙で生成された元素が、惑星やすべての生命の原料になっていると考えると、発見数は違えど「周期表」も、宇宙人が共通して了解可能なコモンセンスである。 次に必要になってくるのは、長さや重さ、時間などの基準作り。 地球でしか通用しない単位がまかり通っているのでは、普遍性がないだろう。 重さなどプランク定数による定義の改定が行なわれたのは2019年のことで、宇宙人的視点に立てば、まだまだ我々は原始的なのだ。
0投稿日: 2024.09.11
仕掛学―人を動かすアイデアのつくり方
松村真宏
東洋経済新報社
必要なのは仕掛けではなく場では?
一本線を引くだけで自ら線に沿うよう整理整頓する。 「したほうが良い」と強要するのではなく、「ついしたくなる」ように仕向け誘引する。 人の行動を変える仕組みづくりは同じでも、ナッジとは方向性が異なる。 ナッジが、あまり考えずに選択しても損をしないデフォルトの選択肢の最適化を目指すとすれば、著者が提唱する仕掛学は、つい選びたくなるようなオルタナティブな選択肢の設計を目指しているのだとか。 いろんな効果的な仕掛けを考案して社会に普及させることで、人の行動を変え、望ましい世の中に変えようとしているたのが、どうなんだろう。 先頃問題になった、公園のアーチ上のベンチを思い出す。 何か発想自体が、さもしく浅ましいように感じられて仕方がない。 立ち小便されそうな場所に鳥居のマークを描き、賽銭箱の上に人の目や顔を描くことで、マナー向上や犯罪防止効果を得られるというが、根本的な問題は何も解決していない。 要はそこではしなくても、別の場所に行って小便するし物も盗むだろう。 それに効果は一時的で限定的だし、飽きられるのもまた早い。 あらかじめこう仕向けているという作為性が感じられると、気分が悪くなる人もいるだろう。 自身の天の邪鬼を発動させて、あえてしてもらいたいことからわざと外した行動を誘引させることにもなりかねない。 問題だと思うのはこの恣意性と、自主性の喪失にある。 『集まる場所が必要だ』でエリック・クリネンバーグが指摘しているように、必要なのは仕掛けではなく場ではないか。 図書館や公園、遊び場、学校、運動場、市民農園など、居場所となる社会的インフラの重要性が忘れられている。 見ず知らずの人や友達や近隣住民と交流する機会など、一見なにげないけれど、実は重大なパターンに影響を与えている。 社会的インフラがあるだけでどれだけ犯罪を減らせるか、空き地や空き家を減らし、居場所を作り緑地を増やすだけで、どれだけ暴力を減らせるか。 その場所で何を行なうかは外部がとやかく指図すべきことではなく、住民の自由に任せればいい。 ああでもないこうでもないと、使いもしない都市設計者が企画するから、子供も老人も腰掛けることのできないアーチ上のベンチが作られてしまう。 以前、コンビニのトイレでは「いつもきれいにお使いいただき、ありがとうございます」という張り紙が大量にしてあったが、最近はほとんど見なくなった。 効果的だと宣伝され一気に広まったのだろう。 便器にハエや的の絵柄もあったのかもしれないが、それも廃れてしまったか。 イギリスのウォータールー駅のトイレには、こんな貼り紙がしてあったという。 「もしあなたが、これを読んでいるなら、あなたは正しい方向に向けていないのだ。初心者よ! 両手でもってせよ。清掃係より」 ニューカッスル市内のトイレにもこんな貼り紙が。 「床にはね返るしぶきの量を知っているか。清掃員の苦労を考えたことがあるか。賢明なる諸兄へ。放水開始の前に、ホースと壁の、距離と角度を微調整せよ。しぶきを浴びれば、君の洋服も汚れる」 さすがユーモアの国イギリスだと感心させられた。 単純に貼り紙でも、文面に知恵を絞ればいくらでも人の行動を変えられる。 外国の植物園にはこんな気の利いた貼り紙がしてあった。 「花に触れていいのは、視線だけです」
0投稿日: 2024.09.06
暗殺者グレイマン〔新版〕
マーク・グリーニー,伏見威蕃
ハヤカワ文庫NV
コートが来るぞ
「21世紀に冒険小説の神が降臨した」と絶賛した北上次郎ほどの興奮は追体験できなかった。 これなら1980年代の冒険小説やスパイ小説を再読した方が、もっともっと興奮できる。 あまりにも90年代以降の作品にめぼしいものがなかったため、評価も割り引いて考える必要があるようだ。 それともシリーズが続くのでこの後でもっと化けるのか、よくわからない。 読者は、ジェイソン・ボーンやイーサン・ハントが絶対死なないとわかっているように、今回のグレイマンも絶対死なない。 しかし「目立たない男」という異名の割には、ずっと敵に補足され続けているってどうよ。 もっと神出鬼没で隠密裏に動くのかと思いきや、張り巡らせた偵察網のレーダーに察知されまくり、考えていることも筒抜けで、行動を先回りされてしまう。 どんな危機的状況に陥ってもそこはもうギリギリで切り抜けちゃうんだけど、最後のシャトーにはもうヘロヘロの満身創痍の状態になっているものだから、敵が「獲物が捕食者に変わった」と驚嘆しても、ハンターという感じはしない。 スマートさよりも、しぶとさが目立つ。 ダイ・ハードのマクレーン刑事のような「絶対にくたばらない」感が強い。 それでも作者が専門に取材して、実地でも体験しているためか、戦闘スキルの描写はさすが。 「装備がないから勝てない?何もわかってないな。コートのもっとも威力のある大砲は、頭のなかにあるんだよ」 最大の武器である頭脳を除けば、銃やナイフは付属品に過ぎないと言うように、その場その場に合わせた才智によって幾多の危機を乗り越える。 籠って休息している小屋を急襲された時のための、防波堤として玄関にメッシュの壁を置いておくというアイデアもなかなか良い仕掛けだ。 簡易なもので、蹴り倒せばどうということもないのだが、暗がりで突入された時に威力を発揮し、何より時間かせぎに有効だ。 眠りこけていたコートの命を救っている。 敵の潜伏する建物に侵入した際、格好の捕虜を捉え、その者に道案内をさせる時にも才智が光る。 信用の置けない相手をただ後ろから、銃を突きつけて先を促すのではなく、片手にピンを抜いた手榴弾を握らせて、確実に目的の場所まで案内しないと爆発させると脅すのだ。 わざわざ暗殺部隊として発展途上国の諜報組織からリクルートするのも相当頭がいい。 まず、金に困っていること、そして使い捨てにできること、さらに万が一に捕まっても、当該国内で口を割らせないような脅しが効くので事後処理が楽だというのが挙げられる。 だけど物語は後半になるほどひっちゃかめっちゃかになる。 シャトー内は各国代表の凄腕の殺し屋たちが死闘を繰り広げる暗殺オリンピックと化すし、コートもコートで、腹を失神しそうなほどナイフで貫かれているのに、急がねばならないと運転しながら、見つけた獣医に腹を縫わせるのだ。 せっかちにもほどがあるだろ。
0投稿日: 2024.09.05
悪い夏
染井為人
角川文庫
こ、国民の血税がぁ....
「あんた不正受給を蔑んでるだろ? 実はな、不正受給は正しいことなんだ。むしろ底辺のやつらこそ受給すべきなんだよ」 物語の中で主人公のケースワーカーに浴びせられる印象的な一言。 無茶苦茶な言い分だが、困窮している人間が仮に職に就けても、得られる給与が生活保護以下だという現状を知っていると、二の句が継げなくなる。 おまけにいまの日本は補助金三昧。 デジタル化に始まり、エコカー、太陽光発電に、マイナポイント、省エネ住宅…。 貰わな損損とばかりに飛びつくが、結局のところ原資は税金であり、借金という名の未来へのツケである。 昔は主に農業分野だけが補助金漬けだったが、いまや一般企業まで広く省力化投資などの名目で補助金が出ている。 とっくの昔に補助金なしの経営など考えられなくなっており、補助を前提とした価格がまかり通り、「今年はどれを狙う」という鵜の目鷹の目の世界。 補助金申請代行もビジネスになっているので、それを当てにした経済となってしまってる。 本書でも、夫に先立たれ、残された我が子を養うため必至に仕事を探すも、安定した職に恵まれず、電気も水道も止められ、あまりのひもじさから万引きにまで手を染めてしまう主婦が登場するが、そんな真の困窮家庭が生活保護申請に出向いても門前払いされるのに、ヤクザがビジネスとして整えた申請斡旋はすんなりと受理される。 担当者を脅しているだけではない。 受給ノウハウが確立しているのだ。 抑えておくべきポイントを過たず、書類を整え、おまけに申請時に金で雇われた民生委員までつければ、橋の下で寝ているホームレスでさえ受給確定となる。 ヤクザもヤクザで慈善事業でそれをやっているのではない。 毎月の受給金の半分以上を横取りし、おまけに働きもできず生活もできない状態にした連中を、自身の他の悪どいシノギの駒として使うのだ。 よくできた仕組みである。 弱みを握られ、抜けるに抜けられず、半永久的に従う奴隷が無限に増えていく。 無職を装ったり、就労意欲もないのに生活保護を受け続けるなんて、なんて浅ましい奴らだろうと蔑んでいた人たちも、実は無間地獄に落ちた哀れな人たちだと溜飲を下げるか、それともなんか世の中の仕組みが間違っていないかと正義感に目ざめるか? 来年には本書が映画化されるらしいので、また不正受給問題の議論が再燃するかもしれない。 物語のラストは、三つ巴、四つ巴で拳銃を突きつけ合うタランティーノ映画を彷彿とさせる場面が展開されるので、映像化向きだろう。 複数の人間がたまたま1つの部屋でかち合い、殺し合いを繰り広げる様なんて、ホントそのまんまだ。
0投稿日: 2024.08.31
AI時代の感性:デジタル消費社会の「人類学」
ダニエル・コーエン,林昌宏
白水社
デジタル革命のパラドックス
AIの計算能力にどれほど目を見張るものがあっても、所詮は感情を欠いた機械に過ぎず、宿っているのは「愚かな知性」でしかない。 事実、常識が必要とされる場面や正解も不正解もない漠然とした状況では、まるで役には立たぬ。 神経科学者のアントニオ・ダマシオが指摘する通り、人間を行動させるのは感情である。 「人間は心だけの存在でなく、機械と違って身体で思考する」 我々は、直面する難題に対処するのに、利点と欠点を並べたリストを眺めて解決しようとはしない。 「そうした難問の回答は、自己の身体から伝わる感情によって得られる。『これに決めた』という意見を発するのは身体なのだ」 こうした身体と感情を持つ存在こそ人間なのだ。 デジタル社会で進行しつつあるのは、革命の深刻なパラドックスだ。 個人や集団の思考力は向上し、協同的な活動が増えると思われたが、実際には人々をますます白痴にし貧困化させている。 水平的で開かれた議論が可能になるというのは幻想で、いま起きているのはそれとは正反対の事態だ。 富裕層はますます高所得に、労働者はますます低所得になっている。 憎悪を助長し、タコツボ化も進んでいる。認知力や注意力は衰え、拙速で短絡的、軽薄かつ単純な思考能力しか持てない人間がどんどん数を増している。 SNSでまき散らされているのは、吟味の繰り返された情報ではなく、感性に訴えかける信念に過ぎない。 人々は、それに従って世界を好き放題に解釈し、己だけの真実に変えている。 医療や教育などの公共サービスが崩壊し、既存の共同体とのつながりを失った住民は、ますます孤独という名の社会的万力によって締め上げられ、自己のアイデンティティという欲動を爆発させ、他者への嫌悪を募らせる。 外国人嫌いや同性愛嫌悪も、根底にはこのアイデンティティの問題が潜んでいる。 他者との共感力を育まないデジタル社会においては、放っておけばますます猜疑心が高まり、分断化や部族化が加速する一方になるのだから、新たな包摂型社会モデルを生み出す必要があると著者は説く。 それにはこれまで古いとして切り捨ててきた、共同生活の場となる労働組合であり、政党や企業、学校などの組織制度を立て直し、今一度復活させる必要があるのだと。 なんともフランスのインテリらしい結論だし、読んでいても新たな知見は見当たらなかった。 iTunesのストリーミングをジョブズの発明だと誤解したり、事実の誤りも見られた。 それにしてもコロナ禍以降の翻訳出版の質の低下は明らかで、本作も誤字・脱字のオンパレードだった。 「富国の仲間入りを目指す貧国とり、富国が原因の被害のために自動車の所有や肉食を断念することは認めがたいだろう」 これなど、まったく意味が掴めなかった。
0投稿日: 2024.08.29
凶犬の眼
柚月裕子
角川文庫
勉強してヤクザ小説を書いてみたら...
一作目の『孤狼の血』は直木賞候補作となったが、選考委員の誰からも推す声は上がらなかった。 コメントも「既視感」や「何ともアナログ」など散々な言われようだったが、中でも高村薫の評言が的確だった。 「やくざと刑事の関係にはもう一段の奥深さがあることに思いが至っていないのは、書き手が身体で対象を捉えていないためだろう」 次作である本作もこの通りで、何も生かされてはいない。 なぜ主人公の日岡が盃を交わすほど極道に近づいていくのか、指名手配犯と呑気に川釣りをし、収監後は広島から北海道まで面会に通うのは何が目的なのか。 その隠された意図や真意などまったくないのだろう。 だから描かれない。 その後も8回以上、直木賞候補に名を連ねているが一向に受賞しそうにないのは、「書き手が身体で対象を捉えていない」という評価を覆せていないからなのだろう。
0投稿日: 2024.08.27
