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  • 新世界より(下)

    新世界より(下)

    貴志祐介

    講談社文庫

    なぜ不浄猫を使って屠っても、愧死機構が発動しないのか?

    2つ釈然としない疑問がある。1つは、なぜ鏑木肆星がメシアに負けたのか、だ。結果的にメシアは悪鬼ではなかったのだから、攻撃抑制は働かなかったのではないか。倒せなくても、あんなにあっけなくやられてしまうことはなかったのではないか、という疑問。それとさらに不可解だったのは、戦いの中で、実験室での青沼瞬との歴史的な会合のシーンが回想される点。ちょっと唐突な振り返りだったが、これが勝敗の帰趨に関係していたのだろうか。あの時、鏑木肆星は瞬が業魔になっていることをその場で見抜き、逃げ出している。理由は瞬から漏出した呪力を感じ取り、近くにいれば影響を受けてしまうと判断したためだ。 となると考えられるのは、鏑木肆星がメシアと対峙した際にその攻撃の質を、かつて瞬から感じた無意識の呪力漏出(業魔の力)と同じであることに気づいたためか。つまり、メシアは悪意を持って攻撃しているのではなく、人間としての抑制を欠いた状態で、ただ力が漏れ出している存在であると理解した。肆星の強さは、視覚情報に基づいた精密な制御に依存しているが、メシアの攻撃は無意識かつ直接的な呪力の漏出・干渉であり、肆星の四つの目で捉えることができない内部からの破壊であったため、最強の呪術師であっても防ぎようがなかったのではないか。それともメシアの漏出する呪力が、鏑木自身の精緻にコントロールされた呪力を乱して、反撃も防御も不完全な状態に追い込んだのではないか。 だけど、メシアが業魔だったという説は信じがたい。東京での戦いにおいても、スクィーラ(野狐丸)含め、周りのバケネズミは何の影響も受けているようには見えないからだ。 いや、肆星が敗れた真の理由は、「業魔化」云々ではなく、そもそもこのメシアの放った不可視の呪力にこそあるのではないか。この世界の呪力バトルは「目視=即死」のレーザー合戦で、どれほど強大な呪力を持っていようとも、対象が見えなければ、呪力を正確にフォーカスできないという致命的な弱点がある。肆星の肉体は、メシアの放った不可視の呪力の直撃を受け、防護壁を張る間もなく両断されてしまった。 であるならば、相手から視認させないような戦い方ができただろうに。肆星の方は、人間を攻撃できない縛りがあるため、カウンター攻撃を出すことすらできず、一方的に肉体を破壊されたという説明も、最強の呪力の使い手のあっけない敗因の説明としては、どうにも腑に落ちない。 本作の呪力は、脳の認識(視線)がそのまま物理現象になるため、一瞬でも先に相手の姿を捉えた方が勝つ早撃ちバトルにもなっている。「見つかったら終わり」という戦いは、「見つからなければ戦える」ということでもあるのだから、いろいろとブロックのしようはあったのではないか。 もう1つの疑問。なぜ町の教育委員会の人たちは、不浄猫を使って、目的の人物を屠っても、愧死機構によって損害を受けないのか。始末を決定して、不浄猫を解き放っているのだし、直接手を下していなくても、のちの死体の検分なとによって、愧死機構が発動してもおかしくないではないか。自分が命令した子どもが目の前で死んでいる。これを見て、「自分が殺した」と認識しない方が無理がある。これには2つのもっともらしい説明がなされている。「これは処分であって殺害ではない」という意図的な認知の歪曲があるため、愧死機構の発動要件を満たさないというもの。それと、「17歳以下に人権はない」という制度的な条件。「自分たちは直接手を汚してはいないし、そもそも正義のシステムを執行しているだけだ」。これは明らかな自己欺瞞ではあるけれど、自らを100%騙し切る強靭な認知の歪みを維持できる人間だけが教育委員会のメンバーに選別されているのだと説明されれば、まぁ納得もできなくはない。だとすれば、この設定は少し意図的な気がしてくる。つまり、人間は「自分が直接手を汚していない」と思えば、驚くほど残酷になれるということ。人間がいかに責任を分散し、罪悪感から逃れるているか。「あれは人間ではない」「社会を脅かす危険因子だ」「処分は不可避だった」こうした認知の分離という危ういギリギリの綱渡りを、実は日常的に行なっていないか。だとすると、この小説が単なる超能力社会の物語ではなく、もっと根源的な人間社会を描いていると言えるのかもしれない。

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    投稿日: 2026.07.07
  • 新世界より(中)

    新世界より(中)

    貴志祐介

    講談社文庫

    早季・覚・瞬の奇妙な三角関係

    早季・覚・瞬の奇妙な三角関係について書いておきたい。普通の小説なら、早季という女性主人公に、瞬と覚という二人の男性の幼馴染が配されていれば、恋愛の中心にいるのは早季となるはずだ。この場合の三角関係は競合だ。二者が一者を争う。しかしこの物語の構造はそれと根本的に異なる。物語が進むにつれて、早季と覚がともに、瞬という不在の人物を思い続ける構図になっていく。 しかも二人の会話には、「瞬がいたらどう言うだろう」という形で、死者である瞬が繰り返し介入してくる。文学的に読むと瞬は恋愛対象というより、失われた純粋性や理性の象徴として描かれる。瞬は最も知的で、最も優しく、最も世界の真実に近づき、そして早くに消えてしまった。 そのため早季も覚も、「瞬ならどうしたか」という問いを抱え続ける。この意味では、恋愛三角形というより、二人が一人の死者を共有している喪失の三角形になっている。 作中の社会では、呪力を持つ人間同士の争いを防ぐための「攻撃抑制」や「愧死機構」といった遺伝子操作に加え、生殖を抑制し、社会の安定を保つ目的で、同性愛が奨励されているという設定がある。呪力を持つ人類が、その強大な力を制御し、種の存続を図るために編み出した究極の社会管理システムの一部として、同性愛が位置づけられているのだ。 思春期の子供たちは、ホルモンのバランスが崩れやすく、欲求不満や嫉妬からストレスを溜め込み、呪力を暴走させるリスクが最も高い。さらに異性間の性愛は、嫉妬や独占欲、望まない妊娠によるコミュニティの分裂が起きるリスクもある。そのため、あえて思春期の間は、同性同士の性愛を推奨・誘導し、集団内の攻撃性を極限まで相殺させる。 ボノボ型のフリーセックスにヒントを得た、社会的な安全弁(リミッター)として機能する。同性愛が便利な世界設定の道具になっているとの批判はその通りで、ここでの性愛行動は、単なる個人の選択としてではなく、制度として社会に組み込まれている。 作中の唐突すぎるBL展開に、戸惑う声も多い。しかしここでの同性愛描写は、単なる扇情的な要素というより、作品の根幹をなしていると受け止めるべきだろう。読者に対し、何が自然で何が不自然なのか、社会が個人の性愛に介入することの是非など、深い問いを投げかけているからだ。 これは、作品全体が持つ「人間性とは何か」というテーマと連動している。この社会では、遺伝子だけでなく、倫理や家族、死さえもすべてが管理されている。その中で、性愛だけが例外であろうはずがない。だから同性間の性愛描写も、徹底的に人工化された社会の一部として描かれる。「超能力者同士の社会で平和を保つことは可能か」というのが表のテーマだとしたら、「人間性はどこまで作り替えられるのか」というのは、本書の裏テーマでもある。 早季と覚という残された二人の関係は、常に瞬の不在を前提として成立していたと先に書いた。 瞬は早季に「愛する人が死ぬのは見たくない」と最後に告白し、大地に沈んで命を落とす。この時の青沼瞬の消滅シーンは本当に忘れがたく、せつない。この物語の設定の中でも、業魔は特に独創性が高い発明だと思う。 悪鬼のような悪意ある怪物なら、人間は比較的理解できるし、これまでも先行する作品があったように思う。だけど、善良な人が、病気のように世界を壊してしまう。そして、その人を救いたい気持ちと、社会を守るためには排除しなければならない現実が同時に存在する。この倫理的な板挟みこそが、業魔の恐ろしさであり、切なさだ。 通常の暴走する力は、外側へ向かう攻撃として具現化される。だけど、業魔の漏れ出た呪力は、周囲の空間の物理法則や生物の遺伝子そのものを、本人の認知の歪みに合わせてぐにゃぐにゃに変形させてしまう。自分が愛する人や、自分が育った美しい町を、自分の存在そのものが毒となって破壊していく。これほど残酷で美しいディストピアの表現は他にない。 瞬の場合、感情の起伏とは無関係に、落ち着いているときも、眠っているときも、存在しているだけで呪力が漏れ出してしまう。悪意のない存在が、その存在自体によって世界を壊すという業魔の設定は、攻撃性の解放としての悪鬼とは一線を画している。激怒したら危険という話ではなく、生きているだけで周囲を侵食するというのはまさに「歩く原子炉」そのものなのだが、本人もまた被害者であるという二重性によってより悲しみが増してくる。

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    投稿日: 2026.07.07
  • 新世界より(上)

    新世界より(上)

    貴志祐介

    講談社文庫

    もし人類全員が超能力を持ったら社会を築くことは可能なのか

    著者の作品は『黒い家』以来ほとんど読んできていて、どれも外れがないが、本作はその中でも群を抜く傑作だ。ひさしぶりに再読してあらためてそう思った。2008年発売で単行本で読んだ記憶があるから18年ぶりになる。しばらく前からもう一度読み直したいという思いに駆られ、ようやく叶った。 それにしてもこの作品が、当時の直木賞に受賞はおろか、ノミネートすらされていないというのは驚きだ。ちなみにこの年の受賞作を調べると、井上荒野の『切羽へ』、天童荒太の『悼む人』、山本 兼一『利休にたずねよ』だとわかり、さらに驚きが増幅する。SFやファンタジーというジャンル自体が文壇から排除されてきたからと説明されるが、それでも納得しがたい。もしこの作品が2026年に出ていたら、いまの選考委員はどんな評価を下すんだろうな。よもや選外というのはありえないと思うが。 あと気になるのは、海外の読者がどう読んだか。翻訳されていればどんな感想を持つのか知りたいし、何よりSFの熱心なファンがどう評価しているのかも気になる。 これまでもサイコキネシスや呪力を持つ者は、さんざん物語に登場してきたけど、もし人類全員が超能力を持ったら文明はどうなるか、そもそも社会を永続的に築くことは可能なのかという問いを出発点にした物語がかつてあっただろうか。 一人一人が核兵器級の力を持ち、一人でも狂人が現れたら文明そのものを滅ぼしてしまうような状況で、家族や国家はどうすれば成立しうるのか。こうなるともう、道徳や法律でどうこうできる類の話ではない。作者自身は、この小説の構想のきっかけがオオカミやワタリガラスが持つ「攻撃抑制」を知った時だったと語っているが、倫理云々ではなく、同種を殺害すると自身の自律神経が崩壊して死ぬという生物学的な強制力が裏でどうしても必要になってくる。これにより、「神の力(呪力)」を制御するためには、人間は自らを家畜化・改造せざるを得なかったという、SF的なディストピアが生まれてくる。 その意味でも、攻撃抑制と愧死機構という2つの縛りが、単なる「同種攻撃の抑制」を超えて、超能力者の文明を成立させるための社会工学的発明として生まれたのだとわかる。人間を直接攻撃しようとすると、心理的ブレーキがかかり(攻撃抑制)、それでも人間を殺すと、自分も死んでしまう(愧死機構)。この二重の安全装置があることで、呪力保持者同士の世界が成立しうるのだ。呪力保持者という極端な強者にこそ縛りが必要であるという逆転の発想。ここに本書の独自性がある気がする。 従来の超能力バトル作品であれば、強者がいかに戦うかが描かれるが、本作では「強者はそもそも戦えない」という制約から出発している。愧死機構は単なる戦闘制限装置ではなく、それが破れたときの恐怖(悪鬼)、誤作動したときの悲劇(業魔)、そして抜け穴を突かれたときの崩壊(バケネズミの反乱)まで、物語の骨格そのものにまで直結している。だから攻撃抑制と愧死機構は、核抑止の生物学版だと解釈されてもいる。相互確証破壊(MAD)の中では、相手を攻撃すると自分も死ぬのだ。極端な話、核兵器を個人が持ったら社会はどうなるかという問いを、超能力に形を変えて描かれたのが本作だと言える。 ただ、作品の完成度や世界観設計の卓越さに対して、語り口の洗練度がやや追いついていない印象も受ける。物語は主人公である渡辺早季が回想する手記をもとに描かれているはずだが、それにしては回想というよりリアルタイムな文章が目立つのだ。晩年の早季が書いているはずなのに、当時の未熟な判断や覚への苛立ちがそのまま記述されていて、手記という設定そのものが形骸化している気がしてならない。SFという性質上、大量の情報を一人称の手記で処理しようとしたとき、どうしても状況を整理しながら説明する場面が必要になるから仕方ないのかもしれないが、もし直木賞の選考にかかったら、複数の委員からこの点を突かれるだろう。それと物語の随所で、早季が幼馴染である朝比奈覚に対して「本当にそうなの?」「どうなのよ?」と質問攻めにしたり、「覚は分かっていない」といった反論や苛立ちを口にするシーンがたびたびあり、本当に萎える。とても「人格指数」が高く、将来の町の指導者にふさわしいとは思えぬほどの自己中心ぶり。あえて手記という形式をとった理由も含め、この辺りは何とかならなかったのかとは思う。

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    投稿日: 2026.07.07
  • 暗殺者の正義

    暗殺者の正義

    マーク・グリーニー,伏見威蕃

    ハヤカワ文庫NV

    これが"現代"の冒険小説か?

    率直に言って期待していたほどピンとくる感覚は得られなかった。 巻末の解説で北上次郎が「すごいすごい」と絶賛し、一時期はトム・クランシーの共著者として「ジャック・ライアン・シリーズ」を単独執筆するほどの作家だが、私にはその魅力の核心がまだ掴みきれないでいる。 まず、「目立たない男=グレイマン」という看板に偽りがあると感じざるを得ない。今回のスーダンでの任務も、翌日には全世界のニュースの見出しを飾るほど派手な騒ぎを引き起こしている。隠密性よりも『ダイ・ハード』のマクレーン警部のような、不屈で泥臭いしぶとさばかりが際立っている。 前作『暗殺者グレイマン』はデビュー作らしい熱量があったが、本作はシリーズ化を見越した続編への引きが強く、面白さがやや拡散している印象。敵についても、前作のプロ中のプロという追っ手に比べ、今回はスーダンの警察組織や部族といった数の脅威が中心で、個々の練度はそれほど高く感じられず、ちょっとした威嚇攻撃で容易く危機を回避できる場面も目立つ。 物語の展開も、ある種のお約束に依存している。ザック・ハイタワーから「絶対に敷地外に出るな」と釘を刺された先から空港を飛び出し、捕まったら最後と言われる秘密監獄「ゴースト・ハウス」を目指す顛末などは、まぁ読者の想定通りといったところか。 ただ、そのキッカケはなるほどねと感心させられた。特にジェントリーが空港で出くわした国際刑事裁判所(ICC)の捜査官、エレン・ウォルシュの、ある種の自業自得とも言える振る舞いは、どこか著者の思いも透けて見える。自分の身元を明かせば相手がひるむと考え、案の定ドツボにハマる彼女の「おめでたさ」と、それを救い出す羽目になるコート・ジェントリーの「やれやれ」感には同情を禁じ得ないが、さまざまな紛争地で出くわすこうした左派への嫌悪がはっきりと見て取れる。「プロは本当はそんなことしないんだけどね」「これだから素人は」という思いの凝縮したセリフが、たびたび口をつく「クソッタレ」ということなのだろう。 だけどそのジェントリーの手際も、スマートかと言われれば違うだろう。日本の『必殺仕事人』のような鮮やかさは皆無で、やることはすべてが手荒。どの現場でも頭から突っ込む肉弾戦が中心。ジャンジャウィードに包囲された際も、事前に予期していたにもかかわらず、積荷のアセチレンボンベを時限装置で爆発させてトラックごと炎上させるという強引な手段で切り抜ける。浦沢直樹のMASTERキートンだったら涼しい顔してもっとマシな兵器をこしらえていそう。その結果というべきか、グレイマンは常に満身創痍。しかも今回は、地元の少年に射られた矢が背中に刺さったまま走り続け、さらにその矢先が不潔な物で汚染されているという設定には、読んでいるこちらの具合が悪くなってくる。 本作を通じて感じるのは、「計画」というものの虚しさだ。「計画とは、実現しないたわごとを書き連ねたものだ」という作中の格言通り、組織の得点のために独裁者を拉致しろと命じたかと思えば、国際問題化を恐れて殺せと前言を翻す上層部の身勝手さは、あまりに間抜けで杜撰というほかない。 ほかに印象的だったのは、国際救援組織のマリオ・ビアンキという存在。紛争地で長年物資を届け続けてきた彼の「神話」の裏側にあるのは、高潔な道徳ではなく、国際社会からの善意の献金を賄賂として非合法組織や殺人集団へ還流させるという冷酷な現実だった。マリオは「自分は仕事をしているだけだ」「やらなければいけないことをやっているまで」と正当化しているが、これはジェントリーの論理とまったく同じである。どちらかというと著者は、安楽椅子に座ったまま彼らを裁こうとする偽善者を、徹底して冷ややかな目で見ているように感じる。わからなくはないが、それでいいのかという思いも強い。北上次郎の言う「80年代に冒険小説に熱中した読者にもおすすめできる、現代の冒険小説」と言うなら、もう少しそのあたりの新機軸があっても良かったのではないか。 全体として面白い冒険小説ではあるものの、北上がこれほどまでに熱狂した要因がどこにあるのか、その「正義」の在処を含め、まだ整理がつきそうにない。

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    投稿日: 2026.06.15
  • 虚の伽藍

    虚の伽藍

    月村了衛

    新潮社

    「視点人物と読者との距離が広がって行く」構造

    直木賞の選考で9人の選考委員のうち本作を積極的に推したのは一人だけだったが、「候補作中、もっとも面白く読んだ」「現実の憂さを忘れさせてくれる小説」など、リーダビリティの高さを評価した委員は、実は半数近くもいた。 これは、夢中で読んだが賞に相応しいかと自問して我に返ったのか、こんなのを積極的に推したと知れたら京都での活動に災いがあると怯えたのかよくわからない。 確かに、書評家の杉江松恋が「本宮ひろ志的」と評したように、展開は劇画的で、なんとも「けったいな」作品なのだ。さらに京極夏彦が評したような「視点人物と読者との距離が広がって行く」という「けったいな」構造もある。 物語が進むにつれ、主人公である志方凌玄の自己正当化のロジックが、常人の倫理観からは逸脱し、読者が共感できなくなってしまうのだ。 25歳の純粋な役僧の頃は、工事現場で殴られている老人に寄り添い、腐敗した教団に正義を貫こうとする、よくある好青年として描かれる。 しかしだんだんと彼独自の宗教哲学から来る正当化に、読者は違和感を感じ始める。 ヤクザとの付き合いは、現代の法難に立ち向かうための手段と考え、彼らをかつての僧兵になぞらえ正当化していくし、愛人を囲う行為に対しては、開祖・浄願大師の故事を引き合いに出し、悟りに至るための修行であると抗弁する始末。 なかなか「けったいな」奴やなとツッコミを入れたくなるが、現実の破戒坊主も案外、内面にこのような宗教的ロジックからの自己正当化ができてしまっていて、「何があかんの?」という感じなのかも知れない。 「私は心から思うてますねん。女色に溺れながら、同時に女を救うてこそ仏の道に近づけるんやないかと。少なくとも、我が身を以て試してみる価値はある、いや、やらなあきまへんのや、なんとしても」 …おるで、きっと。 扇羽組の組員たちを鼓舞する際のセリフもふるっている。 「皆様は京都のために、御仏のために働いてくれてはるんです。ただのヤクザやない。ヤクザの侠気と、僧侶の徳を持ったはる。つまり僧兵です。僧兵の刃はこれすなわち御仏の御裁断。仏法を蔑ろにする者を仏に代わって成敗する。誰かがやらねばならんことでございます」 いやぁ、なかなか。 凌玄の無双ぶりはこれに止まらない。 権力の中枢に昇り詰めていくにつれて、独善的な思考はさらに極まっていく。数々のスキャンダルや敵対勢力からの圧力を受けても、彼はそれを因果応報の報いとは考えず、自らを高めるための関門や修行、もしくは悟りへの道であると解釈する。 ちっとも無理矢理にではなく、そうに違いないという確信に近い形で。 そしてついには、妄想を口にし始めるのだ。 凌玄が心の拠り所にしていた、開祖浄願大師様が悟りを開かれた仏堂の説話がそれである。海照が「聞いたこともあらへんで」「初耳や」と答えた際には、博識なはずの彼がそれを知らないはずはないとして、「世俗にまみれて忘れてしもたんか」と詰る始末。 勝手に自分の頭の中でこさえちゃってるのに、これである。 支援者だったフィクサーの和久良が最後には、「理解不能な怪物」とか「京都に仇なす悪霊」と罵倒し、呪いの言葉を吐くのも無理はない。 かといって変節・変貌したのかと言われるとそうでもない気がする。 地が出てきたというか、もともとこういう危うさを十分に内に宿していたのだろう。 和久良が凌玄に目をかけたのも、きっかけは彼の外見的な要素、つまり声の良さと頭の形だったけど、目の内に宿る恐さを高く評価していたから。 凌玄ウォッチャーを自認する氷室も、彼の抜群の駆け引きのうまさや頓知の利かせ方を評価し、「京大の研究室にもこれほどの人材はいない」と最大級の賛辞を送っていた。 凌玄が最終的にたどり着いたのが、救済でも悟りでもなく、圧倒的な虚そのもので、自らが信じていた「運命という名の思い込み」が崩壊していく様は、もう少しうまく描けていれば、圧巻だったろうにと思う。 読者の主人公への共感から拒絶、そして傍観へという、京極の言う「距離が広がって行く構造」そのものは、本書の瑕疵ではなく見どころの一つだと感じた。 正義や悪、純粋な信心や妄念とが、水と油という関係ではなく、コインの裏表、もっと言えば、境界線も不確かに同居しうるものなのだということに、あらためて気づかされる一冊だった。

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    投稿日: 2026.06.09
  • クライマーズ・ハイ

    クライマーズ・ハイ

    横山秀夫

    文春文庫

    泣かせ記事と少年野球が頼みの綱

    「飛行コースにもない、落ちるはずのないものが落ちた」「もらい事故」という言葉は、この小説の中で繰り返し登場するフレーズ。日航123便墜落事故において、墜落の事実よりも「どこに墜落したのか」が焦点となり、その特定に混乱が生じる様が赤裸々に描かれているのが本書の読みどころの一つでもある。隣の長野であれば他県だが、ここ群馬であれば我々の管轄だという地方新聞社の記者たちの複雑な感情。記者人生一度出会うかどうかの大事故が地元で起きた、大手メディアに先駆けて墜落原因特定の第一報をスクーブできるかもしれないという昂り。人員もコネも金も限られ、素直に共同の記事を乗っけとけ、いつまで日航記事を一面で独占するのか、地元の報道に戻せという冷水や横槍。主人公たちらが「報道の責務」を掲げて熱狂する一方で、その紙面が読者にどう届いているかという視点が欠落しており、閉鎖的なオフィス内での単なる狂宴のように見えて冷めてしまう。著者はある種の自戒を込めて『クライマーズ・ハイ』というタイトルにしたのかどうかわからないが、それくらいマスゴミの増長狂乱ぶりに辟易する。 「人の死をとことん悲しく伝えたがるのはマスコミの性癖みたいなもんだ。読者が読もうが読むまいが、書いて、作って、配るのが新聞だろうが。五百二十人死んだら五百二十本泣かせを書く。そういう仕事じゃねえか」。 本書が出版された当時はマスコミ志望の若者がたくさんいた。大学でもそうした授業は人気だったし、教授に元新聞記者の人が何人もいたが、いまはどうなのだろう。「新聞紙ではなく新聞を作りたいんだ」というセリフも、いまとなっては残酷なほど虚しく映り、業界の終焉を予感させるものとなっている。 「北関が部数を伸ばしたのはな、スポーツと人事で人の名前を目一杯紙面に載せてきたからだ。一昔前まで、スポーツと名のつくものなら、どんな小さな大会でも試合結果と出場選手をブチ込んできた。子供の名前が新聞に出れば親は買う。そうやって顧客を増やしてきた。たった五万部時代に入社した社長が作った神話だ。踏みにじるな」 いまとなればそれで十分だったという気がしてくるが、その時代も確実に終わっている。著者の作品の中では私的に最低の評価。

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    投稿日: 2026.05.25
  • 半落ち

    半落ち

    横山秀夫

    講談社文庫

    少し無理があるが、中尾洋平の章は素晴らしい

    著者のファンだが、本書は初読み。世間を賑わせた当時の騒動からも距離を置いていたので、読了後にざっとそちらも確認。耳に入れないようにしていたと言いつつ、それでも断片的には目にしていたのが、次のこと。直木賞選考で一部の委員から致命的な欠点を指摘されて落選したということと、それに反発した著者が賞のボイコットをするまでに至った、と。どうもこれは間違いだったようだ。おそらくその欠点がなくても選考に当たった複数の委員が、この作品の落選を決意して選考に臨んだのであろうこと、事実誤認とした欠点は主に推す声を封じるために利用されただけで、もともとそれほど推す委員も少なかったこと。横山氏がボイコットを言い出したのも、何もケチをつけられて落とされたからではなく、事実誤認の指摘への明確な反論を提出しているのに、それに対する公平な対応がなされなかったことへの憤りがあってのこと。 私自身の読了後の感想も、選考委員の北方氏が代弁している「妻を殺しながら人を助けようとする、主人公の生命に対する考えに抵抗が多かった」という選評に近い。他にも五木寛之の「前半三分の一まで引き込まれて読んだが、後半の予定調和的な結果には、大いに失望した」や宮城谷昌光氏の「目くばりの悪さがある。みなければならぬものをみる速度が、小説の豊かさを殺いでいる」という評にも共感を覚えた。 この直木賞選考が行われたのが、2003年の1月中旬。前年の年末に発表されたこのミスや週刊文春などのミステリーランキングで軒並み1位を獲得し、本も売れに売れていた。そんな中での選考だったので、もともとミステリーを毛嫌いしてた一部の委員からは嫉妬にも似た反発があったのかもしれない。一般読者がどれほど絶賛しようと自分たちはプロの作家だ。ヒューマニズム的な盛り上がりを生まんがために、あまりに話の筋が綺麗すぎるし、現実とかけ離れている。よってこの作品で人間が描けているとは到底言えない、ということなのだろう。 まず、致命的な欠点と指摘されたのは、著者の反論の通り、事実誤認ではなかった。だからこの点をもってリアリティの欠如には当たらない。 それより私には「人間五十年」と書かれた書や歌舞伎町の個室ビデオのポケットティッシュの方が気になる。梶は51歳まで生きるつもりはない、いわば遺書のようなものと判定されるその書は、いつ書かれたものなのか?堂々と目に付く書斎の壁に掲げた意図は?あるいは長年警察学校の教官を務め、謹厳・実直・警官の鏡ともいうべき警部が長年連れ添った妻を殺めた後、遺体をそのままに東京へ出かけ、件のティッシュを受け取ってコートにしまい込んだまま、その他の手配はぬかりなく済ませた後で、覚悟の自首をする。きちんと処分していれば、あとあと空白の2日間の追求を受けることもなかったはずではないか。 そもそもこの「半落ち」、実際には殺害自体の全面自供はすでに得られているため、空白の2日間にこれほど事件に関わる人たちが引き寄せられ、解明に血眼になる類のものではなかったはずだ。そこは設定の妙でもあるのだけど、あまりにもプロットを巧妙にしすぎたせいで、キャラクターの行動原理が不自然になったり、論理的な整合性に無理が出てしまっている印象が拭えない。 私は、新聞記者である中尾洋平の章がとてもよく書けていると感心した。むしろそれ以降の章に、弁護士や裁判官、刑務官などを登場させず、志木と佐瀬、中尾の三者の視点の切り替えだけで良かったのではないかとさえ感じている。昼行灯と言われた片桐部長が、中尾からの特ダネ原稿を受け付けず、梶事件の原稿を送れと迫るシーンは読んでて鳥肌が立った。「東洋の人間になりたいなら書け」と。やっぱりこの三者の視点で物語を構成していたら、もっと違った選考結果になったような気がしてならない。 直木賞の歴代受賞作を見てみればわかることだが、必ずしも作家の最高傑作が受賞しているわけではない。「なんでこれが落ちるのよ」というような作品が平気で選外となり、さほどでもない中程度の作品が受賞してみたりしている。 できれば著者には次の作品の発表前までに、直木賞のボイコットを撤回してもらいたい。男に二言はないなどと言わず、そこをなんとか。受賞すればやっぱりファンは嬉しいし、出版業界にとっては盛り上がりとなるだろうから。

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    投稿日: 2026.05.16
  • 遺伝子‐親密なる人類史‐ 上

    遺伝子‐親密なる人類史‐ 上

    シッダールタ ムカジー,仲野 徹,田中 文

    ハヤカワ文庫NF

    遺伝子とは何かを卒業し、遺伝子を使って考える段階へ

    いやぁ面白いわ。 目から鱗が落ちまくりだし、腑にも落ちまくった。 遺伝子の歴史は、生命の謎を解き明かすための問いと、その問いに対する答え、そしてその答えがまた新たな問いを生むというプロセスの連続だった。 まさに著者の言う「新たな発見は新たな疑問を生む。古い疑問は新しい疑問に取って代わられる」という言葉通りの展開。 まず、最も根源的な謎として存在したのは、「遺伝とは何か」という問いだった。 親から子へ形質がどのように伝わるのか、なぜ子は親に似るのか、そしてなぜ違いも生まれるのか。 古代ギリシャの時代からピタゴラスやアリストテレスもこの謎に取り組んだ。 特にダーウィンの進化論が登場し、自然選択による生物の多様化と適応のメカニズムが提唱されると、その理論が機能するためには、形質が受け継がれるメカニズム、すなわち遺伝のメカニズムそのものが不可欠な要素となる。 ダーウィン自身も遺伝のメカニズムに悩み、自身のジェミュール説を提唱したが、当時の「融合遺伝」という考え方では、有利な変異体が世代を経るごとに薄まって消えてしまうという問題を説明できなかった。 この「融合遺伝」の謎を解決し、遺伝理論に決定的な洞察をもたらしたのが、ご存知メンデルの実験だった。 メンデルはエンドウマメを用いた緻密な交配実験によって、形質が混ざり合うのではなく、独立した分割不可能な「粒子」によって遺伝することを数学的なパターンとして見出した。 これにより、ダーウィンが求めていた遺伝の基本法則が明らかになる。 遺伝は連続的なものではなく、不連続な「単位」(遺伝子)によるものであり、これが多様性を生み出す基盤となったのだ。 次の大きな謎は、この「粒子」や「単位」の物質的な正体は何なのかという疑問。 細胞の核に含まれるクロマチンがタンパク質と核酸でできていることは知られていたが、生物学者はその多様性と機能の豊富さから、遺伝情報を運ぶのはタンパク質である可能性が高いと考えていた。 DNAは単純すぎて「情報の運び手には向いていない」と考えられていたというのだから意外。 しかし、グリフィスの形質転換実験によって、遺伝情報が化学物質として細菌から細菌へ移動できることが示され、マラーはX線を使って遺伝子に変異を起こせることを発見し、遺伝子が物理的な実体であり、操作可能であることが示される。 これらの発見により、遺伝子が物質的なものであり、化学物質の性質を持つことがわかった。 そして最終的に、遺伝情報を運ぶ本体がDNAであることが明らかになり、さらにワトソンとクリックによるDNAの二重らせん構造の解明は、遺伝情報がどのように保存され、複製されるかというメカニズムに物理的な根拠を与えることになる。 DNAの構造が明らかになったことで、遺伝子がどのような「設計図」なのかが分かり始めた一方で、新たな謎も生まれることに。 「遺伝子は何をしているのか」という機能に関する問いだ。 ビードルとテータムの「一遺伝子一酵素説」は、遺伝子がタンパク質をコードしていることを示し、遺伝子と生化学的な機能を結びつける。 タンパク質は細胞内の多様な化学反応を制御する「スイッチ」のようなものであり、生物の機能の中心を担っていたのだ。 さらに、すべての細胞が同じDNAを持っているにもかかわらず、なぜ異なる機能を持つ細胞(例えば赤血球と肝細胞)が存在するのか、なぜイモムシがチョウに変態できるのか、といった遺伝子の「調節」に関する謎が登場する。 ジャコブとモノーはオペロン説を提唱し、遺伝子にはいつ、どこで、どのようにつくられるかという情報(調節配列)も含まれており、特定の遺伝子群が協調的にオン・オフされるメカニズムを発見した。 これにより、遺伝子は単なるタンパク質の設計図だけでなく、プログラムとして実行されるための「文脈」を持っていることが明らかになる。 遺伝子調節の理解は、発生生物学における長年の謎、すなわち「単一の受精卵がどのようにして複雑な多細胞生物へと発達するのか」という問いに光を当てることに。 遺伝子のオン・オフの連鎖が、胚の基本的なボディープランや各器官の形成を指示していることが明らかになる。 発生は、マスター遺伝子や体節遺伝子などが、他の遺伝子を順次制御していく過程として理解されるようになった。

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    投稿日: 2025.05.01
  • ブラックサマーの殺人

    ブラックサマーの殺人

    M・W・クレイヴン,東野さやか

    ハヤカワ・ミステリ文庫

    生きていると同時に死んでもいる

    文句なく面白い。 ラストの胸のすくような一発逆転劇を思うと、前作よりも上かも。 物語の始まりが特にいい。 時勢柄、警察署が売却された田舎の図書館に、週に一度巡回で訪れる苦情処理担当の警察官。 彼の前に突如現れた放心状態の娘。 詳しいことは何も知らされず「大変なことになった。とにかくこっちに来い」と呼び出されるポー。 ほんと読ませる。 中盤はちょっと退屈に感じさせる。 前作と変わらぬ構成になっていて、ティリーはポーの繰り出すウィットやジョークを字義通りに打ち返すだけだし、ポーの動きを制限しようとする警察内部の暗躍もそう。 ただ魅力的な謎で引っ張るのでそんなのはどうでもよくなるのだが。 「エリザベス・キートンは生きていると同時に死んでもいる」 二つの相反する意見を持ちながら、その両方を信奉するという、オーウェルの「二重思考」というタームを出しながら語られる不可解な謎。 合理的な説明としては、誰かが他人の血液を、自分の体内に隠し持っていたとしか考えられないが、そんなことは果たして可能なのか。 明かされた答えは、まぁそういうことか、と若干熱を冷まさせるものであったけど、それでもこの証拠保全のプロセスの話はとても興味深かった。 いかにして証拠の連続性を維持するか。 改ざんやすり替えを排し、採血から保全過程まで逐一録画などで記録される。 本当に血液サンプルの取り扱いは適正だったのかどうか。 このあたりが丁寧に描かれている。 拠点となる警察署は次々と売却され、週に1回しか警察官が巡回しない地方の事件であっても、このあたりは手を抜かない。 それと、イギリスのコモン・ローにおいて長らく確立されていた一事不再理の原則が変更されていたというのも、本書で初めて知り驚いた。 もちろん例外扱いではあるが、これにより同じ犯罪で二度裁くことが可能となっている。 それと本書は、素敵な料理ミステリーでもある。 冒頭から、生きたままブランデーで溺れさせた鳥の料理も出てくるし、何よりタイトルのブラックサマーからして、最高級のトリュフなのだ、見た目はウンチにしか見えないが。 ポーが食べるテイティーポットの描写はもうヨダレが垂れてくる。 「てらてらとした子羊肉、濃厚な味のブラッドソーセージ、金色に輝くジャガイモのスライスをスプーンに取り、口に運んだ。目を閉じて、ため息を漏らす。舌がとろけそうだ」 さっそく検索して写真を見たが、無性にイギリス料理が食べたくなってきた。

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    投稿日: 2025.04.22
  • 鉄道路線に翻弄される地域社会 - 「あの計画」はどうなったのか? -

    鉄道路線に翻弄される地域社会 - 「あの計画」はどうなったのか? -

    鐵坊主

    ワニブックスPLUS新書

    自治体が抱えるジレンマが、整備計画に飛びつくキッカケに

    タイトルが示す通り、本書は日本の鉄道網、特に新幹線計画や地方ローカル線の存廃問題が、沿線自治体にいかに大きな影響を与え、翻弄しているのかを多角的に描いている。 自治体は、発展への期待と財政難、人口減少への危機感、そして災害からの復旧という複数のジレンマに常に直面しており、その中で鉄道というインフラに翻弄されながらも、地域社会の維持と活性化を目指す苦悩が本書全体を通して強く伝わってくる。 自治体が新幹線プロジェクトに大きな期待を寄せる背景には、地域経済の活性化と人口減少への抵抗という強い動機があることがわかる。 函館市が新函館北斗駅から函館駅への新幹線乗り入れを検討しているのは、札幌延伸後の特急廃止による乗り換え問題を解決し、経済効果を見込んでいるから。 新座市が大江戸線延伸に期待を寄せるのも人口を減少させないためにも、町の魅力度を向上させるツールとして大江戸線の沿線が必要不可欠と考えているため。 都心と直結することで新たな住民の転入を促し、人口減少の流れを変えたいという強い願いが背景にある。 川口市が巨額投資をして上野東京ラインのホーム建設を決定したのも、町の競争力・魅力度を底上げする重要な都市計画と捉えているからだ。 これらの事例から、自治体は新幹線や地下鉄といった新たな鉄道路線を、地域へのアクセス向上、経済効果の創出、そして人口減少に抗うための魅力的なツールとして捉え、積極的に誘致・推進しようとしていることがわかる。 しかし、多くの自治体は厳しい財政状況に置かれている。 本書では、北海道のローカル線維持におけるJR北海道の苦境や、第三セクター鉄道への財政支援の難しさが繰り返し語られている。 特に、肥薩おれんじ鉄道のように複数の県にまたがる第三セクター鉄道では、公的資金の分担率を巡る問題が常に存在し、鹿児島県のように支援金の拠出に苦慮するケースも見られる。 鹿児島県では人口減少による税収減少から、基金からの拠出に対する反対意見も根強く、財政的な限界が示唆されてる。 それでも、自治体が赤字路線であっても容易に廃線を認められないのには、複数の理由がある。 一つは、地域住民の生活の足としての役割だ。 米坂線の復旧問題では、沿線全体で通学の足を考える必要性が議論されており、日田彦山線のBRT化においても、東峰村のように村内に鉄道路線を失うことへの強い危機感が示されている。 二つ目は、忘れられることへの危機感だ。 鉄道の廃線は「JRのネットワークから外れてしまい、路線図からも消える」ことを意味し、沿線自治体の知名度低下や魅力の喪失に繋がりかねない。 人口減少社会において、自治体は「魅力度を高め、住んでもらえる場所になるべく、しのぎを削っている」ため、鉄道の存在は極めて重要な要素なのだ。 三つ目は、貨物輸送の役割である。 函館本線の渡島ブロックのように、旅客鉄道としては赤字でも、貨物列車が多数運行されているために廃止できない路線も存在する。 国土交通省が鉄道貨物のシェア倍増を目標としている現状を考えると、貨物輸送の重要性は今後ますます高まる可能性があり、安易な廃線は認められないという国の意向も背景にあるのだろう。 本書は、多くの自治体が厳しい人口減少予測に直面している現状も指摘している。 新座市の将来人口推計のように、一時的な増加が見込まれても、その後は緩やかな減少が予測されている地域は少なくない。 このような状況下で、自治体は交通インフラ整備に活路を見出そうとしているが、それが必ずしも人口減少を食い止める有効な手段となると断言できるだろうか。 川口市が上野東京ラインのホームを建設しても、「自治体間の格差、大都市への人口集中といった問題がさらに大きくなることが懸念される」と指摘されるように、一部の自治体の魅力向上策が、他の地域の人口流出を加速させる可能性も否定できない。 自治体の努力が、焼け石に水になるかもしれないという不安は常に付きまとう。

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    投稿日: 2025.04.20
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