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崩紫サロメさんのレビュー
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  • ヘイト・スピーチとは何か

    ヘイト・スピーチとは何か

    師岡康子

    岩波新書

    欧米での問題から考える

    日本で「ヘイト・スピーチ」という言葉が一般に知られるようになったのは、 おそらく在特会などを巡る問題がきっかけだったせいか、 「日本とアジア(韓国?)の問題」なってしまいがちで、そこに領土問題やら何やらが絡み、 そもそもの「ヘイト・スピーチとは何か」がよくわからないまま 感情的に論じられているように思う。 本書は、具体例としては日本で起こっているそうした問題を入り口にしているが、 ヘイト・スピーチが国際法や条約、各国の法の中でどのように規定され、 具体的にどのような事例においてどのような判決が下されたのか、 日本政府はそれに対してどう対応してきたのか(2013年末時点で)、 という法制度面からの考察である。 著者はヘイト・スピーチに対する法規制を推進する立場であり、 私のように法規制に少なからず危惧を感じる者にはひっかかる部分もあるのだが、 推進する立場でありながら、様々な国が、ヘイト・スピーチの規制を行うなかで直面する 様々な問題を丁寧に紹介しているため、様々な立場の人にとって考える素材となるであろう。 イギリスやアメリカで起こったヘイト・スピーチに対する裁判とその判決を少し紹介する。 「憎悪をかき立てる意図」をヘイト・スピーチの要件としていた場合、 「意図はなかった」と言って無実となった例(イングランド人の「犬とアイルランド人立ち入り禁止」掲示)や、 聴衆がもともと人種的憎悪を有していたから、演説により憎悪をかき立てられたかは、 証拠不十分と認定されたという例(アメリカ白人のアジア系住人殺害事件に対し「一人が消えた、あと100万人だ」という発言) など、法規制の難しさを感じさせられる。 また、私が本書を再読しようと思ったきっかけが ソニー・ピクチャーズの主張する「表現の自由」に、またさらに、 シャルリー・エブドの主張する「表現の自由」に強い違和感を覚えたことであった。 ああいった内容は、「表現の自由」として許されるのか、と。 許されるとしたら何故なのか?テロの標的になったからなのか?それとも・・・? もちろん、本書は2013年末に出た本なので、これらの事件に対して言及はしているはずはない。 だが、欧米での様々な差別「表現」とそれに対する判決は、 これらの問題の潜在的な背景とも言えるし、 本書の改訂版が出るとしたら、当然このあたりの問題にも触れることになるだろう。 ヘイト・スピーチと「表現の自由」をめぐり、 主に法制度の面から考える素材を求める人にお薦めする。

    7
    投稿日: 2015.02.01
  • 韓国のイメージ 戦後日本人の隣国観 [増補版]

    韓国のイメージ 戦後日本人の隣国観 [増補版]

    鄭大均

    中公新書

    「他者へのまなざし」について考える

    歴史を考える上で「事実」が大事なのは間違いないが、 実際のところ、人を動かしているのは思い込みや勘違いであることも多い。 「イスラム教徒は野蛮で残虐である」というイメージが十字軍遠征にどのように作用したか。 いや、十字軍のみならず、今現在もどのように作用しているか。 そのようなことを考えると、歴史学においても、社会学においても、政治学においても、 必ずしも現実とは一致するとは限らない「イメージ」に向き合うことは非常に重要である。 本書初版も、そういった意味での「イメージ」を扱うもので、 対象は1945年から1995年(本書初版刊行時)までの 「日本人の韓国イメージ」であった。 非常に興味深いものであったので、2010年までの考察を加えた この増補版も読んでみた。 当然、その「イメージ」が現実と合っているかを検証したり、 違っていることを非難したりすることは本書の目的ではない。 この類の書の評価としては、そのサンプリングが適切な幅と量を備えているかという点になるだろう。 私は、本書は新書という紙面の制約の中、なかなかにうまくまとめていると思う。 本書初版(1995年)では韓国への眺めを 「無関心・避関心の時期」(第一期) 「政治的関心の時期」(第二期) 「文化的関心の時期」(第三期) への変遷の過程ととらえ、増補版ではさらに 「韓流の時代」(第四期)を加えている。 それぞれの類型について、具体的な言説(当然差別的なものも含む)が引用されており、 当時の日本の韓国に対する「雰囲気」を感じることができる。 扱っているものは政治家の発言あり、小説家の紀行文あり、旅行ガイドあり、左翼活動家のアジテーションあり、なかなかの幅がある。 当然、それらは現実の韓国とは異なるものであるし、 その言説同士に大きな矛盾がある。 また、北朝鮮の存在をどのように捉えるか、という点で大きく異なる。 いろいろと興味深い言説が上げられていたが、少しだけ紹介すると、 小倉紀蔵の「アルタイ・コンプレックス」を共有する者の相互蔑視の問題の紹介など、面白かった。 小倉氏によると日本人が「韓国人の顔」としてイメージする顔は、必ず目が細い。 そして、韓国人が「日本人の顔」としてイメージする顔も、必ず目が細い。 さらに、日本でも韓国でも映画やドラマでは自国の主人公は西洋的な顔立ちである、と。 つまり、両国とも欧米に対してコンプレックスを持っており、自国の方がより西洋に近いとする言説/映像が「イメージ」として流布しているのだ。 これは、1992年に書かれた文章によるものだが、当時の日本や韓国の西洋コンプレックスの屈折した表出として印象的だった。 (今でも「より西洋に近い=進んでいる」という認識を持つ人は日韓共に多いだろう) 増補部分の「韓流ブーム」についても、それまでの韓国イメージとの断絶・変化よりも 連続性・類似性に焦点を当てており、「他者」に何を投影するかという本質について、 改めて考えさせられるものであった。

    10
    投稿日: 2015.01.29
  • 保育とは何か

    保育とは何か

    近藤幹生

    岩波新書

    「教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸に刻むこと」、さて具体的にどうしよう?

    待機児童ゼロ作戦。これだけを聞くと、保育園を増設することにより、働く親が子供を安心して預けられる環境を作る、ということだと思ってしまう。 が、実際のところは保育園において定員を超えて園児を入園させ、 正規の保育士を増やすのではなく、短時間勤務の保育士を増やすことであった。 以前、堤未果『ルポ 貧困大国アメリカ』(岩波新書)というシリーズが話題になったが、 そこにある根本的な問題は「民営化」や「効率化」が生み出す弊害であった。 かのルポタージュはあまりにも衝撃的な内容であったが、 『保育とは何か』と題する本の最初の10%くらいでそれと同じ構造的問題が見えてしまったことは、また衝撃だ。 何故、そこからなのか。民営化が、効率化が、保育に何をもたらすのか。 保育は「効率」を求めるものなのか。 だから、「保育とは何か」を考えなければならないのだ。 なるほど、この順で論じることは筋が通っている。 幼稚園と保育園の違いは何か、 「子どもの権利条約」とは何か、などの基本的な知識の整理があり、 具体的な保育所の取り組みの中で、法律や権利条約がどのように作用しているか、 そして、内閣府の行う子ども・子育て支援新制度が保育をどのように変えるのかを論じる。 著者は保育者・園長をつとめ、現在は大学教授である。 そのような立場から、「子どもを社会が育てる」時代にあるということ、 それゆえ、「保育者の専門性が問われる」と主張する。 それはマニュアル通りにやることではない。 著者が小田中聡樹氏の文章から引用した中に、フランスの詩人アラゴンの詩の一節がある。 「教えるとは希望を語ること、学ぶとは誠実を胸に刻むこと」 とても良い言葉だ。 ただ、そういう心を持った人間を養成するにはどうしたらよいのかについての 具体的な提案は乏しく、少々観念的になっている。 岩波新書としてはややページ数が少ない方なので、あと数十ページかけて 保育士や幼稚園教諭の養成課程がどのようなもので、そこにどのような課題があるのかを 論じていれば、もう少しよかったであろう。

    11
    投稿日: 2015.01.28
  • 現代秀歌

    現代秀歌

    永田和宏

    岩波新書

    歌を読みたい/詠みたいすべての人へ

    現代ナントカはだいたい難しい。現代思想、現代音楽、現代美術・・・。 難解さの中に何かを見つけることが試されるような世界だ。 現代短歌の中にもそういうものもある。 だが、本書で紹介されている「秀歌」は素直に読んで心に響くものばかりである。 何故なら、著者の永田和宏は歌人で、妻の河野裕子(故人)も歌人で、 二人の子供たちも歌人で、思いを伝える手段として歌を用いている人々である。 実は私もこの一家と縁浅からぬ学生短歌会で活動をしていた。 私が短歌を始めたときにはもちろん本書はなかったのだが、 本書に紹介されているような歌の中には、歌を作ったことのない人に、 作ってみたい、と思わせるものや、作り始めたばかりの人に 「こんな表現もあるのか」と思わせるものがたくさんある。 例えば本書にあげられている栗木京子の 観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日(ひとひ)我には一生(ひとよ) こういうの、高校の頃に読んで「あるある!」と思ったものだ。 こうした青春の歌というのは、感情としても表現としても特に難しいものではない。 自分も作ってみよう、と思う。 でも平易な表現で心に深く響く歌というのはなかなかに難しい。 だから、短歌は奥が深い。 <おわりに>では、妻・河野裕子の死と向き合う著者自身の歌が収められている。 これは、『たとへば君 四〇年の恋歌』という夫婦の出会いから終わりまでを綴った書と重複するところがあるが、 本書のように、短歌をつくったことのない人に向けて、歌がいかに大切な表現手段になるか、 自分自身の経験として伝える上で重要だろう。 一日が過ぎれば一日減ってゆくきみとの時間 もうすぐ夏至だ 技巧的に上手いとか下手とかの次元で語るべきものではないだろう。 いかに彼女と過ごす時間が貴重か、それが残り少なくなっていくことにいかに苦しんでいるか。 著者のように、伝えたい相手に直接歌を渡す人は少ないかもしれない。 だが、誰に見せるでもなく思いを整理するのに、31文字というのは丁度良い長さで、 五七五七七というリズムは何故だかすとんと響く。 斎藤茂吉の『万葉秀歌』(岩波新書)のように本書も名歌を鑑賞する本として読んでもよい。 選ばれた歌も、解説もそれに値するものだ。 だがやはり、誰かに思いを伝えるために、また、ただ自分自身のために歌を作るきっかけとなれば、 それこそが著者の真に望むところであろう。 歌をつくるために読まなくてもいい。 だが、本書を読めば、「自分もつくってみようかな?」と思う人はきっといるだろうと思う。

    16
    投稿日: 2015.01.27
  • 「生きづらさ」について~貧困、アイデンティティ、ナショナリズム~

    「生きづらさ」について~貧困、アイデンティティ、ナショナリズム~

    雨宮処凛,萱野稔人

    光文社新書

    他者の生きづらさとどう関わることができるのか?

    雨宮処凛さんの生き方は、「生きづらさ」のかたまりのように思える。 中学でいじめに遭い、自殺を考え、高校時代は家出をしたりリストカットをしたり。 二浪して高卒フリーターに。使い捨てるようにクビにされるたび、 またリストカットやオーバードーズ。 そんな彼女に居場所を与えてくれたのが右翼団体だった。 営利目的でもなく、競争もしなくてもいい。 ただ、この国を良くしたい、それで若者たちがまとまっている。 だが、ときどきふと、「どうしてわざわざ自分が愛国心とか国家とかにすがって生きなくちゃいけないんだ」とも思ったり。 まあ、その後紆余曲折を経て、作家になり、 「生きにくい人」たちが生きていく場をともに創るべく、活動中。 彼女の人生も波瀾万丈なのだが、やはり、今も「活動」を続けているというところがすごいと思う。 何故なら、「生きづらい人」と関わるということは、その生きづらさを共に背負うことであるし、 上手く背負いきれずに自分がしんどくなったり、相手が余計に生きづらくなったり、 また、関係のない人から心ない中傷を受けることもあるからだ。 本書の最後の方で彼女はこんな風に言う。 「今の社会には「自分だけでも勝ち逃げしろ」という圧力がすごくありますよね。 でも、プレカリアートの問題に携わってる人のなかには、 運動をやらずに仕事に打ち込めば勝ち逃げできそうな人がたくさんいるにもかかわらず、 自分だけ勝ち逃げしても仕方ないことを骨身に沁みて知っている。 勝ち逃げの誘惑に負けずに戦う人たちは、すごくいいなと思います。」 私は、雨宮さんこそ、勝ち逃げできるのに、その誘惑に負けずに戦っている人だと思うし、 「すごくいいな」と思う。 雨宮さんの本は本書を含め何冊も読んでいるが、やはり、 「自分はこんな苦労をしていない」とか「自分は人のために何もしていない」 とか、どこか、引け目を感じてしまう。 何というか・・・私のような者が「生きづらさ」について語ったり考えたりする資格があるのかと。 だが、本書は対談相手の萱野さんの存在のおかげで 少し気持ちが救われるような気がした。 萱野さん自身はここまでの経験はしていような感じ(多分)で、 見たこと・聞いたことを学者として整理してコメントしている。 対談というよりは、カウンセリングでいうところの「傾聴」の姿勢を感じる。 当事者でなければ関わってはいけないのであれば、 それはまた「生きづらい世界」をつくることになる。 当事者でなくても、萱野さんのように 人の生きづらさに対し、傾聴する姿勢を持つことは、 多くの人にとって必要なことなのではないかと感じた。

    7
    投稿日: 2015.01.23
  • ケータイ世界の子どもたち

    ケータイ世界の子どもたち

    藤川大祐

    講談社現代新書

    メディアリテラシー教育論として読む

    ITという変化の早い世界の話で、2008年の新書というのは今更どうなのだろう、と思いながら読んでみた。 IT関係の話としてはごく入門的だ。 2008年に読んだとしても、おそらく新しい話ではなかっただろう。 だが、やはり今読んでみても一定の価値を見いだせるのは、 直接的な内容に、ではないように感じた。 本書は、子供を持つ親や教師のために書かれたものである。 ケータイは通話だけではなく、多様な機能を持つ情報端末であるという認識を、 大人が持たなければならない、というところから始まるのに、正直驚いた。 2008年だ。既にスマートフォンも出ていた時代だ。 そこから、なのか。 「子どもたちは」「大人の知らないところで」という言葉が続くが、 自分は子どもではないはずなのだが、本書で言われている大人でもないようだ。 自分の常識が、必ずしも同世代の常識とは限らないということか。 (まあ、想定している年代は私よりも上ではあろうが) 自分の価値観や知識を他人にまで拡張してはならないという、 当たり前のことに気付かされた。 また、ITの発達による変化を扱いながら、そこに見られる 普遍的な人間心理に対する考察が、常識的で、だからこそ意義深い。 例えば、子供の世界には強い同調圧力が働く、という。 同調圧力とは、周りと同じようにしなければならないという雰囲気による圧力だ。 もちろん、どんな時代にもどんな世代にも同調圧力は存在する。 本書は2008年時点でのITの発達によって、子供たちの間に働く同調圧力がどのように変化しているかを考察している。 本書の考え方と新聞記事・テレビで現在の情報などを合わせれば、 今起こっている問題に対してどうしていけばよいのかを考える手がかりとなるであろう。 フィルタリングと表現の自由の対立という概念も、 現在に置き換えればますます重要になっていく問題だろう。 著者の研究分野はメディアリテラシー教育である。 膨大な情報の中から自分で真偽を判断できる力を養う、というのを目指すものだ。 よって、本書も様々な提案をしつつも 「これで解決!」という答えは出していない。(出したらメディアリテラシーを語る資格はないだろう) が、「異質な他者とかかわる力を育てる教育」が必要であるという主張には納得できる。 個別的な事例は古いながらも、 「異質な他者とかかわる」ために、本書から読み取れる問題は普遍的で、 何をすべきかを考える手がかりとなる。

    6
    投稿日: 2015.01.21
  • 伊藤博文 知の政治家

    伊藤博文 知の政治家

    瀧井一博

    中公新書

    制度とは人がつくるもの。

    以前から、著者・瀧井一博氏の描く伊藤博文像に興味を持っていた。 瀧井氏の専門は文学部的な歴史学ではなく、法制史、まあ法学部に属するところだ。 『文明史のなかの明治憲法』(講談社選書メチエ、2003年)、 『明治国家をつくった人びと』(講談社現代新書、2013年)などの著書により、 法制史に疎い私のような文学部の人間にもその面白さを垣間見せてくれた。 瀧井氏が扱っているのは Constitution というものである。 これは、「憲法」とも「国制」ともいろいろに翻訳が可能な言葉であるが(憲法の意味で使われることが多い)、 「国のかたち」というのが一番近いのではないか、と著者は『文明史のなかの~』で述べていた。 上記にあげた2冊、および本書は、「国のかたち」をどのようにしていくか、 模索段階にあった明治期の日本について、様々な形で取り上げており、 本書は、その立役者の一人である伊藤博文を軸に「国のかたち」について論じている。 従来、あまり高い評価を受けてこなかった伊藤博文を再評価する本であるが、 ドラマチックな英雄伝のようなものではない。 あくまで伊藤が「国のかたち」についてどのように考えたか、 史料を丁寧に用いてストイックに論じているからである。 影の主役はやはり「国のかたち」なのだろう。 だが、法制史に興味があるが、少々難しそうで気後れしてしまう というような人には本書はおすすめしたい。 伊藤博文という一人の人間を軸としているため、 「国のかたち」に対する考え方の変化が血の通ったものに感じる。 当たり前なのだが、制度というのは人が作るものなのだ、 そしてその過程で様々な試行錯誤がなされるのだ、と。 よき「国のかたち」とはどのようなものだろうか? それを真摯に模索した人間について、真摯に論じた評伝。 気楽に、よりは真摯に読みたい一冊である。

    11
    投稿日: 2015.01.17
  • 徳富蘇峰 日本ナショナリズムの軌跡

    徳富蘇峰 日本ナショナリズムの軌跡

    米原謙

    中公新書

    彼の筋が通らないところにどこか共感

    徳富蘇峰は「変節漢」として毀誉褒貶が激しい人物である。 若き日は熱心すぎるほど熱心なキリスト教徒であったが、 割とあっさりとキリスト教から離れる(少なくともそのように見える言動をする)。 その後は民権派ジャーナリストとして活動するが、藩閥政府へと参画。 日清日露戦争を経て国粋的ジャーナリストとして「大東亜戦争」を鼓舞してきたにも関わらず、 戦後はあの戦争に敗れたのは日本の自業自得であった、と言ってしまうような人である。 個人として見て、このような変化は一体何故なのか、と気になる。 本書は蘇峰の94年の生涯を通してその時代の日本全体の変化を読み取ろうとするものである。 私は、蘇峰を少々変わった人間だと思っていたので、その蘇峰を通して見えるのは、どんな日本なのかと興味を持った。 本書を通読してみて思ったのだが、 蘇峰のやっていることは支離滅裂なようで筋が通っているし、筋が通っているようでやはりおかしい。 例えば蘇峰は同志社英学校で西学とキリスト教に心酔した。 だからこそ、西洋人の欺瞞がよくわかる。 故に日本が国際社会で敬意ある待遇を求め、そのために戦おうとする。 だが、アジアの他の国も同じように敬意ある待遇を求めているということに思い至っていない。 この種の筋の通り方/通らなさというのは、考えてみれば蘇峰だけではないだろう。 蘇峰にとっての「同志社時代」は、日本にとっての同時期、つまり「文明開化」という言葉が流行した明治初期であろうし、 第二次世界大戦の戦中と戦後でころっと言うことが変わったのも蘇峰一人ではあるまい。 本書のサブタイトルは「日本ナショナリズムの軌跡」となっているが、 蘇峰の関わった範囲、そして本書で扱っている範囲は広く、 ジャーナリズムの軌跡であり、歴史観の軌跡でもある。 もちろん、日本近代史でもある。 どちらかといえば「徳富蘇峰」個人に関心をもって読み始めたのだが、 吉野作造、北一輝、石橋湛山など、いろいろな人物について今一度考え直すきっかけともなった。 なかなかにセンスのいい切り口の本だと思う。

    10
    投稿日: 2015.01.14
  • アルスラーン戦記1王都炎上

    アルスラーン戦記1王都炎上

    田中芳樹

    らいとすたっふ文庫

    「無益なつくり話」の持つ魅力

    最近荒川弘のコミック版も出て、再ブームの予感?なアルスラーン戦記。 原作電子版の出版を心から嬉しく思う。 久しぶりに読んでみて、やはり面白い、と思った。 どういう思いが、こういう面白さを生み出したのだろうと、「あとがき、みたいなもの」という著者の後記を読んでみた。 田中芳樹は12世紀イギリスで書かれた「ブリテン列王記」という架空の「歴史書」を楽しく読んだらしい。そして むろんこれは歴史事実に反するお話(ロマンス)ですが、作者のモンマスという人は、堂々とこれを歴史書として発表したのでした。 彼はこの架空の「歴史書」をつくりあげるのに、たいへんな努力と苦労をかさねげあげたようです。 私は右の話がたいそう気に入っています。つくり話も好きですし、無益なつくり話をつくるのに情熱をそそぎこむような人間も好きです。 政治目的がからんだり、権力者にこびたりするための捏造はいやですけどね。 と語っている。これが、アルスラーン戦記や銀河英雄伝説を描く原動力なのだろう。 ふと、「無益なつくり話」という言葉が心に響いた。 書物を書く以上、書きたいことがあるはずだ。 それが誰かに、何かに、「益」をもたらすものであれば嬉しいと思うのが人情だろう。 が、それは時として政治目的がからんだり、権力者にこびたりする捏造になってしまう。 そうするとお話(ロマンス)として面白くなくなってしまう。 そう思うと、「無益なつくり話」というのは、純粋に人の心を動かし、喜ばせるための物語ということだろうか。 そういうことに情熱をそそぎこむというのは、確かになかなかに素敵なことだ。 本書は中世ペルシアをベースとしながら、古今東西のさまざまな歴史要素をつめこんでいる。 そのため、何らかの智慧や教訓を引き出す読み方もできると思う。 だが、著者の願うところは、何かの役にたてるためではなく、純粋に物語を楽しんでほしいということか。 2巻に入って、この1巻のあとがきを思い出しながら読んだ。 王都を追われ、逆境にある未熟な王子アルスラーンの味方をするというのは、 多くの登場人物たちにとって益になるのかどうか、よくわからないところだ。 そして、読者にとって、アルスラーン戦記を読み続けることがどういう益になるのかもよくわからないところだ。 だが、人生とは何の益になるかわからないことを繰り返しながら、その中に喜びや悲しみを見出していく。 そんな意味で、こうした「無益なつくり話」を読んでハラハラしたり、喜んだりすることは、 それもまた人生の意義を感じることではないだろうか? 回りくどい言い方をしたが、ストレートに言うと、 面白い小説だから読んでほしい ということだ(笑)

    23
    投稿日: 2015.01.10
  • 若者はなぜ3年で辞めるのか?~年功序列が奪う日本の未来~

    若者はなぜ3年で辞めるのか?~年功序列が奪う日本の未来~

    城繁幸

    光文社新書

    恵まれた人の話ではあるが、ポジティブな姿勢には好感

    思った以上にポジティブな本で驚いた。 著者は、従来の年功序列の弊害とその崩壊による更なる弊害で、若者があまりにも報われない社会(会社)になっていると述べる。 その部分はそうだなあ、と思う。成果主義といってもやはり「年功序列」的なシステムの上の成果主義。 若者にも中高年にもやさしくない状況だ。 多分本書は就職して3年くらいの若者をターゲットとしているのだろうか。 「レールを降りることの意味」として次のように励ましている。 それは、一言でいえば、「自分で道を決める自由」である。レールの先にはどうやら明るい未来は少なそうだが、 代わりにどこでも好きな方向へ歩いて行けばいいのだ という。 そしてそうした若者の例として、ソニーを辞めてコネクティを創立した服部恭之社長など、 「レールを降りて好きな方向に歩いている」若手起業家を紹介している。 彼らレールを降り自分の足で歩いている人間は、それぞれの動機と常に正面から向き合っている、と言う。 自分の胸の奥にある動機に従うか、それともそんなものは忘れて、 昭和的価値観に身をゆだねるか。 決めるのは上司でも友人でも親でもない。自分自身だ。 その選択に際して、本書が多少なりとも参考になれば幸いである。 とのこと。 いい話だと思うのだが、本書を参考にして、 そういう選択をできる人間というのは、既に「レールに乗ることができた」若者である。 著者の経歴を見てみたところ、東大法学部卒→富士通入社→社内で新人事制度の運営に携わる →退社→コンサルティング会社設立、 ということで、例に挙がっているような人々と同様、大企業の正社員になれた人である。 若者の離職に関して言うと、著者のように「自分の胸の奥にある動機」に従う場合だけでもないだろう。 ソニーや富士通の正社員という、そんなレール自体が最初からない人が殆どだろう。 もっともっと追い詰められた状況、例えばブラック企業の問題などもある。 離職も何も、就職すらできない若者もいる。 だから、少々、「恵まれた人」の話という気がするが、 それでも、働くことに対して「自分の胸の奥にある動機」と正面から向き合うことが大事だ、 という主張には共感するし、働く上で忘れてはいけないことだと思い直す機会となった。

    14
    投稿日: 2014.12.24