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  • 日本軍はなぜ満州大油田を発見できなかったのか

    日本軍はなぜ満州大油田を発見できなかったのか

    岩瀬昇

    文春新書

    不都合なデーターを無視し都合のいいデーターをでっち上げる

    安全保障のために食料自給率を100%にと言う意見はよく聞かれる。だがエネルギーの自給ができないのに食料自給率だけを高めても有効ではない。太平洋戦争直前の日本政府に明確な石油政策は存在せず泥縄的に南方石油確保策に突き進んだ。同じことを繰り返しているように見える。 明治も終わりの1908年浅野財閥の浅野総一郎はヨーロッパ先進国同様に原油を輸入し国内で精製する消費地精製主義を日本でも行おうとし保土ヶ谷に製油所を建設していた。一方、日本石油の創設者である内藤久寛は国内石油業者が競争力を失うことを怖れ輸入関税をかけるべきと主張した。後から見れば石油が足りないとする浅野の主張が正しいのは明らかだがこの時は内藤説が取り上げられ、これ以降の日本は石油製品を輸入するしか道がなくなっていく。 石炭から石油への転換を図っていた海軍だが八八艦隊計画でも石油政策については煮詰められておらず、石油国策実施要項が閣議決定されたのは12年に及ぶ燃料調査会の結論の出ない議論の後1933年である。その骨子は6ヶ月分の民間備蓄、石油業の振興(精製、輸入の許可制)、資源開発(国内、北樺太),代用燃料(アルコール、石炭液化、オイルシェール)だった。石油政策を考えていたはずの海軍ですら後ろ2案は運頼みに近い。 北樺太の石油開発は日ソ基本条約締結に伴って日本が獲得した。ポーツマス条約で割譲を受けた南樺太だけでなく北樺太も日本の実効支配下にあり、ソ連が求める撤兵は日本が有利に使えるカードだったはずだった。しかし、日本は石油利権について詰めることなく撤兵に合意した。鉱区についても平等に分けるという原則が貫かれたのはまあいいとして、市松模様のように交互に配分するというミスをおかした。道路を含めたインフラも無い中ソ連はまず日本に試掘させ、有望な鉱区が見つかればその隣を採掘すると言う手に出た。日本は石油欲しさの足元を見られ続けた。日本の北樺太石油に2年遅れて創設された国有企業トラストは日本が原油代金前払いの代わりに必要な資金や資材を投入し事業を開始したがソ連政府の嫌がらせで閉鎖に追い込まれた北樺太石油とは違い順調に生産を拡大し、現在では累計生産量は1億tを超える。最期に日ソ中立条約の締結に伴い、400万円でソ連に譲渡されることになった。当時の簿価でも2500万円はあり、現在のように埋蔵量をしさんに換算していれば総額1億5千万にのぼる。結局日本はまともな交渉ができていなかったことになる。 満州で日本は石油の発掘を行っていたが当時のやり方は地表に油兆、多くはアスファルトを見つけることから始まる。だが関東軍の調査団は海軍の序列に基づき指揮権、決定権は学者ではなく軍にあった。ソ連国境近くのジャライノールに続き、奉天に近い阜新炭田で油兆が見つかったことからこちらでも採掘を始めたが石油は発見できなかった。大慶に続いて発見された中国三大油田の一つ遼河油田はこの阜新のすぐ近くにある。民間には進んだ技術は有ったが軍部は秘密重視を優先し自分たちで全てを取り仕切ろうとした。もし、アメリカの物理炭鉱専門会社を起用していれば、満州で日本が石油を発見していたかもしれないのだ。 戦前の日本は石油に関して量と質、両方の問題を抱えていた。経済封鎖にあった日本が量の問題を解決するために考え出したのが蘭印に対する南進だが、質の問題としてはジェット燃料を製造できなかったことだ。結局は規制の隙間を縫って備蓄した燃料で日本は戦争を始めたことになる。南方石油の取得見込み、航空燃料の需用量などいずれも若干27歳の中尉が無理やりぎりぎり足りるようにまとめた数字がたたき台になり、11月1日の大本営政府連絡会議で初めて石油に関して陸海軍や商工省が一堂に関して話し合われた。たたき台を作成した高橋中尉は書記として参加し後に記録を残している。南方からの取得見込みは元々根拠の薄い2年目100万klの見込みをそれでは進出する意味が無いと200万klに書き換え帳尻は合わされた。 1940年経済某略機関の創設を命じられた秋丸中佐は孫子の兵法に習い、他国との経済力調査を行った。結論はドイツと日本にはこれ以上戦線を拡大する余地は無い。開戦前の経済戦力比は20:1で継戦可能なのは2年間だった。しかし軍部は「本報告の調査および推論の方法は完璧で間然とするところが無い。しかし結論は国策に反する」と報告を退けた。同年近衛内閣直轄の総力戦研究所は南方資源で経済封鎖を切り抜けられるかを検討した。ここでもロイズのデーターに基づき船舶消耗率を計算すると輸送ができなくなるという結結論だった。この結果を聞いた東条陸相は次のように講評した。「戦というものは、計画どおりにはいかない。意外裡なことが勝利につながっていく。」

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    投稿日: 2016.03.01
  • 戦後史の解放I 歴史認識とは何か―日露戦争からアジア太平洋戦争まで―(新潮選書)

    戦後史の解放I 歴史認識とは何か―日露戦争からアジア太平洋戦争まで―(新潮選書)

    細谷雄一

    新潮選書

    歴史的事実として8月15日に終わった戦争は存在しない

    教科書は現代史をやる前に時間切れそこが一番知りたいのに何でそうなっちゃうの? 「ピースとハイライト」by桑田圭祐 日本史の中では世界は語られず、また世界史の中に日本の記述はほとんどない。世界史と言いながら東洋史と西洋史は有ってもイスラムや中央アジア、東南アジアなんかも中心にはいない。分断された歴史で現代史を見ても認識のみぞは埋まらない。それは日本の外交の経験や理解が、圧倒的に国際社会のそれからずれていることがしばしばあるからだ。戦前の日本外交の失敗や誰も始めるつもりも勝てる予測もなかったアジア・太平洋戦に突入したのも、国際政治に対する日本人の想定と現実の世界とのずれが原因にある。 戦後日本の歴史は1945年8月15日に始まったと言えば多くの人に違和感はないだろう。しかし、この日は日本と朝鮮半島を除く国際社会からすれば何もなかった日だ。「そもそも歴史的事実として8月15日に終わった戦争は存在しない。」日本がポツダム宣言の受諾を回答したのは14日、国際標準としては降伏文書が調印された9月2日(中国では3日)が対日戦勝記念日であり、15日はただ多くの国民が敗戦を知った日だ。グローバルスタンダードでは「終戦」とは相手国のある行為であり、それよりも自国民向けの都合である「玉音放送」を優先することはあり得ない。 玉音放送は国民の均質的な体験とも言い切れない。沖縄では放送局が爆破されており6/23に沖縄守備隊が壊滅してからも散発的な抵抗が続き、残存兵が米軍と降伏文書を調印したのは9/7だった。千島列島では9/18、南樺太では20日にソ連軍が上陸し戦闘が始まった。 日露戦争において日本は「文明国」として国際法を遵守して戦った。捕虜になったロシア兵の死亡率は0.5%と驚くべき低い数字でありハーグ陸戦協定以上の待遇を行ったことには敵国ロシアからも謝意が表せられるほどであった。この頃日本の軍部では国際法教育が行われて下士官もジュネーブ条約などの知識を持っていた。 第一次世界大戦でドイツ権益を奪った日本では悲惨な戦地を経験したヨーロッパで生まれた人道主義と言う新たな潮流を感じることはなく、1932年には陸軍士官学校の教程から戦時国際法を除外した。日中戦争の長期化が軍紀を弛緩させ、中国蔑視に起因する捕虜虐待などが頻発した。第二次世界大戦でも欧米人捕虜に対する違法行為を繰り返した。そのきっかけとなったのが東京空襲の開始であり、泰緬鉄道建設に従事させられたイギリス兵捕虜の死亡率は25%にのぼった。全戦場でのイギリス兵死亡率5.7%、ドイツやイタリアでの捕虜の死亡率5%と比べれば日露戦争当時に比べ日本軍がどれだけ野蛮になったのか。その原因となったのが国際法教育の放棄と国際的な常識からのずれだ。 1931年10月8日、関東軍は満鉄の自衛と言う名目で150km離れた錦州を爆撃した。これが日本軍による初の都市空爆であり、戦略爆撃はゲルニカや重慶への絨毯爆撃へそしてロンドン空襲や日本への空襲、広島と長崎への原爆投下と拡大して行った。錦州爆撃以降不拡大方針を取りながら関東軍を制御できない日本政府に対する国際社会からの不信感が高まり、日本は窮地に追い込まれていくことになる。 安倍首相は戦後70周年談話で村山談話を継承した。しかし、自社連立の条件であった「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議」の採決では与党自社さから70名の欠席者を生んだ。安倍首相もその一人だ。「独善的なナショナリズム」を排する決意を示した村山談話が生み出したのはその想いとは裏腹に玉虫色の決着を封じ、歴史問題を外交問題としてしまった。国内でも歴史認識は一致しない、ましてや中韓とは。著者の懸念は今の日本が平和主義と言う名の孤立主義に陥っていることだ。自国以外の安全保障に全く関心を示さない利己的な姿勢は国際主義の否定と取られかねない。

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    投稿日: 2016.02.28
  • 23区格差

    23区格差

    池田利道

    中公新書ラクレ

    下町のほうが面白そう

    知名度順の通信簿 新宿区 ひとり暮らしと外国人の天国 渋谷区 東京のアイコン、スクランブル交差点ではじける自称主役達 品川区 何でもあるけど何もない、お節介な商店街の街 港区 ヒト、モノ、カネ、情報が集まる昼間人口トップの東京ドリーム 世田谷区 奥様文化を象徴するサザエさんのまち 目黒区 女性比率が高い住みたい街は財政面に課題を抱える 中野区 若者が暮らす神田川の世界に子供はいない 千代田区 お屋敷の麹町よりも人口が増える新神田っ子が都心再生の鍵 中央区 人口増は日本橋>京橋>佃・月島、問題はオリンピック後 練馬区 東京の田舎でクール・ジャパンのアニメが生まれた 杉並区 パラサイト男子が狭い道をポルシェで駆け抜ける 江戸川区 未婚者も一人暮らしも少ない家族が住む海抜ゼロメートル地帯 葛飾区 一戸建ての穴場、ちょっと狭いが 台東区 家業が支えるコンパクトシティ、ドヤ街もバックパッカーで生まれ変わるか 豊島区 消滅可能性都市?は若い男が集まる 大田区 よりもものづくりのメッカで世界に繋がる蒲田、田園調布の大森は変われるか 板橋区中心地はない、しかし病院、大学、起業が多い 墨田区 隅田川沿いに見どころが広がる職人とおかみさんの街 文京区 丘の上の学生と研究者、谷千根は庶民のエネルギー 足立区 区内最低所得も大阪よりも多く全国では勝ち組のヤンママの街 江東区 21世紀の渋谷に成れるか?子供が多い人口増加地帯 荒川区 都電荒川線が代表する昔からのコンパクトシティ 北区 過成熟の街に大逆転はあるか 資産価値では山の手かもしれない、でも住んで面白そうな街はむしろ谷底と水の近くにある。

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    投稿日: 2016.02.28
  • 「放射能汚染地図」の今

    「放射能汚染地図」の今

    木村真三

    講談社

    悪い情報も開示することから

    「全体として状況はコントロールされています。汚染水の影響は完全にブロックされています」13/9/7のIOC総会での安倍首相の発言は9/9東電によって否定されている。9/19安倍首相が2度目の視察を行った当日著者の木村は沖合での実地調査を行っていた。「港湾内0.3kmの範囲で、汚染水は完全にブロックされている」と言う発言はずさんで、排水口はそもそも防波堤の外側にあり外洋に直接流れ出している。希釈されているので濃度は低いが総量は東京電力が1日あたり最大200億ベクレルの海洋放出があると発言している。 原発から20km離れた相馬沖で9/25に行われた試験操業では水ダコやマイカなど11種類が水揚げされた。原発からの汚染は続いていても漁ができないわけではなくむしろ、最終ラインで食い止める安全確認の体制が重要だ。木村氏は福島産の食品のうちスーパーなどに並ぶものの安全性は明らかに他県よりも徹底した検査をしており安全性が高いと言う。汚染されたのは福島だけではないが他の県では徹底した検査はされていない。 プロメテウスの罠でも紹介されたが労働安全衛生総合研究所は3/13職員、つまり木村に対して厚労省と研究所の指示に従い、勝手な行為は慎むようにと一斉メールで指示を出した。木村が辞表を出してまでスピード勝負の現地調査にこだわったのはJOCの臨界事故で 調査の許可が下りず、初動が遅れたために満足のいく調査ができないことを悔やんだからだ。 SPEEDIに知られるように「パニックを抑えるため」と称して情報を公表しない政府のやり方は被災地に不安や不満、不信感を生み出し多くの人々が被曝することになった。二本松市で事故後3年連続で行っているバッジ調査では小学生の45%が、2012年の被曝量が2011年同等以上という結果になった。空間線量は減ったが事故直後に控えていた屋外活動が増えたからだ。 福島県が実施した甲状腺検査の結果が2013/6/5に発表され17万人余りの検査でがんが12人、疑いがあると診断された者が15人となった。分母は実は17万人ではない。二次検査の対象者1140人のうち、再検査を受けたのが421人、結果が確定したうちの145人が細胞診を受け27人が悪性あるいは疑いありと診断されたのだ。これまでは10万人に1人と言われておりスクリーニング効果を加味したとしても 事故の影響がないと結論づけるのは早すぎる。 住民自身が汚染地図を作ることでわかることがある。あるところを境に空間線量が高くなる場所があったのだがそれはその地点より上では雪が降り、下では雨になるからだ。雨は放射性物質を流し移動させる。雨樋や水たまりがホットスポットになりやすい。一方で雪は放射性物質をその場に留める。吹き溜まりになる場所で線量が高くなることもある。住民たちは自分たちで発見したことで放射性物質がどのような性質であるかをよく理解した。 どのような場所がリスクが高いかが明らかになれば被曝量を抑えながら外で遊ぶことも可能になる。どこがどれだけの線量なのか地域で実測し明らかにし、それをもとに自らの判断で何ができるかを考えることがかのうになる。この本で木村が一貫して訴えているのは実態を調査し、情報を公開し何かを決めるのは地域でとことん合意形成の努力をすることだ。 「県外の震災がれきを受け入れ、それによって自分たちが汚染されることに耐えられない」これは木村氏が講演に訪れた静岡県で市民運動家が訴えた言葉だがその静岡市の一般焼却廃から200ベクレルを超える放射線量が検出された。震災がれきは確かに静岡県のものではないが、それでも、東北が震災をのりきり、復興を果たすためには、日本人みんなが協力しあう方法を科学的に考えなければならなかったのではないだろうか。放射線廃棄物については最終処分場どころか中間貯蔵施設も決まらず仮置き場に次々と運び込まれている。汚染水とともにこの量が早晩問題になるのだろう。

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    投稿日: 2016.02.04
  • 黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実

    黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実

    リチャード ロイド パリー,濱野 大道

    早川書房

    六本木が知らない街に見えてくる

    六本木、日本で唯一ガイジンであることを忘れられる場所。外国人と遊びたい外国人、外国人と遊びたい日本人、そして日本人=外国人目当ての女性と遊びたい外国人の男が集まる街。客引きのアフリカ人、六本木ガールズと呼ばれる外国人狙いの日本人女性そしてダンサーやストリッパーやホステスとして働く若い白人女性たち。行方不明になり後に遺体が発見されたルーシー・ブラックマンも短い間だったがその中の一人だった。 普通の女の子だったルーシーは一般的な美人ではないがかなりの長身と見事なブロンドで目立つ存在だった。お嬢様学校になじめずシティの銀行で働くと儲けた金は使うことと言うシティの掟に染まり、カードでの買い物で 借金生活が始まる。おそらく使わなければ返せる額だったのだが、世界を旅したいと考えたルーシーが選んだのは英国航空の客室乗務員だった。国際線乗務で給料は上がったが借金は増える一方で、深夜の長距離便は重労働だった。どの国に行ってもホテルの部屋の景色は同じで時差ぼけに苦しみ現地の文化や食事を楽しむことはできなかった。そしてルーシーは日本行きを計画する。 ルーシーの親友であるルイーズがルーシーの借金を返すために計画したのだがルイーズの姉のホステス時代の友人クリスタがルーシーとルイーズのために代々木ハウス、ルーシーが言うところの豚小屋を予約しておいた。実はこのクリスタもルーシー同様に薬の入った酒を飲まされ被害にあっている。日本についてわずか数日後ルーシーとルイーズは小さなナイトクラブ「カサブランカ」で働きだした。仕事は酒を作り日本人の退屈な話を聞き、笑顔を作り楽しいふりをすること。そして白人女性が提供するのは物珍しさにすぎないと実際にホステスとして働いたデューク大学のアン・アリスン教授は論じている。多くの日本人男性は西洋人女性とのセックスを妄想するが、実際に妻や愛人にするには恐怖心がある。 この本の主役はルーシーと言うよりは父親のティムと犯人の織原城二だろう。浮気が原因でルーシーの母と別れたティムは東京の生活を楽しんでいるように見えた。娘を誘拐されて悲嘆にくれる父親と言うステレオタイプには当てはまらず、積極的にマスコミに出て駆け引きをした。支援者の金で六本木で飲み歩いていると言う批判もあれば、後には独断で織原からのお見舞い金約1億円を受け取っている。織原が責任を認めたわけではなく、悲嘆にくれる家族を助けたいと言うのがその主張だが実際にはティムを寝返らせるための賄賂だ。 犯人の織原は自主的に日本に移住し戦後そのまま日本に残った在日コリアンの二世で生まれた時には金聖鐘、後に通称を使い星山聖鐘と言う名前だった。父親は駐車場、タクシー会社、パチンコ屋を経営して成功し当時の大阪の大富豪のひとりだった。織原はカトリックの幼稚園、教育大附属天王寺小から慶応附属高に進学し田園調布の家政婦付きの1軒屋で暮らし始めた。高校では友達を作らず一人で横浜のディスコに遊びに行くような学生だった。20代で仕事をした気配はなく30代で不動産開発に相続した金を突っ込んで大きく利益を上げたらしい。妄想だけの多くの日本人とは違い織原は実際の行動に出たがこれも薬を使ってというあたりかなり歪んでいる。 織原は数十台のプリペイド携帯を持ち、ナイトクラブで働く白人女性を葉山のリゾートマンションに誘い出しては薬入りの酒で眠らせ陵辱を繰り返した。被害者のほとんどはノービザで働いていたため警察には届けなかった。届けた場合も今度は警察がまともに取り合わなかった。 六本木のクラブのオーナーによると1時間で帰る客のことは気にしない。1万の勘定からホステスに3千円払うと店の儲けはほとんどない。最初に来た客には店で一番の子をつける。もし客が気に入っていないようなら2番目の子に変わりここで延長に持ち込むかが勝負。延長に持ち込むことができれば別の子をつける。そしてさっきの子と話をしたければ指名料を払えということだ。彼は外国人女性を愛し同時に軽蔑した。一方でクリスタはなぜ東京が社会不適合者を惹きつけるかに気がついた。この街ではみんな等しくガイジンで共通の疎外感で括られるため個人として抱える疎外感が吹き飛んでしまう。ジロジロ見られることに慣れるとどうせ変なガイジンだからと逆に自由になれたという。 ルーシーはなぜ織原について行ったのだろうか。ロンドンであれば見知らぬー特に好意を持っていないー男性の家に一人で上がり込みはしない。しかし初めて見た日本人男性たちはかわいく、シャイで時には退屈だったのかもしれない。いかにも安全そうな男にドライブに誘われ携帯をもらい、そしてシャンパンを一口。多くの外国人ホステスはそのまま何事もなく家に帰る。

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    投稿日: 2016.01.23
  • 現代アラブの社会思想 終末論とイスラーム主義

    現代アラブの社会思想 終末論とイスラーム主義

    池内恵

    講談社現代新書

    現代の十字軍アメリカ

    FBをフォローしていると色々参考になる池内氏のデビュー作、なかなかついていくのが大変で正直飲み込めたとは思えない。 1967年6月の第三次中東戦争、いわゆる6日間戦争でイスラエルに敗れたのが現代アラブ史の出発点であり、政治的にも、経済的にも、そして文化・思想的にもそれまでの進路から大きく離れることになる。エジプトのナセル大統領が唱えたアラブ統一は後退し、思想は分極化した。一方はマルクス主義へ向かいパレスチナ解放運動は世界革命の一環として捉えられた。その中で最も極端な行動に出たのが日本赤軍だった。イスラエルに対しては「世界的階級敵」という見方がいつの間にか「世界的陰謀の主体」と言う見方がアラブ世界で拡がり、一方で現体制批判からイスラーム主義が伸長した。 イスラーム原理主義の国際展開を思想的に支えているのが、国際社会を宗教的な善と悪の闘争の場として理解し、イスラエルとアメリカをシオニズムと十字軍と捉えこの悪の勢力の陰謀を絶えず読み込むという認識だ。イラクのクウェート侵攻まで介入の糸口を作るためのアメリカの陰謀だとなる。確かにアメリカの方も自らを十字軍のように規定しているように見える。立場に寄って善と悪は入れ替わっているが。 アラブ世界での終末論の広まりを統計的に示すのは難しい。ユダヤ教やキリスト教では優勢ではない終末論がなぜイスラーム教では日常的に確認されているのか、大きく異なるのがテキストの性質である。聖書が後世に再構築されたものであるのに対し、コーランはムハンマドの言葉をそのままアラビア語で記録されたとしている。コーラン解釈の延長線上にアラビア言語学が成立した。コーランにより7世紀当時の差し迫った週末意識が絶えず意識されるのだ。 コーランによると最期の審判の前に死者は復活し、生前の行いを記録した原簿により判決が下りる。天国にあるのは木陰と泉、果物に美女に酒だ。コーランの天国の描写はムハンマドの時代のアラビア半島の男性の精神的・身体的願望を余すところなく伝えていると指摘している。「天国良いとこ一度はおいで、酒はうまいしねえちゃんはキレイだ」はっはっ。 ハディース集を元にすると終末の前兆はすでに現れてきている。貧富の差の拡大、圧政や不正、イスラーム教徒同士の争いと、非イスラーム教徒の侵入。現代の終末論では湾岸戦争がその前兆と規定される。そして終末の前には偽キリストが現れる。アメリカの傘の下での平和こそが偽キリストがもたらす偽りの平和として捉えられることになる。

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    投稿日: 2016.01.23
  • ホワット・イフ?――野球のボールを光速で投げたらどうなるか

    ホワット・イフ?――野球のボールを光速で投げたらどうなるか

    ランドール マンロー,吉田 三知世

    早川書房

    光速のボール、レゴの橋

    インターネットコミック作家の著者のウェブにおバカな質問が届き元NASAラングレー・リサーチ・センターでロボット開発に従事していた著者が答える。それをまとめたのがこの本だ。 雰囲気はhttp://xkcd.comを見ればわかる。 とびらの「野球のボールを光速で投げたらどうなるか」ではどうやって投げるかは問わない。あまりの高速のため他のものは事実上止まっている。ボールはまず空気とぶつかるのだが、ここで起こることはソニックブームなんてかわいいものではなく核融合反応だ。球場の1.5km以内のものは全て消え去り、バックネットの後ろ数10mから100mほど後ろを中心に巨大なクレーターが残る。 ヨーダはどれだけのフォースを出せますか? ルークのXウイングを引き上げるのにどれだけの力がいるかはFー22対比で質量5.6tとし、惑星ダゴバの重力はスター・ウォーズに関するウィキのWookieepediaで分かった。チョチョイと計算すると、ヨーダのピーク出力は19.2kWおよそ25馬力、ボートの船外機くらいのパワーだ。電気料金換算だとヨーダのフォースは1時間あたり2ドルほど。世界の電力を賄おうとすると1億ヨーダ必要になる。 他にも答えが用意されていない変な(そしてちょっとコワい)質問シリーズがあり、例えば「平均的な人体の総合栄養価(カロリー、脂質、ビタミン類、ミネラルなど)はどのくらいですか?」とか「大泣きのしすぎで脱水症状になることはありますか?」とか ちょっとバカな質問でも答えを突き詰めていくと面白い答えが生まれる。「レゴのブロックでロンドンからニューヨークまで車が走れる橋を作るには何個必要か?」さて何が起こるか考えてみよう。

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    投稿日: 2016.01.11
  • ゴルフ場に自然はあるか?

    ゴルフ場に自然はあるか?

    田中淳夫

    ごきげんビジネス出版

    現代の里山になるか

    里山とは自然林ではなく、下草を取ったり薪を取ったりするために人間の手が入った土地だ。そしてゴルフ場の多くが里山に作られてきた。ゴルフ場と言えば農薬が撒かれているイメージが強い。日本には2300を超えるゴルフ場が有りその数はアメリカとイギリスに次ぐ世界第三位だが過去10数年で100以上が閉鎖し、多くの会員権制度は破綻している。 元々自然の地形がそのままゴルフ場になったイギリスや、街の中の緑としての価値を持つアメリカと違い日本のゴルフ場は里山や自然林を造成して作られている。ゴルフ人口は推定900万人、利用者数は年間8700万人。薪が使われなくなった里山が放棄され、輸入材が増えて林業も怪しくなった時に会員権を販売して資金を調達し、ゴルフ場に生まれ変わらせることで儲かった時代があった。 ゴルフ場反対の狼煙が上がったのが奈良県山添村、ゴルフ場でバイトした息子から農薬が山積みになっている事を聞いた農家が反対を始めたのだ。普通の農家であればそこまで反応することはなかったかもしれないが、ここの奥さんが「名張毒ぶどう酒事件」で次男を妊娠中に被害にあい奇跡的に助かっていた。このことから農薬に拒否反応を持ち有機農法に切り替えたところにゴルフ場で大量に農薬を使っていると言う話が舞い込んだのだ。ゴルフ場の排水管から赤いヘドロが出る映像が流れ反ゴルフ感情を後押しした。しかし実際にはこの赤いヘドロは鉄分を含んだ土壌のためでゴルフ場とは関係がない。マスコミの印象操作に使われたのだ。 著者がゴルフ批判本を調べたところ伝聞が多く厳密な情報源を示さない。理論的な根拠が記されない。扇情的な表現。様々な健康食品やご利益を訴える新興宗教と変わらない。それでも批判内容を分類すると3つに分かれる。ゴルフ場開発を森林破壊として捉えるもの、農薬問題そして汚職や疑獄の温床だ。この本では前の二つを検証している。 ゴルフ場開発に適した場所は地権者が土地に思い入れがなく、権利関係が複雑でないところになる。薪炭林などの共有の入会地が選ばれた理由がこれだ。ゴルフ場に適したなだらかな丘陵地帯は普通はその前に住宅地や農地となっている。そこで比較的急峻な斜面を造成するしかなくなり森林破壊批判へと繋がった。全国のゴルフ場の面積を足すと千葉県の面積を超える。それだけ森林破壊が進んだと言う試算まである。ただ法律上森林の一部を残さないといけないのでゴルフ場面積の6〜8割は森林なのだ。打ち込んだボールを探すゴルファーの要請でこの森林は手入れされ現代の里山となっている。実際にはゴルフ場の開発で森林は増え、生物多様性も保たれている。芝生は土壌の流出も抑える。植生は固定されるが新たな自然環境となるかはオーナーと管理者次第になる。 農薬はどうか。ゴルフ場開発当初は芝の防除方法がわからず大量の農薬を撒いたケースはあったらしい。昔は年間3-4tの農薬が撒かれたという話もあり10平米の庭でなら年間1kgに相当する。だが89年には2t現在ではおそらく500kgが標準になってきている。同じく庭なら125gだ。ゴルフ場の管理費も10年前の3割に抑えられている。コストのかかる農薬をばんばん使ってる場合ではない。最も少ない香川県のサンライズヒルズCCでは27ホールで320kgとさらにその半分以下である。 このままいけば人口は減りゴルフ場も減っていくだろう。すでにコア層はシニア層担っているが、2021年にはこのコア層が70代になり若いプレーヤーが増えないのでさらにゴルフ場が減る。放棄されたゴルフ場の転用先が太陽光発電では面白くない。

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    投稿日: 2016.01.09
  • 音楽嗜好症(ミュージコフィリア)

    音楽嗜好症(ミュージコフィリア)

    オリヴァー・サックス,大田直子

    ハヤカワ文庫NF

    オイ、ヴェイ、ヴェイ

    雷に打たれ命を取り留めた替わりにいきなり音楽に取り憑かれた男、金管楽器の低音に反応しててんかん発作を起こす船乗りと言った様々な症例を紹介するオリバー・サックスは「レナードの朝」の原作で有名な神経学者だ。 歌手がよく音楽の力を口にするがどうも一定の条件では本当に力を持つ。言葉を話せなくなった失語症の患者が音楽にのせると会話ができるようになる事がある。なんと話しかけても「オイ、ヴェイ、ヴェイ。・・・」を繰り返す自動症の患者に音楽に乗せて問いかけると答えが帰ってくるようになった。「コーヒー、それとも紅茶?」「コーヒー」・・・「デイヴィッドは治っている!」彼の食事を持って帰りこう告げた。「デイヴィッド、朝食だよ」「オイ、ヴェイ、ヴェイ。・・・」 絶対音感を持つ者がいれば、音楽を認識できない人もいる。4~5歳で音楽の訓練を始めた場合ちなみに中国人の6割は絶対音感の基準を満たしたのに対し、普通のアメリカ人の場合わずか14%に留まった。声の高低を使う声調言語が音感を鍛える様なのだ。絶対音感のある音楽家の脳は側頭平面の大きさが、左右で大きく違っており、赤ん坊の方が絶対音感に頼るところが大きいことから「大部分の人間は絶対音感をなくし、音楽能力が縮小した」のかも知れない。とは言え絶対音感と美しい音楽を作る能力は別物だ。 生まれつきの視力障害の場合に聴力が発達するのは使われない視神経を聴覚に割り当てるからで、感覚神経は融通が効くものらしい。音色や言葉や数字に色を感じる共感覚はなんだか電話が混戦しているような話だ。特定の才能だけが飛び抜けている知的障害のサヴァン、「なぜ私たちみんなにサヴァンの才能がないのだろうか?」、胎児や乳幼児で弱い左脳が損傷を受けた場合、右脳が対照的に過剰発達をしてしまうのか。左脳が発達すると右脳機能の一部を抑制したり阻止したりするのだが左脳の損傷で変則的に右脳優位になる場合がある。 脳神経に起きているのはおそらく物理的な現象だがそれにしてもいろんなことが起こる。オリバー・サックスの新作は「見てしまう人々 幻覚の脳科学」すでにiPadの中で積ん読状態でこちらも楽しみだ。

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    投稿日: 2015.12.29
  • 日本原爆開発秘録(新潮文庫)

    日本原爆開発秘録(新潮文庫)

    保阪正康

    新潮文庫

    物理学者のレトリック

    マンハッタン計画の元となったウラニウムに関する諮問委員会がアインシュタインの申し出を受けたルーズベルト大統領により作られたのが1939年10月、ドイツがポーランドに侵攻したのが9月1日で第二次大戦は既に始まっていたことになる。ウランに中性子をぶつけると核分裂が起こることが実験的に確認されたのが1938年12月であり、まだ1年も経っておらずルーズベルトがつけた予算はわずか6千ドルだった。 原爆を開発しているドイツに対抗してマンハッタン計画がスタートしたのが1941年12月6日、真珠湾攻撃の前日であった。それから最初の原爆実験が行われた1945年7月16日まではわずか3年半。そして1941年の開戦前の日本には原子物理学の新しいニュースは入ってきており開戦半年後の1942年7月には日本でもウラン爆弾=原爆開発が可能かという検討が始まった。しかしこの時の結論は日本だけでなくアメリカも無理だろうということだった。 軍部が「マッチ箱ひとつで大都市や航空母艦が吹き飛ぶ」新型爆弾に望みを託し始めるのがサイパン陥落後の1944年7月以降でこれは国民の中でも噂として流布したらしい。「神風」は吹かないのだが。ディテールは違うが宇宙戦艦ヤマトの世界だねこれは。 日本の原爆開発計画は先の検討とは矛盾するが1941年4月に陸軍が理研に依頼し「ニ号研究」の仁科芳雄が原理的には可能と言う意味の回答をしたことがきっかけでプロジェクトが発足している。理研の仁科研究室と言えば湯川秀樹、朝永振一郎を始めとする錚々たる研究員を擁する研究者の楽園だった。しかし理論物理学者中心で工学よりでは無い理研に対し原爆製造に最大12万5千人の労働力を突っ込んだアメリカと比べるとその差は余りにも大きく、アメリカにも出来ないと日本の研究者が見誤っていたことになる。 なかなかわかりにくいのだが出来ないと思いつつ研究者としてはアメリカに負けたくないと言う想い、研究者として戦争に勝つためにどう協力するのかと言う想い、また表立っては軍事に協力しながら実際には潤沢な研究費を捻出し理論研究に勤しむなどいくつもの立場が入れ替わりでてきている。ある大学教授は計画に関わり身分が保障された折には「科学で国に奉公できるようになったうれしいことです」と言い、戦後は「科学は平和を愛する人のために有るのです」と立場を変えている。戦後の「原子力でアジアの平和に貢献する」と言う言い分は大東亜共栄圏のレトリックと同じだというのが著者の指摘である。 原爆の悲惨さを眼にした物理学者達が反原爆に傾いたのは当然理解できるが、日本の物理学者達は原爆開発が出来なかったことにより救われたところもあるのだろう。実態としては実験材料のウランもまともな実験装置も用意できずアメリカとの差はどうあがいても埋まらなかったのだが。そして原子力の平和利用を謳いながらもより簡単に原爆の原料となるプルトニウムを原発の稼働で蓄積できると考えた人がいたのもおそらく間違いない。 戦後の原子力利用は科学者ではなく政治家が前面に出て来た。初代科学技術庁長官の正力松太郎は原子力の平和利用によるアジアの繁栄を前面に押しながら初代原子力委員会の湯川秀樹が基礎研究からゆっくりと時間をかけるべきと主張したのに対し、「そんな時間はない、原子炉なんかアメリカから買えばいい、平和利用の技術を日本が独自に研究することなど必要ない」と対立し湯川は委員を辞任した。正力の跡を継いだのが中曽根康弘だ。 戦時下でニ号研究や海軍が京大に委託したF号研究に深く関わった研究者は辞任した湯川など当初を除くと原子力委員会にはほとんどかかわっていない。そして平和利用を推進したはずの原子力村が止めることができなかったのが福島第一事故と言える。 ポツダム宣言を読んだ科学者の中には原爆の完成という明確なメッセージを受け取ったものもいたが軍や政治に対して働きかける力は持たず、予算は確保しても基礎研究から離れず実用化には力を入れなかった。かと言って彼らが戦時中に平和主義者だったとも言えない。消極的な協力姿勢が生んだのが原爆完成による一発逆転への期待でしかなかったとしたら報われない話だ。

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    投稿日: 2015.12.29
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