
FREE CULTURE
ローレンス・レッシグ,山形浩生,守岡桜
翔泳社
自由な文化創造
フリーカルチャーのフリーとは何でしょうか。フリーというと、(金銭的に)「ただ」であることを思い浮かべるかもしれませんが、ここでは、自由に意見を述べられること、自由に作品を作り発表できること、そういう意味でのフリー(自由)が扱われています。 自由が何故大切なのかというと、自由な意見を主張し、自由に作品を作り発表するという権利が保障されることによって、自由な政治制度の基盤は提供され、豊かな文化創造の基盤が提供されるからです。そして、著作権はそのような自由な社会で重要な役割を担っているのだそうです。重要な議論を、わかりやすい事例を出しながら説明していますので、面白く読み進められます。例えば、イングランドでの著作権の始まりの頃の話は原点を知る上で、また、日本の漫画同人誌文化の話は自由な文化創造を知る上で、重要な役割を果たしています。改めて、文化創造の意味を考えさせられました。 ただ、翻訳や誤字脱字に問題もあるので、星を一つ減らしました。
3投稿日: 2016.08.13闇の奥
コンラッド,黒原敏行
光文社古典新訳文庫
心の闇
マーロウは、帝国主義時代のベルギーが支配するアフリカ奥地コンゴを訪れ、そこに君臨するヨーロッパ人クルツと会います。 クルツは、その強靭な声や偉大な精神によって近くの集落の原住民たちの心を完全に掴まえていました。原住民たちにとってクルツは神のような存在になり、反抗することはできなかったのです。クルツは原住民たちを自分の欲望の手段として使い、彼等を従えて近隣の集落を襲っては象牙を略奪しました。クルツが権力、性、暴力、富、あらゆる欲望を追求し、そして、自らの王国を築こうとしたことが窺い知れます。 いったいクルツの身に何が起きたのでしょうか。アフリカの奥地、完全な静寂の中でただ一人自分と向き合うしかなくなったとき、心の奥に潜む自己の欲望に気づいて、それに身を任せてしまったのではないでしょうか。制するもののない地で、自分自身の欲望を解放させたのです。名声、栄誉、成功、権力。一切の欲望が恐ろしいほどの強烈さで、自分の心の上だけに集中されていきました。有能で偉大な人物であったが故に、その荒廃ぶりも凄まじかった。道徳や誠実さといった人間的なものは失われ、ひたすら自我を満足させることだけに集中される生です。それはもう人間とは言えないのかもしれません。アフリカ奥地の原始的な環境("Heart of Darkness":原題)の中で心の中の原始的な感情("Heart of Darkness")に身を委ねてしまい、身を滅ぼしてしまったのではないでしょうか。 この悲惨さはクルツに特有のものではなく、人が共通して持っている心の闇ではないかと、作者コンラッドが語り掛けているように感じました。
4投稿日: 2016.03.12ビリー・バッド
メルヴィル,飯野友幸
光文社古典新訳文庫
正と悪と人間の良識
ビリー・バッドは、容姿美しく力逞しく性格も良好な青年で、商船から戦艦に徴用された時も船員達から好感を持って迎えらました。しかし、戦艦には先任衛兵長ジョン・クラガードという男がいて、ビリーを嫌いました。クラガードの職務は船の警察署長のようなもので、その地位に物を言わせて目に見えない影響力を行使しては部下を操り、不快感を与えるような人物でした。そのクラガードが陰謀を仕掛けます。 ビリーは正を、クラガードは悪を体現したような人物ですが、二人は共に生まれがはっきりしないので、ある意味では、人間社会の外側から来た人物と言えるかもしれません。ビリーとクラガードという人間社会の枠を超えた正と悪が対峙したとき、その結果を艦長ヴィアという良識ある人間が裁くことになります。 一体、人間の良識は、(人間の枠を超えた)絶対的な正と悪について何を判断することができるのかという、著者メルヴィルからの深い問いかけがあるように感じました。象徴的な書き方や、(「白鯨」のように)本筋から逸れる記述が多い点など、ストーリーを把握しながら読むのに少し骨が折れるかもしれませんが、読み応えのある主題だと思います。
6投稿日: 2015.09.22老年について
キケロー,中務哲郎
岩波文庫
老年と魂の不死性
キケロ(キケロー)は、古代ローマの共和制期の政治家ですが、ラテン語の名文筆家としても知られています。カエサル(シーザー)が、帝政へと体制移行を進めつつあった時期でもあり、 共和制を支持してきたキケロは政治的には失脚し、失意の中この作品をまとめたかもしれないそうです。 キケロが敬愛していた共和制政治家の大カトーが主人公として置かれ、彼が小スキピオ(スキーピオー)とラエリウスという有能な若い武人・政治家に老年を主題にして語ります。小スキピオとラエリウスは、老年という重荷は人に共通の悩みであるというのに大カトーは老年を少しも苦としていないように見えるが、その理由は何か教えてほしいと問うのです。 それに対して、大カトーは、人が老年に至ろうとも、徳を実践していれば人生は充実し活力あるものにすることが可能であると、力強く語ります。そして、老年が苦痛に感じられる理由(困難)を4つ挙げて、それらの4つの困難を乗り越えることができると語るのです。 大カトーによって語られた老年は誰にでも訪れるものではないです。青年期に志を持って行動し、しっかりとした基礎を築けて始めて栄誉ある老年が来るといいます。この作品において提示された徳あるいは人生観は、実践されたものというより、キケロや同時代のローマ共和制期の知識人によって共有されていた理想ではないだろうかと感じました。そして、理想を目指して現実世界を積極的に生きようとする姿勢は好ましいと思います。 彼らの死生観の背景には、魂の不死性があるようです。肉体が失われた後にも、魂は存在し続ける、だから理想を目指し魂の品性をより高い位置に至らしめることには意味があるということでしょう。
2投稿日: 2015.08.22詐欺師フェーリクス・クルルの告白(下)
マン,岸美光
光文社古典新訳文庫
「存在は健やかな幸せではない。存在は喜びと重荷である。」
上巻に引き続き、著者トーマス・マンの卓越した語りの力強さ、人間洞察の奥深さに驚かされる作品です。 ホテルの給仕として働くフェーリクスは、青年貴族ルイ・ヴェノスタと出会うのですが、ヴェノスタは、自分の身代わりとなって世界周遊旅行に出るという提案をフェーリクスにします。何か魅惑的なこととして心惹かれるのですが、彼の理性は真に自分の人生を賭すに値するものであるかを冷静に問いかけます。(フェーリクスはいつも理性と冷静に対話しながら生きているのです。)そして、考えた抜いた末に、青年貴族の代役を引き受けて生きる決心をします。 フェーリクスは、パリから南北急行でとリスボンへ向かいます。食堂車で向かいに座った「星のような目」をしたクックック教授という古生物学者と知己になりますが、クックックは、食事の傍(かたわ)らフェーリクスに生物学の講義を授けてくれます。 生物が地球上に現れ現在に至るまで如何に進化してきたのか、フェーリクスにとって驚異的な教えでした。最初期の形態から生物は進化し続けて最高度の生物に至ります。しかもその間に全段階が存在し続け、これからも並存し続けるということ。何という驚異でしょうか。人間の根源的なものに関わって生きるフェーリクスにとって重要な意義を持つ話であったのです。 「存在は健やかな幸せではない。存在は喜びと重荷である。」 楽しく安らかなだけの生は真の人生ではなく、真の人生とは喜びと重荷の両方を真正面から受け止めて生きることだと語りかけています。 この後、リスボンでクックック教授の夫人や娘との神秘に満ちた邂逅が続いていきます。 著者トーマス・マンが、最晩年に、何か時間や空間を超越した人間存在の意味を追い求めようとしている印象を受けました。
5投稿日: 2015.04.11詐欺師フェーリクス・クルルの告白(上)
マン,岸美光
光文社古典新訳文庫
人間への洞察と語りの魅力
著者トーマス・マンは、著者自身の洞察の目を通して、心の奥底に深く沈んでいる感情の機微を掬(すく)い上げて、そして、主人公フェーリクス・クルルに人間とは何かを見事に語らせます。卓越した語りの力強さ、人間洞察の奥深さに圧倒されつつストーリーへと引き込まれます。 フェーリクスの容姿は生まれながらにして人間的魅力に満ち溢れ、それは内面から輝く光に照らされているようで、高貴な雰囲気さえ漂わせています。その上に心の目も鋭く、人生の真実を見抜き、自分自身が他とは違う高貴な雰囲気を有していることにも気付いていました。ですから、人間の根源は何かを追い求めて生きたのだと思います。 詐欺師というよりは、自己に目覚めて人間とは何であるかを考え続ける求道者のようです。しかし、求道者のように道徳的ではないのですが。 たとえば、幸福について以下のように語ります。 「人としての魅力を持つのは、求め続ける者だけで、倦み疲れた者はそうではない。他人は知らず私は、結局のところ欲望の限定された偽りの消耗に過ぎない粗暴な行為よりも、ずっと繊細で貴重で、香りのようにはかないたくさんの満足を知っている。幸福を狙ってただ目標一直線というのは、幸福というものをわかっていないのだろうと思う。私の幸福はいつも、大きくて欠けるところのない広大なものに向かった。それは他の人が探し求めないような所に、繊細で薬味のきいた妙味を見出した。」 上巻最後のマダム・ウプレとの逸話は、著者の生命力が、爆発を持って、その場に表れたようで、圧倒されました。 文学が好きな方、人間とは何であるかを(道徳的にでもなく、理論的にでもなく)考えたい方、語りに魅力を感じる方にお勧めします。
4投稿日: 2015.03.22ペトラルカ 無知について
ペトラルカ,近藤恒一
岩波文庫
人間中心主義へ
ペトラルカが活躍したのは、中世が終わろうとし、ルネサンスが芽吹き始めた時期です。中世ヨーロッパにはアリストテレスの著作が広く知られ、知識人にとって学問と云えばアリストテレスを基にしたスコラ哲学を指していました。彼ら中世知識人はアリストテレスを神を扱うように高い位置に置いて、アリストテレスを無批判に盲信して、名前だけアリストテレス唱え、アリストテレスの考えから逸脱したことを話していても、自分で気づかずにいるようなことさえありました。 ペトラルカは、早くからプラトンの著作を知り、プラトン哲学の素晴らしさを理解していました。プラトンを重んじ、アリストテレスを神のようには扱わないペトラルカは、当時の知識人から見れば、「無知」な人間としてみられたようです。 ペトラルカはベネチアの友人4名から訴えられて反論を書いたのですが、書簡は当初の目的である友人への反論を超え出て、知識とは知性とは何かと言う議論へと展開されて行きます。 ペトラルカは、アリストテレスを否定しているわけではなくその優秀性を認めさえしていますが、神のような高い位置からは降ろして他の思想と同等に批判的に吟味しようとしています。アリストテレスは、徳は何であるかを定義し教えてくれますが、徳をなすべく学ぶ者の心を励まし燃え立たせてはくれないと、ペトラルカは言います。いくら知識が増えたとしても、意志も魂も元のままでは意味が無いということです。 知識中心、権威中心であった思想を人間中心に捉え直そうとする姿勢がそこには現れているように感じます。人間中心主義へと大きく変わろうとするルネサンスという時代背景もあったのでしょうか。 こうして書いて来るとペトラルカは人間中心の合理主義者に映るかもしれませんが、彼はキリスト教の僧であり神を深く信仰し愛しています。合理的なもの、人間的なもの、人間の叡智を超えたもの、全てのものを受け止められる大きな精神活動をペトラルカの中に感じます。
6投稿日: 2015.03.01新アラビア夜話
スティーヴンスン,南條竹則,坂本あおい
光文社古典新訳文庫
繁栄の背後にある心の闇
アラビアンナイトの19世紀ロンドン版とでも言えそうな物語。奇想天外なストーリーを好きな方に向いています。ボヘミアの王子フロリゼルが、19世紀末に世界の首都として繁栄するロンドンの街で活躍します。 「自殺クラブ」、「ラージャのダイヤモンド」という大きな2つのテーマを7つの小物語で描いています。一つ一つの小物語は、前の小物語の続編ですが、主人公として市井の人々が代わる代わる登場することで、物語の視点が変わり、ストーリー描写にも微妙な起伏が現れ、読んでいて飽きのこない面白い物語です。 フロリゼル王子は、酒場で周囲の人々にクリームタルト・パイを差し出す若い男性を見つけました。彼は、薄弱な理由ではあるが、生きる気力を失って自殺を決意し、この世との別れに最後の馬鹿な真似をしていたところでした。クリームタルト・パイを配り終わると、これから「自殺クラブ」へ行くというのです。フロリゼル王子は好奇心を抑えることができず、お供の大佐の進言も聞かず、「自殺クラブ」へ同行し入会してしまい、事件は起こります。 19世紀末、世界の首都ロンドンは、繁栄すればするほど、闇の面も濃く暗くなっていたようです。「自殺」、「ダイヤモンド」というテーマは、死や欲望を意味していて、心の闇につながっていると感じました。 物質面の繁栄が大きければ大きいほど、精神面の闇は底知れぬ深淵をのぞかせます。自殺願望は無いが死の恐怖によるスリルを味わいたいがために「自殺クラブ」へ集うマルサス氏、彼こそは歪んだ社会の象徴的な存在かもしれません。 フロリゼル王子はあらゆる才芸に長け、人柄は人間の魅力に満ち、思慮深く、上下あらゆる階層の人々の人気を集めるほどでしたが、そういう人物をしても「自殺」や「ダイヤモンド」によって道を誤まってしまいます。最高の人をしても人の心の闇は依然として深く暗いのでした。いやむしろ、生を最高に充実して生きている人であるからこそ、死や欲望がもたらす刺激によって「自殺クラブ」や「ダイヤモンド」に魅せられてしまうのかもしれません。こういう人間への洞察こそ著者の面目躍如たるところでしょう。
4投稿日: 2015.01.31ねじの回転
ジェイムズ,土屋政雄
光文社古典新訳文庫
巧緻を尽くした心理小説
19世紀イギリスの貴族館での出来事。両親を亡くした幼い兄妹が伯父の館に身を寄せることになったのですが、貴族である伯父はロンドンで気楽な生活をしていて子供の面倒を見るのが嫌で、代わりに館で子供を養育してくれる家庭教師を探しました。幼い兄妹の家庭教師として雇われた若い女性が、館で遭遇した奇怪で悲惨な出来事を記した手紙が、数十年後に読まれるという形で物語は綴(つづ)られています。 貴族の館には二人の亡霊が出ました。二人の亡霊は、一人は身分の低い男性使用人、もう一人は前任の中産階級出身の女性家庭教師で、二人は、生前に兄妹と共に館で暮らしていました。この二人の亡霊は生前に邪悪な生き方をして身を滅ぼしたのですが、死んだ後も兄妹を自分たちと同じ邪悪な道へ引きずり込もうとして兄妹の前に現れるのです。 物語は家庭教師の手紙を通じて描かれますから、読者は、家庭教師の目を通してのみ様々なもの見ることができます。間接的にしか登場人物の会話も行動も見ることができません。薄曇りの窓硝子越しに物事を見ている、あるいは影絵を見ている感じですが、逆に家庭教師の心理は直接的に読者の目や心に訴えてきます。家庭教師の心を受け止めながら、起こっていることを自分で補いながら読み進めることが必要です。 更に、作品が書かれたビクトリア朝時代、教育を受けた人は不品行で恥知らずな事を口には決して出さないので、亡霊たちが行った肝心なところが婉曲的にしか言及されません。そういう意味でも読み解きが必要な作品です。 この作品は、極めて巧緻を尽くした技法によって描かれていますので、そういう面を味わうのが好きな人には楽しめる作品だと思います。
9投稿日: 2015.01.02月を見つけたチャウラ~ピランデッロ短篇集~
ピランデッロ,関口英子
光文社古典新訳文庫
生への気づき
イタリアの作家・劇作家ピランデッロの短編集。一つ一つの短い物語には、炭鉱夫、農民、法律家、修道士など様々な人の生き様が書かれています。この短編集に収められている作品には、死や狂気という主題が扱われているのですが、死や狂気は「生への気づき」の契機であったり裏返しであったりします。ここでいう「生への気づき」とは、医学的・生物学的な意味ではなく、哲学的・根源的な意味のものです。 例えば、「木々」という物語では、経済的に破綻した男マッテオが、自死を決意して自ら墓場に赴く様子が書かれています。自ら墓場に行くのは、残された家族が自分の葬式に少しでもお金を遣わなくて済むようにという非常に打算的で死ぬ間際までも現実的な理由による行動でしたが、いざ墓場へと歩き出してみると死を決意した心には世界が大きく変化して見えたのです。 『木々……おお、なんという驚き!木はこんな姿をしていたのか。これが木だというのか。』 主人公は、死を決意して、死の間際になって、「生への気づき」が訪れ初めて世界を真直ぐにそのままの姿で見ることができるようになりました。安楽に暮らすことだけに心を奪われている者や毎日の仕事に没頭している者は生という海に溺れている状態にあり、真の意味で生に気づいていないし、世界を真に見てもいないのではないでしょうか。 本書は、「生への気づき」を教えてくれる佳作であると思います。ピランデッロの登場人物に対する暖かい眼差しと、人生という現実に対する冷めた諦めの感情が織り交ぜになって、甘くも苦い複雑な味わいの作品集になっています。
5投稿日: 2014.11.23