文学
谷川俊太郎~これまでの詩・これからの詩~
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「いわゆる児童詩と言われるものが、結構日本の詩の世界にはジャンルとして大きいんですけれど、読んでいるとやっぱりなんか大人の視線で、下に子どもを見てる。で、なんか教え諭すみたいなものが多いんですよね。そういうのにぼくは疑問があって、子どもと同じ目線で書きたいし、こっちが教え諭すんじゃなくて、何かを気づかせるっていうのかな、あるものを提示するみたいな書き方をしたいってことは、あるときからわりと意識してました。」
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「この本が出来たのは連詩の経験があったから。連詩はひと部屋に集まってみんなで酒飲みながらやるんだけれど、対詩の場合には、手紙のやりとりでしようということになったんです。それと、連詩の経験からいうと、詩だけを並べてもわかりにくいんですよね。どこでどうつながっているのか、みたいなことが。だから対詩の場合には、詞書きみたいなものをつけました。二人の詩人が詩を往復してつくる対詩という形、このごろはみんなメールでやってますね。」
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「主人公がいる物語の断片みたいな書き方を発見して、それが楽しくなりました。長い小説は苦手だけれど、人生の一場面を詩の形で書く面白さにこの頃から気づき始めたと思います。もともとは桑原伸之さんの絵による絵本。」
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「作者自身には意外と自作が見えていないものだ。自選自輯ばかりが良いとは限らない。たとえば同時期に書いた連作をばらばらにしてしまうなどという芸当は、自分ではなかなかできない。・・・・・・計らずも三篇の悼詩が本集に含まれることになった。詩が死に親しむことで生へ向かうものであることを、少しずつ私は信じ始めている。」
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「冒頭の「日本語のカタログ」は、エッセイからの引用とか広告文とか取扱説明書の一部などを寄せ集めたのもだけど、ぼくは、詩であるかどうかとか全然気にしなくなったんですよ、ある段階から。日本語としておもしろけりゃいいじゃないのって感じですね。ぼくはとにかく生きている言語の現場ってものが好きだし、興味があるんですよ。でも、現代詩はそういうものを無視し続けてきてるわけですよ、書きことば一本やりで。」
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「〈長篇小説は一行でだって書ける〉と、高橋源一郎さんが言ったので、正月から私は毎日一篇ずつ一年間長篇小説を書くことにしたが、せっかちなので半年余りで一年分を書いてしまった。ところが原稿用紙が二十字詰なので一行が短かすぎて、長篇小説のつもりが短詩みたいなものになってしまったのは、私の不徳のいたすところである。」
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「この詩集は、巻頭にある詩がキーなんですよ。「えてして/どかんは/われたがる/あたまを/どこかへ おきわすれ//りっぱな りくつに/あくび する」これはアクロスティックという技法で、頭の字をつなげるとエドワード・リアっていうイギリスの詩人の名前になるんですよね。ぼくはそのエドワード・リアの詩を、マザーグースを訳していたころに初めて知って、すごく好きになったんです。彼はほんとにノンセンスな詩を書いている人なのね。そういうリアみたいな詩を書きたいと思って、この詩集に入れた詩を書きはじめました。」現代花椿賞受賞
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「『いちねんせい』では、抽象的、観念的じゃなくて、できるだけ子どもの現実に即した具体的な行動を書きたいと思っていました。・・・・・・ぼくの詩の源は、ことばにはないんですよ。言語っていうとどうしてもちょっと抽象化しがちなところがあるんだけれど、こういう詩が書けるのも、たぶん自分が毎日の暮らしのなかに、なんか詩の源を見ていたっていうことと関係あるんだと思います。」
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「冒頭の「さようなら」は、なんでこういう詩が書けたのかわかんない詩です。まったく説明できない。つまり、自分の一番深いところから出てきているから、自分の理性では説明がつかないんです。だけどそうして自分の一番深いところから出てきたものが、詩としてはたぶん一番いい。」
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「ぼくは、薬をもらうほどの鬱は経験していないけど、鬱的な気分っていうのは、相当経験はしているんです。ぼくのなかに若いころからある鬱的な気質が、たぶんこういうものを書かせたんだとは思います。だけど鬱っていうのはね、実生活の鬱というのと同時に、表現というものに対する、なんか鬱的な気分ってのがあるんですよ。詩を書いていくことに対するね。」
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「詩を書き始めてから、いつのまにか数十年たってしまいました。若いころは気楽に考えていた詩というものが、近ごろますます難しく思えてきました。詩を信じるためには、詩を疑うこともまた必要なのではないかと考えています。」
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「父母の死、恋愛、離婚、自身の老い、日常生活の上での体験が否応なしに私を変えてゆき、詩もそれと無縁ではあり得ないことをあらためて感じる。かつてヴァレリーは詩と散文の違いを舞踊と歩行という比喩で説明したが、踊るにも歩くにも人は手を使い、足を用いる。そして手足を動かすのは人の心である。詩と散文の源にある心身と、心身がからみあう人間関係のほうにようやく私も目が向くようになった。」
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