
総合評価
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powered by ブクログBRUTUSのNHK特集で、向田邦子の脚本について触れられていて、その際に挙げられていたドラマが「あ・うん」だった。 残念ながらNHKオンデマンドには残っていないそうで、さてどう観たものか…という折に本屋で平置きされているのを発見。 すごく面白かった。戦後日本(1950年くらい)かと思っていたら、大戦間のお話だった。ドラマではどのように友情とプラトニック・ラヴが描かれていたのかますます気になってしまった。
0投稿日: 2025.09.21
powered by ブクログ再読。 この小説は雰囲気がすごく好きだなぁと初めて読んだ時思った。 時代は戦前なんだけど古くささをあまり感じない。 話が大きく動くわけではないけど、色んな景色が見れるというか。 「プラトニック・ラブ」って言葉はよく聞くけど、これこそがプラトニック・ラブなんだなぁとこの本で分かった。 向田邦子はこの本しか読んでないけど、これが唯一の長編らしく少し残念。 飛行機事故で亡くなったらしく、きっともっと書きたい小説があったんだろうな。読みたかったな。
7投稿日: 2025.05.20
powered by ブクログ読んでみたいと思ってた本を お父さんの蔵書中に見つけたので拝借。 すごく好きだった。 戦前の市中の人を描いている点、 すでに私の好奇心を刺激するし、 人の描かれ方に引き込まれた。
5投稿日: 2025.02.26
powered by ブクログあなたには、『阿吽の呼吸』で理解し合える友だちがいるでしょうか? 神社や寺院の入口の両脇で一対で向き合う『狛犬』。獅子に似た想像上の動物とされるそんな存在を見るとキリッとさせられる瞬間があるように思います。一方で、よく見るとそんな二頭は顔つきが大きく異なっています。口を大きく開いた向かって右側の像と、口を閉じた向かって左側の像の違い。これらは”阿形” 、”吽形”と言い、この一対をもって”阿吽”、さらには”阿吽の呼吸”という言葉にも繋がるものでもあるようです。 “二人以上で一緒に物事を行う際に、互いに息が合っていることを表す”言葉である”阿吽の呼吸”。元となっているものの姿を思えば思うほどにとても納得感のある言葉だと思います。 さてここに、そんな”阿吽の呼吸”の関係性を長きに渡って続ける二人の男性に光を当てる物語があります。見事な対称性を見せる二人の主人公が登場するこの作品。そんな物語の背景に戦前のこの国のリアルが描かれていくこの作品。そしてそれは、1981年に亡くなられた向田邦子さん唯一の長編小説な物語です。 『社長』、『自分が替ります』と『何度も風呂場の戸を開け』『声をかけ』る『小使いの大友』に、『風呂焚きはおれがやりたいんだよ』と『手を振』るのは主人公の一人、門倉修造。『あいつが帰ってくる。親友の水田仙吉が三年ぶりで四国の高松から東京へ帰ってくる』と思う門倉は『長旅の疲れをいやす最初の風呂は、どうしても自分で沸かしてやりた』いと思います。『門倉金属の社長』という門倉は、『年はあと厄の四十三だが、あと厄どころかこのところアルマイトの流行に乗って急激にふくれ上がり、社員も三百人を越して景気がいい』という日々を送っています。そんな門倉は仙吉から『社宅手当の金額は月三十円』と聞き『これで手頃な借家を探さなくてはならな』いという中、『何軒も見て廻り、結局自分の家にも近い芝白銀三光町の』家を見つけました。『二十年あまりのつきあい』という『仙吉が地方に出ては東京に舞いもどるたびに』『社宅探しをやって来た』という門倉。そんな時、『魚屋が来』て『頼んでおいた栄転祝いの鯛が届』けられます。『こんどはどういう趣向で出迎えようか』、『この三年は、今日のこのときのためにあったようなもの』と思う門倉。 場面は変わり、『「水田仙吉」の表札を見つけたのは、女房のたみ』。『お父さん、ほら』と たみに言われ『何様じゃあるまいし、馬鹿でかい表札出しやがって』と返すもう一人の主人公である水田仙吉は『嬉しい時、まず怒ってみせるのが』癖でもあります。『三十円にしちゃいいうちじゃないの』と言う たみに、『そりゃ奴がめっけたんだ。間違いないよ』と返す仙吉。『手をかけると、するりと開いた』『玄関の戸』を開け中に入ると、『青畳…鉄瓶がたぎり、茶の道具が揃っていた』という部屋の中、『床の間の籠盛り』には、『鯛、伊勢海老、さざえが笹の葉を敷いてならび、隣りに「祝栄転」の熨斗紙をつけた一升瓶が立ってい』ました。 再び場面は変わり、『仙吉の新しい玄関に門灯がついて、鰻屋の出前持ちが帰って』いきます。『仙吉が湯上がりでいっぱいやっているところへ、鰻重が届いたのだ』という『門倉の心づくし』。『玄関を閉めようとした たみは、四角い大きな箱を抱えて入ってくる門倉に気がつ』きます。『門倉さん』と言う たみの声を聞いて『茶の間から仙吉が飛び出して来』ます。『はだしで三和土に飛び下り、物も言わず首ひとつ背の高い門倉をどやしつけ』る仙吉。そんな中『殴りかかる仙吉を防ぎながら、たみのうしろの さと子に』『別嬪さんになったねえ。もうお嫁にゆけるねえ』と『先に声をかけ』る門倉。それに『まだ早いよ』と言う仙吉の一方で、『いいとこ、あったら、お願いします』と言う たみ。『夫婦で別っこのこと言ってんだから、おじさんもやりにくいよ』と『笑いかけ』る門倉。そんな中、『門倉さん。このたびは何から何まで』と言う たみに『水臭い挨拶するなよ。そんな仲じゃないんだよ。なあ』と言う仙吉。そして門倉は家へと上がります。『父の仙吉がいて、門倉のおじさんがいて、そのまんなかで母の たみがお茶をいれたりお酌をしたりする光景が子供の頃から好きだった』と三人を見る さと子は『門倉を花とすれば、仙吉は葉っぱ』、『門倉には、そこにいるだけでまわりをたのしませるものがあるが、仙吉が入ってくると、一同理由もなく気づまりになり気くたびれがした』と思います。『なにからなにまで正反対のふたりがどうしてこんなに気が合うのか』『いくら考えても判らなかった』という さと子。そんな門倉と仙吉の久々の再会の先の日常が描かれていきます。 “つましい月給暮らしの水田仙吉と、軍需景気で羽振りのいい中小企業の社長、門倉修造との友情は、まるで神社に並んだ一対の狛犬のように親密なものだった…太平洋戦争をひかえた慌しい世相を背景に、男の熱い友情と秘めた思慕が織りなす、市井の家族の情景を鮮やかに描いた、向田邦子・唯一にして絶品の長篇小説”と内容紹介にうたわれるこの作品。「別冊文藝春秋」の昭和55年3月号に掲載され、翌昭和56年5月に単行本として刊行されています。そうです。この作品は今から44年も前の世の人々を楽しませてきた作品でもあるのです。向田さんは51歳の若さで飛行機事故によってこの世を去られています。この作品はそんな向田さんが残された唯一の長編小説でもあるのです。 そんな作品の冒頭はこんな風に始まります。 『門倉修造は風呂を沸かしていた。長いすねを二つ折りにして焚き口にしゃがみ込み、真新しい渋うちわと火吹竹を器用に使っているが、そのいでたちはどうみても風呂焚きには不似合いだった』。 そもそも40年以上も前の作品ですから、『風呂焚き』をする場面が登場するのは決しておかしいわけではありません。しかし、この作品の舞台はそこからさらに過去、戦前にまで遡ります。では、数多登場する時代を表した表現を元にこの作品の舞台となった時代を特定してみましょう。 『駅前や盛り場に、千人針を持った女たちの姿が見られるようになった』。 はい、間違いなく戦争の足音が聞こえてくるような表現ですが、『千人針』というものがどのようなものかをあなたはご存じでしょうか?それは、こんな風に説明されています。 『腹に巻けるほどの白布に、筆の尻に朱をつけ、虎の型などに小丸を千個押して、その上に赤糸で結び目をつくってゆくのである。五銭玉と十銭玉が一緒に縫いつけてあるのは、死線や苦戦を越えるという願いらしい』。 リアルな表現に息を呑む思いです。『千人針』というものに込められた思いを強く感じさせます。この作品はこんな時代を描いていくのです。 『新聞配達を抜き牛乳屋を追い越し納豆売りを突き飛ばして、オリンピック・マラソンの村社講平になったような気がした』。 『新聞配達』、『牛乳屋』は現在も同様だと思いますが、『納豆売り』はないでしょう。というより、過去には、”納豆、納豆、納豆はいりませんか?”という時代があったのでしょうか?また、一方でこの一文で時代が特定できるのが『オリンピック・マラソンの村社講平』という記述です。『村社講平』は1936年のベルリン・オリンピックに出場した長距離選手です。ということでおおよその時代が見えてきます。 『ねえ、聞いた?忠犬ハチ公、死んだのよ。今朝、駅のそばで息引きとったって。あの犬、とし十三だったんですってよ』 まさかの台詞によって時代がハッキリ特定されました。昨今海外からの旅行客にも大人気、渋谷の『忠犬ハチ公』が死んだという象徴的な出来事が起こったのは1935年3月8日のことです。ちなみにあの有名な銅像ができたのは1934年のことのようでハチ公存命の中に建てられたようです。いずれにしてもこの作品が太平洋戦争へと突き進んでいくまさにその前夜の日本を舞台にしたものであることが分かります。 そして、物語に登場するのが二人の男性主人公です。対称的な二人をご紹介しましょう。この作品は1989年11月に映画化もされています。演じられた俳優さんのお名前も記します。 ・門倉修造(高倉健さん): - 43歳。門倉金属の社長。アルマイトの流行に乗って社員三百人を抱える。 - 羽左衛門をもっとバタ臭くしたようなと言われる美男で、銀座を歩けば女は一人残らず振り返る - 妻・君子(宮本信子さん) ・水田仙吉(坂東英二さん): - 43歳。中どころの製薬会社の地方支店長からやっと本社の部長に栄転。つましい月給暮し - ただの一人も振り返らない男 - 妻・たみ(富司純子さん)、娘・さと子(富田靖子さん) 高倉健さんと坂東英二さんというぱっと見の印象では全く異なる二人の俳優さんはこの小説に描かれていく二人のイメージそのものでもあります。作品中には対称的な姿を見せる二人のことを仙吉の娘・さと子から見たイメージでこんな風に説明されています。 『門倉は偉丈夫で、仙吉はせいぜい番頭だった。門倉がつけばステッキだが、仙吉が持つと按摩の杖になった。門倉を花とすれば、仙吉は葉っぱである』。 なんともな言いようだと思います。これが娘から見た父親像だとすると痛々しさも増します。そして、そんな二人の日常風景がこんな風に語られます。 『門倉には、そこにいるだけでまわりをたのしませるものがあるが、仙吉が入ってくると、一同理由もなく気づまりになり気くたびれがした』。 いやいやこれはもうあまりに酷い言いようです。しかし、この作品を読む読者に浮かぶ二人のイメージはまさしくここに表現されるものです。そうです。 『なにからなにまで正反対のふたりがどうしてこんなに気が合うのか、さと子はいくら考えても判らなかった』。 本来であれば父親を贔屓目に見ても良いと思いますが、あまりに淡々と二人を冷静に比較する分痛々しさが伝わってもきます。物語は、そんな対称的な二人がお互いのピンチを救いながら、もしくは絶妙なバランスを保ちながら親交を深めていく様子が描かれていきます。そこには、『なにからなにまで正反対』だからこそ分かり合える、理解し合える関係性というものがあることが浮かび上がっていきます。あなたの身近な人を見た場合に、このような関係性を持つ人物はいないでしょうか?あまりに自分に似た人物は自分の嫌な側面を見せつけられるような思いの先に却って敬遠しがちになる、これは現実世界にもあることだと思います。自分とは全く異なる人物だからこそ、そこに自分にはないものを見ることで、その生き方に魅かれていく、これはリアル世界にも感じられるところでもあります。 『同じように見えるが口の形が違う。一頭は阿であり、一頭は吽である』。 『神社の鳥居のところにいる同じ格好をした石造りの犬』、『狛犬』、そんな一見対称的な姿をした存在にも比喩することのできる門倉と仙吉の”阿吽の呼吸”の関係性。この作品では地方から東京へと戻ってきた仙吉を迎える門倉という構図の先にそれぞれの家族の面々を巻き込んだ二人の友情を色濃く描く物語の姿がありました。 『あいつが帰ってくる。親友の水田仙吉が三年ぶりで四国の高松から東京へ帰ってくる』。 『三年ぶりで四国の高松から東京へ帰って』きた仙吉を迎える門倉の姿が描かれていくこの作品。そこには、二人の友情に光を当てる物語が描かれていました。戦前のきな臭さが漂い始めるこの国の様子を垣間見るこの作品。対称的な二人の生き様を鮮やかに描き出すこの作品。 高倉健さんと坂東英二さんが演じられた映画も是非見てみたい!と思わせる、雰囲気感に溢れた作品でした。
249投稿日: 2024.10.02
powered by ブクログ軍靴の響きが鳴りやまぬ東京下町を舞台に、軍需景気で羽振りのいい金属工場の社長・門倉修造と、製薬会社勤務のサラリ-マン・水田仙吉の家族が織りなす人間模様を、戦争への道を歩む世相を交えながら、軽快なユーモアと涙で語られる7章の連作小説。神社の鳥居に並ぶ一対の狛犬の阿・吽(あ・うん)になぞらえた門倉と水田の親密な仲ゆえの衝突、嫉妬、愛憎の心境をぶつけ合いながら、阿吽の呼吸で元の鞘に収まっていくという、向田邦子さんが生きた時代の人々を投影しているかのような愛情こまやかな物語。
2投稿日: 2021.07.29
powered by ブクログこの本を読んでの一番の感想は、やはり「テレビドラマのノベライゼーション」と「文学」とは質を異にするものだな、ということです(あたりまえだけど)。 「思い出トランプ」は、まさに「文学」だったなぁと思いますが、この「あ・うん」はやっぱりちょっと違う。 エピソードの配し方のバランスだとか、心情を表現する手法だとかが全く異なる。 この「あ・うん」では、門倉とたみのプラトニックな恋愛感情というのが大きなポイントになるわけですが、そのあたりの感情も全て科白やト書きで直截的に書かれてしまう。 そのあたりに若干の違和感と物足りなさを感じてしまいました。 NHKのドラマ「あ・うん」を自分は観ていませんが、門倉を杉浦直樹が、水田をフランキー堺が演じたことは知っている。 だから、小説を読んでいても、各場面で杉浦直樹とフランキー堺の顔が浮かんでしまうんですが、これがもう本当にぴったりハマってしまうんですね。 絶妙のキャスティングだったのだなと改めて思います。 楽しんで読むことはできましたが、やはりこれはドラマを観たほうがずっとよいのだろうな、と思いました。
1投稿日: 2019.01.06大人の真の友情とはこういうこと!
テレビドラマに、映画にもなった。向田邦子の世界がいかんなく結実した作品。中年の男と男の、男と女の付き合い方、生き方が本当に羨ましく、何故か懐かしい気がする。平成の今だからこそ、読んでおくべき作品だ。
0投稿日: 2015.09.05生身の人と人が付き合い、生きていくって、やっぱりこういうことかな。
門倉と仙吉、そして、たみ。この3人だけではなく、登場する人たちがその日その日を地に足つけて生きている昭和の一コマ。この平成のドライでスマートな生き方ではない、かなり泥臭く、でもエネルギッシュで、人情の薫る素敵なエピソードが流れるように語られます。あの戦争の後で、失った何か大きなものを感じさせてくれます。大正から昭和初期にかけて、我々は今にはない別のものを確かに持っていたのかも。著者が生きていたらこの先の話も読めたかもしれないと考えるとちょっと別の意味で切ないです。
6投稿日: 2015.05.05
powered by ブクログ初めて読んだ向田邦子作品。 これは晩年の作品だったようだ。 実業家として成功し遊びも知り余裕もある門倉と、一介の勤め人である仙吉。一見すると釣り合わないようであるが二人は強い友情で結ばれている。 門倉は仙吉の妻たみに想いをよせながらもそれを決して口にすることはない。たみは分かっているのだが知らないふりをする。仙吉は門倉が自分の妻に気があることを誇らしく思っているという不思議な関係の三人。 この三人を中心に、今年十八になる仙吉とたみの娘さと子、家の金を使ってしまう元山師で仙吉の父初太郎、門倉の女遊びに嫌気がさしている門倉の妻君子、門倉の二号禮子、などが現れ人間模様が描かれる。 長い付き合いだから、という台詞がよく出てくる。長い間一緒にいると他人が入り込めないあ・うんの呼吸が生まれてくる。夫婦、家族の良さというものはそういう部分にあるのだと思った。 MORIOKA TSUTAYAで購入。
0投稿日: 2014.05.08恋、友情、自己愛の終着点はどこに
神社の狛犬「あ・うん」のように、一言交わすだけで相手を理解できるほどの親友を持つ男が、親友の妻を愛してしまう葛藤を書いた小説です。先にテレビドラマの脚本として書かれ、その後、自ら小説化。人と人の関係はこうあるべきと言い切らずに、誰かを愛するかたちは様々あるのだとそっと教えてくれる。二人の関係性を公然と言い切れなくても、大切に想ってしまう人が居るとは切ないかぎりです。(スタッフO)
1投稿日: 2013.09.20
powered by ブクログ090228(a 090329) 090924(a 091029) 091221(a 100106) 100914(a 100919) 100927(a 101007)
0投稿日: 2009.09.21
