たまご915さんのレビュー
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アドラーに学ぶ部下育成の心理学 「自ら動く部下」が欲しいなら ほめるな叱るな教えるな
小倉広 / 日経BP
モチベーションこそ人材育成の要諦
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アドラー心理学は「嫌われる勇気」を読んだ程度ですが、その考え方については強く共感し、自分がこれまでやってきたことの裏付けにもなっている、と感じました。
アドラーの考えは子供の教育に生かすことも多いので…すが、本書は企業内の人材育成に特化した記述となっています。
印刷の書籍だと、本書の帯に「褒めるな、叱るな、教えるな」と大書されています。
これはアドラー心理学を教育の場で用いるときによく使われている考え方とのことで、褒めるのも叱るのも人間関係に上下を規定してしまい、教えることで他人に依存する人間を作ってしまいます。
アドラーの教えでは、人間関係に上下はなく(指示系統の上下はありますが、人間関係とは異なります)、他人に依存するのは自己の幸福を失う行為であるとしています。
まず前提としたいのは、働くのは給料をもらうために自分の感情を押し殺して行うようなものではなく、労働の成果(製品や商品、サービスなど)で社会に貢献することが働く目的であり、給料や賃金はその対価のひとつに過ぎません。
企業も売上や利益が究極的な目標ではなく、自社の製品やサービスを通して自分達が考える理想の社会に近づけていく(何を理想とするかは、各社の経営理念やビジョンに示されているはずです)ための手段として売上や利益があるのです。
なので企業内の人材育成とは、働く人ひとりひとりの貢献のあり方を自社の経営理念や理想の社会とすり合わせ、その理想に近づけるために自分の能力や時間を使う、という意識を持ってもらい、理想の実現のために能力を高める、あるいは高める意思を自主的に持つ、ということになるかと思います。
そのための人材育成法を、アドラー心理学を踏まえて、著者自身が実践、体験したこと(成功も失敗も含めて)を実例として述べています。
その中で最も納得感があったのが、「成果を出せなかったときの帰結を体験させること」です。
野球やサッカーなどのチームスポーツが特徴的ですが、ミスをすれば負けるし、ミスを繰り返せばその選手自身がポジションを追われる(配置換え、担当替え)ことになります。
そうやって失敗の重さを本人が感じれば、賞罰で部下を操作する必要などないし、却ってチーム全体の空気を乱すことになります。
その後はよく言われることですが、ポジションを奪われた選手をそこで腐らせるのではなく、もう一度チャンスを与えて、強くなって戻ってこさせるのが名監督ですね。
褒める・叱る・教えるではなく、自分から動く・考えるようにしていく、そのための必要な場の提供や誘導を行っていくのを、アドラー心理学では「勇気付け」と呼んでいます。
これは「動機付け」、つまりモチベーションとほぼ同じ意味で(かなで書くと1文字違いでもあります)、モチベーションを適切に与えることができれば、人間というものは勝手に成長していくものです。
モチベーションは「やらせる」ものではなく、「自分から見つける」ものなので、いかにして部下にモチベーションを(押しつけるのでも、教えるのでもなく)見つけてもらうかのヒントが、本書から示唆されていると感じました。 続きを読む投稿日:2015.01.31
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女神的リーダーシップ ~世界を変えるのは、女性と「女性のように考える」男性である
ジョン・ガーズマ, マイケル・ダントニオ, ヤマザキマリ, 有賀裕子 / プレジデント社
「性差」では何も語れなくなった
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少なくとも自分の感覚では、「男らしく」「女らしく」といった性別役割分担は、前世紀や昭和時代の遺物になってしまったのだろうと思います。
確かに女性の社会参加は遅れており、この分野では日本は最後発国となっ…ていますし、先進国でも女性の管理職の割合などを義務化して何とか状況を進めている段階です。
それでも、私たちの生活レベルで男女の役割を見ていくと、支配や競争に疲れてしまい、奪うよりも分け与えるほうが利益が大きいということに、ようやく気づき始めました。競争を成長の源泉としてきた自由主義や資本主義の転換点でもあるかと思います。
余談になりますが、いまだに「支配」のフレームワークで生きている人が、総じて自分は権力の支配に虐げられている不幸な人間だ、と自らを規定しているのは、非常にもったいないと思います。支配・被支配の構図から抜け出せば、自分がどれだけ自由なのか気づけると思うのですが。
前置きが長くなりましたが、世界のあらゆる地域で、男女問わず「協力」や「共感」で新しいものを作り出し、成長していくことが起こっています。本書で最も印象的だったのが、アイスランドの事例です。
同国は経済成長を謳歌していましたが、2008年の金融危機で財政破綻、2011年には過去の反省を踏まえた新たな憲法草案を作ることとなりましたが、国民参加でソーシャルメディアを活用した議論が行われたとのことです。
経済成長の時期は競争社会、財政破綻後は共感と協同の社会と、全く異なる側面を見せていますが、人々にとっては後者のほうが居心地が良いのではないでしょうか。その中で作られた憲法は、自分たちが作った新しいアイスランドの象徴になりうるでしょう。
日本でこれをやるには国の規模が大きすぎますし、そもそも世界で最も制定(改正)からの時間が長くなってしまった憲法はある意味でブランドになってしまっていますが、より身近なところで共感と協同の社会が作られています。
インターネットを通じて、人々は関わり合うし、助け合います。言葉の表面上はいがみ合っているように見えても、奥底では通じ合っているのではないかと思うこともよくあります。助けたり助けられたりするのを拒絶しているようでも、単に恥ずかしがっているだけでしょうし、それでいいのではないでしょうか。 続きを読む投稿日:2014.02.27
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エッセンシャル思考 最少の時間で成果を最大にする
グレッグ・マキューン, 高橋璃子 / かんき出版
仕事の【断捨離】
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『エッセンシャル思考』というタイトルからは内容の想像が付かないのですが、読み進めていくウチに自分の中で感じたのは「これは『仕事の【断捨離】』の本だ」という感覚です。
断捨離という言葉がバズワードとなっ…てしまい、このレビューを書いている2015年3月にはほとんど見かけなくなったのですが、自分で仕事を持ちすぎず、最も必要なものだけにしてしまうという方法論が、断捨離と同じ方向だと思います。
ちょうど先日、別のところでこの書籍の記述に通じるおもしろい話を聞いたので紹介します。
日本のある企業(規模こそ小さいですが、知名度はある会社です)の社長さんの話で、大きな売上につながる研修講師の依頼が入ってきました。
たまたま、同じ日に社長の中学生になるお子様のイベントがあり、そのイベントに参加するとお子様と約束していたとのことです。
社長は依頼の返事を1日延ばしてもらいましたが、その後取った行動、そして翌日の回答はどのようなものだったか、想像できますでしょうか。
答えは、
「お子様と話をして、イベントに自分が参加して欲しいのか正直なところを聞き出した。
そしてその結果をもって、講演の依頼はお断りした」
です。
優先順位が一貫しているところ、家族との人間関係を重視するところが、本書と同じだと感じましたし、実践している人が現実にいるのだというのも驚きでした。
いま自分が仕事のやり方を表面的に変えようとすると、「生兵法は大怪我のもと」になるだけに思います。
エッセンシャル「思考」とあるように、ものの考え方を改め、今やるべきことは何か、そう決断する理由や優先順位はどうなっているのか、というところに一貫性を持たせないといけないでしょう。
それには自分自身の判断基準が確立していないといけないですし、自分の信念やビジョンというものも明確にしていくことになるかと思います。
(ここまで、上の社長さんの話が出た、目標達成の講習で聞いてきた話ですが)
また、仕事を1つに絞ると言うことは、その1つで失敗することは許されないということになります。
複数の仕事を並行に動かすのは、どれかが失敗しても他でカバーする、というリスクヘッジの意味もありますので、それを捨てて1つの仕事を絶対に成功させるという覚悟や自信を持っていないとできないことでもあるでしょう。
極端な話、外的要因での失敗も仕方ないでは済まされず、先着して外的要因の影響をつぶしておくなどの必要があるし、それだけの行動ができる権限や能力、意志の強さが求められます。
そもそも、仕事を絞らないと回しきれないほど持っていないし(この段階で仕事を絞るとただの「サボり」です)、自分の場合は優先順位の考え方は必要ですがまずは絶対量を増やしてからですね。 続きを読む投稿日:2015.03.01
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ザ・コーチ 最高の自分に出会える『目標の達人ノート』
谷口貴彦 / プレジデント社
目的・目標・ゴール、あるいは本末転倒にならないように考えるべきこと
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本書を最後まで読み進めると意図がわかりますが、本書は2009年に書かれながら、その15年ほど前の時代を舞台としています(昭和34年生まれの主人公が36歳なので、正確には1995年です)。
目標管理とい…う観点で時代を戻してみると、富士通が「成果主義」制度を社内評価に取り込んだのが1993年、その問題点が顕著になり方針転換を余儀なくされたのが2001年で、1995年はちょうどその間の時期になります。
つまり「成果主義」や「目標管理」がバブル崩壊後の停滞していた日本企業を救う銀の弾丸のようにもてはやされていた時期でもあるので、最初は同時期に書かれた文章だと思っており、批判する点のほうが多くなるかな、と思って読み進めていました。
実際には現代にも通じる内容で、目標を表面的なものではなく、その本質を適切に捉えていると感じました。実話であれば、1995年時点でここまでの意識を持って目標に取り組めた、主人公やその師の慧眼には驚かされるばかりです。
仕事の場では「目標」が必ず与えられます。今年度の売上ノルマをいくらにする、スケジュールを遵守して製品を作るなど、仕事を進め、自分や勤め先が成長していくために必要なことではあるのですが、目標達成が目的となってしまうとモチベーションが下がってしまいます。
本書では「目的」と「目標」を明確に使い分け、目的のための到達点を「ゴール」としています。別の言い方をすれば、目標達成そのものが目的化すると、目標を達成して何が得られるのか、という肝心のところがぼやけてしまいます。半世紀前の高度成長期とは違い、目標を達成しても大幅に生活が豊かになったり収入が増えたりするわけではありませんから、目的を明確化し、企業など集団であれば共有する必要があるわけです。
また、ゴールの置き方にも個人個人の価値観が反映するので、売上高など数値目標がしっくり来る人もいれば、自分自身の達成感や貢献感を重視する人もいるでしょう。
後半の「価値観を知るための言葉リスト」で、自分の価値観に合う言葉を探し、与えられた目標でも自分の価値観で言い換えれば、達成しやすくなります。
ちなみに、私は「改善」や「理解」、またリストにはありませんでしたが「成長」や「貢献」という言葉に惹かれますので、売上目標も「お客様との関係改善(構築)」「要望の理解と実現を通しての貢献」といった考え方で達成していくことになるだろうと思います。
目的を見失った、あるいはそもそも目的が与えられていない状況にあるのであれば、自分の言葉で目的を考えてみる、そしてその目的が適切かを上長などと確認する、といった手続きで目的を取り戻し、モチベーションを向上することができると信じています。 続きを読む投稿日:2014.11.10
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諦める力~勝てないのは努力が足りないからじゃない
為末大 / プレジデント社
「諦める」と「逃げる」の違い
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為末さんのツイートでも、自分の限界を知ることや、成果に結びつかない努力が無駄に終わる危険性を何度か指摘されているのを見ました。
これは、「諦めなければ夢は叶う」と信じさせて別の道に移るのを許さない風潮…に対する警鐘でもあります。
どちらの考え方にも理屈はあり、自分もどちらが正しいのかはわかりませんし、おそらくはケースバイケース、あるいは言い方は悪いですが結果論の部分も多々あるでしょう。
ただ、為末さんの言う「諦める」と、「逃げる」とを混同してしまっている人が少なくないように感じます。
ここで言う「諦める」は、自分の夢や目標を達成する手段を変えて、別のもっと可能性の高い方法を選ぶことであって、夢や目標の達成自体から「逃げて」しまうことではないはずです。
本来、個人個人の夢や目標は相当抽象的なものであり、その達成手段はいくつもあるはずです。
自分自身の話をさせてもらうと、昨年(2013年)、中小企業診断士の試験に合格し、システム開発の仕事と経営コンサルタントの二足のわらじを履くことになります。
開発者としては周囲の期待に応えたとはいいがたいのですが、努力の軸足を経営コンサルタントのほうに移していくことも考えています。
自分の夢が「顧客や勤め先、社会全体に貢献したい」というところにあるので、その手段がこれまでやって来たシステム開発でも、これから挑戦する経営コンサルタントでも、夢を達成する手段であるということに違いはありません。システム開発で夢を実現するのは「諦め」ても、夢そのものから「逃げ」ているとは思っていません。
新しい挑戦もしていきますから、これからも何度も壁にぶつかると思います。その壁を壊すのか、乗り越えるのか、あるいは回り込める別の道を探すのか、ともかく夢を叶えるために諦めないこともあれば、諦めることもあるだろうと思います。 続きを読む投稿日:2014.01.05
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資本主義の終焉と歴史の危機
水野和夫 / 集英社新書
資本主義の限界とは何か
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トマ・ピケティが「21世紀の資本」を著し、資本家に富が集中し、貧富の格差が増大することに一定の理由が示されました。
「21世紀の資本」は大部でありながら日本では広く受け入れられ、経済誌などでは多くの特…集が組まれています。
本書もピケティと同じく、資本主義の限界を指摘し、近代以降の資本主義に変わる新たな経済・社会・国家のシステムを構築する必要を論じています。
自分自身、働く人の立場として、労働の対価としての付加価値の再分配が適切になされず、十分に報われていないと感じることがあります。
日本の労働組合や左派政党などは、経営者を労働者に敵対する立場に置き、労働者に還元すべき利益を不当に得ていると批判していますが、自分自身はこの認識は古く、過去の遺物だと考えています。
現在は経営者と投資家が分離し、経営に積極的に口出しする「物言う株主」も多くなっています。彼らの中には目先の自分達の利益のために行動しており、企業の利益を根こそぎ奪い、経営を壊すことも憚らないものもいます。投資先が壊れる前に、持ち株を売り抜ければいいとでも思っているのでしょう。
現在は、経営者と労働者は同じ側に立ち、投資家の横暴から企業と雇用を守るべきなのです。
投資家の横暴が投資先を壊すこの構図こそが、資本主義の限界を象徴していると感じます。
とくに近年の新自由主義は「資本主義原理主義」とも思っているのですが、投資家の横暴を許すどころか、積極的に容認、後押しするようなところがあります。
ピケティの「21世紀の資本」が指摘するところ、そしてマルクスの「資本論」が100年前に危惧したところも、新自由主義のなれの果てに行き着くのではないでしょうか。
本書の最後では資本主義が崩壊することを前提に、その先にあるべき社会システムを検討しています。
資本主義にて市場が成長するには新しい市場が必要ですが、現代はその市場が飽和して新しい市場がなくなったため、資本主義が成立する条件が失われたとしています。その上で、成長しない市場の中での定常的、持続的な社会システムが求められるとあります。
しかしそのような社会は、誰も過剰な利益を求めない社会、言い換えれば抜け駆けを許さない社会となり、非常に息苦しいものになってしまいそうです。
著者が求めるところは、社会システムにとってあるべき姿なのでしょうか。
私たちに突きつけられた究極の課題でもありますが、常にこの課題について検討し続けていくことが、資本主義の暴走を防ぐ方法であろうと考えます。 続きを読む投稿日:2015.02.07