リラの花咲くけものみち
藤岡陽子(著)
/光文社
作品情報
幼い頃に母を亡くし、父が再婚した継母とうまくいかず不登校になった岸本聡里。愛犬だけが支えだった聡里は、祖母に引き取られペットと暮らすうちに獣医師を志す。北農大学獣医学類に入学すると、面倒見のよい先輩、志をともにする同級生らに囲まれ、学業やアルバイトに奮闘する日々。伴侶動物の専門医を目指していた聡里だが、馬や牛など経済動物の医師のあり方を目の当たりにし、「生きること」について考えさせられることに――
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この作品のレビュー
平均 4.5 (144件のレビュー)
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あなたは、『言葉を話せない動物たちの怪我や病気を見つけて治す』職業のことを知っているでしょうか?
怪我や病気をすれば私たちは病院に赴きます。医師の診察の中で具体的な症状を説明することによって適切な治…療を受けることになります。これは、言葉によって自分の思いを相手に伝えることができるからこそです。そんな怪我や病気はいつ何時私たちを襲うかわかりません。例えば海外旅行に赴いた際、万が一同様な事態になったとしたら、語学が堪能でない場合にそこにどんな未来が待っているのか、考えれば海外旅行に出かけることも怖くなってもしまいます。ただ、そんな事態でも通訳をしてくれる人の存在をもって最悪の事態を回避もできるでしょう。直接医師と話せずとも自分の思うところが伝われば手段は問われないからです。今の世の中、翻訳アプリの性能もそんな危機を救ってもくれるかもしれません。
一方で、身近にいる犬や猫、そして動物園にいる動物たちの中には鳴き声を上げるものもいるとはいえ、彼らの言葉を私たちが理解できるわけではありません。そんな彼らが怪我や病気の中にある時、そんな彼らを助けるには言葉以外に彼らが発するさまざまな事ごとを丁寧に診る中に原因を突き止めていく必要があります。そんな役割を果たす職業、それが『獣医』です。誰でも知る『獣医』という言葉。では、あなたは『獣医』が『言葉を話せない動物たち』にどのように接していくかを知っているでしょうか?
さてここに、『言葉を話せない動物たちの怪我や病気を見つけて治す』『獣医』を目指す一人の大学生を描いた物語があります。東京にある実家から遠く離れた北海道の大学に学ぶ主人公を描くこの作品。そんな物語の中に『獣医』のお仕事を見るこの作品。そしてそれは、そんな主人公が『自分たち獣医師は、動物も、人間と同じように、苦しみや痛みを感じていることを忘れてはいけない』という言葉を胸に『獣医』という人生へと歩み出していく様を見る物語です。
『おばあちゃん、疲れてない?』と『北海道の中部に位置する江別市に』ある『北農(ほくのう)大学に続く白樺並木を』祖母のチドリと並んで歩くのは主人公の岸本聡里(きしもと さとり)。『入学と同時に大学の女子寮「あけぼの寮」に入る』聡里の前に『新入生の方ですか』と『学生らしき女性が近寄って』きました。『私は静原夏菜です。あけぼの寮の寮長で、この春から獣医学類の三年生になります』と挨拶する女性に『うちの孫も同じ獣医学類なんで、いろいろと教えてやってください』とチドリが答えます。案内された『部屋は四人部屋』で同じ一年になる奥野美里と柳本乃絵の姿がありました。『同じ一年だからタメ口でいいよ』と言われるものの『私も聡里って呼んでね』という一言が言えない聡里。そんな聡里に『これはおばあちゃんが持って帰るからね』と『古ぼけた四角い箱』を手にするチドリに『だめ…。持って帰らないで。それはここに…置いていって』と懇願する聡里は『箱にしがみつ』きます。やむなく諦めたチドリは『じゃあ、おばあちゃんはそろそろ帰るよ』と部屋を後にします。それを追いかける聡里は『新千歳空港まで送ってく…』と言いますが、『無駄遣いはできない…ここでバイバイするほうがいいの』とチドリに言われます。『仕送りしてやれるのは月に三万円』、『一日千円』でやりくりしなければならないこれからを諭すチドリ。『遠方の私立大学』に通うことになったことで、家を売って必要な費用を工面してくれたチドリ。そんなチドリは『四月分の仕送りとは別』に三万円を渡すと聡里の元を去っていきました。『母を亡くしたのは小学四年生の十二月』という聡里は父親と二人暮らしを始めましたが、『聡里が小学六年生の時に父は再婚し』ます。『父が勤めている会社の部下』だったという友梨と再婚して始まった三人の暮らしの中で実母の痕跡を次々と消していく友梨。そして、『友梨と父との間に赤ん坊が生まれ』るも転勤が決まった父は単身赴任をします。そして、始まった『聡里と友梨と赤ん坊の三人暮らし』の中でぶつかる聡里と友梨。飼っていた犬を『部屋から出さないで』と言われたことをきっかけに『不登校』になってしまった聡里。そんな聡里の『人生が再び動き出したのは、聡里が十五歳の誕生日を迎えた日のこと』でした。『聡里に直接渡したいものがある』とやってきたチドリは聡里を見るや否や『悲鳴を上げ』ます。『あんたが元気にしてるって思い込んでた』と言うチドリは『冷蔵庫のものを適当に食べ』、『サイズが合わない窮屈な子ども服』を着た聡里にショックを受けます。そして、『聡里を引き取らせてもらいます』と言い放つと聡里と犬を自宅に連れ帰りました。『泣いていいんだよ。ずっと我慢してたんだね?』と声をかけてくれるチドリによって高校に進学した聡里は『担任の先生』の勧めと祖母の後押しによって『大学進学のことを真剣に考え始め』ます。通い始めた塾の教師に『獣医学部を目指したらどうだい?』と言われ戸惑う聡里。『言葉を話せない動物たちの怪我や病気を見つけて治すなんて、他にない特別な職業だと目の奥までも熱くな』る聡里。そして、チドリの支えもあって、憧れの獣医学部へと進学を果たした聡里。そんな聡里が『獣医』になるための学びを進めていく様子が描かれていきます。
“2023年7月20日に刊行された藤岡陽子さんの最新作であるこの作品。”発売日に新作を一気読みして長文レビューを書こう!キャンペーン”を勝手に展開している私は、2023年4月に近藤史恵さん「それでも旅に出るカフェ」、5月に深緑野分さん「空想の海」、そして7月には津村記久子さん「うどん陣営の受難」と、私に深い感動を与えてくださる作家さんの新作を発売日に一気読みするということを積極的に行ってきました。そんな中に、看護師として働きながら私たちに数々の感動を与えてくださる物語を届けてくださっている藤岡さんの新作が出ることを知った私は発売日早々にそんな物語を手にしました。
そんなこの作品は、“動物たちが、「生きること」を教えてくれた。 家庭環境に悩み心に傷を負った聡里は、祖母とペットに支えられて獣医師を目指し、北海道の獣医学大学へ進学し、自らの「居場所」を見つけていくことに ー 北海道の地で、自らの人生を変えてゆく少女の姿を描いた感動作”と内容紹介にうたわれています。藤岡さんの作品と言うと、看護師としての経験が活かされた「晴れたらいいね」や「満天ゴール」など医療の現場を描く作品に強い説得力を感じます。そんな藤岡さんがこの作品で描くのが”北海道の獣医学大学へ進学し”た主人公が『獣医』になるための道を歩んで行く物語です。私は今までに700冊以上の小説ばかりを読んできましたが、医療現場を描いた作品、もしくは動物が登場する作品は数多読んできましたが、そんな動物の命を守る『獣医』の視点から描かれた作品は初めてです。他にこのような分野を扱った作品があるのかどうか知識がありませんが、いずれにしても極めてレアな領域を扱ったのがこの作品と言えるのではないかと思います。
では、まずは『獣医』という視点からどんな物語が描かれていくかについて見てみたいと思います。物語は、『獣医』になるために『獣医学部』で学ぶ主人公の聡里が、その学びの中で目にする動物医療の世界が描かれていきます。その中から聡里が『初めて聞く言葉』に『首を傾げる』という場面からご紹介したいと思います。『きょうけつけん…?』という言葉が登場しますが、あなたはそれが何を意味するか知っているでしょうか?
・『供血犬というのは、献血をする犬のこと』、『犬にも輸血が必要な時はある』、『でも、いまの日本には動物のための血液バンクはない』
→ 『病気や怪我をした犬に、血を分けてくれる供血犬が必要になってくる』
→ 『若い犬であること、内臓疾患がないこと、体格が良く肥満体ではないこと、感染症や寄生虫症に罹患していないこと…』『といった基準を満たしていないといけない』
『供血犬』という言葉は全くの初耳でありとても驚きました。『他の動物を助けるために血を抜かれる』という役割の下に生きていく犬の存在。しかし、『供血犬になることで』『居場所ができ』、結果として『飼い主に見捨てられ』たような犬が『生き延びることができる』という現実があることを登場人物の言葉を借りて描いていく藤岡さん。読み始めて早々にこんな知識を得ることできて、すでにこの作品を読んで良かったという思いに包まれました。次は、『いまから実習を始めます』という中で『牛舎』へと訪れた聡里が体験する『断角(だんかく)』についてです。
・『除角とも言われ、文字通り牛の角を根元から切る処置です』という『断角』
→ 『除角が必要な理由は、角を切ることで牛がおとなしくなり、群れの中で強い、弱いなどのマウントの取り合いが減る』、『牛同士、角が当たって傷がつかないようにするため、流産を防ぐため、管理者の安全を守るため』
→ 『倫理的な観点から断角に反対する声があるのも事実で、だからこそ実施する際には牛たちに苦痛がないようにしなくてはいけない』
なるほど、群れで飼育するために必要な『断角』、その一方で『牛たちに苦痛がないように』という配慮についてもきちんと説明がなされていきます。物語では、『牛の頭部を固定し』、『線のこぎり』を使って角を切り落としていく様子が描かれます。そこには、まさしくリアルな動物医療の現場を描く表現が登場します。
『右角が生えていたくぼみから真っ赤な血が噴き出してきた』
そんな状況の中に『止血処理』を行う場面など『獣医』への道を歩む中で避けられない『血』との対峙が描かれていきます。
『自分たち獣医師は、動物も、人間と同じように、苦しみや痛みを感じていることを忘れてはいけない』
『言葉を話せない動物たち』と日々対峙していく仕事であるからこそ忘れてはならない考え方が強い説得力をもって読者にも伝わってきます。身近に愛でる動物たちのまさかの事態に対峙してくださる『獣医』というお仕事。そう、この作品の一番の魅力は、そんな『獣医』という職業のリアルを描く”お仕事小説”にある、そのように思いました。
そんなこの作品は主人公の岸本聡里が苦難の青春時代前期を乗り越え、祖母・チドリの支援の元に『獣医』への道を歩んでいく姿が描かれていきます。上記した通り、『獣医』になるためのさまざまな学びを経験していく中に確かな成長を見せていく聡里の姿はページを追うごとに力強くなっていきます。病弱だった母親の急死の先に、父親の再婚、そして継母からの冷たい仕打ちという流れ自体は、決して珍しいものではなく、よくある話とも言えますが、この作品で見るべきはそのような前提設定にケチをつけるところではないと思います。亡くなった娘が残した大切な孫を思うチドリの想い。そんなチドリの想いを感じる中に一つずつ新しいことを、そして新しい人間関係を経験し、『獣医』への階段を上っていく聡里。
『いつか自分も、誰かを守れるような強い人になりたい』
そんな風に漠然と自分が進む道を思い描いていく聡里ですが、世の中そんなに甘くはありません。また、命というものと対峙することになる『獣医』という職業を自らの未来とするには数々の試練が待ち受けてもいます。その一つが、聡里が告げられたこんな言葉にありました。
『無理だと思うなら、やめたほうがいい』
そんな風に突き放された聡里が窮地をどのように切り抜けていくのか、そんな行動によって何を得ていくのか。これは、決して『獣医』という職業に限られたものではないと思います。この世を生きていくには生半可な気持ちが何よりの障害となるものだと思います。そんな中でも命を取り扱っていく職業であるからこそ、大切にしなければならないことでもあります。
『助けるだけではない。動物の命の選別も獣医師の役割で、そしてその判断は簡単ではない』
命というものに対峙せざるを得ない場面の存在、そしてそれを乗り越えた先にあるもの。物語は『獣医』のお仕事のリアルを描く中に、そんな『獣医』の未来を自分のものとしていく聡里の健気な姿が描かれていきます。八つの章から構成されたこの作品は主人公である聡里視点で展開していきます。〈第一章 ナナカマドの花言葉〉で『北農大学』に入学し、すべての学びが見知らぬことばかりという中に数々の失敗と貴重な体験を繰り返す聡里が章を経るに従って逞しくなっていく様子は読んでいる読者も元気をもらえる展開です。しかし、人生山あり谷あり、そこにはさまざまな苦難も待ち受けています。そんな中に『獣医』という職業を目指す中で根源的な問いにもぶつかっていく聡里。
『救えない動物の命について考えたことある?答えはないんだから、そんなの考えても意味がないって思う?』
動物を救う知識を得れば得るほどに逆に湧き上がってくる根源的な問い。『獣医』という多くの方にとって知ることのない世界の裏側にある物語。命を扱う職業だからこその仕事であるが故の問いかけが読む手を止まらなくさせてもいきます。すべて花の名前がつけられた八つの章の最後を飾る〈第八章 リラの花咲くけものみち〉に描かれるその結末。自らも命と向き合う看護師でもある藤岡さんだからこそ描ける物語、動物の命を守る『獣医』という貴い職業を描く納得の結末がそこには描かれていました。
『いつか自分も、誰かを守れるような強い人になりたい』
そんな思いの先に『獣医』という未来の姿に向かって勉学の日々を生きる聡里の大学生活が描かれていくこの作品。そこには、藤岡さんならではの優しい筆致に満たされた物語が描かれていました。『獣医』の”お仕事小説”の側面も持つこの作品。そんな物語の中に、動物の命を守る『獣医』という仕事の貴さに感じ入るこの作品。
藤岡陽子さんの作品にまた一つ新たな傑作が誕生した、そんな思いに包まれた素晴らしい作品でした。続きを読む投稿日:2023.07.24
少し前まで住んでいた北海道を思い出した。独特の雰囲気が好き。つらいことがあっても、いつかは報われるんだ。状況は変わる。
投稿日:2024.05.31
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