ホビー&カルチャー
MILITARY CLASSICS
シリーズ内の平均評価:
(2)
【巻頭特集】牙を剥く不屈の貂と伏撃する剛角の犀対戦車自走砲マーダーとナースホルンドイツ軍は1941年6月に「バルバロッサ」作戦を発動し、ソ連領内への進攻を開始したが、そこでT-34中戦車やKV重戦車という重装甲の戦車と遭遇。それらを正面から撃破できる7.5cmクラスの対戦車砲の自走化が検討されることになった。そこでドイツ製の7.5cm対戦車砲PaK40や、ソ連から鹵獲したF22 76.2mm野砲を改造したPaK36(r)と各種車台を組み合わせた、小型の対戦車自走砲を数種類開発・生産。それら軽対戦・・・
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【巻頭特集】
蒼天を征く伝説の龍
空母「蒼龍」「飛龍」「雲龍」
昭和5年(1930年)のロンドン軍縮条約を受け、日本海軍は昭和9年、基準排水量10,050トンの小型空母2隻を建造することを決定。当初は排水量に対して過大なスペックが要求されたが、結局は基準排水量15,900トン、搭載機57機、速力34.5ノット、島型艦橋を右舷に持つの中型空母「蒼龍」が昭和12年12月に竣工した。続いて「蒼龍」の改設計型として、排水量を17,300トンに増加し、艦橋を左舷に移した「飛龍」が建造され、昭和14年7月に竣工した。
実験的な初の空母「鳳翔」、巡洋戦艦・戦艦から改造した大型空母「赤城」「加賀」、設計に無理があった小型空母「龍驤」と試行錯誤してきた日本海軍にとって、この「蒼龍」「飛龍」は初の新造中型空母であり、性能・実用性も十分なものであったため、以後の日本空母のひな形となった。
実戦においても中国戦線での「蒼龍」をはじめとして、真珠湾攻撃、ウェーク島攻略、インド洋作戦で大きな活躍を収め、昭和17年のミッドウェー海戦では「蒼龍」が倒れる中、「飛龍」が驚異的な奮戦を見せたのちに戦没した。
遡って昭和16年後半、米英戦を覚悟した日本海軍が戦時量産を企図した空母が、「飛龍」をベースとした雲龍型で、昭和19年に「雲龍」「天城」「葛城」の3隻が竣工したが、本来の艦隊型空母として戦うことはなかった。
今回の特集では、中型空母「蒼龍」「飛龍」そして雲龍型を、建造の経緯、各部メカニズム、戦歴、搭載機、艦隊編成と運用、人物など多角的に紹介していく。
[第二特集]
快速で信頼性の高い傑作軽戦車
M3/M5スチュアート軽戦車
アメリカ陸軍は1934年には初の本格的国産軽戦車であるT2を開発。そのT2のサスペンションをVVSSとしたのがM2A1で、それを元に双銃塔式としたM2A2が開発された。続いて装甲を強化したM2A3が登場し、双銃塔を廃し単砲塔に50口径37㎜砲を搭載したM2A4も開発された。
そして1939年、M2A4をさらに強化した新型戦車が開発されることとなった。この軽戦車は13トンの小型な車体に長砲身37㎜砲を装備、車体前面上部の装甲厚は38㎜と当時としては厚く、最大速度は58km/hを発揮。1940年7月にM3軽戦車として制式化され、1941年3月から量産が開始された。
続いて、M3を元に新型エンジンを搭載し、傾斜装甲を取り入れた溶接構造の車体を持つ新型、M5軽戦車が開発され、1942年から生産が開始された。
M3/M5軽戦車は合わせて2万輌以上が生産され、アメリカ軍のみならず、イギリス、ソ連など同盟国へ供与された。そして軽戦車としては高い攻防力、優れた機動力、さらに信頼性・実用性の高さが評価され、大戦前半~中盤の米英連合軍の主力軽戦車として活躍。英連邦軍では「スチュアート」と命名され、さらに現場では「ハニー」と呼ばれて愛用された。さらにM3を鹵獲した日本軍も優れた戦車として運用。戦後も各地の紛争などで使用されており、戦史に残る傑作軽戦車といえるだろう。
この特集では大戦を通じて大きな存在感を見せたM3/M5スチュアートを、様々な面から考察していこう。 -
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【電子版では、紙の雑誌と一部内容が異なる場合、掲載されないページや特別付録が含まれない場合がございます】【巻頭特集】
戦い抜いた剛毅堅忍の軍馬
Ⅳ号戦車
1930年代、ドイツ陸軍は5トンクラスのⅠ号戦車と10トンクラスのⅡ号戦車を開発。そして来るべき主力戦車として開発されたのが長砲身3.7cm砲(後に5cm砲)を持つ15トン級のⅢ号戦車で、それらを火力支援する戦車として短砲身7.5cm砲搭載の20トン級のⅣ号戦車が開発された。
大戦序盤、Ⅳ号戦車はⅢ号戦車とともにドイツ軍の勝利に大きく貢献するが、1941年6月に始まった独ソ戦では重装甲のT-34中戦車やKV重戦車に遭遇。Ⅲ号戦車の5cm砲では太刀打ちできないことが判明し、より車体の大きなⅣ号戦車に長砲身7.5cm砲が搭載されることになった。こうして生まれたのがⅣ号戦車F2型(後にG型に改称)で、1942年前半から前線に参戦。T-34や米英の中戦車も正面から撃破できるⅣ号戦車長砲身は、対戦車戦闘、対歩兵・陣地戦闘、どちらもこなせる新たな「主力戦車」となったのである。
1943年夏からは後継のパンター中戦車も登場するが、数の面や信頼性の低さから完全な主力となるには至らず、Ⅳ号戦車は大戦の終盤までドイツ軍装甲部隊の中核として戦い続けたのである。戦車としてはドイツ軍最多の約8,500輌が生産され、大戦初期から終盤まで最前線に立ち続けたⅣ号戦車は、まさしく第二次世界大戦のドイツ陸軍を象徴する戦車といっていいだろう。
本特集ではティーガーやパンターのような派手さはないものの、剛毅木訥な「軍馬」のように戦い抜いたⅣ号戦車を、様々な視点から考察していこう。
[第二特集]
日本海軍最速の韋駄天偵察機
艦上偵察機 彩雲
日本海軍は大戦前まで、空母機動部隊の偵察機としては三座の九七式艦上攻撃機を転用したり、戦艦・巡洋艦搭載の水上偵察機を使用していた。だが太平洋戦争が迫ると、広大な洋上を高速で飛行できる偵察機が必要となり、開戦直後の昭和17年1月、海軍は中島飛行機に本格的な艦上偵察機の試作を内示する。仕様では350ノット(648km/h)の高速と、4,630kmという単発機としては破格の航続性能が要求されていた。
こうして開発された十七試艦上偵察機は、2,000馬力級発動機「誉」を搭載、洗練された設計で640km/h近い高速と長大な航続力、優れた離着艦性能を実現。「彩雲」として量産が決定され、昭和19年春から前線への配備が開始された。
戦局の悪化から空母に搭載されることはなく、陸上基地から運用された彩雲は、昭和19年5月から本格的な偵察任務を開始、長大な航続距離と高速を活かして米海軍の動向を探り、大戦末期の海軍に貴重な情報をもたらしたが、戦局を覆すには至らなかった。また、その飛行性能を見込まれて、夜間戦闘機にも改造されている。
ここからは「我に追いつくグラマン無し」の電文でつとに有名な、日本海軍機最速のスピードを誇った韋駄天偵察機・彩雲について、メカニズム、開発、戦歴、各型、塗装、人物など多角的に解説していこう。
【新連載×2】
■「砲兵」から見た戦後戦史
■激うま! 世界の軍隊メニュー -
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【電子版では、紙の雑誌と一部内容が異なる場合、掲載されないページや特別付録が含まれない場合がございます】[第一特集]
天空を舞うジュラルミンの猛燕
三式戦闘機「飛燕」と五式戦闘機
川崎航空機は昭和14年(1939年)、ドイツのDB601液冷エンジンのライセンス生産権(ハ40)を取得。陸軍は重戦闘機・キ60、軽戦闘機・キ61の試作を川崎に指示する。キ60は性能に優れず不採用となったが、キ61は優れた性能を発揮、陸軍はこれを受けキ61の大量産を決定。昭和18年6月には「三式戦闘機」として制式化され、後に愛称は「飛燕」となった。
昭和18年夏から三式戦はニューギニア戦線に投入され、比島戦などにも参加したが、ハ40エンジンの故障が多発、米軍の新鋭機には苦戦を強いられた。それでも本土防空戦では高い稼働率を維持、B-29の迎撃に気を吐いた。三式戦の生産数は2,884機にも上る。
三式戦は二型でエンジンをハ40の性能向上型のハ140に換装したが、生産に行き詰まり、エンジンのない胴体だけの三式戦二型が並ぶ有様となった。そのため昭和19年10月、三式戦二型のエンジンは信頼性が高い空冷のハ112Ⅱへ換装されることになる。完成したキ100は、速力は三式戦二型より低下したものの運動性や信頼性が向上して予想外の成功作となった。生産数は395機と少なく、活躍例も限られるが、陸軍戦闘機の有終の美を飾ったことは確かだ。
本特集では、WWⅡ時日本軍唯一の液冷戦闘機として奮闘した三式戦闘機と、三式戦の生まれ変わりと言えるキ100(通称:五式戦闘機)を、開発の経緯、メカニズム、戦歴、運用、型式、人物など多角的に紹介していこう。
[第二特集]
イギリスが誇る最大最強の巡洋戦艦
巡洋戦艦「フッド」
戦艦の火力と巡洋艦に伍する速力を併せ持った「巡洋戦艦(Battlecruiser)」は、英海軍の「インヴィンシブル」を嚆矢とし、英独海軍を中心に発展を遂げた。第一次大戦中の1916 年には15インチ(38.1cm)砲搭載の巡洋戦艦の建造が計画され、同年5月31日には一番艦が起工されるが、まさにその当日にジュットランド沖海戦が生起、英巡洋戦艦3 隻が轟沈する事態となった。
この海戦の戦訓を採り入れた改設計が施され、第一次大戦後の1920年5月に竣工したのが「フッド」で、戦間期の海軍休日を通じて「世界最大の主力艦」の座を占めた。その威容は英国民に“マイティ・フッド(強大なフッド)”と親しまれ、さらに1923年~1924年の世界周航等を通じて世界中に知られるところとなり、第一次大戦で失墜していた英国の威信を回復する一助ともなっている。また、均整の取れた外観は、「ジェーン海軍年鑑」編集長を務めたオスカー・パークスから「軍艦美の極致」とも評された。
第二次大戦においても「フッド」は貴重な戦艦兵力として英本国海域や地中海で活動。運命の1941年5月24日、デンマーク海峡にて独新鋭戦艦「ビスマルク」との決戦に赴くが・・・。
本特集では栄光と悲運に彩られた巡洋戦艦「フッド」について、メカニズム、建造経緯、運用、戦歴といった様々な面から解説する。
【新連載×2】
■ミリクラで語る珍兵器~ゆっ珍出張編~
■海外から見た太平洋戦争海戦史 -
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【電子版では、紙の雑誌と一部内容が異なる場合、掲載されないページや特別付録が含まれない場合がございます】[第一特集]
商船を護り奮闘した小さき牧羊犬たち
丙型・丁型海防艦
日本海軍は戦前、沿岸防衛を主任務とする海防艦「占守型」を新規で建造。そして開戦後、海防艦の主任務は、海上輸送路を米潜水艦などから守る海上護衛に変化し、占守型をベースに「択捉型」「御蔵型」「鵜来型」「日振型」が建造された。これらは徐々に簡略化と対潜・対空装備の強化が進められていき、占守型から日振型は「甲型海防艦」と呼ばれる。
しかし大戦も中盤になると、米潜の襲撃で失われる船舶が激増。日本の広大なシーレーンを守るため多数の海防艦が必要となってきた。そのため、鵜来型をさらに小型化、簡略化して設計されたのが、ディーゼル機関装備の丙型(第一号型)海防艦と蒸気タービン機関装備の丁型(第二号型)海防艦であった。
丙型・丁型は、排水量は約700トンと小型で、速力も約17ノットと低速ながら、主砲は12cm高角砲2門、爆雷投射機12基と爆雷120個を備え、ソナーやレーダーを持ち、戦前の駆逐艦よりも対潜・対空戦闘力に優れていた。
船体は小型で曲線も少なく、各部を簡略化したため量産性も高く、昭和18年秋から昭和20年夏の終戦まで、丙型は53隻、丁型は63隻という、日本海軍としては驚異的な隻数が建造されている。
丙型・丁型は大戦末期の昭和19年前半から実戦に投入され、各海域で海上護衛戦や対潜作戦に従事。航空機や潜水艦に返り討ちにされることも多かったが、少なくない敵機・敵潜を撃墜・撃沈し、絶望的な戦況の中でなすべき任務は果たした。
本特集では、必要最低限の対潜・対空能力と量産性を両立させ、ある意味で大戦末期の日本海軍の「主力」を担っていた丙型・丁型海防艦を、多角的な視点で分析していこう。
[第二特集]
新兵器の実験場となった第二次大戦の前哨戦
スペイン内戦
1936年2月にスペインで行われた総選挙で、共産党をはじめとする左派政党の連合「人民戦線」が勝利して政権を獲得すると、これに反発した軍人や国家主義者(ナショナリスト)から成る右派勢力は政権転覆を画策し、同年7月に反乱軍として蜂起した。
首都マドリードをはじめ各地で政府軍と反乱軍の攻防が続くなか、この内戦に諸外国が介入し始める。まず、反乱軍の支援要請を受けたイタリアとドイツが戦車や航空機を含む部隊を派遣すると、対する政府軍はソ連からの軍事援助に頼った。これらの国は兵器だけでなく将兵も派遣し、さらに政府軍には世界各国からやって来た義勇兵も加わったため、スペイン内戦は様々な勢力、国の思惑が絡んだ大規模な戦争へと発展していく。
以後の戦争の過程で、陸では独伊の戦車とソ連の戦車が砲火を交え、空では独伊ソの戦闘機が空戦を繰り広げ、海では両軍の巡洋艦、駆逐艦による海戦が生起した。そして2年9か月におよぶ戦いの末、1939年3月に反乱軍が勝利して内戦は終結した。
本特集では、内戦の当時国を舞台にした独伊ソの代理戦争の様相を呈し、幾つもの新兵器や戦術の実験場となったことで「第二次大戦の前哨戦」ともいわれる、スペイン内戦について解説していく。
【特別企画×2】
■WWⅠドイツ飛行船司令になってみよう
■里帰りした九五式軽戦車&九五式中戦車、その開発と運用 -
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【電子版では、紙の雑誌と一部内容が異なる場合、掲載されないページや特別付録が含まれない場合がございます】第二次世界大戦前、ドイツ陸軍のマンシュタイン大佐(当時)らは、前線で歩兵を支援するための自走化・装甲化された砲兵部隊を提唱。このコンセプトに沿い、Ⅲ号戦車の車台上に、背の低い密閉された戦闘室を設け、7.5cm榴弾砲を搭載した「突撃砲」が開発され、西方侵攻作戦から実戦に投入された。
1941年6月に始まった独ソ戦で、ソ連軍の強力な戦車に遭遇したドイツ軍は、戦闘車両の対戦車火力の強化を模索。突撃砲にも長砲身7.5cm砲が搭載されるようになり、歩兵支援だけでなく対戦車戦闘にも投入されるようになる。また同時期には突撃砲の主砲をより大口径の10.5cm突撃榴弾砲としたタイプも登場している。その後、Ⅳ号戦車の車台を使用した突撃砲も登場し、Ⅲ号戦車ベースの従来の突撃砲はⅢ号突撃砲、Ⅳ号戦車ベースの突撃砲はⅣ号突撃砲と呼ばれるようになった。
また、1942年には市街戦で敵兵の籠る建造物を数発で吹き飛ばすため、Ⅲ号突撃砲をベースに、背の高い密閉戦闘室を設け、大威力の15cm重歩兵砲を搭載した突撃榴弾砲33が開発された。さらにその強化型として、Ⅳ号戦車の車台の上に重装甲の固定戦闘室と15cm重歩兵砲を搭載したⅣ号突撃戦車が開発され、1943年から実戦に投入されている。
第二次世界大戦において突撃砲と突撃戦車は大きな活躍を見せ、特にⅢ号突撃砲はドイツ軍装甲戦闘車輌の中で最多の1万輌強が生産され、連合軍の戦闘車輌を最も多く撃破した装甲戦闘車輌ともいわれる。
今回は地味ながら「歩兵の友」として大きな働きを果たした、これら突撃砲、突撃戦車について、様々な視点から考察していこう。 -
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1941年秋、ドーバー海峡上空に欧州では見慣れぬ空冷エンジンの戦闘機が現れ、イギリス空軍の新鋭戦闘機スピットファイアMk.Ⅴを圧倒する戦いぶりを見せた。これこそドイツの新鋭機フォッケウルフFw190であり、1945年の終戦に至るまで2万機以上が生産され、メッサーシュミットBf109と共にドイツ空軍戦闘機隊を支えて戦い抜くことになる、航空戦史上屈指の名機であった。本特集では、高い性能と優れた実用性を両立させ、“ヴュルガー(モズ)”と呼ばれて将兵たちに愛されたFw190シリーズを、メカニズム、開発の経緯、各生産型、戦術と戦法、詳細な戦闘記録、著名な撃墜王など多角的な視点から解説していく。また、南洋を駆けた異端の龍 空母「龍驤」を特集。特異なシルエットを持つ小型空母「龍驤」を、メカ、建造経緯、戦歴、運用、人物など、様々な面から解説していく。
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【電子版では、紙の雑誌と一部内容が異なる場合、掲載されないページや特別付録が含まれない場合がございます】1922年(大正11年)に締結されたワシントン海軍軍縮条約で、巡洋艦の基準排水量は最大1万トン、最大主砲口径は8インチ(20.3cm)と定められた。その枠内で(実際には排水量が超過していたが)建造されたのが、20cm連装砲5基、大威力の61cm三連装魚雷発射管4基を搭載した妙高型重巡洋艦4隻であった。そして居住性など妙高型の問題点を改善し、さらに戦闘力を高めた艦として建造されたのが「高雄」「愛宕」「鳥海」「摩耶」の高雄型4隻で、全て1932年(昭和7年)に竣工した。本特集では、日本海軍の巡洋艦を代表する存在として知られる高雄型4隻を、建造、改装、メカニズム、戦歴、運用、人物など、さまざまな面から解説していく。第二特集は、地中海に雄飛した三発の鷂(ハイタカ)“サヴォイア・マルケッティSM.79スパルヴィエロ”について、多角的に考察していく。
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【※電子版では、紙の雑誌と一部内容が異なる場合、掲載されないページや特別付録が含まれない場合がございます】ドイツ軍は東部戦線や北アフリカ戦線での熾烈な機甲戦で、装甲化・自走化された榴弾砲が必要と認識、1942年初頭からII号戦車の車台にオープントップ式に10.5cm軽榴弾砲を搭載した自走榴弾砲ヴェスペを、また42年中盤からはIII/IV号自走砲車台に15cm榴弾砲を搭載した自走榴弾砲フンメルの開発を開始した。43年に量産が開始されると、装甲師団の装甲砲兵連隊に配備され、43年7月のクルスク戦車戦で初陣し、終戦まで激戦を繰り広げた。第二特集では、排水量、水上機運用・搭載力、速力、兵装などが充実し、世界屈指の水上機母艦であった「瑞穂」と「日進」について、さまざまな面から紹介する。
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※電子版では、紙の雑誌と一部内容が異なる場合、掲載されないページや特別付録が含まれない場合がございます。
巻頭特集は海軍航空隊大戦後半の主力機の一つとして奮闘した彗星を、開発経緯、メカニズム、戦歴、人物、運用など多角的に解説する。また、ドイツ海軍唯一の重巡として激戦を繰り広げ、戦艦に準ずる威容と多彩な戦歴で高い人気を誇るヒッパー級について特集する。 -
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特集は最高齢の日本戦艦ながら、太平洋戦争を通じて大きな働きを見せた金剛型高速戦艦4隻について、計画、建造、改装、戦歴、メカニズム、人物など、様々な角度から説明する。第二特集は、英本土を守った鋼管羽布張りの颶風、ホーカーハリケーンを様々な視点から解説する。
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【巻頭特集】
牙を剥く不屈の貂と伏撃する剛角の犀
対戦車自走砲マーダーとナースホルン
ドイツ軍は1941年6月に「バルバロッサ」作戦を発動し、ソ連領内への進攻を開始したが、そこでT-34中戦車やKV重戦車という重装甲の戦車と遭遇。それらを正面から撃破できる7.5cmクラスの対戦車砲の自走化が検討されることになった。
そこでドイツ製の7.5cm対戦車砲PaK40や、ソ連から鹵獲したF22 76.2mm野砲を改造したPaK36(r)と各種車台を組み合わせた、小型の対戦車自走砲を数種類開発・生産。それら軽対戦車自走砲はマーダー(マルダーとも。イタチ科の肉食獣・貂(テン)の意)と命名され、1942年から実戦配備、東西の戦線で粘り強く戦った。フランス製車両のロレーヌ牽引車にPaK40を搭載したのがマーダーI、II号戦車の車台にPaK40やPaK36(r)を搭載したのがマーダーII、38(t)戦車の車台にPaK40やPaK36(r)を搭載したのがマーダーIIIと呼ばれる。
さらに自走榴弾砲フンメル用のIII/IV号自走砲車台に、超長砲身71口径8.8cm砲PaK43/1を搭載した最強の対戦車自走砲がホルニッセ(スズメバチの意)であり、1943年のクルスク戦車戦でデビュー。3,000mの遠距離からでもT-34の正面装甲を撃ち抜ける極めて強力な攻撃力を誇り、後にナースホルン(象に次ぐ巨獣である犀(サイ)の意)と改名された。
本特集では、貂のように小柄ながら7.5cm砲の牙で獰猛な戦いぶりを見せたマーダー各種と、犀の角のように長大な8.8cm砲で敵戦車を易々と貫いたナースホルンについて、開発経緯、メカニズム、各型式、部隊編制と戦術、戦闘記録などについて解説していく。
【第二特集】
虹の彼方を翔けた万能の「水上爆撃機」
水上偵察機「瑞雲」
日本海軍は戦前から二座水偵(複座の水上偵察機)に、偵察のみならず砲撃観測能力や空戦能力を付与していたが、愛知と中島が試作した十二試二座水偵(E12A/E12N)では、艦上爆撃機と同じ250kg爆弾を搭載して急降下爆撃を行える性能まで求められた。いずれも操縦・安定性が悪く不採用となったが、愛知航空機が担当したE12Aをベースに、安定性を確保するなどして再設計されたのが、九九式艦爆を超える高速を発揮し、250kg爆弾を用いて急降下爆撃が可能な、洗練されたフォルムの十四試二座水偵(E16A)であった。
E16Aは昭和18年(1943年)8月、水上偵察機「瑞雲」として制式採用されたが実戦化は遅れ、19年10月下旬から実戦投入される。当初は航空戦艦「伊勢」「日向」に搭載されて発進、敵艦に急降下爆撃を敢行する任務も想定されていた。しかし結局水上機基地のみからの運用となり、フィリピンや沖縄で米輸送船団への薄暮攻撃や米軍基地への夜間攻撃、魚雷艇狩りなどに従事し、ささやかながら確実な戦果を残している。
本特集では、浮舟の支柱に装備されたエアブレーキ、左右主翼の20mm機銃などユニークな装備を持つ、大戦末期の隠れた傑作機「瑞雲」を多角的に詳解していこう。 -
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