文学
谷川俊太郎~これまでの詩・これからの詩~
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「結婚式に招かれても、祝辞の代わりにお祝いの詩を読むことが多い。何か意見を求められても、詩の形で書くほうが言いたいことが言えると思う。どうも私は生まれつき詩人なのではないか、これは自惚れではなく自戒である。詩というものの、不人情につながりかねない「非人情」(『草枕』における漱石の言葉)に、私は苦しめられてもいるからだ。」
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「音楽は昔から私にとってなくてはならぬものだった。今も私は時に音楽に縋らずには生きていけないと思うことがある。・・・・・・ここに収めた作のほとんどは、前集『世間知ラズ』と平行して書いていたものである。音楽に憧れながら詩を書いてきた私には、詩に対する疑問と音楽に対する疑問が、そのまま自分という人間に対する疑問に結びついている。その点で本集と前集は兄弟分みたいなものだろうと思う。」
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「幼い読者を想定した連載の詩のスペースをもらって書きました。原本には佐野洋子さんの奔放な挿絵が付いています。」
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「若い頃から詩を疑いながら詩を書いてきましたが、この頃から詩が現実の生活、現実の人間関係を侵しかねない存在だと感じるようになってきて、それがしばしば詩の主題ともいうべきものになっています。」第1回萩原朔太郎賞受賞
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「『子どもたちの遺言』は、はじめ作者である私が子どもたちに向かって遺言を書くという発想だったのですが、私はむしろ死に近づきつつある大人よりも、まだ死からはるかに遠い子どもが大人に向かって遺言するほうが、この時代ではずっと切実ではないかと思って、発想を逆転させました。生まれたばかりの赤ん坊に遺言されるような危うい時代に私たちは生きている、そう感じているのは私だけでしょうか。」
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「「未生」「誕生」「未来」「墓」「後生」など、この詩集のコンセプトは、自分の愛している人との誕生前から死後までを全体としてあつかうということでした。現実には、佐野洋子さんとの生活に相当即した詩で成り立っているので、朗読すると今でも恥ずかしい。」
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「父母の死、恋愛、離婚、自身の老い、日常生活の上での体験が否応なしに私を変えてゆき、詩もそれと無縁ではあり得ないことをあらためて感じる。かつてヴァレリーは詩と散文の違いを舞踊と歩行という比喩で説明したが、踊るにも歩くにも人は手を使い、足を用いる。そして手足を動かすのは人の心である。詩と散文の源にある心身と、心身がからみあう人間関係のほうにようやく私も目が向くようになった。」
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「詩を書き始めてから、いつのまにか数十年たってしまいました。若いころは気楽に考えていた詩というものが、近ごろますます難しく思えてきました。詩を信じるためには、詩を疑うこともまた必要なのではないかと考えています。」
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「ぼくは、薬をもらうほどの鬱は経験していないけど、鬱的な気分っていうのは、相当経験はしているんです。ぼくのなかに若いころからある鬱的な気質が、たぶんこういうものを書かせたんだとは思います。だけど鬱っていうのはね、実生活の鬱というのと同時に、表現というものに対する、なんか鬱的な気分ってのがあるんですよ。詩を書いていくことに対するね。」
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「冒頭の「さようなら」は、なんでこういう詩が書けたのかわかんない詩です。まったく説明できない。つまり、自分の一番深いところから出てきているから、自分の理性では説明がつかないんです。だけどそうして自分の一番深いところから出てきたものが、詩としてはたぶん一番いい。」
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「『いちねんせい』では、抽象的、観念的じゃなくて、できるだけ子どもの現実に即した具体的な行動を書きたいと思っていました。・・・・・・ぼくの詩の源は、ことばにはないんですよ。言語っていうとどうしてもちょっと抽象化しがちなところがあるんだけれど、こういう詩が書けるのも、たぶん自分が毎日の暮らしのなかに、なんか詩の源を見ていたっていうことと関係あるんだと思います。」
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「この詩集は、巻頭にある詩がキーなんですよ。「えてして/どかんは/われたがる/あたまを/どこかへ おきわすれ//りっぱな りくつに/あくび する」これはアクロスティックという技法で、頭の字をつなげるとエドワード・リアっていうイギリスの詩人の名前になるんですよね。ぼくはそのエドワード・リアの詩を、マザーグースを訳していたころに初めて知って、すごく好きになったんです。彼はほんとにノンセンスな詩を書いている人なのね。そういうリアみたいな詩を書きたいと思って、この詩集に入れた詩を書きはじめました。」現代花椿賞受賞
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