この作品のレビュー
平均 4.3 (5件のレビュー)
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「青春は第二の誕生日である。友情と恋愛に対峙する「沈黙」のなかで、「秘めごと」として自らの精神を育てなければならない──。新鮮なアフォリズムに満ち、生きることへの熱情に貫かれた名随筆。解説・池内紀。」
投稿日:2024.03.30
このレビューはネタバレを含みます
こまやかな感受性をもった人は、ずばりと率直に言っても、必ず相手の気持ちの中に一度は自分を置いてみるものです。こんな表現をして相手はどう思うだろうか。またふいに口に出して、あとで自分ひとりで、あんなこ…とを言わなければよかったと身悶えすることもあります。またよく考えて、こまやかなつもりで語ったことが、相手に全然通じないこともある。とかく感受性のこまやかな人は、こうした点で一人角力となり、自分で必要以上に苦しむ。文学者とか文学を愛する人は、こうした意味で、感受性の犠牲者だと言ってもいいでしょう。人間が孤独になるということは、或る意味ではこの犠牲者になることだと言っても差支えありますまい。
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私はよく例に挙げるのですが、たとえばここに貧しい病める友人がいるとします。私は彼に対して何を為すべきでしょうか。私の彼に対して抱く愛は、どんな表現をとったら最もいいか、それは慰めの言葉、励ましの言葉を送ればいいと考えるのですが、しかし一方では、それが一体何になるかという疑問も生じます。現に貧しく病める友にとっては、そういう言葉は虚しく聞こえるかもしれません。逆に健康な私の優越を示す結果になるかもしれません。人に親切をつくすということは、大へんむずかしいことです。
あわれみとか同情の言葉が、時に空々しくひびくことがあります。私は宗教的な意味での慈善についても疑問を抱きます。慈善を施すことはむろん結構ですが、それで満足するのは相手ではなく自分自身だ。自分に或る満足感をもたらすために、慈善をこころみるとしたならばそれは偽善ではなかろうか。一つの自己装飾にならないだろうか。そして他方では貧しい人は、いつまでも貧しいままにおかれている。キリストは一切を棄てよと説いています。しかし多くの慈善家達は、自分が食うだけのものをちゃんと確保して、そのおのこりを施すのです。余りものを放出するのです。それだって悪いことではありませんが、それを「愛」によって飾るのは悪いことではないでしょうか。「善」と思いこむことはどうでしょうか。
こんなことを考えると、愛の表現ほど困難なものはないと気づきます。むろん冷淡に眺めているわけにはいかない。さりげなく、実に何でもない顔をして、隣人に親切をつくすということは、一種の芸術と言ってもいいほど困難だと気づく次第です。或るフランス人の哲人は「善を為す場合には、いつも詫びながらしなければならない」「善ほど他人を傷つけるものはないのだから」と言いました。愛の表現にもまたこうした気持が必要なのではないでしょうか。だからこまやかな感受性をもった人は、屡々ぶっきらぼうな表現をとることがあります。自分の愛を誇示しないために、むしろ隠すために、なげやりにみせるのです。それは愛の発想方法の根底とならなければならぬ「はにかみ」だと言ってもよいでしょう。ところがそれが通じないので、却って無愛想な不親切な人間だと誤解されることにもなる。太宰が人間の生活の苦しみ、不幸の源泉をここにみたのは、決して誇張ではない。それほど人と人との心は通じ難く、愛は歪められやすいのです。
経験のある人ならだれでも知っているだろう。たとえば読書サークルを例にとっても、ほんのちょっとしたことでも、議論をしだすと、たちまち混乱してしまう。あるいは、わけがわからなくなってしまう。思想問題とか、人生や文学に関係したことになると、話が微妙なので、手の施しようのないほど、もつれてしまう。私自身、座談会で議論してみて、いつも痛感するのは、自分たちの使っている言葉が、どんなにアイマイかということである。
白樺派以降、たとえば菊池寛、久米正雄、芥川龍之介以降になると、モラルの探求という点で極めて不分明になり、また複雑にもなったと言えよう。大正期からの急速に一段とすすんだ欧化、それに伴う思想的混乱は、文学をもまた異常な混沌状態に導いた。小説そのものの範囲には、元来限定はない。小説とはかくの如きものでなければならぬという厳格な定義は不可能なのだ。むしろ一人の作家が夫々(それぞれ)固有の小説論をもつと言った方がよい。各個人によって創造されたそこに新しい小説が存在し、小説論が起こるのである。明確な思想的意図をもって、一つのモラルを求めなければならぬという規則はないわけである。
しかし、人間のあらゆる状態を、それに即して描写するというリアリズム手法は、大正から昭和へかけて殆ど万能の如き観を呈しつつ、次第に類似現象をあらわしてきた、リアリズム手法の氾濫の時代となった。それは小説をある意味で新しくし、普及化し、技術の進歩をも伴ったのであるが、その反面に、リアリズムはその根本にあるべき激しい自己統制力を失った。自己統制力とは、即ち作家のモラルである。一定のモラルに束縛される必要はないが、しかし自発的な形で、各作家が固有のモラルを内に保有し、言わば小説の上に人生を再現するときの信念と言ったものを、次第に失って行ったのである。
次に理想的人間像の欠如について考えたい。明治以降の文学をみて、一つの作品として今日まで多くの感動を与えるものは少なくない。しかしその作品中の人物が、作品から抜け出して、あたかも生きている一つの人物であるかのように独立して我々の精神に影響を与えるといった例は少なかった。外国文学に例をとるなら、これは枚挙にいとまないであろう。ハムレット、ドン・キホーテ、ヴェルテル、レーヴィン、スタヴローギン等々、という風に各時代の各作家についてあげることが出来るのだが、日本文学ではこの例はない。言わば一時代を、或は人間を代表する典型の描写において貧しいのである。
根底にあるものはやはりモラルの欠如ではなかろうか。我々に極めて近い作家に例をとるならば、たとえば島木健作にはこの種の努力があった。彼の作風そのものが、すでにモラリッシュなもので、新しい時代の新しい人間の生き方を、終生描きつづけたのである。或る時期の人々には、彼の作品中の人物は独立して生々と働きかけたのである。むろん未完成に終ったが、これは何も島木流の人物とはかぎらない。背徳的な人物なら、それはそれとしてやはり一つの典型として生きてこなければならぬ筈である。
島木健作とは全く反対の作家として、たとえば坂口安吾を考えてみよう。彼の『堕落論』を、私はやはり一種のモラルの探求としてみる。それは従来の道徳に対する破壊であった。宗教とか道徳とかは、必ずそれ相応の仮面をでっちあげ易い。偽態をつねに伴うものだ。そうした偽善性、日本的パリサイ気質に対して、坂口の『堕落論』は一つの反逆である。さきにも述べたように、新しいモラルの為には必ずこうした破壊工作が必要なのである。人間の一切の仮面、偽態を破って、その転落の実相をみ、そこからはじめて各人の自由意志において、各人固有のモラルを発見せよという促しを『堕落論』は根底にもっている。
しかし彼の小説は、この『堕落論』を、一つの典型的人物にまで肉化し描き上げるところまでは行っていない。個々の作品で、その風貌に断片的にあらわれてはいるが、一つの強烈な人物像をうちたてる努力が少ないようだ。小説よりも『堕落論』の方が面白いのである。これは何も坂口のみにかぎらず、現代の作家のひとしくおちいっているところであり、意志とエネルギーの欠如、乃至はジャーナリズムの濫用に由る疲労を私はここに感じる。理想的人間像と私が言ったのは、つまりどんな意味ででも、その作家の固有の宿命から発した典型的な人物像のことで、現代というこの悲しむべき時代をあらわす人間の創造こそ、これからの作家の大野心であろうと思うのである。
モラルの探求は、終局的には、作家の場合、こうした典型の創造におちつくのである。リアリズムの頽廃が、かかる野心を作家から奪った感がふかい。あらゆる風俗、習性、心理を手当たり次第に描いて、ついに一人の人間らしい人間をもつくりあげえぬのは、根底において私が、今までのべたような意味でのモラルの探求が欠けているからである。続きを読む投稿日:2021.01.04
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