現代日本を読む―ノンフィクションの名作・問題作
武田徹(著)
/中公新書
作品情報
「非」フィクションとして出発した一方、ニュースのように事実を伝えるだけでもないノンフィクション。本書では、水俣病を世に知らしめた『苦海浄土』、ベストセラー『日本人とユダヤ人』に始まり、『テロルの決算』や『捏造の科学者』、大震災や核密約を扱った作品など、一九七〇年代から現在に至る名作・問題作を精選。小説とも報道とも異なる視点から同時代を活写した作品群を通して現代日本の姿を浮き彫りにする。
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この作品のレビュー
平均 3.7 (11件のレビュー)
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このレビューはネタバレを含みます
本書を手にした動機。ここ数年でノンフィクション作品の面白さを痛感している。「今更でごめん」と思いつつ。すると欲張りなもので、過去の名作にはぜひ目を通したい、現在進行形の様々な出来事を新刊や雑誌の連載を通して体感したいなどと思いが膨らむ。で、メディアで「ノンフィクション」なる語を見つけると、ついその記事に目を通してしまう。たまたま2021/1/16の日経新聞夕刊で本書が紹介され、それを機にいつか読もうと目星を付けていたところ、図書館にあったので思わず借りて読んでしまった。
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しかし、このタイトル、ミスリードかなと。事実を重んじるノンフィクション研究者にしては、いかがなものかと思う(笑)。『現代日本を読む』を真に受ければ、時代は「現代」、場所は「日本」。「読む」はあくまで比喩であり、例えば2000年以降の20年間、または平成の31年間における日本社会の「なにかしらの変化」を取り上げ、眼光鋭き著者がそれを素材に、未知・未見の課題や問題点をばっさばっさと読み解くことで、ついに読者が「目から鱗が落ちたとは、まさにこのこと!」と叫びたくなるような書物を想像してしまう。残念ながらそうではないが。。。
副題に『ノンフィクションの名作・問題作』とある。「それ、タイトルの『現代日本を読む』と何の関係もないやん」と、ひとりでツッコんでしまった。邪推するなら、当初、この副題こそがタイトルだったと考えられる。しかし、これでは地味で訴求力不足を感じたのだろう。さらに、「”問題作”って、どれやねん!」というどクレームも来そうだ。なのでそれをタイトルとしては採用せず、副題に落ち着かせながら、「えいや!」とインパクトを狙って本タイトルに落ち着いたのだろう。前著の『日本ノンフィクション史』(2017年)に対し、「個別の作品にもっと焦点を当ててみれば?」といった反応があったらしい。それをきっかけに中央公論のWEB上での連載記事が始まり、それをまとめたのが本書である。この邪推は意外に、当たらずも遠からずではないかと思う。
それはさておき、内容は1970年に始まる「大宅壮一ノンフィクション賞」(以下、大宅賞)の受賞作を中心に(受賞作オンリーではない)、その変遷を辿りつつ各作品の内容を分析し、さらに作品を取り巻く状況や背景をも浮かび上がらせつつ、ノンフィクションというジャンルが、いかなる表現を生み出してきたかを明らかにするものだ。9章で構成され28篇のノンフィクション作品が取り上げられている。
ところでノン・フィクション作品は、フィクションたる小説と事実記録たるジャーナルの間に位置する文章表現のジャンルである。ではノンフィクション作品に関して、考察を迫られる論点は、どのようなものか。本書の9つの章を通読し、それらの問題意識を整理していくと、3つのキーワード、「作者」、「事実」、「表現」が浮かび上がる。ある「作者」が、特定の「事実」に焦点を当てて取材をし、それを何かしらの「表現」に落とし込むのが、ノンフィクション作品の成り立ちであることを踏まえれば、それらの論点になにかしらの課題や問題を見て取るのはごく自然なものといえよう。具体的な問い掛けは次のようなものだ。
①誰が作者なのか
作者が何者か、とりわけ作者の属性が作品の内容といかなる関係を持つのか。もしくは、全く関係のないものか。例えば作者が自称ユダヤ人、または外国で生活する日本人女性であったとする。その主題が現代の社会状況や事件、出来事に関したものである場合、例えば女性ならではの視点と感性を駆使することで、男性にとっては不可視であった実態に迫ることが出来るなら、”女性であること”は作品にとって一つの利点となろう。過去にはそのような観点で選ばれた大宅賞の受賞作もあった。しかし著者は1991年以降、ジェンダーに拘らず普遍的な視点で社会と現実に斬りこむ叙述が中心になってきたと見る。
また作者の国籍などがメディアで論争になった過去もあったが、結局は不問に付された。文章が面白く知的な刺激があれば、そんなことは些末なことだという、ある意味真っ当な判断に落ち着いたわけだ。ちなみに論理学では、「発言者の権威は発言内容の真偽には全く関係がない」という原則がある。「権威に訴える論証の誤謬」と呼ばれるものだが、実際の世の中では、それが当てはまらないことの方が多い。皮肉なものである。
②作者は事実の真相に迫れるだろうか/読者は噂と真相が区別できるのだろうか
作者がどのような出来事や事件を対象にするか、それは全くの自由である。問題は、作者がその当事者でないとき、事の真相を確実に知る方法がないという不可知性をどう考えるかである。
たとえば最先端の科学での発見(=STAP細胞の有無)や密室での政治的な交渉の存在(日米の沖縄返還における核の密約)といったものは、その現場に深く関わった者しか分からないこと、知らないことが多々でてくる。作者が真相を暴くために警察のような強制力を行使できるわけではないし、たとえそれを手にしても真実が明らかになる保証はどこにもない。冤罪がその好例である。
つまりノンフィクションが描く事実の信憑性には自ずと限界があるわけだ。賢明な読者としては、書かれた内容を妄信せず、将来には新証言や新資料などでその白黒がひっくり返るかもしれないというぐらいの鷹揚な気持ちで、それを読みこなす必要があろう。ただ関係者がみな揃って口をつぐむ、まさにそういった出来事や事件こそが、その真相究明を強く求められたりするのも、これまた皮肉なものである。いずれにせよ後日の検証に耐えうるような「開かれたノンフィクション」が求められるのだ。
③事実はどのように表現されるのか
ノンフィクションが既存の事実に依拠する点は疑いようがない。出発点は特定の事実、それもひと連なりの複数の事実であろう。ノンフィクションを書くという作業は、多くの登場人物によって織りなされる演劇を見て、それを再演する脚本を書くようなものだ。その時、どのような表現方法や表現手段を使うか。それによって、受け手がどう感じるのか。いくつかの論点が生じるだろう。
まず小説のような想像的な表現が混じることを、どう評価するか。著者によると、ノンフィクションは「物語るジャーナリズム」である。事実を取材し、それに基づいて始終を伴った一連のシーンが描かれる。しかし場合によっては、実際には語られていないことを想像して書く、取材した複数の声を一人の人物に帰して表現する、など小説的な技法が使われることがある。これを邪道として一切、拒否すべきなのか。もしくは現実のリアリティを体感する上での許容された手法とみなすのか。突っ込んでいうと、書かれた内容は漏れなく一対一で事実に対応するといった実証主義的なルールを貫徹すべきなのか否かという問題である。著者は、この点に関し、事実の記述を重視しつつも、それを超える表現方法を必要な範囲で認めるという現実的な姿勢をとる。もちろん、それは評価・価値観の問題であり、各人各様に捉えれば良い問題ともいえる。こうあるべきという規範的な問題ではなかろう。
そもそも読者は文章という一連の記号に接するしかなく、その記号が現実を指すのか、虚構を表しているのかを適切に見分ける術はない。まずは信じるしかないのだ。TVや映画で「この物語はフィクションです」という念押しの表記が添えられるのは、逆に「信じないでね」との警告である。読み手からすれば、小説=フィクションといえど、登場人物が実世界には実在しないだけで、その物語自体は過去に実在し得た、もしくは将来に実現し得るというリアリティを感じるものだ。だからこそ書物によって笑い、涙することが出来るのである。そのときフィクションとノンフィクションにおいて描かれたものの実在性に、異常にこだわる必要はないのだろう。
次に、作者がその事実の当事者である場合の表現手段である。特に映像(写真、ビデオ)が問題になる。写真は写ったモノが「かつて、そこに、あった」という一瞬の事実を生々しく伝えられる武器である。1981年創刊の『Focus』といった写真週刊誌が爆発的なブームを生んだのは、写真による事実の圧倒的な存在感であろう。まさに百聞は一見に如かずである。この臨場感は事実の信憑性を重んじるノンフィクションにとっては心強い味方である。著者は、写真と文章の2段構えで一世を風靡した藤原新也の才能を称えつつ、彼の新作への期待を呟く。
本書はノンフィクションをぎちぎちの枠に収めて定義しようとはしない。「物語るジャーナリズム」という折衷的な定義を与えて、その虚構性と真実性の間に揺れ動くところに、ある可能性を賭けているように思える。例えばアカデミックジャーナリズムという世界を夢見たりするのも、その可能性の一つだろう。実際のノンフィクション作品を読み進めながら、ふとそのジャンルの足元が揺らいだときに、たまに参照してみるのが良い本書である。投稿日:2021.03.14
事実をそのまま伝えるニュースや創作である小説とノンフィクションとではどんな違いがあるのか。ノンフィクションの立ち位置を、数々の作品とともに探る本。
「大宅壮一ノンフィクション賞」を受賞した作品を紹介…しながら、各作品の背景、問題となったことなどが紹介される。中には「コピペではないか」という疑問がついたり、創作と紙一重だったり、問題ありとされながらも受賞した作品も。
震災での出来事をベースに書かれたノンフィクションでは、被写体となる少女の心の変遷なども描かれたり、遺体と対面した時の描写など、引用元の是非はあるにせよ、リアルな心情が伝わってくるのはノンフィクションならではだ。
以前読んだことがある小保方晴子氏の「あの日」も紹介されていた。完全に著者の主観で書かれたものであり、相対する人の主観とはだいぶ違いはあれど、これも「ノンフィクション」には違いなかった。続きを読む投稿日:2022.06.26
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