人はどこまで合理的か 上
スティーブン・ピンカー(著)
,橘明美(翻訳)
/草思社
作品情報
陰謀論やフェイクニュースを信じ、党派的な議論や認知バイアスに陥って、結論を誤る原因とは?
21世紀に入り、人類はこれまでにない知的な高みへと到達した。
わずか1年足らずで新型コロナウイルスのワクチンを開発できたことも、その成果のひとつだ。
その一方で、フェイクニュースや陰謀論の蔓延、党派的な議論の横行を多くの人が嘆くようになっている。
人間はこんなに賢いのにもかかわらず、なぜこんなに愚かなのか?
じつは、人の非合理性には、ある種の理由やパターンがある。
フェイクニュースや陰謀論、党派的な議論、将来への蓄えをしないこと、
国同士が凄惨な消耗戦に陥ることには、理由がある。
損を取り返そうと無茶な賭けをしたり、わずかな損のリスクを過大評価して
有利な取引を辞退したりするのには、パターンがある。
理由やパターンがあるなら、これらの非合理には、対策や介入が可能なはずだ。
理性の力で間違いを減らし、人生と世界を豊かにするには、どうすればよいか?
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商品情報
- シリーズ
- 人はどこまで合理的か
- 著者
- スティーブン・ピンカー, 橘明美
- 出版社
- 草思社
- 書籍発売日
- 2022.07.12
- Reader Store発売日
- 2022.07.12
- ファイルサイズ
- 5MB
- シリーズ情報
- 全2巻
以下の製品には非対応です
この作品のレビュー
平均 3.8 (12件のレビュー)
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ときには推論を確率に任せてみては
最も面白いのはやはり、「モンティ・ホール」問題。
閉じられたドアが3つ、あなたの前に並んでいる。
1つのドアの後ろには特別賞の高級車が、それ以外のドアには残念賞のヤギが隠されている。
あなた…はドアを1つを選ぶ。
開ければ自分のものだ。
ここで司会者が、残りの2つのドアのうち、1つを開けてヤギを見せる。
そして、最初にあなたが選んだドアを変えてもよいと言う。
さぁ、あなたは選び直しますか?
自分もそうだが、他の多くの人々が選び直しをせず、間違ってしまう。
なぜ私たちの直観は誤った結論に辿り着いてしまうのか?
脳はそもそも、確率の問題を得意としていない。
確率の問題を苦手とする一方で、因果関係の問題は得意としている。
我々は幼いときから、相関関係の中に因果関係を見つけることに慣れている。
後を走る車が、自分と同じように角を曲がっていれば、後をつけられているか、目的地が同じと思い込む。
実はまったくの偶然なのに。
私たちの認知機能には癖があり、それを利用され騙される。
目の錯覚や奇術と同じレベル。
私たちの脳は、原因のない相関関係をうまく理解できるようにはできていない。
この場合、「出場者のドア選択」と「新車の位置」の間には直接的な因果関係はない。
そのため、両者に確率的な関連があることをまったく不可解なことに感じてしまう。
残っているドアは2つだけ。
最初のドアは完全にランダムに選択しているのだから、車がドアのうしろに隠れている確率は、どちらを選ぼうが半々で変わりはないはず。
だから最初に選んだドアを変えようとしない。
司会者に騙されているという疑念もあるけど、脳が勝算は五分五分だと告げている。
これは二者択一の問題で、確率は五分五分で等しいと、なぜ考えてしまうのか?
一方にはヤギが隠され、もう一方には車が隠されている。
勝算は五分五分のはずじゃないか、と。
しかしそうではない。
なぜなら司会者は、あなたの選んだドアを条件にして行動するからだ。
それと司会者は、あらかじめ車が置かれていないとわかっているドアを開ける。
「司会者のドア選択」に対して、「出場者のドア選択」と「新車の位置」は影響を与えている。
司会者が開けることができるのは、出場者が選択したドアでもなければ、新車が置かれたドアでもないものだ。
司会者が車の隠されているドアを開けることは、絶対にない。
ある事象がすでに起こったという条件のもとで、別の事象が起こるような「条件付き確率」は、私たちの直感に反している。
なぜ出場者は、ドア1からドア2に選択を変えることで、車が手に入る確率が3分の1から3分の2に上がるのか?
どうしても納得がいかなければ、司会者の視点に立って考えてみればわかりやすい。
重要なのは、司会者は決してドア1を開けられないということだ。
出場者がすでにドア1を選んでしまっているからだ。
だが、司会者はドア3ではなく2を開くこともできたはずだ。
にもかかわらず、彼がドア2ではなく3を開いたという事実は、ドア3を開くしかなかったからだ。
彼がドア3を開けば、開く前とは違い、ドア2の後ろに新車が置かれている可能性は高くならないか?
情報をどのようにして得たかは、情報そのものと同じくらい重要で、データ(司会者がどのドアを開けたか)だけでなく、そのデータが生成された過程、つまりゲームのルールを考慮することはとりわけ重要だ。
当然、ゲームのルールを変更すれば、結論も変わる。
ピンカーは指摘しなかったが、「司会者のドア選択」がランダムであった場合には、ドアの選択を変えるメリットは全くなくなる。
司会者が、車が隠されていようがいまいがお構いなしにドアを開けるとしたら、ルールは変わってくる。
それと司会者は毎回、選び直しを勧めるのか、というのも重要なポイント。
常に選び直す機会を与えるのか?
出場者の選んだドアに車が隠れている時のみ、司会者は選び直しを勧めるのか?
それによっても条件も異なる。
ピンカーは、人間が愚かなのではない、推論の癖によって非合理的になっているだけだと語る。
頭の中にあるのは、確率ではなく因果関係。
確率を傾向と混同しやすいというのも認知の弱点。
確率は、物理的な傾向性だけではなく、物理的な実体のない知識やヒントによっても変わりうる。
この場合、物理的傾向とは「車がすでにドアの1つのうしろに隠されていて動かせない」という事実で、知識とは「司会者があらかじめ新車が置かれていないとわかっているドアを開ける」という提供情報のこと。
続きを読む投稿日:2023.05.28
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【感想】
明らかな間違いであるのにもかかわらず、その選択をしてしまう人がいる。支離滅裂な陰謀論や根拠が曖昧な論説を信じ、期待値がマイナスのギャンブルにお金を賭ける……。人間は理性的な存在であるのにもか…かわらず、なぜ合理的な判断を下せないケースが存在するのか?
そうした考えから、人間の行動の妥当性を行動経済学の観点から探るのが本書、『人はどこまで合理的か』である。本書は上下巻に分かれており、上巻は「人間はどのような場合に非合理になるか」や「合理的な行動の定義とはなにか」といった土台の部分を、下巻は「なぜ人間は非合理な行動をとってしまうのか」といった部分を中心に論じていく。
人間の認知が不正確であることを示した面白い例が、「モンティ・ホール問題」だ。これはあるテレビ番組で実際に行われたクイズがもとになっている。3つの扉のうちの1つに車が隠されており、挑戦者が1つの扉を選ぶ。その後、どの扉が当たりかを知っている司会者が、残り2つの扉のうち「ハズレの扉」を開き、「こちらの扉がハズレですよ」と教える。挑戦者はそれを見た後に扉を変更するべきか、という問題だ。
正解は「扉を変更するべき」である。変更した場合は当たりの確率が3分の1から3分の2に上昇する。しかし、コラムニストの女性が投稿した「変更すべきである」という答えに対し、読者から「彼女の解答は間違っている」と、1万通近い投書が殺到した。投書の中には数学の博士号保持者のものも含まれていたという。
この問題は、人間の認知の歪みを教えてくれる。1万人もの人々が何故間違えたのかといえば、「司会者の行動によって確率は変わらない」と考えたからだ。選択肢を変えようが変えまいが、「当たりの扉」そのものは変更されていない。そのため司会者がわざとハズレの扉を開く、という不可解な行動を取っても、それが確率に影響を及ぼさないと考えている。
人は判断を行う場面においては、利用できるさまざまな情報を比較検討し、その判断が妥当かどうかを推測している。ここで結果を左右しうる情報が新たに出てくれば、当然その情報を取り入れることによって結果の確率は変わるし、積極的に取り入れるべきだ。しかし実際には、最初に下した判断に固執し、選択を変えようとしない。それは情報を過度に抽象化したり、必要とされるべき情報を間違って捨象してしまっているからだ。人間は合理化のために情報を無意識のうちに簡略化しているのだが、その過程で、合理的とはいえない判断を下してしまっているのだ。
下巻のまとめ↓
https://booklog.jp/users/suibyoalche/archives/1/4794225903
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【まとめ】
1 人間はどのぐらい合理的か
論理は人類が獲得した最高の知識の一つであり、これを使えば、あまりなじみのない抽象的な主題でも(法律や科学など)推論を働かせることができるし、シリコンに実装すれば、自ら動くことのない物質を思考機械に変えることもできる。論理には汎用性があり、内容に左右されない。論理は「PならばQ」は「『〈〈P〉かつ〈Qでない〉〉ではない』と等価である」といった形式であり、PとQに何を入れても成立する。これに対して、論理の手ほどきを受けていない人間の脳が起動するツールは、汎用性がなく、内容に左右される。問題の内容(問題に固有のもの)とルール(ツールを動かすためのもの)を一つにして処理するように特化したツールである。そこからルールだけを切り出して、別の問題や抽象的な問題、無意味に見えるような問題に応用することは、人間には難しい。
だからこそ人間は、教育その他の合理性強化のための制度を作り上げてきた。そうした制度は、わたしたちが生まれもち、ともに育ってきた生態学的合理性(いわゆる常識や生きるための知恵といったもの)を、より視野の広い、より強力な推論ツール(過去数千年にわたって優れた思想家たちが磨きをかけてきたもの)で補強する役割を担っている。
モンティ・ホール問題(3つの扉のうちの1つに車が隠されており、挑戦者が1つの扉を選んだ後司会者が残り2つのうちハズレの扉を開ける。それを見てから挑戦者は選択を変えるべきか、という問題)は、人間の認知の弱点を教えてくれる。すなわち、確率を傾向と混同するという弱点のことである。傾向とは、ある対象の状態や動きが何らかの偏りを見せることをいう。傾向についての直感は、世界に関するわたしたちのメンタルモデルの大きな部分を占めている。たとえば人は、「曲げられた枝は跳ね返りやすい」といった感覚を持ちうる。それは因果律と突き合わせることによって推測できるものだ。
だが確率はこれとは異なり、17世紀に発明された概念ツールである。「確率」には複数の解釈があるが、リスクを伴う判断にとって重要なのは「未知の事象に対するあなたの確信の度合い」だろう。だからある結果へのわたしたちの確信を変えるような証拠が一つでも出てきたら、その結果の確率は変わるし、それに基づいた合理的な行動も変わる。
確率は物理的傾向性だけではなく、物理的実体のない「知識」にも依存しているということが、人々がモンティ・ホール問題でつまずく理由となっている。彼らはこういう場合、車はすでにドアの1つのうしろに置かれていて動かせないという傾向を感覚としてつかんでいて、司会者がドアの1つを開けてもその傾向を変えられたはずはないと知っている。しかしモンティ・ホール問題はすべてを見ている司会者が新情報を提示するのだから、当然確率も変わる。
わたしたちの認知システムがどれほど優れていても、現代社会においては、どういうときにそれを信用せず、推論を道具に任せるべきかを心得ていなければならない。ここでいう道具とは、論理のツール、確率、批判的思考など、理性の力を自然から与えられた枠を超えて広げてくれるもののことである。
2 合理性と非合理性は裏表の関係
美や愛や思いやりは文字どおりの意味で合理的とはいえないが、かといって非合理そのものでもないということを明らかにしようと思う。わたしたちは感情や道徳にも理性を適用することができるし、さらには高次の合理性というものもあって、それは非合理であることが合理的になるのはどういうときかを教えてくれる。
理性は目的を達成するための手段であって、その目的が何であるべきかは教えてくれないし、それを追求するべきかどうかさえ教えてくれない。そして「情念」とは、ここではそうした目的を生み出す源を意味している。すなわち好み、欲求、動機、感情、そしてわたしたちにもともと備わっている感覚などで、これらがなければ理性は目的をもてず、目的達成手段を考えることもできない。合理性は何かを信じることであり、情念は何かを実現したいと望むことである、ということだ。
しかしながら、理性が感情のパートナーではなく敵対者という印象がどこかから生じていることは確かで、単なる論理的な誤りではないはずだ。わたしたちは怒りっぽい人とは距離をとろうとするし、人にどうか頭を冷やしてくれと頼むし、自分の向こう見ずな行動、感情の爆発、軽率な振る舞いを後悔する。これはどういうことなのだろうか?
実は、情念と理性を両立させるのは難しいことではない。次の3点が理由だ。
①一人の人間の複数の目的のなかには、互いに両立しないものがありうる。
→家庭を作り子供をもうけるという究極目的を達成するために、ワンナイト(至近目的)の時には避妊する。
②ある時点での目的は、他の時点での目的と矛盾することがありうる。
→老後の生活のために今のお金を投資に回す。もしくは、病気や事故で60歳まで生きられるか分からないから、今の楽しみを優先する。
③誰かの目的は、別の誰かの目的と相いれないことがありうる。
これらの葛藤が生じたら、情念に従うべきだ云々では解決しない。嫌でも何かをあきらめなければならなくなり、むしろ合理性の出番となる。そしてわたしたちは①と②に適用される理性のことを「分別」と呼び、③に適用される理性のことを「道徳」と呼んでいる。
ときに、非合理でいることが合理的である場合がある。例えば脅しだ。攻撃するぞ、ストライキをするぞ、罰するぞといった脅しの問題点は、脅しの内容を容易には実行できない場合があり、相手からはったりだと思われかねないことにある。そこで、自分は制御不能だと示す。相手にやり返す(要求には応じられないと突っぱねる)機会を与えないためには、本当に言ったとおりのことを実行すると信じさせなければならず、そのためにはコントロールの余地がないと示す必要がある。これは合理性を放棄することで、逆説的に自分の提案に合理性を持たせる一例だ。
合理性がかっこ悪いとされていても、わたしたちは理性に従うべきであり、また現に、さまざまな非自明の形で従っている。なぜ理性に従うべきなのかと問うだけで、従うべきだと認めていることになる。目的や欲望を追求することは、理性の逆どころか、突き詰めればわたしたちが理性をもつ理由にほかならない。わたしたちは目的を果たすために理性を使い、またすべてを同時には果たせないので、優先順位をつけるためにも理性を使っている。
未来を過度に、あるいは近視眼的に割引いていないかぎりは、不確実な世界に身を置く死すべき存在にとって、今この瞬間の欲望に身を委ねることは合理的である。その逆に、過度に、あるいは近視眼的に割引いてしまうようなら、今の合理的なあなたが賢く立ち回り、未来のあまり合理的でないあなたに選択させないようにすればいいわけだ。これもまた無知、無能、衝動的態度、タブーなどに見られた逆説的な合理性の一例である。
道徳は理性と別のところにあるのではない。利己的で社会的な種に属するわたしたちが、自分たちのあいだの相反する欲求や重なり合う欲求に公平に対処しようとするときに、理性から生まれ出てくるのが道徳である。
3 論理は万能でない
論理が決して世界を支配できない第1の理由は、論理的命題と経験的命題が根本的に異なることにある。ヒュームはこの2つを「観念の関係」と「事実」と呼び、哲学者たちは分析的と総合的と呼んで区分している。「すべての独身男性は結婚していない」が真かどうかを判断するには、ただ言葉の意味を確認して(「独身男性」を「〈男性〉かつ〈成人〉かつ〈結婚していない〉」に置き換えて)、真理表を見ればいい。しかし、「すべてのハクチョウは白い」が真かどうかを判断するには、椅子に座って考えているだけではだめで、立ち上がって見にいかなければならない。ニュージーランドに行くと黒いハクチョウがいるのでこの命題は偽だとわかる。頭をひねるだけでは証明できないことが、世の中には溢れているのだ。
第2の理由は、形式論理そのものの性質にある。形式論理は「形式」なので、推論者の前に並べられた記号とその配列以外には目を向けない。命題の内容――記号の意味や、判断に関係するかもしれない文脈や予備知識――を見ていない。要するに、厳密な意味での論理的推論では、知っていることをすべて忘れてしまうことが必要になる。しかし、ある命題についてわれわれは「条件文の前提が真である」という前提に立たなければ推論を行えない(独身男性の定義を「〈男性〉かつ〈成人〉かつ〈結婚していない〉」ではない、と疑ってしまえば、推論そのものが進まない)。
自然界に生きる私たちは、ハクチョウや男性といった曖昧な概念を暗黙のうちに定義し推論に使っている。そのため、形式体系が求める完璧な論理的合理性の推論とはなじまない。
第3の理由は、日常の概念について何でも必要十分条件で定義できないからだ。「ゲーム」と呼ばれるものすべてに当てはまる条件を見つけるのは難しい。しかし、ゲームの中から2つを取り上げれば、そこには必ずなにか共通点がある。それは論理で簡単に規定できる「古典的な」カテゴリーではなく、むしろ家族的類似性――「近しい」カテゴリーである。そして概念が必要十分条件ではなく家族的類似性によって定義されるとなると、命題に真理値(真か偽か)を与えることさえできなくなる。「サッカーはスポーツである」は誰もが真だと認めるが、「格闘ゲームはスポーツである」は真というより、『真とみなせる』あたりではないかと感じる人が多いと思う。「それは真である」とはいえなくなり、それがどの程度、型にはまるかによって(たとえばある遊びがスポーツに典型的な特徴のうちのいくつを持っているかによって)、「それは他のものよりは真である」といったいい方をするしかなくなる。
4 理性の道具:ベイズ推論
べイズの法則ないしベイズの定理とは、「証拠の強さ」を扱う確率の法則で、新しい事実を知ったり、新しい証拠を観測したときに、どの程度確率を修正するか(考えを変えるか)を示す法則である。
ベイズ推論の範例としてまず挙げておきたいのは医療診断である。ある地域の女性人口(母集団)の乳癌有病率が1パーセントだとする。そしてある乳癌検査の感度(真陽性率)が90パーセント、偽陽性率は9パーセントだとする。ある女性が検査で陽性になった。この女性が乳癌である可能性はどれくらいだろうか?
多くの人々は60パーセント~80パーセントと非常に高い確率を答える。そうした直感とは異なり、答えは9パーセントだ。
ベイズの法則を式にするとこうだ。
事後確率=事前確率×データの尤度/周辺確率
文章にすると、「証拠を見たあとの仮説に対する信頼度は、その仮説に対する事前の信頼度に、仮説が真である場合にその証拠が得られる可能性をかけ、それを証拠が全体のなかでどの程度一般的かで割ったものである」
乳がんの例では、母集団の有病率=事前確率が0.01、真陽性率は罹患している人がその検査で陽性になる確率なので、データの尤度が0.9。母集団全体での検査の陽性率は、罹患していて陽性になる人の割合(1パーセント×90パーセントで0.009)+罹患していなくて陽性になる人の割合(99パーセントの9パーセントで、0.0891)を足して0.0981となり、約0.1となる。これらを代入すると答えは0.09=9パーセントだ。
私たちがベイズ推定を失敗する理由は、基準率(通常はこれが最適の事前確率となる)を無視することだ。検査が陽性だったこと(尤度)に気を取られ、母集団の中でその疾病がどの程度見られるか(事前確率)を忘れてしまう。世の中に乳がんの人とただ身体の調子が悪い人のどちらが多いかを考えてみてほしい。そして、陽性率に目を向ける前に実際にがんに罹患している可能性(の低さ)に目を向けてみてほしい。どこにでもいるわけではない患者を、完璧とはいいがたい手法で洗い出そうとすると、誤認が頻発するのだ。
ヒュームは「奇跡」の存在を、ベイズ理論的に次のように否定している。
「奇跡を立証するための証言は、それが偽である可能性が立証しようとしている事実以上に奇跡的だといえるようなものでないかぎり、不十分である」
これは基準率のあり方を的確に捉えている。つまり、「奇跡が存在する=わたしたちの宇宙の法則が間違っている尤度」と、「奇跡が存在しない=誰かが勘違いした証言をしている尤度」は、通常どちらが高いかということだ。もちろん、後者である。そのため、事後確率を高くしたければ、とんでもないほど奇跡的な証拠(事前確率)が必要になってくる。
しかし、基準率無視はときに積極的に行われることもある。例えばリバティ・ミューチュアル社は、自動車事故を起こす確率が高い10代の少年に基準率を設定し、高い保険料を設定している。しかし、人種、性別といった要素に対しては、公平性と道徳性という観点から計算基準を適用してはならないことは、きちんと法律で定められている。続きを読む投稿日:2024.04.26
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