他人を見下す若者たち
速水敏彦(著)
/講談社現代新書
作品情報
現代人は自分の体面を保つために、周囲の見知らぬ他者の能力や実力を、いとも簡単に否定する。世間の連中はつまらない奴らだ、とるに足らぬ奴らだという感覚を、いつのまにか自分の身に染み込ませているように思われる。……このように若者を中心として、現代人の多くが他者を否定したり軽視することで、無意識的に自分の価値や能力を保持したり、高めようとしている――<本文より>
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商品情報
- シリーズ
- 他人を見下す若者たち
- 著者
- 速水敏彦
- 出版社
- 講談社
- 掲載誌・レーベル
- 講談社現代新書
- 書籍発売日
- 2006.02.20
- Reader Store発売日
- 2016.09.23
- ファイルサイズ
- 4.5MB
- ページ数
- 224ページ
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この作品のレビュー
平均 2.7 (183件のレビュー)
-
社会学などでもよく扱われるテーマですが、若者に焦点を当てた本書は客観的な分析がなされて、若者の問題点を引き出しています。投稿日:2023.02.25
他人を見下す若者たち 速水敏彦
はじめに
今、人と人との親密なつながりが失われつつある現実の中で、誰もが体面を保ち、個を
主張して生きていくことが求められている。だが、少子化の影響で小さい頃から…大切に育てられ、苦労をせず、楽しいこと、面白いことに浸ってきた若者にとって、見知らぬ社会
を一人だけで歩いていくことは恐怖でもある。欲しいものを何でも買い与えられ、有りあ
まる時間を自分のためだけに使ってきた人たちが、厳しい現実の競争社会の中でまともに
生きていくことは難しい課題である。
しかし、実は彼らはそれを乗り越える術をいつのまにか修得してきたようにも見える。
それは、おそらく本人自身もあまり気づいていない無意識的なもので、個人主義文化を担った人たち、さらには、ITメディアの影響を受けた人たちがいつのまにか身につけた仮想的有能感とでも呼ぶべきものである。これは先ほど述べた他者軽視をする行動や認知に
伴って、瞬時に本人が感じる「自分は他人に比べてエライ、有能だ」という習慣的な感覚である。現代人は自分の体面を保つために、周囲の見知らぬ他者の能力や実力を、いとも簡単に否定する。世間の連中はつまらない奴らだ、とるに足らぬ奴らだという感覚をいつのまにか自分の身に染み込ませているように思われる。そのような他者軽視をすることで、彼らは自分への肯定感を獲得することが可能になる。一時的にせよ、自分に対する誇りを味わうことができる。
「仮想的有能感は、他者をどう見るかという一つの他者評価を基盤にしたものである。他者の能力を低く見るほど自分の能力の自己評価を吊り上げることになる。しかし、これは自分の過去経験にはまったく左右されない思い込みの自己評価と言える。他方、自分の過
去経験に規定された自己評価の概念として自尊感情がある。自尊感情は自分への満足感や自信を意味するものである。
第1章 感情が変わった
■頻繁に「怒り」を感じ,表出する子どもたち
「今の子はすぐに起こる」という見方が,多くの先生から出された.しかし,それは全ての子どもがすぐに怒るというわけではなく,極端に怒りやすい子どもの数が多くなったということのようである.また,「むかつく」「最悪だ」というような言葉で,怒りの心情をしばしば表現するという.(p18)
その背景として,今の子どもの「常に自己中心でありたい」「子どもが王様のようになってきた」「気持ちが不安定」「我慢ができない」「セルフコントロールができない」「忍耐力が足りない」などの特質があるという(p19)
■「悲しみ」にくく,「喜び」にくい子どもたち
一方,同じ負の感情の中でも,「悲しみ」に関しては,今の子どもはあまり抱かないと見ている先生が比較的多いことがわかる.多くは物質的喪失でなく,心理的喪失あるいは目標に達成できなかったこと関わるものであるが,達成すべきことへの関与が弱すぎたり十分な努力をしていなかったため,感情反応が少ないのかもしれない.(p20)
一方,悲しみの感情を表出するにしろ,しないにしろ,今の子どもは集団規範をずいぶん気にしてその判断をしているとの感想も見られた.(p21)
■感じない子どもたち
袰岩奈々氏によると,最近の子どもたちは不快感自体を体験することが少なくなってきているのではないか,という.そしてその理由として,子どもたちが欲求不満でぐずっている時に親がその場を早く乗り切りたくて,お金で買えるものならすぐに買い与えてしまうことが多くなっているからではないか,と説明している.確かにそうかもしれない.(p34)
このように子どもが不快感をあまり体験しなくなったのは,結局,大人自身が不快感やネガティブな気持ちへの耐性が無くなってきていることを反映していると言えよう.(p34)
実は「怒り」ですら,最近の若者たちはあまり感じていないのではないかという指摘もある.荷宮和子氏は,「近頃の若いもん」の言動,すなわち,理不尽な目にあっても,抗議することなく,「決まっちゃったことはしょうがない」で納得してしまう振る舞いが気になるという.一方,最近の若者は個人的な些細なことでキレやすく,それが「若者たちは怒りという感情を持ちやすい」という解釈を生じさせている面もある.(p35)直接自分だけに関わるのでなく,社会全体に関わる不条理なことに関しては,怒りをあらわにすることは減少しているように見える.それは個人の損得には敏感になったが,社会の損得や他者の損得には共感できず鈍感になったということかもしれない.(p36)
■「悲しみ」と「怒り」の性質
「悲しみ」とは,広義に使用されるもので,英語でいうsadnessにあたり,抑鬱(depression)や悲嘆(grief)に限定されるものではない.抑鬱や悲嘆という概念は,悲しみの強度が高かったり,持続性が強いときに用いられ,やや病的な症状を呈する場合もある.(p36)
悲しみは一般に,目標の喪失や到達できないこと,獲得できないことへの反応としてみなされる.そして,同じネガティブ感情の恐怖は,ある出来事が起こるのを予期した反応であるのに対して,悲しみはすでに起こったことへの反応である.また,罪の感情は,自己がその問題に責任を持つ場合に起こるが,悲しみを感じるのは,必ずしもそのような場合だけではない.(p36)
さらに,「怒り」は,他者に責任がある場合に見られるが,悲しみは誰にも落ち度がない時にも生じる.また,怒る人は,失った目標を置き換えることができると考えるが,悲しむ人は概して,失ったものを再現させることが難しいと考える.しかし,諦めの感情の対比で言えば,諦めは悪い結果が不可避的なものとして認知される時見られるのに対して,悲しみは不可避的なものでない時にも生じる.(p37)
悲しみの機能としては,それが外界への注意を増大させることもあるし,減少させることもある.悲しみを示すことで,他者に助けてほしいと伝えることもあるが,注意が自分自身に向けられ,自分一人でいることを好む場合もある.悲しみの自己焦点機能は,自分の目標を追求するための多くの注意を自分に払わせ,どのようなことがうまくいっていないかに関するフィードバックを自分に提供する.外への注意の減少は,エネルギーを温存させ,問題解決に専念させることになるとも言える.(p37)
■感情の文化差
次に,怒りや悲しみの感情の文化差について考えたい.どこの文化にも同じように怒りや悲しみの感情が存在するわけではないらしい.例えばミクロネシアのイファラク族についての研究によれば,感情後として「悲しみ」に相当する語はないことがわかっている.一方,他者の苦しみに直面した際に感じる感情「ファゴ」(fago)に関心が持たれた.研究者はこれを同情(compassion),愛(love)あるいは悲しみ(sadness)と翻訳した.「ファゴ」は苦痛であることは明らかだが,その土地の人々は「ファゴ」を感じる能力にプライドを持つ.それは静かでおとなしいことを意味し,寛容さと成熟度にも結びつくため,尊敬に値する情け深い感情とされている.(p38)
一方,怒りに近い感情を表現する言葉としては,「ソング」(song)があるようだ.ソングとは,是認されない不品行に対して限定的に向けられる感情であり,イファラク族は社会的秩序を乱す行為に対して,これを表出することを社会的義務と考えているらしい.しかし,我々が日常的に言う「怒り」の感情はもっと広範囲の意味を持つ.(p39)
このように地理上の文化の違いにより,感情が異なったものであるならば,当然,同じ日本の中でも,歴史的な文化の相違により,ある時代に生きた人間の感情の持ち方には特徴があると考えるのが妥当であろう.小説家の五木寛之氏は,現代の日本で「悲しみの希薄化」が進んでいることを嘆いている.怒りと悲しみという2つの感情に注目すれば,先の先生との面接結果から見ても,氏の指摘のように,我が国は現在「悲しみの文化」から「怒りの文化」に移行しているようにも思われる.(p39)
■悲しみ量の歴史的変化
「悲しみの文化」が減少し「怒りの文化」が増大しているという見方は,どのように立証できるのだろうか.(p39)
研究方法として必ずしも妥当性が高いとは言えないかもしれないが,間接的証拠はいくつかあげることができる.ここでは,戦後の作文,流行歌,映画の内容の変遷を分析した研究を通して,悲しみの感情の変化を推測してみよう.(p40)
■作文からみる
日本作文の会の「子どもの作文で綴る戦後50年」のなかに納められた作文を分析の対象とした.そして,特に感情が反映されやすいと考えられる,第3巻「家族ってなんだ」に注目した.その結果,1940年代から1950年代までと1990年代の出現頻度の比は「悲しい」では5:3,「さびしい」は3:2,「泣く」は6:5,「かわいそう」は3:0であった.総計としては5:3ということになり,戦後十数年の間の方が最近よりも「悲しい」に類した感情が多く生じていたことと推定される.(p41)
■流行歌からみる
特定の歌がよく歌われるということは,その歌詞への共感が多いことが1つの理由として挙げられる.時代的な変化としては,古い変化が悲哀感を基調とした演歌に傾倒していたのに対して,昭和40年代(1965-1974)ごろからは,フォークやニューミュージックを好む若者が増え,ドライでサバサバした感情を表現しようとする傾向が強まったとしている.ここ数年のヒット曲の特徴として,「根拠なき自己肯定感」を挙げ,歌詞の裏には,努力や経験という代償なしに誇りを得たいという,現代の青年たちの欲求があると指摘している.しかし,実際に努力や経験を重ねることが,現代の世の中では容易でないために,一方では「癒しソング」が流行したという.そして,「癒しソング」の後には,長引く不況の中で,物質的には豊かでなくとも,自分らしく夢を追うことを基調とした「等身大ソング」というものが流行出しているという.最近は少なくとも若い人たちにとっては「悲しみ」という感情とは異なるところで共感する歌があるらしい.(p43)
■個人的怒りの増大
すでに何年か前から現代人は「悲しみ」よりも「怒り」を感じる時代に突入していると考えられる.事実最近の,特に若者にあっては,「キレる」とか「ムカつく」とかいう言葉が氾濫し,怒りをあらわにするような事件が頻繁に起きていることからも類推できる.(p45)豊かな社会が一般に明るく,貧しい社会が暗いと考えれば,豊かになった今は怒りの量が減少して良いはずである.今の学生は,あまりにも平和であり,外部に向かって,怒りを表すようなことがない.戦争直後には,食べものの奪い合いだとか,農地改革での地主と小作人の対立だとかが生じており,「生きる」ことを巡っての「怒り」が頻繁に生じていたはずだが,今ではそのようなこともない.そのような側面では怒りは確かに減少しているはずである.(p45)
■権威主義から民主主義へ
権威主義の世の中では,権威には絶対服従なので,個人の自由な欲求は阻止される.権威のある人は社会の中で少数であるから,多くの人は悲しみを感じながらも,命令に従うことになる(かつて学校では先生が権威を持ち,体罰すらも大目に見られていた).しかし,民主主義が浸透した現在,先生と子どもは対等に近い立場にあり,学級で問題が生じた場合,子ども自身の責任というよりもむしろ,先生の責任と受け取りやすく,先生の注意に対して子どもが感じるのは,悲しみというよりも怒りである.(p49)
戦後60年が経過した今,学校にも民主主義はしっかり根を下ろしたと言えるであろう.先生中心の授業は生徒中心になり,何事も先生が勝手に決定して一方的に言い渡したりするようなことはできなくなった.民主主義を象徴するのは,やはり「自由」ということばである.全ての人の自由を尊重せねばならなくなったために,学校でも先生が子どもの慈雨ゆを制限することができなくなったと言えるかもしれない.千石保氏が指摘しているように,子どもたちは自己決定することを当たり前と考えるようになった.戦後社会の民主化は「命令に従う人間」から「自分で命令する人間」への変化であったと言っても良い.(p50)
■宗教の衰退
17世紀の英国の日記には,困難に直面した際,忍耐や知恵を解決とみなし,悲しみに誇りを感じている人たちが描かれているという.悲しいことはしばしば,罪があることとは逆のこととみなされる.神は楽しみや快楽を許さず,逆に,憂鬱さや厳格さを受容すると考えられた.このような見方は,我が国の仏教や神道においても,少なからず含まれているのではなかろうか.戦後間もない頃の子どもの成長には,祖父母等の影響も強く,宗教の影響は幾分あったと考えられるが,その後宗教への信仰が衰退し,禁欲主義を美化する傾向が漸次弱まるに連れて,悲しみの感情は美しく尊いものというよりも,むしろ暗く避けるべきものとして位置付けられるようになった.(p51)
■集団主義から個人主義へ
悲しみの感情を示す時は,助けを求める気持ちが含まれている場合が多い.全体が協力し合うことをよしとする集団主義の文化には,その求めを受容する備えがある.したがって,悲しみは生じやすい.他方,個人主義の文化では,悲しみは弱みを見せることになるし,人に助けられることを恥と考える.自分が強くなければならず,他者の不当な行為に対しては怒りをあらわにして戦うことが当然とされる.日本の社会も集団主義から個人主義へと徐々に移行しており,それが悲しみの感情の減少と怒りの増大に反映していると考えられる.(p51)
第2章 やる気が低下する若者たち
■やる気の低下
最近は「ゆとりを持って伸び伸びと」が教育の謳い文句であり,個性化が叫ばれ,本人の能力を伸ばす援助をするのが,教育者の役目とされている.そのような風潮の中では,「楽しく勉強する」ことが重視され,外側から動機付ける賞罰を中心とした外発的動機付けは悪者視され,本人自身の内側から生じる内発的動機付けが尊重される.(p55)
子どもだけでなく,大人の勤労意欲も,戦後豊かさが広まるにつれて変化してきたと言わざるを得ない.馬車馬のように働き,少しでも貧しさから抜け出ようとする時代は終わりを告げ,個人の生活を楽しむために働く時代が到来しつつある.会社で高い地位につくことに対しても,魅力を感じる人の数は減少してきており,少しばかり高い給与を得て重い責任を背負うよりは,のんびりとレジャーを楽しみながら暮らしたい,と考える人が増えてきた.(p55)
■自信のない日本の若者
自分の捉え方を表す心理学的概念として自尊感情と呼ばれるものがある.アメリカの心理学者ローゼンバーグ氏はこれを「自己に対する肯定的あるいは否定的態度」と定義している.そして,それは自分を「非常に良い」と感じることでなく,「これで良い」と感じることだと述べている.つまり,自分を価値あるものとかんじ,亜橋本努のままの自分を尊敬できる場合は,自尊感情が高いということになる.氏はそのような定義に沿って,10項目からなる自尊感情測定尺度を提案し,信頼性や妥当性も検討した.他にも多くのときは既存感情尺度が作成されているが,この尺度の使用頻度は高い.(p56)
河地和子氏は,このローゼンバーグ氏の自尊感情のうち6項目を用いて,日本,中国,アメリカ,スウェーデンの中学三年生の自尊感情を比較検討した.結果を見ると,日本の中学生たちは他国の中学生に比較して,自分に自信が持てず満足していない,つまり,自分を価値ある存在とみなしていない,推測せざるを得ない.しかし,若本たちは自分に満足していないからと言っても,常に自己否定しているわけではない.満足できない分,自分を肯定したいという願望も強く,現象的には矛盾した面を持つと考えられている.(p57)
■「大志」を嫌う現代っ子
現在では国民の生活水準が一様に高まり,大企業でなく中小企業の従業員だとしても十分に豊かな生活が可能で,わざわざ苦労して高い地位や責任ある地位を得る必要がない,と考えているためではなかろうか.(p60)要は現代の若者は,社会の望む一定の価値に方向づけて自分を形成してゆくことを好まないのである.人のやる気を心理学では達成動機と言っているが,達成動機が向けられる方向には2つあり,1つは社会的に承認された仕事や勉強への社会的達成動機と呼ぶもの,もう1つは個人的に重視された趣味やスポーツへの個人的達成動機とでも呼ぶべきものである.最近の若者たちは,社会的達成動機が相対的に低く,個人的達成動機が相対的に高い,と考えることができる.しかし,個人的達成動機の高さは,他者にはわかりにくく,外見的にはやる気が低下しているように見えよう.(p61)
■子どもや若者に蔓延する鬱
溝上慎一氏によれば,「ユニバーシティ・ブルー」という言葉もあり,現代の普通の大学生の多くも,憂鬱な感情を抱いているのかもしれないという.しかし,それは彼ら自身の責任によるものではない.氏によれば,現代の大学生は,アウトサイド・インからインサイド・アウトによる生き方を求められているという.筆者の解釈によればアウトサイド・インとは,まず大人社会の価値基準にしたがって自己形成することであるのに対して,インサイドアウトとは,まず自分の価値基準にしたがって自己形成することと考えられる.最近ではアウトサイド・インで基準にすべき大人社会が不安定になり,例えアウトサイド・インしても,青年の将来・人生は,大人によって必ずしも保証されなくなったという.そのため,現代の若者はやりたいことや将来の目標を自ら探して,自己責任のもとに人生を形成することを社会から求められているのである.しかし,この自らを見定める作業は実は極めて困難で,それが若者に一種の憂鬱をもたらしているというのである.(p75)
第3章 他者を軽視する人々
■「自分以外はバカ」の時代
ノンフィクション作家の吉岡忍氏は新聞に「『自分以外はバカ』の時代」という小論を寄せている.
高度産業社会では,誰もが何かの専門を学んで各人がプロ意識を保つために,それが一人の個人を全体として有能な人物として見なすことになり,相対的に他者をバカにすることにつながっているのかもしれない.そして氏は,現代人にとって,自分以外は皆バカなのだから,お互いに誰かに同情したり共感したりすることもない殺伐とした社会が到来する,と暗鬱な予感を抱いているのである.(p78)
90年代以降,国際競争力をつけるために日本人はもっと自分を主張せよと言われ続けてきた.そのことが,「人の欠点をはっきりいう人の方が有能」「先に指摘した方が勝ち」という風潮をうみ,「日本人は『粗探し』をすることがうまくなった」とまで言われるようになったという.(p79)
■社会的迷惑行為が増える理由
社会的迷惑行為をする者が若者の間で特に急増している.社会的迷惑行為に至る若者たちが,社会規範に対して無知であるとは思われない.社会規範を知っているかいないかの違いではなく,社会規範を重視するか軽視するかの違いであると言える.つまり社会的迷惑行為が多いということは社会規範を軽視していることに他ならない.社会規範の軽視ということは,社会を軽視することに等しい.(p85)
■大衆は劣等
人は誰でも子どもの頃から,他者にできるだけ批判されないで,できるだけ多く賞賛されて生きたいと願っている.しかし,自分が期待するほどには,他者から賞賛されたり承認されたりしないのが通例である.なぜ,期待値とのズレが大きいかといえば,現代の子供たちは少子化の影響を受け,乳幼児の頃は手をかけられたにもかかわらず,小学生や中学生になると周りの人たちは単におだてや励ましだけでわざわざ「ほめる」という行為をしなくなるためである.明確な実績が伴わないと賞賛や承認が得られなくなるのである.(p91)
第3章 他者を軽視する人々
■大衆は劣等
人は誰でも子どもの頃から,他者にできるだけ批判されないで,できるだけ多く賞賛されて生きたいと願っている.しかし,自分が期待するほどには,他者から賞賛されたり承認されたりしないのが通例である.なぜ,期待値とのズレが大きいかといえば,現代の子供たちは少子化の影響を受け,乳幼児の頃は手をかけられたにもかかわらず,小学生や中学生になると周りの人たちは単におだてや励ましだけでわざわざ「ほめる」という行為をしなくなるためである.明確な実績が伴わないと賞賛や承認が得られなくなるのである.(p91)
彼らはそのような蓄積する不満を解消するために,無意識のうちに「自分より下」の存在を探し求めているのかもしれない.「自分より下」の存在を徹底的にうち砕くことによって,前章で述べたような萎縮した自尊感情を回復させることができるのである.(p91)
■他者蔑視の昔と今
特に旧制高校の学生が愛唱した寮歌には,彼らの自負の念が溢れているものが多い.例えば第一高等学校寮歌「嗚呼玉杯」の歌詞には,「栄華の巷,低く見て」とあり,これは寮から平和ボケした下界を見下ろし,自治の理想と救国の使命感に燃えるエリートの心意気を歌っていると言われているが,一般市民を見下している若者の姿が浮かび上がってくる.(p92)
現代の多くの若者は,理想主義からは遠い存在である.高い理想を掲げること自体を嘲笑する傾向すら,現代の若者にはある.昔の高い理想を掲げる人たちはそれを目指して生きていこうとしており,高い動機付けを持ち,生き生きしていた.そして,おそらく自分たちのように理想を持てない人を情けなく思ったのであろう.だからと言って,彼らは自分たちが実際に他者に比べて著しく理想に近い状態位あるとは考えなかったものと推察される.だが,理想を掲げ,それに向かっていること自体が,他者に対しての誇りであったようにも思われる.しかし,現在の若者は一般に,内心自信を喪失しており,一種の防衛規制として他者を軽視することで自信を取り戻そうとしているのである.(p93)
■ピーナッツに見るルーシーとチャーリーの性格
自分自身が本当に幸福と感じる人は,周りの人を批判したり貶したりする必要はない.十分に適用している人たちは,むしろ自分への批判を素直に受け入れることができる.ルーシーのような人たちは,おそらく心のどこかに劣等感を持っているために,他者の小さな欠点も見逃さず,彼らに対して優越者のように振る舞うと考えられる.無論そのような行動は周りから批判を受けやすく,また彼らはその批判に対して我慢できない.そのため彼らは周りに八つ当たりする傾向がある.彼らは問題を自ら処理することに力を注ぐのではなく,他の人々を攻撃することで切り抜けようとする.一方,チャーリーも劣等感を持ち,すぐに自分はダメな人間だと考えやすい.ただルーシーと違うのは,他者からの批判を無批判に受け入れてしまい,自分の立場で反論しようとしないことである.(p95)
第4章 自己肯定感を求めて
■「並以上」の感覚
現代の日本社会は,多くの人が自分は並以上と感じやすい時代なのではなかろうか.その理由として,近年はあらゆるものの選択の幅が広がり,一様に比較することが難しくなったことが挙げられる.物理的な衣食住を考えて見ても,同じタイプのものであれば,その優劣関係は比較的明確であるが,タイプが異なると比較は容易ではない.例えば,朝食の上等さについて,同じ和食同士なら比較可能だが,和食と洋食での比較は難しくなる.(p102)
このように現代社会は選択の幅が広いために,誰もが「オンリーワン」の気分を持ちやすい.オンリーワンというのは独自性があることで,必ずしもより優れていることにはつながらないはずだが,総合的に判断する場合,比較対象がないことで好意的な主観的判断に陥りやすく,誰もが自分が並以上という感覚を持ちやすい.(p103)
■自己愛的性格の浸透
アメリカの精神科医コフート氏によれば,赤ちゃんにとって誇大自己は,一度は手に入れなければならない「私」の姿である.そして,赤ちゃんの時の誇大自己を手放せないまま大人になったのが,自己愛人格の人たちである.子どもの頃,大人があまりにも可愛がりすぎることで形成された子どもの自己愛が大人になっても変わらないことはあるだろう.(p106)
この考えに従えば,現代の若者は,赤ちゃんのときの誇大自己をそのまま持続させている人が多いように思われる.昨今の幼児期,児童期での大人の甘いしつけが,自己愛形成の確率を高めていよう.最近では,紙おむつの影響か,おむつの取れる時期も遅くなったと聞くが,母親たちがしつけをすることを放棄するようになった,手抜きするようになったというのが正確かもしれない.すべてを子どもの自由に任せ,何ら方向性を持った指導をしなければ,誇大自己が温存されても不思議ではないだろう.(p106)
このように,誇大視した自己を何回も想像する間に,現代の普通の若者たちも,膨張した自己をいつの間にか自分のうちに宿すことになる.(p107)
■日本人のポジティブ・イリュージョン現象
実際に存在するもの・ことを自分に都合よく解釈したり想像したりする精神的イメージや概念がポジティブイリュージョンであり,外山美樹氏らの紹介によると,それは自分自身をポジティブに捉える,自分の将来を楽観的に考える,外界に対する自己の統制力を高く判断する,の三領域からなるとされる.(p107)
■高校中退者の楽天主義
村上隆氏らは高校中退に関連する意識調査を行い,中退率の高さと強い関係があったのは「社会化への不安の低さ,根拠のない楽天主義」と言われるものであったとしている.(p110)
これらは中退者の弁であるにもかかわらず,決して萎縮したものではない.むしろ自己を拡大解釈したもので,甘い自己認識・社会認識が含まれている.中退率が高い高校で,「自分には,他の人と違った才能があると思う」というのであるから,彼らの中には,いわゆる「オンリーワン」の夢を抱いている者が多いのかもしれない.おそらく,学校の成績という次元で考えれば,これまでの学習経験から,彼ら自身が特に才能に恵まれているとは考えがたいであろう.そこで彼らは「他の人と違った才能」というものを仮定するのである.「自分には他人にない何か優れたものがあるに違いない」という思いを信念のようにして抱こうとするのである.(p110)
しかし,おそらく,それがどのような才能であるかと問われるならば,彼らは答えに窮するであろう.能力の内容はよくわからないが,とにかく自分には何人にもない特殊な才能があるはずだ,という根拠のない自己肯定をしているのである.前にも触れたように,最近の社会では,「オンリーワン」という言葉が流行歌の歌詞にもなり,非常に良いイメージが持たれているが,この考えには落とし穴もある.なぜなら,多様な比較の次元を持つことは人間いとって幸福なことではあるが,誰もが勝手に好ましい自己評価をし,自分にも素晴らしいところがあるに違いないという,楽観的な見方を構築しやすいからである.(p111)
甘い自己認識,社会認識の結果として,「何をしてでも生きていける自信はある」ということになるのだが,高校生になるまで仕事らしい仕事を何もしたことのない人たちが「何をしてでも」という言葉を,どのように 受け止めているのだろうか.高校卒の資格さえない彼らが選択できる仕事の幅は狭いし,大学卒でも仕事にあぶれる時代である,現実的には高校中退者の就職は極めて厳しい.(p112)
■自己肯定の不安定さと他者軽視
ホンモノの自己肯定感というのは,長い年月をかけて本人の努力の結果として獲得したもので,安定したものと考えられる.それに比べるとここで示した自己肯定感は,自分の確固たる経験に基づかない,社会の雰囲気や運に左右された主観的で不安定なもののようにみえる.(p114)
第5章 人々の心に潜む仮想的有能感
■他者軽視と仮想的有能感のメカニズム
前章で現代は誰もがこぞって自己肯定感を求める時代であることを見てきた.そして,その自己肯定感の中には特に他者軽視を通して生じる偽りのプライドがあることにも触れた.これを「仮想的有能感」と呼ぶことにする.この「仮想的有能感」という言葉は私の造語である.過去の実績や経験に基づくことなく,他者の能力を低く見積もることにともなって生じるホンモノでない有能感という意味で,「仮想的」有能感と名付けた.(p118)
彼らは,勝手に他者の能力を軽視することで,偽りのプライド,すなわち仮想的有能感を抱いて行動するのである.これらは彼らの中に無意識的に生じる自己防衛的規制とも考えられる.それは,人は誰も常に優れた存在でいたい,人から認められる存在でありたいと思っているためでもある.これまでに述べてきたように,現代の人々は自由な社会の中で自我を膨張させている面がある.しかし,他方では産業構造の変化や厳しい現実から,結果としての夢の喪失,自信の喪失がある.この矛盾が仮想的有能感形成のメカニズムに寄与していよう.(p118)
他者軽視と仮想的有能感の関係のメカニズムは次のように考えることができる.すなわち,個人的経験や社会・文化的要因によって,本ににもあまり意識されない形で仮想的有能感が形成されると,対人場面などで他者軽視という態度や行動として表面化する.そして,人をバカにした態度や行動を取ることによって,「自分は有能だ」という仮想的有能感が強化される.このような繰り返しの中で,仮想的有能感が一層強固なものになっていく.他者軽視と仮想的有能感は,どちらが原因でどちらが結果というものでなく,相互に影響しあうのである.(p119)
仮想的有能感を持つと他者軽視すると考えられるが,他者軽視をする人は仮想的有能感ばかりでなく,本物の有能感を持つ場合もある.(p120)
■仮想的有能感が働きやすいケース
あまり自分が経験したことのない領域や,自分に対して評価が定まっていない領域で,仮想的有能感は生じやすいと予想される.(p121)
■下方比較で安心する
他者軽視と仮想的有能感との関係は他者評価と自己評価の関係として見ることもできる.一人の評価者が行う他者評価と自己評価は,決して独立したものではない.他者評価の結果が自己評価に反映されたり,逆に自己評価の仕方が,他者評価に反映されたりする.(p122)
つまり,人は自分よりも優れた人物について知りたがっているというよりも,自分よりも劣っている者に関する情報を求めたがっている.このような傾向を下方比較と呼ぶ.(p123)
自己高揚欲求は,特に自尊感情に対する脅威を感じたときに強く働き,その結果として自分よりも下位にある者との比較によって,自分の幸福感を増大させようとするのである.(p123)
■希薄化する人間関係の中で
他者軽視に基づく仮想的有能感が生じる背景には「希薄化する人間関係」が存在する.簡単に言えば,人は親しい人間関係を喪失し,孤立すればするほど,外面的には傍若無人な他者軽視的行動をとるようになる.つまり,現代の希薄化した人間関係においては,周りが支えてくれるという認識を欠くことになり,他者をむしろ脅威とみなすために,背伸びをして弱い自分を防衛しようとするのである.(p126)
では,なぜ彼らは真の自己肯定感は持てないのだろうか.それは,人の自身というのはつまるところ,親しい人間関係にある周りの人たちから,承認され賞賛される経験を通して形成されることが多いからである.しかるに,そのような親密な周りの人たちが少ない社会では,個人の自信も形成されがたいのである.ただし親密な周りの人といっても,親や兄弟というよりは,それ以外の親しい人の承認や賞賛が大きいように思われる.それは先生であったり,友人であったりするであろう.(p126)
彼らの関心はあくまで自分にある.自分を友人がどう見ているかという観点で,友人を意識しているのである.自分が友人をどう見るかということにはさしたる関心もない.友人が生真面目な人であれ,ルーズな人であれ,相手を詳しく知って自分の参考にしようという志向も弱いように思われる.(p128)
かつて日本人は地域や会社といった共同体を極めて重要視して生きてきた.地域に不幸な人がいれば,周りの人たちが経済的,心理的に支援した.また,会社で誰かがミスをして,製品が納期までに納められなくなると聞けば,その人の責任だけを追及するのでなく,会社全体の責任としてみんなで助け合って,残業も厭わず,納期までに間に合わせる努力をした.しかし,日本人のこのような美しい伝統的心性は,今日ではあまり見られなくなり,自分は自分,他人は他人という考えが浸透し,自分にカンケーがあると思う人の数は以前よりずっと減少したように思われる.(p128)
■他者軽視傾向から推測する
仮想的有能感は,「自己の直接的なポジティブ経験に関係なく,他者の能力を批判的に評価・軽視する傾向に付随して習慣的に生じる有能さの感覚」と定義した.(p131)
■仮想的有能感を持つ人の特徴
第一には共感性との関係で,仮想的有能間の強さと負の関係にあることがわかっている.つまり仮想的有能感が高いとみなされる人ほど共感性が乏しい.これは他者軽視という概念から考えても,共感性が低いからこそ他者軽視しやすいとも言える.共感性が高いということはいうまでもなく相手の立場に立って考えることができ,相手の感情を共有できることを意味している.他人一人ひとりが自分と同じようにかけがえのない人間であることを深く認識していれば,安易に他者を軽視することはできないだろう.(p134)
第2は友人関係の狭さである.仮想的有能感の高い人は友人が少ない.共感性がないから友人があまりできないとも言えるが,彼らは自ら友人を得ようという気持ち自体が乏しいものと考えられる.身近な他者である友人が多ければ,自然にコミュニケーションも多くなり,他者と照応させて自分を見ることができ,現実的判断ができるものと思われる.
第3は第2のことに関係するが,仮想的有能感と友人関係満足度には負の関係が存在することである.つまり,仮想的有能感の高い人は友人関係に不満なのである.それはどのような理由で不満なのかこれまでの調査ではわかっていない.ただ,彼らは友人関係だけでなく,家族関係についても不満であるという結果があり,円滑な人間関係を促進・維持すること自体が不得手のようにも思われる.(p135)
■軽蔑や嫉妬を含む仮想的有能感
仮想的有能感は,軽蔑や嫉妬を包含しているという点で後ろめたいところがある.そのため無意識の淵に追いやられやすいのである.
一般に嫉妬というのは,『相手の方が優位にいたり,満たされている状態にいるのを体験した際に感じる不快な感情』と定義できるだろう.精神分析の世界では,この嫉妬を2つにわけて考えることが多い.相手が優位であると感じた際に,その悔しさをバネに自分を高めようとする,ジェラシー型嫉妬と,相手の足を引っ張ったり,相手の不呼応を喜ぶような,エンビー型嫉妬.仮想的有能感にはジェラシー型嫉妬よりもむしろエンビー型嫉妬が多く含まれていると言える.(p138)
■自己愛との距離
自己愛も仮想的有能感も,利己主義的,自己中心的という点では類似していよう.しかし,自己愛は自己の内部で初めから自己評価のかたちで生じるのに対して,仮想的有能感は他者評価の仕方を通して生じるものである.自己愛者は,結果として他者を軽視することはあるかも知れないが,初めから他者軽視を想定しているわけではない.それゆえ,個人主義の文化が自己愛の時代よりもさらに浸透した時代に,仮想的有能感は蔓延すると思われる.かつて貧しい社会で必然的に助け合わねば生きていけなかった人々は,豊かな社会の中でそのような必然性は弱まり,むしろ他者と付き合っていくことによるストレスが増大した.そこで,人同士の関わりにいぎを見出せず,自分のことしか関心をもたない自己愛者が増大した.しかし,彼らが自己評価を確実なものにするためには,自分の枠内だけに留まるわけにはいかない.だとすれば,先手を打って他者を低く評価することで,有能感の感覚を確実なものにしておく必要がある.つまり自己愛だけでは自分を守れないと,現代人はうすうす気づき始めたためではなかろうか.(p139)
仮想的有能感は,人間の能力的側面に焦点を当てているが,自己愛はそれだけでなく,承認欲求,自己主張と言った人格的側面も包含している.(p140)
■社会・文化的要因
仮想的有能感の形成要因として,第1に新しい電子機器に対する適応の問題がある.若者は概して,携帯電話,コンピュータ,デジタルカメラ等を自由に操ることができる.最近の機器によって,人間1人の手作業ではできない複雑なことや,パワーを要することが最も簡単にできる.それは自分の操作のうまさによるものでなく,機械の性能の良さに起因するものだが,それを多くの若者は自分の力であるかのように誤解するのである.(p141)
第2にマスメディアの発達であろう.現在,我々はテレビやインターネットを通して,瞬時にして世界の動きを知ることができる.自分が当事者でないので,客観的に一次元高いところで,その出来事を見ているような気分になる.観察者になる機会が多いと,実は自分のことを見つめようとせず,代わりに直接知らない他者の表面的な欠点などが,大いに気になるようになる.(p142)
第3は個人主義が先鋭化することで人間関係が希薄化し,直接問題となっている相手の力量なり有能さなりを,相手と関わることで知ろうとしないためであろう.教育という観点から言えば,少子化が進み,個別学習に力点が置かれることで,多くの人と協力して学ぶとか何かを作成するといった機会は減少しつつある.それだけ他者の良い面を見出す機会が失われていると言えよう.(p142)
■誰にでもある仮想的有能感
仮想的有能感というのは,それほど特殊な現象でないとも言える.もともと人はいい格好をしたい.仮想的有能感を一種の思い上がりとして解釈すると,自己自身に期待を抱くことで動機付けが高まるように,それが良い方向に作用することもある.自己期待と仮想的有能感が重なる部分があることは間違いない.しかし,純粋な自己期待は自分自身への明確な確信から多く生じているのに対して,仮想的有能感はそのような自分に対する確信の基盤が不安定である.(p150)
第6章 自分に満足できない人・できる人
■自尊感情・仮想的有能感・自己愛的有能感
ローゼンバーグ氏は,自尊感情とは「自己に対する肯定的あるいは否定的態度」であり,自分を「これでよい」と感じる場合を自尊感情ありとしている.したがって,相対比較によって自分は誰々よりも良い,とする判断から来るのでなく,自己の基準に基づいて,絶対的評価で自分を良い,満足できるとする場合に生じると考えられる.(p155)
次のような要因が自尊感情に寄与していると考えられる.
①人生において重要な他者から受け取っている尊敬,受容,関心を寄せられている量.
②成功の歴史と世の中で保持している位置,地位
③個人の価値,願望
④個人の価値を低下させることに対する応じ方
などである.
自尊感情が過去の経験を踏まえた自分に対する感情であるのに対して,仮想的有能感はそうではない.極端な言い方をすれば,経験的には自信を持てることを必ずしも経ておらず,だからこそ,勝手な判断で,他者を見下げることで,自分のプライドの維持,上昇を図ろうとするものである.自尊感情はこれまでの経験の蓄積の結果として形成された側面が強いのに対して,仮想的有能感は,自分の将来の適応のために自動的,あるいは無意識的に発生するものである.仮想的有能感とはプライドを抱いた状態というよりむしろ,プライドを得たいという願望を含むものであり,確固たるものではない.
続きを読む投稿日:2024.05.07
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