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中島駆さんのレビュー
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  • 地球の放課後(1)

    地球の放課後(1)

    吉富昭仁

    チャンピオンRED

    閉塞感漂う今の世の中だからこそ、生まれた「終末」なのかもしれない。

    ある日突然、孤島に取り残される。あるいは、人類が消失してしまう。そんなパニック映画や小説は、これまで多くのこされてきた。そしてそうした物語は、たいてい「悲劇」のかたちをとる。例えば、ウィリアム・ゴールディングの『蝿の王』みたいに。いっしょにサバイブする仲間がいつしか対立し、やがて殺し合う。物資が貧窮すれば、ひとは容易に暗黒面に落ちる。それが「リアル」な人間の姿だと、なぜだか僕たちは思い込んでいる。 吉富昭仁『地球の放課後』は、そんな先入観を、あっさりと覆してしまう不思議な作品。舞台は、「ファントム」という異形のモノたちによって、人類が消え去った東京。そこに四人の少年少女がいる。誰もいなくなった町で、彼らは自給自足の生活を送っている。家族と離ればなれになったのはもちろん悲しい出来事だ。でも、まずは仲間がいてくれれば、当面の心配はない。ときどき、ファントムに狙われることはあるけれど。 なによりも、自由だ。学校に行く必要も、もちろんない。道路の真ん中で寝ても大丈夫。物資は溢れている。太陽電池が動くから、ライフラインも当面は維持できる。海へ行けば、そこはプライベートビーチだし、水着姿やコスプレをして街中を闊歩しても、誰に見とがめられることもない。大量の花火を豪快に打ち上げてもオーケー。恋愛だってする。だからこれは「地球の放課後」。みんなは必ず帰ってくる。ならばこの状況を楽しんでしまえ。ここで描かれる「終末」はとても楽観的だけれども、あり得なくはない。むしろ、閉塞感漂う今の世の中だからこそ、生まれた「終末」なのかもしれない。

    5
    投稿日: 2015.04.11
  • 帝一の國 1

    帝一の國 1

    古屋兎丸

    ジャンプSQ.19

    「ジャンプ漫画」でありながら、ブラックな「ガロ」漫画でもある。この二重性が面白い。

    古屋兎丸といえば「ダ・ヴィンチ」誌上で連載された『鈍器降臨』で馴染んでいたが、長編漫画を読むのは初めてである。「ジャンプSQ」に掲載されているということだが、絵柄はずいぶんと古めかしく、いわゆる「ジャンプ漫画」とは程遠い印象を受ける。もちろんこれは意図してのことだろうけれども、そもそも古屋は「ガロ」の出身らしい。つまりは、これが古屋の本来の画風ということなのかもしれない。ちなみに多摩美大卒ということだから、デッサン力はたしか。 物語の舞台は、海帝高校という私立の中高一貫校。もともとは海軍兵訓練学校として設立され、多くの将校を輩出した名門校で、現在では政界、財界に多くのOBたちがいる。その高等部一年生となった赤場帝一が主人公で、彼は「海帝高校の生徒会長になる」という野望を持っている。同校の生徒会長になれば、日本一の国立大学への進学が約束されている。それは将来、国家の中枢を担うということを意味する。だがもちろん、一年生がすぐに生徒会長になれるわけもなく、そこにたどり着くまでには、幾多の試練を乗り越えなければならない。 その「試練」の内容はある程度決まっていて、例えば、まずはクラスの「ルーム長」にならなければならない。帝一は中学時の生徒会長だったから、この第一の「試練」は余裕で突破(じつは親の献金額で決まるのだが)。すると今度は、生徒会役員と正副ルーム長そのほかから成る「評議会」でのパワーゲームが待っている。ここでいかにうまく立ち回るかが、帝一の「生徒会長になる」という野望を左右するわけで、それはつまり、次期生徒会長候補にうまく取り入って、彼の「犬」になることだったりする。 帝一を始めとする登場人物も、海帝高校という舞台もシリアスに描かれているが、これはまごうことなきギャグ漫画である。帝一の野望はあまりにもしょぼいし、その「試練」の内容も、例えば「明朝までにガリ版刷り850枚を仕上げる」とか、じつに小さい。けれども、帝一たちはその愚にもつかないパワーゲームに過激なまでの情熱を注ぎこむ。くそ真面目にやっていることが、あまりに滑稽で馬鹿馬鹿しい。ヒロイン白鳥さんとの密会でのツールが「糸電話」だったり、参謀の光明くんが作る面白マシンなども秀逸。シリアスであればあるほどに爆笑してしまう。「友情」「努力」「勝利」を大真面目に語りつつも、笑い飛ばす。「ジャンプ漫画」でありながら、ブラックな「ガロ」漫画でもある。この二重性が面白い。

    0
    投稿日: 2014.05.03
  • アルスラーン戦記(1)

    アルスラーン戦記(1)

    荒川弘,田中芳樹

    別冊少年マガジン

    親子の確執(あるいは和解)の物語でもある。『鋼の錬金術師』も『銀の匙』もそれは同様で、なるほどだからこそ荒川はこの物語に強く惹かれているのかもしれない。

    僕が最初に『アルスラーン戦記』を買ったのは、たしか高校生の頃だった。角川文庫からの書き下ろしで、表紙は天野喜孝。当時は平井和正の『幻魔大戦』や栗本薫の『グイン・サーガ』といった大長編ファンタジーが流行していたから、『銀河英雄伝説』シリーズでスペースオペラを手がけていた田中芳樹の『アルスラーン戦記』は、まさに満を持しての登場という印象だった。あの田中芳樹がファンタジーを書く。それだけでずいぶんと興奮したものである。ただ、なかなか続巻が出ない。刊行当初はそれでも年に2巻ぐらいのペースだったと思うが、徐々にそれも怪しくなってきて、ついには僕のほうが根負けしてしまった。以来、気にはかけていたものの、未読のままとなっていた。 だからこのたび、荒川弘の手によってコミカライズされたことはとても嬉しい。原作のほうは天野喜孝のイラストのイメージと、序盤の王都滅亡というシチュエーションのせいか、どうにも暗いイメージがつきまとっていたが(あくまで個人の感想です)、荒川の描くアルスラーン王子は、頼りないけども、まっすぐでとても清々しい。原作のアルスラーンだって、性格的にはもちろん同じなのだけども、ずいぶんと印象が違う。それはひとえに、荒川がすでにこの物語を自家薬籠中の物としているからだろう。時折ギャグっぽいシーンも挟まれていて、なるほどこれはまごうことなき「荒川ワールド」である。 さらに巻末には荒川と田中との対談も収録されていて、こちらも読みごたえがあった。両者の創作人生のきっかけや、物語設定の裏話(ペルシャを舞台としていたとは、まったく知らなかった)、原作との違い(今回のコミック版では、原作の前日譚が第一話として描かれている)など、いやがうえにも続刊を期待させる内容となっていて、今から待ち遠しい。よくよく考えれば、『アルスラーン戦記』は親子の確執(あるいは和解)の物語でもある。『鋼の錬金術師』も『銀の匙』もそれは同様で、なるほどだからこそ荒川はこの物語に強く惹かれているのかもしれない。

    17
    投稿日: 2014.05.03
  • データを紡いで社会につなぐ デジタルアーカイブのつくり方

    データを紡いで社会につなぐ デジタルアーカイブのつくり方

    渡邉英徳

    講談社現代新書

    「データを紡いで社会につなぐ」とは、データ収集が重要なのではない。「社会をつなぐ」ことにこそ重きがある。

    著者は現在、首都大学東京システムデザイン学部准教授だが、もともとは建築家であったらしい。とはいえ、学生時代から「建てない建築家(アンビルト・アーキテクト)」のほうに惹かれていたという。本書で紹介されている名前を挙げれば、次期東京オリンピックの新国立競技場の設計者ザハ・ハディド、あるいは、ベルリンの「ユダヤ博物館」を設計したダニエル・リベスキンドといった建築家。いまでこそ実作を手がけているが、彼らは〈ドローイングのみで作品を発表する「建てない建築家」〉であったらしい。 著者の場合、ちょうど設計にCADが入り始めた頃に学んだということもあって、作品の建築場所はもっぱら「コンピュータの中」となった。そこからゲーム制作の手伝いをするうちに(PS『アディのおくりもの』)、「フォトン」というゲーム会社の代表取締役となる。そこで作った「リズムフォレスト」というゲームは〈仮想世界に樹を植えると、現実世界にも樹が植えられる〉をコンセプトにしていて、それが著者と「グーグルアース」とを結びつけるきっかけとなった。ある日、ユーザーのひとりから、実際に「植林されている場所をみてみたい」という声が届いたのだ。 グーグルアースには、例えば写真や動画などの〈ユーザー独自のXMLデータを重ねあわせる〉ことができる。これはつまり、仮想と現実とをつないだ、これまでにない空間を作り出すことを意味する。これが著者の「建てない建築家」という志向と合致し、そこから現在の「情報アーキテクト」という肩書が誕生した。「情報アーキテクト」とは、現実世界の情報を仮想空間に移し替えて、再構築するひととでもいおうか。 例えば、著者の仕事のひとつに「ツバル・ビジュアライゼーション・プロジェクト」というものがある。地球温暖化の影響で国土が沈んでしまうとされるツバルだが、そこで暮らす人々は必ずしも悲嘆に明け暮れているわけではない。プロジェクトサイトではツバルの老若男女のポートレートとメッセージを見ることができるが、多くの人たちは僕たちと同様に、平凡な日常を送っている。グーグルアースという仮想世界に現実世界を重ねあわせることで、僕たちの知らない(あるいは見ようとしない)ツバルのほんとうの姿が浮かび上がる。 また、仮想空間では時間をさかのぼることもできる。過去に起きた惨劇を写し取ることもできる。それが「ナガサキ・アーカイブ」や「ヒロシマ・アーカイブ」、そして「東日本大震災アーカイブ」である。そこには被爆者や被災者たちの証言が、マップ上に重ねあわされる。「ナガサキ・アーカイブ」であれば、1945年8月9日午前11時2分。その時間に長崎の人々がどこにいて、建物や街の風景がどのように変貌してしまったか。その一瞬が仮想空間に再現されている。もちろん過去の証言や写真にはGPS情報など埋め込まれていないから、マッピングは地道な手作業による。新しい証言の収集などは、地元の有志が動く。 「ビッグデータ」や「オープンデータ」などと聞くと、最先端のスマートな印象をもつが、本書で紹介される作業はずいぶんと泥臭い。技術は道具に過ぎないからやがて寿命が来る。グーグルアースとて、10年後には古びて使いものにならないかもしれない。著者はその点を自覚していて、〈人間のつながりそのものを生かして、未来に向けて記憶を語り継いでいく人々を育てることにも、力を注げれば〉と記す。「ヒロシマ・アーカイブ」で被爆者の証言を取材したのは高校生たちだ。彼らだったからこそ、初めて証言をしたという被爆者もあったという。「データを紡いで社会につなぐ」とは、データ収集が重要なのではない。「社会をつなぐ」ことにこそ重きがある。

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    投稿日: 2014.03.13
  • 漫画で描き残す東日本大震災 ストーリー311 あれから3年

    漫画で描き残す東日本大震災 ストーリー311 あれから3年

    ひうらさとる,青木俊直,うめ,おおや和美,岡本慶子,さちみりほ,新條まゆ,ななじ眺,二ノ宮知子,葉月京,松田奈緒子

    カドカワデジタルコミックス

    人気漫画家たちが、実際に被災地に足を運んだり、被災者の声を聞くことを通じて描き下ろされた競作集

    『ストーリー311』とは、『ホタルノヒカリ』のひうらさとるが2012年2月に立ち上げたプロジェクトで〈「漫画に出来ることは何なのか?」という問いへのひとつの答え〉として生まれた。その第1巻は2013年3月に刊行され、その続巻となるのがこの『ストーリー311 あれから3年』。執筆者は、ひうらさとる、青木俊直、うめ、岡本慶子、新條まゆ、二ノ宮知子、松田奈緒子、葉月京、ななじ眺、さちみりほ、おおや和美の11名の漫画家たち。人気漫画家たちが、実際に被災地に足を運んだり、被災者の声を聞くことを通じて描き下ろされた競作集である。 とはいえ、実現に向けてはかなりの試行錯誤と苦難があったらしい。作家への声掛けから資金集め、出版社との交渉、流通、販売までを、いわば「手弁当」で賄ったわけで、それは〈全国に流通する本を作るというのは 金銭的にも体力的にも 大変なことなんだと実感しました〉と語る、ひうらの描くプロローグから窺うことができる。「第2巻を」という読者の声は多いものの、先立つものがない。さらには、〈そもそも……私たちのやることが今の東北に必要とされてるんだろうか……〉という迷いもある。 この迷いは、おそらく震災から3年目を迎えた今、被災者以外の多くの人が感じていることだろう。復興がまだまだ道半ばであることは、誰でも知っている。原発事故がまったく収束などしていないことも。「何か力になりたい」とは思う。けれども、いまさら自分に何ができるだろう。逆に足手まといになるだけではないのか。そう考えて、躊躇してしまう。少なくとも僕はそう。だから〈みんな迷いながら精一杯描いた作品ばかり〉という、ひうらの言葉には、とても共感するものがある。だれだって、まだ、迷いの中にいる。 それでもやはり、漫画の力、漫画家の力はすごいな、と感嘆せざるを得ない。例えば、さちみりほが描く第1話。原発事故対応にあたる福島第一原子力発電所所員たちの「あの日」を描いた作品だが、当然のことながら、これはのちの証言から描き出されたシーンだ。それでも、漫画であれば「あの日」の原発内の様子を、リアルに「再現」することができる。のみならず、そこに「物語性」を仮託することができる。テレビやネットで流される写真や映像は、たしかに「事実」かもしれない。けれどもそれらの多くは「断片的」にしか、私たちに情報を与えてくれない。それらを整理し、自分の中に浸透させるには、筋の通った「物語化」が必要だ。でもそれはなかなかに難しい。 写真でも映像でもない。漫画だからこそ、伝えられる真実がある。キーワードは「物語」。そのことをこの『ストーリー311』は、改めて教えてくれる。ここに描き表わされた「物語」の主人公は実在していて、それぞれが東北の地に踏みとどまって生きている。名もなき一人一人の人生には、唯一無二の「ストーリー」がある。「被災者=悲劇の人」では、けしてない。喜怒哀楽に満ちた人生を、被災しなかった僕たち同様に(当たり前だけれども)送っている。そのうえで、僕たちはどのように震災と向き合えばよいのか。そのヒントを、漫画家たちは示してくれている。

    4
    投稿日: 2014.03.13
  • さようなら、オレンジ

    さようなら、オレンジ

    岩城けい

    筑摩書房

    タイトルや表紙から、海外を舞台にしたほろ苦い恋愛小説を想像していたのだけれども、いい意味で裏切られた。

    第150回芥川賞候補作。タイトルや表紙から、海外を舞台にしたほろ苦い恋愛小説を想像していたのだけれども、いい意味で裏切られた。主人公は二人。アフリカ移民の女性と日本からやってきた女性。アフリカからやってきた彼女は、望んで故国を離れたわけではない。争乱の果てに両親と弟たちを失い、やむを得ず南半球の大陸へと流れた。彼女には夫と二人の息子がいるが、夫のほうはしばらくしてのち、行方をくらましてしまう。自分を受け入れてくれた国は善意に満ちているけれど、マジョリティとマイノリティとのどうしようもない断絶がある。右も左もわからない、言葉さえ満足に通じない土地で、彼女は生きていかざるを得ない。深い孤独のなかで。 一方、ここにもう一人の女性がいる。彼女は夫(言語学者のようだ)の仕事の都合でここにやってきた。もともと彼女自身も大学に籍をおいていたが、現在は生まれたばかりの娘の育児に専念している。だが彼女にはほんとうにやりたいことが別にある。それは、「物語」を書くこと。けれども、異国での生活は案外と厳しく、生活に追われるうちに妊娠・出産してしまった。夫のほうはどこか能天気で、家族を思いやっているようにはみえるけども、どちらかといえば自分の仕事のほうを優先している。彼女もまた、深い孤独のなかにいる。 そんなふたりの人生が職業訓練学校の英語教室で交わる。だが作者はここでちょっとした「仕掛け」を試みた。アフリカ移民の女性と日本人女性、彼女たちそれぞれの視点から物語を語ることにしたのだ。そのため、日本人女性のパートは、彼女の恩師への書簡というかたちでつづられる。あるいは、良いニュースと悪いニュースとがEメールのかたちで(しかも英文ママで)、ときおり挿入される。マイノリティのなかにおいても、彼らの関係性には、当然のことながら微妙な温度差がある。アフリカ移民から見れば、日本人女性はウチに籠って神経を尖らせている「ハリネズミ」であるし、逆に日本人女性から見れば、アフリカ移民の彼女は、気の毒になるほどに言語の素養がない。視点を分けることで、彼女たちの姿がくっきりと浮かびあがる。 知的な女性が自身の孤独を手紙につづる話といえば、クッツェーの『鉄の時代』がある。日本人女性の書簡体の部分は、どこか『鉄の時代』を彷彿とさせるものがある。そんなことを考えながら読み進めていったら、彼女が『鉄の時代』の主人公を「清潔すぎる」と評する場面が出てきて驚いた。クッツェーの描く主人公は、老女であろうが、癌に侵されていようが、所詮はマジョリティであるのだ。やはりこの物語の奥底には、「差別」というものが横たわっていて、そして欧米諸国ではマイノリティである日本人の苛立ちのようなものが表現されている。しかしマイノリティ同士がゆっくりとお互いを理解し合い、肩を寄せ合うことで、そこに居心地の良いコミュニティが生まれる可能性もある。作者はそんな希望を、この物語に託したかったのではないだろうか。 この物語には最後にもう一つ大きな「仕掛け」が施してあって、おそらくはその「仕掛け」の是非が選考会での議論の主題となることだろう。つまりはそのトリッキーさが、芥川賞にふさわしいかどうかということだが、個人的には、たとえ受賞を逃したとしても、この作品の評価が下がることはないと考える。

    3
    投稿日: 2014.01.21
  • 変身/掟の前で 他2編

    変身/掟の前で 他2編

    カフカ,丘沢静也

    光文社古典新訳文庫

    『変身』は、けして不条理をテーマにした物語ではない。ツッコミ役のザムザが、ボケ倒されて右往左往するコメディであるのだ。

    カフカの『変身』といえば夏休みの読書感想文の定番で、僕も中学生の頃に読んだ。なにせ短い。しかも毒虫に変身するというところがSFみたいだ。ところがいざページを繰ってみると、わけがわからない。だから結局「毒虫に変身してしまったザムザはかわいそうだと思いました」という、ありきたりな感想を書くことになる。他に思い浮かぶこともないから、あとはあらすじを書くだけ。けれども短編小説だからそれも限界がある。なかなか原稿用紙が埋まらずに四苦八苦するから、どうにも読書とは面白くないなという「感想」を抱くことになる。やれやれ。 『変身』を読むのは、これまたおよそ30年ぶりとなる。再読して改めて気づいたことは、ふたつ。ひとつめは、ザムザが変身したのは「虫」としか書かれていないということ。なぜか僕は長い間、ザムザが変身したのは、巨大な芋虫だとばかり思っていた(なぜだろう?)。ところがカフカは、虫に関してあまり細かく描写していない。例えば、手元の光文社文庫版では〈馬鹿でかい虫〉とある。あとは〈甲羅みたいな固い背中〉と〈図体のわりにはみじめなほどに細い、たくさんの脚〉とだけ記述がある。芋虫というよりは、どちらかというとゴキブリに近い。実際、海外のペーパーバック版の表紙などではゴキブリの絵になっている場合が多い。 ではなぜカフカは「虫」に関して、それほどまでには細かく描写をしなかったのか。実はカフカは『変身』刊行の際に、虫を表紙に描くことを拒んでいる。初版本の表紙に描かれているのは、半開きになった扉の前で苦悩するザムザの姿で、これは虫の姿をしていない。つまり「虫」というのは、それほど重要なファクターではない。少々わかりくいかもしれないが、「虫に変身してしまった状況」そのものこそが重要なのだ。じつはザムザは、虫に変身してしまったこと自体には(まあ、最初は驚くけれども)、それほどショックを受けてはいない。彼が気にするのは、これからの家計のことだ。セールスマンである彼は、一家の稼ぎ頭である。その彼が働けなくなるということは、両親や妹が路頭に迷うということを意味する。 家族たちも同様で、ザムザが虫になったことはそれとして(もちろん最初は驚くけれども)、頭を切り替えて今後のことを話し合う。隠居生活を送っていた父親は働きに出なきゃと考えるし、母親も内職を始め、妹も語学を勉強する。みな、とても現実的だ。そのうち、ザムザが世話してくれたこの家は広すぎるなどと言い出して、空き部屋を利用して下宿屋を営むようにもなる(もちろん、ザムザがいることは内緒だ)。誰も(ザムザ本人でさえも)、変身してしまった体を元に戻そうとは考えない。どうして虫になってしまったのか。その理由も問わない。変身しちゃったんだからしょうがないよね、という感じ。 だからこのお話はコントなのだろうと思う。例えば、三人の下宿人にザムザの存在がばれてしまう場面。下宿人たちはザムザの姿を見るなり、彼の父親に向かって〈ただちにこの部屋の解約を通告する〉と告げる。一見、ふつうのやり取り見えるけれども、やはりこれはおかしい。目の前に大きな虫男が出てきたら、まずはその存在自体を疑い、正体を突き止めようとするだろう。そちらのほうが問題のはずなのに、ザムザの存在はそれこそ無視である。「まあ、いたんだからしょうがないよね。でも僕らは虫男といっしょに暮らすのはごめんだよ」という感じ。ザムザとしては、さぞかし「いや、もう少し、虫男のことについて突っ込んでよ!」と言いたかったことだろう。でもザムザ以外の登場人物たちは、そこには触れない。あくまでボケたおす。そのギャップが、なんともいえないおかしみを生み出す。 訳者の解説によれば、カフカはこの物語を〈友だちに笑いながら読んで聞かせた〉らしい。『変身』は、けして不条理をテーマにした物語ではない。ツッコミ役のザムザが、ボケ倒されて右往左往するコメディであるのだ。

    0
    投稿日: 2014.01.07
  • ナウシカの飛行具、作ってみた 発想・制作・離陸――メーヴェが飛ぶまでの10年間

    ナウシカの飛行具、作ってみた 発想・制作・離陸――メーヴェが飛ぶまでの10年間

    八谷和彦,猪谷千香,あさりよしとお

    幻冬舎

    八谷さんのメーヴェを、僕は見に行きたい。そこではきっと、17歳の頃、『風の谷のナウシカ』を初めて観たときの僕に出会えるような気がするのだ。

    タイトルには「作ってみた」と軽く書かれているが、これは10年をかけた一大プロジェクトの記録である。八谷さん(と、同年代、かつ「ナウシカ」と「ポストペット」に衝撃を受けた世代として、あえて“さん”づけで呼ばせて頂ければと思う)のメーヴェはジェットエンジン搭載なのだ。2008年の時点で7000万円のコストがかかっていたというから、これはもう「作る」というよりも「開発・製造」という言葉のほうがふさわしい。だからこれは、現在では絶えて久しい国産航空機の復活へ向けての一石でもある。もちろん、三菱リージョナルジェットのような大規模な国家プロジェクトではないけれども、八谷さんが書くように〈一旦途絶えた日本の飛行機の系譜を継ぐ〉ものであることは間違いない。 それと同時にこの本は「飛ぶことに憧れた」ひとりの人間の軌跡でもある。そして人間にとって「飛ぶこと」とは、どんな意味を持つのか、ということを突きつめた思想の書でもあると思う。その思想の源流が宮崎駿にあることは明らかだけども、僕はその奥に、宮崎駿がリスペクトするサン=テグジュペリの存在を感じずにはいられなかった。『星の王子さま』の著者にして、郵便飛行士として大空をかけたサン=テグジュペリ。彼はユダヤ人の友人のために『星の王子さま』を書いた。戦争の愚かさを暗喩した表現は、『星の王子さま』にはたくさん散りばめられていて、例を挙げればきりがない(「六か月のあいだ眠って、えものを消化していく大蛇」や「三本のバオバブの木」などがそうだ)。そうして八谷さんもまた、イラク戦争を機に、メーヴェの製作を決意した。〈いつか現れるナウシカのために、調停のための飛行機を作って世界が変わるのを待とう〉と考えたからだ。 しかし当然のことながら、個人が「飛行具」を製造することは難しい。コストの問題はもちろん、そもそも飛行機は国内生産されていないから技術者がいない。さらに言えば、メーヴェは架空の乗り物だ。作った機体がほんとうに空を飛べるかどうかも怪しい。結果的には、いずれの課題に対しても、八谷さんは不屈の精神でもって実現させていくわけだけども。でも僕は(これは本書のライティングを担当した猪谷さんも書いていることだけども)、八谷さんがなぜこれほどまでにメーヴェづくりに没頭したのか、その理由がわからなかった。というか、この本にはその理由が書かれていない。猪谷さんによれば、八谷さんはその問いに対して〈若干、いらっと〉しながら「どうしてその答えが必要なんですか?」と切り返したのだそうだ。 サン=テグジュペリは『星の王子さま』のなかで「いちばんたいせつなことは、目に見えない」と書いた。砂漠が美しいのは、「どこかに井戸を、ひとつかくしているから」なのだ。けれども僕たちは、しばしば目先のこと、表面的なことに囚われてしまい、そこに隠れているものの美しさに気づかない。おそらくは八谷さんの「いちばんたいせつなこと」も、僕らの眼には見えないのだろう。だからこの本の中でも、飛ぶことの理由は語られないのだと思う。 そしてもうひとつ、『星の王子さま』は「個」と「普遍」との違いを問うた物語でもある。王子の星の薔薇と地球の薔薇とは、一見、同じように見える。けれども王子の薔薇は、世界にたった一つの大切な薔薇だ。だから八谷さんのメーヴェは八谷さんのたったひとつのメーヴェだけれども、それを目の当たりにしたひとたちは、きっと自分だけのメーヴェをそこに見るだろう。そんな八谷さんのメーヴェを、僕は見に行きたい。そこではきっと、17歳の頃、『風の谷のナウシカ』を初めて観たときの僕に出会えるような気がするのだ。

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    投稿日: 2014.01.07
  • マリアビートル

    マリアビートル

    伊坂幸太郎

    角川文庫

    もしかしたら普段僕らが当たり前のように乗車している新幹線の中では、毎日のように殺し屋たちが戦いを繰り広げているのかもしれない。

    伊坂幸太郎を初めて読んだのは『重力ピエロ』という作品だった。僕はそれをゲラだかパウンドプルーフ(見本刷)で読んだ。書評を書くためだったのだけど、一読して、困ってしまった。さて、これはどんな種類の小説なのだろう? 『重力ピエロ』は、ある兄弟の物語だ。兄が泉水で、弟が春。彼らは腹違いの兄弟で、春は母親がレイプされたときに身籠った子だ。つまり春は、レイプという憎むべき犯罪を肯定しなければ、自分が存在しない、という矛盾を抱えている。とても重いテーマ。一方で、文体はとても洒脱で、軽い。ミステリの結構もある。いったいこの作者の企みはどこにあるのだろう? 頭を抱えながら、過去の作品を渉猟した。とはいえ、当時はまだデビュー作『オーデュボンの祈り』と『ラッシュライフ』、そして『陽気なギャングが地球を回す』しかない。慌てて読んで、またもや頭を抱えた。『オーデュボンの祈り』はミステリだけども、殺されるのは案山子だ。しかもこの案山子は、言葉を操る(なんだこの設定は?)。『ラッシュライフ』は群像劇だけども、登場人物はいずれも曲者揃い。『陽気なギャングが地球を回す』にいたっては、人間嘘発見器を筆頭に、正確な体内時計の女、演説の達人、天才スリといった異能者たちが登場する。しかも彼らはギャングだ。 伊坂の作品に善人は登場しない。唯一の善人といえば、『ゴールデンスランバー』の青柳ぐらいだけど、彼は首相暗殺の汚名を着せられて逃げ惑うこととなる。そして、この『マリアビートル』では、登場人物がみな殺し屋という設定。やれやれと、頭を抱えたくなる。伊坂の出発点は、いつだって「悪」から始まる。主人公が正義の人であれば「感動した」とか「主人公のように生きたい」といった言葉を並べられる。書評は書きやすい。けれども悪人が主人公では「感動した」とは言いづらい。しかも、殺し屋だ。どうあがいたって、物語の途中で彼らが善人になるとは思えない(そういう物語もあるだろうけども、伊坂幸太郎はそんな話は書かない)。 最近のエンターテインメント作は、やたらと「リアリティ」というのが重視される傾向にあるけれども、伊坂の作品はその対極にある。東北新幹線が殺し屋でいっぱいで、その中で彼らが暗闘するなんて、現実ではありえない。でも「本当にそうなのかな?」と思わせてしまうところが、伊坂のすごいところで、もしかしたら普段僕らが当たり前のように乗車している新幹線の中では、毎日のように殺し屋たちが戦いを繰り広げているのかもしれない。読者の思い込みや常識に揺さぶりをかけながら、ぐいぐいと引き込んでいくのが伊坂の真骨頂で、『マリアビートル』でも、その力技が見事に発揮されている。 それでいて「人を殺したらどうしていけないのか?」という重大なテーマへも踏み込んでいるから、侮れない。殺し屋たちの物語なのに「人を殺したらどうしていけないのか?」とは、どうにも人を(読者を)くっている。相変わらず、伊坂の企みがどこにあるのかは、判然としない。けれども、まあ、そんなことはどうでもいいのだろう。書評はとても書きづらいので困るけれど。

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    投稿日: 2014.01.07
  • 来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題

    来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題

    國分功一郎

    幻冬舎

    行政という「怪物」は日本全国にいて、多くの人たちが泣き寝入りしているだろうことは想像に難くない。

    哲学者・國分功一郎の名前を知ったのは、2011年秋に刊行された『暇と退屈の倫理学』を手に取ったときだ。ちょうど哲学の勉強をしているということもあったけれども、とりわけ裏表紙に印刷された言葉に僕は惹かれた。そこにはこう書かれている――〈19世紀イギリスに「革命が起こってしまったら、その後どうしよう」と考えた人がいた。ウィリアムス・モリスだ。「わたしたちはパンだけではなく、バラも求めよう。生きることは薔薇で飾られねばならない」〉。 「革命」という響きは耽美だ。ときに人を熱狂させるけども、往々にしてそのあとに多くの混乱をもたらすことも多い。例えば「アラブの春」後の、エジプトの混迷はそれを証明している。國分さんは革命によって〈余裕を得た社会〉は〈暇を得た社会〉だとする。革命前は〈痛ましい労働〉に耐えなければならなかったから、革命自体は歓迎されるべきものだ。けれども、〈「豊かな社会」を手に入れた今、私たちは日々の労働以外の何に向かっているのか?〉と國分さんは疑義を呈した。それはつまり、〈結局は、文化産業が提供してくれた「楽しみ」に向かっているだけではないのか?〉という疑問である。 哲学は机上でうんうんと考え続けるイメージがあって、『暇と退屈の倫理学』でも既存の哲学のフレームワークを用いる。スピノザ、ハイデガー、パスカルたちの言葉を援用しながら、自身の考えを強化していく、という方法である。けれども僕は、この『暇と退屈の倫理学』を読みながら、このひとは机上からフィールドへと出ていくのだろうなと、漠然と思った。社会にコミットしようという意思が感じられたからだ。 そんなことを思いながら、僕は國分さんのツイッターをフォローしていたのだけども、ある日、彼のツイートの中に「都道328号」というキーワードが頻出するようになって、おや、と思った。名古屋に住む僕には、初めはピンと来なかったのだけれども、どうやら國分さんは近隣に新しく造られる道路について語っているらしい。けれども、哲学者と道路とは、いささか奇妙な組み合わせである。いったいなにが、國分さんの身に起きているのだろう? その答えが書かれているのが『来るべき民主主義』で、副題には「小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題」とある。都道328号線というのは、今から五十年ほど前に策定された道路である。その計画が今頃になって頭をもたげて、住民を困惑させているという。なにせ、建設予定地にはすでに民家が建ち並んでいるし、市民の憩いの場所となっている雑木林もある。さらに言えば、すぐ横には生活道路もある。わざわざ200億円をかけて新しい道路を作るのであれば、そちらの道路を整備したほうが効率的だ。住民を立ち退かせ、緑を削ってまで作る意味がわからない(僕もそう思う)。 しかし、行政はかたくなだ。一度決められたものを覆すということは、なかなかしない。國分さんが疑問に思ったのは、民主主義といわれる社会であるにもかかわらず、じつは我々には何の決定権も権利も委ねられていないという事実だ。我々が関与できるのは、議会へ我々の代表となる議員を送ることである。たしかに議会制民主主義はたいせつだ。けれども議会には、じつは私たちに身近な問題であればあるほど、その決定権がない。決定権を握っているのは、行政だ。本来であれば、行政はたんなる執行機関であるはずである。しかしその行政が絶大な決定権を握っている。これはおかしい。おかしいからこそ、住民をないがしろにした都道328号線のような事態が起きる。この国では行政が「リヴァイアサン」と化している。 だからといって、國分さんは過激な机上の空論をこの本でぶち上げるわけではない。議会制民主主義を尊重しつつ、そこに「強化パーツ」を組み入れようと提案する。今のところ、最も効果が期待できそうなのは住民投票だから、その制度を改めてみてはどうだろう。逆にいえば、住民投票の実現には現状、ものすごく高いハードルがある。さらに行政側はプロフェッショナル集団だから、素人集団である地域住民を手玉に取ることなどわけもない。住民にとっては、とても不利な状態、つまり民主的な状態ではないから、そこに修正をかけようということである。 しかし現実には、どうやらこれすらも難しいようで、住民投票は行政の暗躍(といっていいと思う)によって無効にされ、開票すら行われなかった。2013年10月、投票用紙の情報公開請求を訴える裁判の第一回口頭弁論が行われたということだが、決着を見る日は遠い。都道328号線の問題は、氷山の一角であるだろうことは容易に想像できる。行政という怪物は日本全国にいて、多くの人たちが泣き寝入りしているだろうことは想像に難くない。

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    投稿日: 2014.01.07