中島駆さんのレビュー
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アルスラーン戦記(1)
荒川弘, 田中芳樹 / 別冊少年マガジン
親子の確執(あるいは和解)の物語でもある。『鋼の錬金術師』も『銀の匙』もそれは同様で、なるほどだからこそ荒川はこの物語に強く惹かれているのかもしれない。
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僕が最初に『アルスラーン戦記』を買ったのは、たしか高校生の頃だった。角川文庫からの書き下ろしで、表紙は天野喜孝。当時は平井和正の『幻魔大戦』や栗本薫の『グイン・サーガ』といった大長編ファンタジーが流行…していたから、『銀河英雄伝説』シリーズでスペースオペラを手がけていた田中芳樹の『アルスラーン戦記』は、まさに満を持しての登場という印象だった。あの田中芳樹がファンタジーを書く。それだけでずいぶんと興奮したものである。ただ、なかなか続巻が出ない。刊行当初はそれでも年に2巻ぐらいのペースだったと思うが、徐々にそれも怪しくなってきて、ついには僕のほうが根負けしてしまった。以来、気にはかけていたものの、未読のままとなっていた。
だからこのたび、荒川弘の手によってコミカライズされたことはとても嬉しい。原作のほうは天野喜孝のイラストのイメージと、序盤の王都滅亡というシチュエーションのせいか、どうにも暗いイメージがつきまとっていたが(あくまで個人の感想です)、荒川の描くアルスラーン王子は、頼りないけども、まっすぐでとても清々しい。原作のアルスラーンだって、性格的にはもちろん同じなのだけども、ずいぶんと印象が違う。それはひとえに、荒川がすでにこの物語を自家薬籠中の物としているからだろう。時折ギャグっぽいシーンも挟まれていて、なるほどこれはまごうことなき「荒川ワールド」である。
さらに巻末には荒川と田中との対談も収録されていて、こちらも読みごたえがあった。両者の創作人生のきっかけや、物語設定の裏話(ペルシャを舞台としていたとは、まったく知らなかった)、原作との違い(今回のコミック版では、原作の前日譚が第一話として描かれている)など、いやがうえにも続刊を期待させる内容となっていて、今から待ち遠しい。よくよく考えれば、『アルスラーン戦記』は親子の確執(あるいは和解)の物語でもある。『鋼の錬金術師』も『銀の匙』もそれは同様で、なるほどだからこそ荒川はこの物語に強く惹かれているのかもしれない。
続きを読む投稿日:2014.05.03
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七つの大罪(1)
鈴木央 / 週刊少年マガジン
絵柄やギャグのセンスは鳥山明、ちょっとシリアスな場面には浦沢直樹の影響が見て取れる。女の子は士郎正宗か。
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中世ヨーロッパ風の世界を舞台にしたファンタジー。「七つの大罪」とはもともとはキリスト教からくる言葉だが、漫画好きならまずは『鋼の錬金術師』を思い出すのではないか。鋼錬に登場するホムンクルスたちの二つ名…はそれぞれ「七つの大罪」から採られていた。「傲慢」「色欲」「強欲」「嫉妬」「怠惰」「暴食」「憤怒」の七つの欲望で、これは人間を罪へと導く悪しき感情であるとされる。だから鋼錬では悪の側にこれらの名が使われたわけだけども、鈴木央『七つの大罪』では、正義の側の二つ名となっている。主人公メリオダスは「憤怒」、巨人族の女の子ディアンヌは「嫉妬」という具合。
ではなぜ正義の側に、悪しき二つ名が冠されているのか。それは彼らが罠にはめられて、国を追われたからだ。この世界では「聖騎士」と呼ばれるものたちが力を持っていて、メリオダスはかつてダナフォールという王国の聖騎士団団長を務めていた。ところが10年前のある日、彼らの長である聖騎士長が何者かに暗殺される。ただし、メリオダスは「団長……すまない……」という仲間の声(誰かは不明)を聴いたのを最後に、事件の記憶がない。つまり「七つの大罪」のうちのなかに裏切り者がいるということがほのめかされる。以来「七つの大罪」と呼ばれる七人は、罪人として散り散りになり、現在に至っている。
そして10年後、移動居酒屋の主人として残りの六人を探していたメリオダスは、リオネス王国の王女エリザベスと出会う。彼女の国では聖騎士たちのクーデターが起こり、王都が陥落。王国の再興を決意した彼女は、「七つの大罪」たちに支援を求めるべく旅をしていたのだが、ひょんなことからメリオダスと出会い、彼に同道することとなる。物語はそこからスタートして、回を追うごとに「七つの大罪」のメンバーが登場し、集結するというのが、今のところのおおまかな筋立てである。
作者の鈴木央というひとは1977年生まれで、1996年にジャンプでデビューしたらしい。その後、サンデー、チャンピオン、マガジンと、四つの週刊マンガ誌を渡り歩いているというからこれはちょっと珍しい。絵柄やギャグのセンスは鳥山明、ちょっとシリアスな場面には浦沢直樹の影響が見て取れる。女の子は士郎正宗か。つまり人気漫画家のいいとこどりをしているわけで、おそらくは器用なひとなのだろう。ストーリーはバトル漫画のテイスト。もともと主人公たちの設定が強すぎるので、それに敵対するキャラのハイパーインフレが気にかかるところではある。このあたりは「ドラゴンボール」に近い。鋼錬のように、本筋からぶれずに緻密な物語を構築できれば、さらに読み応えのある作品へと成長するのではないか。 続きを読む投稿日:2013.12.29
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ナウシカの飛行具、作ってみた 発想・制作・離陸――メーヴェが飛ぶまでの10年間
八谷和彦, 猪谷千香, あさりよしとお / 幻冬舎
八谷さんのメーヴェを、僕は見に行きたい。そこではきっと、17歳の頃、『風の谷のナウシカ』を初めて観たときの僕に出会えるような気がするのだ。
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タイトルには「作ってみた」と軽く書かれているが、これは10年をかけた一大プロジェクトの記録である。八谷さん(と、同年代、かつ「ナウシカ」と「ポストペット」に衝撃を受けた世代として、あえて“さん”づけで…呼ばせて頂ければと思う)のメーヴェはジェットエンジン搭載なのだ。2008年の時点で7000万円のコストがかかっていたというから、これはもう「作る」というよりも「開発・製造」という言葉のほうがふさわしい。だからこれは、現在では絶えて久しい国産航空機の復活へ向けての一石でもある。もちろん、三菱リージョナルジェットのような大規模な国家プロジェクトではないけれども、八谷さんが書くように〈一旦途絶えた日本の飛行機の系譜を継ぐ〉ものであることは間違いない。
それと同時にこの本は「飛ぶことに憧れた」ひとりの人間の軌跡でもある。そして人間にとって「飛ぶこと」とは、どんな意味を持つのか、ということを突きつめた思想の書でもあると思う。その思想の源流が宮崎駿にあることは明らかだけども、僕はその奥に、宮崎駿がリスペクトするサン=テグジュペリの存在を感じずにはいられなかった。『星の王子さま』の著者にして、郵便飛行士として大空をかけたサン=テグジュペリ。彼はユダヤ人の友人のために『星の王子さま』を書いた。戦争の愚かさを暗喩した表現は、『星の王子さま』にはたくさん散りばめられていて、例を挙げればきりがない(「六か月のあいだ眠って、えものを消化していく大蛇」や「三本のバオバブの木」などがそうだ)。そうして八谷さんもまた、イラク戦争を機に、メーヴェの製作を決意した。〈いつか現れるナウシカのために、調停のための飛行機を作って世界が変わるのを待とう〉と考えたからだ。
しかし当然のことながら、個人が「飛行具」を製造することは難しい。コストの問題はもちろん、そもそも飛行機は国内生産されていないから技術者がいない。さらに言えば、メーヴェは架空の乗り物だ。作った機体がほんとうに空を飛べるかどうかも怪しい。結果的には、いずれの課題に対しても、八谷さんは不屈の精神でもって実現させていくわけだけども。でも僕は(これは本書のライティングを担当した猪谷さんも書いていることだけども)、八谷さんがなぜこれほどまでにメーヴェづくりに没頭したのか、その理由がわからなかった。というか、この本にはその理由が書かれていない。猪谷さんによれば、八谷さんはその問いに対して〈若干、いらっと〉しながら「どうしてその答えが必要なんですか?」と切り返したのだそうだ。
サン=テグジュペリは『星の王子さま』のなかで「いちばんたいせつなことは、目に見えない」と書いた。砂漠が美しいのは、「どこかに井戸を、ひとつかくしているから」なのだ。けれども僕たちは、しばしば目先のこと、表面的なことに囚われてしまい、そこに隠れているものの美しさに気づかない。おそらくは八谷さんの「いちばんたいせつなこと」も、僕らの眼には見えないのだろう。だからこの本の中でも、飛ぶことの理由は語られないのだと思う。
そしてもうひとつ、『星の王子さま』は「個」と「普遍」との違いを問うた物語でもある。王子の星の薔薇と地球の薔薇とは、一見、同じように見える。けれども王子の薔薇は、世界にたった一つの大切な薔薇だ。だから八谷さんのメーヴェは八谷さんのたったひとつのメーヴェだけれども、それを目の当たりにしたひとたちは、きっと自分だけのメーヴェをそこに見るだろう。そんな八谷さんのメーヴェを、僕は見に行きたい。そこではきっと、17歳の頃、『風の谷のナウシカ』を初めて観たときの僕に出会えるような気がするのだ。
続きを読む投稿日:2014.01.07
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地球の放課後(1)
吉富昭仁 / チャンピオンRED
閉塞感漂う今の世の中だからこそ、生まれた「終末」なのかもしれない。
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ある日突然、孤島に取り残される。あるいは、人類が消失してしまう。そんなパニック映画や小説は、これまで多くのこされてきた。そしてそうした物語は、たいてい「悲劇」のかたちをとる。例えば、ウィリアム・ゴール…ディングの『蝿の王』みたいに。いっしょにサバイブする仲間がいつしか対立し、やがて殺し合う。物資が貧窮すれば、ひとは容易に暗黒面に落ちる。それが「リアル」な人間の姿だと、なぜだか僕たちは思い込んでいる。
吉富昭仁『地球の放課後』は、そんな先入観を、あっさりと覆してしまう不思議な作品。舞台は、「ファントム」という異形のモノたちによって、人類が消え去った東京。そこに四人の少年少女がいる。誰もいなくなった町で、彼らは自給自足の生活を送っている。家族と離ればなれになったのはもちろん悲しい出来事だ。でも、まずは仲間がいてくれれば、当面の心配はない。ときどき、ファントムに狙われることはあるけれど。
なによりも、自由だ。学校に行く必要も、もちろんない。道路の真ん中で寝ても大丈夫。物資は溢れている。太陽電池が動くから、ライフラインも当面は維持できる。海へ行けば、そこはプライベートビーチだし、水着姿やコスプレをして街中を闊歩しても、誰に見とがめられることもない。大量の花火を豪快に打ち上げてもオーケー。恋愛だってする。だからこれは「地球の放課後」。みんなは必ず帰ってくる。ならばこの状況を楽しんでしまえ。ここで描かれる「終末」はとても楽観的だけれども、あり得なくはない。むしろ、閉塞感漂う今の世の中だからこそ、生まれた「終末」なのかもしれない。
続きを読む投稿日:2015.04.11
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漫画で描き残す東日本大震災 ストーリー311 あれから3年
ひうらさとる, 青木俊直, うめ, おおや和美, 岡本慶子, さちみりほ, 新條まゆ, ななじ眺, 二ノ宮知子, 葉月京, 松田奈緒子 / カドカワデジタルコミックス
人気漫画家たちが、実際に被災地に足を運んだり、被災者の声を聞くことを通じて描き下ろされた競作集
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『ストーリー311』とは、『ホタルノヒカリ』のひうらさとるが2012年2月に立ち上げたプロジェクトで〈「漫画に出来ることは何なのか?」という問いへのひとつの答え〉として生まれた。その第1巻は2013年…3月に刊行され、その続巻となるのがこの『ストーリー311 あれから3年』。執筆者は、ひうらさとる、青木俊直、うめ、岡本慶子、新條まゆ、二ノ宮知子、松田奈緒子、葉月京、ななじ眺、さちみりほ、おおや和美の11名の漫画家たち。人気漫画家たちが、実際に被災地に足を運んだり、被災者の声を聞くことを通じて描き下ろされた競作集である。
とはいえ、実現に向けてはかなりの試行錯誤と苦難があったらしい。作家への声掛けから資金集め、出版社との交渉、流通、販売までを、いわば「手弁当」で賄ったわけで、それは〈全国に流通する本を作るというのは 金銭的にも体力的にも 大変なことなんだと実感しました〉と語る、ひうらの描くプロローグから窺うことができる。「第2巻を」という読者の声は多いものの、先立つものがない。さらには、〈そもそも……私たちのやることが今の東北に必要とされてるんだろうか……〉という迷いもある。
この迷いは、おそらく震災から3年目を迎えた今、被災者以外の多くの人が感じていることだろう。復興がまだまだ道半ばであることは、誰でも知っている。原発事故がまったく収束などしていないことも。「何か力になりたい」とは思う。けれども、いまさら自分に何ができるだろう。逆に足手まといになるだけではないのか。そう考えて、躊躇してしまう。少なくとも僕はそう。だから〈みんな迷いながら精一杯描いた作品ばかり〉という、ひうらの言葉には、とても共感するものがある。だれだって、まだ、迷いの中にいる。
それでもやはり、漫画の力、漫画家の力はすごいな、と感嘆せざるを得ない。例えば、さちみりほが描く第1話。原発事故対応にあたる福島第一原子力発電所所員たちの「あの日」を描いた作品だが、当然のことながら、これはのちの証言から描き出されたシーンだ。それでも、漫画であれば「あの日」の原発内の様子を、リアルに「再現」することができる。のみならず、そこに「物語性」を仮託することができる。テレビやネットで流される写真や映像は、たしかに「事実」かもしれない。けれどもそれらの多くは「断片的」にしか、私たちに情報を与えてくれない。それらを整理し、自分の中に浸透させるには、筋の通った「物語化」が必要だ。でもそれはなかなかに難しい。
写真でも映像でもない。漫画だからこそ、伝えられる真実がある。キーワードは「物語」。そのことをこの『ストーリー311』は、改めて教えてくれる。ここに描き表わされた「物語」の主人公は実在していて、それぞれが東北の地に踏みとどまって生きている。名もなき一人一人の人生には、唯一無二の「ストーリー」がある。「被災者=悲劇の人」では、けしてない。喜怒哀楽に満ちた人生を、被災しなかった僕たち同様に(当たり前だけれども)送っている。そのうえで、僕たちはどのように震災と向き合えばよいのか。そのヒントを、漫画家たちは示してくれている。
続きを読む投稿日:2014.03.13
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来るべき民主主義 小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題
國分功一郎 / 幻冬舎
行政という「怪物」は日本全国にいて、多くの人たちが泣き寝入りしているだろうことは想像に難くない。
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哲学者・國分功一郎の名前を知ったのは、2011年秋に刊行された『暇と退屈の倫理学』を手に取ったときだ。ちょうど哲学の勉強をしているということもあったけれども、とりわけ裏表紙に印刷された言葉に僕は惹かれ…た。そこにはこう書かれている――〈19世紀イギリスに「革命が起こってしまったら、その後どうしよう」と考えた人がいた。ウィリアムス・モリスだ。「わたしたちはパンだけではなく、バラも求めよう。生きることは薔薇で飾られねばならない」〉。
「革命」という響きは耽美だ。ときに人を熱狂させるけども、往々にしてそのあとに多くの混乱をもたらすことも多い。例えば「アラブの春」後の、エジプトの混迷はそれを証明している。國分さんは革命によって〈余裕を得た社会〉は〈暇を得た社会〉だとする。革命前は〈痛ましい労働〉に耐えなければならなかったから、革命自体は歓迎されるべきものだ。けれども、〈「豊かな社会」を手に入れた今、私たちは日々の労働以外の何に向かっているのか?〉と國分さんは疑義を呈した。それはつまり、〈結局は、文化産業が提供してくれた「楽しみ」に向かっているだけではないのか?〉という疑問である。
哲学は机上でうんうんと考え続けるイメージがあって、『暇と退屈の倫理学』でも既存の哲学のフレームワークを用いる。スピノザ、ハイデガー、パスカルたちの言葉を援用しながら、自身の考えを強化していく、という方法である。けれども僕は、この『暇と退屈の倫理学』を読みながら、このひとは机上からフィールドへと出ていくのだろうなと、漠然と思った。社会にコミットしようという意思が感じられたからだ。
そんなことを思いながら、僕は國分さんのツイッターをフォローしていたのだけども、ある日、彼のツイートの中に「都道328号」というキーワードが頻出するようになって、おや、と思った。名古屋に住む僕には、初めはピンと来なかったのだけれども、どうやら國分さんは近隣に新しく造られる道路について語っているらしい。けれども、哲学者と道路とは、いささか奇妙な組み合わせである。いったいなにが、國分さんの身に起きているのだろう?
その答えが書かれているのが『来るべき民主主義』で、副題には「小平市都道328号線と近代政治哲学の諸問題」とある。都道328号線というのは、今から五十年ほど前に策定された道路である。その計画が今頃になって頭をもたげて、住民を困惑させているという。なにせ、建設予定地にはすでに民家が建ち並んでいるし、市民の憩いの場所となっている雑木林もある。さらに言えば、すぐ横には生活道路もある。わざわざ200億円をかけて新しい道路を作るのであれば、そちらの道路を整備したほうが効率的だ。住民を立ち退かせ、緑を削ってまで作る意味がわからない(僕もそう思う)。
しかし、行政はかたくなだ。一度決められたものを覆すということは、なかなかしない。國分さんが疑問に思ったのは、民主主義といわれる社会であるにもかかわらず、じつは我々には何の決定権も権利も委ねられていないという事実だ。我々が関与できるのは、議会へ我々の代表となる議員を送ることである。たしかに議会制民主主義はたいせつだ。けれども議会には、じつは私たちに身近な問題であればあるほど、その決定権がない。決定権を握っているのは、行政だ。本来であれば、行政はたんなる執行機関であるはずである。しかしその行政が絶大な決定権を握っている。これはおかしい。おかしいからこそ、住民をないがしろにした都道328号線のような事態が起きる。この国では行政が「リヴァイアサン」と化している。
だからといって、國分さんは過激な机上の空論をこの本でぶち上げるわけではない。議会制民主主義を尊重しつつ、そこに「強化パーツ」を組み入れようと提案する。今のところ、最も効果が期待できそうなのは住民投票だから、その制度を改めてみてはどうだろう。逆にいえば、住民投票の実現には現状、ものすごく高いハードルがある。さらに行政側はプロフェッショナル集団だから、素人集団である地域住民を手玉に取ることなどわけもない。住民にとっては、とても不利な状態、つまり民主的な状態ではないから、そこに修正をかけようということである。
しかし現実には、どうやらこれすらも難しいようで、住民投票は行政の暗躍(といっていいと思う)によって無効にされ、開票すら行われなかった。2013年10月、投票用紙の情報公開請求を訴える裁判の第一回口頭弁論が行われたということだが、決着を見る日は遠い。都道328号線の問題は、氷山の一角であるだろうことは容易に想像できる。行政という怪物は日本全国にいて、多くの人たちが泣き寝入りしているだろうことは想像に難くない。 続きを読む投稿日:2014.01.07