妻の終活
坂井希久子(著)
/祥伝社文庫
作品情報
末期がんで余命1年の宣告先逝く妻の心情は? 残された夫の胸中は?そして妻は生涯最後の行動に出た――。夫婦とは、家族とは。感涙必至の傑作!余命1年。42年連れ添った妻杏子が末期がんを宣告された。70歳を前になお嘱託として会社に人生を捧げる一ノ瀬廉太郎は愕然とした。炊事や洗濯など自分の身の回りのことは何もできないのに、子供じみた意地を張るばかりの夫であった。そんな父に、娘は母をもう解放してと責め立てる。妻への後悔と自分の将来に対する不安に襲われた廉太郎は・・・・・・。感涙必至の傑作!
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この作品のレビュー
平均 4.1 (22件のレビュー)
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あなたは、自分の娘にこんなことを言われたとしたらどう思うでしょうか?
『だからお願い、もうお母さんを解放してあげて』
夫婦の関係性は夫婦の数だけあります。どんなに親しい間柄であったとして…も、他の夫婦の関係性はなかなかに窺い知ることはできません。仲が良いと思っていたのに、離婚したという報告を聞く、そのようなことは決して珍しくはないと思います。また、長年連れ添って来た夫婦が、子どもの就職をきっかけに、もしくは夫の定年をきっかけに離婚した、熟年離婚という言葉もよく耳にします。しかし、そんな離婚のその先に別れた二人がそれぞれどんな道を歩んでいるのか、一人になったからこそ、相手の存在の大きさが見えて来た、そんな思いに溢れている方もいるかもしれません。それは、一人になったからこそ見えて来た景色とも言えます。
一方で、離婚する意志などない中に、予期せぬ別れによって一人の時間を過ごす可能性もあります。それこそが、いずれか一方の死です。それは、一つには交通事故など突然に訪れる場合が考えられます。別れの挨拶をすることさえ叶わずに訪れる別離の先の時間。そこには日常の突然の変化に順応していく他ない時間が待っているのだと思います。そして、もう一つが、余命○ヶ月と宣告された先に別れが訪れる場合です。この場合、別れの時間までに二人には一定の時間的猶予が与えられることになります。避けることのできない別れのXデー。そんなXデーまでの時間をどう過ごすのか、それはそんな二人の真の関係性が問われる時間と言えるものかもしれません。
さて、ここに、『率直に結論から言います。現在の医療では、一ノ瀬さんを助けることは困難です』と『虫垂がん』により『余命一年』を宣告された妻と暮らす夫が主人公となる物語があります。『お前死ぬのか?』と本人に無神経な問いかけをする主人公にイライラが募るこの作品。そんな夫に『お父さんが一人になってからのことを考えると、心配でたまらないんです』とそれでも夫を思う妻の姿が描かれていくこの作品。そしてそれは、『もう一ヵ月以上になるというのに、廉太郎は妻が末期がんだという事実をこれっぽっちも受け止められていない』という夫のことを妻がどんな風に思ってきたかをその結末に見る物語です。
『明後日、病院について来てくれませんか』と妻の杏子に言われて『明後日って、平日じゃないか』と返すのは主人公の一ノ瀬廉太郎。『今年の冬で七十になる廉太郎は、大学新卒からずっと勤めてきた製菓会社に再雇用され、今も嘱託として働いてい』ます。『仕事を休めるわけがないだろう』と続ける廉太郎に『すみませんでした』と『口先ばかりの謝罪を残し、立ち上がった』妻。廉太郎は『このときの妻の、沈痛な面持ちを見逃し』ました。場面は変わり、最寄りの春日部駅で電車を降り『歩くと二十五分はかかる』という家へと帰ってきた廉太郎は、玄関灯が消えていることに気付きます。インターフォンにも反応がないために『しかたなく鍵を取り出し』家へと入り、『おい、帰ったぞ』、『杏子。おい、杏子!』と『声を張り上げる』も返事はありません。慌てて妻に電話をかけると『病院に行きますって、今朝も言ったじゃないですか』と言われます。長女の美智子の家にいるという杏子にそのまま泊まると言われ、『俺の飯はどうするんだ!』と返すも通話は切れてしまいました。そして、四日経っても帰ってこない杏子の一方で、『着られるワイシャツ』がなくなっていくのに焦る廉太郎。日曜になり、『散歩がてら買い物に出』て帰って来ると鍵が開いており、室内に上がると美智子が出てきました。『ゴミ捨てくらいちゃんとしなよ。家入った瞬間臭くて死ぬかと思ったよ』と言う美智子に、『お前、また肥えたな』と返すと、『はあっ?そういうところ…ほんっと腹立つんだけど!』と美智子は喚きます。そして、ダイニングへ入ると『お茶、淹れましょうか』と言う杏子の姿がありました。『お前、なんでいるんだ』と入ってきた美智子に言うと『ほんっと失礼。お母さんのために来たに決まってるじゃない』と返されます。そして美智子は、『お母さん、自分で言える?』と訊くも『ぴくりとも動かない』杏子。『じゃあいいのね。私が言っちゃうよ』と話し出した美智子は、『お母さんね、この間盲腸の手術をしたでしょう』、『あれね、調べてみたらがんだったって』、『播種の状態だって。いろんなところに飛び散っちゃってて、もうね、取れないんだって』と続けます。それを聞いて『がん、ガン、癌?』と『心臓がどくりと跳ねた』廉太郎は、『唇を震わせて耐えてはいるが、目の縁に涙が盛り上が』っている美智子に気付きます。『すみません。もう助からないそうです』と『落ち着いた目』で話す杏子に、混乱する廉太郎が『ー 聞いてない』と言うと『あたりまえでしょう!だって、病院について行かなかったんだから!』と『堪えていた感情』を爆発させる美智子。『喚き立て』る美智子から杏子に目を移した廉太郎は、『お前、死ぬのか?』と言います。それに、『お父さん!』と『金切り声を上げる』美智子。『どのくらい?』と訊く廉太郎に『もって一年と言われました』と返す杏子。『もしかすると来年の新茶は、一緒に飲めないかもしれない』と考える廉太郎。そんな廉太郎に、『いきなりだよね。あんまりだよね』と、『呼吸困難のように喘』ぐ美智子は、『だからお願い、もうお母さんを解放してあげて』と『必死に言葉を紡』ぎました。余命一年を宣告された妻・杏子の終活、それを間近に見る夫・廉太郎の一年が描かれていきます。
“末期がんで余命一年の宣告 先逝く妻の心は?残された夫の胸中は?そして妻は生涯最後の行動に出た ー。夫婦とは、家族とは。感涙必至の傑作!”と本の帯に大きくうたわれるこの作品。晴天の空に向かって咲く白い薔薇が「妻の終活」という書名の先にある結末をどこか暗示させてもいます。”末期がん”という設定の先の物語を描く小説はこの世に数多あります。同じように妻が”末期がん”という設定だけとっても、私が最近読んだ山崎ナオコーラさん「美しい距離」では、死にゆく妻との時間を共に過ごす夫の姿を淡々とした筆致の中で描いていたのが強く印象に残っています。そして、この作品で坂井希久子さんが描くのは、”末期がん”という状況に置かれた妻が”生涯最後の行動”に出る様が描かれ、それを夫視点で描いていく物語です。
では、まずは妻が患う『がん』についてです。この作品で『がん』となる主人公・廉太郎の妻・杏子が罹患したのは、私には全く初耳の『虫垂がん』です。『一ノ瀬さんの状態は、虫垂がんのステージ4』と説明され、『腫瘍細胞が腹腔内に散らばって、ゼリー状の粘液が貯留している』とかなり難しい説明が医師の説明の中で語られていく『がん』。『粘液状のものだから、外科手術では完全切除できない』、『放射線治療も、標的がないから照射しても意味がない』というその病気は、『きわめて珍しいがん』で、『現在の医療では、一ノ瀬さんを助けることは困難』であることが語られていきます。このことによって登場人物たちはもとよりこの作品を読む読者にもその結末が揺るがないことがはっきりさせられます。そう、この作品は”末期がん”という病気自体に立ち向かう先に奇跡を見る物語ではなく、動かせない前提の中で、登場人物たちがどのように行動していくのか、それを描いていく物語なのです。
次にそんな作品に登場する一ノ瀬家の家族を整理しておきましょう。
・廉太郎: 夫、69歳、『製菓会社に再雇用され、今も嘱託として働』く。埼玉県春日部市に在住。
・杏子: 妻、67歳、結婚を期に『地銀の窓口』担当を退職し、専業主婦。『虫垂がん』に罹患。
・美智子: 長女、40歳、夫・今田哲和、三児を設ける、駒込のマンションに在住
・恵子: 次女、37歳、パートナー有、大阪在住。
物語は杏子が『虫垂がん』と診断されたことを起点に家族四人の関係性を少しづつ明らかにしていきます。そして、そこに見えてくるのは『日本全国に』『飽きるほどいる』、廉太郎世代の『スタンダード』と語られる家族像です。
『仕事一筋の夫と、家事育児を一手に担ってきた妻。共通の話題はろくになく、子供も父親にはさほど懐いていない』。
正直なところ冗談としか思えないその家族の描写、特にあり得ないとしか言いようのない廉太郎の言動、行動には読者をもイライラの感情が襲います。物語冒頭、病院への付き添いを杏子が廉太郎に申し出る場面から二人の会話を抜き出してみましょう。
・杏子『明後日、病院について来てくれませんか』
・廉太郎『明後日って、平日じゃないか』
・杏子『そりゃあ、外来は土日がお休みですから』
・廉太郎『だからなんだって言うんだ。そんな急に、仕事を休めるわけがないだろう』
・杏子『仕事と言ったって、嘱託じゃありませんか』
・廉太郎『仕事は仕事だ!ろくすっぽ働いたことのないお前には分からんだろう。馬鹿にするな!』
・杏子『すみませんでした』
(席を立つ)
・廉太郎『母さん、早くビール!』
いかがでしょうか?たったこれだけの抜粋だけでも廉太郎と杏子の関係性が見えてきます。廉太郎と杏子は『見合い結婚だからお互い熱烈に惚れ合って一緒になったわけではない』という先に夫婦としての今までを生きてきました。しかし、そこに見えるのは、二歳年下にすぎないのに、会話に見え隠れする杏子のへりくだり感と、専業主婦である妻をあからさまに見下す廉太郎の姿勢です。この会話に見える関係性は最後まで一貫して続けられていきますが、正直なところ私にはこれが令和の世に本当にあるのだろうか?としか思えません。その一方で夫婦の関係性ほど外から窺い知ることができないものはありません。このレビューを読んでくださっているあなたは、あなた自身、もしくはご両親夫婦はこんな感じで会話をされていたりするのでしょうか?
次は、廉太郎という男のこれまた信じられない生態です。
・『ボタンが取れたくらいなら、縫いつければいいじゃありませんか』と杏子に言われた廉太郎
→ 『この女は、俺が針と糸を扱っているのを見たことがあるのか。あるはずがない。だって、一度も手にしたことがないのだから』と心の中で思いつつ、『そんなもの、できるはずがないだろう』と怒鳴る。
・『何時に帰ってくるんだ?』と廉太郎に訊かれ、美智子の家に泊まることにした杏子は、『帰りませんよ。泊まるんですから』と答えます。
→ 『なんだと。俺の飯はどうするんだ!』と聞き返す廉太郎
→『冷凍うどんの買い置きがありますけど』と提案する杏子
→ 『そんなもの、どう扱えばいいのか分からん!』と言う廉太郎
・杏子が二週間の入院から退院し、美智子と一緒に家に帰ってきた場面。
→ 『玉ねぎが腐ったような臭いが立ち込めていた』、『一度も洗濯機回してない』、コバエが湧いている、『部屋の隅に溜まった綿埃が、砂漠の回転草のように畳の上を転がっている』
どうでしょうか?上記の会話から想像する人物そのものといった生態が描かれていきます。家庭を一切顧みないで仕事、仕事、仕事と生きて来たいかにも昔気質の男、妻のサポートがないとこうだろうなという見本のような姿がそこにあります。そして、わずか二週間の自らの不在で何がそこに起こるのかを見てしまった妻・杏子はこんな風に語ります。
『私は今、猛烈に反省しているんです。あなたがこんなになにもできない人になってしまったのは、きっと私のせいなんですね』。
こんな惨めな姿を晒す夫を見下すのではなく、自らの落ち度と考える妻・杏子。ここに、”そして妻は生涯最後の行動に出た”と本の帯に記される妻の姿が描かれていきます。それこそが、
『お父さんが一人になってからのことを考えると、心配でたまらないんです』。
この期に及んでも自分が亡くなった後、一人で生きていくことになる夫・廉太郎のことを思う杏子の深い思いがそこに伝わってきます。しかし、上記で見てきた廉太郎がそんな簡単に変わるはずもなく、こんなことを言い出します。
『そんな心配をするくらいなら、自分の体を治せ!』
読者の開いた口を塞げなくするに十分なこの呆れた台詞。
『治らないんですってば。何度言えば分かるんですか!』
流石の杏子が声を荒げるのは当たり前のこととも言えます。しかし、それでも杏子は廉太郎のことを思います。
『私がいなくなったら、あなたの健康を守れるのはあなただけなんです… お願いします。もうあまり、時間がないんです』。
こんなことまで妻に言わせる夫の情けなさ。これはもうあり得ないレベルです。しかし、この情景が『廉太郎たちの世代では、スタンダード』とするならこのような情けないことが、この国では当たり前のように起こっているとも言えます。日本のお父さん、わかってますか!読んでいてあまりのイライラ感に同じ男としてただただ申し訳なくなるとともに、この国に実際にいるであろう情けない男たちに喝!を入れたい思いに心が満たされました。
そして、そんな物語は廉太郎の心持ちが少しづつ変化し、洗濯、掃除…と少しずつできるようになっていく中に展開していきます。
『この女は、どうして俺を捨てないのだろう。余命わずかとなってまで、なぜこんなによくしてくれるのだろう』。
物語は、ネタバレ以前の問題としてこの作品の設定からある意味予定された結末へと展開していきます。そんな中に美智子、恵子姉妹の廉太郎、杏子へのスタンスの違いも丁寧に描かれていきます。杏子の最後の瞬間へと向かう家族の面々、その中にあって変化する部分と変化しない部分にリアルさを感じさせる廉太郎の姿。そんな結末へと向かう物語に、恐らく読者の誰もが予想できない展開を坂井さんは結末の最後に埋め込まれます。これが伏線だったのか!という衝撃。ある意味どんでん返しとも言えるその結末。「妻の終活」という通り、視点こそ夫・廉太郎に固定されるものの、あくまで物語の主体が妻にあることを見事に描き切った作品だと思いました。
『なんで自覚がないの。お父さんはずっと、お母さんの人生を搾取してきたんじゃない!』
長女・美智子の言葉に『図星を指された』主人公の廉太郎。この作品には、家庭を全く顧みず、仕事に邁進する中に人生を生きて来た一人の男と、余命一年となってもそれでも夫を案じる妻の姿が細やかな描写の中に描かれていました。廉太郎の無神経極まりない言動、行動の数々に怒りが抑えられなくなってくるこの作品。そんな夫のことを最後の瞬間まで思い続ける妻の姿勢に魅せられるこの作品。
『がん』は実は一番幸せな死に方とも言われ出した昨今、改めて『がん』という病の特殊性に思いを馳せることにもなった素晴らしい作品でした。続きを読む投稿日:2023.08.05
死と向き合い、生を見つめ直す
生きていることがあたりまえ、毎日の繰り返しもあたりまえ
そんなあたりまえの幸せは、死と向き合うときでないと見つめ直せないのは悲しい
廉太郎だって、男たる者、仕事優先が是…とされ、それが正しいと突っ走って生きてきた
ライフワークバランスと言われる今、生はより見つめ直されているのだろうか
杏子さんが本当に強い女性でステキだった
妻の終活のおかげで、夫の終活、残りの人生が変わる
七章で泣かされ、終章で杏子さんの強さに圧巻。
カレンダーの○×エピソード。
廉太郎は死ぬまで杏子さんの存在に支えられるだろう続きを読む投稿日:2024.03.01
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