AMEBIC
金原ひとみ(著)
/集英社文庫
作品情報
摂食障害気味の女性作家「私」のパソコンに日々残されている意味不明の文章=錯文。錯乱した状態の「私」が書き残しているらしいのだが・・・。関係を持った編集者の「彼」とその婚約者の「彼女」をめぐって、「私」の現実は分裂し歪んでいく。錯文の意味するものとは。錯乱した「私」は正気の「私」に何を伝えたいのか。孤独と分裂の果てには何が待つのか。著者の大きな飛躍点となった第三長編。
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商品情報
- シリーズ
- AMEBIC
- 著者
- 金原ひとみ
- 出版社
- 集英社
- 掲載誌・レーベル
- 集英社文庫
- 書籍発売日
- 2008.01.23
- Reader Store発売日
- 2019.06.14
- ファイルサイズ
- 0.3MB
- ページ数
- 176ページ
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この作品のレビュー
平均 3.1 (61件のレビュー)
-
あなたは、二人で行った食事の席で相手にこんなことを言われたとしたらどう思うでしょうか?
『私は食事を摂らない主義なので』
人がこの世を生きていく中では衣食住はそれぞれに大切です。どれも疎か…にして良いものでもありませんが、特に”食”は生物として人がこの世に存在するために欠かせないものです。人が生きていくためのエネルギーの源泉としての”食”。それを『摂らない』という選択肢は普通にはありえないことです。
しかし、この世にはさまざまな人がいます。食べたいのに食べられない人もたくさんいます。またその一方で食べたくないので食べないという選択肢を選ぶ人もいます。いわゆる摂食障害という疾患のある人です。拒食症と過食症に分けられるその疾患は今や全国で22万人もいらっしゃるというから驚きです。死亡率が5%にもなるというその疾患。人が生きていくために欠かせない”食”を摂ること一つとってもそれをさまざまに捉える必要があるのだと思います。
さて、ここに『食事を摂らない』ことを『主義』と主張する一人の女性が主人公を務める物語があります。『食べ物は大根と胡瓜が限界』と言うその女性は『私は飲み物と漬け物で生きてるので』と自らのことを説明します。この作品は、そんな女性が作家として生きる様を見る物語。そんな女性が、婚約者がいる男性と関係を持っていく姿を見る物語。そしてそれは、そんな女性が『錯文』を繰り返す中に『らりっていたのは私だった』と気づく瞬間を見る物語です。
『この美しく細い身体で。華麗にそう華麗に。どうにか。こうにか。私は美しく愛をしたい。見てくださいよこの身体ほらー、細いでしょ?もうんぬすごい曲線美でしょーこれ…”ててに』、『起床から十分』、『スタンバイ状態になっているパソコンを起動させると、全面に改行のない、実に読みにくい文書が残っていた』とそんな文章を読むのは主人公の『私』。そんな『私』は『静かに肩を落とし、今日の打ち合わせをキャンセル、もしくは延期してもらおうかと考え』ます。『意識が朦朧とするほど錯乱する事があり、その時に文章を書き残すという癖がある』という『私』は、『数ヶ月前から始まった』その癖を最初は面白がっていたものの、『自分に対して様々な不安を感じるようになり』『自己嫌悪に陥』るようになりました。『今回のものは、「”ててに」などという文字で締めくくられていたし、文書名は「はきとし」となってい』ます。『打ち合わせ、どうしよう。今の自分に何かが出来る気がしなかった』と、『呆然と座り込』んだ『私』でしたが、『足を踏ん張り、歯を嚙み締め、涙を飲みながら打ち合わせに出かけ』ました。そして、『打ち合わせの内容はほとんど覚えていないが、ある程度充実した打ち合わせも出来た』という『私』は、『疲れた疲れたと言いながらソファに横たわ』ります。『仕事は、明後日締め切りのものが一つあるだけで、後はしばらく余裕がある』と気持ちが『少しだけ楽になった』『私』は、一方で『私は満身創痍である。もっと何か、首が飛んでいたり血まみれだったり、周りの人間にも分かりやすい満身創痍だったら、少しは報われていたのかもしれない』とも思い『次々とサプリメントの蓋を開け、取り出した粒達を口に放』ります。場面は変わり、新宿へと出かけた『私』は、『献血ルームと書かれた置き看板』を見かけ中に入ります。『あなた、痩せすぎね』『四十キロ以下は無理です』と説明する看護婦に促され体重計に乗る『私』。『私は献血が大好きである。血を抜かれるだなんて、とてもどきどきする』という『私』でしたが、『三十二キロですよ。服を脱いだら三十キロ前後ですよきっと。二百も四百も成分献血も全血献血も、四十キロ以下の方は出来ないんです』と看護婦に説明されました。そして、献血を断られ場を後にした『私』。作家でもある主人公の『私』が錯乱した状態で書いた『錯文』と対峙しつつ、『食事を摂らない』日々を生きていく姿が描かれていきます。
“摂食障害気味の女性作家「私」のパソコンに日々残されている意味不明の文章=錯文”、”錯文の意味するものとは。錯乱した「私」は正気の「私」に何を伝えたいのか。孤独と分裂の果てには何が待つのか”と、何か危うい雰囲気が色濃く漂う内容紹介に、読むのを一瞬躊躇もするこの作品。2005年7月の文芸誌「すばる」に掲載された金原さんの最初期の作品の一つです。人によって感覚は異なるので一概には言えないとは思いますが全面オレンジ色の表紙に「AMEBIC」と書かれた表紙はなんだかカッコ良さも感じます。そんな「AMEBIC」という言葉は、『アメーバ』を意味するものだそうです。それを知ると、やはり内容紹介の怪しい雰囲気感が蘇ります。そんな作品の読みどころはなかなかに微妙ですが、衝撃的な内容が二つ登場します。まずはこの二つを順にご紹介しましょう。
まず一つ目は主人公の設定です。主人公は『彼が編集長を務める男性向けファッション誌にエッセイの連載を始めて五回目』という記述がある通り作家を職業としています。金原さんの作品では主人公を小説家としていることが多々あり、その点からは、この作品もそうなんだと妙な安心感?が先立ちますが、次第にその設定に違和感が生じ始めます。それこそが新宿の『献血ルーム』の場面です。『私、今日は四百㏄に挑戦したいな』と献血に前向きな姿勢を見せる主人公ですが、受付の看護婦に訝しがられ体重計に乗せられます。そして、体重計が示した数値は『三十二キロですよ。服を脱いだら三十キロ前後ですよきっと』という衝撃的な内容が読者の前に示されます。作品中、『あなたのように骸骨のような体ではないけど』と揶揄される場面も登場する通り、主人公の『私』は摂食障害が強く匂わされていきます。そんな『私』が他の人を見る視線は辛辣です。街中に見る人たちのことを表現した一文を抜き出してみましょう。
『彼らの大体が、九十九パーセントの人が、いやもっとかもしれないが、ほぼ全員が無駄な肉をつけている。皆、デブである。皆、無駄な物を食べているからだ』。
街中にいる『九十九パーセントの人が』『無駄な肉をつけている』となると、恐らくあなたも私も彼女の目にはそちら側に映るのだと思いますが、そんな彼女は、そんな私たちをこんな一言で一刀両断にします。
『彼らを罵倒する術は持たないが、せめて神聖な私の寝室に足を向けて寝ないで頂きたい』。
知らんがな、と言いたくもなりますが、そんな彼女は『排便、排尿の感覚を、私はもう忘れかけている』という今を生きていると説明されると、なんだか深刻な気分にも陥ります。
『大量の排便、排尿をする自分は、自分で切り離したものだ。要らなかったのだ。そう、要らなかった。だから捨てたのだ。要らなかったし、今でも要らないのだ』。
そんな風に言い切る『私』は、『ただ生きていられるだけの栄養分があればいい』と考え、『食事という快楽におぼれ、肥という堕落に気付かず尚も食べ続ける者たち』を『ああ愚かしい』と断じます。この作品は『私』視点で描かれます。つまり読者はそんな『私』が繰り広げるこの方向性の主張をひたすらに聞かされることになります。これには相当な戸惑いを覚えました。そして、そんな戸惑いは二つ目として挙げられる『錯文』でさらに増していきます。
この作品には、幾つか改行なしに意味不明とも言える内容の文章が数ページに渡って書き連ねられる箇所が複数存在します。二箇所ほど抜き出してみましょう。
『ああ、何とも落ち着かない。落ち着かずに悶々としていると、誰にでも良いから自分の陰部をさらけ出したいという欲求に駆られた…見せたい。晒したい。押し出したい。陰部に引っ張られるようにして歩き、人に見せたい。晒したい…』
『陰部は私の最後のペットなのかもしれない。飼う事を諦めるべきか。否か…アミーバが揺らめいてみえる。白っぽい、膜がかかった視界。ぐしゃりぐちゃり。ぴちり。ぴちり。刺激される脳と、脳周辺。流れ込むゲル…』
抜き出すとさらに意味不明という気もしますが、こんな文章が改行なしに数ページに渡って続くのです。これこそが、『私』が錯乱していた状態の時に書かれた『錯文』とされるものです。『書いた時の記憶は一応の形として残っているものの、何故そんな事を書いたのか、何故そんな発想に至ったのか、全く理解できない』という『私は錯文を書くたびに元々最初から存在していた自分自身のあらゆる部分を失っていっているような気』になる一方で、『錯乱している自分が傍若無人になっていっているよう』にも感じます。一方で、そんな『錯文』に最初戸惑いばかりを感じていた『私』ですが、次第にその文章が持つ不思議な力に魅せられていくのを感じました。それこそがまさしく『らりった』という言葉で表される世界です。『らりった』という言葉自体はもちろん知っていますが、具体的にそれが何を意味するかはよくわかっていませんでした。それが、この作品の『錯文』を読んで、まさしくピン!ときました。これが『らりった』世界。怖いもの見たさの先にあるそんな世界の雰囲気を体験できるのがこの作品。そこには、金原さんのメチャクチャなようで、読者の目と心を釘づけにする『錯文』がありました。この文章の勢いは経験したことのないものです。単純に凄い!と思いました。
そんな作品は、主人公の『私』が『エッセイの連載』をする『男性向けファッション誌』の編集長でもある『彼』との関係が併せて描かれていきます。来月には結婚するという『彼』と関係を続ける『私』。物語は、そんな『彼』と『私』という実体を伴う存在の日常が描かれていきますが、だからといってそこに大きな何かが起こるというよりは、淡々とした『私』の日常が描かれていくという中に、そんな『私』の摂食障害と『錯文』がひたすらに描写されながら展開していきます。また、誰の名前も示されないというのも一つの特徴です。内臓や陰部、そして吐瀉物の描写が生々しい中に『アメーバ』を意味する書名の「AMEBIC」という言葉がざらつきを感じさせる物語は、登場人物の名前が示されないこともあって、なんだか主人公がどんどんそんな『アメーバ』になっていくような不気味な感覚にも陥ります。なんとも言いようのない複雑な後味の残るこの作品。なかなか感想としてまとめにくい物語ではあると思いますが、金原さんという作家さんが描く独特な世界観を体現しているように感じました。
『私は食事を摂らない主義なので』
そんな衝撃的な言葉を『当然のことですが』と言ってのける主人公の『私』が、自身が書いたはずの『錯文』を見つめる中に、自身の存在について思いを巡らせる様が描かれるこの作品。そこには、摂食障害と共に生きる一人の女性のある意味で力強い生き様が描かれていました。改行なく数ページに及ぶ『らりった』文章の頻出に怖いもの見たさの感覚が刺激されるこの作品。勢いのある文章が巻き起こす感情の起伏の繰り返しに自身も『錯乱』しそうにもなるこの作品。
心が壊れていくとはどういうことなのか、そんな瞬間を体験させてくれもする強烈な印象が残った作品でした。続きを読む投稿日:2023.04.10
分裂感覚が足元からくる。嫌な感じである。食事を摂らない主義の主人公の錯乱、倒錯、破綻の日常。薄暗い世界に浸り、研ぎ澄まされていく感覚を味わう。確かに食事を摂らなくなると人の感覚は研ぎ澄まされていきそう…だ。夢か幻か、陰鬱な読書であった。続きを読む
投稿日:2024.03.24
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