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京で将軍に会い従四位下近衛少将に任ぜられて帰国した景虎は、翌年、房州の里美氏より北条氏康の侵略を訴えられ、関東出陣を決めた。氏康は武田晴信に景虎攻略を依頼、晴信もまた、加賀・越中の一向宗徒に越後侵入を頼んだ。景虎の軍は小田原城を包囲したが、城中の守りは固く、囲みを解いて鎌倉に向かい、八幡宮神前で景虎の関東管領就任式が行われ、憲政から上杉の家督も譲られて、名を政虎と改めた。そして、永禄4年8月、上杉・武田両軍は川中島でついに一大決戦の時を迎えた。カバーイラスト/熊谷博人
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長尾晴景が府中で病死した。その葬儀を済ませた景虎に、信州からもどった諜者が、武田晴信の北信進攻を知らせた。そして8月、景虎は軍を川中島に出動させたが、晴信の攻撃でさんざんに撃破された。戦さを始めて初の不覚だった。両軍の対決がくり返されるうち、京の将軍足利義輝の密使が景虎に至急の上洛を告げて来た。三好好慶、松永久秀の専横に将軍の権威が失墜、政情不穏の気配だったのだ。景虎は、晴信に和睦を固める使者を差し向け、越後路を京に向けて出発した。カバーイラスト/熊谷博人
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「曲者をしとめたぞ!」 栃尾城内の夜気を、城主景虎の若い声が貫いた。曲者は兄晴景が景虎暗殺のために放った忍びだった。景虎はついに兄との戦いを決意、その軍を破り、兄に代わって春日山に入城、20歳で長尾家当主となった。 その年の5月、越後守護上杉定実が病死、その葬儀に不参の長尾房景の心中を疑った景虎は、宇佐美定行の勧めで、姉綾を房景の息子政景に輿入れさせることを決めて、和睦を図った。カバーイラスト/熊谷博人
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天文12年、長尾晴景の家老昭田常陸介は晴景に反旗をひるがえし、14歳の景虎は春日山城での防戦に初陣を飾った。そして、城を脱出して身を寄せた宇佐美定行の許で、その娘乃美を知った。 翌年、景虎は甲州御坂峠で、狩装束で馬をうたせる若武者を見かけた。24歳の武田晴信、のちの信玄だった。 三条勢らとの戦いに連勝する景虎は、毘沙門天を熱烈に信仰、女を近づけず、律僧のような日々を送るが、兄晴景は、その名声の高まりに不快の思いを強めてゆく。カバーイラスト/熊谷博人
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「これはおれの子ではないのかも知れない」為景は思った。長尾為景、63歳。妻は袈裟、21歳、その早過ぎる妊娠が、そんな疑惑を生んだ。が、生まれた赤ん坊は、輝きの強い眼を持つ男の子で、虎千代と名づけられた。のちの謙信である。虎千代は、父に疎んじられる不満を抱きつつ、百姓出の娘松江、忠臣金津新兵衛らに守られて育つ。越中・越後の争乱は絶え間無く、やがて父為景は合戦で討たれ、兄晴景が守護代を継ぐが、それを不満とする長尾俊景が兵を挙げた。カバーイラスト/熊谷博人
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