新しい日記文学『日々ごはん』、はじまりの第1巻です。(1)~(12)の続きは、『帰ってきた日々ごはん』として2015年発売。<ある日の日記より>夕方、昨日の残りのカレーが鍋に半端に残っていたので、そのまま水を入れてのばし、だしの素とみりんと酒と醤油を加えて、カレーうどんを作っておいた。私がお椀一杯食べて残しておいたら、次に見た時にはうどんがなくなってお汁だけになっていた。そしてまた次に見たら、りうが残りのお汁を温めてよそっているところだった。家族三人で一食分のカレーうどんを食べたことになる。それ・・・
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新しい日記文学『日々ごはん』、はじまりの第1巻です。(1)~(12)の続きは、『帰ってきた日々ごはん』として2015年発売。
<ある日の日記より>
夕方、昨日の残りのカレーが鍋に半端に残っていたので、そのまま水を入れてのばし、だしの素とみりんと酒と醤油を加えて、カレーうどんを作っておいた。
私がお椀一杯食べて残しておいたら、次に見た時にはうどんがなくなってお汁だけになっていた。そしてまた次に見たら、りうが残りのお汁を温めてよそっているところだった。家族三人で一食分のカレーうどんを食べたことになる。
それからも『黒い雨』を読み続けた。
夜ごはんは、南瓜の天ぷらと焼き茄子(六本も焼いた)と、鶏のソテー、バルサミコ酢ナンプラー味。椎茸と三ッ葉の味噌汁、玄米。南瓜の天ぷらは卵を入れない白い衣の。酢醤油で食べるのが人気だった。 -
変化しながら、日々は続きます。『日々ごはん』(1)~(12)の続きは、『帰ってきた日々ごはん』として2015年発売。
<ある日の日記より>
ベランダのいちばん近くの木に、めじろが来ていた。
ほとんど毎日家にいるので、季節の微妙な移り変わりをしっかりと感じられるようになった今日このごろ。今まで私は何十年も店の中で働いてきたから、外の変化にうとかったなーと思う。どんどん日が短くなる感じなんか、この年になるまで知らなかった。本当にすごいんだ。毎日少しずつ変わっていって、自然界では同じ日なんてまったくないのだと分かる。紅葉が輝いていることに気がついたあの日は、すでにあの日でしかなくて、もうすっかり葉が落ちて裸になった木に、この間は雪が積もった。そして今日はちょっと暖かく、めじろがその木にとまっていた。 -
毎日の食卓とともに、日々は続きます。『日々ごはん』(1)~(12)の続きは、『帰ってきた日々ごはん』として2015年発売。
<ある日の日記より>
家族の毎日のごはんの世話をするのは楽しいことだけど、つまらなくもある。日々の落ち着いた暮らしというのは、私にとってかけがえのないものではあるが、それを一週間にいちど壊したくなる。だから軽く飲むんではなくて、朝帰りするくらいに、長々と、体がくたびれてへろへろになるまで飲まないとならない。誰かといっしょに飲んでいても、最後はひとりでてろてろと景色を眺めながら帰ってくる。そういう時、たとえば自転車に乗っていて転ぶ時、「あぁ、こんなに幸せで、もう私は死んでもいいやー」なんて思いながら無防備に転ぶ。毎日穏やかに暮らしている一週間に一回、もしかしたら死ぬことに近づくような感じかも、なんてふと思った。 -
はじめての場所、なつかしい場所。さまざまなところで、日々は続きます。『日々ごはん』(1)~(12)の続きは、『帰ってきた日々ごはん』として2015年発売。
<ある日の日記より>
夜中に小腹が減って、階段をコツコツと降り台所に行くと、お皿に鍋のフタがしてあった。フタを開けると、なんでこうなるんだろうというくらいに、麺が二センチ長にちぎれて炒められている焼きそばだ。おいしくないんだろうな、と思いながらもぼそぼそと食べる。醤油ともソースとも言えない薄味で、桜海老とおかかと紅生姜が混ざっている。そう、まさにこれが、子供のころさんざん食べ飽きた母の焼きそばの味だ。私はこの味をすっかり忘れていた。というか、どこかに押し込まれていた味覚が、食べた途端にずるっと出てきた。とてつもなく懐かしく、涙が出るほどおいしかった。 -
たくさんの人に会ったり、ときには籠ったりしながら、日々は続きます。『日々ごはん』(1)~(12)の続きは、『帰ってきた日々ごはん』として2015年発売。
<ある日の日記より>
レミさんはいつも、大人っぽくとり繕ったり、媚びたり、どんな人にもぜったいにしない。誰にでも同じ態度で接する人だ。どんなに有名な偉い人にも、天皇陛下にだってきっと媚びない人だと思う。レミさんのそういう所のことを、私はずっと先生だと思っていて、今日もそのことを思い出した。自分の感覚に嘘をつかない人というのは、はたから見ると大人げなく見えたり、どんくさく見えたりするかもしれないが、そういうことをどこまでも大事にすることこそ、私の生きる道だ。と、実物のレミさんにひさしぶりにお会いして、また私は思ったのだ。夜ごはんは、駅ビルのスーパーで駅弁みたいなお寿司をいろいろ買って帰った。 -
進んだり、戻ったりしながら、日々は続きます。『日々ごはん』(1)~(12)の続きは、『帰ってきた日々ごはん』として2015年発売。
<ある日の日記より>
りうが起きてきて、「シルバー人材センター、今日ってやってるかなあ?」と寝起きの顔で言う。「スイセイに聞いてみな」と私が答えたその時、初めての感情が湧いた。私は年増の母親で、娘盛りのりうはみずみずしい。私は髪をふり乱して窓なんか拭いているが、娘の成長を見るだけで嬉しい。家族だから、ドキドキするような告白するような気持ちではなく、ただ鈍く、そんな嬉しい気持ちが体の底にあった。私はりうと血が繋がっているわけではないし、スイセイとも繋がっているわけではないけど、家族というのは、想うだけで家族になれる。りうが小学校四年生からのつき合いだけど、私は得したなと思う。朝ごはんはお雑煮、酢ごぼう、ハム、千枚漬け、半熟煮卵、人参塩もみ、焼き玄米餅。 -
さまざまな出会い、別れとともに日々は続きます。『日々ごはん』(1)~(12)の続きは、『帰ってきた日々ごはん』として2015年発売。
<ある日の日記より>
家族とか、暮らすとかいうことは、毎日だらだらと、なあなあで過ごしてきているようだけど、固くて安心だと思っている地面は、あんがいと柔らかいのに、毎日ごはんを食べたり、親戚やら集まるたびに、毎年恒例のご馳走を作ったりもする。笑ったり、泣いたり、大人たちに囲まれて愛されて、親と喧嘩したり、おばあちゃんにひどいことを言ってしまったり。そんな毎日、子供のころからの、ふとした瞬間に見たどうでもいいようなシーンが、見えた時のまま、私の体に残っている。
こんなもんだよなぁと思う。スローライフとか、今流行っているけどさ。畑からひっこ抜いてきた葱と同等に、カラオケやヘルスセンターや演歌やら猫のうんこやらがある。毎日って、なんて図太いんだろう。 -
変わらないもの、変わってゆくもの。からみあいながら、日々は続きます。『日々ごはん』(1)~(12)の続きは、『帰ってきた日々ごはん』として2015年発売。
<ある日の日記より>
グラウンドの芝生の上に座ってみた。今日は人もまばらで、犬の散歩をしている人が少しと、吹奏楽の練習をしているグループぐらいしかいない。遠くを見ても、小さい人が見えるだけ。あとは、どこまでもどこまでも空と芝生。景色の遠近感がなくなって、ふーっと自分もなくなりそうな感じになる。それで、ちょっと寝ころんでみた。平らな眩しい空。
私は、自分らしくとか、自分の中にある本当とか、そんなレベルの自由ではなくて、もっともっと遠くに行きたい。自分がなくなるほど自由になりたい。
(死ぬことではなくて)生きていることの中でそれをやってみたい。それはいったい何だろう。来年は、そのことについてちょっと追究してみよう。 -
ときには夏休みのように、日々は続きます。『日々ごはん』(1)~(12)の続きは、『帰ってきた日々ごはん』として2015年発売。
<ある日の日記より>
夕ごはんでは、外で網焼きバーベキューをやることになった。缶ビールを飲みながら、外で食べるのはなんでもものすごくおいしい。景色はすばらしいし、空がだんだん暮れてゆく。薄暗くなってからの時間がまた長くて、なかなか暮れない。こういう料理が、北海道にはぴったり似合うんだな。原始人みたいに素材を焼いて、焼きたてを食べたい人がどんどん食べる。面倒なことは何もしないのに、すごーくおいしい。暗くなったら、ランプをつるして、「納屋バー」になった。炭の火が落ちてきたので、玉葱がゆっくり乾きながら焼けて、すごく甘くなるのを発見したり、枝豆をのせておいたら、ちょっと薫製みたいな香ばしい味になったり。そうやっておいしい食べ方の発見をしながら、大昔から料理というのは生まれてきたんだなと思ったり。 -
10巻では「スイセイ留守番日記」が初登場します。『日々ごはん』(1)~(12)の続きは、『帰ってきた日々ごはん』として2015年発売。
<ある日の日記より>
そういえば昨夜、「自然」ということについて、寝る前に考えていた。私が思う自然というのは、土とか木々ももちろんそうだけど、動物、空、雨、晴れ、光、虹、風とか、気温の変化とか、空気とか。時間もそう。人間が作意を持って、脳味噌を使って作られた以外のものがぜんぶ自然、かな? 街、建物、駅、地下鉄、電車、車、アスファルトなどは逆のものだけど、実はそういうものの中にも混じって、いっしょくたにあるもの。人間が到底つかまえられないもの。身をまかせるしかない、考えても仕方のないようなもの。そういうののことを自然といって、私にとって、それはいちばんくらいに大事なことなのだ。
夕方になって、空が黄色くなったかと思ったら、ぽつりぽつりと降り出した。そのうち、屋根をたたく大降りに。せいせいとした気持ちになる。 -
中国へ出かけたりしながら日々は続きます。『日々ごはん』(1)~(12)の続きは、『帰ってきた日々ごはん』として2015年発売。
<ある日の日記より>
朝ごはんに、スイセイが冷たいうどんを作ってくれた。ツルツルと食べながら、「宮崎駿みたいな空じゃのう」と言う。本当に。ラピュタの空のよう。水色がいつもよりくっきりと色濃く、真っ白い雲が意志を持っているみたいに浮かんでいる。
洗濯物を干しながら、そんな空を見ていたら、ふいに泣きたくなった。
カラオケで郁子ちゃんが歌っている時、私は泣いた。その前に、「トネリコ」で飲んでいる時にも泣いた。泡みたいに儚い、終わってしまう時間のことを思うのだ。いちばん楽しい時に、こんなのを感じるようになったのは、年をとったということだろうか。 -
散歩に出かけたり、DVDを何度も見たり、仕事に没頭したり、いつものようにごはんを作ったり。実感を真っ直ぐに確かめながらの日々は続きます。『日々ごはん』(1)~(12)の続きは、『帰ってきた日々ごはん』として2015年発売。
<ある日の日記より>
私が電車を乗り継いで出掛け、暗くなって駅につき、買い物をたっぷりしてタクシーもなかなかつかまらなく、バスも混んでいて、やっと家にたどり着いた時。
うちの中にはスイセイがいて、鍵を開けてくれたり、お腹をすかしてごはんを待っていたり。ごはんが終わって、畳の部屋でだらだらとテレビを見ながら今日あったことを話したり。使い込んだ毛布みたいな匂いのするスイセイが、ちょっと頭のボケた調子(ずっと家にいたから)でいてくれることが、なんと自分を助けてくれることよ。そして、簡単なものでも、夜ごはんをしつらえ、いつものようにあと片づけをして、まっさらな台所に戻す。道具や器は、何年も何十年もそこにあり続ける。目に見える物たちが育む単調な繰り返しの、なんと確実なことよ。
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