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聖なるズー
聖なるズー
濱野ちひろ/集英社
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総合評価

112件)
4.1
35
46
12
4
1
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    このレビューはネタバレを含みます。

    性や生に対する個々の考え方は十人十色で、国の文化や歴史、法律などが密接に関わっていて、ズーの知識への入り口がひらけた気がした。 でもパーソナリティを大切にすることや、お互いに愛を感じること、そして時には苦悩があることは、どんな性的指向でも何かを愛する限り変わらないことだと感じる。 マイノリティでもマジョリティでもさほど変わらない気がしてきた。 暴力性という視点は参考になった。

    0
    投稿日: 2025.10.17
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    動物性愛やその欲望のありかたに対しては、そういうこともあるよなあ、という感覚で、衝撃をうける、という感じはあんまりなかったけれども、性暴力被害の記憶をかかえながら、ズーにラディカルさを期待していたことを省み、パッシブ・パートのズーの主張から読みとれるペニス嫌悪、ゼータのかかげる愛の保守性、動物は裏切らないと信ずる心に見える逃避性、といった点にもめぐらされる著者の揺らぐ視点が、独特の味わいをもたらしていると思った。

    0
    投稿日: 2025.08.20
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    あまりに衝撃で あまりに異種な愛?の形に、誰かとこの本について深く話がしたい ここでの感想を見てても、 作者のいいたいことについて答えてるようなものがみつけられなかった 獣として、私はペットである愛兎を見ていない けど、ズーフィリア程には見ていない 障害者や患者の性は、同じ人間として思うこともある 動物に対して、子供視は否めない けど、生き物として当然とは思う それを制限しようとは思わない だって、彼らは逸脱しないから。 問題なのは、 ものの見方としての人間の方だと思う 同様に、 ズーフィリアを否定はしないがそこまでする必要があるのかと思う 動物も人間も気に入ったら、 心許すのは普通だろう 問題は私の体感でも思うが、 それを理解できない人がいる 誘われたから? 乗らなければいい話だと思う けど、 異種と見れないから、そうする 人それぞれだ 愛と性 それはそれぞれ 女にとっては常に受容で 男を暴力と感じる それは否めない 鶏はメスをつつきまわって血みどろにして 交尾する 、、、あれが男の本能か でも、変わらない永遠の愛を求めるのは 男も女も変わらないようだ 動物はどうか知らないけど。 ふーん、、、 動物は変わらないから? えー エゴで動物を飼うことで世間を知らせないのに 作った「変わらない」は純愛なのか? 動物はそれを求めてるのか? 、、、そこ、どうなんだろう。 色々考えると、あくまで人間社会においてがベースにある限り、本当の意味での対等ではないように思う 究極的には人間のエゴを抜けることはない 愛と性は別なんじゃないか? 色々な意味で。 けど、それいい出すとこの作品の意味がない 、、で、なんで指導教官は獣姦を提案したんだろう? 理解力なくて、すみません(_ _;) 人間の結婚制度は 制度や宗教的常識等に縛られたもので、無理があると思う 或いは人間の愛と性に無理がある?

    0
    投稿日: 2025.07.21
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    このレビューはネタバレを含みます。

    うーん面白かった。セックスやセクシュアリティについて考えていたことと交差して、思考が刺激され続けた。これはおすすめ。 人間のセクシュアリティやセックスに善悪はつけようがない、と私は思っている。人々が求めるセックスの背景には、さまざまな欲求がうごめいている。…考えるべきは、人間の本能的な部分が社会とのかかわりのなかでどのようにして齟齬をきたすかということ、また、社会の一部分であるはずの私自身が、なぜ特定の性的実践を受け入れられないのかということだ(p.29) …相手のパーソナリティは自分がいて初めて引き出されるし、自分のパーソナリティもまた、同じように相手がいるからこそ成り立つ。つまり、パーソナリティとは揺らぎがある可変的なものだ。相互関係のなかで生まれ、発見され、楽しまれ、味わわれ、理解されるもの。…背景にともに過ごした時間、すなわち私的な歴史があって、その文脈のなかで想起されるものが、パーソナリティではないだろうか。…人間同士の関係であってもキャラクターとは異なるパーソナリティが生じていることに気付かされる。誰かにとって、ある誰かが特別なのは、共有した時間から生まれるその人独特のパーソナリティに魅了されるからだ。それが揺らぎ続け、生まれ続けるからこそ、私たちはその誰かともっと長い時間を過ごしたくなる。そして同時に、その人といる間に創発され続ける自分自身のパーソナリティにも惹かれる。(p.65) セックスを誘導することはすなわち動物をセックス・トイのように扱うことであって、それはズーとして許されない行為だと彼らは考えている。そんなことをすれば、動物との対等性が一瞬にして崩れ去るからでもあるのだろう。 …「そうだね、僕たちは対等だった。お互いにセックスをしたいと思った。YESとNOを互いに表明し、受け入れ合うことができた。そういう意味でその犬と僕は対等だったよ」(p.91-92) 果たしてセックスに誘導することはトイのように扱うことと同義なのだろうか?それはグレーな境界線がある話なのだと思う。人間も同じではないか、誘導と誘惑、誘惑に乗ることは何が異なり、それは対等性の観点から問題があることなのか、私はどのような関係においても、対等なんていうものは幻想なのではないかと思ってしまう。それが与え与えられることが入り組み合うことでプラマイ均衡することはあるかもしれないにせよ。 性という生に欠くべからざる要素をも含めてパートナーを受け止めたい、とズーたちは言う。(p.97) 対等性とは、相手の生命やそこに含まれるすべての問題を自分と同じように尊重することにほかならない。対等性は、動物や子どもを性的対象と想定する性行為のみに問われるのではなく、大人同士のセックスでも必要とされるものだ。(p.104) アクティブ・パートの男性は語りづらい。なぜならば、挿入するという行為に伴う自発性が、動物を傷つけることと同義と捉えられやすいから。パートナーが馬であればその可能性は低いから話しやすいという考察、なるほどだった。(p.158) パッシブ・パートの人々がセックスに置いて得る最大の喜びは、支配者側の立場から降りる喜びだ。そのときにこそ、彼らが追求するパートナーとの対等性が瞬間的に叶えられる。 しかし皮肉なことに、パッシブ・パートが、性も含めてパートナーの存在を丸ごと受け入れる素晴らしさを満面の笑で語ることができるのも、性的ケアの側面を強調できるのも、彼らが自分のペニスの挿入を避けて、暴力性を回避しているからだ。彼らはペニスの暴力性から解放されることで、まるで自分自身もまったく暴力的でないかのように語ることができる。 だが、性暴力の本質がペニスそのものにあるわけがない。短絡的にペニスに暴力性を見出していては、セックスから暴力の可能性を取り去ることはできない。…性暴力の本質はもっと別のところにあり、それは性別や性器の形状とは根本的に無関係なはずだ(p.162) 言葉での合意さえあれば性暴力ではないと、いったいなぜ言えるだろうか。言葉を使う私たちは、言葉を重視すればするほどきっと罠にハマる。言葉は、身体からも精神からも離れたところにあるものだ。それは便利な道具だが、私たち自身のすべての瞬間を表現しきれない。言葉が織りなす粗い編み目から抜け落ちるものは、あまりにも多い。(p.174) 人間は動物との間に設けてきた境界を隔てて、「人」というカテゴリーを生きている。人間と動物のセックスは、その境界を撹乱する。ズーたちが提起しているのは、セックスとはなにかという問いだけではなく、人間とはなにかという問いでもある。(p.194) セックスの本能が先にあってセクシュアリティが発生するとは限らない。セクシュアリティを考えるとき、セックスとセクシュアリティの位置を逆転させることも可能だ。「このようなセクシュアリティのために、このようなセックスを選び取る」と宣言してもよいのだ。(p.242) ※セクシュアリティを「セックスにまつわるあらゆること」と定義した上で。 ある人にとってズーとは、身近な動物をまるごと受け止めながら、共に生きるための新たな方法であり、ある人にとっては愛すべき恋人や犬を受容する方法であり、またある人にとっては政治活動であもある。(p.244) 彼らは真剣だった。セックスや愛を通して、望む生き方について彼らは語っていた。 ズーたちのセックスは、それ自体が目的ではなく、パートナーとの関係のなかで対等性を叶えるための方法にもなっている。…セックスが、人間と動物の対等性を一瞬でも叶える力を持つなどとは思ってもみなかった。永久に体現できないかもしれないとも思える対等性を、ズーたちはセックスの瞬間に手にしている。 あるいはそれは、夢かもしれない。だが、なんていい夢なんだろうと私は羨んでさえいる。彼らはその瞬間に愛とセックスを一致させる。支配する側から、そのときばかりは降りることが許される。愛する相手を「丸ごと受け入れる」喜びを得ながら、ズーたちは種の違いを乗り越え、パートナーとの対等性を叶えようとする。(p.255)

    1
    投稿日: 2025.05.23
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    これまで聞いたこともなかったズーファイル=動物性愛者という世界。自身の欲望を満たすためだけの獣姦とは似て非なる、むしろ対極にあるかもしれない世界。動物にも性欲は存在し、動物を愛するが故に、性も含めて受け入れようとする世界。完全に理解できるわけではないが、それでもこれまでなら恐らく軽蔑と忌避の対象にしかならなかったであろう人たちを、頭ごなしに否定するのではなく、そういう世界もあるかもしれないと思わされた。

    0
    投稿日: 2025.03.02
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    このレビューはネタバレを含みます。

    すごく良い本だった。 自らの性経験から入り調査経緯を順々に綴っていくので、だらだらした書き方と感じた。が、結果として不可欠な要素になった。このような経験をした筆者だからこそ、そう感じたしそんな考察になったのだと分かる。 「獣姦って何」「どんな人たちがするの」という当たり前の疑問。そこから、「性を知らぬ子どもの立ち位置」「主人とペット」「言葉を介さぬコミュニケーション」等の周辺事情へ目を向ける。更には「人間にとっての性行為とは愛とは」と進む。 斬新な切り口で、親密な関係性の築き方選び方について、真摯に見つめた一冊だと思う。

    0
    投稿日: 2025.02.07
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    第40回ビブリオバトル〜明石の陣〜テーマ「きよい」で紹介された本です。オンライン開催。 チャンプ本。 2022.1.13

    0
    投稿日: 2024.10.13
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     とってもショッキングな内容でした!ズーフィリア(ズー)というのは、動物性愛者のこと…動物をパートナーとしてその性も含めてかけがえのない存在として愛するということ…。今まで生きてきて、そんなこと考えもしなかったんです。偏見を持っていたんですよね、私…。  ドイツには動物性愛者の活動団体「ゼータ」があり、この作品はその取材内容に基づくものをベースとしています。筆者は自ら受けたDV被害から、性について、愛について知りたいと思ったことがきっかけになったようです。現在は多様性が重視される社会になっていますが、それでも…なんか受け入れがたい!でも、ズーたちは、自然の成りゆきだといいます。  動物は嘘をつかないし、ありのままの自分を受け入れてくれる…確かにそう、なんだけれど…、こういう世界もあるのか…と、知ることができました。この作品の表紙、犬だったんですね…ズーが愛する対象の動物で一番多いのが大型犬、次は馬なんですって…。

    55
    投稿日: 2024.09.06
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    動物性愛だけではなく、人間同士における「関係性」や「愛」、パーソナリティなど、様々なことを改めて考えさせられた。 動物を無意識的に子ども視してしまっていたこと、それ故に、動物にも存在し得る性的欲求やセクシュアリティについて見事なまでに見落としてしまっていたこと。迂闊、というか、稚拙、というか。自分の想像力の足りなさを痛感した。 「動物からは言葉の合意が得られない。だから、実際に動物が人間とのセックスをどう感じているかは想像できない。ゆえに、セックスを含む如何なる動物性愛も許されない。」という言説に対して、「言葉での合意があれば性暴力ではない、なんてことはない。」という著者の返し方には唸ってしまった。確かに、言葉ではYESと言っていても、それが本心からのYESなのか、雰囲気に流されたYESなのか、そう言わざるを得ない状況下で苦し紛れに発されたYESなのかは分からない。そもそも、言葉によって全ての関係性における問題が解決されうるなら、人間社会はこんなに腐っていないだろう。だからと言って言葉を軽視している訳では断じてないけれど、コミュニケーションは言葉だけでは完結されない、ということも肝に銘じる必要がある。

    1
    投稿日: 2024.03.27
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    YouTubeで紹介されていたことをきっかけに図書館で借りて読みました。 今まで考えたことのなかった『動物性愛』について新しい考え方を知ることが出来たので読んで良かったと思える本でした。 朝井リョウ先生の『正欲』も読んでいたので、社会的に理解されづらい性欲があることは理解していましたが動物に対する性欲というのはやはり考えづらいと感じましたが、濱野ちひろさんの取材はとても興味深かったです。 わかりやすい文章で書かれており、難しいテーマだと思っていましたがとても読みやすかったです。 今後自分の手元に置いておきたいとも思える1冊でした。

    0
    投稿日: 2024.01.28
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    この本で言う"ズー"とは、犬やウマなどの動物をパートナーとする動物性愛者たちのことを指す。 彼らは動物とただ単に一緒に暮らして餌を与えるというようなことではなく、性処理も含めて動物の"生"を丸ごと受け止める、動物と対等な関係を築く、ということを自分たちのスタンスとしている。 昔と比べれば、さまざまなセクシュアリティを持つ人への理解が進んできた日本でも、動物性愛についてなかなか理解できない、そもそも知らないという人の方が多いのではないか。 私自身以前犬を飼っていたこともあるけれど、この本に書いてあるズーの人たちのことを理解するのはなかなか難しかった。 改めて感じたのは、セクシュアリティの問題の難しさ。著者はプロローグにて、このように書いている。 『私にはセックスがわからない。セックスとは、この世に存在するいきもののうち数多くの種にとって、それをしないと遺伝子を繋げない普遍的な行為のひとつだ。(中略) セックスにそれ以上の意味がないと言われればそこで話はおしまいなのだが、セックスが生殖に限定されるものとは到底思えない』 筆者のこの言葉にものすごく共感して、この答えが見つかるかな、と思って読み進めたけど、さらに混乱が深まった感じがしている。笑 だけどそんなの当たり前で、一冊何か読んだだけでわかるようなことでもないよなと腑に落ちている部分もあり。 読みながら戸惑うことも多かったけど、知ることで偏見は少なくなったように感じる。 簡単に理解ができる内容ではなかったものの、そこにある彼らの愛は尊重したいし、されるべきだとは強く思った。 やっぱり知る努力は大切だし、怠らずに色々なものを読んでいきたい。

    9
    投稿日: 2024.01.06
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    動物性愛の人々をズーと呼ぶ。彼らは世間の偏見や法律の改正の影響を受けて自身のセクシュアリティーを著者に打ち明けるまでに時間を要した。 ズーの中には自分を偽りうつ病を発症した人もいる。 実際の彼らは動物を心から愛しペットとしてではなくパーソンとして対等性を重視して接していた。 動物と人との有り方を考えさせられるノンフィクション。

    3
    投稿日: 2023.12.23
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    こちらも一気読み! 動物性愛とは… 非常に新しい視点、新しい価値観だった。 嫌悪感というよりもズー達の人生ではあり得る世界なのだ、幸福な世界なのだと思わせる、ルポの進め方が素晴らしかった。 ドイツのナチス後の反動、性愛に対する自由主義化という知らなかった側面も知ることができ、多文化を知るという観点でも読み進める手が止まらなかった。 興味本位なのではなく、著者の方の傷が癒えていく旅だった。(毎回一部の男性の自己本位性や暴力性には、物凄い嫌悪感を催す) キリスト教の洗礼を受けご両親に大切にされてきたであろう女性がなぜそんな酷い男から逃れられなかったのかという矛盾を感じた。悪い形で共依存になってしまっていたのではないだろうか、とも。 大きな傷を受けた人間が再生する物語が好きかもしれない。

    3
    投稿日: 2023.09.04
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    詳しく、動物とセックスする人のことを知りたいという人にはオススメしない。 あとがきで紹介されているものを読めばいいのかも。 本書は著者の性暴力体験がメインテーマ。後はライトな出会いと感想。

    1
    投稿日: 2023.03.17
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    動物性愛(人間が動物に対して感情的な愛着を持ち、ときに性的な欲望を抱く性愛のあり方)をめぐるルポ。著者がドイツの動物性愛擁護団体「ゼータ」に所属する動物性愛者達と実際に会い、寝食を共にしながら話を引き出していく。 動物性愛と聞くと著者も指摘するように「獣姦」のイメージがつきまとうが、本を読むと動物性愛とは明らかに峻別されていることが分かる。そしてページを繰るごとにイメージがどんどんと刷新され、新たな世界が垣間見える。

    2
    投稿日: 2023.03.11
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    このレビューはネタバレを含みます。

    多様性という言葉が広く認識されるようになった昨今、その多様性がどれほどの幅をもってしてそう呼ばれるのか考えさせられました。私はズーフィリアという言葉を著書にて初めて知り、性愛の対象が言語能力の無い動物であるということに非常に驚きました。ゼータの人々の言う「動物が誘ってくる」という言葉への疑念はありつつも、否定も出来ないなと思いました。ノンフィクションならではの臨場感をひしひしと感じました。

    1
    投稿日: 2022.09.15
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    セクシュアリティ/ジェンダーフィールドでの修士論文のテーマとしてズーフィリア(獣姦)を選んだ著者が、そのコミュニティがあるドイツに渡る。彼らと生活を共にし動物を愛するとはどういう事なのかを知る過程でセクシュアリティ(性愛)とは?と自らの性暴力の体験を振り返りながら考察を深めていくノンフィクションルポです。 「ズーフィリア」というと暴力的なものや、気味の悪さを感じてしまうかもしれないけれど、この本では彼らに話を聞くことで「愛」とは、「愛する」とはどういうことなのか、相手との関係性やその愛情表現のひとつとしての性愛、更に広義の「性愛(セクシュアリティ)とは何か」を考えさせてくれるものでした。ズーフィリアの人達の思考を知るだけでなく、そこから著者自らの内省に働きかけて発展していく過程を興味深く読みました。

    1
    投稿日: 2022.01.19
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    獣姦。理解不能。おぞましい。気持ち悪い。読後、この感覚が変わったという事はない。ただ、読む前とは、少しだけ嫌悪感の質が違う。色々と考えさせられる。考えながら思考が散漫となるが、読む価値あり。中身は真面目なフィールドワークだ。 自らも歪んだ性経験をもつ女性研究者が、体当たりで、動物性愛も含むドイツの団体ZETAを中心に取材する。性行為が主ではなく、あくまで動物との生活における一部であり、必ずしも行為は必要とはしないと言い切る彼、彼女らは、動物を性玩具のように用いる性指向とは一線を画す紳士的な団体。しかし、動物の欲求を半ば介護の如く解き放つために、自らのアナルを差し出す男を、私の脳は「なるほど。分かります」とはならない。玩具か否かという次元の前に、共感できない。だからこそ、彼らは偏見に晒されるだろうし、読書にも意味があった。 LGBTのようにマイノリティと言いながら少しずつ市民権を得てきた性的指向に対し、小児性愛やスカトロジストなどは、やはり嫌悪の対象だ。私にとっては、どれだけ物語を美化した所で、残念ながら、動物性愛も同じ次元。しかし、そうした人たちが存在する事は理解している。だけれど、自分のペットと恋に落ちるとかは受け容れられないし、受け容れない権利だってあるはずだ。欲しいと言われて愛犬を友だちの妻として差し出すだろうか。想像自体が狂っている。 人間の性的指向は、幅広い。ダイバーシティが主に性に特化して、如何に難しい事を目指しているのかが分かる。両者の合意を前提に多様性を認めようというのがルールだとしても、相手が動物だからこそ、彼らの中でもルールや葛藤があるようだ。尚、本著に出版禁止を求める声もあるようだが、全く禁止にする必要がない。ルールは守る必要はあるが、その範囲で、リアルな人間やその多様性を認知しておく事こそ、本の役目だろう。

    2
    投稿日: 2021.12.29
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    * ノンフィクション 動物性愛 ズーフィリア 筆者 濱野ちひろさんの、 身体的、精神的、性暴力の経験を伝えた上での セクシュアリティについての本です。 動物性愛・ズーフィリアをズーと呼び、 パートナーである動物との関わり方、 愛し方、個々のパーソナリティ。 愛する対象の動物の生にも、性があり、 それも含めて、それぞれのズーの 愛のカタチについて綴られています。

    4
    投稿日: 2021.11.07
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    動物性愛というキーワードに、まずは嫌悪と興味を同時に覚える。が、読むと、筆者のDV被害体験、フェミニズムとは?虐待とは?ありとあらゆる問題についてわからなくなってしまった。大変良いノンフィクションです。是非。

    3
    投稿日: 2021.10.06
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    田舎に育ち、サカっている野良犬に近所のおばさんが水をかけて、オスメスを離れさせる姿を見てきた者には、ここで語られる犬とひととの「対等」な性愛関係と言われるものは、体感的にはまったく納得がいかない。 ヨーロッパの動物愛護には、いきすぎて日本人にはよくわからないと感じるときがある。ヨーロッパの多くの国で、動物とのセックスが違法とされているのを知って驚いた。日本の漁師は海でむらむらしたときエイとセックスするという噂があるが、魚類も違法なのだろうか。

    0
    投稿日: 2021.10.01
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    自分には遠い世界のものと思っていた、動物とのセックスについての本。 最初はあまりにも異質と言っていい世界の話の連続だったけれど、著者の観察者に徹しようとしながらも、ズーの人たちとの関わり方、それを踏まえた考え方の…上手く言えないけど、人柄みたいなもののおかげで、最後まで読むことができた。 ズーの人達が伝えたい、叫びたいことが著者を通して、自分なりに理解ができたと思う。 動物が裏切らないと言う彼等の話や、一定の考えは凄く納得いくものだった。 多様な生き方が推奨されている今なら、どんな生き方だって、考え方だって自分が共感できる場面があるならば、少しでも寄り添えられるんじゃないかな。 読み終えた今も、色々な考えで頭がいっぱいだけど、目線を変えた愛の先を考える良いきっかけになった。

    4
    投稿日: 2021.09.21
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    読み終えて、何かを考えるよりも、 動物のパーソナリティ、ペットとしての動物の性といった今まで感じ出なかったけれど、あって然るべきことを感じる感覚を研ぎ澄ますように促されていることを感じました。 動物と人のみならず、人同士の性愛についても新しい視点を提供してくれる作品でありながら、非常に読みやすい作品です。 作者の短い期間でありながら挑戦的で、未知のコミュニテイへ分け入っていく過程に引き込まれます。 人のペットに対する子供視がその性を無視するということに、現代のペットに対する違和感を少し説明してもらえた気がします。 愛における対等性、性愛において言語的同意以前にある意思疎通、、、 旅行先でこの本を勧めてくれた方に感謝。

    0
    投稿日: 2021.09.08
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    文化人類学者が書いた本で、動物性愛者との関わりを通して愛とは、セックスとは何かを追求していく1冊。 私は当初この本を読みながらどうしても過去の経験から生物学的な視点を入れてしまうため、ズーが言う「犬がセックスに誘ってくる」とか「舌が入って大丈夫かどうか」とかは生物学的に自然なのでは…なんて思ってしまった。(私自身が昔買っていた雄の柴犬は去勢をしていなかったのでしょっちゅうイライラしていたし、家の中で立場の弱い私と祖母にばかり腰を振りに来ていたし、歯磨き粉の味が大好きだから歯磨きのあとは毎回口の中を舐め回そうと下を入れてきたので) ただ、それでこの本に出てくるズーのパートナーの愛情表現を否定するのではなく、クルトのように受け止め、うちの犬は私に愛情表現をしてくれていたけど私がズーではなかった、それだけの事なのかなと思える。 作者の過去の性体験が非常につらいものであったため、今作を書き上げるためには自身の過去と向き合う葛藤もあっただろうが、それを抜きにしても素晴らしいフィールドワークだと純粋に思う。

    0
    投稿日: 2021.09.05
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    まず文章が素晴らしい。 とても読みやすく、随所に筆者の上品な知性を感じる。 動物性愛というものの真実を筆者なりに理解し、 それを誇張無く伝えようとする情熱が伝わってくる。 この題材を研究テーマにする事自体、かなりの覚悟を必要とするはずだ。研究自体の価値をはなから否定されたり、 研究者自体が差別的な目で見られたりする可能性があるだろう。 調査も容易ではなく、社会から批判的な目にさらされるコミュニティの信頼を取り付け、彼らと体当たりで深く交流する筆者の姿勢には神々しささえ感じられた。そこには明らかに研究者以上の思いを感じた。 ではなぜそれを題材とするのか? セックス、セクシュアリティにまつわる問題は彼女の心の中に強く引っ掛かっていて、それを解決しなければ彼女の人生が前に進めない状況にあったからだ。 そのためにこの題材を研究している事が分かり納得した。 この本は新しい価値観を私達に教えてくれる。 またそれと同時に動物性愛というテーマに限らず、 他の様々な事象についても物事を掘り下げ 真実を追及する姿勢の美しさ、強さを教えてくれた。 全てを自分に都合良く解釈し、既知の常識にだけ当てはめて捉えようとすれば真実は指をすり抜けて行く。 全ての前提を捨て、ただ純粋に真実を求めんとする筆者の姿勢に何より感動した。

    0
    投稿日: 2021.08.15
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    人間以外の動物とのセックスといえば獣姦という頭しかなかったが、動物性愛というもの、獣姦との相違、動物性愛者たち(ズー)の考え方がよく理解できた。文章は上手だし、自分のDV経験をカミングアウトすることで、動物性愛の考え方をよりわかりやすく導く手法も良かったが、自分の経験に縛られ過ぎた価値観を前面に押し出しすぎなところは気になった。いずれにしろ勉強にはなった。

    0
    投稿日: 2021.07.31
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    このレビューはネタバレを含みます。

    愛ってなんなのか、より一層わからなくなる本だった。私は動物と触れ合う機会はあまりないので、完全に他人事として、興味深く読んだけれど。 めっちゃ面白かったし、未知との遭遇だったけれど、これはもう生理的に無理という人もいるだろうなと思う。

    0
    投稿日: 2021.07.14
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    動物とのセックスという、それはそれは未知の世界のノンフィクション。 本作を読む前は、ほぼ〈獣姦〉のイメージしかなかったけど〈動物性愛〉のズーはそれとは全く異なるもので、性を含めて丸ごと生を受け入れるという極めて純粋な愛という認識を持った。 飼う飼われるのペットの関係ではなく、動物もきちんとパーソナリティを持ち、人生のパートナーとして対等に関係性を築いている。 ズーフィリアというものを知れただけでも読んでよかったと思う。 読後、自身にガンガン愛を問うてくる作品だった。 2019年開高健ノンフィクション賞受賞。

    1
    投稿日: 2021.06.30
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    このレビューはネタバレを含みます。

    未知な世界で、とても興味深かった。そこまで抵抗なく読み進めることができたのは、今までハムスターしか飼ったことがなかったからだと思う。もし犬と暮らした経験があったら、どうなんだろう、受け止めきれなかったかもしれない。たくさんの史実や著者の告白、インタビューからなるこの本は、単行本で分厚いのに読みやすい文章。キリスト教に基づく西洋の文化歴史と日本の文化、擬人化の話は面白かった。個人的には、ロンヤの考えに共感するし、今後犬や(もし)馬と暮らすことになった時、相手と対等でいるために、性についてどう受け止めるのかを考えないといけない。当たり前に去勢を行う日本の価値観を疑問に思ったことなかったし、動物に対して「かわいい」「愛らしい」という感情しか持っていなかった、そこには全く対等性がなかった。色々と考えさせられる。

    0
    投稿日: 2021.06.15
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    あまりにも(私の信頼する界隈からの)評判がいいので電子書籍を購入。 だけど、やはり内容から購入を決断するまでに多少時間がかかった。それだけで、私の中に大きな偏見があったことが分かる。 読んでみれば、(少なくともここに紹介される)ズーたちへの間違った偏見はなくなり、それどころか私の中の動物(犬や馬)に対する感情と、バラエティ番組などでの動物の扱いとの間の違和感がスーッと解決されて目から鱗だった。 こうやって、思いもしなかった考え方をくれる本に出会えると本当に嬉しい。 自分の中の性的なマイノリティの部分もまた深く考えるきっかけになった。 また濱野さんの著書が出たら是非読みたい。

    0
    投稿日: 2021.05.29
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    最初はいろんな性志向があるのだなと思ったけれど、この本で語られている当事者たちの話しを読んでいると、なるほどねぇとちょっと納得してしまったりして。

    0
    投稿日: 2021.05.22
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    このレビューはネタバレを含みます。

    著者の経験から、動物性愛者というセクシュアルマイノリティを紐解いている。この本では動物性愛者をズーと呼んでいる。ズーであることを「動物の生を、性の側面も含めてまること受け止めること」と著者の調査や経験からまとめている。動物と対等な関係の先に、愛があり、性がある。当たり前のことなのにそれが全く議論されていない。偏見や偏った知識で批判することは簡単だ。しかし、著者やズーの人達のように、色んな考え方を独自の方法で理解しようと努め、行動することが大事だ。これには大きなエネルギーを要することがこの本から伝わってくる。そして、自分のアイデンティティ、セクシュアリティ、人間とは何かということを考えていく先には、自分が居心地が良く堂々と生きられる世界が待っているのではないかと感じた。ただ、私も完全にこのズーのことを理解できたとは思えない。理解しようとする姿勢が大事だと思う。疑問が良い意味で残る本だった。

    0
    投稿日: 2021.04.19
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    興味本位で読んだ。性愛は大切なことだと思いつつ、そのあたりの描写に拒否感が出てしまう。自身の経験から動物性愛者を研究の対象に決めるあたりは胸にくるものがある。

    0
    投稿日: 2021.04.16
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    セクシュアリティ、ジェンダーに興味がありそれに関する本をいくつか読んできましたが、いろんな視点や世界が見えてきて興味深さはこれがダントツ。

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    投稿日: 2021.03.26
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    衝撃、とともにものすごく興味深い内容だった “動物性愛” 物心ついたときから家には犬や猫がいて、 いろんなことを教えられた 人間の方が優れてるなんてまったく思ったことはない家族であり、兄姉であり、弟妹であり、先生、ともだち、仲間…愛すべき大好きな存在だけど、彼らとセックスをしたいなんて、彼らから快楽を得ようなんて 一度も思ったことはない 動物とセックスすること=獣姦、それはおぞましい行為だと思ってきた ほとんどの人がそうだと思う でも、この本に登場する動物性愛者“ズー”は、大好きな犬とのセックスを崇高な性愛と語る ズーたちは、犬たちからの「誘い」がわかるという たしかに犬たちにも性欲はあるはず、種の保存目的として、でもそれが異種の人間にも向けられているなんて考えたこともない ショックすぎた 著者は自ら夫のDVに苦しめられ、「人間のセクシャリティとは何か」を探し求めてズーと出会う ズーも自身のセクシャリティをなかなか公言せず、唯一のズー団体“ゼータ”に会いにドイツへと赴く ナチスに抑圧されたドイツに唯一のズー団体があるというのも面白い こんなカルチャーがあるなんて… 街で大型犬見ると「彼らの性欲?」って ついつい見ちゃう ズーは間違っているかもしれないし、間違っていないかもしれない もっとズーの世界が知りたくなった 著者は素晴らしいテーマを見つけた 動物好きの人は読んでほしい 果たしてどんな感想をもつか?

    0
    投稿日: 2021.03.23
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    「とてもいい本に出会えた」 それが1番の感想です。 動物を性の対象とする という人たちがいることに 初めは眉を顰めていたけれど 読み終えた今の自分は 「性」について色んなことを 考えさせられました。 「ズー」の人たちが社会から容認 される日が来るとは思えないけれど 人間と動物のあり方を再認識する には素晴らしい本でした。

    0
    投稿日: 2021.02.23
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    このレビューはネタバレを含みます。

    動物性愛者「ズー」。今のところドイツにだけ存在する「ズー」達の団体「ゼータ」。そのメンバー達と著者濱野さんの交流を中心につづられたドキュメント。 自分の知らない世界はまだたくさんあるんだな、と改めて思った。「獣姦・動物虐待」と「動物性愛」との違いさえ知らなかったので、なかなかに衝撃的なテーマ。 ただ読み進めていくうちに、そんなに特殊なことでもないのかも、と思い始めたのも事実。動物好きの究極形態、それを実行してる人々、という感じ。とはいえ、個人的には共感も実感もできないけど。 また、衛生上はどうなの?という事が気になって仕方なかった。人間同士の性行為でさえ、病気になったりすることもあるのに、、、そこは大丈夫なの?と。 以下、気になったことを箇条書きで。 ・著書の中でも指摘されていたけど、やはりアクティブ・パートの人の内容が薄い。パッシブ・パートの人の内容と比べると、全く少ない。そこら辺をもう少し突き詰めないと「動物性愛」に対しての見方を決められないな、と感じた。 ・「動物は嘘をつかない・裏切らない」だから、パートナーとして存在し、癒されている、という締めの部分。なるほど納得。 ただ自分は、、、嘘もつくし裏切るかもしれないけど、だから人間は面白いし、そういう不安があったとしても一緒にいたいと思える人と出会えるのが楽しいと思う。これもまた価値観の違いだな。 ・パートナーである動物と「対等」であることを重要とする「ズー」。自分以外の他者と全く対等になることなど不可能だと私は思うのだが、「対等」あろうとする姿勢は、とても好感が持てた。ペットを「子ども視」する今の風潮よりは、ずっと健全な気がする。 ・小児性愛との違い。「性欲」を持たないであろう「小児」を性の対象にするペドフィリアとは根本的に違うという説明は、とても分かりやすくてよかった。 愛のカタチは様々なんだな。

    3
    投稿日: 2021.02.09
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    ズーフィリアをテーマにした本にはじめて出会い、迷わず注文。 作者の方もこの本の取材を通して動物性愛を学んだようで、戸惑いながら知識を深める展開になっていて、作者と同じ気持ちで事象を知っていくことができた。 もう少しモデルケースが挙げられていたら嬉しかった。

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    投稿日: 2021.02.03
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    ゼータに所属してるズーたちはみなお行儀の良い人たちってのがすごく印象的でした。セクシュアルなことってもっと猥雑で理性が利かない部分もあると思うけど、アクティブパートの口が重いことからもエロを真面目に語る難しさってあるなーと思いました。

    0
    投稿日: 2021.02.02
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    ズーと呼ばれる動物性愛者へのインタビューをまとめたノンフィクション小説。著者自身が性的暴行を受けた経験があり、自身のセクシャリティやセックスへの考え方を深めたいと思ったことが、本作の背景だ。 昨今、ダイバーシティやLGBTを尊重する風土が世間全体にあり、同性愛者に対しても、差別的な扱いをするのではなく、多様性を認め合うことが是とされている。それは、「人の社会規範」として同性愛者は当初は認められない存在であったが、時代とともに「人の社会規範」の枠が広がり、LGBTも寛容されていったと思う。では、同じように、「動物を愛する人」「動物と人間が対等な関係性を構築し、セックスをする人」に対して、我々は拒否反応なく寛容になれるだろうか。 動物性愛など、自分にとって未知の性癖や趣味嗜好を持っている人に対して、拒否反応を示してしまうことは良くあるが、彼らにも彼らなりの考えがあって行動している。本書を通じて、自分の認識の外にある人や物事に対して拒否反応ではなく、理解しようとする姿勢が大切なのではないかと思った。

    0
    投稿日: 2021.01.31
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    動物性愛という、多くの社会で禁忌とされる行為についてのノンフィクション。 私にしては驚きの速さで通読し、思ったよりもすんなりと読めてしまったことに驚いた。 獣と対等な関係を目指し結果的に交わることがあるという人達よりも、同意なく蹂躙してくる著者の元夫の行為の方が罪深いとすら思った。 自分がもともともっていた獣姦への忌避感情がどういうところからくるのか、どういう点がクリアになれば、その行為が受け入れられ得るものとなるのか…この本をとおし考え続けていくと、段々と自分のなかのノーマル・アブノーマルの境があやふやになるのを感じた。 この部分を丹念に解き明かすと、なにをフェアで何をアンフェアと感じるか、その点に収斂されていくようにも思う。 今年の新入社員に、自らが働くうえで最も大事にしていることとして、「フェアであること」と答えた。 常々思っていたことではあるが、言霊とでもいうべきか、実際に口に出した後は、何をもってフェアとするか。公平さ、対等さとは何か。といったことをよく考えるようになった。 その意味で、この本は1つの新しい視点を私に与えてくれたように思う。 といって、今後、私がズーになるという選択をするかというと、おそらくしないだろうと思う。 私が存外すんなりとこの本を読めたのは、著者がズーたちの友人になり得たように、いつのまにか私も彼女の友人になったかのような気分になってしまったからかもしれない。 冒頭、著者が性暴力に晒された過去を大変痛ましいく、わたしは彼女の味方にならざるを得なかった。 彼女が立ち直るための行動、そして彼女がズーに戸惑いながらも共感していく過程は自然ですらある。 ドイツの伝統料理、クヌーデルに苦しむ描写には笑ってしまう。 著者は論理的であり、かつ、大変魅力的なパーソナリティを備えていると思う。 著者には今後も恐ろしい記憶に怯えることのないよう安全な場所で眠って欲しいと私は思うし、ズーに共感する彼女をとおしズーを受容し得たのかもしれない。 その反面、文字のみで伝えられるからこそ、冷静に受け止めているのでは?と思う自分もいる。 実際にその行為を目の当たりにしたとき、生理的に自分がどのように反応するかはわからない。 身体と心、両方が愛には必要だから。

    0
    投稿日: 2021.01.31
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    プロローグを読んだ時、これはなかなかの「小説」だぞ、と思った。 しかし、しばらくしてから京大大学院という固有名詞が出てきて、はて、と裏表紙の著者の経歴や、奥付を読んだ。 これって、ノンフィクション?! 著者の過去、配偶者から受けた暴力についての記述は読むのが辛い。 一方、本書の主題である動物性愛、ズーファイル(本書では「ズー」と表される)は、そういうものがあることは知っている、という程度でほぼ知識がない。 この二つの性にまつわる話はどうつながるのか? イメージしていたのは、馬や犬に対し、人間の男が挿入する、というもの。 いわゆる暴力、虐待のイメージで、「異常性愛」にカテゴライズされるのでは、と考えていた。 気持ちが悪い、とか、ありえない、とかではなく、理解できないもの、ごくごく一部のもの、という認識だった。 本書によると、ズーは、もちろん、そういう人もいるにはいるのだが、必ずしも性行為が伴うものではなく、動物の側から誘い、人間が同意してはじまるものと考えている人が多数派のようだ。 小型犬を家族、なかでも「子供」として扱うことと何が違うのか、という筆者からの問いかけには言葉を失った。 性衝動は、動物達の側にもある。 それをないものとすることは、動物を自分の「モノ」としているのではないか。 対等な立場で関係を育むことは良い。 虐待もあってはならない。 だが、動物は人間と同じだろうか?どこまで守り、どこで線引きをすべきだろうか? 愛はスペクトラム、連続した濃淡があることは間違いない。 ではどこからが異常か?どこでどんな規制をすべきか? 私にはわからない。 愛の広さや難しさを考えさせられた。

    3
    投稿日: 2021.01.23
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    愛とは?コミュニティケーションとは?パーソナリティとは? 愛はhuman間でのみ交わされるという固定観念を払拭し、人だけでなく動物もperson として考える人々の考えを丹念に追っていく。何かを「正しい」と断定するよりも、異なる考えや経験を持つ人たちの考えを知ろうとすることはずっと難しいけど、深いpersonality を感じる

    1
    投稿日: 2021.01.23
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    めちゃくちゃめちゃくちゃ面白かった!!!あまりの筆力に最後ボタボタ泣いてしまった 作者の根底にある怒りと痛みが苦しいほど伝わってきて辛いけど、それでも真摯に向き合う熱意と様々な角度から何度も重ねる考察の深さに脱帽。 人生であと何度こんな本を読めるかな 本当にすごい本を読んだ これを読んで救われる人もたくさんいるだろうし私も今後何度も読み返すだろうなと思った

    0
    投稿日: 2021.01.22
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    私たちは自分以外を見るのが下手すぎるのかもしれません。人も動物も。もっと向き合わなければ相手のことを知らずただ傷つけてしまうだけかもしれません。 人間は言葉を持っている。とても便利だけど、それだけを信用していては本当に理解することはできない。表情を視線を動きを匂いをもっと敏感に捉えなければならないと本を読んで私は思いました。 性交について、愛について考える手助けを『聖なるズー』はしてくれると思います。

    0
    投稿日: 2021.01.20
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    知識本かな…?こういう人、コミュニティーというのが世の中には有るのか。という事を知る事が出来た本。ただ、共感ポイントが無さすぎると、情報に食傷気味になるという事に気付いた。 「ああ、もうお腹いっぱい…(ウプ)」 好奇心は猫をコロスですよ。 そして、ヘタに人にこの本の内容語ると、確実に場の空気が悪くなるので要注意。読んだ人とだけひっそり語るのが賢明です。

    0
    投稿日: 2021.01.17
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    自分の中の常識が見事に打ち破かれた内容。最初は筆者と同じように恐怖や不安を感じていたが、読み進めるうちにズーとパートナーたちの愛に満ちた生活に偏見もなくなっていく。

    0
    投稿日: 2021.01.17
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    考えた事も無かったなと。 受賞作という事で大筋すら知らずに手に取ってみたら、盛大に面食らい、印象に残る一冊に。 人と動物の関係性や、愛とセクシャルに。真剣で、凄い。 という印象もまた極々一面。 根拠にしろ論拠にしろ。 ただ、こういった向き合い方もある、という事ながら。 多様性とはなんだろう。歴史とは。学ぶとは。理解。その必要性。思い込みと、自分で決める事、の違い。区別に意味があるのかすら。etc。 パッシブ・パートとアクティブ・パートの距離に、ヒリヒリする。 軸、かもしれぬ事。 相手により引き出される、相互関係の中に生まれる、可変なものとしてのパーソナリティ。 犬好きの私は、その個々の特性については、以前より感じていた。 同犬種でも様々、ある。 私は、動物を飼うという行為は元よりエゴから始まるし、人間含むあらゆる関係性や生き方にも、利己的である事は一分一秒余す事なく付き纏うと思っている。 そんな己に、開き直っている。 それもまた、ある程度はそうする他無いと思うし、 けれど、もっと歩み寄る道もある、と思っている。 不完全な誠意を、不完全なりの誠意として自らを定め、己を生きている。 ので、当事者ではない事、相手に求められてもいない意見には、慎重にならねば、と思っているのだけれど。 実家で飼っていた犬は、早々に病気故に去勢していた。 それでも時に腰を振るその子を見て見ぬ振りしていた自分も、確かにいた事を思い起こす。 彼は長生きして亡くなったけれど。総じて、良し悪しを断じる事はできない。 何もかもに当事者意識を保つ事や想像を巡らす事イコール誠意だとは、私は思わない。 ただ、誠実で「あろうとする」事、己には手が届かぬ可能性の存在を頭の隅に残しておく事。 それでもなお、警笛を鳴らす事も必要で。 という風に、新たに思い巡らせるという事。それをもたらす、一冊。

    1
    投稿日: 2021.01.09
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    このレビューはネタバレを含みます。

    まず表紙の犬がきれいだなと思い「聖なるズー」って何のことだろうと思いました。私は特殊能力があって、例えば人間の言葉や感情を理解して行動したりするような動物の話かと思って手に取りました。 特殊能力の話ではなかったけれどもそういう能力とは別の、深い動物の能力を感じさせる話でびっくり。 友人の家の馬を見に行った時に他の友達にはしないのに私にだけ歯をむき出している馬がいて「あれ何?」と聞いたら「あれはあなたに発情してるんだよ」と言われて大笑いしたことがあるのですが、もしかしてあながち笑い話ではなかったんでは、などと改めて思ってしまいました。 ズーフィリアという言葉を聞いたことがあったかどうか。 性の世界というのは本当に奥が深いものなのだなと。そして生きるということとは切り離せないものなのだなと思いました。 性衝動というのは本能だというのはよく言われることですが、これを読むとそこにはより理性の力が必要というか問われるものなのだということがよくわかります。 著者が何故このテーマを選んだのかということが衝撃の告白から始まります。 ここまで調査を進めるのは人の心のひだに分け入るようでとても大変でナーバスな作業だったことでしょう。 こういう作品が開高健ノンフィクション賞受賞ということがまた、視野の広がりというかより広いテーマの開拓を感じさせてさすがだなと感じました。 ズーフィリアから始まった著者の性との対峙はまだ世界が広がりそうだし書ききれなかったものもあったのでは。 また別の視点からの著作も今後出ることがあれば読んでみたいライターさんの一人となりました。

    4
    投稿日: 2021.01.05
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    セクシュアリティへの認識さえおぼつかず、動物性愛に思量が至らずだ。良好な関係性で築かれた信頼の結果生じるのがセックスだと、あるズー(動物性愛者)は言う。一つの理想論だが、裏切る人間より裏切らない動物の方が信頼度が高いとするなら論点が違う。また、ズーは共に生活する動物とは対等であると強調した上で、動物をペットとパートナーにわける。セックスを含む特別な関係にあるのがパートナーだとする。この考えにも越えられぬ壁があるが、端的に披露できる論も能力もなく、ズーとして悩み、あるいは誇りを抱く人たちを無責任に語れない。

    0
    投稿日: 2021.01.03
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    解説:動物性愛について 獣姦は動物とセックスすることそのものを指し、ときに暴力的行為を含むが、動物性愛は動物に人間のような心理的愛情を持ち、その延長線上としてセックスに至ることだ。 現在、精神医学では、動物性愛はパラフィリアのひとつ、つまり性にまつわる精神疾患とされている。LGBTのように、性愛における亜種のひとつ――セクシャルマイノリティに数えられてはおらず、小児性愛や死体性愛者と同じカテゴリに見られている。 近年の動物性愛にまつわる世界的な議論は、その行為が「動物への虐待になるかどうか」に焦点が定められることが多い。犯罪学からの観点では、動物とのセックスをいかなる場合であれ動物虐待とみなして、断罪する論調が目立つ。それは「動物は言葉を話せず、人間が理解できるかたちで合意を伝えられない、だから動物虐待にあたる」という理由である。 【本書の詳細】 ①動物性愛者団体「ゼータ」について 10年間DVと性的虐待を受け続けていた筆者は、ずっと愛とセックスの関係に疑問を持ち続けていた。そんな筆者は、人間と動物とのセックスは、人間と人間との関係やセックスという行為、ひいては「愛とは何か」を抽象化してくれる鍵になるのではないかと考え、ドイツにある動物性愛者団体「ゼータ」のメンバーにインタビューを行うべくドイツに向かった。 ゼータのメンバーは自身を「ズー」(ズーフィリアの略称)と名乗っている。ズーのなかにも色々な違いがあり、人間の男女性愛のように、ズー・ゲイ(人間男×動物♂)やズー・レズビアン、ズー・ヘテロが存在する。また、セックス時の立場を示す言葉として、受け身の場合は「パッシブ・パート」、その逆は「アクティブ・パート」と呼ばれている。 ズーのメンバーの多くは自宅に何種類もの動物を飼っているが、必ず大切な一人(セックスする相手)をパートナーと呼び、それ以外をペットとして区別している。 ②動物とのセックスの仕方 ズー・ゲイの人々は、オス犬に肛門を差し出し、ズー・レズビアンはメス犬のクリトリスとヴァギナを刺激してあげ、絶頂を促すという。 ズー・ゲイでパッシブ・パートのミヒャエルは、「どうやって犬がセックスをしたがっているかわかるのか?」という問いに、「簡単だ。犬とのセックスは自然に始まる」と答えた。動物は人間と違ってしたいときにする。食べることや遊ぶことと何ら変わらずに人間を求めて来る。ただし、犬が求めてきても自身がしたくないときは応じず、そこは人間のセックスと同じである。 一方、動物たちは、人間の匂いをかぎとって飼い主から誘惑されていると判断している。犬は精液や経血の匂いにとても敏感であり、人間のオナニー時や生理時に特に発情が強くなる。匂いで判断するという習性上、動物もやはり衣服を着た人間より裸体の人間に興奮しやすい。そのため、ズーの人びとは服という人間らしさをときどき捨て、自宅では裸体で過ごすことが多い。 求めてくるタイミング、一緒に過ごすときの反応の仕方、性格、それは動物一頭一頭違う。そしてズーたちも「犬ならなんでもいい」というわけではない。ズーたちは口を揃えて言う。「動物にはパーソナリティがある。」 ③パーソナリティとは何か パーソナリティとは関係性の中から立ち上がるものであり、「性格」とは違う。恋人を前にした態度と家族を前にした態度が異なるように、自分と相手が触れ合い、意思疎通をし、共有した時間から引き出される、その2人(1人と1匹)の間だけの特別な関係性、それが「パーソナリティ」である。同じシェパードを3頭飼っているズーはこう言った。「パートナーは1頭だけであり、他の2頭に比べて彼だけが僕に特別な感情を抱いているんだ。」 ズーたちにとって、パーソナリティは人間にも動物にもある。彼らは人間と動物が対等な存在であることを前提としており、その関係性は時に、我々がペットに抱く「愛玩動物」としての倒錯した役割を浮き彫りにする。 人々は動物性愛と小児性愛を同一視しがちだ。そこには、「大人と子供は対等ではない」という感覚と、「人間と動物は対等ではない」という感覚の近似がある。 子供も動物も、人間の大人ほど知能が発達していない。だからペットに服を着せて赤ちゃん言葉で話しかける。子供が性欲をむき出しにするのをおぞましいこととみなし、自慰行為を禁止したり去勢を行ったりする。 しかし、動物が子供と違うところは、性が成熟しているということだ。 その根本的な違いをズーは理解している。動物との対等性を見出すズーは、ペドフィリアを嫌っている。「性的な目覚めがない相手に性行為を強いるのは間違っている」からだ。その裏側にはもちろん、「成熟した動物たちには性的な欲望とその実行力がある」という主張がある。動物に対して本当の意味できちんと接しようとするからこそ、動物たちの性を受け入れるのだ。 我々が、動物とセックスする人間に嫌悪感を抱き批判するのは、それが歪んだ愛情や性玩具としての役割を動物に押し付ける――上下関係を利用した動物の虐待――とみなすからである。 しかし、動物を知らず知らずのうちに格下に見て、「異種への共感」を蔑ろにしているのは我々批判者のほうではないだろうか? ④アクティブ・パートの人びと パッシブ・パートの人々は口を揃えて言う。「動物たちから自然に誘ってくる」と。 アクティブ・パートの人びとも同じ考えを抱くが、彼らは皆、自分のセックスについてあまり語りたがらない。 それは、アクティブ・パートは、自分のセックスが虐待的だと見なされるのではないかという恐怖につきまとわれているからだ。アクティブは動物に挿入する行為を伴うため、ペニスの大きさがヴァギナを傷つける恐れがある。これはパッシブ・パートの一部の人々にも共有されている感覚であり、時にパッシブの人はアクティブの人を快く思わないことがある。 アクティブ・パートの中には、「ゼータ」に所属していたものの、彼らと折り合いがつかずチームを離れた者もいる。彼は筆者に皮肉交じりにこう告げた。「ゼータの人間は『聖なる・ズー(いい子ちゃん)』だ。」 しかし、ペニスの大きさとヴァギナの大きさに違いがあるから性的虐待になるという理屈はおかしいのではないだろうか?パッシブの女性は、馬に挿入する行為は性的虐待に繋がらないと考えていた。馬のヴァギナと人間のペニスでは大きさが違いすぎるからだ。だが、本来であれば性的虐待はペニスの挿入を伴う行為のみを指すものではない。この事実は、ペニスそのものに暴力性を見出す視点が社会に漂っていることを浮き彫りにしている。 パッシブ・パートの人々がセックスにおいて得る最大の喜びは、相手を丸ごと受け入れることのできる自分と、パートナーの性的満足である。しかし皮肉なことに、パッシブ・パートナーがそうした対等性の喜びを享受できるのは、彼らが自分のペニスの挿入を避けて、暴力性を回避しているからだ。 性暴力の本質はペニスそのものにあるわけではない。ペニスを悪者に仕立て上げたところで、解決策を生むどころか断絶を作るだけだ。 ⑤愛とセックスの関係性 ドイツ(ベルリン)では、「セックスとは限られた間柄でするもの」という社会規範に対する抵抗運動があり、そこではセックスは淫靡的ではなくオープンなものであるという倫理観が共有されている。キリスト教による男性同士の性行為や動物との性行為を、「自然に対するわいせつ行為」として禁止する価値観があったことから生じたバックラッシュである。 「いい関係においては、愛とセックスは一致する」 ズーの人々はみなそう答える。身体のオーガズムと、頭のオーガズムがあり、セックスが前者で愛が後者だ。セックスには身体的充足と精神的充足があり、その面では、人間と犬という種の違いも問題にならず、むしろ種を超える役割を果たしているようにも思える。 ⑥ズーが社会に伝えるメッセージ クルトというゲイの少年は、動物のパートナーを持たないにも関わらず、自分がズーになりつつあると認識し、周囲にカミングアウトを行っていた。 クルトが周囲の友人にカミングアウトするとき、つまりセクシュアリティをひとつの問題として身近な社会に提示するとき、クルトはズーであることを、「生来的で自分ではどうにもできない性的指向」ではなく、その文化的・環境的な側面を含めた「選択肢」として相手に伝えている。 セックスは本能的で自分ではどうにもできないものではない。「このようなセクシュアリティのために、このようなセックスを選び取る」と事後的に選択することもできるのだ。 クルトのカミングアウトは、身近な社会を変えていこうという意思が備わっている。 「セクシュアリティは自由だぞ」と周囲に訴えかける力強さがあるのだ。 ズーたちはみな、セクシュアリティの自由を求めている。結局は、なにものかわからない「社会規範」というものからいつの間にか押し付けられているセックスの「正しい」あり方は、一部の人々を苦しめ続ける。それはセクシュアルマイノリティだけではなく異性愛者も同じだ。だからズーは人々に理解を促す。愛の形には多様性があり、その選択肢の一つとして動物とのセックスが成立し得ることを。 セックスの前提に本物の愛があれば、他者から批判されようとも、彼らは強く立っていられる。裏切りも表裏もない動物という存在に、彼らは本物の愛を見出し満たされているのかもしれない。 ズーと出会って、筆者は変わった。性暴力の経験者として「カミングアウト」をし始めた。時には他者から投げかけられる偏見を享受しながらも、自らの傷をありのまま受け止め、他者を理解することを始めた。ズーが誰を愛するかの自由を求めたように、筆者はセックスを語る自由を求めたのだ。 【感想】 年の瀬に凄まじいエッセイに出会ってしまった。ズーの人々が語る衝撃的な日常とその裏にある普遍的な愛の形を丹念に描写し、「愛とセックス」という茫漠なテーマを見事に畳みきってしまった。とんでもない大傑作だった。 まず、プロローグで語られる筆者の生い立ちが凄まじい。 10年間もの間恋人から身体的暴力と性的虐待を受け続け、セックスと愛情との間に埋められない溝を作られてしまった筆者が、人間と動物とのセックスを通じて、「愛とセックス」との関係の本質性に迫ろうと決意する――このいきさつだけで本一冊が書けそうなぐらいのテーマである。 筆者が出会ったゼータの人々はみな常識人であり、世間一般に考えられているような動物を性的なおもちゃとして扱う人物ではなかった。彼らはみな動物をパーソナリティある対等な関係として扱う。人間の子どもやペットのように「保護され愛玩される」対象として捉えず、あくまで対等な関係として考える。それゆえに彼らは動物の性行為を受け入れる。動物を性的衝動のある一個人として捉え、抑圧をせずありのままを受け入れている。 最初は、こうしたズーの人々の描写が続き、私も「動物性愛は暴力的な趣向ではないんだ」と認識を改めていた。しかし、筆者はいい話ばかりでは終わらせてくれなかった。 ここで出て来たのがアクティブ・パートの人間である。彼らは動物を愛するがゆえに、ペニスを挿入して動物を傷つけることを恐れている。同時に、パッシブの人間は時にアクティブの人間を動物虐待者として考えている。 そうしたいさかいによりゼータを離れたズーは、アクティブ・パートのズーにこう悪態をついた。 「ゼータの人間は『聖なる・ズー(いい子ちゃん)』だ。」 私が本書で最も衝撃を受けたのはここだ。あまりの唐突さに混乱せずには居られなかった。 「この本のタイトルはここから取ったのか?なぜ、どうして、ネガティブな意味を本書の核にしたんだ?」 その後、パッシブの人間は動物をパーソンとして考え、対等で尊敬すべき相手として動物と接していると結論づけられたが、アクティブという「もう一つのセクシャルマイノリティ」が、自身の性とどう折り合いをつけているかは、ついに語られることはなかった。 また、この筆者はエクスプロア・ベルリン(3日間に及んでセックスやセクシュアリティにまつわるさまざまなことを経験するフェスティバル)に参加している。参加する旨をズーに告げた時、彼らは「あんなとこにいくなんてトンデモない。誰とでもセックスするような人間のいるところなんて」と筆者に警告する。 ズーの人々は無意識に、フェスティバル参加者に対して偏見の目を向けている。愛の多様性を問う彼らもまた、自身に理解できないセックスの形を批判する存在であるのか。マイノリティが目指す愛の形は、やはり理解し合えない歪なものであり続けるのか。 本書を通じて筆者は、ズーの人々と世界に共感し、心を開いた。出会ったズーたちに「本当にありがとう。みんなのおかげで私は世界を広げることができました」というメッセージを送ってドイツを後にした。 しかし、彼女の地の文は、最後の最後まで「懐疑性」を帯びている。ズーの人々だけではない、もっと違う性的趣向を持つ人々にアクセスし、議論が一方向だけで終わらないように細心の注意を図って文を書き続けている。 筆者はズー達との触れ合いを得た後で、痛烈に投げかけている。「愛とは何か、セックスとは何か。転じて、セクシャルマイノリティとは何か」と。それはズーの存在を認めたうえで、彼らが抱える性の歪みの外に広がっている、違う歪みへの存在を気づかせるための問いなのかもしれない。

    1
    投稿日: 2020.12.27
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    動物性愛の研究者が論文には収まりきらない問題点をノンフィクションとして執筆。ドイツにだけある動物性愛者団体「ゼータ」メンバーの話を聞く。動物は共生すべき仲間、特別なパーソナリティを持った相手とだけ、動物からの誘い・性のケアとして受け入れる。 そもそも人間が集まる社会が自然からは離れているし、動物もその中で不自然を強いられているのかも。

    0
    投稿日: 2020.12.20
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    【要約】 性暴力被害の経験のある著者が、自らの経験を乗り越えるために、性や愛に関して学術的に経験しようとする中で、「動物性愛」というテーマに出会った。 調べていくうちに、ドイツのゼータという動物性愛者の団体を見つけ、インタビュー研究のためにドイツに滞在した。 動物性愛者=ズーへのインタビューを通して、人と動物との対等性、マイノリティへの差別、性という語られにくい個人的なテーマなどが考察される。 【感想】 ・本書でも語られる多くの人と同じように、私も「動物性愛者」についてほとんど知らなかったし、生理的な嫌悪感のようなものさえあった。 しかし本書を読むことを通じて、生理的な嫌悪感は少し減ったように思う。とはいえ、やはり自分自身に動物性愛の傾向はなく、実際にそうした人を目の前にしたらどういう反応をしてしまうかはわからない。 ・既に他界したが、以前実家で犬を飼っていた。保健所で殺処分されそうになっていたのを、母が引き取ってきたのだ。飼い始めた当初小学校低学年だった私は、彼女(メスだった)を可愛がり、その存在に大いに癒されてきた。彼女は去勢されており生殖能力はなく、また私自身は彼女の性欲というものを感じたことも意識したことすらなかった。彼女のことを丸ごと愛していたつもりだが、彼女の性という側面については全く意識の外だったなと思う。 ・本書で一番印象的だったシーンは、実はエピローグだ。著者がゼータのメンバーと別れる際にプレゼントをもらい、号泣してしまう。人と深く関わり会うなら、客観的な立場で居続けることはできないと筆者は語る。私は医師として日々患者さんと接するが、ほんとうにそうだと思う。客観的な分析も行うが、主観的な思いが混じることは避けられない。

    0
    投稿日: 2020.12.20
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    Yahoo!ノンフィクション大賞の候補作の中でいちばん心惹かれた。 「動物とセックスする」というのはなかなか強烈なフレーズで、私自身も「え、獣姦?」という発想しか浮かんでこなかった。 ズーファイル、動物性愛。動物をパートナーとして種族を超えた愛を育む人たちがいるということを、私は本当に全くとして知らなかったのだ。 動物性愛は実際まだ明確に定義されておらず、性的倒錯や精神疾患だとする精神医学的見地と、同性愛と同じように性的嗜好のひとつだとする性科学・心理学的見地とに分かれているらしいことも興味深い。 DV被害者である著者は、大学院で文化人類学におけるセクシュアリティ研究を始め、そこから愛やセックスの本質へアプローチするための命題として動物性愛を選んだと述べている。本書は、ドイツにある世界唯一の動物性愛者による団体「ZETA」を訪問し綿密な取材を重ねて書き上げた修士論文を、一冊のノンフィクションとして出版したものだ。 とにかく未知の世界が広がっていた。私も犬と猫を飼っていた経験があって、もちろん可愛くて大好きだったけどそれはペットとして、家族として大好きだったのであり、パートナーや性的対象として見たことは一度も無かった。 けれど本書を読み進めていって、動物性愛者たちが「パーソナリティを愛しているんだ」と繰り返し説明するのを読んで、理解するとっかかりを得た気がした。人間×動物、と考えるのではなく、パーソナリティ×パーソナリティと考える。 そして気になっていたズーと彼らのパートナーとのセックスについて、ZETAのメンバーたちはそろって、動物とのセックスはあくまで”自然に”始まるのだと答える。食べること、遊ぶこととなんら変わらない。とても自然で、ただただ楽しんでいるのだと。同意の意志表示ができない動物とのセックスは虐待だ、と断罪する声がある一方で、そこまでずっと動物性愛について読んだ私は決してその行為を虐待だとは言えない。 エドヴァルドとバディとティナの関係はそれでも複雑で難しかった。元々エドヴァルドが動物性愛者でバディという雄犬のパートナーがいる。そして人間の彼女であるティナにそのバディとの関係をカミングアウトして理解してもらった。二人と一匹は、三者で愛を育めるようになり、バディがティナとセックスするのをエドヴァルドが献身的にサポートする。書いていても頭がこんがらがってきた。ズー・ゲイやズー・レズビアン、そこにアクティブハートとパッシブハートがあり、さらに動物と人間のポリアモリーもあるということか。 ズーの世界はとにかく奥が深い。 同じような関係性は世界中に一つとして存在しない。でもそこには人間同士となんら変わらない愛の本質がある。種族や関係を超えて、個と個で愛し合うことのありのままの姿がある。うまく言えないけれど、ともかく私は本書を読んで、セクシュアリティについて知っておくべき新たな側面を得られたのだと思う。

    5
    投稿日: 2020.12.19
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    動物性愛者という全く自分の知らない世界に興味が惹かれて購入。 本当に驚いた。 動物を愛し、パートナーとし、セックスをする人達がいることに驚いた。 さらにセックスについてもアクティブ、パッシブ/ヘデロ、ゲイ、レズと様々。 作者は性暴力の被害経験があり、そのトラウマからセックスという切り口からズーの集団へインタビューを行っていたが、ズーにとってみれば動物とセックスをしたいとかでなはなく、愛の延長にセックスがある感じだったのが興味を惹かれた。 ノンフィクションというのは自分の知らない世界を知ることができる手段の一つ。 自分にまた新たな知識が加わった事が良かった。

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    投稿日: 2020.12.18
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    文章は読みやすく、世間には出てこない動物性愛者の話を読めるのは興味深い。 ムツゴロウの動物王国で、ムツゴロウさんが動物のマスターベーションを手伝っていたのを思い出し、それを見ているような感覚だった。 個人的には、もっと強烈なものが見られるかと思っていたので若干拍子抜けだが、面白かったので良し。

    0
    投稿日: 2020.12.16
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    最初はグロテスクだと思える描写が多くて、読むのが大変だった。 しかしズーの人たちと触れ合い、色々なことを聞いていくうちに印象は変わった。愛する対象が人であろうが動物であろうが、良いじゃないかと思えた。 セクシャルは現代でも問題に多く取り上げられ、ジェンダーフリーなんて言葉も登場するが、これはまた新たな問題提起になるような作品である。

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    投稿日: 2020.12.05
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    獣姦というものから何を想像する? 人と人以外の動物が交わること。そんなイメージをわたしは持っていました。 本書は、獣姦というものを直視したレバーである。 それは、生殖を基本とした人間同士の性とは異なり、心の交わりを基本とした、人間と動物の交わり。 おそらくそれは、LGBTと同じ、多様性の問題。 そんなことなのだと思う。 興味本位で開いた本によって、正しい認識を得ることができたような気がする。 そんな本に出会えた。

    0
    投稿日: 2020.10.13
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    家族同然で飼っていたペットが、気づかないだけで実は自分にセックスを求めつづけていたとしたら?そしてある日それを知った時に自分はそれを「正しく」対応できるだろうか? この本を読んだ後では、もうこれまでと同じ視点では動物と接せられないかもしれない。動物も人と同じく尊重される命であり、性があり、性欲がある。今まで自分は動物をペットとしてしか見てなかったんだなあ。 猫を飼うならペットショップよりも保護猫であるべきと思っていたけど、結局「保護する」という行為も人間のエゴであり、果たして猫がそれを望んでいるかって難しい問題だ。動物の尊厳と権利。 でも人間のエゴを断罪して「聖なる」レベルまで倫理的であることが正義になるのも違う気がする。だって動物たちは必ずしもお互いを尊重しながらセックスしているわけではないだろうし、エゴであることの方が自然であるようにも思う。 きっとバランスの問題だ。エゴと思いやりのバランス。

    9
    投稿日: 2020.10.10
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    このレビューはネタバレを含みます。

    これはスゴい本。クヌーデルというドイツ郷土料理に対する著者の愛情表現が絶品である。(違う) 本筋は動物性愛というタブーのような世界を描くことはもちろんのこと、動物性愛者たちに触れていく中で著者自身のセクシュアルな体験や考えが克服されていく。 犬や動物たちを「子ども」として捉えているから、ズーフィリア(動物性愛)とペドフィリアが同一視される、というのはなるほどと思う。動物にも性欲がある存在として認めるならば、扱いは今より変わるのだろう。 社会規範として広く認める/認められるかは別として、少なくともズーフィリアの人々は「嘘はついていない」。自分が共感出来なくても存在として理解できるようにはしたい。

    0
    投稿日: 2020.10.03
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    自分にとっては物凄く衝撃的な本だった。読んでる間、自分の価値観が思い切りひっくり返されていく感覚。 ズーファイル(動物性愛者)の人々と生活をともにしながら彼らと向き合い、動物性愛とは、セックスとは、愛とは、そして人間とは何かを見つめ直す著者のノンフィクション。 ズーは愛の対象が動物であるだけで、その愛し方はむしろ人間同士のそれより高潔、純真に見える。あらゆる逆境を超えその愛を貫かんとするズーの勇気に感動さえする。 例えば将来生まれるであろう自分の子が先天的にズーであった場合、自分はどうすれば良いだろうか。わからないが、その可能性があるということを知るだけでも心の準備ができる。だからもっと沢山の本を読み、沢山の世界を知っておきたい。あらゆる可能性を受け入れる準備のために。

    6
    投稿日: 2020.09.26
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    このレビューはネタバレを含みます。

    ズーファイル(動物性愛者)についてのノンフィクション。新たなものの考え方、見方を教えてもらった。 この本を読むと、ズーフィリア(動物性愛)なんて異常だ、病気だという概念は覆されるだろう。 とはいえ、生理的に理解できない人も多いと思うけど。 本書タイトルの「ズー」はズーファイルの略称で、ズーファイルたちが自らを称する際に用いる。 セックスの話がセンセーショナルだから、そこに限って取り上げられがちだが、ズーの本題の本質は動物と世界との関係性と言っていい。 ・ズーは対等性にこだわる。 動物に対し、性的な行為のためのトレーニングをズーはしない。なぜなら、それは動物を道具扱いするということだから。 だから、心通わせあい、お互いが求めるときに、そういった行為に自然となる。 ズーはビースティ(獣姦愛好者)やズー・サディストとは異なり動物を決して傷つけたりしない。 ・ズーフィリアはペドフィリア(小児性愛)と同一視されることが多い。しかし、成熟した動物たちには性的な欲望とその実行力がある。一方、幼い児童は性的な目覚めがない。全く違う。 ・ズーのセクシュアリティ観には、「パートナーの性のケア」という側面がある。 つまり、動物の生を、性の側面も含めてまるごと受け止めるており、動物を「人間と同じようにパーソナリティを持ち、セックスの欲望ももついきもの」として捉えている。 対して、動物保護団体は動物を「保護すべき対象、力なく自立できない生き物、子供のような存在」と考える。 …どっちが正しいかって結構微妙。 ・ズーたちは、人間の代替として動物を必要としているのではない。動物たちにこそ癒され、ケアされている。 全体を読むと、著者自身の性暴力被害の経験と相まって、性とは何か?を深く読者に考えさせる内容になっている。 ズーの女性が言う。 「セックスは誰とであっても、素晴らしい経験になり得る。でもそれは、セックス以外の部分がうまくいっていることが前提よ」 世の中の全ての性暴力がなくなるといい、と思う。

    27
    投稿日: 2020.09.22
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    ドイツの動物性愛のグループ「ZETA」のメンバーに直接取材した「獣姦嗜好」とは異なる「動物性愛者」の姿に迫るノンフィクション。 プロローグでいきなり自身のDV・性的虐待についての語りがあって、最初ちょっと苦手なタイプのノンフィクション(あまり著者が前面に出てくるノンフィクションは苦手)かもと思ったが、読み進むうちにこの本・著者に関してはそれで良かったと思うように。 登場する「ZETA」に所属するズーフィリアたちは、自分たちの性的指向に対して真面目であり高潔ささえ感じさせるものがある。しかし、それゆえに何処か胡散臭さも感じる。彼らが意図的なのか無意識的なのかはともかく何処かに欺瞞があるのではないか疑いを持つのは自分が下卑た人間だからか。 ただ、著者自身が書いているように、「ZETA」がズーフィリアのすべてを代表する訳ではなく、彼らとは考えを異にする人たちも多い。この本の中にも「ZETA」から嘘つき呼ばわりされているエドガーという人物が登場するが、時間的制約でキチンと取材できずに終わっているのが残念。そういう意味で、この本はズーフィリアのすべてについて語るものではなく、その極一部にスポットを当てただけのものに過ぎない。しかし「ZETA」の人たちの主張は綺麗事かもしれないが、著者の感じるセクシャリティの在り方に対する疑問やそこに潜む暴力性に対する回答とまでは行かないにしても、それまでとは異なる新しい側面を提示したとはいえるのではないだろうか。 結論のあるものではないが、起点とはなる一冊、

    5
    投稿日: 2020.09.20
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    今どきのミステリー小説のようなタイトルでしたが、 その内容は衝撃的でした。 動物を愛の、性の対象とする方々の それぞれの思いに、時に共感し 時に相入れないと思ってみたり。 読んで良かった。

    1
    投稿日: 2020.09.11
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    読む前とは世界がまったく違って感じられるようだ。しかし、それはすでに私が知っていたはずの世界でもある。 ズーとは、動物性愛者の自称である。いわゆるアブノーマルなイメージの”獣姦”ではなく、異性愛者や同性愛者の多くが異性/同性と特別な絆を育み、コミュニケーションをし、そのなかでときにセックスするように、ズーのひとびとは特別な動物のパートナーを愛し、関係を築いて、ときには互いの意志のもと、性行動をおこなう(すくなくとも彼ら自身の認識では)、または実現していないにしても、そういった動物との関係性を欲望する。 愛した動物にセクシュアリティを感じて一瞬どきりとした経験があるのを、本書を読んで思い出した。 私たちはふだん飼い犬に性があることすら無視しがちだ。あるいは人間のものとの間に太い線を引いて完全に区分けし、本能という名前でくくり、あたかも単純な条件反射か、機械仕掛けかなにかのように扱うこともある。しかし、同じ動物として、まして不完全であれコミュニケーションをおこなえる間がらであるのに、私たちのセクシュアリティとかれらの”性本能”が、そんなにきれいにわけられるものだろうか。 そっと蓋をしているだけで、すぐ隣にある世界だ。 追記メモ:ズーフィリアをクィアの射程内で考えること https://www.jstor.org/stable/23254843

    6
    投稿日: 2020.09.09
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    ズーとは、個別の動物に深い特別な愛情を持ち、対等な関係を築き、時にはセックスをする人たち。 ズーにとっては、動物と言葉を交わせなくとも十分にコミュニケーションが取れて、パーソナリティを感じられるようだ。 作者自身のトラウマを乗り越えるために、単身ドイツへ行き、社会から糾弾されることも多いコミュニティの人たちの中へ入ってゆき、丁寧にコミュニケーションをとって複数の論文やこの一冊を書き上げた作者のバイタリティに感動した。

    0
    投稿日: 2020.09.07
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    異種族レビュアーズが好きなので獣姦か〜と思って深く考えずに読み始めた。 ゼータのズーは性欲の対象というより愛の表現方法としてセックスに行きついてる感じがする。動物を共生すべき仲間として見ているので、うなぎを愛する といったときに一緒にプールで泳ぐという発想が出てくるのが可愛い。 そのように神聖な観念を持っている人たちばかりではないし、異常性癖として糾弾されるときに思い浮かぶ絵面はおそらく人間が能動的なものなので能動的な動物性愛者には誤解も多い。動物性愛者の中でも居心地の良い悪いがあるんだなと思った。でも動物も人間も欲情しちゃうんだから仕方ないよねえ。

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    投稿日: 2020.09.02
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    書評での評判と、物珍しさと、無意識の偏見から読み出した一冊。当初、意識していなかった偏見が、読了後、全く違うものになった一冊。考えさせられるし、人間と動物の関係が、全く違うものに見えてきた。間違いなく、ドキュメンタリーとして傑作。答えは出切っていないが。

    0
    投稿日: 2020.08.30
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    同性愛に対してはあまり違和感がない。しかし、性の対象が動物なのはこの本の読後もまだ違和感がある。もちろん何に対して性を感じようと個人の自由なのだけれど。 とはいえ、この真摯なルポでズーの人々が一人一人の人間として立ち上がってきたのはとても興味深かった。 ペット=こどもだから性的対象としてはいけない、という禁忌の反対側に彼らは立っている。この本で最も目からウロコが落ちる思いがした点だ。立場が弱い・コミュニケーションがうまく取れない、という点で私も小児性愛と動物性愛を同一視していたが、動物の立場が弱い、言葉が喋れないからコミュニケーションが取れない、という前提がまずズーにはない。逆に成人同士が言葉上で同意を取り付けたのは、本当に合意なのか。ズーは大人になった動物の性を否定しない。挿入にも拘らない。人によっては、それは性愛なのか、と疑問視したくなるケースもある。でも、この多様性とゆらぎがまさに多様な性の実態なのだろうと思った。 著者自身のトラウマは読んでいて辛かったが、これがないと最終章の結論は導けなかっただろうと思うので飛ばさずにちゃんと読んでおいてよかった。

    0
    投稿日: 2020.08.25
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    ズーフィリアという動物性愛者についてのルポ。 動物を性欲の道具とする獣姦愛好者のビースティや 動物への性虐待者のズー・サディストとは違う 例えば犬を「人間の五歳児」のように扱うのではなく、 人間と対等で、人間と同じようにパーソナリティを持ち、セックスの欲望を持ついきものと動物を捉えている 性欲、支配欲、世界観等の考察に非常に興味深い

    0
    投稿日: 2020.08.18
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    動物性愛者の話である。場所はドイツ。著者の博士論文らしい。著者は10年ほど交際相手に支配されていた経験を持ち、そういう意味で性愛に対してワダカマリを抱きながらのレポートとなる。さて、内容に関しては、読む前はてっきりいわゆる獣姦、つまりロバだとかヤギに近づいて動物虐待的な感じでヤる人たちの取材と思い込んでいたら全然違いました。むしろ動物への純愛というか、セックスは確かに含まれるのだが、動物、特に犬と本気で愛し合う男女の話だった。読まないと、そんなアホなと思えるのだが、著者とともに本気で犬と愛し合う(それはセックスが主では全然なく)人たちの話を読んでいると、確かにアリかなと思えるようになる。むしろ、彼らが言う通り、動物が持っている性欲を含めた性愛を飼い主である人間が無視しすぎているのは確かかも?と思えてくる。 日本でも著者は取材使用するが、基本的にはそういう人を探そうとすると下ネタで近づいてくる馬鹿な男ばかりなのだが、1人高校生の頃にそういった真面目な動物性愛に気づいた若者がでてきており、彼の今後の人生の困難さを思うと心配にはなる。 いずれにしても、LGBTでマイノリティの性に自分は寛容だななんて思っていると衝撃的な内容だし、読後は少なくても本気の気持ちで動物と向き合い、強制などなく愛し合う人たちを馬鹿になどできない。

    0
    投稿日: 2020.08.16
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    DVを受けていた作者は、自身の経験からセクシュアリティの研究を始める。動物性愛者(ズー)を対象にフィールドワークを行いながら、性と愛、そしてそれに絡む暴力について考え、経験していく。 「セクシュアリティは生得的である(べきだ)」という考え方を、セクシュアルマイノリティと呼ばれる人たちほど強く持っていることがあると感じる。「同性愛/ポリアモリーetcは病気だ、治療可能だ」と主張され辛い思いをしたからかもしれない。自分のセクシュアリティに葛藤し、"変えられない"と感じたことがあるからかもしれない。不変であるということが結婚制度に迎合するのに役立つかもしれない。「セクシュアリティはグラデーション。境目は無く、変化していくもの」という主張を、これまでは理解できていなかったんだとこの本を読んで気付いた。セクシュアリティとは生き方であり、思考であり、自分の好きなように選択することができる。だからこそ、他者を傷つけない選択を自分で選ぶことができるのだと思う。 (2020/8/6読了)

    0
    投稿日: 2020.08.06
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    これまで「セクシュアリティ」は、子どもを産む(=生殖)という側面ばかりから語られてきた。ゴールは子孫を残すことにあり、その目的を果たせない性交渉をするものは「アブノーマル」の烙印を押され、「ノーマル」とされる多数派の人々から切り離された。本書は、「アブノーマル」の烙印を押されている中でも少数派のズーフィリアと呼ばれる人々に目を向け、彼らの生き方、パートナーとの関わり、性への価値観を解き明かす。作者は、はじめこそ彼らを研究対象として関わっていたようだが、いつしか人として理解していくようになり、ついには心が通った。 作者は性暴力の被害者でもある。自責の念や無力感に苛まれ、孤独の中苦しんできた彼女と、背景は違えど、同様に苦悩を抱えてきたズーフィリアとの邂逅は、必然だったように思われる。彼らとの関わりを経て、作者はズーフィリアの視点から「セクシュアリティ」を捉えなおした。それは、性暴力の傷を癒すことはなかったかもしれない。しかし、「セクシュアリティ」という言葉が表す対象の広さを知ったことは、少なくとも作者の心に占める性暴力の傷の割合を減らすことに、一役買ったのではないかと思う。 セクシュアリティとは、性的愛着を感じる他者との関わり方である。 それが、本書を読み終えて私が感じたことだった。 誰をパートナーに選び、どのようにパートナーを感じ、知り、受容し、対話し、関係性を築いてゆくのか。 作者が関わったズーフィリアたちは、 多数派の人と異なる選択肢を選んだ 。しかし、目指すところは、多数派の人々と変わらないどころか、より崇高な愛の理念のもと、パートナーとの対等性の実現に尽力しているように見えた。 私を含む多数派のヘテロセクシュアルは、多数派であることを理由に、自身のセクシュアリティを「ノーマル」と信じて疑わない。それゆえか、パートナーとの対等性やセクシュアリティという言葉が表す広義的意味を考える機会が少ないように思える。短絡的に、セクシュアリティ=生殖行動と考えてしまう人が、どれだけ多いだろうか。 人によっては嫌悪感を催す描写も含まれているため、本書を読むことに抵抗を感じる方もいるだろう。 また、動物愛護という視点からズーフィリアを見たとき、パッシブ・パートの受容的立場を受け入れることはできても、アクティブ・パートの能動的立場の受け入れには慎重にならざる負えないなど、センシティブな問題が山積している。 しかし、作者は本書でズーフィリアへの理解や受容を求めているのではない。本書はあくまで、社会への問いかけである。対等な関係とは何か?意思疎通は言語のみによって行われるものか?動物と人を隔てるものとは? 正解のない問いかけが、本書にはたくさん散りばめられている。それを拾えるかどうかは、読者の感度にもよるかもしれない。 論文という形式では伝えられなかったであろう、生きている存在を、本書から感じることができた。 言語を超越したなにかが、この本にはある。言葉が取りこぼすものはあまりにも多いということを、本書が証明しているようだ。 話題性と好奇心から、本書を手に取ったが、自分が「セクシュアリティ」という言葉を狭義的にしか理解できていないことを思い知らされる良いきっかけとなった。

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    投稿日: 2020.08.04
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    犬や馬をパートナーとする動物性愛者(ズー)に迫ったノンフィクション、著者は京都大学大学院でセクシュアリティ研究に取り組む濱野ちひろさん。ドイツの動物性愛擁護団体「ゼータ」に所属するズーのメンバーの家に寝泊まりしたりしながらの取材ということで、かなり生々しい内容。ズーのメンバーは動物を愛しパートナーとして「人間」と同じように接しているということが文章の端々から伝わってくる。ダイバーシティやLGBTがメディアで取り上げられることも多い昨今、是非読んでもらいたい一冊。

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    投稿日: 2020.07.27
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    軽々しく口に出来ないセクシャリティの話の中に、聞いたことも無い「ズーフィリア(動物性愛者)」という人々がいるという事をこの本の存在で知りました。 いわゆる「獣姦」という言葉の持つ禍々しさと全く相容れない、動物の意思と幸せを価値観の最上位に置いた人々の姿が描かれています。 筆者の濱野さんは夫からの長年のDVにより、性的なもの、情愛に関するものに本能的に距離を置いています。「愛」「Love」という言葉で表される、拒否を表明しにくい強引さすら伴う人間の性の営みに疑問を抱き、そんな時にズーフィリア(以後ズーと表記)という存在を知り研究にのめりこんでいきます。 果たして動物が意思を表明出来るのか?多分に主観の入り込むテーマですが、このズーフィリアという存在を世の中が認めるか認めないかは、全てここに関わって来ます。 動物にも意思が有り、性欲が有り、それを満たしてあげることが動物にとって幸せな事。幸せの為に動物の性を満たしてあげる。動物が誘ってこない限りそういう関係にならない。 そういうズーの人々が沢山出てきます。 濱野さんはインタビューだけでなく、彼らと数日から数週間寝食を共にして理解を深めていき、次第にズーの人々がパートナーとなる動物や、それ以外の動物へ向ける気配りに溢れた優しい視線に癒されていきます。 ある意味彼女はDVで愛や性という部分に関しての視点が非常にシビアになっているはずです。にもかかわらず、ズーの人々と交流していく中で、動物とズーの関係性を幸せなパートナーシップであると認めるに至った事はとても大きい事だと思います。 興味本位で読まれる可能性の非常に高い本だし、僕も実際興味を惹かれて読んだことには間違いありません。 しかしこれは「情」「愛」「性」について考えるきっかけとなる本です。セクシャルマイノリティの生活を垣間見るだけの本ではありません。 言葉を話すことが出来ないパートナーとコンタクトを取る為、ズーの人々は常にパートナーの姿を追い、何を求めているのかイマジネーションを膨らませます。 人間同士である以上、言葉でのコミュニケーションが主になり、その裏側にある本当の感情は分からない可能性が有ります。いわゆる「嘘」がそこには含まれます。 犬と暮らした人は特に感じると思うのですが、なんでこんなに飼い主の事が好きなんだろうと不思議に感じます。無条件で好意を全開にしてくる彼らとの関係性はある意味完結しています。人間が意図的に関係性を絶つか、犬の命が果てるかしかありません。 「愛」と「性」は非常に密接な関係にありますが、「性」は欲求であり本来「愛」と便宜上定義する感情とは別の物です。相手の欲求を満たしてあげたいという事を純粋に遂行出来るのは、動物のように欲求をストレートに表せる相手にだけなのかもしれません。 ズーとは、相手との密接かつ嘘の介在しない関係の中で、対等にお互いへの「情」を与えあえる究極の共生関係ではないかという気がします。 実際に動物と性的な接触を行うという事が自分の中ではあり得ないですが、あの純粋に自分を見つめてくる瞳の中に、人間では得られない愛おしさと庇護欲を掻き立てられる事は体験しています。なので、動物が自分を求めた事に対して応じてあげたいと思う感情を不自然だとも思わない自分がいます。 社会的にタブーとされる部分と、真摯に向き合ったこの本の意義はとても大きいです。 センセーショナルな内容ではありますが、その中身は温かく光に満ち溢れています。

    13
    投稿日: 2020.07.10
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    動物性愛とは性的倒錯なのか、それとも性的マイノリティなのか。 この本を読んで読者が感じればいいと思う。 筆者がズーじゃないからこそ冷静に描けていて良かった。セクシュアリティについて真剣に取り組んでいるのがとてもよく伝わってきた。 誰かと意見交換したいな。

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    投稿日: 2020.06.22
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    このレビューはネタバレを含みます。

    生物としての動物に対する程、ペットに興味も関心もないワタシ。ろくに実際の動物と触れ合った経験もないくせに、こういうもの読むのもどうかと思ったが、全く新しい世界、刺激的な経験だった。 ちょっと性愛に焦点を当て過ぎな気がするが、長年にわたるDV被害者としての経験からの立直り、というアプローチが始まりだからかな。

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    投稿日: 2020.06.09
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    目からウロコというか 非常に考えさせられた。 先入観が崩れ去った。 全く自らの想像や価値観を超える考察であった。 答えはもちろんないが一見普遍的でない内容と思いきや非常に普遍的なテーマをはらんでいる。 また、読み返したいし、著者の今後の作品にも注目していきたい。 以下、印象深かった一節をメモ。 ・彼らが(ズーたちが)示しているのは、ズーというものが動物への新しい接し方や、新しい生き方のひとつとなり得て、それを人は選び取ることも可能なのだということだ。 ・ズーたちの動物観… 『人間と対等で、人間と同じようにパーソナリティを持ち、セックスの欲望を持ついきもの』 それがズーたちの考え方だ。

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    投稿日: 2020.06.07
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    性と愛を考える為にズーを掘り下げるという新しいテーゼへの挑戦であると共に、著者自身の苦しい性暴力経験に対するアンチテーゼへの自己の追求。 登場人物には全く入り込めないが、自分の事を考えざるを得ない。答えは出ないが。

    0
    投稿日: 2020.05.24
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    たしか産経新聞の書評で興味を持って、amazonで購入したのだったと思う。 動物とセックスするってどういう人?と単なる好奇心で読み始めたけど、読み進めるうちに、単なる好奇心ではなく、著者やこの本に出てくるズーたちの、愛についての価値観にとても興味をひかれた。 著者は、過去にパートナーから暴力を受けた経験と向き合うために、極限的な事例「ズー」を通して、愛とは何か、セックスとは何かという、より大きな問題を、捉え直すことができるのではないかと考えた。 ズーたちにとってセックスは、それ自体が目的ではなく、パートナーとの関係のなかで、対等性を叶えるための方法だった。 ズーたちにとって動物は「人間と対等で、人間と同じようにパーソナリティを持ち、セックスの欲望を持つ生きもの」であり、「保護すべき対象、力なく自立できないもの、子どものような存在」というような、多くの人が受け入れやすい言説とは大きく異なる動物観だった。 著者はこのようなズーたちの動物観に触れ大きな影響を受け、『あらかじめ性を持たない「子ども」としてただかわいがるだけの接し方の方がよほど楽だと、正直に言えば思っている。だが、もはや、私はそのような飼い主になろうとは思わない』と言っている。 僕は動物を飼うということに抵抗がある。この本を読みながらその理由を考えていた。それってこういうことなのかもしれないと思った。 たぶん僕は、ヒトとも動物とも対等な関係でありたいのだと思う。飼うということをしてしまうと、対等でいられなくなってしまう感じがするのだと思う。 この本の中に、パーソナリティという言葉が出てくる。パーソナリティとは、自分と相手の関係性の中から生じたり、発見されたりするもの。じっくり時間をともに過ごすうちに、相互に働きかけ合ってら反応が引き出され合う。そこに見出されるやりとりの特別さを、ズーは特定の動物が備えるパーソナリティと表現している。 一方、キャラクターは誰から見てもある程度は変わらない、それぞれの動物に固有の特徴。 誰かとの関係性を築くときに、このパーソナリティを意識して、付き合えるといいなと思った。

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    投稿日: 2020.05.07
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    このレビューはネタバレを含みます。

    本を開く前と後で、こんなにも気持ちが変わるなんて。 単純な好奇心だけだった頭の中が徐々に変化して、目に見えるもの全てを、形の無い感情の全てを、読む前とは違うところに連れて行く。最初から最後まで、ものすごくよく出来た構成だと思う。 「動物性愛」を選んだ人々(ズーフィリアが動物性愛、それを選んだ人々をズーと呼ぶ)の話を軸に、セクシュアリティ、パーソナリティ、愛、暴力、言葉について深く深く入り込んでいく。 特に、第一章「人間と動物のアンモラル」での、放埒な性の現場の描写を踏まえた上での、第六章「ロマンティックなズーたち」への流れ! プロローグの著者本人の凄まじい体験がベースとなり、まるで自分まで、セクシュアリティや愛の見方をやり直している気持ちになる。 相手がもの言わぬ動物、特に犬(ズーのパートナーは犬がほとんどらしい)だからこその、「聖なる」ではないかという著書の視点にはわたしも同意。 全身全霊で相手を理解しようとする、対等であろうとする術としての、犬とのセックス。 「パーソナリティを発見する実践は、かたちあるひとつの愛なのではないかと、私はいま、期待してもいる。」 自分の被性暴力体験から、自分のために愛と性を考えたいと始めた研究で、著者はズー達と生活を共にし、徐々に心を開いていくズー達から話を引き出していく。その過程で、客観的視点を保とうとしながら、自分のほうがその考えの不遜さに泣き、逡巡しながら見出していった気づき、その過程に私もまた泣いてしまった。 人はみんな違うということを、これでもかと見せてくれる本。素晴らしかった。 町中で犬を見る目も変わりました。

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    投稿日: 2020.05.05
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    インパクトとして最近では随一。 折に触れて読み返す本の一つに梨木香歩さんのエッセイ「春になったら苺を摘みに」がある。そこに出てくる言葉で、重要なテーマとなっているのが「(自分とは異質なものを)理解はできないけれど受け入れる」ということ。これは本当に難しいことだけど、できるだけそうありたい、少なくともそこを目指したいとずっと思ってきた。 本書で取り上げられている「動物との性愛」について、共感したり理解するのはひどく難しい。「受け入れる」ことはできるだろうか。うーん…。 センセーショナルになりがちな内容を、冷静に深く掘り下げた著者の力に感嘆した。

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    投稿日: 2020.05.02
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    私たちは、何をもって相手が合意していると判断するのだろうか。 言葉?態度?表情?そのどれも、嘘をつくことが可能だ。そしてそれを本当の意味で見抜くことが出来る人はどれくらいいるのだろう。 それが対人であれば確かに確かめようはあるかもしれない。では、動物は? 今あなたの隣にいる、猫や犬や馬があなたを信頼し、愛していると何で判断するのだろう。 私はこの本を読んで、「合意」とはなんなのだろうかとぐるぐると頭の中を駆け巡った。相手が笑顔だったから、嫌だと言わなかったから、なんだかんだ受け入れたから、いいよと言ったから。その言葉にどれほどの本心があるのだろう。 人は言葉をしゃべる、同じ生き物だから態度の意味もわかる。でも、それが真意かどうかまではわからない。この本を読むと、私は今までどれくらい相手のこと考えられていたのだろうかと振り返ってしまう。

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    投稿日: 2020.04.19
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    動物性愛というテーマがテーマなだけに、受け取り方に個人差が出そうなのでおすすめしにくいけれど、根源的な価値観が揺らぐセンセーショナルな読書体験でした。性暴力の被害者である筆者が、セクシュアリティを研究する中で自分の過去と向き合おうとする姿、彼女の脆さや強さを目の当たりにしながら共に少しずつ歩を進めていく感覚で苦しくもあったルポタージュ。読み終わって3週間、ようやく振り返れた。  2019年開高健ノンフィクション賞受賞作品。

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    投稿日: 2020.04.10
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    2019年開高健ノンフィクション賞受賞、図書館で借りて読了。 「ズー」とはドイツにおける動物性愛者のことである。長年DVを受けていた著者が、取材を重ね、人間にとって愛とは何か、暴力とは何かを考察している。 P268より「動物は嘘をつかない。だから、僕は人間よりも動物との方がコミュニケーションを取れる」 「動物は裏切らない。人間との関係には終わりが来るけど、動物との関係は最後まで続く」 「犬はありのままの私を受け入れてくれる。障害の説明をすることさえ、必要がない」  彼らの言葉に考えさせられる。

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    投稿日: 2020.03.31
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    動物をペットとしてではなく、パートナーとして対応するドイツのズーというグループを取材。本人のバックグラウンドを交えつつ、パートナーと対等にあるためにはどうすればいいか真剣に向き合う際動物であっても人間であっても同じ対応をするグループ。

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    投稿日: 2020.03.20
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    面白かったといえば面白かったのですが、筆者の体験からして精神を削られるような内容でした。しかし、ドイツではすごいイベントやってるんですね…

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    投稿日: 2020.03.18
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    ズーの人たちが理知的で真面目な方々であるのは本書を読めば分かるが、両者の合意というのが現代の恋愛において最優先事項である以上、彼らにオフィシャルなお墨付きを与えるのは難しいのかと思う。

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    投稿日: 2020.03.13
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    動物との性的な関係をもつ人々へのインタヴューを軸に、セックスについて正面から超ラディカルに考えていくノンフィクション。文体はまさしく手慣れた「ライター」のそれであるが、もとが論文執筆のための調査であるので、学術的な目配りや抑制はきちんと効いている印象。そして何よりも、観察者である著者自身が、なぜこのテーマに取り組む、その過程で自身がどうなっていったのかを自覚して、それをも読者に真摯に提示しているところが素晴らしいと思う。242頁の「「セックスは本能的で自分ではどうにもできないもの」ではない。セックスの本能が先にあってセクシュアリティが発生するとは限らない。セクシュアリティを考えるとき、セックスとセクシュアリティの位置を逆転させることもかにうだ。」という、一見常識外れの見解も、そこまで本書を読んでくれば、「そうかもしれない」と受け止めることができる。

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    投稿日: 2020.03.09
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    最初にこの本を開いて一気に半分、読み進め…そこからフリーズ、なんか読めなくなってしまい、別の本を何冊か読み終えて、気合入れて再開してまた一気ということで読み終わりました。フリーズしたのは、書かれているモチーフに衝撃を受け、そしてページから動物の臭いが漂ってくるような気になり、なんで、自分はこの本読んでんだっけ?と思ってしまったからです。なんかソファーの上でもベットの上でも読みたくない気分になり、でもほとんど電車の中で読んだのですが、とにかく凄い本でした。途中で放棄しなくてよかったです。この本を読んでの変化。LGBTとか、ダイバシティとか時代のキーワード軽々しく口に出来なくなったこと。自分の中にある排他性を感じてしまったこと。その排他性を時代はどんどん煽ってくること。そして、小説でも論文でもなくノンフィクションじゃなきゃ書けないことがあるってこと。作者、濱野ちひろから目を離せなくなったこと。動物性愛者に対するコミュニケーションを自分のトラウマから構築し、セックスの問題を超えて人間のコミュニケーションの問題まで考察する一歩一歩の積み重ねに、結果ズッポリ巻き込まれてしまいました。

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    投稿日: 2020.03.01
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    このレビューはネタバレを含みます。

    中瀬親方の推薦だったよう。良い一冊だった。 まず予想していなかったことに、著者が性暴力のサバイバーであると明かすことから話が始まる。結婚前から続き、離婚するまでの10年間という長い間。さらっと出てくる話のように語られる、壮絶な経験。 この人は文章がとてもうまくて読みやすい。 ドイツに渡ってさまざまな動物性愛者と話し、ホームステイしたりして観察をしてくるという並外れたコミュニケーション能力と勇気をもつ、日本人女子として誇るべきかわいこちゃん(裏表紙ウラの著者紹介の写真の笑顔。私よりすこしお姉さんのようだが)。 ただの、動物と性行為をするびっくり変わった人たちの話にあらず! セックスは、愛は、相手を&自分を理解するとは…と果てしなくテーマが広がる、壮大な話なのだ。 メモりたくて附箋がバサバサした。 附箋メモ⬇ p74 ザシャが部屋の奥にあるソファベッドに腰掛けると、その空間は一気に完成度が増し、ひとつの小宇宙としてまとまりが出る。 →この表現! 見てみたくなる感じ。 p80 ズーの話はセックスの話だと、みんな考える。けれども、本当はそうじゃない。動物や世界との関係性の話なんだ p96 犬の去勢をして人間の都合で性をコントロールするという話。犬のマスターベーションをサポートするズーがいる。 →確かに…。去勢は動物の権利を侵害しているともとれる。この本を読むまではなかなか行きつかない考えだった。私も実家で昔飼っていた犬のチンを見て、「こいつは一生セックスを知ることはないのだな」と思ってふとかわいそうだったことを思い出す。野良猫なんかも。私は人間だけど、子どもを産んで育てる権利があって楽しんだこともいろいろある。命が一回きりであるとして、産みたいなら産んで、好きに生きる権利ってあるはず。たまたま人間のそばに生きていたからって勝手に奪われて気の毒だな。 p117 クヌーデル 笑。どこのドイツ家庭でも必ず振る舞いには出されて、どれもが驚異的に同じ味のもの。芋団子料理。この本には、忘れたころにこれが出てきて、おもしろい。 p124 オスでもメスでも、なぜか犬は人間の精液の匂いが好きで舐めにくるらしい。→すごいな。 p172 性暴力の経験ののち、「なぜ逃げられなかったのか」と自分を責め、自分への怒りに苦しみ続けた。 →この本の前にたまたま読んだ性暴力被害の本にも、同じことが書いてあった。逃げられないし、自分が悪かったのかと責める。でもそんなことないのだ。 この人の受けていた性暴力は、本当に壮絶なのだ。殴られる恐怖から逃れるための取引。身体を差し出して、精神を守るため。精神も守られないのに、逃げられなくて、本当に辛い。許せない。 言葉よりも前に、どうにもならない身体がある。 →力では女は男に勝てない。それに暴力の力も加わり、もう抵抗できないのだ。この人がいまだ傷を抱えながらも、強く賢く生き抜いていることが本当に良かったと思う。こんないい本を出して、ズーと話をする中で深くテーマに触れて行ったと思う。一生かかるようなテーマだけど、多くの世界中の人類に関わるものだし、人生に色を与えるものだと私は思うから。死なないでいてくれてよかったと、思う。 p174 言葉での合意さえあれば性暴力ではないと、いったいなぜ言えるだろうか。それは便利な道具だが、私たちすべての瞬間を表現しきれない。言葉が織りなす洗い網目から抜け落ちるものは、あまりに多い。言葉に慣れ切った私は、言葉を封じるワークショップで、自分自身がひどく鈍く、表現力に欠ける人間であるように思った。 p225 「いい関係においては、愛とセックスは一致するんだと思う」「身体のオーガズムと、頭のオーガズムがあると思う。セックスが前者で、愛が後者じゃないかな。」 →愛し合うズーのカップル(犬もその関係の中に入る)がそれぞれ言ったこと。一致している。 p253 「動物が僕に教えてくれたことはいろいろあるけど、もっとも大切なことは、その瞬間に集中すること。その時、役割を演じるのではなく、ありのままの自分でいること。嘘をつかないこと。」 →人生は連続する刹那だもんなぁ。その瞬間瞬間が大事だよなぁ。 p255 ズーたちのセックスは、それ自体が目的ではなく、パートナーとの関係の中で対等性をかなえるための方法にもなっている。 性暴力もまた、実はセックスを目的とはしていない。もちろん、一方的な射精欲の発露があって、その先にセックスがあるのだが、その欲望の根底にあるのは「相手を支配したい」という願望だ。暴力のなかのセックスは、目的ではなく、支配するための方法になる。そして、支配こそが、性暴力の本質だ p256 人間と動物が対等な関係を築くなんて、そもそもありえないと考える人はおおいかもしれない。だがズーたちを知って、少なくとも私の意見は逆転した。人間と人間が台頭であるほうが、よほど難しいと。 p257 ミヒャエルが言う「フィルター」を、その人を支えている考え方や物の見方だとしよう。暴力をふるう人は、真っ先にそれをずたずたに切り裂いていく。そうやって誰かの自尊心を打ち砕き、自立心を奪う。 その行為は、まず言葉で行われる。語り口ははじめ、柔らかいものでさえあるかもしれない。だが、言葉は次第に相手に傷を残すためのロジックを持ち始める。 「おまえは生きる価値のない、くだらない人間だ」という、いまなら笑い飛ばせる罵詈雑言を、私は暴力を受けていた当時、完全に受け入れてしまっていた。私のフィルターはぼろぼろになり、もう、人の言葉を濾過する役割を果たさなかった。暴力を完成させる最後の杭を打つために、男は私をレイプする。レイプは、私の身体を私から奪う役割を果たす。 p262 離婚したころ、お母さんはこのことは誰にも言うなと言ったそう。被害者の親は往々にしてそうらしい。被害者の身を案じるあまりだろうけど、味方して、戦ってほしいものだと思うけどなぁ…。その事実は変わらないんだし、隠しても言いたくなる時があるように思う。 伝えた相手も、場合によってひどいことを言うもんだな。それによってさらに傷つくなんて、許せない話。 暴力を受けてから二十数年がたち、いま、こうして経験をつづることができたのは、ズーたちから勇気をもらえたからだ。「普通」ではない経験からくる、居心地の悪さ。それを打ち破ろうとするときには、私もズーもまったく同じ立場にいる。彼らのセックスと私のセックスは、この部分で重なりあう。 怒りや悲しみから目を逸らすことはもうない。私はいま、性暴力の経験者として「カミングアウト」をしている。それは自分の過去を受け止め、現在から未来へと繋ぐ作業だ。傷は傷としてそこにあることで、他者を理解するための鍵となることもあるのだから。そしてそれが、ミヒャエルの言う「強さ」でもあるのかもしれない。 p265 「断言するけれど、それはごく一部の、変なドイツだ」 →エクスプロア・ベルリンに行く著者にむかってズーが。「変なドイツ」って言い方がおもしろくて。ドイツにはいきたくなったなぁ。いつかきっと行こう。 p272 「本物の友情の美点のひとつは、理解することと、理解されること」 →ズーの「友人」がくれたキーホルダーに書いてあった。 p273 ひとつだけはっきりいえるのは、私とズーたちひとりひとりとの間に、それぞれのパーソナリティーが出現していたということだ。私は、その事実をとても大切に思っている。私の目の前には、特別な人間たちがいた。そして、パーソナリティーを発見する実践は,かたちあるひとつの「愛」なのではないかと、私は、今、期待してもいる。 →感動する。期待したい。著者がズーから向けられたひとつの愛を、私も周りの人たちもみんな実践できたらいい。

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    投稿日: 2020.02.29
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    動物性愛者ズーの話。いわゆる獣姦の話ではない。とても興味深いテーマではあったが、自分には理解できない世界ではある。 

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    投稿日: 2020.02.16
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    多くの人は、人間にとっての性行為の対象は同じ人間である、ということを信じ込んでいる。男性&女性、男性&男性、女性&女性、男性&ケモナー(これは違う)・・・と、パターンはあれど、全て同じ人間が対象となる。 本書は「動物との性行為を選ぶ人々、ズー」を対象として、我々が盲目的に信じ込んでいるテーゼに揺さぶりをかける。なぜ彼らは動物を選ぶのか、どのような性行為が実際には行われるのか、それは動物虐待ではないのか、という様々な疑問を、数年に渡るズーとの生活を元にまとめられている。 彼らの性行為に共通するのは、動物にも性欲がある、という我々が”直視したくない事実”を受け入れている点である(そのため、性行為は直接的なものだけに留まらず、間接的に動物の性欲を処理する、というケースも含まれる)。自身が自明と信じ込んでいることが実は全く違うのだということをここまであからさまに示してくれる読書体験はそうそうない。

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    投稿日: 2020.02.16
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    これはすごい本だ.著者の赤裸々な体験から始まり,大学院での研究テーマから発展して,単に動物とのセックスのあり方への考察ではなく,セックスの捉え方に始まり人間同士の関係性,社会の中で愛の名の下に覆われていることの警告など様々な問題定義がなされていて,読みながら答えの出ないもどかしさとともにとても考えさせられた.また,インタビューしていく中でズーの人達との交流がとても暖かく,人間同士の距離間,友情といったことも考えさせられた.

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    投稿日: 2020.02.15
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    自分と違うとかアブノーマル(異常なものに対する生理的忌避感)を理由に、知ることを放棄・反対する危険性を思い知る。動物とのSEXは動物性愛とイコールではない。ましてや獣姦と動物性愛は全く別物。紹介されるズー(動物性愛者)達は動物含め誰も傷付けていない。ただ心からパートナーを愛している。そんな彼らを攻撃・否定する権利が一体誰にあるだろうか。誰も傷付けない限り、セクシュアリティは自由であるべきだと感じた。 性は操縦できぬ本能と思っていたが自らズーになることを選ぶ人がいること、ほか、ズーにはパートナーの誘いが空腹と同じで自然とわかることには驚いた。

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    投稿日: 2020.02.12
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    このレビューはネタバレを含みます。

    LGBTに「PZN」を加えることがあるということを読後に知った。Pはペドフィリア(小児性愛)、Zは本書のテーマであるズーフィリア(動物性愛)、Nはネクロフィリア(死体性愛)。 ズーたちのインタビューの中で度々出てくる「相手のパーソナリティを理解して」「まるごと受け入れる」という言葉が印象的だった。 動物に「誘われた」と感じて行為、そして特別な関係が始まることが多いそう。人間が動物に対して「自分に特別な感情を寄せている」と信じられるかどうかという点では、宗教も同じなのではないかと思ってしまう。信じる人にしか分からない世界というものがあって、それが正しいか間違っているかなんていうことは、信じることのできない人にはジャッジすることすらできない。 18〜19世紀ヨーロッパでは、少年のマスターベーションが害悪とされており、勃起するとペニスにトゲがささる器具などが開発された。純粋な存在であるはずの子どもの性の目覚めが、大人から見るとおぞましいものだった。 「動物性愛」と聞いて嫌悪感を抱く背景には、もの言わぬ純粋な子ども的存在として動物を見ていることがあるのかもしれない。 「自分は人間だから人間を好きになる」というのは、もしかした、「自分は女だから男の人が好き」というのと同様に、思い込みに過ぎない可能性もあるのかも?

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    投稿日: 2020.02.10
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    動物、主に犬ときに馬、を自身の性愛のパートナーに選んだ人々。あくまで対等なパートナーであり、非言語的ではあれ、コミュニケーションによって合意をもった関係である。 ありがちな、動物を下等なものとみなし、その落差を前提とした支配や嗜虐の関係を、彼らは徹底的に排そうとする。それゆえ、表面的な異様さとは逆説的に、彼らの性への態度はきわめて高い倫理性を帯びる。だから「聖なるズー」なのだ。 うなぎのエピソードが忘れがたい。 うなぎと聞いて、一瞬驚きつつ、一緒に泳ぐとか、ありうるかも、と想像してみるズー。このとき、セクシャリティの可能性は確かに広がる。 冒頭に描かれた苛烈なDVに長く苦しめられてきた筆者の救済の物語でもある。 人に勧めるのは躊躇する題材だが、信用できる人にはぜひ勧めたい。

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    投稿日: 2020.02.08
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    動物性愛を初めて知る 今の認識はこう 動物性愛はレズやゲイと同じくセクシュアリティのひとつ 自分には理解できなくてもひとつの尊重すべきセクシュアリティ レイプと合意の線引きは難しいかもしれない でも間違いなく合意によるセックスがあるようだ ズーフィリアの紹介にとどまらす セックスとは何かみたいなことまで考えさせる 自分の価値観が崩れ落ちる まさにノンフィクション すごい

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    投稿日: 2020.02.06
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    これはすごい!一見禁忌と思える関係性を持つ人々への取材を通じて見えてきたのは、セクシュアリティの本質。読み出すことを躊躇する題材だが、読めば新しい世界の形を知れるノンフィクションの醍醐味あふれた快作!

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    投稿日: 2020.01.31
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    いろいろあっていい。 などという簡単な言葉では表せない。 とても考えさせられる。 素晴らしい本だと思う。

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    投稿日: 2020.01.30