
疵 花形敬とその時代 本田靖春全作品集
本田靖春/講談社
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総合評価
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濃厚な昭和の残り香を味わいつつ戦後を考える
「敗戦を終戦などと馬鹿を謂い」とは内田百閒の至言だが、敗戦後より終戦後という表現が馴染んでしまったので、ここでも終戦後と呼ぶとして、終戦後の闇市がバラック建てのマーケットに移り、もはや戦後ではないと言われるまでの復興に至った時代背景を舞台に、花形敬を中心とするアウトロー達の群像劇を見るが如き作品である。 敗戦とは単に戦争に負けるということだけでは勿論なく、その結果として伝統的な価値観、文化や技能の伝承、市井の暮らしぶりや、親から子へ受け継がれてきた生活習慣その他諸々を一挙に喪失することになる、その事を思い出すために、再確認するために花形らの足跡を辿るのは実に有効だと思われる。本書の意義は、花形の人物評価を云々するのではなく、その点に求めたい。 きっと、押井守の『立喰師列伝』を愛読する奇特な人なら、本書を気に入る筈である。何故なら、「あの決定的な敗戦により・・・」を頻出させる押井の問題意識と本書のそれは一致しているうえ、語り口まで似ているからである。 余談だが、高倉健の『唐獅子牡丹』も同じ時代であるものの、根差す精神は伝統的任侠道であり、花形らとは一線を画す、お互いに似て非なる存在であろう。 戦後、我が亡父は糊口を凌ぐため道玄坂で金物屋を営んだそうだ。その隣では元教員が食用にならない米で煎餅をつくり菓子屋を開いており、高等教育を受けた少数ということでお互い商店街組合の役員をしていたという。その菓子店は現在、有名企業となっているが亡父は一介のサラリーマンで終わった。本書で本田は自身と花形を比較し、彼我を隔てた差はほとんど何もなかったと言っているが、あの時代とはそういう人生が行き交う時空間であったのだろう。
0投稿日: 2016.08.07
