
総合評価
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powered by ブクログ表面的に読み流した。 深く理論をとらえ、考えるところまでいたらない。その知識がないし、気力がないから。 しかし、ところどころ関心をとらえ面白いと思えるところがある。 自明性の亀裂。 情報があふれる現代。 自明なことが増えていくように見えながら、かえってその自明性が崩壊していくような、そんな感じがした
0投稿日: 2014.05.29要・現象学の予備情報
発達心理学の知見として、子どもは生まれて間もなくから母親との関係を中心にして、間主観性(自分以外に意志を持った人間が居る)を自明の事として受け入れるとか。 ただ、「意識」が成長して観念的思弁を身につけるにつれ、いつか「なぜ(この思弁する意識の)私は、(今ここに肉化された)私なのか」という疑念を抱く時が来る。「なぜ私は今ココの私であって、他の誰かでないのか。別の時代の別の世界の誰かでもないのか」。 多くの人間は自明性に満ちた日常の圧力に流されてそれを忘れたまま過ごす事になるが、そこに躓いたままになってしまう人がいる。それも結構な割合で。 自分自身の自明性が壊れると、その補完処理を試みる果てに他者の自明性も壊れていく。こんな意識を持った自分だけが特別(自分が人であると同時に神である、自分だけが空っぽである等)という独我論に踏み込んだりもする。 著者はそこに現象学の知見を生かせると捉えている。具体的にはエポケー(自明の事を思考の上で括弧に入れ、例えば目の前の花瓶の存在を触覚だけで捉え直すような思考実験)を逃れられず強いられている状態という考え方になるだろうか。 かなり噛み砕いた説明が本書では行われているが、やはりフッサール現象学について何らか(現代思想の入門書等でも構わないが)の予備情報を頭に入れた状態で読み進めないと、なかなか歯ごたえのある内容になっているのでないかと。 個人的には忘れかけていたフッサールを再学習しつつ、マッハやシュレーディンガーといった古今東西の興味深い「症例」に接する事ができたので、楽しめたと思う。
2投稿日: 2013.10.09
powered by ブクログなぜ私は私であって他の何ものかではないのか、という自我体験。世界にいるのは自分だけであって他はすべてからっぽであるという独我論的体験。これを発達性エポケーと見立てて、現象学的超越論を参照し、読み解いてみると、あるのは間主観的な自明性のそびえる世界で、時間を異にする私としてしか他者を理解できないという現象学的反抗だった。 というのは腑に落ちた話しで、問題の整理にずいぶん助かることでもあるけれど、改めてこう提示されるとちょっと怖いものでもある。 そして、さらにもっと怖いのは、これからはいよいよ独我論者たちの時代かも、という結句である。
1投稿日: 2013.05.23
