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オスマン帝国全史 「崇高なる国家」の物語 1299-1922
オスマン帝国全史 「崇高なる国家」の物語 1299-1922
宮下遼/講談社
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総合評価

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  • メフメト二世は「ブリタニア列王史」を読んでいたのかな

    帯に「他民族・多宗教の大帝国はいかに栄え、そして滅びたか」というそのものズバリな関心事が書かれている一冊。分からないことは分からない、この内容は推測、などと明記され断言しない誠実な書きぶりに好感を持ちました。建国期の「戦国時代」は相当複雑でしたが、大きな流れが掴みやすくて面白かったです。かつて帝国であった地域(試し読み範囲の地図参照)が、現在なお紛争に見舞われている意味を考えたい。

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    投稿日: 2025.11.17
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    ・13c前半にルーム・セルジューク朝は最盛期を迎えるも、フレグとの戦いに敗北し、モンゴル帝国に服属するようになり、アナトリアでは諸侯が割拠。 ・14c半ば以降、オスマン帝国のバルカン半島の組織的な征服が開始。 ・15世紀後半にアドリア海まで到達。 ・1514年、チャルディラーンの戦いでセリム1世がサファヴィー朝を下し、タブリーズを無血開城。 ・次いで1517年にはマムルーク朝を滅ぼし、セリムはメッカとメディナの「両聖堂に仕える者」となる。 ・1529年、第一次ウィーン包囲。 ・イスラム教徒海賊の跋扈に対し、1538年に海の十字軍が結成されるもプレヴェザの海戦で撃破。 ・1624年、バグダードがサファヴィー朝の手に落ちる。このとき、サファヴィー朝はアッバース1世の時代で最盛期。 ・1638年、ムラト4世がバグダートを奪回。 ・1683年、第二次ウィーン包囲で大敗。1699年のカルロヴィッツ条約でハンガリー・トランシルバニアの大半をオーストリアに割譲。 ・1722年、ナーディル・シャーがサファヴィー朝を滅ぼす。 ・1768年の第一次露土戦争でオスマン軍の衰勢が露呈。 ・1798年、イギリスとインドの連絡を絶つ目的でナポレオンがエジプトに上陸。 ・1805年、エジプト総督ムハンマド・アリーのもとで実質的にエジプトが独立。ムハンマド・アリー朝エジプト。 ・1821年~ギリシア独立戦争。1830年のロンドン条約でギリシアの独立を認める。 ・1839年~アブデュルメジト1世のもとでギュルハネ勅令が発布され、タンジマートが始まる。多様な臣民・地域に対する柔軟な制度運用から、均質性・平等性の担保された制度運用へ。 ・1853年のクリミア戦争ではイギリス・フランスがロシアを破るも、改革勅令で帝国内のイスラーム教徒と非イスラーム教徒の完全な平等が課される。

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    投稿日: 2025.08.24
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    600年に及ぶオスマン帝国の誕生から滅法まで。 現在の中東情勢やヨーロッパとの関わりなど。 イスラム教徒を優位としながらも、イスラム教やキリスト教、ユダヤ教など、様々な宗教を包括してきた強権国家 兄弟であっても、帝国を維持するために殺し合うと言った非道な一面や、どんなに高位な立場でも、失政したら処刑されるという側面は、今の中東諸国にも通じるものがある。 栄枯盛衰。ヨーロッパ諸国を圧倒した中世の様な時代から、ヨーロッパの列強諸国に蹂躙され、滅亡に向かうことまで考えると、切ないものを感じます。

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    投稿日: 2025.06.18
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    多民族・他宗教が混在する国の統治の難しさ オスマン語の成り立ちと、トルコ国での位置付け 王国における軍隊の扱いの難しさ 現在の中東、東欧の紛争、課題の根の一部が理解できた気がする。知ることができてよかった。

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    投稿日: 2025.05.17
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    「オスマン帝国全史」に関するブリーフィング文書の主要なポイントを以下に箇条書きで要約します。 1. オスマン帝国の起源と初期の発展: トルコ人のイスラーム世界への進出: アッバース朝時代、中央アジア出身のトルコ人が奴隷騎兵としてイスラーム世界に入り、次第に軍事指導者として台頭。故地でイスラームに改宗したトルコ人集団も加わり、勢力を拡大しました。 セルジューク朝とルーム・セルジューク朝: 最も有力だったセルジューク族は11世紀に西アジアに大帝国を築きました。その分枝であるルーム・セルジューク朝(1077-1308)は、クルチ・アルスラーン1世のもとアナトリア(ルーム)に進出。十字軍と対峙しつつ、牧畜に適した内陸のコンヤに首都を移し、地域大国としての地位を確立しました。 オスマン家の勃興: ルーム・セルジューク朝解体後のアナトリアでは、多くのトルコ系侯国が乱立。オスマン家もその一つでしたが、建国年(1299年/1302年)が明確でないのは、初期のオスマン集団が辺境の多様な出自を持つ「戦士団の寄り合い所帯」であり、整然とした国家としての宣言を行う段階ではなかったためとされています。 2. 征服の時代と帝国の拡大 (15世紀-16世紀): バルカンへの進出とハンガリーの抵抗: オスマン帝国はバルカン半島へ勢力を広げましたが、フニャディ・ヤーノシュらを擁するハンガリー王国の抵抗に遭いました。ムラト2世によるベオグラード包囲は成功しませんでした。 メフメト2世とコンスタンティノープル征服 (1453年): 皇帝メフメト2世は、東ローマ帝国の首都コンスタンティノープルを征服。運用困難な巨大攻城砲を用い、「前代未聞の大重量の砲弾」で難攻不落の城壁を破壊。征服は、ハンガリーの王位争いや東方諸国の内紛など「国際情勢はオスマン朝に有利であった」状況下で達成されました。正教会の総本山アヤソフィアはモスクに転用され、オスマン帝国は名実ともに世界帝国へと飛躍しました。 大征服時代の文化発展: コンスタンティノープル征服を含む約50年間は、「東西の文化を貪欲に受容する文化的発展期」であり、特にメフメト2世は「『西向き』の姿勢」で西方文化の導入に積極的でした。 セリム1世による東方・南方への拡大: 東方のサファヴィー朝、南方のマムルーク朝(エジプト)と対決。チャルディラーンの戦い(1514年)でサファヴィー朝に勝利しましたが、これは長期にわたる戦争の始まりに過ぎませんでした。マムルーク朝を滅亡させ(1517年)、シリア・エジプトを併合。これにより聖都メッカ・メディナを版図に加え、「イスラーム世界の盟主としての地位を確立」しました。カイロでアッバース朝カリフの末裔を保護し、権威をさらに高めました。 スレイマン1世(大帝/立法者)の最盛期: 彼の治世(1520-1566)はオスマン帝国の絶頂期とされます。ベオグラード征服、モハーチの戦い(1526年)でのハンガリー王国撃破、ロードス島征服による東地中海の制圧など、領土を拡大。バルバロス・ハイレッディン提督の登用など海軍力も強化されました。帝国の行政トップである大宰相は「すべてについて絶対の代理者」として強大な権力を持ちました。 3. 帝国の統治構造と社会: デヴシルメ制とイェニチェリ: 帝国の軍事・行政を支えるため、バルカン半島などのキリスト教徒コミュニティから「数年ごとに」「思春期の男子を集める」デヴシルメ制(少年徴用)を実施。徴用された少年はイスラームに改宗させられ、訓練を受けてスルタン直属の常備歩兵軍団イェニチェリなどに配属されました。イェニチェリはその多様な出自が図版などにも描かれています。 ミッレト制: 多様な民族・宗教集団を内包するため、各宗教共同体(ミッレト)に一定の自治権を認める統治システムを採用。特にギリシア正教徒の中には特権を与えられ、ファナリオティス家のように帝国の高官となる者も現れました。 アルメニア人の経済活動: 主に「両替商、つまりは金貸し業」で経済力をつけ、徴税請負制度が導入されると、徴税請負権を得ようとする有力者の保証人を務めることでさらに影響力を増しました。 ワクフ(寄進財): モスク、マドラサ(学院)、病院、救貧施設などの建設・運営を支えるため、個人が不動産などを寄進するワクフ制度が社会で重要な役割を果たしました。「女性や非イスラーム教徒によっても盛んに行われた」点が特徴です。 財政構造: 大きく分けて、国防費や官僚・軍人の俸給を賄う「国庫」、スルタンや宮廷の生活費を賄う「宮殿の賄い」、スルタン個人の収入となる「私財財産」の三つの系統がありました。 オスマン語の確立と官僚制の発展: スレイマン1世の治世末期からオスマン語(トルコ語にアラビア語・ペルシア語彙が多く取り入れられたもの)が洗練され、「帝国の公用語として揺るぎない地位を確立」。ジェラールザーデ・ムスタファ(大尚書)のような文人官僚がその発展に貢献し、書記局が拡大、帝国の運営における官僚の役割が増大しました。 4. 帝国の変容と危機 (17世紀以降): 兄弟殺しの慣習廃止と継承法の変化: 長年、王位継承時の内紛を防ぐ目的で行われてきた兄弟殺しの慣習が、アハメト1世(1603年即位)の代に破られ、以降は「オスマン家の男系男子のうち最年長者が継ぐ」という年長者相続制が定着しました。これにより、皇子たちは地方総督として統治経験を積む機会を失いました。 ハーレムと宦官の政治的影響力増大: 皇位継承権を持つ可能性のある皇子たちが宮廷内のハーレムに集住するようになると、ハーレム組織が拡大。スルタンの政治的役割が相対的に低下する中で、スルタンへの謁見を取り次ぐ宦官、特にアフリカ出身の黒人宦官たちの政治的影響力が「急速に肥大」しました。 ジェラーリー反乱: 17世紀初頭からアナトリア各地で頻発した一連の反乱(ジェラーリー反乱)は、地方の治安を悪化させ、帝国の安定を大きく揺るがしました。 クレタ戦争の長期化: ヴェネツィア共和国との間でクレタ島の支配を巡って戦われたクレタ戦争(1645-1669)は長期に及び、特に中心都市カンディアの攻囲戦は「四半世紀にも」続く消耗戦となりました。 大宰相府の権力強化: 帝国の危機に対し、17世紀後半にはキョプリュリュ家出身者たちが次々と大宰相に就任し、強力な指導力で帝国の立て直しを図りました(キョプリュリュ時代)。 第二次ウィーン包囲の失敗と大トルコ戦争: 1683年の第二次ウィーン包囲の失敗は、オスマン帝国の軍事的後退を象徴する出来事となりました。これを機にオーストリア、ポーランド、ヴェネツィアなどからなる神聖同盟との間で大トルコ戦争(1683-1699)が勃発し、オスマン帝国は敗北を重ね、ハンガリーなど広大な領土を失いました。 カルロヴィッツ条約 (1699年): 大トルコ戦争を終結させたこの条約は、オスマン帝国がヨーロッパ諸国との間で対等な交渉の末に結んだ初めての本格的な講和条約であり、帝国の勢力後退を確定づけました。交渉を成功させた書記長官(後の外務大臣に相当)が後に大宰相に任命されるなど、外交を担う文官の地位向上も示唆されます。 チューリップ時代: 18世紀初頭のアフメト3世の治世(1703-1730)の一時期は、西欧から輸入されたチューリップの栽培が宮廷や富裕層の間で流行したことから「チューリップ時代」と呼ばれます。イスタンブールでは大規模な都市開発や宮殿建設が行われ、イブラヒム・ミュテフェッリカによるオスマン帝国初の活版印刷所が設立され、「二〇冊の書物が上梓され」るなど、西欧文化の影響を受けた文化的な動きが見られました。 5. 近代化への模索と危機 (18世紀後半-19世紀): セリム3世の改革の試み: 18世紀末、セリム3世は帝国の軍事的衰退を食い止めるため、ヨーロッパ式の新式軍隊(ニザーム・ジェディード)の創設などの改革に着手しましたが、旧来の軍隊であるイェニチェリなどの強い抵抗に遭い、自身も廃位・殺害され挫折しました。 ムハンマド・アリーによるエジプトの近代化: 一方、帝国の地方州であったエジプトでは、オスマン帝国から派遣されたアルバニア人傭兵隊長ムハンマド・アリーが実権を握り、オスマン帝国から半ば自立した形で富国強兵策を進め、「エジプト近代化の父」と称されるようになります。 マフムト2世によるイェニチェリ廃止 (1826年): スルタン・マフムト2世は、改革の障害となっていたイェニチェリ軍団を、周到な準備の末に武力で殲滅・廃止しました(吉祥事件)。「創設から四五〇年余」の歴史を持つイェニチェリが姿を消し、本格的な近代軍創設への道が開かれました。 タンズィマート(恩恵改革): 19世紀半ばから約30年間続いた「タンズィマート」は、オスマン帝国における本格的な西欧化・近代化改革期です。「帝王から臣民に賜せられた」「上からの改革」であり、改革派官僚が主導しました。行政機構の整備、中央集権化、財政改革、地方統治体制の見直し、西洋式の法典(刑法、商法、オスマン民法典メジェッレなど)の編纂・導入、教育制度の拡充などが進められました。改革は、立法・諮問・監査機関として設置された高等評議会(タンズィマート評議会)によって推進されました。 タンズィマート改革の限界: 広範な改革が進められた一方で、「伝統的な社会の側からの反発」も根強く存在しました。また、帝国内の広大かつ多様な地域や民族に対し、均質性と平等性を原則とする「新たな秩序」を適用しようとしたこと自体の困難さも限界として指摘されています。 ナショナリズムの台頭と帝国の弱体化: 19世紀、ヨーロッパで高まったナショナリズムの波はオスマン帝国にも及び、特にバルカン半島のキリスト教徒諸民族の間で民族意識が高揚し、独立運動が激化。1848年のヨーロッパ諸革命も帝国に影響を与えました。クリミア戦争(対ロシア)での辛勝や、度重なる戦争、財政難、大飢饉なども帝国の弱体化を加速させ、「イスラーム世界の盟主」としての威信も揺らぎ始めました。 6. 専制時代と青年トルコ革命 (19世紀末-20世紀初頭): アブデュルハミト2世の専制政治: タンズィマート改革を進めた官僚たちの影響力を削ぎ、1878年に憲法(ミドハト憲法)を停止したアブデュルハミト2世(在位1876-1909)は、以後30年間にわたり専制政治を行いました。個人的には「物静かな人物」でしたが、政治的には反対派を厳しく弾圧し、側近(侍従)に権力を集中させ、「精密な防諜体制」を敷きました。この抑圧的な体制下で、改革や立憲制復活を求める「秘密結社が乱立」しました。 青年トルコ革命 (1908年): 「統一と進歩協会」に所属する青年将校らを中心に、マケドニアで軍隊が蜂起。革命は成功し、アブデュルハミト2世は憲法の復活を宣言しました。「100年トルコ人革命」とも呼ばれ、当初は帝国内の諸民族が「民族と宗教を超えて自由の到来を祝し」ましたが、革命による中央政府の混乱は、ブルガリアの完全独立、オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴヴィナ併合、クレタ島のギリシアへの併合宣言などを招き、帝国のさらなる弱体化と領土喪失につながる「諸刃の剣」となりました。 言語改革の試みと世論の形成: この時代、知識人の間でオスマン語の表記や文体を簡易化しようとする動きや、トルコ語そのものの純化・推進を目指す議論が起こりました。また、検閲はありつつも新聞などの民間出版物が発展し、「世論の出現」が政治に影響を与えるようになりました。 7. 第一次世界大戦と帝国の終焉 (20世紀初頭): 第一次世界大戦への参戦: バルカン戦争などでさらに領土を失い、国際的に孤立していたオスマン帝国(青年トルコ政権)は、ヨーロッパ列強との同盟を模索。イギリス、フランス、ロシアに拒否された後、「最後に残された」ドイツ帝国と秘密同盟を結び、1914年10月末、ドイツ・オーストリア側(中央同盟国)として第一次世界大戦に参戦しました。 アルメニア人虐殺: 大戦中、特にロシアと国境を接する東部アナトリアにおいて、オスマン政府はロシアに協力する可能性のあるアルメニア人住民に対し、強制移住政策などを実施。この過程で多数の死者が発生し、「他を圧倒する規模の人命損失」を伴うアルメニア人虐殺へと発展しました。この事件をオスマン帝国による計画的なジェノサイド(集団殺害)と見なすか否か、そして現代のトルコ共和国がその責任を負うべきか否かは、現在も国際的な論争点となっています。 敗戦と帝国分割: 第一次世界大戦で敗北したオスマン帝国は、1918年に連合国と休戦協定を締結。首都イスタンブールを含む帝国領土の主要部分は連合国(イギリス、フランス、イタリア、ギリシアなど)によって分割占領され、「戦勝国列強によるオスマン帝国領分割」により、帝国の解体が決定的なものとなりました。 トルコ独立戦争 (1919-1922): 連合国による国土分割と占領に対し、ムスタファ・ケマル(後のアタテュルク)らがアナトリアで抵抗運動(国民運動)を開始。当初、イスタンブールのスルタン政府からは「身分卑しい邪人たち」と見なされながらも、ケマルは各地の抵抗組織をまとめ上げ、アンカラにトルコ大国民議会を樹立。侵攻してきたギリシア軍などを破り、独立戦争に勝利しました。 スルタン制廃止と共和国樹立: トルコ大国民議会は、独立戦争終結後の1922年11月1日、オスマン家のスルタン制廃止を決定。最後のスルタン、メフメト6世は国外へ亡命し、約600年の歴史を持つオスマン帝国は名実ともに滅亡しました。そして、1923年10月29日、アンカラを首都とするトルコ共和国が樹立されました。 8. オスマン帝国の遺産: 多様な文化の融合: 長期間にわたりアジア、ヨーロッパ、アフリカにまたがる広大な領域を支配したオスマン帝国は、イスラーム文化を基層としつつ、支配下に置いた多様な民族・宗教の文化(ビザンツ、ペルシア、アラブ、バルカン、ヨーロッパなど)を吸収・融合させ、建築、美術、音楽、文学、料理など、様々な分野で独自の豊かで複合的な文化を築き上げました。 複雑な歴史的評価: オスマン帝国の歴史は、世界帝国としての栄光と領土拡大、多様な人々を統治した寛容さや制度的工夫といった側面を持つ一方で、専制政治、被支配民族への抑圧、内部対立と衰退、近代化の遅れと失敗、そして末期の民族問題やアルメニア人虐殺といった負の側面も抱えています。その長期にわたる複雑な歴史は、現代においても様々な議論や解釈の対象となっており、多くの遺産と共に、未解決の課題も残しています。

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    投稿日: 2025.04.23
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    トルコ文学(史)者が書いた約600年にわたるオスマン帝国の歴史。新書ながら500ページの分量。だが小説のように読みやすく、サクサクと読み進めることができた。また、ここまで詳細なオスマンの歴史の本は初めて読んだ。帯の紹介文に「歴史のダイナミズムをとことん味わう」とあるが、多民族、多宗教の大帝国がいかに繫栄し、そして滅亡の道を辿るのか。そのダイナミズムを本当に十分に味わうことができた。

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    投稿日: 2025.04.19