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手の倫理
手の倫理
伊藤亜紗/講談社
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総合評価

58件)
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    『#手の倫理』 ほぼ日書評 Day853 良書。 「手」を主として「触覚」を司る媒介機関として考察する内容。 古来西洋では、「触覚」は視覚・聴覚に比べ、劣った感覚と位置付けられてきた。 精神性に対する即物性、距離を置いては認知できず、時間を要し(瞬間的な受容ができない)、俯瞰性に欠ける(部分の積み重ねしかできない)等の理由によってである。 「群盲、象を評す」といった表現にも、その劣位性がまさに見て取れる。 本書では、紙数の大半を割いて、そうした固定的評価の裏にかくされた「触覚」の可能性・普遍性を明らかにするとともに、最終章でそれが故の高度な「倫理性」が必要であることを説く。 初めに、幼児が初めて "それ" に触れることで、単にそこにあった何かが幼児にとって何か意味のあるものになる、そういう体験を促すような玩具「恩物(おんぶつ: 英語ではFroebel Gifts)」が紹介される。 このおもちゃが意味することは、単なる構造的認識論ではなく、触覚を働かせるためには、まさにその感覚の主体者が客体に働きかけることが不可欠であることそのものである。 この働きかけが欠かせないという性質は、ひとりひとりの中に存在する多様性への気づきにつながる。やや長いが引用する。 "人と人の違いを指す「多様性」という言葉は、しばしばラベリングにつながります。あの人は、視覚障害者だからこういう配慮をしましょう。この人は、発達障害だからこういうケアをしましょう。もちろん適切な配慮やケアは必要ですが(…)個人が一般化された障害者のカテゴリーに組み込まれ(…)いつも同じ役割を演じさせられるのは、誰だって苦しいものです" その一方で、さわる主体がさわられる客体にもなりうる「対称性」(双方向性、インタラクティビティと言ってもよいだろう)が、視覚には無い独自性だ。 触覚は「さわり方」次第で、引き出される性質も変わる。触ることで得られる情報の種類は、形、大きさ、重さ、硬さ、表面の手触り、温度等、多岐にわたる。 子供のおもちゃのように、さわることが働きかけとなり、さらに多くの物事・意味が引き出される。 彫刻という芸術表現手法は、見るためのものではなく、触るためのもの(ヘルダー『彫塑論』)という主張は、それを端的にサポートするものだが、多くの美術館等で、その体験手法が禁じられていることは残念である。 触覚が劣位に置かれる理由のひとつでもあった「距離=ゼロ(表面同士が触れ合わないと、感覚が機能しない)」は、むしろ「距離がマイナス(内面にあるものを感じ取る)の感覚」と捉えることで、その厚みを増す。 どのように触る/触れるか、ここに相互の「信頼」が介在する必要がある。有無を言わさず、一方的に触(ら)れることは、拒絶感しか生まない。一義的にはそれを決めるのは触れる側だが、触れられる側は、相手に主導権を渡した時点で相手に対する強い「信頼」も明らかにしているのだ。 触覚によって交換される情報は、幾重にも深みを増す。 視覚障害者のランニングで、彼らと(ロープで繋がる)伴走者の間に「共鳴」状態が発生する。一義的には、見える側が見えない側に情報を送る手段であったはずのロープを介して、どちらが能動的な発信者で、どちらが受動的な受信者かを決められないような状態に入って行く。 単に一緒に走るだけでなく、神経が通じあっているような感覚、自己ベストを記録しても相手が調子が良いと疲れが残らないし、タイムが悪くても相手の疲れが移ってしまったかと思う時もある。 ちょっとした心の動揺がロープ経由で伝わることで「今、子供が飛び出してきそうになった」とか「もうすぐ坂だね」と言い当てられることさえある。 結果、(押したり引いたりということでなく)自然にカーブを曲がっていけるようになり、さらには頻繁にあるわけではないが、伴走者の存在を忘れ、ひとりで走っているような感覚、目の前に走路が見える感覚を覚えることもあるという。 こうした深みを持つ触覚は、人間のより根源的な領域・感覚と通じ合うこととなり、それ故に冒頭述べたような倫理観が必要とされることにつながる。この点は、サマリーではいかんせん伝えることができないので、興味のある方はぜひ本書を読まれたい。 https://amzn.to/3QuUqp8

    0
    投稿日: 2025.02.25
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    TVで観て気になり読みました。 手の倫理とは何?何書かれていくのだろうと不思議に思い読み進めていくと、具体例にラグビー、伴走ランナー、介護、ボクシングなどが出てきて、納得させられ、倫理という難しいタイトルにも関わらず具体例がすごくわかりやすく楽しい一冊でした。

    9
    投稿日: 2025.01.01
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    倫理は原則として一般化されたことがらを対象とするのではなく、個別の文脈の中で極めて現実的な態度としてのジレンマ、悩み、迷いとともに生じるものであり、明確な答えがない不安定さと隣り合わせである。しかしこのような不確かな時代だからこそ、倫理的である姿勢は重要なのであり、またそうであることで創造的な議論ができるのであるから、私たちが倫理について考えることは極めて重要なことだろう。 本書では、多様な意見があるときに、「多様性」という言葉をもって相対主義的な不干渉の姿勢を示すことの無責任さを、まさしく倫理の観点から指摘している点が印象深かった。つまりどれほど多様でも、私たちはなおも考え続け、語り続けなければならないのであり、これこそが倫理的なふるまいであると。 そしてもちろん本書の議論の主題である触覚についての洞察も興味深い。西洋哲学における触覚についての解釈の潮流と変遷に触れたうえで、不確実性を乗り越える信頼にはじまる接触、そしてその後のコミュニケーションとしての「ふれる」の特性へと議論が展開されていく。ふれることは極めて生成的な物理的メディアであると結論づけられるかと思いきや、その極致には絶対的な距離感のある「さわる」の伝達の要素があるという指摘は興味深かった。 わかりやすい解説で読みやすく、なおかつ学びの多い良書でした。

    10
    投稿日: 2024.11.16
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    「ふれる」の極地にあえて「さわる」がある。価値転倒。 正直まだまだ概念区分が大雑把で甘いな、と思うところもあったが、倫理とは何かということを考えるにあたっては良書であろう。 道徳法則とは質の異なるものでその場その場で向き合うしかないという原則を前提としつつ、触覚が道徳を揺さぶる力を持つことを手がかりに、倫理というものが「人と人との違いという意味での多様性よりも、自分の中にある異質なものとの出会いである」という主張にはすごく納得させられた。現在の哲学はやはり健康的すぎるとも思う。

    0
    投稿日: 2024.11.07
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    東京藝術大学 前期 音楽-音楽環境創造 2021 三重大学 教育学部 学校教育教員養成課程 特別支援教育コース 後期 2022 岐阜大学 地域科学部 地域政策学科 地域文化学科 前期 2022 群馬大学/共同教育学部/学校教育教員養成課程 教育人間科学系 教育心理 国語 社会 英語 数学 理科 技術 音楽 美術 家政 保健体育 教育 教育心理 特別支援教育 前期 2022 神戸市看護大学 看護学部 看護学科 前期 2022 東京都立大学 人文社会学部 人間社会学科 人文学科 前期 2023 新潟県立看護大学 看護学部 看護学科 後期

    0
    投稿日: 2024.11.06
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    触覚をみくびっていた自分に気付かされた 思い返せば印象強い記憶って触覚と共に残されている 普段、人の体に触れさせていただく数少ない職種であるからこそ、触覚についてより意識をしていきたいなと感じた

    2
    投稿日: 2024.07.06
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    NHK Eテレ 『理想的本箱』で紹介。 「日本語には触覚に関する2つの動詞があります。 ①さわる②ふれる 英語にすると どちらも「 touch」ですが、それぞれ 微妙に ニュアンスが異なっています。 傷口に「さわる」というと、なんだか痛そうな感じがします。 さわってほしくなくて、思わず 患部を引っ込めたくなる。 では「ふれる」だとどうでしょうか。 傷口に「ふれる」というと、 状態をみたり 、薬をつけたり、さすったり、そっと手当をしてもらえそうなイメージを持ちます‥」 こんな、書き出しで始まります。何やら興味を持ちませんか? 「ふれる/さわる」「ふれられる/さわられる」とはどういうことなのか?触覚ってなんなのか? 著者自身が、体験し、 勉強会に参加し、インタビューし、様々な資料から考察し、 研究し、とても丁寧に親身になって読者に伝えようとします。著者のご性格なのか 読者に対して とても 敬意を払っているような印象を受けます。 そこに好感を持ちました。 最終章では今までの議論を一旦 ひっくり返します。触覚は倫理を語れるほど「いい奴」なのか?と。触覚の不埒さにも焦点を当てています。 一度読んだだけでは全てを理解することはできませんが、 ニュアンスは伝わってきます。 「手の倫理は、接触を通して相手の体を生きさせることと密接な関係があり」不道徳な「不埒さ」をも伴う。だから、他者と手で関わる時は、一方的 、暴力的、伝達的ではない関わり方をしたいし、してもらいたいと痛感しました。

    1
    投稿日: 2024.06.23
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    「さわる」と「ふれる」、そこにはどのような交流が生まれるのか。 介助、子育て、教育、看取りなどのさまざまな関わりの場面で、コミュニケーションは単なる情報伝達の領域を超えていきます。 一方向的な「さわる」から、意志や共鳴、信頼を生み出す「ふれる」へ。 触覚が生み出す、人間同士の関係の考察が面白いです。 コミュニケーションの部分も示唆に富みます。 伝達モードの特徴は、伝えるべきメッセージが発信者の中にあり、それが一方的に受信者に伝わってくる、というところにありました。けれども、たとえば日常の会話がしばしばそうであるように、自分がAというつもりで伝えたメッセージが相手にとってはBという別の意味を持つ、ということがありえます。さらには、発言や表情から相手の反応を読み取り、その場で言葉遣いを微調整したり、言うべき内容を修正したりする、ということもあります。つまり、メッセージは必ずしも発信者の中にあらかじめあるわけではないし、発信者から受信者へ一方向に伝わるものではないのです。 ー 122ページ

    1
    投稿日: 2024.06.03
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    「道徳」と「倫理」の違い 「さわる」と「ふれる」の違い 伊藤亜紗さんの本を読むと、頭というより身体で読み取っているような気分になる。 文を目で追いながら手が動くような

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    投稿日: 2024.05.20
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    ☆信州大学附属図書館の所蔵はこちらです☆ https://www-lib.shinshu-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BC03001391

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    投稿日: 2024.03.01
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    ・東京オリパラを機に急に市民権を獲得した「多様性」について、これを重視し過ぎると、「我関せず」「不干渉」がとなってしまう、と警鐘を鳴らす著者は、だからこそ「さわる=一方的な行為」「ふれる=相互作用の行為」という、「介入する行為」が必要と、主張します。読んだ時、「これは今年の1冊」と思ったけど、誰かに説明するのが難しい…ので、もう一度、読みます。(菊)

    0
    投稿日: 2023.11.15
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    倫理と道徳を区別して、倫理とは一般の存在しない、個人が線引きを行うことで作られる、ある種の創造性を含んだものであることが提示される。「多様性」のような、ビッグワードやスローガン的なものに吸収されていく、あわいのある存在を見落とさないようにしたいと考えようになったのは、本書の指摘が大きかったかもと思う。 具体的な状況と普遍的な価値のあいだを行き来することで、倫理的な行為を深化させることや、他者性についても言及があり、一章だけでもパンチライン多数。ってかまえがきの時点でめっちゃおもしろい。 ふれるという行為の相互性、また介入性が、いかにさわるという一方向的なものと異なるか。 伊藤さんは利他という概念について話すときも、常に自己へと向かう矢印に他者を経由させるようなイメージを展開している気がする。 信頼と安心の違いについて、安心というものは保険をかけるような一方向性の願望であり、信頼とは一方向の願望の中にも、相手がそれを裏切ったとしてもよしとする、双方向的な考えがあることを指摘している。これも自分にとって人間関係の大きな指針になる考えだった。 100%の安心はありえず、それを求めるがために複雑化するシステムの無限後退を、信頼というものがどこかで堰き止めてくれる。仕事しててもめちゃくちゃ感じる。 例として挙げられる注文を間違えるレストランや、ブラインドランの話などもとても興味深い。 ユマニチュードという革命を読みながら、改めて手に取った一冊

    0
    投稿日: 2023.09.08
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    特に触覚に興味があったとあるタイミングで、後半を読み終えた。 不道徳な触覚が持つ倫理性。私はどのようにして社会的成熟度を操ることができるだろう。

    1
    投稿日: 2023.08.22
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    さわるとふれるの違いは奥が深い。 多様性のところの 多様性を象徴する言葉としてよく引き合いに出される「みんなちがって、みんないい」という金子みすゞの詩は一歩間違えば「みんなやり方が違うのだから、それぞれの領分を守って、お互い干渉しないようにしよう」というメッセージになりかねません。 つまり、多様性と不干渉は表裏一体であり、そこから分断まではほんの一歩なのです。

    0
    投稿日: 2023.07.09
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    書評を見て気になっていた。 手で触れるとさわるとの違い。 手を介したコミュニケーションと、人との距離の取り方。 触感や皮膚感覚が人の感覚に働きかける割合。 いろいろ考えさせられる。 特に最終章の表現は見事だなぁと感心した。

    6
    投稿日: 2023.06.23
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    道徳の倫理の違いについて初めて考えたし本書を通して理解できた、パンチラインは沢山あったけど1番最後の章「不埒な手」でそれまで論じてきたことの根本をもう一度問い直そうとしているのが構造として面白かった、伴走ランナーや身体で感じるスポーツ観戦を実際に体験(体感?)してみたい

    1
    投稿日: 2023.02.18
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    人と人との触れ合い。「手」が重なり合う時、そこに倫理の有無を考えた事はなかった。触れると触る。似ている様で違う。互いの環境、気持ちによって、互いの手と手は特別な意味を持つんだね。手が果たす意味を思いました。

    1
    投稿日: 2022.11.28
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    触覚を通じたコミュニケーションは「距離ゼロ」ではなく、相手の内面にふれる「距離マイナス」なのだという考え方。 今までそこまで考えてしてたわけじゃないけど、コロナ禍で「握手」が気軽なものではなくなったことで変わる人間関係もあるのかなーとか思ったりもした。 一方的な「さわる」と相互的な「ふれる」 ただ発信するだけの「伝達モード」とやり取りを重ねる「生成モードのコミュニケーション」 後者を正解とするのが「道徳的」な態度なのだろうけど、必ずしも一方的な発信が悪ではないのが現実。 今はどちらの態度でふれれば、あるいはさわれば良いのか考えるのが倫理というもの。

    3
    投稿日: 2022.11.15
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    『さわる』と『ふれる』。無意識に使っている言葉。著者は、研究者として、緻密に検証しています。素人の自分には、本書が全て理解できたわけではありませんが、職業的に人に触れることが多いため、触覚やコミュニケーションの観点から『ほぉ』『へぇ』と学ぶことが多かったです。介護者や援助者は読んで損はないと思います!ちょっと難しい箇所は飛ばし読みでよいと思います。 第一章 倫理 第二章 触覚 第三章 信頼 第四章 コミュニケーション 第五章 共鳴 第六章 不埒な手 本書の序文から抜粋します。 ↓ 日本語には触覚に関する二つの動詞があります。 ①ふれる ②さわる 英語にするとどちらも『 touch』 ですが、それぞれ微妙にニュアンスが異なっています。

    31
    投稿日: 2022.11.14
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    「さわる」と「ふれる」。そこには何があるのか。ふれることは相手の内部に浸透すること。そこにあるの共鳴や信頼。触れることで新たな関係、新たな自分が呼び覚まされる。触れることで生まれるものってとても大きいものだ。人が人に触れることは怖くもあるし難しくもあるが根源的でとてもとても大事なことなんじゃないかと。日常でちょっと注目して気にかけてみたい。なにか掴めそうな気がする。

    1
    投稿日: 2022.11.03
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    学者さんが書いたような、いわゆる「学術書」みたいな本は、しばしば私自身の生活とは全く関係ないようなことも多く書かれているのだけど、これは、あ、あの体験はそういうことか、と記憶や思い出とリンクさせることができた、稀有な本であった。 時に一方的な「さわる」と共鳴が生まれる「ふれる」。その前段階で知らされた「道徳」と「倫理」、「安心」と「信頼」のちがい(ここで紹介されていた「注文をまちがえる料理店」の話がおもしろかった!「信頼」「倫理」のすばらしさよ)、「多様性」のほんとうの意味=人のもつ「可能性」の多様さについても、大きく頷けた。 「さわる/ふれる」ことによる、衝動や意思といった、心の動き。聴覚や視覚では絶対にわからないものが、「さわる/ふれる」ことでより鮮明に「みえて」くることがある。 ネットで洋服を買って失敗した経験、ETが最後に男の子とひとさし指をくっつける動作、ついずっといじっていたくなるやわらかな玩具、学校のときに踊ったお遊戯のダンスで、どうしてもつなぎたくなかった男子の手、新生児のだっこ…。いろいろ勝手に思い浮かび、(「さわる/ふれる」の整理はここではちょっと置いておいて)、触覚がもたらす感情の豊かさに、初めて気付かされたような気がする。

    1
    投稿日: 2022.09.02
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    触れることは、ベクトルを感じること。 安心というより信頼。 伝達というより生成。 道徳というより倫理。

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    投稿日: 2022.08.23
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    社会構成主義的な言語によって意味が社会的に構成されているという考えには、なるほどと共感するところが多いのだが、素朴な疑問として、身体性とか、倫理性とか、スピリチュアリティとかをどう考えるのかというのは、もやもやする。 まあ、「そういうものは社会的構成だ」的な説明もあったりするのだが、普通に考えてそうとも言い切れないないだろうと思う。 哲学ではなくて、人と現実的に関係しあうなかでは、そのあたりはなしにはできない。 この本は、基本、哲学なのだが、そういうリアリティとの関係を身近な体験を踏まえながら、少しづつ手探りで前に進めていく感じがよい。 いろいろな話しがでたところで、明確な答えに辿り着くわけではないのだが、その辺りもまた触覚的でいいかな。 やはり、身体というのがあって、そして他者の身体があって、その関係から生まれてくるなにか?そこは言語やロジックだけではなくて、こうやって、すこしづつ近づいていくということが大事なんだろうと思う。

    1
    投稿日: 2022.07.14
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    『「ふれる」は相互的であるのに対し「さわる」は一方的である』(本文より) 視覚障がい者にロープを使って伴走するときにおこる共鳴にの現象が興味深い。 私が考える「つながる」とも似ていると感じました。 「ふれる」ことに興味がある方は読んでおいて損はない一冊だと思います。 とてもおすすめです。

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    投稿日: 2022.06.19
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    手で感じた感覚、手によって感じた感覚、それはいつだって臨場感を持ってリアルに蘇ってくる。 同じように手を触れても相手によって感じ方は違う。受け取り方が違うのもあるし、感情や環境にも影響を受ける。

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    投稿日: 2022.06.17
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    全編興味深く、面白かった。前編にあった道徳と倫理の違いが、最後に私たちを揺さぶりかける。 子供は親にさわってほしいのではなく、ふれてほしいのだろう。

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    投稿日: 2022.05.20
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    たしか土井善晴先生と中島岳志先生の対談の中で聞いて読もうと思ったのがきっかけ。 「ふれる」ことの対称性や信頼から安心への変化。「ふれる」ことによるコミュニケーションの深さ、生成モードによる信頼の育みなど、視覚や聴覚によるコミュニケーションだけではどうしても信頼と安心の構築が難しいと感じるのはこの辺りが関係しているのかもしれない。 それに人にふれるということだけではなく、道具や食材に語るようにふれることでその内面性を感じられるようになりたいと思ったりもした。

    2
    投稿日: 2022.05.14
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    他者へのかかわりについて深く考えさせられた。とても分かりやすく触覚を色んな点から考察していて、触覚の素晴らしさも感じた。

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    投稿日: 2022.03.30
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    今日の世の中を覆っている合理性や生産性という価値観は違う、ふれることを通じて得られる非合理で生々しい感覚に価値を見出そうとしている。今日に必要な思想だと思った。

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    投稿日: 2022.02.15
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    人が人にさわる/ふれるときの交流、スポートや介助などさまざな関わりの場面で触覚がもたらす コミニュケーションや人間関係の可能性について綴られています。 全体的に哲学的な内容ですがそもそもの「さわる」と「ふれる」、「道徳」と「倫理」の違いなど テーマに深入りするワードに関する説明がとてもわかりやすくより興味をそそられました。 触覚は視覚に比べて情報を得るために要する時間が長く、繊細に扱わないと信頼関係を損なう可能性も大きい。 それでも相手とのより深い相互理解を得るための「ふれる」ことの重要性にとても納得がいきました。 人との関わり合いなど見つめ直したくなる一冊でした。 内容の割に文体が丁寧でわかりやすいので興味がある方にはとてもおすすめできます。

    0
    投稿日: 2022.01.23
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    ーー信頼があるところにだけ、メッセージは伝わっていくのです(p.165) コミュニケーション論としても、教育論としても、演劇論としても読むことができる本。 「手」という「距離ゼロ」のメディアを通じて、私たちは「生成モード」のコミュニケーションを行なっている。当たり前のことを改めて言葉におこしてもらうことで、今、自分やその周囲の人たちに何が欠けていて、何が可能なのか、何が起きているのかを、今までとは違った視点で捉え直すことができた。 また、ブラインドランナーの方と伴奏者の方の言葉が印象深い。

    0
    投稿日: 2022.01.20
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    「ふれる」と「さわる」の違い、手や触感で感じることについて。 人間は視覚に頼りがちで、動物的なイメージから五感の中でも下の方とと見なされているが、実際はどうなのか?ということを作者は様々な方にインタビューをして、掘り下げていく。 全盲の方、目の見えない人の隣で伴走する活動をされている方や介護の現場で働く方など様々な視点を入れながら、本当にさわる・ふれるというのは意外と複雑な構図から成り立っていることをまとめている。 面白かったのは作者も実際に目隠しをしてベテランの伴走者とランニングをした時、ロープで目の見えない人と伴走者を繋げるのだが、2人の息が合ってくるとお互いに走りやすくなり、走り終えてもすっきりした感覚になるらしく、それが不思議だった。 逆にロープを通じて様々な感情や思ったことが相手に感じられてしまうので、ネガティブな感情や緊張を感じてしまうと疲れやすいというのも面白かった。 様々な構図を図式化されてとても分かりやすく、コミュニケーションには信頼が必要、などが分かった。 英語では”touch”という言葉のみだが、日本語は触れると触るの2つが存在すること、そして無意識にその2つの言葉を自然と使い分けていることが印象に残った。医者が「体にふれる」ではなく「体をさわる」の方を自然だったり、逆だと生々しく聞こえてしまう。 普段から目で見ているスポーツを別の方法で体験してみる研究の話も面白かった。スポーツ全般は視覚的に捉えていることが多いが実は体験してみたら全然違うところを意識していることが多いのかなと思った。 後半の方がエピソードなどが増えて面白く感じた。

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    投稿日: 2022.01.16
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    目が見えなくなってしまうことを想像すると、途方もなく不安になる。自分が思っているよりずっと、視覚に頼っている割合は高いのかもしれない。 触覚によるコミュニケーションは意外にも未知の領域で、その豊かさに心強さを覚える。

    1
    投稿日: 2021.12.15
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    視覚によるコミュニケーション、言語によるコミュニケーションよりも、もしかしたら、さわるとかふれる、接触面のコミュニケーションの方が相手を理解できる場合もある。信頼や愛がなければ成り立たないコミュニケーションだから

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    投稿日: 2021.12.10
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    ふれる、と、さわる、にはじまり、手を介したコミュニケーションや、未だコトバに至らない思いがダイレクトに伝わる感覚などを、様々な事例や筆者自身の体験から、丁寧に言葉を連ね、分析されています。 そのありありとした感触や、相手に委ね、相手からも委ねられる感じが、言葉による思考、分析、コミュニケーションとはまた違ったありようを示されていて、そのようなふれ合いの持つ可能性を感じさせてくれました。

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    投稿日: 2021.11.16
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    親鸞会などのいう難度海よりも、小舟にすがる生き方のほうがいいと思っていた。つまり、道徳で安らぎを得るよりも、その場その場を悩み、オロオロする倫理がいいと改めて思わせてくれた。 それから、する対されるの関係でなく、お互いにあるというのも、J哲学を超えて、西田幾多郎の主客不分離を思わせた。

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    投稿日: 2021.10.09
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    筆者の論考の基になるのが視覚障害者との(触覚による)コミュニケーションなのだが、そこから触覚によるコミュケーションの要素をキーワード(伝達モードと生成モード、共鳴、などなど)として抽出していく様が鮮やかで、とても面白い。 最終章では触覚の「不埒」で扇情的な側面(触覚のその素晴らしい特性から、思ってもみない欲望や衝動が掻き立てられてしまう。セックスの翌日に入浴介助をすれば不快な重なりが生まれることもある)にも触れる。 ただそれは決して不道徳なことではなく、普遍的な善を追求する「道徳」を相対化し、むしろ現実的な場面に即し、悩みや葛藤を伴い、そしてより創造的な、「倫理」の世界に近づいていくものだとする。 「触覚は道徳的なものではないかもしれない。でもそれは確かに、いやだからこそ、倫理的でありうるのです。」と締める最終文まで全て腑に落ちて、でも新たな発見も随所に散りばめられた素晴らしい論考だと感じた。

    2
    投稿日: 2021.08.29
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    「さわる」=伝達的コミュニケーション(一方的) 「ふれる」=生成的コミュニケーション(双方向的) ※細かく言えば「ふれる」を超えた「さわる」もあり、一概に一軸上にある2項ではない。 手(触覚)は不道徳な存在でありながら、だからこそ倫理的でありうる(不可抗力的に生成的コミュニケーションを意識させる)という話。手でのコミュニケーションを「接触のデザイン」と捉えているのもおもしろかった。 接触の間、Aの一部でもBの一部でもなく、その間に生まれ更新され続ける独立しない何かがある、この生成的コミュニケーションの話は『かたちは思考する』に通ずるところがある。

    1
    投稿日: 2021.07.09
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    触覚についても、倫理についても、考えたことがなかったからおもしろかった。ふれる、さわるの違い。人の手が不快だったとき、心地よかったときを思い返してなるほどなと。もし自分が誰かを介助する立場になったらまた読み直したい。

    1
    投稿日: 2021.06.14
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    このレビューはネタバレを含みます。

    インパク知6・4 かかった時間 100分くらい? 話題になっていたので読んだ。 大きくは、視覚的コミュニケーションと触覚的コミュニケーションの話だが、その触覚的コミュニケーションには伝達的な「さわる」と、相互生成的な「ふれる」があり、後者は他者への信頼に基づくという。また、筆者はこの言葉は使っていなかったと思うが、「ふれる」コミュニケーションにおいては、他者との融合?深いトランス?意識の飛躍?トリップ?みたいなのがある、とのこと。 おそらく自分自身が閉じているニンゲンなので、基本的には「へー、そんなもんか。まあそんなもんなんだろうな」と思いながら読んだ。 読みながら思ったことを書く。 西洋哲学では視覚上位、触覚下位という話。おもしろい。こういう話スキ。 筆者を含めたふつうの人?が他者を信頼していない話。まあそうだろうな。でも、たぶん自分はそういう(他者に預ける)生き方はしないし、したくないかな。 介助は、介助者の条件(できるできない、年齢、関係性などなど)によって、当事者の「やりたいこと(として介助者に伝えることが)」が決まるから、そういう場合は、介助者には当事者の「本当にやりたいこと」が伝わらないし、介助者には「本当にやりたいことが別にある」ことさえわからない、という話。 たしかに。でもそれは、他者(介助者)の条件だけの話ではないと思う。自分の肉体や精神や能力によって、われわれは「やりたいこと」を決めているんじゃなかろうか?それこそ、「本当にやりたいことが別にある」かどうかもわからないままに。 触覚的スポーツ中継の話。 めっちゃおもしろかった。とくにフェンシングのくだり。そして、「視覚による観戦はわりとその競技の本質を外している」的なところ。なるほど。 そのあとの、カラダに思考?感覚?がひっぱられるという話もおもしろかった。カラダ侮れない。やっぱパッキリ心身二元論的に生きるのはちょっと違うんだろうなあ。 (筆者はこの話を書きたかったんだろうな、と、なんとなく思った) あとがき的な、母親とのエピソード。 この人の原体験として書かれていた。いい話だし、見田宗介じゃないけど、やっぱり自分の中の、良くも悪くも(ことばどおり)かけがえのない体験、他者と交換不可能な体験が、こういった、なんていうかなあ、リアルな?エッセンシャルな?語彙がないが、ホンモノの?熱のある?研究を生むんだろうな。

    2
    投稿日: 2021.06.08
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    道徳と倫理の違いからはじまり、興味深い多彩な例示でわかりやすく論じられててよかった。 どの項も面白かった。ロープを通じて伴走するときに感じる共鳴について、特に印象に残った。 最初に道徳と倫理の違いについて知った時、だから私は道徳だとピンとこなかったけど倫理には興味が持てたんだと納得した。 参考文献にも面白そうな本がたくさんあったので読みたい。

    3
    投稿日: 2021.05.24
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    このレビューはネタバレを含みます。

    第二章までで疲れてしまい終了 なるほどというものや、なんとなく感じていたことを文字にして読め、学べることは多々あった。 特に印象に残ったこと。 道徳は我々の理想の行動である。 しかし、現実にそれを実行できることは少ない。 その場合の最良の判断は何かを考え選択したものが倫理である。 “多様性”について。 多様性を認めよう、というのは道徳だが、 実際は、「お互い干渉しないように」という倫理を選択していないか 触覚は、視覚より劣った感覚機能だと思われているが、触ることで見るだけではわからない情報が得られる。また、触れることは表面だけでなく内面まで触れることができる。

    1
    投稿日: 2021.05.22
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    「ふれる」は相互的で人間的なかかわり、ふれることは直ちにふれ合うことに通じる。 「さわる」は一方的で物的なかかわり。 相手が人間だからと言って必ずしも人間的なかかわりとは限らない。とはいえ物的にかかわることが悪とは限らない。 ~介護は正しく「ふれる」仕事である。ふれあうことで感じあえるから、好きな仕事としてでき、やりがいをかんじるのだろう。 ところが「さわる」ことしかできない介護職は少なくない。利用者を「もの」扱いし、介護をお金を稼ぐ手段としてしか考えられないのだ。だからふれあうことで利用者から伝わってくるものを受け止められないのだ、もったいない。 「技術」は習慣とは違って、文化の差を超えて流通しうるもの。誰が、いつ、どこでやってもきちんと作動さえすれば同じ結果をもたらすもの。 ~技術には再現性が必要、そして他人に伝えられなければ技術とは言えないと思う。 「道徳」は小学校の道徳の授業で習うような「〇〇しなさい」という絶対的で普遍的な規則。 「倫理」は現実の具体的な状況でどう振舞うのが良いか、少しでもマシなのかということ。世の中は単純で明確なことはめったになく、困難な問題を考えていく。 ~「倫理」はジレンマに繋がる。それでも少しでも良い方向に進むために考え抜くことが求められるのだろう。 これさえ守れば正しいというものではない。 「多様性」は「不干渉」と表裏一体であり、「分断」まではほんの一歩である。 ~相手の存在を受け止め、程よい距離感で関わることが難しい世の中になった。相手に関わりたくない、または見下したいという感覚が「分断」を産むのではないか。 「安心」とは、「相手のせいで自分がひどい目に合う」可能性を意識しないこと。 「信頼」とは、「相手のせいで自分がひどい目に合う」可能性を自覚したうえで、ひどい目に合わない方に賭けるということ。信頼はものごとを合理化する。 「生きること」はそもそもリスクを伴うもの。 「安心」の枠外にでること、それは「信頼」にもとづいて生きること。 ~「安心」の中だけで生きていくのはつまらないし、それがいつまで続くかは分からない。少しリスクが伴う「信頼」を伴う生き方が楽しく、自己成長に繋がるのだと思う。「信頼」できる人がいないことで楽しくなく、未来に希望を持てない人が少ないのではないか。

    5
    投稿日: 2021.05.18
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    「接触」を否定するコロナ禍に読んだことで大変考えさせられる読書体験となった。言葉なくとも共鳴すること、境界がなくなるという感覚は興味深い。

    1
    投稿日: 2021.05.11
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    ☑︎接触面には人間関係がある ☑︎多様性は不干渉と表裏一体 ☑︎ ふれる–ふれられるの関係には信頼が必要 ☑︎あずけることによって得られる共鳴的関係 ☑︎不道徳だからこそ倫理的でありうる 接触の機会が減っている今だからこそ、触覚の価値について再考することに大きな意味があると思いました!

    1
    投稿日: 2021.04.14
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    141.24-イト 300821253 前回、オリバー・サックスを紹介しましたが、その現代版とも言うべき著作を次々と発表している「美学」の専門家です。どの作品も素晴らしい洞察力に溢れています。

    0
    投稿日: 2021.04.13
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    あまりのおもしろさで、一気に読めました。視覚上位の人間社会に、優しく物申す本でした。 伝達モードと生成モードのことを一貫して言及していました。この動線の自覚は、仕事をしたり、作品を作ったり、人間関係を築く上で大事だなあと思いました(コミュニケーションが一方的だと、時として暴力となり得ると感じました) 乳児時代の触覚体験の積み重ねが視覚を作り、視覚が触覚の線引きをする。触ると触れるの線引きは、対象が主体になるのか客体になるのか。 視覚以外の五感神経繊維に鈍感だったことを痛感しました。 この本を読むと、世界の見え方が変わると言っても過言ではないと思います。

    1
    投稿日: 2021.03.30
  • 体感するスポーツの翻訳?

    ダリアン・リーダーが手を、時に自他の境界を超え、身体に回帰しようとするままならぬ対象と捉えていたのとは対象的に、著者は距離をマイナスに縮め、不埒で道徳をゆさぶる対象と捉える。 読んでてまったく面白くなかった。 特に自分にまつわるエピソードがとことんつまらない。 前作の『記憶する体』が良かったのは、インタビュー相手の障害者の人たちが語る身体感覚の独特の表現や、折り合いの付け方に惹かれたからで、著者の分析はほとんど読み飛ばしていたことに気づいた。 中でいろいなスポーツも語られるが、その紹介の仕方も嫌悪感を覚えた。

    0
    投稿日: 2021.03.24
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     目の見えない人や耳の聞こえない人からインタビューして研究を進めていた著者が、介助の経験を通して体の接触をする中で、「さわる」、「ふれる」とはどういうことなのか、人間関係にどのように関わるのかなどについて考察したものである。  伝統的な西洋哲学では、5つの感覚において視覚が最上位に位置付けられる一方、触覚は劣位に置かれていた。そうした中でも子供にとっての触る事の重要性を論じた教育学者のフレーベルや、哲学者ヘルダーの議論を紹介しつつ、触覚の意味合いについて考察を深めていく。  第5章「共鳴」では、ブラインドランのランナーと伴奏者の間のロープを握って走るという具体的な行為を例に取って、両者が共鳴することで情報がやり取りされること、一方的な伝達ではなく、伝わっていく関係ができるというところは、とても興味深かった。  子育て、介助、スポーツなど肉体的接触の場面は決して少なくないにもかかわらず、あまり正面から取り上げられてこなかった、さわる/ふれるについて、様々な角度から考察がされており、創造的な人間関係を開いていく可能性に期待を抱かせる、そのような書であった。  なお、本書タイトル『手の倫理』の"倫理"の意味するところについては最終章に詳しいのだが、是非本文を読んで、読む人なりに考えてもらうことを望みます。

    3
    投稿日: 2021.03.18
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    コミュニケーションは多様である。言葉だけを記号として伝える。面前で声で伝える。身振りも交えて。また、相手に触れる。触れながら話す。黙って触れる。意識的に伝えることだけでなく、無意識に伝わることもある。 人間は動物であり、当然、物質である。物質が運動を受ける時、さまざまな効果が現れる。人間では感情が発生する。 引き起こされるさまざまな感情は、コミュニケーションの方法や自身の心の状態で、その時々、状況で変わる。 幸せを感じることは、手探りである。

    1
    投稿日: 2021.03.03
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    「さわる」と「ふれる」の違いを分析しながら、あらゆるコミュニケーション(会話、スポーツ、介護、sexなど)のあり方やその意味の拡張性について考える一冊。触れるどころか「会う」ことさえも憚られる昨今、触れるなどいうことにはヘンな勇気がいるが、事情が変わってもこういうことはあるのだろう。触れることを許すのは大変なことだ。起業支援なども、起業家の思いに触れ、事業に触れて、サポートという形で干渉=入り込んでいくことになる。その「程度」「深度」や「接し方」を間違えると、支援=コミュニケーションが成り立たない。入り込むことが、双方にとって心地よいとは限らないが、これは探っていかないとそもそも判断できない。毎日他人と接しているわけだが、その度にいろんなことを考えるようになる不思議な一冊。

    1
    投稿日: 2021.01.26
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    「積み木をくるくる回すことはできても、人の体を同じように回すことはできません」(31頁)。うん、納得。

    1
    投稿日: 2021.01.17
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    安心と信頼 相手を信頼することは大切。でも、私は相手から信頼されてるのかなと謙虚に考えることが、さらに大切だと感じた。 介助される人は、介助する人によって振る舞いを変えるけど、介助する人は介助される人の今見えている状態を自分が引き出しているということに無自覚であることを痛切に感じた。

    1
    投稿日: 2021.01.10
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    人間の身体、感覚は本当に不思議。 手もまた然り。 第三章と第五章が興味深い。 安全は楽だけど、 そもそも生きることはリスクを伴うのだから、 相手からリスクを奪うことは 生を奪うことにもなりかねない。 その線引きが難しい。

    1
    投稿日: 2020.12.14
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    このレビューはネタバレを含みます。

    「さわる」「ふれる」という概念を核に、触覚を通したコミュニケーションについて書かれた本。 1章の多様性についての話は若干違和感がある。「多様性の尊重そのものは大前提として重要」としているが、個人的には多様性の問題点ってその無批判性じゃないかと思っている。この本の中でも少しそういう話があるが、異質な他者と一緒にいるのって基本的に痛いし、不愉快で不自然なものだ。多様性っていうのはまず同じところに(異質なままで)同居することが前提の言葉で、根本的に相当な負荷がかかる不自然な状態なのに、ちょっとの譲り合いでできるし必ずそうするべきなんだみたいなノリがおかしい。共通の強い目的意識があるわけでもなくふんわりした倫理で取り組めば当然失敗し、「実態として進む分断」になる。 著者と同じように私も多様性という言葉はあまり好きじゃないが、理由は逆だ。「人がバラバラである現状を肯定する」というよりは、字面とは正反対の「バラバラは許さない、共同体で同質化しよう」という圧力を感じるからだ。 2章が好き。鬱転の自己の輪郭が失われる感覚、ヘルダーの「彫刻は触覚のために」という理論、すごくしっくりきた。彫刻に比べて大分格は落ちるように思うけど、私は子供の頃からフィギュアとか雑貨が好きで、特に手に取って撫でるとか造形を確かめるときはとても心が安らいだり、浮き立ったりする。触れるのは距離ゼロではなくマイナス、内側へ入り込む感覚、内側の流れを感じること…。手指が探るのは単に表面ではないということ、よくわかる。 それが生きる人とのコミュニケーションになった時、棒やひもなどの道具を介したほうがより内側まで伝わる感覚があるというのは面白いなと思った。4章の尊さや畏怖の距離を含んだ触れ方は「さわる」になるというのも、考えさせられるものがあった。 「けれども、『ふれる』を突き詰めていくと、その果てには『さわる』が、つまり『ふれあう』ことなど不可能な存在として相手が立ち現れてくる次元がある。誠実であろうとすればするほど、他者に対する態度は非人間的な『さわる』に接近していきます。」 深くふれあってきた相手でも、どこかでかならず異質な存在として、分からないものとして認める時が来る。でもそれって悲しみではなく、震えるような畏れ、喜びに近いのではないか。冒頭の多様性の話に少し重なるが、その侵せない分からなさにさわって、愛しいと尊ぶこと、そのままであること、それは深くふれあう果てにようやく立ち現れてくるのだろう。わかった果てにわからなくなることを受け入れられる。「多様性」の可能性として飛びつきたくなるのに、なんと果てしないことだ。

    2
    投稿日: 2020.11.23
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    今だからこそ、忘れてはいけないことが詰まっている。 じっくりじっくり読み返して、自分の血と肉にしたい。

    1
    投稿日: 2020.11.22
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    メモ→ https://twitter.com/lumciningnbdurw/status/1324577609355722753?s=21

    3
    投稿日: 2020.11.07
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    本書のあとがきを読んでいて思い出したことがある。子どものころ、盆正月にはいつも父方の田舎へ車で行っていた。1時間半ほどの道のりだった。僕は助手席に座り、母が僕の後ろに座っていた。次第に眠りに落ちていく僕の頭を、母の手が支えてくれていた。それが何とも気持ちよかった。そんな母は、2年前、急に腰が痛いと言って入院し、それから3ヶ月、2度の転院の末、亡くなった。2つめの病院だったか、看護師が怖いと言って泣きそうな顔をしていた。3つめの病院では、どうも男性の介護士に下の世話までされていたようで、はずかしいと言っていた。89歳であったが、もちろん女だった。病院に抗議すべきだったかもしれない。しかし、何も手助けしてあげられないまま逝ってしまった。本書にも、不埒な手という章で介助の話が出てくる。男性が女性を入浴させる?そのあたりの事情がどうも呑み込めない。伴走の話は興味深い。「伴走してあげる側」「伴走してもらう側」という非対称性がなくなるという。どちらが能動で、どちらが受動かが分からなくなる。共鳴。お互いが信頼し合っているからこそのことだろう。そして信頼しているからこそ、メッセージは自然と伝わる。ところで、昔、所ジョージの歌に「電車の中でお尻を触ってはいけません。偶然触れるのはいいのです。」というような歌詞があった。いまなら、ラジオでも問題になるかもしれない。「さわる」と「ふれる」、なかなか悩ましい。「道徳」と「倫理」こちらもなかなかうまく呑み込めない。カバーの絵の緑が好きだ。

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    投稿日: 2020.10.23