【感想】渋沢栄一に学ぶ大転換期の乗り越え方

田口佳史 / 光文社新書
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    田口佳史
    1942年東京生まれ。東洋思想研究者。日本大学芸術学部卒業後、日本映画新社入社。新進の記録映画監督として活躍中、25歳のときにタイ国で重傷を負い、生死の境で「老子」と出会う。以後、中国古典思想研究に従事。1972年株式会社イメージプラン創業、代表取締役社長を務める。東洋リーダーシップ論を核に置き、2000社にわたる企業変革指導を行なう。企業、官公庁、地方自治体、教育機関など全国各地で講演講義を続け、1万名を超える社会人教育の実績を持つ。2009年から慶応丸の内シティキャンパスで担当した「論語」「老子」講義が人気となる


     これから渋沢栄一の生涯、それに加えて『論語と算盤』と『論語』をひもといていくにあたり大切なことが二つあります。  それは「大きな時代感覚を持つ」こと、そして「古典として読まない」ことです。

     1840年、渋沢栄一は武蔵国 榛 沢 郡(現在の埼玉県深谷市)という地で、農民の家に生まれます。江戸時代の農民というと、士農工商の階級制度もあって「貧農」をイメージする人が多いかもしれません。  しかし、渋沢の生家はまったく違います。むしろ豪農。そんじょそこらの武家なんかより、お金もあるし、教養も高い。そんな家に生まれたということをまず理解しておいてください。

     渋沢家の食卓では、こんな会話が日常茶飯事だったと言います。 父  「栄一、今は何を読んでいる?」 栄一 「論語を読んでおります」 父  「おお、そうか。何か気に入った言葉はあるかい?」 栄一 「○○が気に入っております」 父  「それはいい言葉だな。それは、どのように解釈している?」 栄一 「 △ △ のように解釈しています」 父  「うん、それはいいだろう。しかしな、そこはこういう解釈もあるんだ。こういう解釈もあることを前提に、もう一度読んでみなさい」  こんな会話が日々当たり前のように行われていたと後年渋沢は語っています。経済力や教養にも恵まれた家庭で、教育熱心な親のもとで渋沢は育ちました。

     こうして見ていくと、一言で「農民出身」と言っても、さまざまな環境、境遇の違いがあることがわかります。  余談ながら、幕末にその名を 轟かせた新選組(新撰組)の面々も、境遇としては渋沢と似たところがありました。私は以前、新選組の地元・日野市まで行っていろいろ調べてみましたが、どうやら新選組も「農民の出」とはいえ、貧しかったわけではないようです。貧農の家ならば、大の男が日中から道場へ通い、剣術の稽古など許されたはずがありません。

     農民出身ということで「米の良し悪し」はわかりますし、「いいものを安く仕入れて高く売る」とは投機の考え方そのもの。藍玉作りで 培ったビジネスセンスが生きてきます。  渋沢の生涯をひもとけばひもとくほど、大胆かつしなやかにキャリアチェンジを繰り返していくと同時に、これまでの経験を十分に生かしながら、次のステップにつなげていることがわかります。現代を生きる私たちが学ばなければいけない大事なポイントではないでしょうか。

     渋沢 27 歳のとき、思いも寄らぬチャンスが巡ってきます。  徳川 昭 武(慶喜の弟)に従い、パリ万博使節団の一員としてフランスへ行く機会を得たのです。  わずか3〜4年前には高崎城の乗っ取りを画策し、その翌年には一橋慶喜に仕える。その3年後には日本代表の一人としてパリへ行く――。当時、海外へ行くだけでもたいへんなのに、日本を代表する使節団の一人として行くのですから、とんでもない転身です。渋沢の人生が時代とぴったり 噛み合って、猛烈な勢いで動き出していることを感じずにはいられません。  もちろん、このパリ行きも渋沢にさまざまな知識と経験、そして大きな刺激を与えてくれます。  ぜひとも想像して欲しいのですが、パリへ行くと言っても、今のように飛行機を使うわけではありません。船で各地を転々と停泊しながら進む長旅です。  たとえば、 上海 の地に着けば、アヘン戦争後、西洋列強に支配され、やりたいようにやられてしまっている国の姿を目の当たりにします。西洋とは、これほどまでに血も涙もないのか。うかうかしていると日本も同じ目に遭うのではないか。そんなことを渋沢は肌で感じ取ります。

     パリ行きの途中、香港に立ち寄れば、そこは当時すでに英国領。西洋流の進んだ文化や技術に驚かされます。上海、香港のみならず、サイゴン、シンガポール、セイロン、アデン、マルセイユなどに寄港していくのですから、青年渋沢栄一がさまざまな文化や人々に触れ、世界の大きさを体感したことは言うまでもありません。  そもそも乗っていたのがフランス船なので、船中ではずっとフランス人と一緒。身近な生活のなかで「外国人とはどういうものか」を学んでいきます。

     今日残されているエピソードを知れば知るほど、渋沢の「感動癖」というか「感激癖」とでも呼ぶべき特性を見ることができます。  いくら世界情勢をその目で見ても、ベルギー国王の話を聞いても、感動も感激もしない人はいます。パリ使節団は総勢 29 名いましたが、渋沢ほど感動し、感激した人はいなかったのではないでしょうか。  さまざまなことを体験し、見聞きするのはもちろん大事。  しかしそれ以上に、そこから何を感じ取るのか。どのくらい感動し、どんなふうに感激するのか。この感度こそ、人生を大きく左右するのだと私は感じます。  渋沢自身、恵まれた境遇とさまざまな幸運を併せ持っていたことは間違いありません。  ただし、それだけで渋沢栄一という人物は語れません。  一つ一つの体験に感動し、感激することによって、どんどん吸収し、自らの 血肉 としていく。そんな吸収力も渋沢の大きな特徴と言えるでしょう。

    渋沢は 28 歳で帰国しますが、この年こそ1868年。明治元年にあたります。

     渋沢は世界を見てきていますから、日本に帰ってくると「あれもダメ、これもダメ」「未だにこんなことをやっているのか」と問題をあっちこっちで発見します。それを、いろんな部署や担当者のところに出向き、「もっとこうしなければダメです!」と上申しまくるわけです。

     そんなチェンジを 厭わない渋沢の生き方を象徴するかのように、 33 歳でこれまで勤めていた大蔵省をあっさり辞め、第一国立銀行(現・みずほ銀行)の総監という役職につきます。  役人から、民間の実業人になったのです。  農民から武士になったときが一度目のキャリアチェンジだとすれば、ここで渋沢は二度目のキャリアチェンジを果たします。

     実業界に身を転じた渋沢は、その後約 20 年にわたって、さまざまな企業や組織の立ち上げ、運営、経営に携わっていきます。  その数はなんと500にも上ります。  第一国立銀行を始め、日本鉄道会社(現・JR東日本)、東京海上保険会社(現・東京海上日動火災保険)、東京会議所瓦斯掛(現・東京ガス)、東京株式取引所(現・東京証券取引所)、ジャパン・ブリュワリー・コンパニー・リミテッド(現・キリンホールディングス)、札幌麦酒会社(現・サッポロビール)、清水組(現・清水建設)、東京ホテル(現・帝国ホテル)、抄紙会社(現・王子製紙、日本製紙)、共同運輸会社(現・日本郵船)、東京石川島造船所(現・いすゞ自動車)、川崎造船所(現・川崎重工業)など、名の知れた企業や組織を挙げるだけでもたいへんな数になります。  東京のあらゆる場所に渋沢の功績があると言っても過言ではないでしょう。  今で言うところのスタートアップですが、多くの企業が現在も存続していることに驚きます。渋沢の「事業やビジネスに対する考え方」がいかに本質を突き、サステナブルなものかが窺い知れます。

     渋沢は会社を立ち上げ、経営していくにあたり大切なことを四つ挙げています。 ① 道理正しい仕事か。 ② 時運に適しているか。 ③ 己の分にふさわしいか。 ④ 人の和を得ているか。  どんなに儲かる商売でも「道理正しい仕事」でなければいけない。これは本書のテーマでもあり、渋沢栄一のメッセージの根幹でもある『論語と算盤』そのものです。  後にも詳しく述べますが、道理正しい仕事でなければ、決して長続きはしない。それこそ、渋沢の中心にあるビジネスマインドです。  そして「時運に適しているか」。その時代における「大衆のニーズを捉えているか」と言い換えてもいいでしょう。道理正しいだけではビジネスはうまくいかず、時代のニーズも大事である、と渋沢は説いています。  さらには「己(自分)の分にふさわしいか」。  これもなかなか大切な視点で、いかに道理正しく、時運に適していたとしても、分不相応のビジネスでは決してうまくいきません。いたずらに大風呂敷を広げるのではなく、自分の身の丈にあったことをすべし。そう渋沢は教えています。  最後は、「人の和を得ているか」。  今の言葉で言えば、コミュニケーションやコラボレーションにも通じるものです。リーダー一人が暴走し、誰もついて来ないような組織ではうまくいかないでしょうし、自社のことだけを考えて、顧客や取引先、関係者とのつながりをないがしろにしているようでは商売は成り立ちません。  そんな四つを渋沢は挙げています。

     渋沢が経営に大きく関わった企業の一つである清水建設に、私は講演で伺ったことがあります。清水建設では今でも渋沢栄一の教えを守り『論語と算盤』そのものを社是にしています。  清水建設の公式サイトの「経営方針」には、  当社は、1887年に相談役としてお迎えした渋沢栄一翁の教えである、道徳と経済の合一を旨とする「論語と算盤」を「社是」とし、この考え方を基に、当社が経営活動を通じて果たすべき社会的使命を「経営理念」として定めました。 とはっきり書いてあります。

     なかでも、渋沢はアメリカとの関係を重視していました。今でこそ「日米関係は大事」は当たり前かもしれませんが、ときは、第二次世界大戦が始まる 30 年くらい前のことです。そんな未来まで予見していたところに、渋沢の時代をキャッチする力を感じます。歴史に「もし」は禁物ですが、もし渋沢があと 20 年長く生きていたら、満州事変から太平洋戦争へと続く歴史は変わっていたかもしれません。

     渋沢は 76 歳になったとき、最後に残った第一銀行頭取の職も辞し、実質的に実業界からは引退。ボランティアとして民間外交にさらなる精力を注いでいきます。  あれだけ不便な時代、しかも「人生 50 年」と言われていた時代に、 60 歳を超えてから四度も渡米しています。最後の渡米は 81 歳のとき。今の感覚で言うならば、その年齢で南極旅行へ行くようなものではないでしょうか。  渋沢栄一という人の人生は、それこそ最後までバイタリティと使命感に溢れていました。

     本章では、孔子という人物、そして『論語』という書物そのものについて簡単に解説します。論語の内容を理解するためにも、孔子がどういう人生を送り、論語がどのような経緯でできあがったのかを知っておくことは大きな意味があるからです。

    あるいは、人としての喜びとは何なのか。そんなことを考えるときにも「仁」が一つの気づきをくれます。 「自分がおいしいものを食べた」「自分が得をして嬉しかった」などということは本当の喜びではありません。なぜなら、そこに「仁」が感じられないからです。  本当の喜びとは、誰かが幸せになることをあなたが喜んだり、あなたが幸せになることを誰かが喜んでくれる。そういうところにあるものです。  それこそが「人と人とのつながりのなかで感じられる幸せ」であり「仁」というものです。こうしてみると「仁」とは人類愛と言い換えることもできます。

    「仁」すなわち「人と人とのつながりを大切にする」というのは美しいことである。「仁」を常に心に持っておくと、本当の意味で美しくなっていく。そんなことを説いています。  自分の利益のために「仁」を忘れてしまうようでは、賢明な人とは言えない。「仁のある生き方をするか、そうでない生き方をするか」は人それぞれ、自由です。しかし、本当の意味で美しい人となり、愉快な人生を送ろうと思うなら、自ずと「仁に生きていくこと」になる。

     第1章で渋沢栄一の生涯を語り、第2章では「孔子、その人」と『論語』について触れました。続く第3章では『論語と算盤』について解説しておきたいと思います。 『論語と算盤』とは、じつに絶妙なタイトルです。  ここで言う論語は、言わば「道理」を意味します。世の中における本質と言ってもいいでしょう。  そもそも道理とは、法律に則っているとか、ビジネスの時流に合っている、といった小さなものではありません。もっと大きく、普遍的な「宇宙の 法」「天の法則」とも呼ぶべきものです。

     渋沢は「ビジネスをやるからには、まず人間というものをちゃんと理解しなさい」と言いたいわけです。  ビジネスに直結する経営理論やマーケティング、金融工学、最新の組織論やイノベーション理論を学ぶのもいいでしょう。  しかし「そもそも、人間とはどういうものか」「人間関係とは、どのようにすればうまくいくのか」という原理・原則、もっと言えば道理を理解せずして商売をしても、決してうまくはいきません。だから、「人間を知らなきゃ、商売なんてできないよ」と渋沢は言うわけです。  では、何から人間を知るのか。  もちろん論語からだ。そういうメッセージです。  事実、論語には「人間とはどういうものか」「人間関係のイロハ」についてもふんだんに記載があります。

     志に関して、渋沢は「大立志」と「小立志」という独特の表現をしています。 「大きな志」を立てたら、それで終わりというわけではなく、その枝葉となる「小さな志」を立て、日々工夫して生きていくことが大事だということです。当然ながら、「大立志」と「小立志」に矛盾があってはなりません。

    渋沢の人生をもう一度振り返っておきます。   24 歳で農民から武士となり、後に明治政府の役人となります。   33 歳のときにはあっさりと役人を辞め、実業・商売の世界に入っていきます。その後、500を超える企業の立ち上げや経営に携わってきました。  そして 60 歳を過ぎた頃から、実業の第一線を 退きつつ、民間外交へと自らの情熱を注いでいきます。  渋沢の人生からは、大胆なキャリアチェンジをするとともに、それぞれの身分で 培った能力や知識、人脈をフル活用することで、どんどんユニークな存在になっていったことがわかります。  渋沢の最後のキャリアチェンジは 60 歳を超えてから。実業の世界から引退したとしても、人生から引退する気はさらさらなかったということでしょう。  渋沢自身は 33 歳のとき、役人から実業の世界に身を投じるようになった頃を、自らの立志だと語っています。自分が「本当に向いていること」「本当にやりたいこと」に出会ったという感覚があったのだと思います。
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    投稿日:2023.12.05

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