【感想】国家の品格

藤原正彦 / 新潮新書
(688件のレビュー)

総合評価:

平均 3.7
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175
56
30
  • 国家の品格

    大東亜戦争の悲劇的な結果について少年のように悔しがる著者の様子にとても共感。藤原正彦さんの軽快でコミカルな文章はとても面白く読みやすい。様々なものを蓄積し昇華した日本にしかできない国際社会における重要な役割について気付かされるとても良い本です。続きを読む

    投稿日:2013.09.26

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  • yonogrit

    yonogrit

    660

    インド・タミルナドゥ州の古都タンジャブールの魅力を紹介していくぞう。チェンナイから南へ300kmほど。美しいヒンドゥー寺院がたくさんあって、その美しさは藤原正彦氏のベストセラー「国家の品格」で絶賛された場所なんだぞう

    国家の品格(新潮新書)
    by 藤原正彦
    爽快さを知った私は、帰国後もアメリカ流を通しました。議論に勝っても負けても恨みっこなし、ということで、教授会などでは自分の意見を強く主張し、反対意見に容赦ない批判を加えました。改革につぐ改革を声高に唱えました。アメリカでは改革は常に善だったからです。結局、私の言い分は通らず、会議で浮いてしまうことが重なりました。

    数年間はアメリカかぶれだったのですが、次第に論理だけでは物事は片付かない、論理的に正しいということはさほどのことでもない、と考えるようになりました。数学者のはしくれである私が、論理の力を疑うようになったのです。そして、「情緒」とか「 形」というものの意義を考えるようになりました。  そんな頃、四十代前半でしたが、イギリスのケンブリッジ大学で一年ほど暮らすことになりました。そこの人々は、ディナーをニュートンの頃と同じ部屋で、同じように黒いマントをまとって薄暗いロウソクのもとで食べることに喜びを見出すほど伝統を重んじていました。論理を強く主張する人は煙たがられていました。以心伝心や腹芸さえありました。同じアングロサクソンとは言っても、アメリカとはまったく違う国柄だったのです。そこでは論理などより、慣習や伝統、個人的には誠実さやユーモアの方が重んじられていました。改革に情熱を燃やす人も少しはいましたが、「 胡散臭い人」と見られているように感じました。紳士たちはそのような人を「ユーモアに欠けた人」などと遠回しに評したりします。

    イギリスから帰国後、私の中で論理の地位が大きく低下し、情緒とか形がますます大きくなりました。ここで言う情緒とは、喜怒哀楽のような誰でも生まれつき持っているものではなく、懐かしさとかもののあわれといった、教育によって培…

    現在進行中のグローバル化とは、世界を均質にするものです。日本人はこの世界の 趨勢 に敢然と闘いを挑むべきと思います。普通の国となってはいけないのです。

    このようにして世界はヨーロッパ、二十世紀にはヨーロッパを継いだアメリカに、「してやられた」わけです。産業革命の家元イギリスが七つの海を武力によって支配し、その後をアメリカが受け継いだ結果、いま世界中の子供たちが泣きながら英語を勉強している。侵略者の言葉を学ばなければ生きていけないのですから。  もしも私の愛する日本が世界を征服していたら、今ごろ世界中の子供たちが泣きながら日本語を勉強していたはずです。まことに残念です。

    いかにも欧米の白人が優秀で、他の民族が劣等であるかに思えてきます。  しかし事実はそうではありません。例えば五世紀から十五世紀までの中世を見てみましょう。アメリカは歴史の舞台に存在しないに等しい。ヨーロッパも小さな土地を巡って王侯間の抗争が続いており、無知と貧困と戦いに彩られていました。「蛮族」の集まりであったわけです。  一方、日本は当時すでに、十分に洗練された文化を持っていました。文化的洗練度の指標たる文学を見ても、万葉集、古今集、枕草子、源氏物語、新古今集、方丈記、 徒然草……と切りがありません。この十世紀間における文学作品を比べてみると、全ヨーロッパが生んだ文学作品より日本一国が生んだ文学作品の方が質および量の両面で上、と私は思います。

     私の友人でブリュッセルに住んでいる男がおります。数年前に彼のところに行ったら、ベッドの下からライフル銃を取り出してきました。アメリカなら珍しくありませんが、ヨーロッパの家庭で銃を見るのは初めてでした。「いったいどうしたんだ」と訊いたら、「EUの拡大で国境がなくなったら、東ヨーロッパの貧乏人たちが西ヨーロッパに出稼ぎに来るようになった。西の果てのベルギーでベンツやBMWなどの高級車を盗んで、そのままノンストップで東ヨーロッパまで逃げてしまえば、誰も捕まえられない」と言うんです。

    数年前にイギリスの上院議員が私の家に遊びに来ました。私がケンブリッジ大学クイーンズコレッジで教えていた頃のそこの学長ですが、今では爵位ももらいイギリスの科学技術政策の中心になっている人です。彼も「イギリスでは理数離れがひどい」と話していました。読書離れもどんどん進んでいる、と。「原因についてはいろいろ言われるが、マサヒコ、真の原因はいったい何なのだろうか?」と深刻な顔で訊いてきました。

    すべての生産手段をすべての人が共有する。それによって生まれた生産物もみなで共有する。そうして貧富の差のない平等な、公平な、幸せな社会が出来る。美し過ぎて 目 眩いをおこしそうな論理です。  しかし現実には、ソ連が七十四年間の実験で証明してくれたように、大失敗に帰しました。これを「ソ連の失敗であって共産主義の失敗ではない」と強弁するのは誤りです。共産主義という美しく立派な論理それ自身が、人類という種に適していないのです。

    徹底した実力主義も間違い

     資本主義にも見事な論理が通っています。資本主義的個人は、それぞれが私利私欲に従い、利潤を最大化するように努める。すると、それが「神の見えざる手」に導かれて、全体の調和がとれ、社会全体が豊かになる。  最近では一歩進んで「市場原理主義」になりました。何でも市場に任せれば一番効率的であり、国家の介入は出来るだけ少ない方がよい。少しオーバーに言うと、経済に限定すれば国家はいらない。国家は外交、軍事、治安などを行うだけでよいということです。

    まず第一は、人間の論理や理性には限界があるということです。すなわち、論理を通してみても、それが本質をついているかどうか判定できないということです。

    公立小学校で英語など教え始めたら、日本から国際人がいなくなります。英語というのは話すための手段に過ぎません。国際的に通用する人間になるには、まずは国語を徹底的に固めなければダメです。表現する手段よりも表現する内容を整える方がずっと重要なのです。英語はたどたどしくても、なまっていてもよい。内容がすべてなのです。そして内容を豊富にするには、きちんと国語を勉強すること、とりわけ本を読むことが不可欠なのです。

    世界のトップ・エリートというのは、そういうことをいきなり訊いてくるのです。イギリスの歴史やシェイクスピアについては決して訊いてこない。日本の文学や歴史についての、非常に具体的な質問をぶつけてくる。だから、日本人としての教養をきちんと身につけていないと、会話がはずまない。

    初等教育で、英語についやす時間はありません。とにかく国語です。一生懸命本を読ませ、日本の歴史や伝統文化を教え込む。活字文化を復活させ、読書文化を復活させる。それにより内容を作る。遠回りでも、これが国際人をつくるための最もよい方法です。

    論理だけでは破綻する第二の理由は、人間にとって最も重要なことの多くが、論理的に説明できないということです。  もし、人間にとって最も重要なことが、すべて論理で説明できるならば、論理だけを教えていれば事足りそうです。ところがそうではない。論理的には説明出来ないけれども、非常に重要なことというのが山ほどあります。

    別の言葉で言うと、「論理は世界をカバーしない」ということです。数学のように論理だけで構築されているような分野でも、論理ですべてに決着をつけることは出来ないのです。  この事実は数学的にも証明されています。一九三一年にオーストリアの数学者クルト・ゲーデルが「不完全性定理」というものを証明しました。  不完全性定理というのは、大ざっぱに言うと、どんなに立派な公理系があっても、その中に、正しいか正しくないかを論理的に判定出来ない命題が存在する、ということです。正しいか誤りかを論理的に判定出来ないことが、完全無欠と思われていた数学においてさえある、ということをゲーデルは証明したのです。

    この不完全性定理が証明されるまで、古今東西の数学者は、こと数学に限れば、どんな命題でも正しいか誤りかのどちらか一つであり、どちらであるかいつかは判定できる、と信じ切っていた。ところがゲーデルはその前提を覆したのです。人間の頭が悪いから判定出来ないのではない。論理に頼っていては永久に判定出来ない、ということがある。それを証明してしまったのです。

     数学の世界では、出発点はいつも、何らかの公理系です。公理というのは万国共通です。東西で寸分の違いもない。世界中のみなが同じ出発点を使っています。したがって何の心配もなく、論理的に突き進むことが出来る。  しかし現実の世の中に、公理系というものは存在しません。各人がみな違う公理系を持っているようなものです。受けた教育、家族関係、住んだ地域、育った環境、年齢、性別、何から何まで違うので、公理系は十人十色です。数学のようにはいかない。

    ところが一般の世の中の論理には、1と0は存在しません。絶対的に正しいことは存在しないし、絶対的な間違いも存在しない。真っ黒も真っ白も存在しない。  例えば「人を殺してはいけない」というのも、完全に真っ白ではありません。そもそも死刑という制度があって、合法的殺人が認められている。あるいは戦争になれば、敵をなるべくいっぱい殺した者が、世界中どこでも英雄として 称えられます。だから、人殺しはいけないというのは、真っ白ではなく、真っ白に限りなく近い灰色です。

    「情報社会だからパソコンを教えましょう」というのも、まったく同じ単純な理屈です。小学校からパソコンなんかとたわむれていたら、パソコンを作れる人がいなくなってしまいます。  パソコンを作るには、論理的思考をきちんと整えないといけない。小学校できちんと算数をやって、中高でもしっかりと数学をやらないと、パソコンを設計したり、ソフトを書いたりする人間が日本にいなくなってしまいます。

    十年ほど前に私が訪れた時も、南インドの小学生は、ノートが買えないため、みな小さな石板を抱えて読み書きを習っていました。  そんな国で育った人たちが、なぜそんなに素晴らしいソフトウェア技術者になって、世界中で活躍しているのか。それはインドの小学校、中学校、高校の数学が素晴らしいからです。

     論理が通ることは脳に快いから、人々はこのようにすぐに理解できる論理、すなわちワンステップやツーステップの論理にとびついてしまう。従ってことの本質に達しない。いじめ問題なんか典型です。こみいった問題の解決を図ろうとしたら人間性に対する深い洞察が必要になる。  実はワンステップやツーステップの論理の 跳梁 は我が国ばかりではありません。世界中がこれに 冒されています。欧米の支配を支えてきた論理や合理ですが、実はそれらのほぼすべてがワンステップやツーステップで彩られているのです。

    自由とか平等とかいう概念は、神なしには実態をうまく説明できないものです。慣習や公序良俗、情緒や形などを無視している点で致命的な欠陥を内包した、神がかりのフィクションとしか私には思えません。「人間の尊厳」とか「ヒューマニズム」とか「人権」とかの耳に甘く美しい言葉も、もとをたどればカルヴァン主義という信仰に過ぎない。別の言い方をすれば、ロックによるそのいかがわしい拡大解釈です。一見論理的と思われる自由とか平等なども、論理の出発点はかくもいい加減なものなのです。

    日本は四季がはっきりしています。そのせいか植生が非常に豊かです。サンソム夫人も前掲書で、日本には熱帯インドにある樹木から白樺など北欧の木まで実に種類が多いと言っています。植生ばかりではありません。ハーンは美しい音色の虫が日本には非常に多いと言っています。私の経験でもそう思います。そのうえすべてが繊細微妙に出来ている。このような、神の 恩寵 とも言うべき特異な環境の中に何千年も暮らしていると、自然に対する感受性というものが特異に発達する。この感受性が、民族の根底に年月をかけて沈殿している。そのように思えるのです。

    祖国愛に対しては、不信の目を向ける人が多いかも知れません。「戦争を引き起こす原因になりうる」などと、とんでもない意見を言う人が日本の過半数です。  まったく逆です。祖国愛のない者が戦争を起こすのです。

    一方、私の言う祖国愛は、英語で言うところの「パトリオティズム」に近い。パトリオティズムというのは、自国の文化、伝統、情緒、自然、そういったものをこよなく愛することです。これは美しい情緒で、世界中の国民が絶対に持っているべきものです。

    「禅や儒教は舶来のものじゃないか」と言う人がいるかも知れません。禅はもちろん中国で生まれたものですが、中国にはまったく根付かなかった。鎌倉時代に日本に来て、一気に日本に根付いた。これは、禅が中国人の考えとは相容れないもので、日本人の土着の考え方と非常に適合性が高かったということです。鈴木大拙氏の言葉によると、「日本的霊性」に合致していたのです。だからこそまたたく間に鎌倉武士の間に広がった。禅と儒教は日本人の間に古くからあった価値観です。理論化したのは中国人ということです。そして、いつものことながら、日本人はそれを神道などと融合しつつ、日本化し、武士道精神へと昇華させたのです。

    それでもやはり、私は新渡戸の『武士道』が好きです。私自身が推奨している「武士道精神」も、多くは新渡戸の解釈に拠っています。  新渡戸の武士道解釈に、かなりキリスト教的な考え方が入っていることは確かです。それが、元々の鎌倉武士の戦いの掟としての武士道とはかけ離れている、との説も承知しております。しかし、大事なのは武士道の定義を明確にすることではなく、「武士道精神」を取り戻すことです。  少なくとも、新渡戸の武士道は、私が幼い頃から吹き込まれていた行動基準と同一です。多くの人々も同じ思いを持つと思います。その意味で、近代武士道は新渡戸の書にもっともよく表現されていると思うのです。

     新渡戸はよく「東洋と西洋の架け橋」などと呼ばれますが、彼の目は西洋にばかり向けられていたわけではありません。『武士道』が世界的なベストセラーとなり、国際的な名声を博したその二年後に、台湾に民生局殖産課長として赴任したのです。  当時の台湾は日本領となってまだ六年で、マラリア、コレラなどの伝染病が 蔓延 する未開の土地でした。新渡戸の偉さは、そこで一介の課長として懸命に台湾の農業を改革し、製糖業を興したことです。その結果、台湾の製糖業を昭和初年にはハワイと世界一を競うまでに育てた。 不惜身命 と申しましょうか、「公に奉ずる」という武士道精神を見事に実践したのです。

    で、私はその教えをひたすら守りました。例えば「男が女をぶん殴っちゃいけない」と言ったって、簡単には納得しにくい。現実には、ぶん殴りたくなるような女は世界中に、私の女房を筆頭に山ほどいる。しかし、男が女を殴ることは無条件でいけない。どんなことがあってもいけない。しかも何の理由もない。そういうことをきちんと形として教えないといけないということです。

    私は「卑怯を憎む心」をきちんと育てないといけないと思っています。法律のどこを見たって「卑怯なことはいけない」なんて書いてありません。だからこそ重要なのです。  「卑怯を憎む心」を育むには、武士道精神に 則った儒教的な家族の 絆 も復活させないといけない。これがあったお陰で、日本人の子供たちは万引きをしなかった。

    イギリスという国を見てください。世界中の国が、イギリスの言うことには耳を傾けます。しかし、イギリスが現在そんなに凄い国かと言えば、それほどではない。イギリス経済は二十世紀を通して、ほとんど斜陽でした。最近は少し調子がいいのですが、日本のGDPの半分くらいの規模に過ぎません。  日本の言うことには誰も耳を傾けないのに、なぜ経済的にも軍事的にも大したことのないイギリスの言うことに世界は耳を傾けるのでしょうか。イギリスの生んできた「普遍的価値」というものに対する敬意があるからと思います。  例えば議会制民主主義という制度はイギリス生まれです。文学のシェイクスピアやディケンズ、力学のニュートン、電磁気学のマックスウェル、進化論のダーウィン、経済学のケインズ。みんなイギリス人です。

    大いなる普遍的価値を生んだ国に対する尊敬は、一世紀間くらい経済が斜陽でもぜんぜん揺るがないということです。  逆に言うと、日本が今後五百年間、経済的大繁栄を続けようと、それだけでは世界の誰一人尊敬してくれません。 羨望 はしても尊敬はしない。やはり、普遍的価値というものを生まないといけないということです。

    経済的その他の意味で本当に効率的な世界を作りたいのなら、例えば明日生まれてくる赤ちゃんから全員、世界中で英語だけを教えるようにすればいい。そうすると三十年、四十年後には、この世界で外国語の勉強などという骨の折れることをする必要性はまったくなくなります。みんなが英語で意思の疎通が出来る。政治や経済ばかりでなく、あらゆる点で素晴らしく効率的な世界ができあがります。  私に言わせれば、そんな世界になったなら、人間もろとも地球など爆発してなくなった方がよい。もはや人間が生きるに足る価値のある星ではないからです。

     能率・効率は素晴らしいかも知れません。しかし各国、各民族、各地方に生まれ美しく花開いた文化や伝統や情緒などは、そんな能率・効率よりも遥かに価値が高いということです。「たかが経済」を、絶対に忘れてはいけません。  チューリップは確かに美しい。しかし、世界をチューリップ一色にしては絶対にいけない。信州に行けば、道端にコスモスが咲いている。千葉に行くと菜の花が一面に広がっている。別の地方に行けばユリの花があって、また別の地方に行けばヒマワリがある。高山に登れば駒草が岩間に顔を出し、浜辺には 浜木綿 の白い花が咲いている。これこそが美しい地球です。どんなことがあってもチューリップで統一してはいけない。効率・能率に幻惑されて、画一化を進めては絶対にいけないのです。

     そういう意味で、二十一世紀はローカリズムの時代と、私は言っているわけです。世界の各民族、各地方、各国家に生まれた伝統、文化、文学、情緒、形などを、世界中の人々が互いに尊重しあい、それを育てていく。このローカリズムの中核を成すのが、それぞれの国の持っているこうした普遍的価値です。日本人が有…

    私は高校の頃、英語に圧倒的な自信があって、各種の模擬試験でもしばしば一番とか二番を取っていました。「俺が日本で一番だ」と信じていました。

    日本人が英語下手なのは、小学校から教えないからでも、中高の英語教師のせいでもありません。主な理由は二つあり、一つは英語と日本語があまりに異なることです。アメリカ人にとって、日本語とアラビア語は最も難しい外国語とされています。日本人にとって英語が難しいわけです。もう一つは、日本に住む日本人は、日常生活で英語を何ら必要としないからです。母国語だけで済むというのは植民地にならなかったことの証で、むしろ名誉なことです。TOEFLのテストで日本がアジアでビリ、というのは先人の努力に感謝すべき、誇るべきことなのです。

    英語ばかりでなく、中学、高校とドイツ語やフランス語にも精を出し、大学以降はロシア語、スペイン語、ポルトガル語にまで手を出したのです。恥ずかしいことに、外国語オタクだったのです。高校時代に買った『チボー家の人々』全五巻、大学時代に買った『戦争と平和』、谷崎潤一郎訳の『源氏物語』全十巻は今も本棚を飾っており、目にするたびに「まだ読まないね」と私を見下します。  もちろん語学だって出来ないよりは出来た方が遥かに良い。しかし、読書によって 培われる情緒や形や教養はそれとは比較にならぬほど大事なのです。

    情緒と形が大切な四番目の理由は、美しい情緒や形は「人間としてのスケールを大きくする」ということです。  欧米人のように「論理的にきちんとしていればよい」「筋道が立っていればよい」という考えは、今まで述べてきた通り、誤りです。万人の認める公理から出発する数学とは違い、俗世に万人の認める公理はありませんから、論理を展開するためには自ら出発点を定めることが必要で、これを選ぶ能力はその人の情緒や形にかかっています。論理が非常に重要なのは言うまでもありませんが、それは世界中の人が声高に言っているから、私はわざわざ言いません。しかし、この出発点を選ぶ情緒や形の重要性については、世界中誰一人言っていないようなので、私が声高に言うのです。これは論理と同等、またはそれ以上に重要です。

    みなさんと、みなさんのおじいちゃんおばあちゃん、どちらが賢いでしょうか。ケース・バイ・ケースと思います。では情緒力はどうでしょうか。これも賢さのように蓄積していきません。おじいちゃんおばあちゃんにかなわないケースも多いのではないでしょうか。

    知識や技術なら時代とともに蓄積していきます。私はニュートンの解けなかった数学の問題を、鼻をほじくりながらあっという間に解いてしまいます。これはもちろん、私の方が頭が良いからじゃありません。私が数学的知識でニュートンを圧倒しているからです。  このように知識や技術は蓄積する。しかし、人間としての賢さとか情緒力は一代限りです。したがって、論理と合理のみに頼っている限りは、歴史的に証明されたごとく、戦争をやめることはできません。

     美的感受性があれば、戦争がすべてを醜悪にしてしまうことを知っていますから、どんな理由があろうとためらいます。故郷を懐かしみ涙を流すような人は、他国の人々の同じ想いをもよく理解できますから、戦争を始めることをためらいます。

    数学や理論物理学のレベルは、実はその国の総合的な力にも深く関係しているからです。  どんな国でも経済的に発展する場合、常に工業の発展がベースとなります。金融やサービスによる繁栄は、 偽 の繁栄であり長続きしません。どの国でも、多少の才覚さえあれば、すぐに真似ることができるからです。一方、工業が発展するには、高い質の労働者の他に、それを支える基礎力としての数学や理論物理が強くないとうまくいきません。工業やエンジニアリング、テクノロジーなどは言わば「風下」にあたるわけですが、風上にあたる数学や理論物理のレベルが高くないと、長期的な発展は望み得ない。

    数学や理論物理がよいと長期的に経済発展する、と言っているのではありません。イギリスや旧ソ連のような反例があります。私が申しましたのは、長期的に経済発展する国は必ず数学や理論物理がよい、ということです。これには歴史上、反例がありません。すなわち、長期的な繁栄を願うなら、強力な数学や理論物理を維持しないとダメということです。

    ですから、一国の将来を予測する時、私はいつも、「数学や理論物理のレベルは高いか。その指標としての天才が出ているか」を見ています。それを見ると、二十年後にどの国が伸びてくるか、尊敬される国になってくるか、よく分かります。

    当時のブラジルの数学など、取るに足らないものでした。純粋数学のような、すぐ役に立たないものに優秀な人材が命をかけて取り組んでいるような国だけが、結局は伸びる。国家にそのような厚みと余裕がないと、長期的な発展はあり得ない。その頃から私はそう思っていたのです。少なくとも、ブラジルに関する限り、私の予想の方が当たったようです。

    どこにも美しいものがない。困りました。「数学では美的情緒がもっとも大切」「若い時に美に触れることは決定的に重要」などと言ったり書いたりしていながら、あれほど美しい公式を、インドの地で三千五百以上も発見したラマヌジャンにはあてはまらないことになる。彼は二十代の前半をマドラスで過ごしているのです。私の説に対する余りにも劇的な反例です。  それがずっと頭を離れませんでした。数年後に、覚悟を固めて二度目の訪印をしました。最初の訪問の時は、度肝を抜かれて逃げ帰ったような状態で、ラマヌジャンの故郷までは行かなかったのです。  マドラスから南へ二百数十キロ、運転手を雇い六、七時間もかけてガタゴト走り、ラマヌジャンが育ったクンバコナムという田舎町に着きました。びっくりしました。その周辺に、恐ろしく美しい寺院がいくつもあるのです。寒村にまでとてつもなく豪壮な美しい寺院がある。

    クンバコナム近くのタンジャブールで見たブリハディシュワラ寺院は、本当に息を呑むほどに壮麗でした。この寺院を見た時、私は直感的にこう思いました。「あっ、ラマヌジャンの公式のような美しさだ」と。  ラマヌジャンは「我々の百倍頭が良い」というタイプの天才ではありません。「なぜそんなことを思いつくのか見当もつかない」というタイプの天才なのです。

    アインシュタインの特殊相対性理論は、アインシュタインがいなくても二年以内に誰かが発見しただろうと言われています。数学や自然科学の発見の殆どすべてには、ある種の必然性が感じられます。ところがラマヌジャンの公式群は、圧倒的に美しいのに、必然性がまるで分からないのです。  高卒だったラマヌジャンは、「夢の中で女神ナーマギリが教えてくれる」と言って、次々に定理や公式を発見しました。ついにはケンブリッジ大学に招かれ、第一次大戦下のイギリスでいくつもの画期的論文を発表しました。 招聘 してくれたハーディー教授の研究室に、毎朝半ダースの新しい定理を持参したと言われます。不愉快な人です。

    その土地に存在する美が、天才と深い関係にあるのは間違いないと思います。この半径三十キロの円は、天才を生む土壌を考える際の、決定的とも言える舞台と思うのです。

    第二の条件は、「何かに 跪く心」があるということです。  日本の場合は神や仏、あるいは偉大な自然に跪きます。南インドはヒンドゥー教のメッカのような場所であり、人々はヒンドゥーの神々に跪いています。ラマヌジャンの母親は、息子を毎夕、歩いて数分のサーランガーパニ寺院へお祈りに連れて行ったほどです。ニュートン(一六四二~一七二七)の頃のイギリス人は神に跪いていた。実際、ニュートン自身も敬虔なキリスト教徒であり、聖書の研究も熱心にやっていました。

    今のイギリス人について言えば、信心深い人というのはどちらかと言うと珍しい。しかし、イギリスからはノーベル賞受賞者が今でもたくさん出ています。彼等は何に跪いているのか。伝統に跪いています。最初に述べましたケンブリッジ大学のディナーはその例です。三百五十年前と同じ部屋で同じ黒マントを着て暗いロウソクのもとで食べるのです。伝統は何より大切なのです。千五百年以上も続いた天皇の万世一系を、男女平等などという理屈で捨てようとする軽挙は、イギリス人には想像もできないのです。

    識字率が高いということは、読書文化が発達しているということです。金儲けにはまったく役に立たない読書に、国民は愉しみを見出していたの

    また、国家の品格というのは、それ自体が防衛力でもあります。日本が開国した当時、イギリスにせよアメリカにせよ、本気で植民地化しようと思えば出来たはずです。しかしイギリス人たちは江戸の町に来て、町人があちこちで本を立ち読みしている姿を 目の当たりにして、「とてもこの国は植民地には出来ない」と、 諦めてしまったのです。

    『文明の衝突』を書いたアメリカの国際政治学者サミュエル・ハンチントンは、世界の八大文明の一つとして日本文明を挙げています。日本が世界のどの国とも本質的に違う、独自な文化文明を作り上げてきたからです。先人の作り上げた日本文明の非常に優れた独自性を、どうにかして守り続けるのが、子孫である我々の義務と思います。

    日本は天才を生む土壌を着実に失いつつあります。美の源泉でもある田園は荒れ、小学校から大学まで、役に立つことばかりを追い求める風潮に汚染されています。跪くのは金銭の前ばかりです。金銭を低く見るという武士道から来る形は、すっかり忘れられました。田園が荒れれば、日本の至宝とも言えるもののあわれや美的感受性などの情緒も危殆に瀕します。

    日本は、金銭至上主義を何とも思わない野卑な国々とは、一線を画す必要があります。国家の品格をひたすら守ることです。経済的斜陽が一世紀ほど続こうと、孤高を保つべきと思います。たかが経済なのです。

    大正末期から昭和の初めにかけて駐日フランス大使を務めた詩人のポール・クローデルは、大東亜戦争の帰趨のはっきりした昭和十八年に、パリでこう言いました。 「日本人は貧しい。しかし高貴だ。世界でどうしても生き残って欲しい民族をあげるとしたら、それは日本人だ」
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    投稿日:2024.05.30

  • 天道虫

    天道虫

    少し思想が強いと感じてしまったが、ここまで強い母国愛に触れることがなかなか無いという意味では貴重な一冊であり、日本人なら読む価値はあると思った。
    日本人の持つ情緒や美的感覚を、もっと鍛えるべきだという主張と、英語を学ぶ前に先ずは国語や教養を身につけるべきという主張が個人的には共感できた。続きを読む

    投稿日:2024.05.10

  • ウモンキー

    ウモンキー

    1回目読了。
    日本人が忘れつつある「惻隠」「情緒」をもう一度取り戻すこと(武士道精神を取り戻すこと)が日本を再興させることに繋がる=国家の品格が必要。おそらく令和の今、この考えは嫌悪されるのかもしれない。嫌悪されるのは、もう私たちがアメリカナイズしつつあるからではないだろうか。日本人が日本人でなくなったとき、我々は正気でいられるのか。他民族は、自分たちが自分たちを証明できなくなった歴史があり、だからこそ民族性の主張に躍起になる。日本にはその歴史がない。正気でなくなることが分からないのだ。続きを読む

    投稿日:2024.04.17

  • ごま

    ごま

    私が英語の教職授業を取っている時に教科書となり、当授業は必修となった。
    当時の教員の教え方が大きいのだが、右翼的な押し付けである。
    確かに外国語を教えるにあたって、留意は必要かもしれないが、あまりにも一方論な右翼的論に傾いている。
    日本を愛することは重要だか、本書はあまりに視野が狭い。ここ数十年のベストセラーで最低のレベルであり、論理的にも破綻している。
    ただ、国家愛があることは良いことだと慰めにも思える。
    続きを読む

    投稿日:2024.03.22

  • ダイちゃん

    ダイちゃん

    1.著者;藤原氏は数学者かつエッセイスト。著名な作家夫妻(新田次郎と藤原てい)の次男。アメリカ留学記「若き数学者のアメリカ」で日本エッセイスト賞受賞。海外滞在記から科学、数学者評伝まで幅広く執筆。エッセイでは武士道や祖国愛、情緒の重要性を説く。
    2.本書;世界で唯一の❝情緒と形の文明❞を持つ日本は、❝国家の品格❞を取戻すべきだと言う。藤原氏は、『はじめに』で主張。「現在進行中のグローバル化は、世界を均質にするものです。日本人はこの世界の趨勢に敢然と闘いを挑むべきと思います。・・・孤高の日本を取戻し、世界に範を垂れる事こそが、世界史的貢献と思うのです」と。七章の構成。発行部数約300万部のベストセラー。
    3.個別感想(印象に残った記述を3点に絞り込み、感想を付記);
    (1)『第三章;自由、平等、民主主義を疑う』より、『戦後、連合国は第二次世界大戦を「民主主義対ファシズムの戦争」などと宣伝しましたが、それは単なる自己正当化であり、実際は民主主義国家対民主主義国家の戦争でした。どこの国にも扇動する指導者がいて、熱狂する国民がいました。・・・民主国家で戦争を起こす主役はたいてい国民なのです』
    ●感想⇒書、『ひとはなぜ戦争をするのか』の中でフロイトは書いています。「人間は、指導者と従属する者に分かれます。圧倒的多数は、指導者に従う側の人間です。彼らは、決定を下してくれる指導者には合理的に従います」と。攻撃本能を持った指導者が、従属する民衆を扇動して戦争の意思決定をするのです。戦争の悲惨さは、浮浪児兄妹の餓死までを描いた、「火垂るの墓」(野坂昭如著)を読めば、身につまされます。某書によれば。『太平洋戦争で、「一億総特攻」とか「国民の血の最後の一滴まで戦う」といったスローガンが指導者によって叫ばれた』と言います。無責任な言葉です。マスコミさえも報道の役割を忘れ、同調したのでしょう。現在の指導者達も、平和主義を謳った憲法を見直そうという動きをしています。戦争は失うものばかりです。正しい道筋を示してくれる指導者の出現を願ってやみません。
    (2)『第六章;なぜ「情緒と形」が大事なのか』より、『私は事ある毎に「外国語にかまけるな」「若い時こそ名作を読め」と言っている。・・・若い時に感動の涙と共に(名作を)読むのが何と言っても理想です。…読書によって培われる情緒や形や教養はそれ(語学)とは比較にならぬ程大事なのです』
    ●感想⇒読書の効用は、言わずもがなです。例を上げれば、司馬遼太郎氏は「必要な事はすべて図書館で学んだ」と、立花隆氏は「授業で得た知識より、自分で本を読んで得た知識の方がはるかに大きい」と言いました。私は、読書から得られる宝は3つあると考えます。❝①知識の習得 ②疑似体験によって未知の世界を知る ③人間への理解❞です。藤原氏は、「若い時こそ名作を読め」と言います。最もだと思います。私は中学の頃、読書に目覚め、野口英世等の偉人伝やヘッセ等の小説を読み感動しました。あの頃の震える程の感動は若さゆえと思います。そして、困った時や苦しい時の読書も重要です。私は、難題が発生した際に、尊敬する著者の書物を再読し、解決のヒントを貰いました。いずれにせよ、読書をベースに様々な経験を積みながら、人間性を醸成し、充実した人生を全うしたいものです。❝継続は力❞ですね。
    (3)『第七章;国家の品格』より、「日本は、アメリカの鼻息を伺い、「国際貢献」などというみみっちい事を考える必要は全くないのです。・・・世界に向かって大声を上げる胆力もなく、おどおどと周囲の顔色を伺いながら、最小の犠牲でお茶を濁す、という屈辱的な態度なら、国際貢献など端から忘れた方が良いのです。そんな事に頭を使うより、日本は正々堂々と、経済成長を犠牲にしてでも❝品格ある国家❞を指すべきです」
    ●感想⇒藤原氏は、品格ある国家の指標は四つあると言います。「①独立不羈(自らの意志に従って行動できる独立国) ②高い道徳(優雅と温厚) ③美しい田園(金銭至上主義に冒されていない) ➃天才の輩出(役に立たないものや精神性を尊ぶ土壌)」と。「アメリカの植民地状態でおどおどと周囲の顔色を伺いながら、最小の犠牲でお茶を濁す」日本のリーダー。我が国の官僚は❝偏差値エリート❞と揶揄されています。教養と大局感を身に着け、総合判断力を持った真のエリートを養成すべきです。一方、世界を見渡すと、❝貧困に喘ぐ人❞や❝紛争が止まらない国❞が散見されます。藤原氏が言うように「日本は正々堂々と、経済成長を犠牲にしてでも❝品格ある国家❞を目指し」世界や人類に貢献すべきでしょう。その為に、私達は、望ましいリーダー(政治家)を選ぶ眼力を養わなければなりません。
    4.まとめ;「日本は、アメリカの市場原理主義(究極の競争社会・実力主義社会)を模倣し、国家の品格を失った。❝論理と合理性頼みの改革❞では、社会の荒廃を止められない」と書いています。そこで、アメリカ社会の一端を覗きましょう。堤未果氏の『ルポ 貧困大国アメリカ』の一節です。「貧困児童の為の無料給食はインスタント食品が多い。これらには人工甘味料や防腐剤がたっぷりと使われており、栄養価はほとんどない。貧困地域を中心に、過度に栄養が不足した肥満児・肥満成人が増えていく。健康状態の悪化は、医療費高騰や学力低下に繋がり、さらに貧困が進むという悪循環を生み出していく」と。さて、本書はアメリカを手本?にしてきた日本の将来に対する警告の書とも言えます。18年前に出版されたのですが、今読んでも納得いく事も多いと思います。但し、本書は「論理よりも情緒」「英語よりも国語」が大切とあり、やや偏り過ぎの面もあります。日本の戦後目覚ましい発展は、国民の知恵でアメリカに学ぶと同時に反面教師として努力重ねた結果だと思うからです。それにしても、昨今の政治の金銭問題や企業の不祥事を聞くにつけ、道徳観の欠如は否めません。経済合理主義の功罪が問われているのでしょう。(以上)
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    投稿日:2023.12.22

  • KEINABE

    KEINABE

    発売されてから時間は経っているが、日本人全てに読んでもらいたい。ならぬことはならぬ。理屈ではない。理屈の出発点は人それぞれ違う、その出発点を作るのが人それぞれの美的情緒。家族を愛し、その延長で地域、日本を愛する。花を綺麗だと思う美的情緒が日本人には備わっている。日本人に生まれたことを誇りに思う。続きを読む

    投稿日:2023.11.23

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