絶海 英国船ウェイジャー号の地獄
デイヴィッド・グラン(著)
,倉田真木(訳)
/早川書房
作品情報
1740年9月18日、軍艦5隻を中心とした小艦隊がポーツマスを出港した。そこには、かつての商船から大砲28門を備えた六等艦へと生まれ変わった「ウェイジャー号」と250人の乗組員の姿もあった。スペインのガレオン船を追うという密命を帯び、意気揚々と出発した艦隊だったが、航海は凄絶を極め、謎の伝染病で多くが死に至り、南米大陸南端を航行中ついに嵐に飲み込まれてしまう。隊からはぐれ、無人島へと流れ着いたウェイジャー号の乗組員たち。そこで繰り広げられたのは、悲惨な飢えとの戦いだった。武器や食料を奪い合い、殺人や人肉食にまで及ぶ者が現れ、それでも極限状態を生き延びた者たちは、やがて対立する二組に分かれて島を脱出する。骨と皮になり果てながら母国へと帰還した33人を待ち受けていたのは、非情なる裁判だった。絶海の孤島に隠された真実とは? 彼らが犯した真の罪とは?全米で300万部を突破した『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』著者が、生存者の日誌や証言をもとに、ウェイジャー号の運命を克明に描き出す。アメリカ、イギリス、フランスでベストセラーになったサバイバルノンフィクション。
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商品情報
- シリーズ
- 絶海 英国船ウェイジャー号の地獄
- 著者
- デイヴィッド・グラン, 倉田真木
- ジャンル
- 教養 - ノンフィクション・ドキュメンタリー
- 出版社
- 早川書房
- 書籍発売日
- 2024.04.23
- Reader Store発売日
- 2024.04.23
- ファイルサイズ
- 13.2MB
- ページ数
- 400ページ
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この作品のレビュー
平均 4.0 (2件のレビュー)
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【感想】
1740年に大英帝国を出発した軍艦「ウェイジャー号」は、南米大陸最南端のホーン岬付近で嵐に巻き込まれ、難破した。乗組員は近くの島に上陸し、5か月間サバイバル生活を送ることになる。その島は嵐が…吹き荒れ氷点下0度近くになる絶海の孤島であり、めぼしい食料は貝や海藻、いくばくかの野草しかない。厳格な軍規で律せられていたはずの英国士官たちは、飢餓の中で次第に狡猾・残忍になり、窃盗や食人を犯すほど追い詰められていく――。
本書『絶海』は、大英帝国とスペインが海の覇権を争っていた18世紀、英国艦「ウェイジャー号」の航海と遭難、そして乗組員が帰還するまでの壮絶な出来事を描いたノンフィクションである。
ウェイジャー号は、5隻の軍艦から構成される「アンソン艦隊」の1隻であった。艦隊全体では約2000人、ウェイジャー号自身は250人の乗組員を有していた。アンソン艦隊の目的は、敵国であるスペインのガレオン船を拿捕し銀を略奪することであり、大西洋を横断した後に、南米大陸の端にあるホーン岬を周る航路を進むことになっていた。
このホーン岬近辺でウェイジャー号は難破してしまうのだが、そもそもそこに行く道中ですでに破局寸前だった。当時は航海技術が乏しいうえに、栄養学の知識が不足していた。限られた食事しか取れない船の中で発疹チフスと壊血病がまん延してしまい、次々と船員が倒れていった。かろうじて生きている者も死者とほとんど見分けがつかない有様だったという。当初の船員250人のうち難破するまでに105人が死んでいたというのだから、荒海より病気のほうがよっぽど壊滅的だ。
そんな中で孤島に遭難してしまうのだが、島は完全に不毛であり、めぼしい食料は貝や海藻、海鳥、難破船にから引き揚げた保存食しかなかった。幸いにも、嵐が吹き荒れているため飲み水は貯めることができ、島に自生していたセロリの栄養で壊血病は治っていた。ここから乗組員は、食料を集めつつ脱出方法を探すサバイバル生活に突入する。
生き残るには全員が団結する必要があるが、航海が破綻したことによって、船員たちの間の統率は完全に崩壊していた。現在不運に見舞われているのは、もとを辿れば艦長のチープの命令と決断のせいである。しかも当時の英国海軍では、志願した者も強制徴募された者も、乗った船が役務から外れると給料を支払ってもらえなくなる。金がもらえないのなら、もはや海軍のしきたりに従って命令を聞く意味は無い。
さらに状況を悪くしていたのが、艦長のチープが無人島生活で大した役に立たなかったことである。獲れる物が尽きてきて飢餓が広がり始めると、貴重な食糧を盗む輩が現れた。この事態になんの手立ても打てず、ただ厳格に命令するばかりで、乗組員の間の「秩序」を守ることができなかった。船員の艦長への敬愛は急速に悪化していった。
――暴君タイプと並び、船乗りが軽蔑する指揮官にはもう一つのタイプがあった。秩序を保つことができない指揮官、つまり暗黙の約束を守れない指揮官だった。暗黙の約束とは、船長が身の安全を守ってくれるからこそ、乗組員は忠誠を尽くすということである。今や漂着者の多くは、自分たちの物資を守ることもできず、盗人を捕まえることもできないチープを軽蔑するようになっていた。
ここで、新しいリーダー候補が登場してくる。掌砲長のジョン・バルクリーだ。
このバルクリーがかなりの切れ者だった。船の引き揚げや島の探索に尽力して結果を残し、持ち前のカリスマ性で無人島内の味方を増やしていく。なかでも一番有能な点は「起こったこと全ての記録をくまなく取り、日誌を書き続けていたこと」である(実は、本書を構成する話の大部分は、バルクリーの日誌を元に書かれている)。なんと無人島生活中も、決め事に際して規則案を作成し起草している。「極限状態の中でわざわざ紙にしたためなくても」と思えてしまうが、実際これがイギリスに帰還した後の航海日誌の出版や軍事裁判への提出資料として役立っているのだから、相当に先の見える男だったのだろう。
――バルクリーは慎重に抜け目なく、仲間たちの行動を一つずつ正当化する記録を文書で書き残す必要があった。海の法律家にして語り手であるバルクリーは、艦長がリーダーとしてふさわしくないことを示すこまごまとした出来事をすでに克明に日誌に記録していた。だから今バルクリーに求められているのは、世間の厳しい目や容赦ない法廷闘争にも堪えられるような揺るぎない物語、すなわち後世に残るような海の物語を創作することだった。
そうして島内が2派に分裂したあと、バルクリー派はチープ派に反逆を起こし、チープを島に置き去りにして脱出を図った。この脱出航海も非常に過酷であり、やっと安全圏のブラジルにたどり着いたとき、生き残っていたのはわずか29人だった。
イギリスに戻ったバルクリーは、自身の無実とチープの悪辣さを証明するために航海日誌を出版する。本には「チープは自らの意思で無人島に残った」など事実と異なることが書いてあるのだが、そこは当事者のチープがいないのだから言いたい放題である。
……と思っていたのだが、2年近く経ったあと、なんとチープが大英帝国に帰還したのである。チープは島に取り残されたあと仲間と一緒に脱出に成功し、スペインの捕虜になりながら生き延びていたのだ。
そうして今度は、「何が真実か」「誰が悪か」をめぐって軍法会議が繰り広げられることになる。この顛末は、ぜひ本書で確認してみてほしい。
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以上が本書のまとめだ。
読んだ感想だが、まさに「大スペクタクル」と言うにふさわしい冒険ノンフィクションだった。荒れ狂う海が船を破壊しつくす様子、病気と飢えで人が無残に死んでいく有様、無人島でのドロドロの闘争など、航海の過酷さと人の醜さが強烈な筆致で描かれており、まるで映画を見ているような感覚でのめり込んでしまった。実際本作は発刊前に、マーティン・スコセッシ監督とレオナルド・ディカプリオで映画化が決定している。スリル、謀略、どんでん返しと見どころに溢れるため、映像化する価値は非常に高いだろう。壮絶な冒険を味わいたい人にぜひお勧めである。
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【まとめ】
0 まえがき
ウェイジャー号が英国を出発したのは対スペイン戦の最中の1740年9月のことである。士官たち乗組員約250人を乗せ、極秘任務を帯びた小艦隊の一隻としてポーツマスから出帆している。その任務は、貴重品を満載した「世界の海を股にかける最高の財宝船」と呼ばれるスペインのガレオン船を拿捕することだった。ところが、南米大陸最南端のホーン岬付近で小艦隊はハリケーンにのみ込まれ、ウェイジャー号は乗組員もろとも沈没した、と見られていた。
しかし、船はパタゴニア沖で座礁し、荒涼たる島に漂着した。乗組員の大半は命を落としたが、81人が生き残り、ウェイジャー号の残骸の一部を継ぎ足して急場しのぎの船を作り島を出た。そして3ヶ月間4800キロの航海を経て、ウェイジャーが最後に目撃されてから238日後にブラジルに到着した。
半年後、さらにウェイジャー号の生存者3人の船が漂着した。3人はブラジルに現れた一行に対して衝撃的な申し立てをする。ブラジル組は英雄ではない、反乱分子だ――。
そこから互いに相手側を非難し、非難される泥仕合へと発展し、ウェイジャー号が座礁して島に足止めされていた間、乗組員たちがきわめて過酷な環境で懸命に生き延びようとしていたことが明らかになる。飢えと寒さ、派閥にわかれた殺し合い、略奪、人肉食――。
いったいこの絶海の孤島で、なにが起こったのか。
1 出帆準備
1740年1月、大英帝国はスペイン相手に戦争をしており、船の乗組員をかき集めていた。センチュリオン号艦長のジョージ・アンソンはじめ約2000人の乗組員は、5隻の軍艦と1隻の偵察用スループ船(1本マストの小型帆船)からなる小艦隊で大西洋を横断した後に、南米大陸最南端のホーン岬を周る航路を進むことになっていた。目的は、敵艦を「拿捕、沈没、つけ火、さもなくば破壊」して、南米大陸の太平洋岸からフィリピンにまで及ぶスペイン領を弱体化させること。そしてスペインのガレオン船に積まれている銀を略奪することであった。
センチュリオン号は当時世界で最先端の木造船であったが、アンソン艦隊のはみ出し者であるウェイジャー号は、もともと軍艦ではなく商船として建造された船であり、大改造されて、28門の大砲を搭載する6等艦へと変えられていた。
アンソン艦隊を悩ませていたのは乗組員不足だ。海軍にはもう配置できる志願兵はいなかったし、当時の英国に徴兵制はなかった。しかも当時の船乗りの間では発疹チフスが流行しており、やっと補充した乗組員もセンチュリオン号だけで200人が病に倒れ、25人以上の死者が出ていた。
穏当な方法で乗組員を補充できないとなると、海軍は「より暴力的」な手法に打って出た。武装した徴募隊を送り出し、力尽くで徴用したのだ。要するに拉致である。徴募隊は都市や町を歩き回り、船乗りの適性のありそうな者を片っ端から引っ立てていった(ただしその後、アンソン艦隊全体で240人以上が脱走している)。ほかに傷病兵もかき集めたが、乗組員の質は最低であり、ウェイジャー号艦長のデイヴィッド・チープは「これまでのどの戦争でも、これほどひどい半人前たちを連れてこられた例しはない。要するに、あまりにお粗末で、何と言ってよいかわからないほどなのだ」とこぼしている。
難航続きで1年近くの遅延を経た1740年8月23日、アンソン艦隊はいよいよイギリスを出発した。
2 航海のはじまり
ウェイジャー号にはあらゆる人間が乗っていた。ある乗組員によると、「軍艦はまさに世の中の縮図で、あらゆる種類の人がいて、善人もいれば悪人も」いた。そして、後者の中には、「追いはぎもいれば、押し込み強盗、掏摸や放蕩者、間男、賭博師、風刺作家、人買い、詐欺師、客引き、たかり屋、与太者、偽善者、没落貴族」がいたという。
船を動かすためには、そうしたアクの強い乗組員たちをまとめ、効率よく稼働する組織にする必要があった。手間取ったり、けつまずいたり、不注意だったり、酔っ払ったりしていると、そのどれか一つであっても大惨事を招きかねない。ある水兵は、こう描写している。軍艦というのは「人間でできた機械であり、その部品である一人一人は車輪であり、紐帯であり、回転軸であり、すべてがその機械を操る全能の艦長の意のままに、驚くほど規則的かつ正確に動く」。
寄港地のマディラ島を出てからほどなくして、艦内に発疹チフスが大流行しはじめた。銃撃されたわけでもないのに、仲間の多くがばたばたと倒れ始める。急病人たちの苦しみようはただ事ではなく、ハンモックの中で身をよじり、熱にうなされ、汗にまみれ、手桶や自分の体に嘔吐した。錯乱状態になり、よろめきながら海へ向かおうとするので、目を離せない者もいた。細菌という概念がまだ生まれていなかったこの時代、感染症を食い止める手段は持ち合わせていなかった。
12月になるころには、艦隊中で海に葬られた者は65人以上に及んでいた。
英国を出てから3ヶ月後の12月17日、艦隊はブラジル南海岸沖のサンタ・カタリナ島に到着する。この時点でおよそ2000人いた乗組員のうち160人がすでに死んでいた。
3 嵐の中へ
航路のホーン岬周辺は荒海である。日常的に強風が吹き、30メートル級の波が立ち、峡江に氷山が潜む難所なので、通り抜けに成功した英国の船乗りは数えるほどしかいなかった。本来は南半球が夏のうちに南米大陸を回るべきなのだが、逆風のため、予定の数倍の日数がかかっていた。ウェイジャー号は、季節的に最も危険な時期にホーン岬に突入したのである。
嵐は、昼も夜も艦隊を襲い続けた。ウェイジャー号の士官候補生ジョン・バイロンは圧倒される思いで、ウェイジャー号に押し寄せる波を見つめていた。全長123フィート(約37メートル)の船などちっぽけな手こぎボートにすぎないと言わんばかりに、波は船をもてあそんだ。船体のあらゆる継ぎ目から浸水して下層の甲板はどこも水浸しになり、士官たち乗組員はハンモックも寝場所も放棄することになった。もはや「悪天候」から逃れられる場所はどこにもなかった。
気温は下がり続け、雨は固体になり、みぞれや雪に変わっていった。ロープは凍結し、凍傷になる者もいた。船乗りの言い習わしに「40度以南に法はない」というものがある。「50度以南に神不在」と続く。そして、バイロンたち乗組員は、この時「凶暴な50度」にいた。この海域では、「何ものにも耐えがたいほど暴力的に吹き、海は船が翻弄されてばらばらに引き裂かれるほど高くうねる」とバイロンは記している。そして、これは「世界で最も忌まわしい航海である」と断じている。
嵐との戦いのさなか、さらに悪いことに、壊血病が船員を襲った。皮膚が青く変色し始め、やがて炭のように黒くなった。足首はとんでもなく腫れ上がり、カビにも似たシミが毒のごとくに、下半身から上半身に向かって侵食していった。ウェイジャー号では、バイロンによると、当初250人ほどいた士官たち乗組員は220人を下回り、その後200人にも満たなくなった。しかも、生きている者も死者とほとんど見分けがつかない有様だった。ある士官の言葉を借りれば、「ひどく弱っており、ずいぶん衰えてもいた」ので、「我々は甲板を歩くこともままならなかった」。
艦隊は全滅寸前だった。センチュリオン号では、マストを支える縦方向の太いロープが数本ちぎれた。他の船もロープ類の多くと甲板や帆が壊れていた。ウェイジャー号では、生命線であるミズンマストが折れ、索具や帆とともに海に落ちていった。船首から船尾まで損傷していた。船を機能させる健康体の乗組員も不足していた。
ウェイジャー号については、チープ艦長がこう報告している。「その不幸な局面でわが艦の乗組員は大半が病に倒れ、……しかも、航海が長引き、嫌というほど悪天候が続き、真水が不足しているためかなり消耗していたので、満足に作業もこなせなかった」。中には、帆を揚げることさえできない船もあった。マレー艦長は、乗組員たちは「英国人以外の船乗りには見られない意志の力」で波風に耐えてきたが、今や「絶え間ない作業と当直で疲労困憊し、寒さと水不足のせいで窮地に立たされ……絶望に打ちひしがれて自暴自棄になり、自分たちの不運を嘆き、この苦境からの唯一の救いだとして死を願った」と記している。
1741年4月10日、セヴァーン号とパール号が離脱し、艦隊は5隻から3隻に減った。そして旗艦センチュリオン号も見えなくなり、ウェイジャー号は洋上に孤立した。海岸線に向かって流され続け、岩にぶつかり、船腹の穴から浸水し始めた。船体が引き裂かれ始め、マストが傾き、船首は折れた。
ウェイジャー号は、近くの島に難波した。乗組員250人中105人が死亡していた。
4 無人島生活
漂着した島は、陸も海もほぼ不毛であった。島にはほぼ絶え間なく暴風雨が吹き荒れており、島の中心を取り囲むようにそびえる荒涼たる山々に絶えず雲が垂れ込め、そこから猛烈なスコールが打ち付けている。気温はずっと0度前後だった。遭難者たちは浜で貝や海藻を、森で野鳥やセロリを取り、難破船に積まれていた食料を引き揚げて飢えをしのいだ。
やがて、船員たちの不満は艦長であるチープに向くようになった。この航海を今の不幸な状況に導いた責任はチープの決定と命令にある。掌砲長のジョン・バルクリーは、「一同に種々雑多な無秩序と混乱が広がり、もはや無条件の服従などしなくなっていた」と記している。当時の英国海軍では、志願した者も強制徴募された者も、乗った船が役務から外れると給料を支払ってもらえなくなる。この時漂着した者の中の2人が主張するように、ウェイジャー号を失うことは、乗組員の大半の者にとって収入が途絶える可能性が高いことを意味していた。自分たちは無駄に苦しんでいるというわけだ。だったら、「自分が自分の主人になり、もう命令に従わない」のは当然の権利である。
チープはこの荒れ野に前哨基地を築き、大英帝国の種を播く計画を練り始めた。ホッブズの言う「万人の万人に対する闘争」状態に陥るのを防ぐために、遭難者たちに対して拘束力のあるルールや厳格な社会構造、それにみなを統率する指揮官が必要だとチープは考えた。事実、生き延びるためには団結することが最も重要であった。
全員を呼び集めたチープは、海軍条例についてあらためて説明し、陸上でも条例が適用されるのだと念を押した。特に、「反抗的な集会や……慣習、意図」は禁じられており、違反すると「死刑に処す」と定められていると強調した。全員が力を合わせ、各自が割り当てられた作業を着実にかつ敢然とこなす必要がある。諸君はまだ、艦長の意のままに正確に動く人間機械の一部なのだからと。
陸上では、チープが自分の小屋の傍にテントを張り、食料すべてを保管していた。ウェイジャー号でもそうだったように、チープは陸の上でも士官や士官候補生の厳格な上下関係を頼みにし、自分の命令に従わせようとした。もっとも、絶えず反乱の恐れがある状況でチープが主に信頼していたのは内輪の者たち、いわば組織内の組織だった。そこには、海兵隊中尉のハミルトン、軍医のエリオット、主計長のハーヴィーが含まれた。
他にもチープはその貯蔵テントにすべての銃と弾薬も保管した。チープの許可なしには、誰一人立ち入りを許されなかった。
やがてチープは森から草や木の葉や葦を拾ってくると、そこに簡易的な住居を建設した。ほかの者も真似をし始め、野営地はある種の集落になった。18戸も家があったという。テントで簡易病院も作り、飲み水は空の樽に雨水を溜めた。
しかし、わずか数週間で浜の貝は全て採りつくしてしまい、難破船から引き揚げた食料もどんどん減っていった。みなはふたたび飢えに苦しめられるようになった。「食料調達が困難で、自分たちの置かれた状況の改善がほとんど見込めないせいで、不機嫌と不満が今や吹き出していた」とバイロンは記している。
そのとき偶然にも、原住民であるカウェスカルの人々と遭遇する。カウェスカルの人々は日課のように海に出ては英国人たちに栄養をつける物を携えて戻ってくるようになった。彼らのお陰でチープは命綱を得られた。
ところが、それからわずか数日後、船匠助手のミッチェルをはじめとする乗組員数人が手に負えなくなる。チープの命令に背き、酒を盗んだり、酒盛りをしたり、難破船から引き揚げた武器を貯蔵テントに預けずに持ったまま姿をくらましたりした。バイロンは、そうした連中は「今やほとんど、いやまったく手に負えず」、カウェスカルの女たちを「誘惑」しようとし、そのせいで「インディアンたちに不快感を与えた」と記している。ある朝、チープが目を覚ますと、カウェスカルの人々は全員去っていた。
5 人間性の崩壊
カウェスカルの人々が出ていって以来、食料は減る一方であり、前哨基地は分裂していた。
船匠助手のミッチェルをはじめとする荒くれ者9人の「脱走組」が本体から離れ、数マイル先に自分たちの拠点を構え、自分たちで食料探しをするようになった。彼らは武装しており、本体野営地を襲撃する危険があった。
前哨基地でも、掌帆長のジョン・キングをはじめ多くのものがチープ艦長をあからさまに非難していた。海兵隊長ロバート・ペンバートン率いる海兵隊は、前哨基地にはいたものの、自分たちだけで徒党を組んだ。彼らは後にバルクリーをリーダーとして忠誠を誓った。バイロンは派閥闘争に巻き込まれるのが嫌で、一人で村はずれに移動した。それまでの上下関係は、船の沈没によって瓦解してしまった。
統率が取れなくなり分断が起きると、島内の治安が急速に悪化しはじめた。夜な夜な貯蔵テントに窃盗犯が忍び寄り、貴重な食料を持ち去る事件が発生する。その後3人の窃盗犯が捕まり、彼らはムチ打ち600回に処されて、小島に放置された。
その後、チープが士官候補生のカズンズと揉めた末、丸腰のカズンズの頭に発砲し銃殺した。これによって、乗組員のチープへの敬愛が大きく損なわれることになる。
バイロンは死んだ仲間の体を切り落として食べるようになった者がいることを記しており、それを「絶体絶命の窮地」と書き記している。
6 反逆と2つの選択肢
にわかに、一行に救いの光が見えてきた。船匠長のカミンズとチープ艦長が、沈没したロングボードを引き揚げて方舟に改造して、脱出計画を練り始めたのだ。
今や前哨基地は2つの敵対勢力に分裂していた。一方は、チープと少数だが彼に忠誠を尽くす幹部たち。もう一方は、バルクリーと彼の支持者たちだ。チープ陣営とバルクリー陣営は脱出航路について真っ二つに割れた。チープ陣営はウェイジャー島を北上しチロエ島を目指しつつ、食料を満載した貿易船を拿捕するルート。バルクリー陣営はウェイジャー島を南下しマゼラン海峡を抜け、その後北上しブラジルを目指すルートだ。
両陣営の溝は決定的になり、お互いに難破船から武器を引き揚げ、自分たちの宿舎に保管した。両陣営はどちらも陰謀とその対抗策を巡らし、秘密の会合を開き、軍事演習をおこなって互いを牽制し合った。
10月9日、バルクリーと共謀者たちは武装集団を編成し、チープを拘束した。バルクリーは言った。「身から出た錆です。あなたは、みなの利益をまるで顧みなかった。……それどころか、真逆のことをしてきた。つまり、あなたはみなの利益に無頓着で無関心だった。我々にとっては、指揮官がいないも同然だったんです」
難破してから5ヶ月後の1741年10月14日、バルクリーたち一行は3艘の小型艇に乗り込み、マゼラン海峡を目指して出帆した。
その2ヶ月後の12月15日、チープたち残留組がバージ艇とヨール艇にわずかばかりの物資を積み込み、チロエ島を目指して出帆した(だが、岬が超えられず再びウェイジャー島に戻っている)。
7 救出
1742年1月28日、バルクリー一行はリオ・グランデ港に到着した。一行は3ヶ月半をかけ、約3000マイルを航海し、安全なブラジルにたどり着いたのだ。ウェイジャー島を出るときに81人いた仲間は、29人にまで減っていった。
バルクリーが宿舎にいると、男たちの一団がやってきた。探しているのはバルクリーの日誌だった。ウェイジャー島での出来事をその都度記録していたのはバルクリーただ一人だった。そのため、キングとその一派は、チープ艦長をお払い箱にした際に自分たちが取った行動がその日誌から明るみに出るのではないかと恐れていたらしい。キングたちは、やっと漂着したのにふたたび命の危険にさらされていると考えたのだ。
ブラジルのある役人は、「幾多の苦難や困難を乗り越えてきた人々が、思いやりをもって協調し合えない」とは腑に落ちないと語っている。ウェイジャー島で解き放たれた力は、パンドラの箱の中に入っていた憎悪の類いだった。ひとたび解き放たれると、封じ込めることはできないのだ。
1942年3月、副艦長でありチープ艦長を裏切ったベインズは、英国に向かう船に乗って逃亡する。他の者より先に英国に戻り、真っ先に自分の主張を世の中に訴えようとしたのだ。それから遅れること数カ月、バルクリーとカミンズはようやく別の船に乗り帰国の途に就く。途中でポルトガルに寄港すると、その港で、すでにベインズがおおっぴらにバルクリーたちを非難していると何人かの英国商人から聞かされた。「そこにいる同胞数人から、反逆罪で死刑に処される恐れがあるので国には帰るなと助言された」とバルクリーは記している。
1743年1月1日、バルクリーたちはポーツマス港に到着したが、2人は海軍に船から離れることを禁じられた。ベインズはすでに海軍本部に書面を提出し、その中で、バルクリーとカミンズ率いる反乱分子たちがチープの権限を奪い、縛り上げ、ウェイジャー島に置き去りにしたと主張していた。そのため、海軍本部は軍報会議が開かれるまで2人を拘束して監視下に置くよう命じる。これに対して、バルクリーは自分の日誌と島で起草した文書類を裁判の証拠として提出した。海軍は「チープに正式に死亡宣告がなされるまでは取り調べを延期することにする」と決定し、2人を一時釈放した。
釈放された後もバルクリーは抜け目なかった。民衆を自分の味方につけるべく、航海日誌を出版したのだ。これを読んだ海軍本部や貴族からは「指揮官を貶めた」と非難が届くこともあったが、歴史家と大衆は、バルクリーの航海を高く評価した。
それから2年近くを経た1746年3月のある日、ドーバーの港に1隻の船が到着する。中にいたのは、チープ艦長ほか2名だった。彼らはウェイジャー島に戻ってから数日後、パタゴニアの先住民たちと出会い、彼らの手助けによってチロエ島へとたどり着いた。そこでスペインの捕虜となり、2年と半年後、4人は帰国を許可されたのだった。
じきに50歳になろうとしていたチープは長い捕虜生活の間、悲惨な出来事、つまりバルクリーたちの自分に対するむごい仕打ちをことごとく思い返していたようである。ところが、そのジョン・バルクリーは今度はこともあろうに出版した本の中で、自分を無能な人殺しの指揮官だと非難しているのだ。その告発は、チープの軍歴のみならず人生まで終わりにしかねないものだった。チープは海軍本部のある役人に手紙を書き、バルクリーとその仲間は嘘つきだと非難した。「きわめて人間味のないやり方で我々を見棄て、我々の役に立つかもしれないと考えたものを出発時にことごとく破壊していったのに、……そんな卑怯者たちに何が見込めるというのでしょう」
チープは、自分の側の言い分を伝えようと躍起になった。それでも、バルクリーに対抗して本を出版するような真似はしなかった。代わりに、自分の証言を、そして怒りを、軍法会議というより決定的な場に取っておくことにした。
8 軍法会議
ウェイジャー号の全乗組員を相手取り海軍本部が起こした裁判は、どう見ても乗組員側が不利だった。見逃せるような違反でではなく、最高位の指揮官から一般の乗組員に至る海軍の秩序を根底から覆したことに対する罪で告発されていたからだ。そのため一人一人が自分の行動を正当化する物語を紡ごうとしたが、軍法会議という法制度は、そうした物語から虚飾をそぎ落とし、感情の欠片も含まない素のままの紛れもない事実をあぶり出す仕組みになっていた。
かつての漂流者たちの証言はどれも、その核心にある種の疑う余地のない事実を包含していた。バルクリーとベインズたち一団が艦長を縛り上げたことや島に置き去りにしたこと、さらには、チープが一切の法的手続きも取らず警告もせずに丸腰の男を射殺したことについては、どちらの側も反論しなかった。事実だったからだ。
被告となった者の多くが、身の潔白を証明するために供述調書を書いていたが、その内容は明らかな意図的省略だらけだった。チープは報告書で、カズンズの射殺を一度もはっきりとは認めていない。
口論が「極端な事態」を招いたとだけ記している。一方、バルクリーは日誌に、島にチープを置き去りにしたことはチープの意向に忠実に従ったことであるかのように記している。
さらに悪いことに、遠征中に被告たちが記した法的文書の多くに罪の意識が表れていた。それらを記した者たちは軍規を熟知し、自分たちが何をしているかきちんと自覚していたため、違反行為がなされる度に、処罰をまぬかれようと出来事の経緯を記録に残していたのだ。
軍法会議は全会一致の評決に達していた。議長が読み上げた。「デイヴィッド・チープ艦長は、自らの職務を果たし、持てるあらゆる手段を用いて自らの指揮下にある陛下の艦船ウェイジャー号を守ろうと手を尽くした」ものと認めるという内容だった。他の士官や乗組員も全員が、この件に関しては無罪を言い渡された。例外はベインズだったが、ベインズも譴責を受けただけだった。
それ以上の審理は行われなかった。チープが殺人罪に問われることも、バルクリーとその仲間が反乱罪や艦長の殺害未遂に問われることもなく、ウェイジャー号事件は決着した。
この裁判の舞台裏で何があったかを確かめることはできないが、この事件をなかったことにしたい理由が海軍本部にあったことは確かだ。略奪や窃盗、鞭打ちや殺人など、この島で明らかに起こったことを洗い出して文書化することは、大英帝国が他民族の支配を正当化するための核となる主張を覆すことになるからだ。すなわち、大英帝国の軍事力、つまり文明は本質的に優れているという主張である。したがって、士官たちは野蛮人ではなくジェントルマンなのである。
大帝国は自ら語る物語によって権力を維持するものだが、それと同じくらい重要なのは、帝国が語らない物語なのである。帝国がそのページを破り取り、押し付ける邪悪な沈黙の部分が存在する。人々が自分の利益にかなうように物語を紡ぐように、つまり物語を書き替え、消去し、脚色するように、国家というものも同じことをする。結局のところ、ウェイジャー号の災難は苦難続きのおぞましい物語であり、死と破壊の物語であったが、大英帝国が最後に紡ぎ出したのは「自らの神話」というべき海の物語だった。
かくして、ウェイジャー号の反乱は「決して起こらなかった反乱」となり、闇に葬られたのだった。続きを読む投稿日:2024.06.05
本書執筆のきっかけは、280年ほど前の古びた航海日誌のデジタルコピーを目にして、著者が内容の凄まじさに興味を引かれたからだという。そこで、英国の国立公文書館で一次資料を閲覧すると、乗務員リストの脇に「…死亡除隊」とある人数の多さに驚き、その意味を解き明かすことにした。著者はアメリカのジャーナリスト。
1740年9月、英国軍艦ウェイジャー号は、財宝を積んだスペインのガレオン船(帆船の種類)の拿捕という密命を帯び、小艦隊の一隻としてポーツマス港を出港。南米大陸の南端・ホーン岬を回り太平洋へ向かう計画だった。季節は3月、秋から冬に向かう頃の南緯50度を超える海は過酷を極め、艦隊から離れてしまったウェイジャー号。何とか岬を回り、太平洋を北上するも、チリの南西に位置する島に座礁、そこはウェイジャー島と呼ばれることに。そして、発疹チフスや壊血病で命を落とす者もあり、250人いた乗組員は145人に減っていた。
パタゴニアの先住民に遭遇し、食料を提供されたが、ほどなく見棄てられてしまう。島でのサバイバルで、さらに人数が減り、3つのグループに分裂。それぞれから数名ずつが、数年後に英国に戻ることに成功。当時の軍規は絶対で、どうやって自分たちの行いを正当化し、規律を破ることなく行動したか、それぞれが主張することに。
日本では徳川吉宗が八大将軍を務めていた時代。生き延びた数名が残した日誌や手記を集め、一冊にまとめた著者の調査力が評価されている。歴史は、政治や記した人物の属する派閥などで、すべてが事実ではないことや、都合の悪いことが省かれていたりするのは常。中には脚色されたものも混じったという。
続きを読む投稿日:2024.06.01
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