ラジオと戦争 放送人たちの「報国」
大森淳郎(著)
,NHK放送文化研究所(編)
/NHK出版
作品情報
1925 年に登場し、瞬く間に時代の寵児となったラジオ。そのラジオ放送に携わった人々は、ラジオの成長と軌を一にするかのように拡大した「戦争」をどう捉え、どう報じたのか、あるいは報じなかったのか。また、どう自らを鼓舞し、あるいは納得させてきたのか。そして敗戦後はどう変わり、あるいは変わらなかったのか――。
上記をテーマに、NHK放送文化研究所の月刊誌「放送研究と調査」は、2017 年8 月号~21 年12 月号で、5 年にわたり「戦争とラジオ」を掲載した。その連載を単行本化したものが本書である。筆者の大森淳郎はNHKのドキュメンタリー番組のディレクターとして、戦争中のラジオについても長年取材を続けたのち、2016年~22年12月まで同研究所の特任研究員を務めた。
本書では、記者・ディレクター・アナウンサー・・・といった「放送人」たちが遺した証言と記録、NHKにある稀少な音源・資料などを渉猟し、丁寧にたどり、検証しながら、自省と内省の視点を欠くことなく多面的に「戦争とラジオ」の関係を追う。
ひいては、非常時において、メディアに携わる者がどのように思考・模索し、振る舞うべきなのかをも照射したノンフィクション。
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商品情報
- シリーズ
- ラジオと戦争 放送人たちの「報国」
- 著者
- 大森淳郎, NHK放送文化研究所
- ジャンル
- 教養 - ノンフィクション・ドキュメンタリー
- 出版社
- NHK出版
- 書籍発売日
- 2023.06.26
- Reader Store発売日
- 2023.07.07
- ファイルサイズ
- 20.7MB
- ページ数
- 576ページ
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この作品のレビュー
平均 4.5 (5件のレビュー)
-
戦時中に仕事としてラジオ放送に関わった当事者が、自分達の見聞きした事を後世に伝えたいと思ってもその立場や経験の違いから話せる人と話せない人がいるだろう。なにより死者は伝えたくてもできない。戦時中、“伝…える”を仕事にしていた人達の仕事内容、のちにNHKとなる組織のなりたちを時系列に沿って検証し、当事者に取材した貴重な証言の数々はこれまで映画や小説から受けていた検閲の印象とは違いとても興味深い。当初は分厚さに怯んだが(資料等は適宜読み飛ばしつつ)初めて知る事、当時ラジオ放送が果たした役割の大きさに驚き、AMラジオが今年2月から順次廃止されるという時期、しかもチャーチル評伝の次に図書館リクエストの順番が回ってきたという偶然の巡り合わせも感慨深い。続きを読む
投稿日:2024.02.19
このレビューはネタバレを含みます
ラジオと戦争
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放送人たちの「報国」
著者:大森淳郎、NHK放送文化研究所
発行:2023年6月25日
NHK出版
初出:月刊『放送研究と調査』(NHK文化研究所) ①2017年8月号&9月号 ②同1…2月号&2018年1月号 ③2018年8月号 ④2019年1月号&2月号 ⑤同11月号&12月号 ⑥2020年8月号&9月号 ⑦2021年3月号 ⑧同11月号&12月号(全8章)
600ページ近くある、大論文でもあるが、第6章に核があるかもしれない。それは、それまでなかったアナウンサー理論の確立について。放送が始まってから、綺麗であることなどしかなかったアナウンサーのニュース読み。どうしたら伝わるか、最初に生まれたのは「淡々調」であり、それはBK(大阪放送局)から生まれたものだった。AKの幹部たちは反発したが、現場では受け入れられ、全国的に「淡々調」が主流になった。もちろん、それは今も同じ。だが、太平洋戦争が始まると、絶叫に近い「雄叫び調」になっていく。NHKのお昼のニュースが、北朝鮮のような放送になっていったイメージかもしれない。詳細は、下記、第6章にて。
******
日本の放送事業は、1925(大正14)年に、社団法人東京放送局、同大阪放送局、同名古屋放送局の三局によりスタートした。最初から無線電信法で「政府之ヲ管掌ス」とされ、逓信省の指導・検閲下にあったが、翌1926年にこの三局を廃止して社団法人日本放送協会が創立されると、上層部は逓信省出身者で占められることになり、1931年に勃発した満州事変以降の軍と政府による強い締め付けへとつながる体制が整う。やがて、戦時下のラジオ放送を通じ、国民を戦争に動員していった大罪へと進んでいく。
国のためにする仕事という位置づけでスタートしたのであるため、放送人たちの職業人としての本能は、報国、つまりお国のための方向に向くのであるが、しかし、それは単純にお上から来る情報を垂れ流すということにはならない。そこには職業人としての〝頑張り〟があり、工夫があるのである。ただし、それが向く方向は客観的な報道や社会正義というのではなく、あくまで国の役に立つという方向である。もっとお国のために役立てないか、である。
ニュースは当初、複数の新聞社や通信社が放送用のニュース原稿を書き、逓信省の検閲を経て、アナウンサーが一言一句ゆるがせにせず読み上げてきた。しかし、1930年11月にNHKがニュースの編集を行うようになってからは、「放送局編集ニュースを申しあげます」と前置きされてから、独自に編集されたニュースが読めるようになった。この変化は、時事新報社出身の関東支部放送部長の奔走によるものだった。
第1章「国策的効果をさらにあげよ」
その辺りを、具体例をあげながら振り返っている。回ってきた原稿をこう変えて、より国策ニュースを強調できた、という具合に頑張った。やがてそれまで行われていなかったNHKによる直接取材への動きが出てくる様子も。1941年に発行された「放送」での記事で、官庁への直接取材の必要性を主張している。
第2章「前線と銃後を結べ」
後のテレビを含めたドキュメンタリー番組の源流となる、「録音構成」番組の誕生について紹介している。取材し、録音してきた音声を組み合わせて番組にしていくスタイルである。今日ではごく普通のことだが、その誕生ではいろいろな試行錯誤があったこともわかる。ノウハウの一つとして「糞リアリズム」という考え方が出てくる点が注目だった。リアルであればいいというものではない。ラジオはイマジネーションの媒体であり、なんでも描写すればいいというものではないし、それは映像メディアについても同じことが言えるのである。
戦時下において、戦争に関わる録音構成番組は避けられる傾向もあり、農村の暮らしのようなテーマの番組が増えていった。しかし、逆に戦意を高揚する番組も誕生し、レコード化されて宣伝に使われてもいった。
第3章「踏みにじられた声」
1926年に東京、大阪、名古屋(AK,BK,CK)が統合され、日本放送協会になったタイミングで、幹部を逓信省出身者が占め、国家による掌握体制を固めていく様子が紹介されている。そこに浮き出てくる名前が、田村謙治郎という逓信官僚である。彼には、官僚の肩書きとは別に、右翼イデオローグとしての顔があり、「日本精神読本」「日本主義経済学 ユダヤ主義経済の排撃」などの著書にそれが見える。ここにラジオは、近衛文麿が戦時体制への全面協力を求めて展開した「国民精神総動員運動」を支える強力な武器となっていく。
では、なぜラジオを国営にしなかったのか。素朴な疑問も残る。それは、形式上は「民衆の機関」であるかのように見せかけた方が、「放送に依り達成せんとする効果」が高まると考えていたからだった。
第4章「日本放送協会教養部・インテリたちの蹉跌」
ある2人に焦点を当て、NHKで国策にどう浸かっていったかを紹介している。1人は詩人・多田不二(ふじ)、もう1人は教育学者・西本三十二(みとじ、奈良女子高等師範学校教授)。2人とも戦争に否定的な立場を取っていたが、NHKに入局して教養番組を担当し、牽引した。そして、戦時下において見事なまでに右旋回していったのである。彼らになにがあったのか?
タゴールに影響を受けた多田は、新進気鋭の詩人だった29歳のとき、「世界の一点に立って」という詩の締めくくりをこうしている。
愛国心を殺戮の事実によって何故証明しようとするのか
国家的虚栄の奴隷に満足する人々よ
私は 人間の最終の平和は決してあなた方の考へてるやうな仮想された勝利ではあるまいと思う
ところが、20年後の1943年、日本放送協会の講演部長となっていた彼は、次のように主張している。
しかしながら講演放送の狙いは精神の休養ではなくして精神の緊張であり、鼓舞であり、鞭撻である。国民に内外の容易ならぬ情勢を深く認識せしめ、心から国策協力に邁進させ、勇躍国難に赴かしめることこそ講演放送究極の目的である。 (中略) 一億国民の精神的団結を計り、長期の総力戦を遂行させるのが講演放送の使命でなければならぬと思う。
西本は、教授時代の1930年、BKの「婦人講座」という定時番組で「婦人と世界平和」という演題で話す予定だったが、放送中止になった。事前に提出していた梗概を事前検閲した大阪逓信局から、「わが国古来の武士道大和魂のごとき国粋的精神に反し、道徳を混乱するがごとき、戦争そのものを罪悪視する」との批判が入り、中止処分を食らった。西本は戦勝国、敗戦国を問わず最も苦しむのは「花々しく戦場の露と消えゆく男性」よりも夫や子供を失う女性であり、だからこそ平和建設のために女性が果たすべき役割は大きい、という主旨を書いていた。
西本はBKから入局の誘いを受けたが、その気はなかった。ところが、AK(東京)ではなくBKならではの国民学校放送をすると熱心な誘いを受け、一定の地位を与えられて入局した。しかし、その後、NHKは内部再編によりAKの力が増し、AK主体となってその約束も埋もれていく。
多田も西本も組織の中で国策に協力し、完全にそちら側の人になっていったが、辞めた後は以前のような考えにもどっていった。
第5章「慰安と指導」
慰安番組、今でいう娯楽番組。ここにも戦争の影が重くのしかかってきた。奥屋熊郎(くまお)という「放送人」を通じてその様子を紹介する。彼は、三重県の農家に生まれたが、破産し、中学(現在の県立上野高校)を中退し、一家で神戸へ。新聞社で記者を経験し、1926年1月に(8月の統合前の)社団法人大阪放送局に入る。31歳。多田や西本のような考え方と違い、反戦や非戦を声高に訴えたことはなく、著者は「普通の愛国者」だとしている。しかし、ファナティックな国粋主義・軍国主義には背を向けた。
「みんなのうた」のルーツとも言われる番組「国民歌謡」を開発。「物語」「詩の朗読」「ミュウジカル・ドラマ」「ラヂオ・スケッチ」など多くの番組を開発し、「ラジオ体操」を初めて放送したのも彼だった。日本の野球中継は、1927年8月13日に、全国中等学校優勝野球大会(現在の高校野球)をBKが甲子園から中継したことに始まる。AKが一高と三高を神宮から中継した日より11日早かった。その甲子園からの中継にも、奥屋の名が見える。
奥屋は、「規律ある運動の習慣」をつくり「心身を爽快に」するためにラジオ体操を考案したとも言っている。そんな言葉が並ぶと、国民を一方向に束ねて戦時体制に動員する上で一役買っているように響くが、彼はそうではなかった。純粋に「心身を爽快に」するためだった。同じ発想で「国民歌謡」や「詩の朗読」も開発した。
1934年5月、BKをはじめとする地方中核放送局は、それまでの独立性を失い、協会中枢の下部組織として再編されることになった。改革を主導したのは、あの逓信省・田村謙治郎だった。その中で、BKを拠点に独創的な番組を発信し続ける奥屋は押さえつけられていった。田村はラジオの「指導性」の確立を目指し、奥屋の大衆の文化・芸術の水準を高めることがラジオの指導性だという考えとはあわなかった。
奥屋は、岡田嘉子を使って「物語」や「詩の朗読」を制作していった。
1943年7月、日本放送協会を依願退職し、常務取締役として日本放送出版協会に移った。
第6章「国策の「宣伝者」として」
興味深い「アナウンサー理論」の確立について分かる。
1931年にBKに6人のアナウンサーが入るまで、BKにはアナウンサー理論がなかった(恐らくAKにもなかったのだろう)。従来のアナの条件は、声がきれい、マイクにのる、よく喋る、語彙が豊富といった外形的なことにとらわれ、アナウンスとはなにかを考えていなかった。しかし、1931年の研修では、横山重遠(アナウンサーではない)が改革的なアナウンス研修を行った。
聴いていて快いアナウンスではなく、ニュースが理解できたかどうかが肝腎。「今のアナウンス、うまかったなあ」と思うようではだめで、明日は雨か晴れかが聴いた人の頭に残らないとだめ。アナウンスがあったかなかったか、そんなことはどうでもいい。寝転んで聴いている人に、明日は雨だと分からせないとだめ。
それが大阪で生まれた「淡々調」というアナウンス理論だった。BKのアナたちは、これを引っさげ、1932年2月に開催された全国のアナウンサーが一堂に会する「アナウンサー打ち合わせ会」に参加し、主張した。しかし、AK(東京)全体のアナウンサーは、これをアナウンサーの機械化、ロボット化だと解釈してしまい、大いに反対した。AK業務課長の國米藤吉は、アナウンサーはまず良き人格を持ち、それに裏打ちされたアナウンスが必要だと強く主張した。のちに、歌人で国語学者の土岐善麿など文化人たちも、感情を殺しすぎだと批判した。
ところが、この新しい大阪で生まれた「淡々調」は東京で浸透していき、アナウンサーから支持され、1941年に完成する教科書「アナウンス読本」で「話しかけ調」と呼ばれる理論とされ、10年の実践で標準となっていった。
1937年に日中戦争が始まると、変化の芽が出始める。そして、1941年12月8日の太平洋戦争開戦。それを伝える、館野守男アナウンサーによる臨時ニュース。
「臨時ニュースを申しあげます。臨時ニュースを申しあげます。
大本営陸海軍部、12月8午前6時発表。帝国陸海軍は、本8日未明、西太平洋において、アメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。・・・」
これはまさに、雄叫びであり、以後、NHKは「淡々調」から「雄叫び調」へとアナウンスが変わることになる。
ところが著者は、この臨時ニュースが「雄叫び調」の始まりであり、だれに教えられたわけでもなく、自然にそういう読み方になった、とされているのは〝伝説〟に過ぎないと主張する。その前に、軍からの働きかけがあり、淡々調より雄叫び調がいいという論争もあった。そして、そういう意図的な変化を隠すためには、伝説を作り上げる必要があったのだとしている。
当時、淡々調にしても、同じく国策をより強く伝えるために行っているものだった。雄叫びより淡々の方が、より伝わるとの理論である。ところが、軍の圧力が強くなる中、淡々調でニュースを読んでいると、あのアナウンサーは敗戦主義者ではないかと言われる可能性があり、それが恐くて雄叫び調になっていったという。それでNHKを辞めることになれば、職を失うだけで済まない。家族にまで影響が及ぶ時代だったのだ。
第7章「敗戦への道」
1940年代、戦局が悪化の一途をたどる中、東條英機内閣の閣議決定「戦時国民思想確立に関する基本方策要綱」(1943)に即するように、日本放送協会も、戦局悪化で国民の気持ちが暗く、焦るようにならないよう、放送は国民の慰安娯楽の機関として、国民を明るく引き立てるものと位置づけ始めた。それまでは放送を「国策の周知徹底、国論の統一、国民精神の昂揚という大目標に向かってその全機能を発揮するべき政治機関」と位置づけてきたのに、今度は「国民の慰安娯楽機関」としたのである。
戦局悪化を物語る大本営発表の放送は、歌や浪曲などの娯楽番組とセットのような形で流すなどした。また、どこかが玉砕されたことを伝える際も、その玉砕は最初から予想がついていたことであり、あっさり玉砕されずに小さな戦力で大軍に抵抗したのだから、相手に相当なダメージを与えたに違いない、というような屁理屈まで繰り出すなどした。
軍や政府からの情報を垂れ流すだけのラジオは、すでに大衆から見放され始めていたが、それでもなお、国民を本土決戦へと導こうとした。
著者がこの章で最も力を入れたかった内容は、一般的に1945年8月15日の玉音放送からラジオは変わったと言われているが、そうではないという点であろう。著者は証拠をあげて、玉音放送以降も変わらなかったことを証明している。それは、国から言われていやおうなく日本放送協会がそうしていたのではなく、日本放送協会自身の意志でそういう放送を戦時下でもずっと行ってきたという証左でもある。
玉音放送の後、いろいろニュースが続いた。その中で「畏くも平和再建の詔書が渙発されました」というリードで始まるニュースに著者は注目している。こんな内容を伝えている。
国体護持の最後の一線は確保されたとはいえ、我々の力足らずしてここに至ったのであります。しかし、この悲痛な事実を招いたのは今や何れの人の責(せめ)にも帰すべきではありません。 (中略) 国民一人一人は強い自責の念以て、この現実を直視し、おおらかな心もて傷つける戦友をいたわり、深い友愛心もて相共に扶(たす)け導き、もってこの国家民族最大の苦難を打開しなくてはなりません。
なんと、戦争に負けたのは国民一人一人の頑張りが足りなかったからだ、と言っているわけである。そこに天皇の責任など欠片も登場せず、天皇を据えた国体護持の最後の一線を確保されたことをまず喜んでいるわけである。これを玉音放送が終わってからも放送しているのである。
第8章「敗戦とラジオ」
GHQ内の組織CIE(民間情報教育局)がコントロールするようになると、NHKも一転する。
CIEが全10回を制作して放送した「真相はこうだ」という番組は、これまで日本で隠されてきた戦争の「真相」を明かしていく内容で、戦争犯罪人として東條英機や山下奉文の名前をズバリ言ったり、南満州鉄道爆破事件は中国軍による破壊工作というのは嘘で、日本軍の自作自演だったことを明かしたり、文字通り真相を明かしていく対話形式(ドラマ的演出)の番組だった。CIEはこれをレコード化して、全国の小中学校などに配る予定だったが、中止となった。理由は、NHKに対する苦情が激しかったため。中にはNHKに爆弾をしかけてやる、などの過激なものも。それまで信じてきたこととのギャップがあまりに大きく、受け入れられなかったのである。
CIEがラジオという強力な武器を使ってしようとしたことは、民主化とはどういうことかを国民に教え込むこと。それは、真実を伝えることである、ということだった。ただ、事前の検閲において原爆投下に触れる内容などは厳しくチェックされ、カットされた。アンビバレント。真実を覆い隠す、矛盾を抱えた「民主化」となっていた。さらに、冷戦状態が進み、1950年に朝鮮戦争が始まると、言論の自由は益々制限され、職員も199人がレッドパージで職を失った。
玉音放送後も天皇を頂点とする〝国体護持〟の姿勢で放送を続け、GHQ下になるとコロリと戦争犯罪を断罪し、GHQの方針が変わると易々と方向転換。しかも、自主的に「放送規準」を設ける有様。著者は、NHKのそのような上層部を厳しく批判している。
こんなエピソードが紹介されていた。
あるアナウンサーが原爆のことを書いた箇所に線が引かれて削除された原稿をマイクの前で読んだ。読み進んで線で消された箇所にくると、その2行か3行分、声を出さずにじっと黙っていた。その時間が過ぎたらまた読み出す。そんな抵抗をした。それを覚えていた職員は「あっぱれでした」と賞賛している。
女性が解放され、声を出し始めたきっかけはラジオだったというエピソードも印象的だった。熊本でディレクターを1946年から始めた河上洋子は、地方でも「婦人の時間」みたいな番組を作ってくれとGHQから言われた。女性に話を聞く番組であるが、最初は工場で働く共産党の女性に聞いた。そうではなく、普通の奥さんに聞けという。民主化の基本は話すことだとGHQから言われた。しかし、当時、熊本の普通の女性というのは90%が農家の人。農家の主婦は何も話さない。そういう人たちにマイクを向け、話しを聞く。それまで話さない女性が、発言するようになっていったのは、まさにラジオがきっかけだったという。
日本で最初の放送ストライキは1946年10月5日から25日まで行われた。きっかけは読売新聞の労働争議で、労働組合が握っていた編集の実権を、経営側が巻き返しを図って取り戻そうとした。こじれてストライキに。新聞通信放送労働組合は読売労組を全面支援し、ゼネストを宣言した。ところが、スト突入前夜に、朝日新聞労組が不参加を決定。すると、毎日、東京、日経、共同通信なども次々と脱落。梯子を外された。しかし、NHKは降りずに放送が止まった。
その年の5月、CIE局長と新聞課長が、進歩的な2人から、別の人物に代わっていた。占領政策の転換による人事異動だった。その一人、ダニエル・インボデンは、読売新聞、北海道新聞などの経営陣に対して、急進的な民主化勢力の一掃を勧告していた。ストライキは敗北に終わった。
1950年7月28日、朝鮮戦争が始まって約1ヶ月後、報道部の堤園子は廊下に出た。なんだか騒がしかった。すると、壁に名前が貼りだしてあり、進駐軍の命により解雇するという内容が書かれていた。堤の名前もあった。レッドパージ。えっと思って労組に相談に行こうとすると、もう第一組合員同士が連絡できないようにガードされていた。課長が来て、即刻ここ放送会館から出て行かなければならない、私物をまとめるようにと言う。横で立って待っている。私物をまとめると課長が会館の玄関までついてきて「はい、出なさい」。今月いっぱいでクビだとかじゃない。あしたから来なくていいでもない。すぐに出て行け、だった。続きを読む投稿日:2024.05.10
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