この作品のレビュー
平均 5.0 (1件のレビュー)
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理系出身の小説家って昔から珍しいけど、昔だと森鴎外なのかな。現代では森博嗣だよね。理系の本業がありつつ、小説を書いてるって所も同じだし、偶然にも苗字も同じ。
新千円札の北里柴三郎は軍人に…なりたくて明治維新の時代の変化で軍人になれないことが分かって泣く泣く医学の道に進んだらしい。それでも医学の世界で世界初の破傷風菌培養に成功したり、慶応大学医学部を創設したりしたから、何をやるかとかは実はほぼ何でもいいんだろうなと思った。親のせいで医者になれなかったって死ぬまで親を恨んでやるって言ってた人いたけど、人は何をやるかが重要ではないと思うんだよね。もしその人が優秀ならどの分野に行っても人の役に立つし色んな人に感謝されて画期的な発明をすると思う。そいつは仮に医者になってもなんでも人のせいにするしょうもない医者だと思う。
石崎洋司
(いしざき ひろし、1958年 - )は、東京都出身の児童文学作家。児童文学以外にもヤングアダルト、SFなどの作品を書いている。慶應義塾大学経済学部を卒業後、出版社勤務を経て、1992年に『ハデル聖戦記』でデビュー。2009年1月、日本YA作家クラブを金原瑞人、梨屋アリエ、令丈ヒロ子とともに発足させた。講談社の青い鳥文庫を主な活動の場としており、『黒魔女さんが通る!!』シリーズは読者からの公募キャラクターを登場させるなどの試みで人気作となっている。その他、2009年から2年間にわたって公募ガイドに児童向け文学作品の創作講座を連載していた。2012年、『世界の果ての魔女学校』で第50回野間児童文芸賞、2013年、第37回日本児童文芸家協会賞受賞。2023年、『「オードリー・タン」の誕生』で第70回産経児童出版文化賞JR賞受賞。
北里柴三郎
(1853年1月29日 〜 1931年6月13日)出身地熊本県。職業・身分学者(自然科学) 、 医師・薬剤師等。細菌学者。庄屋の長男に生まれ、熊本医学校、東京大学医学部を卒業後、内務省衛生局に勤務。ドイツに留学し、明治19(1886)年よりコッホに師事、22年に世界初の破傷風菌培養に成功した。24年医学博士となり、25年帰国後は伝染病研究所長を務めた。研究所の文部省移管に反対して辞職、大正4(1915)年北里研究所を設立し、6年には慶応義塾大学医学科創設に尽力した。
コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルト
(1832―1912)オランダ海軍軍医。退任後上海(シャンハイ)で病院経営にあたっていたが、長崎精得館(せいとくかん)(長崎養生所を改称。のち長崎医学校)でのボードインの後任として、1866年(慶応2)長崎へきた。明治維新にあたり、荒廃した精得館の学制改革に長与専斎(ながよせんさい)とともに尽力した。1871年(明治4)熊本古城(ふるしろ)の治療所(のち熊本医学校)へ招かれ、新旧勢力の激突する熊本で、峻厳(しゅんげん)・精励の教師として知られた。そのときの学生に緒方正規(おがたまさのり)、浜田玄達(はまだげんたつ)(1855―1915)、北里柴三郎(きたさとしばさぶろう)らがいる。いったん帰国したが、内務省衛生局長となっていた長与専斎の招きで再来日し、京都府療病院(1876~1877)、府立大阪医学校(1877~1879)へ勤務したが、京都ではドイツ語での教授を要求されるなど、時流の転変のなかで1879年、14年間の日本滞在を終えた。
ロベルト・コッホ
(Heinrich Hermann Robert Koch、1843年12月11日生-1910年5月27日没)はドイツの医師であり、細菌学者です。 彼は炭疽菌、結核菌、コレラ菌の発見者であり、菌の純培養や染色法を確立するなど、現在の細菌検査法の基礎を築きました。
レフレル
[生]1852.6.24. フランクフルトアンデルオーデル[没]1915.4.9. ベルリン。ドイツの細菌学者。ウュルツブルク大学の医学部在学中に普仏戦争に参戦し (1870~71) ,74年にフリードリヒ=ウィルヘルム大学で学位取得。しばらく軍医になったが,1879~84年国立衛生研究所に勤務し,R.コッホの助手として働いた。 88年,グライフスワルト大学の衛生学の教授となり,1913年ロベルト・コッホ伝染病研究所所長。 84年 E.クレープスとともにジフテリアの病原菌 Corynebacterium diphtheriaeを発見した。また馬鼻疽菌 Pfeifferella mallei (82) ,ブタの丹毒菌 (82) ,ブタのペスト菌 (85) ,マウスのチフス菌 (91) などを発見した。さらにウシの口蹄疫がウイルスによることを発見。これは動物の病気がウイルスに起因することを記載した最初であり,同病に有効な血清の発見などにつながっていった。
コレラ・・・世界に広く分布する細菌性の感染症です。 数多くのコレラ菌のうち、コレラ毒素を産生するO1血清型とO139血清型のコレラ菌が、ヒトに感染することが知られています。 O1血清型はさらに古典型とエルトール型に分類されます。 エルトール型に感染した場合、多くは無症状か、あるいは軽微な症状で治癒します。
「わかりました。柴三郎、きちんと学問を修めることができるまでは、この屋敷にもどりません。それでは、父上、母上、行ってまいります」 柴三郎が、すなおに家を出ていったのは、「人の上下関係」を重んじる儒学は、武士ならば、必ず学ばなければならない学問だからです。(おれは武士になりたい。だから四書五経もきちんと習うぞ) 両親から聞いたとおり、橋本家での日々は、八歳の男の子にはきびしいものでした。 毎朝、むずかしい儒学の本を、ひたすら音読します。やっとそれが終わったかと思えば、こんどは屋敷のそうじです。
柴三郎は、もういちど縁側をぞうきんでふきました。(こんどこそ、いいだろう) 遊びに行こうと立ちあがると、また伯母に呼びとめられました。「まだまだ磨けるはずですよ」 さすがの柴三郎もむっとしました。(くっそう! だったら、ひとことも文句がいえないぐらい、ぴかぴかにしてやる!) 柴三郎はムキになって、縁側をごしごし、ごしごし、ぞうきんでふきました。するとどうでしょう、いつのまにか縁側がてかてかと光りはじめたではありませんか。(へえ。いやなことでも、真剣にやると、おもしろくなってくるんだな)
江戸時代の中ごろに開かれた時習館は、儒学と同時に、数学や音楽、さらに剣術や馬術、砲術まで、武士に必要な教育を総合的に行う学校として、全国でも指折りの藩校として有名でした。熊本藩が学問的に最先端の藩のひとつといわれたのも、時習館のおかげで庄屋の長男として、いずれは北里家を継いでもらわなければなりません。けれども、柴三郎が学問好きで、また成績もとてもいいこともわかっていました。「時代が大きく変わりつつあるいま、学問はますます必要になるだろう。よろしい、ぜひ時習館で学んできなさい」柴三郎は、さっそく入学試験を受けました。そして、みごとに合格。こうして、一八六九年(明治二年)の十二月、三度、家を出ると、時習館の寮生になりました。 時習館での授業は、期待通り、すばらしいものでした。そのなかで、柴三郎が特に力を入れたのはオランダ語です。(武士の時代は終わった。これからは西洋式の軍隊の時代だ。外国の砲術や兵法を学ぶために、外国語を身につけて、おれはりっぱな軍人になる!) ようやくやりたい勉強ができるようになったのですから、毎日が、楽しくてしかたありませんでした。
明治維新によって、武士の時代は終わりましたが、それはすなわち、藩がなくなるということでもありました。 藩を廃止して県を置く=廃藩置県という政策です。熊本藩も熊本県になりました。 そして、藩がなくなれば、藩校もなくなるというわけです。(せっかくオランダ語もかなり使えるようになったところだったのに……) 柴三郎はくやしがりましたが、学校がなくなった以上、家に帰るほかはありません。けれども、軍人になるという夢だけはどうしてもあきらめることはできませんでした。(そういえば、大阪には『兵学寮』という、明治政府が作った軍人を育てるための学校があるらしい。そこへ入ろう!) 柴三郎は、惟信と貞に、大阪へ行くと宣言しました。
こまりはてる柴三郎に、惟信がいいました。「学問がしたいのなら、医学の道に進んだらどうだ?」 なんでも、時習館といっしょに廃止になった熊本藩の医学校『再春館』が、『古城医学所』として復活するのだそうです。「熊本なら、ついこのあいだまで勉強をしていたところだし、大阪などよりずっと近いのだから、わたしも安心だ」 それを聞いた親戚や村人たちも、そうだ、そうだと賛成しました。「北里家の跡継ぎが、お医者さんになってくれるなら、こんなありがたいことはない」「ぜひ、そうしてください!」(うーん……。でも、おれは軍人になりたいんだけど……) しかし、学問を続ける道は他にありません。医学の勉強はいやだといえば、このまま北里村に残るほかないのです。「……わかりました。では、古城医学所へまいります」 こうして、柴三郎は、しぶしぶ医学の道へと進むことになったのでした。
一八七一年(明治四年)二月、十八歳になった柴三郎は、熊本城内にある古城医学所に入学しました。この学校は、後に熊本医学校と名前が変わり、現在は熊本大学医学部となっています。(みんな、頭のよさそうなやつらばっかりだ……) 柴三郎は学生たちを見てためいきをつきました。実際、まわりは熊本藩の秀才ぞろいでした。同級生の浜田玄達は、後に日本の産婦人科学の第一人者に、また、緒方正規は後の東京帝国大学医科大学(現在の東大医学部)の学長になっています。(でも、引け目に感じることはない。おれの目標はあくまで軍人だからな) それに、時習館で熱を入れて勉強したオランダ語ならば、だれにも負けない自信がありました。そして、その得意なオランダ語が、思わぬ形で役に立つときがやって来ました。
「ほんとうは医者になろうと思っていないのではないのかね?」(うっ……。先生には見破られていたのか……) 柴三郎は観念したように、うなだれました。「はい……。ここへ来たのは、両親や親戚からすすめられたからにすぎません。わたし自身は、軍人になりたいのです」「やっぱり。それでは、熱心にオランダ語を学んでいるのも、ヨーロッパの学問を身につけるためなのかね?」「はい。日本を西洋におとらない強い国にするには、とにかく西洋に学ばなくてはなりません。それにはなによりもまず、外国語ができる必要があります」 マンスフェルトはうなずきました。「なるほど。よくわかった。だが、北里くん、医学も国のためにぜったいに必要な学問だ。たとえば、長崎にいたとき、たくさんの人がコレラで命を落とすのを見た。日本だけではない、アジアやヨーロッパで、何十万、何百万人という人々が死んでいる」「なるほど。よくわかった。だが、北里くん、医学も国のためにぜったいに必要な学問だ。たとえば、長崎にいたとき、たくさんの人がコレラで命を落とすのを見た。日本だけではない、アジアやヨーロッパで、何十万、何百万人という人々が死んでいる」 しかし、コレラの原因がなんなのか、どうすれば治療ができるのか、いまもまだ、ほとんどわかっていないと、マンスフェルトは続けました。「だが、医学を学ぶことで、コレラのようなおそろしい病気も治せるかもしれない。いや、そもそもコレラにかからずにすむ方法がわかるかもしれない。医学は人々を守り、助ける学問なのだ。すばらしいと思わないかね」
柴三郎は話を聞きながら、幼くしてコレラで死んだ弟や妹たちのことを思いだしていました。(医学を学べば、病気を治したり、予防できる……。人が苦しまずにすむ……)「北里くん。わたしはきみに、医者になれとはいわない。だが、せっかく医学を学べる場所にいるのだ。それがどんな学問で、どう世の中に役立つのかを知ってほしい。その後で別の道に進むとしても、決してむだにはならないと思う」
明治政府ができて、まだ十年たらず。世の中には仕事を失った武士たちの不満がうずまいていました。また、政府の重要な役職を、かつての薩摩藩(現在の鹿児島県)と長州藩(現在の山口県)の武士が独り占めしていることを「藩閥政府」とか「藩閥政治」と呼んで、批判する国民がたくさんいました。
このときの校長は長与専斎。長崎生まれの医学者で、明治維新にあたっては、政府の使節団の一員として、ヨーロッパの医学や衛生制度を視察し、一八七三年(明治六年)には文部省の医務局長となって、日本の医療の基礎を整えた人です。 その長与校長が、柴三郎たちをなんとかしようと相談した相手が、『学問のすゝめ』の著者で有名な福澤諭吉でした。長与と福澤は、若いころ、歴史上名高い蘭学の塾『適塾』でともに学び、ともに学生生徒の代表である『塾頭』になった仲間だったのです。 ちなみに、長与と福澤は、西洋の言葉や考え方を、わかりやすい日本語にして広めたことでも知られています。
「医学の目的は、人々の健康を保たせ、安心して働けるようにすることである。それでなければ、国は豊かにもならないし、発展もしないのだ」「だからこそ、医学の研究というものも、実際に役立つ治療、そして予防のために行われなければならない。医者の仕事は、人々に衛生的に生活する方法と、身体の大切さを教え、病気を防ぐのが基本なのである」「わたしは『衛生』を通じて、国のために貢献したいと思っている」 この医道論には、校長の長与専斎も目をみはりました。医務局を衛生局と名前を変えるほど、衛生的な生活を日本に広めようとした長与です。(北里柴三郎。ただの乱暴者ではなかったか)
また、柴三郎はこの年の四月に結婚していました。アルバイト先の牛乳工場の社長が、柴三郎のあまりにもまじめに働く姿に感動して、兄で大蔵省(現在の財務省)のエリート官僚、松尾臣善に紹介。その縁で松尾の次女・乕と結ばれたのです。
こうして、柴三郎は、内務省衛生局の職員として働きはじめました。三宅校長のいったとおり、長与専斎は柴三郎が来てくれたことを手放しで喜びました。 なにしろ、一年前にはじまったコレラの感染爆発はおさまるどころか、ますます大きくなって、今年の死者は十万人にもなりそうな勢いです。伝染病の予防のためにも、若くて優秀な人材がぜひ欲しいと思っていたところでした。 一方、柴三郎も、長与専斎に親近感をおぼえていました。長与もマンスフェルトの教え子だったからです。熊本の古城医学所で柴三郎を教える前、マンスフェルトは長崎の学校で教師をしていました。長与はそこで医学を学んだのです。(東京大学では、校長の長与さんをこまらせはしたが、おたがい、きびしくも熱心なマンスフェルト先生の授業を受けた者どうし、なんだか心が通い合うような気がする)
柴三郎が最初にまかされた仕事は、ヨーロッパ各国の公衆衛生の制度や、さまざまな統計を調べることでした。オランダ語とドイツ語がよくできる柴三郎には、うってつけの任務です。 こうした仕事の中で、柴三郎は、世界の医学のなかでも、最先端の学問「細菌学」の論文に触れることができました。 そのなかで柴三郎の中に、深くつきささる学者の名前がありました。「ローベルト・コッホ。世界最高の細菌学者。なんとしても、ドイツへ留学して、コッホ先生のもとで細菌学を究めたい……」 そこまで柴三郎を夢中にさせたコッホとは何者でしょうか。そもそも、細菌学とはいったいどんなものだったのでしょうか。かんたんにふりかえってみましょう。
しかし、この時点ではまだ、細菌と伝染病の関係をはっきりとつきとめることができませんでした。なぜなら、この細菌に感染するとこういう症状が現れる、こっちの細菌はこういう病気をひきおこす、と、細菌ひとつひとつの存在と働きをはっきりと区別することができなかったからです。 それを可能にするには、まず、ある特定の細菌だけを育てる「純粋培養」ができなければなりません。 それに成功したのが、ドイツのローベルト・コッホでした。 ドイツの小さな町の開業医だったコッホは、ある日、切ったジャガイモの断面にカビが生えるのを見て、ピンときました。「ここにはいま、いくつかの種類のカビが生えているが、それらは混ざりあわず、種類ごとにかたまっている。ということは、ここから一種類だけとりだして、別のジャガイモの断面に植えかえたら、そのカビだけが増えるのではないか」 もし同じことがほかの細菌でもできるとすれば、それはすなわち「純粋培養」ができたことになります。 コッホは、さっそく実験にとりかかりました。肉汁をゼラチンで固めて、その上で細菌を育てられないかと考えたのです。結果は大成功。この純粋培養法を使うと、同じ種類の細菌を、一カ所でまとめて育てることができました。 同時に、コッホは細菌に色をつける技術も開発しました。おかげで、細菌の性質や働きを顕微鏡で調べるのが、格段に楽になりました。
(ドイツに留学したい……。コッホ先生のもとで、最新の細菌学を学びたい……) コッホの活躍を知れば知るほど、柴三郎の心の中で留学への夢が大きくふくらんでいきました。
「残念ながら、留学中にコッホ先生にはあえなかったよ。なにしろ、先生がコレラ菌を発見したのは、ほんの一年前。さらなるコレラ研究のために、エジプトとインドへ出かけられていたのだ」「あんなにえらい先生でも、わざわざ自分で調べに行くんだな」「もちろんだ。コッホ先生の細菌学は、とにかく実験、実験、実験だ。おれは、コッホ先生の一番弟子の教授に教えてもらったが、とにかく、机の前でえらそうに考えこんでいることなど許されないのだよ」
また、原因がコレラ菌だとわかった以上、それがいったいどこにひそんでいて、どう感染するのかをつきとめれば予防法が、コレラ菌の性質を調べれば治療法が見つかる、そうしめくくって、人々に希望を持たせることもできました。「これだ! こういう仕事をしたかったんだ!」 こんなにも充実した気持ちになったのは、初めてでした。
「ところが、北里くん、長崎でコレラ菌を発見したというあの論文に感銘を受けた者がたくさんいてね。内務省の中から『細菌学と衛生学のことなら、北里を送るべきだろう』という声があがりはじめたのだ」
「コレラを? なぜ?」「ごぞんじのように、コレラは何度となく、世界にパンデミックを引き起こしています。わが国においても、初めての感染以来、百万人以上の死者が出ています」 かつて自分の弟や妹もコレラの犠牲になったこと、また、今回、日本を出発するときには、国じゅうが感染爆発のまっただなかだったこと、感染防止のため、政府は生活にさまざまな制限をかけているが、そのことで国民が怒っていること……。 柴三郎は、ほめられたドイツ語で、いっしょうけんめいに語り続けました。「国民がいらだっているのは、ほんとうの原因が何で、どうすれば感染を予防したり、おさえたりできるのか、はっきりわからないからだと思います。そこで、留学の前、わたしは、コレラ患者の便からとったコレラ菌を顕微鏡で観察し、それを図に示して……」
考えてみれば、徹夜で実験をしている研究員など、だれひとりいません。(コッホ先生は、そのことを注意しようとされているのかもしれない……) 柴三郎は、おずおずとたずねました。「あのう、勝手に泊まりこんだりして、いけなかったでしょうか。もしそうなら、すぐにやめますが……」 コッホは、丸メガネの奥の目を、ぱちぱちっとしばたたかせました。「いけない? とんでもない! 熱心なのはとてもいいことだ。好きなようにやりたまえ」(ああ、よかった……)「きみを呼んだのはほかでもない、純粋培養の手際がとてもよくなったのなら、ぜひ取り組んでもらいたいことがあってね」 その瞬間、柴三郎の背すじがぴしっと伸びました。「研究テーマですか! はい、ぜひお願いします!」 コッホが与えたテーマは、チフス菌とコレラ菌の培養についての研究でした。それぞれの菌が、酸性の培養基、アルカリ性の培養基で、それぞれどんなちがいを見せるかを調べるのです。「これは、わたしもふくめて、まだだれも手をつけていない実験だ。むずかしいが、成果があがれば、細菌学にとっての進歩というだけでなく、病原菌を消毒する方法につながるかもしれない。よろしくたのむよ」「はいっ!」
そして、実験結果を論文にまとめて、コッホに見せると。「すばらしい! わたしが想像した以上にすばらしい論文だよ、これは!」 コッホは大喜びしてくれました。「よし、この論文はこのまま医学雑誌に発表しよう!」 柴三郎は胸がいっぱいになりました。ドイツに来て初めて書いた論文が、こんなにも高く評価されるとは思いもよりませんでした。(がんばってよかった……)
留学生活が二年目に入ったころ、ベルリン大学衛生研究所に、日本人の研究者がもう一人、加わりました。 森林太郎。東京大学医学部の二年先輩で、いまは陸軍の軍医。ドイツへも、陸軍省から派遣されていました。 しかし、森林太郎は、同時にまた文学者であり、小説家でもありました。ペンネームは森鴎外。日本の文学史に残る名作『舞姫』は、このドイツ留学時代の生活をもとに書かれたといわれています。 森の留学目的は陸軍のための医学を学ぶことでした。しかし、留学生活の最後を、世界的に有名なコッホのもとでしめくくりたいと考え、柴三郎をたよってきたのです。
「やった! あと二年、ここで研究を続けていいことになった!」 許可状を手に、柴三郎は踊りだしたい気分でした。 ところが、そんなよろこびのかげで、日本の医学界の中に、柴三郎に対する反感がわきあがりつつありました。
森林太郎さん、あなたは、わたしが『正しさ』のために人としての『情』を忘れたようだとおっしゃいました。しかし、わたしは『情』を忘れたのではありません。『私情』をおさえたのです。 わたしは、『情』というものには二種類あると考えています。どういうことか、例をあげてご説明しましょう。 いまから十年余り前、西南戦争がありました。不平士族が、明治政府におこした反乱です。もし、自分の父や子、あるいは親友が反乱軍に参加したとき、どうすることが正しいことでしょうか。『私情』に流されて、世の中に銃口をむけることを許すべきでしょうか。いいえ、ちがいます。世の中の平和を保つという『公平無私の情』をもって、あえて討つことが正しい道のはずです。 学問もそれと同じです。『私情』のために、真実に目をつぶるようなことをしてはいけません。もし『公平無私の情』をもって研究を進めることを忘れたならば、わが国の医学は真実を究めることができなくなることでしょう。 柴三郎の主張は、どこからみても正しいものです。しかし、日本の医学界はそうは考えませんでした。緒方教授が批判されたことに対して、東京大学から名前が変わった帝国大学医科大学の卒業生や関係者のあいだでは、うらみにもにた激しい反感がうずまいていました。たとえば、帝国大学総長の加藤弘之は、柴三郎のことを、『師弟の道というものを理解できない者』と痛烈に批判しました。 こうした激しい反感は、後に柴三郎が帰国したとき、大きな壁となって立ちはだかることになるのですが、そんなことはまだ、柴三郎には想像すらできませんでした。
イギリスへの出張のあと、柴三郎はベルリンにもどりました。それからしばらくして、政府から、留学期間の終了とともに帰国するようにという命令が届きました。「そうか。やはり帰るか」 柴三郎から報告を聞いたコッホはとても残念そうな顔をしました。「はい。いままで先生に教えていただいたことを、日本の国民の健康を守るためにいかそうと思っています」「うむ。きみなら、まちがいなく国の力になれるだろう」「はい、がんばります。コッホ先生、六年間、ほんとうにお世話になりました」「いや、北里くんこそ、わたしのためにがんばってくれて、ありがとう」 コッホが、丸メガネの奥の目をうるませています。 六年前、ただあこがれるだけで、雲の上の存在だったコッホと、いま手をとりあって別れを惜しんでいる──柴三郎は、信じられない思いでした。
ただ、今回、この本を書いてみて、もうひとつ、偉人の共通点を見つけた気がしました。それは「人との出会いと不思議なめぐりあわせ」です。 この本の中でも、聞いたことのある名前をあちこちで目にしたのではないでしょうか。福澤諭吉、森鴎外、志賀潔、野口英世……。全員とはいわなくても、一人、二人は知っていることと思います。 わたしも、原稿を書きながら、「えっ、この人ともつながりがあったの?」と、驚いたのは一度や二度ではありません。
人は、どんなにすぐれた才能をもっていても、ひとりで成功することはできません。人生のさまざまなところで出会った人に助けられているものです。 柴三郎の場合、最大の援助者は、まちがいなく福澤諭吉でしょう。現在、科学者が日本で研究資金を得られず、海外へいく「頭脳流出」が問題となっていますが、ドイツ留学から帰国した直後の柴三郎も、まさに同じ状態でした。福澤諭吉の支援がなければ、柴三郎もアメリカへ「頭脳流失」していたかもしれません。 しかし、支援といってもお金や仕事の面だけとはかぎりません。ライバルとして立ちはだかったり、苦労をかけさせられた人が、偉業をなしとげる助けになっていることがよくあります。たとえば、柴三郎にとっての、後藤新平や森鴎外のように。 そうした、人との不思議な出会いやめぐりあわせも、伝記を読む楽しみのひとつです。続きを読む投稿日:2024.03.29
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