健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて
熊代亨(著)
/イースト・プレス
作品情報
現代人が課せられる「まともな人間の条件」の背後にあるもの。
生活を快適にし、高度に発展した都市を成り立たせ、
前時代の不自由から解放した社会通念は、同時に私たちを疎外しつつある。
メンタルヘルス・健康・少子化・清潔・空間設計・コミュニケーションを軸に、
令和時代ならではの「生きづらさ」を読み解く。
社会の進歩により当然のものとなった通念は私たちに「自由」を与えた一方で、
個人の認識や行動を紋切型にはめこみ、「束縛」をもたらしているのではないだろうか。
あらゆる領域における資本主義・個人主義・社会契約思想の浸透とともにうつろう秩序の軌跡と、私たちの背負う課題を描き出す。
かつてないほど清潔で、健康で、不道徳の少ない秩序が実現したなかで、
その清潔や健康や道徳に私たちは囚われるようにもなった。
昭和時代の人々が気にも留めなかったことにまで私たちは神経をつかうようになり、
羞恥心や罪悪感、劣等感を覚えるようにもなっている。
そうした結果、私たちはより敏感に、より不安に、より不寛容になってしまったのではないだろうか?
清潔で、健康で、安心できる街並みを実現させると同時に、
そうした秩序にふさわしくない振る舞いや人物に眉をひそめ、
厳しい視線を向けるようになったのが私たちのもうひとつの側面ではなかったか?(「はじめに」より)
【著者略歴】
熊代亨(くましろ・とおる)
1975年生まれ。信州大学医学部卒業。精神科医。
ブログ『シロクマの屑籠』にて現代人の社会適応やサブカルチャーについて発信し続けている。
著書に『ロスジェネ心理学』『融解するオタク・サブカル・ヤンキー』(ともに花伝社)、
『「若作りうつ」社会』(講談社現代新書)、『認められたい』(ヴィレッジブックス)、
『「若者」をやめて、「大人」を始める』(イースト・プレス)がある。
【目次】
第一章 快適な社会の新たな不自由
第二章 精神医療とマネジメントを望む社会
第三章 健康という“普遍的価値”
第四章 リスクとしての子育て、少子化という帰結
第五章 秩序としての清潔
第六章 アーキテクチャとコミュニケーション
第七章 資本主義、個人主義、社会契約
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この作品のレビュー
平均 3.8 (26件のレビュー)
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【感想】
現代は、全てをリスクに基づいて物事を判断するようになった。健康と喫煙、結婚生活と独身生活、育児にかかる費用と自らの収入。人々が自らの暮らしを計算し、危険で無駄な要素を省くほど、生活の質は上が…っていく。そしてこの「生活の質」は、個人的な範疇に収まらずに、公共空間にまで領域を拡大している。ゴミひとつない美しい街、秩序正しく運行する電車、マナーに敏感な市民、ルールを守って人に迷惑をかけない子ども。
日本は本当に健康的で、清潔で、道徳的な秩序がある国だ。だが裏を返せば、そこに住む人がその街にふさわしい行儀良さや道徳的振る舞いを身に着けなければ、この街は成り立たない。
そして、一握りの「ルールを守れない人」は、生きづらさを抱えたまま社会から脱落していく。
本書は、そうした社会通念が行き渡ってしまった日本の現状を見つめながら、背後にいる「上手くやれない人」の存在に光を当てる一冊だ。精神医療・健康・育児・空間設計・コミュニケーションといった様々なテーマを軸に、令和時代ならではの「生きづらさ」を読み解いていく。
私は正直、この本の内容に同意しっぱなしだった。ページをめくるごとに、まるで自分の胸中を覗かれているような感覚を覚えてしまった。
でも、読んだ後にそれを文章にしようとすると、上手くいかない。この健康的な社会に一家言あるはずなのに、どうも指の間から文字が零れ落ちていってしまう。
何故、この本を読んで心を揺さぶられながらも、口にしようとすると言葉が立ち消えてしまうのか。何故、しっくりこずに歯がゆい想いをするのか。
それはきっと、健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会が「正しい」からなのだ。「不自由な社会だ」ということは頭では理解しているのに、それに歯向かう気が起きないほど、いまの暮らしはいい暮らしだからだ。
いや、そんなの嘘だ。日本を息苦しく感じ、脱落してしまった人も確実にいる、と反論しようとしても、今の社会をリセットするのは明らかに間違っている。そもそも、清潔な社会の恩恵はマジョリティだけでなくマイノリティも享受しているため、簡単に否定できるものではない。あんなにも不潔であった昭和の時代にはもはや戻ることはできず、文句を言いながらもなんとか生きていくしかない。
「強固な秩序」や「コスパ至上主義」は、確かに私たちを息苦しくするが、そこに向かうことで確かに幸せになる。不幸になる人は残り続けるが、それも少しずつ小さくなり、やがて完璧に美しい社会ができるのかもしれない。
しかし、「正しい」としてもそれで本当によいのか?たとえその合理性が今日の通念のもとではきわめて正しいとしても、その道を突き詰めてしまえば、やがて自分自身を追い詰めることにつながってしまうのではないか?
うまくまとまらず、やりきれない思いが残るばかりだった。
――――――――――――――――――――――――――――
【まとめ】
1 清潔に変わった世の中
かつてないほど清潔で、健康で、不道徳の少ない秩序が実現したなかで、その清潔や健康や道徳に私たちは囚われるようにもなった。昭和時代の人々が気にも留めなかったことにまで私たちは神経をつかうようになり、羞恥心や罪悪感、劣等感を覚えるようにもなっている。
そうした結果、私たちはより敏感に、より不安に、より不寛容になってしまったのではないだろうか?清潔で、健康で、安心できる街並みを実現させると同時に、そうした秩序にふさわしくない振る舞いや人物に眉をひそめ、厳しい視線を向けるようになったのが私たちのもうひとつの側面ではないか?
2 美しい街
ゴミひとつない美しい街、秩序正しい街、東京。だが裏を返せば、そこに住む人がその街にふさわしい行儀良さや道徳的振る舞いを身に着けなければ、この街は成り立たない。それは子供も同様である。こどものやんちゃに対する現代の大人たちの視線は厳しく、未成年者の逮捕・補導件数が減少する一方で、虐待の通知件数は増大している。
労働環境に目を向ければ、コンビニやファミレスといった庶民向けサービスであろうとも、クオリティが高い。社会の最前線で働くひとのスキルは向上しつづけ、より高機能な人々が効率的に働くようになっている。
これらは、「美しい国にふさわしいのは優れた人間だけである」との要求に見える。
2020年の現実を振り返れば、過去の不自由や不便を克服してくれた進歩が私たちに新しい不自由をもたらし、簡単には逃れられなくなっているようにも見える。過去には進歩的とみなされ、現在では当たり前の通念となった諸々は、私たちの認識や行動を、通念のテンプレートへとはめ込んでいるのではないだろうか。そのことに新しい生きづらさを感じている人、通念どおりに社会適応するために背伸びを余儀なくされる人、なかには力尽きてしまう人もいるのではないだろうか。
3 健康という普遍的価値
現代社会は価値観が多様化しているとは、よく言われることである。それでも、ほとんどの人が疑問を持つことなくシェアしている価値観や通念がないわけではない。健康はそのなかでも筆頭格のもので、これに肩を並べるほどの「普遍的価値」はそうざらにはない。
また、健康には優れているもの・見せびらかすに値するものといった、価値判断の次元で「良い」とみなされるイメージも付随している。
私達は健康でなければならなくなった。健康と長寿が、とにかく良いことであるとみなされるようになった一方で、何のための健康か、何のための長寿なのかは、どこまで顧みられているだろう?医療者は統計学的・生物学的なエビデンスに基づいて健康リスクを語るが、何が良いことで何が悪いことか、健康や長寿は何のためのもので、何のために生きるのかについては語らない。健康には「良い」という「普遍的価値」が伴い、不健康には経済的損失という資本主義のイデオロギーから見て「悪い」意味が伴うのだから、健康と、その結果としての長寿は誰もが大切にして当然のもの、大切にしなければならないものとみなされずにはいられない。
健康が手段ではなく目的となり、普遍的価値となり、その結果としての長寿が当たり前になった結果として、私たちの一人ひとりが「老後2000万円問題」を財務官僚のように考えなければならなくなった。健康を守り、個人の自由な経済活動に寄与するものであったはずの国とその制度が、健康長寿が当たり前になったことに伴う財政的負担にあえぎ、医療費の削減に躍起になっているのは皮肉なことである。
私たちは本心からそういう生を生きたがっていたのだろうか。それとも通念や習慣や制度に隷属するまま資本主義社会の歯車を回しているだけなのだろうか。
健康が社会制度に深く関わり合い、通年や習慣として皆に内面化されているこの社会のなかで、健康や長寿はいつでも私たちに味方してくれて、いつでも自由の守り手でいてくれるのだろうか。
4 リスクとしての子育て
秩序の行き届いた現代社会において子どもはリスクを想起させる存在であり続ける。
日本をはじめ、多くの先進国では少子化が進行しており、そのような国々では子育ては大きなリスクと表裏一体の営みと捉えられている。つまり、少子化が進行している国では必ず、親は子どもに細心の注意を払って当然とみなされ、虐待やネグレクトに対して社会も親自身も注意深くなければならない。と同時に、多くの家庭はますます子どもの教育に大きな投資を心がけるようになり、その投資に見あった成果を期待する視線を浴びながら子どもは育てられている。
ハイレベルな秩序を実現させた社会契約のなかでは、子どもとは、唐突に他人に迷惑や不快感を与えかねないリスクを含んだ存在だから、親はできるだけ子どものことで他人に迷惑や不快感を与えないよう、注意深く振る舞わなければならない。子ども自身も、他人に迷惑や不快感を与えないよう早くから期待され、そのように行動できなければならない。と同時に子どもはかつてないほど大切にされなければならなくなり、虐待やネグレクトは忌むべきものとなった。体罰が否定されるのはもちろん、日に日に高まっていく社会全体の敏感さに抵触しない子育てを成功させなければ、社会から親として不適格とみなされるおそれがある。そうした通念や習慣をどこまでも内面化している親たちは、子育てに瑕疵があれば罪悪感や劣等感に苛まれることになる。
子育てを、ひいては子どもを、資本主義や社会契約のロジック以外の視点でまなざせるものだろうか。一人ひとりブルジョワ的・資本主義的主体として徹底的に訓練されている現代人、とりわけ子どもをもうけたことのない現代人は、買い物や事業以上の意味や価値を子育てに見出せるものだろうか。
子育てにかけがえのない意味を見いだせるなら、やはり素晴らしいものである。だが、生まれながらにリスクやコストといった考え方に親しみ、骨の髄まで資本主義や社会契約のロジックを内面化している現代人が、みずからの価値観やイデオロギー体系では説明できず、可視化することも、値札をつけることもできない「子育ての意味」とやらを、いったいどうやって認識しえるだろうか。
5 秩序としての清潔
令和時代の日本は、今までのどの時代・地域と比べても法治が行き届いている。暴力は犯罪という理念そのものは昭和以前にもあったが、その理念に人々が従う度合いも、その理念からの逸脱が罰せられる度合いも、逸脱を観測するためのテクノロジーも、まるでレベルが違う。
そうした変化と並行して、私たちは清潔で臭わない身なりと、落ち着いた、他人に不安感や威圧感を与えない行動を身に付けていった。清潔であること、無臭であることまでもがまっとうな人間の条件とみなされ、不潔であったり臭ったりすれば「キモイ」「臭い」といった言葉が容赦なく投げかけられるようになった。
令和時代の日本社会の秩序と美しい街並み、そして私たちの非暴力的、かつ清潔志向で無臭志向な生活習慣は、お互いに迷惑をかけず、お互いに自由かつ快適に生活できるよう最適化されている。しかし、お互いに迷惑をかけないこと、お互いが自由に快適に暮らすことがあまりにも徹底された結果、この美しい街並みのなかでは、臭う者・不安感を与える者・威圧感を与える者は、ただそれだけで他人の自由で快適な暮らしを脅かしかねない存在、不安をもたらす存在として浮き上がってしまう。
日本で美しい街が出来上がっていくのと並行して出現したのが「かわいい」という存在だ。女性だけでなく、男性もかわいいが求められるようになった。男らしさではなく中性的で清潔、不安感を与えない「イケメン」男性が、世に受けるアイコンとなっている。
「かわいい」は好ましいものであると同時に、秩序である。かわいいはリスクを思い起こさせず、臭いや外観で他人に不快感を与えず、無害で受け入れられやすい。美しい街の景観に溶け込むのに適しているだけでなく、個と個がせめぎあう側面や干渉しあう側面をぎりぎりまで削り取った自由、東京風の自由のありかたとも合致している。社会の慣習や通念や自由のありかたに合致しているからこそ、「かわいい」は実際、日本社会においてどこまでも正しいのだ。
6 ならば何ができるのか
清潔で健康で道徳的な社会に慣れきってしまった私たちにとって、通念や習慣の外側、イデオロギーのオルタナティブを考えることは簡単ではなく、不道徳ですらあるかもしれない。
それでも私たちは、通念や習慣の奴隷になってはいけないし、現代社会のありようを当たり前だと思いすぎてはいけないのだと思う。法制度の枠組みを遵守し、空間設計に覆われながら暮らすことと、それらに盲従し、何も考えなくなることはイコールではない。自然科学領域のファクトと違って、ある社会、ある時代で常識とみなされている社会科学領域のファクトは永遠不変ではない。
どれほど清潔で健康で道徳的な社会になったとしても、コミュニケーションやディスカッションができなくなってしまえば、秩序は私たちをますます不自由へと、束縛へと連れ去ってしまうだろう。
わたしたちにはまだ、見知らぬ人、見知らぬ意見、見知らぬライフスタイルに出会ったり、驚いたり、影響を与えあったりする余地が残されている。そうした余地を生かし、そうした余地を守り続けていくことは、この世界に対する貢献のひとつであると私は信じている。
自由を実現させた社会を愛し、それを後世へと繋いでいきたいと願うなら、おかしな点はおかしいと指摘し、西洋社会の先人たちが積み重ねてきたのと同じように、あらゆるものを地道にアップデートさせなければならないはずである。資本主義や個人主義や社会契約といった、現代社会で最も正しいとみなされ、最も幅広い影響力を持ったイデオロギーについてもそれは例外ではないと考えて良いのではないだろうか。続きを読む投稿日:2022.10.17
この方向の議論をまとめてくださっている本。空間を使って人の行動を統制するところ、福祉とも関係が深い。結局、自由な選択が不自由を感じさせ、一見寛容な社会の中で、苛立ちが亢進する。選択や契約に関係のないも…のは、雑音であり、迷惑であるとなってしまう。続きを読む
投稿日:2023.03.14
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