生きなおす、ことば : 書くことのちから 横浜寿町から
大沢敏郎(著)
/太郎次郎社エディタス
作品情報
日本の三大ドヤ街の一つ、横浜寿町。教育の機会を奪われ、読み書きができないために地を這うように生きてきた人々がいる。ここで識字学校を主宰する著者と、文字を学ぼうとする人々との交流、彼らが書いた珠玉の言葉。
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この作品のレビュー
平均 4.5 (6件のレビュー)
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このレビューはネタバレを含みます
先日読んだ、「ホームレス歌人のいた冬」に出てきた本。
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横浜のドヤ街で識字教育をやってきた大沢敏郎さんが作者です。
識字教育と言うと、文字の読み書きができない人に文字の読み書きを教えるイメージですが、大沢さんの識字教育は、「表現」ということに重点が置かれていて、文字の形や文章のすわりぐあいなどは、わりとどうでもいいらしい。
文字を教えようとするのではなく、その人の人間そのものに向き合おうとする作者の姿勢とエネルギー伝わってくる、エネルギッシュな本でした。投稿日:2021.10.19
以下引用
文字のよみかきのできなかたときは、まいにち かべにむかて にらめこしていました こころがさみしくてしかたなかた
明治以来の近代学校は、人とつながって生きることを教えてくれませんでした
…日本の識字の学びには、自分の生きてきたなかで受けざるをえなかった精神やこころの傷とどう自分のちからで向き合うことができるかどうか、それをどう超えていくことができるかどうかが、重要な課題であると思っている
★どんな深い精神やこころの傷を負っていたとしても、今まで生きてきたのだから、それでいいのではないかということになるのかもしれないが、識字は、それをもくにんしていくことはできない。文字の読み書きができないことによってうけた精神やこころの傷は、ごく自然に、識字の場で薄皮をはぐように、すこしずつ、すこしずつ癒されていかねばならない
⇒これは「識字」に限らず、「ことば」において、そうだなと思う。
被抑圧の現実は、日本の場合、文字の読み書きができないか、できるかという問題ではなくなってくる。自分のうけた傷を、認識することもなく、無知、無自覚のまま生きていってしまうことは、自分ではない自分を生きていってしまうことになる。それを認識し、自覚することが、文字の読み書きのできる人にとっても、自分自身の「意識化」の識字の作業としてあるのではないか
識字にでかけてくる人たちは、どの人も、人と人との関係のなかで深い傷を負っていることはたしかなことだ。しかし、文字の読み書きはできるけれど、それを自覚しているかどうかはべつとして、やはりなんらかの精神やこころの傷を負ってきているのも確かだ
かつて受験戦争を生き抜いてきた自分、そしてその過程の人と人との関係の中で、得てきたものはなんなのか、失ってきたものはなんなのか。人を見捨てたことはなかったか。、、、そうしたことへの無知や無自覚はゆるされない。それを明らかにしなければ、これから出会う福祉や教室のなかのこどもや保護者に、予断も偏見もなく接することはできない
識字の場で、文章を書いたり、語ったりするなかで、ほんのすこしでも、自分のうけてきた痛手が癒されていくならば、そのときの識字には意味があったということ
文字の読み書きができなかったとき、なにを考え、なにを見て、なにに感動し、毎日の生活をどう生きてきたのか、そのことがあきらかにされることこそが、識字の本質なのではないか
文字のよみかきができる人のことばが、そのほとんどが学校教育のなかで養ったもの
識字に出席する大学生は、「自分には書くことばがない」とよく言う。かつて読み書きのできなかった人たちの書く文章のことばにつりあう、というか、呼応できる自分のことばをもちあわせていなかった。それは今もでもつづいている。彼ら、彼女たちの話ことばや
書きことばに、なぜか深くなつかしい親近感を覚えていた。ぼくもふくめて、「自分のことばがない」のは、学校教育のことばが身にしみこんでしまっているからだ、ということにはうすうす気づいていた。どう考えても自分のことばを削りとられたのは、学校教育以外にはなかった。自分のことばはどこで生まれ、どこでそれを失ったのかと、識字をするなかで考えつつけていた。
つぎからつぎへと断片的な情景がおもいうかんでくるが、決してなつかしんでいるわけではない。これらの断片的な情景のなかで、子供なりに、精いっぱい、自分の前身のちからをつかていき考えてきた。子供のぼくには、ことばにならないことばかりであった。こどばにならないから、全身のちからをつかって、からだで記憶しようとしていた。
ぼくのことばは、彼との関係のなかにあった。文字のない、音声のないことばの世界。先に文字のない世界に近づきたいと書いたが、それがこのこと。文字の読み書きができないことで、自分の鋭い勘だけをたよりに生き抜いてきた
かつて読み書きができなかった人が、文字をならい、文字を自分のものとし、自分の生きてきたこと、自分の生の歴史を表現し始めたとき、その人は文字のある新しい世界にはいっていく、その新しい世界は、自分の今まで生きてきた歴史を逆照射するかのように浮き彫りにしていく。自分の今まで生きてきた世界を客観視する世界。
かつて文字の読み書きのできなかったときの自分の生の歴史を対象化するというのは、どう考えても過酷なことだ。でもそれをしていくことで、新しい自分のほんとうの世界を獲得していきたいという、人間としての本性
⇒受動態としてだけの生を強いられてきた人が、ことばにより、その受動的な世界を対象化し、能動的に世界に参画しなおす作業。外在化することで、そのシステムじゃら離脱し、新たに世界を作り直していくことができる。
新しいほんとうの自分の世界は、だれもが渇望している世界。文字の読み書きをなんの疑問もなく習得していった人にとって、ほんとうの自分の世界は、どんな世界だったか記号としての文字を習得し、それを基礎にして技術として幅広い知識を身に着けることがほんとうの自分の世界だっと錯覚するところが日本の学校教育の罪
他者としての人間を学ぶには、おのれの人間をあきらかにしないといけない
識字の席に座ることで、自分自身の精神のゆがみや人間全体のひずみにいやおうなしに直面する。それから逃げるならそれはそれでいい。逃げても何も解決しないが、逃げる自分を認識できただけでも。
識字の方の姿勢に向き合うと、おのずと自分自身の精神もただされていくような気がしていた。文字の読みかきの十分にできない人たちは、身ひとつでからだをつかって生きてきたということ。
彼らのことばは身ひとつのからだで覚えてきたことばである、
教養言語と、民衆言語の対比。同じことばでも、それをつかう人の生活体験や日常生活の経験、その人が生まれてきたなかでのすべての体験や経験が、ひとつのことばの背景にひろがっているのだろう
識字学習のなかでのことばについていくことはできるけれども、何とも不確かな自分のもとのことばをさがすのに長い時間がかかった。識字学習を始めて7,8年ころに、やっと、どこで、ぼくが自分のことばを失いはじめたのかを考えることができるようになっていった。そこでやっとたどりついたのは、九歳までいた、岐阜の山奥の村のことである。この九年間ほどが、ぼくにとって、自分のことばで自分のからだで生きていた世界そのものではなかったのかと思えるようになった。その村にいたころ、ぼくという人間の精神形成をしてくれたさまざまなできごと。自給自足の小さな村に特別に何かがおこるわけではなく、ささやかな人間の営みの日常がながれていた。ぼくにとっては、その小さな村居の人やものすべてが、僕の世界であった。年に三、四回、山を二つ三つ超えて、母親の実家に使いや祭りに呼ばれて出かけていくのが、新しい世界であったが、その新しい世界も小さな村の延長としてつながっているだけであった。新しい世界によって、ぼくの新しい世界がひろがっていくわけではなかった。変わらぬ子どもの世界を生きていた。そんな日常を過ごしながら、やはりぼくは自分のことばで、自分の体で生き考えていたような気がする。
杉や松や桧や栗や柿や桑や木の香り。
つぎからつぎへと断片的な情景がおもいうかんでくるが、決して幼少年期やふるさとをなつかしんでいるわけではない。これらの断片的な情景のなかで、ぼくは、こどもなりに精一杯、自分の全身のちからをつかった生き考えていた。もちろんことばにならないことばかりであった、ことばにならないから、全身のちからをつかって、からだで記憶しようとしていたのだろう。今もこの断片的な情景の手触りや肌触りや匂いや香りをことばにすることはできない。でもからだは忘れていない。ことばで表現することはできないが、全身のちからでごく自然に受け止めていたさまざまな情景が知らぬ間に、他でもないぼくのからだのなかのリズムとなり、ハーモニーとなっていたのだ。このぼくのからだのなかのリズムやハーモニーが、初めに書いたかつて文字の読み書きのできなかった人たちの語る、あるいは書く言葉と呼応し、ある種のぬくもりやなつかしさとなって、体感できたのだろうと思う。長い時間がかかった。かつて文字の読み書きのできなかった人たちが、子どものころから大人になっても、なお全身のちからをつかって物事を見たり考えたりしてきたことが、ぼくが全身のちからをつかってうけとめていた幼少期のわずかな情景につながった。
※文字を学習していても、それが身体とつながっていない。
かつて文字の読み書きのできなかったときの自分の生の歴史を対象化するというのは、どう考えても過酷なことだ。でも新しい自分のほんとうの世界を獲得していきたいという、願望でそれをしていく。
⇒受動的存在でいるときは身体は世界に「内在」している。それを「言葉」にすることで、その世界を意識化し、「能動的」に世界を作り変えていく主体となる。「内在」⇒「外在」への移行。おそらく「ことば」というのはこの「内在」⇒「外在」への、都度の更新や移行に際して生じてくるものであるのだと思う。
幼少期の前言語的な記憶が重要なのは、そこには世界との未分化のふれあい、身体における世界の手さわりがあるからだと思う。「身体において世界を感知している状態」。まずはその未分化性、絶対的な受動性がないことには「ことば」というものは成立しえないものなのだろう。なぜなら「ことば」というのは、身体と環境との「接触」や「関係」において、「質感」や「感触」として生まれてくるものだから。本来人が生きるいうことは、こうした世界との未分化的な関わりを土台にしつつも、都度それを対象化し、環境との関係を新たに漸次的に更新し続けていくなのだと思う。
この識字の場面においては、「質感」や「感触」を生み出している「身体」の「分有」が、おそらくこの「識字」の場において立ち上がっているのだろうと思う。身体において世界を感知し、世界を生きるという、その原初的な生のありようを目撃しているのだと思う。
しかし他方では、人はそうした前言語的な世界把握、すなわち完全に環境や状況に埋没する受動的存在としてのみでは、その生を真に充足させるのは困難なのだと思われる。
※ここでの学生は身体を使っていないというよりは、身体が本来知覚していることに対して、意識化する作業をしていない(その方法を知らない)というところが大きいように思うな。身体を開ききって生きること、またその開ききった身体が感知していること、体験してしまったことに、真摯に向き合い、それを意識化する作業を眼前にして、生の矮小さを痛感するのだと思う。
環境に身体が晒されて、体験してしまったことをまなざすところにしか、間主観性から立ち上がってくる「ことば」はないし、ひいては主体として「生」や、「欲求」というのも、ないのだと思う。
自分のしていきたいことは、ある種、こうした絶対的な受動態としての生を開きつつも、そこに埋没するのではなく、根源的な生の主体として生成していくための、「構え」を想起させていくことなのだなということを想った。前言語的に世界と関わることにより「傷」を携えつつも、それを「欲求」や「生の展開へと接続」させていく回路を開くこと。それは言い換えればその人の身体において、世界において生を全うするというところに話は着地するようにおもう。
世界や生というのは、抽象的、単体的に展開するものではなく、環境と身体の間に生成発展していくものであるという視点に立てば、これまで自分自身が身体的に埋没してきた環境や状況を意識化(外在化)することなしには、それを乗り越えていく、越境していく運動というのは生じえない。記憶の場であるとか、こうした識字の場において生じている現象はここに肝がある。新たに更新された、新たな欲求、生の展開をはじめていくために、真の主体としてこの世界の上で立つために、「これまでの歴史」をまずは一度、客体化すること、その作業ができたときに、それと同時に、「新たな生のはじまり」は生じるのだと思われる。
識字学習のなかでのことばについていくことはできるけれども、何とも不確かな自分のあしもとのことばをさがすのに長い時間がかかった。識字学習を始めて七、八年目頃に、やっと、どこで、ぼくが自分のことばを失いはじめたのかを考えることができるようになっていった。前にも書いたが、ぼくが自分のことばを失ったのは、ぼくの受けた学校教育のどの時点からであったのか、それを今、はっきりさせないことには、永遠にぼくは、自分のことばをとりもどすこともなく、ずるずると生きていってしまうのではないかという恐れがあった。今、ふりかえってみると、これは、ぼく自身の大切な識字学習の作業であった。
そこで、やっとたどりついたのが、九歳(小学校三年生の一一月)までいた岐阜県の山奥の分校のある戸数三十戸ほどの小さな村にいたころのことであった。そんなにたくさんのことを記憶しているわけではないが、この九年間ほどが、ぼくにとって、自分のことばで、自分のからだで生きていた世界そのものではなかったかと思えるようになった。その村にいたころ、ぼくという人間の精神形成をしてくれたさまざまなできごとがあったが、ここではそれを省くとして、良いも悪いもふくんだところの人間もまわりの世界もゆたかであったように思う。自給自足の小さな村に、特別に何かがおこるわけではなく、ささやかな人間の営みの日常がながれていた。ぼくにとっては、その小さな村の人やものすべてが、ぼくの世界であった。年に三、四回、山を二つ三つ超えて、母親の実家に使いや祭りに呼ばれて出かけていくのが新しい世界であったが、その新しい世界も、小さな村の延長としてつながっているだけであった。新しい世界によって、ぼくの新しい世界がひろがっていくわけではなかった。変わらぬ子どもの世界を生きていた。そんな日常をすごしながら、やはりぼくは、自分のことばで、自分のからだで生き考えていたような気がする。
杉や松や桧や柿や木の香り。畑の土や人糞や鶏糞、そして、きゅうりやトマトやとうもろこしやさつまいもや麦の匂い。春咲くには、手足がまっ赤になる川水のつめたさ、手づかみの川魚や川底の石のぬめり、山から吹きおろしてくる粉雪まじりの木枯らし、舞いあがる粉雪は生きもののように見えた。ふりつもる雪の音を耳にして、粗朶(ルビ:そだ)や切株のもえる囲炉裏の火を見つめながら大人の話をきいていた。山いちごや桑の実やいたどりやざくろ、ぐみや栗や柿やあけびを山にはいり木にのぼって食べた味。わらぞうりの足裏の感触と小石がくいこんだときの痛み。へびやとかげのうろこの光。撃たれた熊や猪の雪の上の赤い血。板に張られ干されている毛皮のぞぎのこされた肉。川をせきとめてつくる夏の水浴び場。電気のかよわない村の暗い夜道をわら束を竹の先にしばりつけ追いかけた蛍の灯。広口瓶につめこまれた生きた蝮の縞模様。冬の朝、上(ルビ:かみ)から下(ルビ:しも)から白い息をはき登校してきた子どもたちは、分校の向かいの山に入り杉や桧の枯枝をあつめ、小さな運動場のまん中で焚火をしていた。
つぎからつぎへと断片的な情景がおもいうかんでくるが、決して幼・少年期やふるさとをなつかしんでいるわけではない。これらの断片的な情景のなかで、ぼくは、子どもなりに精一杯、自分の全身のちからをつかって生き考えていた。もちろん、子どものぼくには、ことばにならないことばかりであった。ことばにならないかた、全身のちからをつかって、からだで記憶しようとしていたのだろうと思う。今もこの断片的な情景の手ざわりや肌ざわりや臭いや香りをことばにすることはできない。でも、からだは忘れていない。ことばで表現することはできないが、全身のちからでごく自然にうけとめていたさまざまな情景が、知らぬ間に、他でもないぼくのからだのなかのリズムとなりハーモニーとなっていたのだ。続きを読む投稿日:2022.02.15
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