
青色LEDに挑戦した男たち(1)-週刊東洋経済eビジネス新書No.81
週刊東洋経済編集部
東洋経済新報社
わくわく30年前の物理ノンフィクション
30年以上前に実際にあった物理の世界。大発見。大発明はこうしてなしえたのか、と感動できる。今の世の中でのインパクトまで考えていたのも驚きだ。今後の物理学に30年後の世界を変える大発明をする人もいるのかもしれない。私も物理を志していただけに自分の物理人生が悔しい。大発明もまとめて読むと当然の成功に思えるが、その成功の陰にいくつもの失敗もあったんだろう。今後の人生にも勇気をもらえる一冊。
2投稿日: 2014.10.29ISOYAMA-STYLE 磯山さやか3 [sabra net e-Book]
磯山さやか, sabra net 編集部
ISOYAMA-STYLE 磯山さやか3 [sabra net e-Book]
磯山さやか,sabra net 編集部
sabra net
エロイ
磯山さん、エロすぎる身体を存分に堪能できます。ヌードはありませんが、それ以上に楽しめる作りになっております。若干、くびれがないように見えますが、それも色気でカバーします。健全に昼間から見ても、夜見てもいい一冊です。ただし、iPhoneやiPod touchではメモリを消費しすぎてスムーズには見れません。じっくり見るならOK。
0投稿日: 2013.10.08
PRESIDENT(プレジデント) (2013年9.30号)
プレジデント社
プレジデント社
新しい一流の男の教科書
半沢直樹のブームを語る記事が二つ。 「半沢直樹」でスカッとする人はなぜ二流か?という分析。 組織で生きるリーダーには読み応えがある。 もう一つは、『「我慢のしすぎ」は脳によくない』を茂木健一郎さんが書いている。 こちらは脳の仕組みと半沢の普段の仕事シーンとそれを見てスカッとする人の心理を脳からの視点で論じている。 どちらも半沢直樹というブームを深く理解するためにも、今後の組織論を考えるうえでも大きな財産になります。
4投稿日: 2013.09.26
人民は弱し 官吏は強し
星新一
新潮社
(ロボットのような)官僚批判
星新一の基本テーマの一つに 官僚批判がある。 父の星一さんが起こした 星製薬株式会社が 官僚とのいざこざで つぶされた記憶が原動力。 詳しくは 星新一のこの本を読むべし。 本作を読んだうえで、他の新一作品を読むと、 「公務員(官僚)」が一般民衆をコントロールする力と不具合を 「ロボット」というシンボルで表わされているテーマと気づくだろう。
3投稿日: 2013.09.26
下流社会~新たな階層集団の出現~
三浦展
光文社新書
若者の働き方が正規/非正規社員
この本は実際のアンケートをもとに、若者の働き方が正規/非正規社員で大きくわかれ、消費行動や結婚をはじめ生活様式に格差が広がり、中流から落ちこぼれる人が増えていく現状を裏付けるデータを示している。 仮説を含む解説が適切だし、今のフリーターが今後40代、50代になる時代を予想する基礎となる。マーケティング学者の本。 肌で感じている非正規社員の不安を、よくまとめてある。データがある分、説得力はあるが読みにくい。 現状を踏まえた上での提案と予想が最後に書いてある。 ●遺伝的に頑張って稼ぐ人とやりたいことをやって貧乏になるひとが分かれているのではないか?という仮説がある。 ●金持ちは、税金以外に寄付を年収の3から10%はするべき名誉ある義務がある。 上記の二つの意見に大賛成だ。 この本を読んで私はなにをするべきか? ●今、自分の立場は典型的な下流人間だ。これを他人に説明するときのガイドとして使える。私の不安定さは、社会全体の流れであり私一人の問題ではないのだ。 ●私も、もう少し非正規職員を続けて、夢を追う自分らしい気楽な人生を目指すつもりだ。フリーターという仲間がいる現状を考えるとこの方針でもいいと思う。 ●下流社会の平均は、一人で気楽が好き。上流社会は社交的でコミニュケーション能力ある。つまりもっと対人関係力を強くしていくことが、下流脱出のカギだ。普段から友人以外とも会話をしっかりできるようにすること。友達とももっといろいろな場所に遊びに出かけて社会を知ること。これが、この本から得た私の目標だ。
1投稿日: 2013.09.26
これからの「正義」の話をしよう ──いまを生き延びるための哲学
マイケル・サンデル,鬼澤忍
早川書房
アメリカの知的エリートの集うハーバード大学の 「正義」についての講義。
アメリカの知的エリートの集うハーバード大学の 「正義」についての講義。 その最終回「善」について、 私の意見をできるだけ論理的に述べて行きたい。 第12回(最終回)善き生を追求する近代のリベラリズムは、 法律は議論の分かれるような道徳的、宗教の問題には中立であるべきだと主張する。 この見解によれば、法律は、善についての特定の考え方を支持したり、促進するべきではなく、 市民が自分たちの人生をいかに最善に生きるかをそれぞれに選ばせるようにするべきだということになる。 しかし道徳性や共通善についての議論を避けて、正義や権利についての問題を解決することは可能だろうか? 道徳性や共通善についての議論とは、 道徳とは、すべての人が楽しく人生を謳歌できるために、 自分より弱者に配慮することだと思っています。 また、権力者に対しても、権力があれば何をやってもいいのではなく、 今の国民や将来の国民に対して、有益な行動でなければ 権力を与えられる根拠である、国民の信任が崩れてしまいます。 法律は議論の分かれる道徳・宗教の問題に対して中立であるべきという主張には ある程度賛成です。 法律は基本的には、その社会の同意に基づいて常識的な判断をするための根拠の一つです。 法律で決められているから、コウダ。ではなく、 社会の同意がコウダから、法律はこのように解釈すべきだという立場です。 しかし、日本と違い、多様な民族、多様な考え方が併立するアメリカでは 社会の同意という多数決で、毎回裁判に適用する法律を決めるのは、無理だし、非現実的です。 あらかじめ、最低ラインの法律は決めておかないと、 裁判についての信頼性が薄れてしまいます。 法律はある程度、中立につくっておいて、裁判で社会の議論を見ながら、判決を出していくのが ネット社会での裁判のあり方と、法律のあり方になっていくべきでしょう。 つまり、法律はある程度、中立に作ることで、 裁判官の裁量に任せて、裁判官は新聞や、インターネット上の議論に 配慮しながら、そのケースごとに判決を出すという、 ことで議論の分かれる問題に対処するのが、いいと、私は思います。 なぜなら、それが、社会の同意を法律に組み入れる現代のネット・情報社会らしい、 法律と裁判の関係だと信じているからです。 A)1977年に、アメリカのナチス党は、ナチスによるユダヤ人大虐殺の生存者の多くが住むイリノイ州スコーキで、 デモを行おうとした。市がそれを拒むと、ナチス党は裁判所に訴えた。 スコーキ市が公共の場での憎悪発言を禁止したことは許されるだろうか? 見解の分かれる発言の価値について評価することなしに、この質問に答えることは可能か? ナチス党が、アメリカでデモを行うことを禁止したのは、 ユダヤ人が住む町では、仕方がないことでしょう。 なぜなら、不愉快に思う人が多い行動を 市が許可すれば、、それを止める行動を改めてユダヤ人側が起こさねばなりません。 最初から、許可しないのは、 自由に反することですが、極度に不愉快に感じる人が住民にいるのならば、 その住民の利益を考えて、自由をある程度制限するのは、仕方ない。 なぜ、そんなに許されないことと考えるのか? その事情がよくわからない。 それほど、デモの自由が大切なんだろうか? B)人間は受胎と同時に人間となるのだから、中絶は殺人となると信じている人がいる。うつうぜ 一方、女性には自分自身の体に関する判断をする権利があるのだから、 中絶は合法であるべきだと主張する人もいる。あなたはどう思うか? 中絶は合法であるべきか?どのような条件であれば中絶められるべきか? 中絶が殺人となるかどうかをという論争を避けて、中絶が合法であるべきかどうかを決めることはできるか? 中絶は生きている現実の母親の幸せを望むための選択肢のひとつである。 殺人だからといって、社会に与える損害は程度が違う、 犯罪者に死刑を与える法律もあるし、 安楽死を望む病人もいる。 死を自ら望み命を絶つ人もいる。 それらはそれぞれ、社会に損害を与えるが、 それはその命に、社会が投資した教育や愛情などによって 価値が違う。 命の尊さに上下はないのかもしれないが、 それは、建て前であって、実際には、価値の高い命というのがある。 それが、社会に与える幸せや貢献の大きさから判断される。 中絶は殺人になるのかもしれないが、 母親の幸せを第一に考えるべきだろう。 その母は、愛されたという、社会に価値を認められた存在だし、 その愛される年齢までの教育を受け、役割を果たしてきた証として、 高く評価されるべき命だ。 それに対して、中絶された子供は、まだ、教育も役割も果たしていない。 それならば、その母親が望むなら中絶を完全
2投稿日: 2013.09.25
ソクラテスの弁明
プラトン,戸塚七郎
グーテンベルク21
古典中の古典。
古典中の古典。 ソクラテスが70歳のとき、 若者を堕落させる教育をしていると言われる罪で 裁判にかけられ 稀有な知者として 「無知の知」を説く有名な場面のあと、 有罪が確定し、 私は大国の眠りを覚ます虻のような存在で、 私を死刑にしたあと、 私のような知者はめったに現れない、 私を死刑にしたあと、それが誤りだったと歴史が証明する、 みたいなことを言ったあと、 最後、処刑されてしまう。 裁判官や政治家など知者とみずから思っている者の前に出向いて あなたは自分が知らないということを知らない。 私は自分が知らないということを知っているというだけ あなたより知者である、いう 産婆法とかいう方法で相手をやり込めてしまう。 この辺、さらっと読んだだけで、 背景になる知識も少ないので、 知っている人から見られると恥ずかしい。 単にこの作品がなぜ これほどに古典として有名になったのか?? 裁判という場面で、 ソクラテスという哲学者が言い逃れをせずに 自らの主張を曲げずに死刑にされるっていう構図が西洋人は大好きらしい。 これは、キリストでも同じで マタイ受難曲でも キリストが愛を説いているのに 反逆者として磔にかけられて 処刑される。 これは、偶然の一致じゃなくて、 西洋人の好きなパターンの 典型だからだと思う。 裁判が、必ずしも真実を見抜けない、 しかし、時代は裁判という決定を重視して 知者や賢者や聖人を処刑していくという西洋の歴史を 表しているのかも知れない。 日本で、 裁判の結果で聖人が殺されるなんて、 話ってあんまり有名じゃないよね?? 忠臣蔵が、公の決定で、 浅野なんとかが死刑になり、 あだ討ちをした 全員、死刑になるぐらいかな。 これだって、賢者だから殺されるわけじゃないし。 お坊さんが迫害にあったって話は多少聞くけど、 あれは、宗派による勢力争いだからねえ。 日本と西洋じゃ、劇に対する見方や、 聖人を裁判にかけるっていう考え方が違うのかな。
1投稿日: 2013.09.25
