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薔薇の名前[完全版] 下
薔薇の名前[完全版] 下
ウンベルト・エーコ、河島英昭、河島思朗/東京創元社
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総合評価

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    このレビューはネタバレを含みます。

    対話の場面に迫力が漲っていて、やっぱり自分は物語内で思想の違う者同士が対話を重ね思考を深めていく場面って好きだと感じた。象徴的なのは「笑いと信仰」にまつわる一連のやり取りで、神学と哲学がバチバチと意見を戦わせていくことにより、どちらの意見に賛同する/しないにしても、濃密にキリスト教における「笑い」の特異性が頭にインストールされていき、言葉の威力をひしひしと感じる。笑いは神への恐れを薄れさせてしまうものなのか。仮に薄まったとしても「寛容性」として機能する笑いを受け入れるべきなのか。 「初めに言葉があった」という始まりからもわかる通り、全編にわたって聖書のモチーフが使われ、文書館で起こる連続殺人事件もヨハネの黙示録に沿って行われる。それ以外にも『詩学』『神曲』『そして誰もいなくなった』といった書物からの引用、オマージュも備わり、読者の知識量を試すかのよう。バスカヴィルのウィリアムと、その弟子アドソという主役二人のポジション自体がホームズとワトスンを彷彿とさせ、歴史小説のような在り方をしながら、扉をくぐってみると探偵が館で右往左往する愉しいミステリーが始まるのも不思議な手ごたえ。たぶん作者のウンベルト・エーコはジョークが好きな方だろうし、サービス精神が旺盛な方なのだろう。 舞台となる中世ヨーロッパの雰囲気をたっぷり味わえるよう、あえて登場人物を多めに用意し、馴染みのない名前によって異世界感を演出。異端と正統に関する論争や、途中で登場しアドソと邂逅を交わす少女の謎、多層な解釈を可能とするタイトルの意味。一読で読み解くには骨のおれる要素が多いものの、骨格は「推理小説」であるため、波に乗ればわりとすいすい泳ぎ切ることが可能である。 古今東西の叡智を寄せ集めた「書物についての書物」であるため、ミステリーとしては新味に欠けるかもしれない。しかし個人的には「何らかの事象に沿って行われたと思っていた犯罪が、探偵の憶測に基づいて後付的に行われたものだった」という順序を逆転させるという発想は斬新だと感じた。 また、語り手が「18歳のアドソ」「80歳のアドソ」「その手記を訳したエーコ」と言ったふうに多層になっているのも、この「禁じられた一巻の書物」の神秘性を高めてもいて、しかし同時に、記号論についての物語であることをテーマとして掲げることにより、何らかの読み解きを”無効化する”視線もただよい、つまり一言でいうと感想を書きにくい。 だってこのお話、というか『薔薇の名前』という本そのものが、言葉と言葉の連なりによって何らかの物語性や真実らしきものを人間は見出してしまうよね、ってことを語っている節があるから。それは重要な意味を持っていそうで実のところ大した意味を持たない(ように見えて実は持ってる?)タイトルにも現れていて、迂闊なことを言うことも、怠惰に読むことからも逃げづらくするよう先回りして書かれてるんだもん(のわりにミステリーとしても、歴史小説としても楽しませてくれるのが、エーコの性格の悪さとサービス精神の高さを表しているように思うのだけど)。 巻末には約150ページにわたって旧版から追加収録された作者による「覚書」「スケッチ」、そして訳者による解説が収録されており、読むと理解度が高まる。それとは別に、エーコの描いた登場人物たちのスケッチは妙に可愛くて癒された。新訳は流麗で格式があり、旧版と見比べたわけじゃないけれど、とても良い訳になっていたと思う。ありがとうエーコ、私を迷宮に連れて行ってくれて。

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    投稿日: 2025.12.30