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縄文 革命とナショナリズム
縄文 革命とナショナリズム
中島岳志/太田出版
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総合評価

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    中島岳志氏と縄文、、、初見ではなぜ中島先生の新著で縄文が取り上げられているかの意図がよくわからなかった。 しかしながら、読み進めていくにつれ、本書が縄文というキーワードを追い求めた人々の思想や幻想を追う論考であり、ナチュラルとナショナル、という戦前の農本主義と近い現象であることがよくわかった。戦後、岡本太郎に始まり、柳宗悦の民藝論、島尾敏雄の「ヤポネシア」論、吉本隆明、スピリチュアリズム、太田竜のような左翼思想家、さらには梅原猛等、多くの人が縄文を論じ、理想視した。終戦直後に国家神道等の戦前の世界観が崩壊し、日本人が自分自身のアイデンティティを喪失したことで、戦前の思想が受け継ぐ弥生時代からの連綿とした価値観以外のところ、つまり縄文にアイデンティティの一端を求める悲痛な動きが活発化した。縄文は歴史学的に解明されている内容が多くはない。こちらは本文からの引用だが、「人々が縄文に何を仮託してきたのか」と追うことは、その時代の理想や欲望を明らかにすることに繋がる。戦後史の中に「縄文」という補助線を引くことによって、新たな歴史が浮かび上がってくる。そう考えて、中島氏は戦後の縄文言説を追ってきたのである。 岡本太郎は、日本の弥生的な、整然かつ貴族的な価値観へのアンチテーゼとして、縄文の猛々しい魅力に真の日本の姿を見入った。島尾氏の「ヤポネシア論」は、奄美大島等の温暖な気候から、日本は本来的にはミクロネシア等の諸島部にルーツがあるのではないかという仮説を提示した。太田竜は、本論考の中心的な人物でもあるが、彼は左派として<被征服民としての日本原住民><征服者としての天皇・天孫族>の闘争という構造で日本の歴史を捉え直し、連合赤軍として日帝打倒の旗印として縄文やアイヌ族への再評価を試みた。また、その他の思想家も西洋近代文明や物質主義へのアンチテーゼとして、縄文論を展開した。こうした縄文への信奉が排外主義やナショナリズムと結びつくのは想像に難しくない。こうした物質主義への超克の意思は、エコロジー論や自然派にも影響を与えている。まさに、冒頭に引用した中島氏の主張のように、縄文幻想の中には常に、戦後日本人の同時代批判の自画像が埋め込まれている。その系譜をたどると、戦後日本人の新たな精神史が浮かび上がるのである。 大人気漫画のワンピースも、大きな筋書きとしては、800年前の歴史が空白とされ、<被征服民><征服者>という構図が見え隠れする。現代批判は常に、歴史の中の空白に論拠を求められるという説話形態は人々になじみやすい。近年の陰謀論等に代表されるような、「誰かが裏で糸を引いている、支配している」という信仰と、縄文のような未解明でありながらも素朴で無垢なイメージは常々利用されてきた。無論、何を信じようと人々の自由ではあるが、そうした言説が安易な排外主義に結びついたり、社会制度そのものへの無視できないレベルの批判となる場合には、しっかりと警鐘を鳴らさねばならない。

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    投稿日: 2025.08.31
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    中島岳志氏、的を射た政党、政権の分類方法で、好きな政治学者。 そんな彼が書いた「縄文」。 弥生時代に誕生した現天皇家の系統と、縄文文明の存在は相いれない。 そのあたりを鋭く突く本なのかな、と思い読み始める。 目次を読んでもそういう流れ。 しかし、、、 まずは中島少年が縄文に惹きこまれたほほえましいエピソードにはじまり、 岡本太郎が「縄文」を再発見したお話に。これは魅力的。 弥生の平板な文化より前に、日本人はこんな熱い文化を持っていた! このあたりはわくわく。 そのあとがよくわからなくなってきた、、、 「ナショナリズム」はまさに私も持つ問題意識をえぐるところなんだろうけど、 なぜかそう読めなかった。 ん-。 なんでだろ。読解力がないのかな、私。 途中から流してしまった、、、 あ、大事なこと?書くのを忘れてた。この本を読んで思ったこと。 これだけナショナリズムとして政治利用もされてしまう縄文弥生。 すっきりさせるためには、天皇陵を発掘すればいいのだ。 天皇は政治的発言はしてはいけないけれど、自分の墓を学術的に調べさせることには 何の問題もなかろう。 昭和天皇も上皇もできなかったことだが、今こそ、今上天皇、というか、 我々にとっては浩宮様が、英断すればいいことなのではないか。 科学的に過去の天皇陵とされるものを調べれば。 紀元がホントに2600年+80年以上なのかどうか、調べればいいのだ。 天皇は何も言わずに。 政府がそれをさせないとしたら、それこそ天皇家の政治利用だ。 どうだろう。 序章  戦後日本が「縄文」に見ようとしたもの 第一章 岡本太郎と「日本の伝統」      縄文発見      対極主義と「日本の伝統」 第二章 民芸運動とイノセント・ワールド      民芸運動と「原始工芸」      濱田庄司の縄文土器づくり      最後の柳宗悦 第三章 南島とヤポネシア      島尾敏雄の「ヤポネシア」論      吉本隆明『共同幻想論』と「異族の論理」      ヤポネシアと縄文 第四章 オカルトとヒッピー      空飛ぶ円盤と地球の危機      原始に帰れ!——ヒッピーとコミューン 第五章 偽史のポリティクス——太田竜の軌跡      偽史と革命      「辺境」への退却      スピリチュアリティ・陰謀論・ナショナリズム 第六章 新京都学派の深層文化論——上山春平と梅原猛      上山春平の照葉樹林文化論      梅原猛——縄文とアイヌ 終章  縄文スピリチュアルと右派ナショナリズム

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    投稿日: 2025.08.15
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    なにかで中島さんが梅原猛を集中的に読んでいるという話をされていた。縄文について書こうとしていると。完成するのを楽しみにしていた。完成した目次を見ると、岡本太郎や民藝までは良い。島尾敏雄も興味はある。しかし、オカルトとかヒッピーとかスピリチュアルとか、おいおいどこへ行くのか、という感じ。そして最後に新京都学派となる。うーん、どうするか。ということで、図書館に購入していただいた。読了して、これは手元に置いておきたい一冊だと思った。が、おそらく、サイン本とかあれば買ってしまうかもというくらいの感じ。さてまたまた、ブクログでメモを取りながら読んでいるので、それらをつないでいく。まずは岡本太郎。まあ、とりあえずすごい人なんだと思った。「縄文土器は非情なアシンメトリー、逞しい不協和のバランス」なるほど。民藝の話に移って、柳宗悦「美醜のかなたへ」(「優劣のかなたへ」と言ったのは大村はまだったか)。島尾敏雄は「ヤポネシア」、これはしっかり読まないといけないかな。縄文の狩猟採集(漁撈採集ということばが本書にはとうとう一度も出てこなかった。島国としては漁撈の方が重要かと思うが。これは本書の最後に出て来る安田喜憲だったか、それとも網野善彦だったかで読んだ)から弥生の農耕牧畜へと移っていくが、縄文の良さを持っているのが南方の島や東北(蝦夷)ということか。そして突如、宇宙考古学、UFOと縄文、土偶は宇宙人などというキーワードが登場する。そこでは、三島由紀夫「美しい星」や手塚治虫「勇者ダン」などが紹介されている。さらに、ヒッピーの話が登場する。反ロゴス中心主義は良いのだけれど、どうしてそこにLSDなどが出てくるのか。ちょっとついて行くのが苦しい。「バム・アカデミー」全く知らない世界だ。僕がまだ生まれる前か。このあたり、ついて行くのがつらいと思っていたが、次第に自分の中のものの考え方とどうも親和性が高いような気がしてくる。文明の原始人。「奄美で新たに開設したコミューンを「無我利道場」と名付けた。ヒッピーたちにとって、石油精製基地建設に反対することは、ヤマトという資本主義文明に対する抵抗運動であり、エゴイズムを乗り越える精神修行そのものでもあった。」UFOは無理だけれど、このヒッピーたちには共感できる。反原子化、なるほど。反原子力と原子化(個人化)から原始化。アトムではなくプリミティヴか。「私たちが原始化を志向するということは、原始人になることでも、昔に帰ることでもない。それは近代的自我の独房を破壊し、解体し、意識を解放、変革し、生きとし生けるものに愛を感じ、実在と観念の同時性、リアリティの復活、宇宙的アイデンティティの確立を目指すことである。それは『近代』という媒介を通して止揚されるべき自我の再統合であり、『世界』の奪回であり、「万物は一なるものの多様なる顕現である」という不二一元論の自覚であり、ブラフマン(梵)とアートマン(我)の一如であり、サンスクリット語で結合を意味する『ヨガ』の完成である。」なんと格好良いではないか。縄文=反ヤマトという考え方。札幌医大における人類学会の場面では手に汗握る。埴原和郎、やっと知った名前が出てきた。実は、4章あたりから知らない名前が次々に出て来て、少し混乱気味であった。結局ほとんど記憶には残っていない。ただ一人、太田竜の存在は同時代人として知っておかないといけない。全く聞いたことがないのだけれど。次には、福岡正信、野口三千三の名前も登場する。このあたりは何冊か読んでいる。そしていよいよ新京都学派。今西錦司、桑原武夫、中尾佐助、上山春平、梅棹忠夫、トリは梅原猛。草木国土悉皆成仏(本書では山川草木悉皆成仏とあるが、「人類哲学序説」(岩波新書)では草木国土悉皆成仏がざっと26回ほど出て来る)日文研の話は完全に僕は受け入れてしまうのだが、否定的な意見はその後どうなったのだろう。日文研で井上章一が活躍したりするのだから、政府の言いなりとかそういうことはないと思うのだが。まとめに入って登場したのが谷川徹三(俊太郎の父か)。その言葉から「この両者は美の性格において対照的に異なっている。縄文土器は自由で奔放な形と装飾性とに見られる怪奇な力強さを特色としている。そこには渦巻いている幻想があり、暗い不安が秘められた情念の焔をあげているようなところがある。これは同じ時代の土偶に一層はっきり見られる性質である。弥生土器はそれに反して、強烈なものや怪奇なものをいささかももたない。それは器物の機能に従った安定した美を示している。それはすなおで優しく、明るく親しみ深い。 人物や動物の埴輪の、無邪気に無心につくられた素朴な美をこれに加えれば、それは一層はっきりするだろう。」谷川は縄文型の美が継承されているものとして、「民芸」や「民具」を挙げる。それは「絵馬にも、衣装の模様にも、芝居の看板絵にも、勘亭流の書にも、囲炉裏の自在にも、大工の墨壺にも、ネブタや凧の絵にも、欄間の飾りの牡丹や唐獅子にも、ナマハゲの鬼面にも、いたるところに」 現れている。なるほど。分かりやすい。一九六〇年代以降、「縄文」「弥生」論には、日本文化を貴族というブルジョアではなく、民俗世界の担い手である民衆レベルから定位し直したいという階級的認識が、次第に介在するようになる。そして、そのような民衆世界の前衛という意識が、左派知識人の縄文礼賛論となって表れてくる。弥生に対する縄文礼賛は、ブルジョア対プロレタリアートという階級闘争とつながり、土着的視点から天皇制国家を乗り越えようとする左派の縄文論を生み出していった。最後に安田喜憲も登場。ここまでは良い。ところがこの先がいけない。西尾幹二の「新しい歴史教科書」につながり、ちょっと怪しげなスピリチュアルから一気に参政党につながっていく。そして、そこに安倍昭恵が。どうやら、中島さんの問題意識はここにあり、ここから縄文探究が始まったようなのだが。だからこそのサブタイトルということか。僕には、安田喜憲の先には環境考古学の話から、中川毅、年縞の研究につながっていって欲しいところなのだが。まあとにかく、本書を読んだことで、太田竜などの流れがあったということを知ることが出来た。なかなか興味深い考え方ではある。もっとも危機察知能力はあると思うので、そこにずっぽりハマっていくことはないと思う。そう言えば、大学1年生の頃、しょっちゅう理学部自治会主催の講演会などに参加していたら、民青の事務所に連れて行かれて、サインを強要されそうになった。逃げたけど。 Twitterには書いたが、安部公房、僕が見つけた範囲で2ヶ所、安倍公房とある。気持ち悪い。重版時に直してほしい。

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    投稿日: 2025.08.07