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子どもの体験 学びと格差 負の連鎖を断ち切るために
子どもの体験 学びと格差 負の連鎖を断ち切るために
おおたとしまさ/文藝春秋
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総合評価

22件)
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    結論には賛成だが、子どもに親として色々なことを体験させたいということが、そこまで言われることかは疑問。昔は良かった的な記載も多いが、そこまで美化されるほどのものでもないと思う。

    0
    投稿日: 2025.10.14
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    「体験格差」なんてないんだというお話。 説得力があり、体験の量や質を格差だと感じてしまう日本社会全体への提言でもあった。 自分自身の少年期を振り返ってみても、著者の言っていることに凄く共感できた。 子どもにとってはあらゆることが体験であり、それを見守れる余裕のある人間が必要なんだと思った。

    0
    投稿日: 2025.10.06
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    このレビューはネタバレを含みます。

    述べられていることは非常に興味深い。 確かにそうだとも思える。 ただ、ではどうすれば良いのかというところで最後に結局親としてできることは、教育的な意図を持った体験はさせなけても育つから、先回りして出来上がった体験をさせなくても大丈夫というのは理想論すぎるように感じた。 とはいえ周りがやっていると焦るのが親である。 そこで、うちはそんな体験させなくても大丈夫と自信を持って抗える親が果たしてどれほどいるだろうか。 子どもに非認知能力を身につけて欲しかったら、まずは親が身につけろというのも投げやりすぎる。 では親になってからの非認知能力はどのようにつけたら良いのかと考えてしまう。 読了後も路頭に迷ってしまう。 言っていることはよくわかるが、現実的に難しいだろう特に経済格差が酷い都市部では。というのが、この本を読んだ素直な感想でした。

    1
    投稿日: 2025.09.18
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    本来の学びとは何かを考えさせられた一冊でした。 子供にどのような体験をさせたいのか(させるのか)を改めて考えさせられる一冊になりました。 昨今の非認知能力主義に対して一石を投じる内容にもなっています

    0
    投稿日: 2025.09.12
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    ちょうど子どもに「何を体験させよう」「忙しすぎて、お金もなくて、体験させてあげられないかも」と不安を抱えているところで読んだ。じゃあ「何もしなくていいか!」という話ではない。 親自身が心から楽しいと思うことをやる。子どもと一緒にやりたいことでもよいか。子どもが心からやりたいと思うことを見守る。「〜のために」じゃない。「私がしたい」。 格差なんてない。我が子が、我が子の中で一番。なぜなら、やりたいことをやって、共に「楽しい」から「つまらない」「つらい」まで体験したのだから。 …と、理想は思うは自由だ。要は、自由だ。

    0
    投稿日: 2025.09.10
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    子どもの体験格差に関して、ありきたりではない本質を捉えた考え方に驚かされました。言われてみればあたりまえのことなのですが、流行語のように突然湧いて出てきた「社会課題」にすっかりわかった気になっていた自分が情けないと感じました。木を加工した「木材」、動物を加工した「食材」、人間を何らかの目的に作り変える「人材育成」と「教育」の違いの話しは圧巻でした。

    0
    投稿日: 2025.08.13
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    このレビューはネタバレを含みます。

    ・教育格差によって学びが課金ゲーム化  学力で序列化する社会=日本型メリトクラシー →非認知能力のため、体験までもが課金、消費、競争対象  生きる力を含めた序列化社会=ハイパーメリトクラシー →体験斡旋ビジネスが勃興 ・三間(時間、空間、仲間)+余裕のある大人がいれば子とも同士で学び合える  →ないからアウトソーシング、サービスで埋める  →お金がかかるので貧困問題と結びつく  →サービス利用の多寡が「体験」の格差に見えてしまう ・たくさん体験を消費して、子どもにもたくさん体験を消費させられる親になりましょう、というマインドセット  →体験消費社会 ・体験消費社会への警告 ①子育ての家庭依存が進む  社会が本来の機能を失い、競争の場になっている  教育が子どもたちを武装させる営みになっている  「一人の子どもを育てるには村全体が必要だ」 ②学びの喜びが奪われる  学校ができたことによって勉強と体験が区別された  →学力で競わせ序列化されるようになった  →体験から得られる学びも同じようにされている ③子どもたちの自己像が歪められる  武装としての体験は、幸せを見つけることにはならない  →なのに「体験が少ない自分は可哀想」とラベリングする恐れ  →本来の体験はむしろ、そのような見えない檻の外に出て自由になるためのもの ・貧困の子どもたちは体験の機会も不足する、という視点  →支援を集めやすくするインパクトが「体験格差」という言葉にはある  →一方、言葉の響き自体が私たちの無意識の中に暗黙のルールをマインドセットとしてさらに強く刷り込み、ゲームをより過酷なものにしてしまう  →暗黙のルールとマインドセットが「呪い」 ・格差を根本的解決ではない  格差があってもそれぞれ幸せに生きられる社会が理想

    0
    投稿日: 2025.08.02
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    どんなことも子供にとって経験になるということを、如何に大人が理解していくか。 貧困が原因で体験できない子供がいる。一方で、体験で非認知能力を得させようという大人から、表面的な体験を強制される子供がいる。 本書は体験消費社会になってしまっている現状に警鐘を鳴らしつつ、何が必要かを説いていく。 読んでいて、2章で採り上げられる団体の活動と、著者との対談がかなり印象に残った。 非認知能力を育もうという意識で関われば、それは勉強になってしまう。そうではなく、ある物から子供が興味を持ったり、ときにはボーッとすることも大きな経験だと。ともすれば、何かを学ばせる(本書はこの強制させる感じも良くないと言う)ことが経験と捉えられがちだが、そうではないよなと、本書を読んでいてあらためて感じることができた。

    0
    投稿日: 2025.07.17
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    こどもにより良い人生を送ってほしいという親心から、習い事を選んでいたつもりだが、自分の不安を解消したいだけだったかもしれないと反省。 共働きで時間をつくるのが難しく、そんなに多くの習い事はさせてあげられないことに後ろめたさを感じていたが、そんな心配よりもこどもが自分で好きなことを見つけていく可能性を信じてあげることが大事なのかも。

    17
    投稿日: 2025.07.13
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    小学生の我が子に体験学習型の習い事や夏休みの体験イベントを熱心に勧めている自分がまさに本書で戒められたような気分だ。 自分でも知らないうちに、人生や人格の豊かさが子どもの体験で決まるような思い込みがあった。 ただ、現在の社会では、子どもだけで外で過ごさせる・遊ばせることもできない。公園は禁止行為の注意書きの看板があり実質何もすることができない。外は不審者がいるからと子どもから目を離すことは許されない。親は大抵共働きで、学校が終わったあとは学童に預けられ、外で自由に過ごす時間なんてない。 そんな環境だから、子どもに習い事をさせなくてはならない。そうでもしないと、子どもは何も体験することができない。我が子も週に3日の習い事があり、友達も忙しいと遊ぶことも難しい。 社会環境は最悪だ。 本屋に行けば非認知能力を謳う本が並んでいる。 「〇〇力」という、ほんとにそんな能力があるのか分からないけど、メディアでは当然のように使われてる。 非認知能力を子どもに獲得させて、勝ち組にさせたいという誤ったマインドセットはなくしたいと思った。これからは親の価値観を押し付けず、子どもの意思を見守って育てたい。

    8
    投稿日: 2025.07.13
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    内容に同意しかなかった というか、今の都市部の子育てってこんな感じなのか笑 田舎育ちゆえ、ここにかかれてる理想的な環境そのもので育ったからこそ、自分が親になった時もその環境になりたいと改めて思った あとやっぱり、大人に余裕がない社会の皺寄せが子どもにいってる気がしてならない…

    1
    投稿日: 2025.07.05
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    かつては、子どもの貧困について、教育格差という社会問題があった。現在では教育格差にプラスして体験格差なる言葉まで出てきた。 子どもの能力を伸ばすため、社会的成功のためには学力(認知能力)だけではなく、非認知能力の獲得が欠かせない。 そのために、子どもにあれもこれも習い事をさせ、小さいうちから海外も含めた色んな旅行に連れて行くべきという価値観だ。 しかし、その価値観が暴走し、〇〇力を獲得するための〇〇体験なるものが流行り、子どものあらゆる体験が親の課金ゲームに成り下がっていると著者は警告する。 誰もが子どもの頃に感じた「ちょっとほっといて!」という感覚を忘れてはいけない。 特に今は少子化ということもあって、大人が子どもに構いすぎる。何でも先に答えを教えすぎる。 子どもが聞いてきたことには真剣に答える必要があるが、それ以外について、大人の方からあれこれと、これどうだった?と聞いみたり、これもやってみれば?と提案したり、これはこうなんだと先に答えを教えるのはいかがなものか。子どもは興醒めして逆に興味や関心を失ってしまう。 習い事にいくつ通っているとか、旅行に何回行ったとか、それが子どもの将来にどう影響を与えるかはわかっていない。それなのに、大人たちはそれが多いほど良くて少ない子はかわいそうという目で見る。そんな社会で育った子どもは同じように感じてしまう。それは社会全体にとってとても不幸なこと。 現在は、体験格差ではなく、体験消費社会といえる。体験に非認知能力獲得という機能が紐づけられ、非認知能力は経済的成功に欠かせないと錯覚させられ、体験の格差が経済格差の世代間連鎖と紐づけられて語られるようになった。 本来、体験というのは習い事や旅行とは関係なく子どものあるゆる経験(親の離婚、貧困などマイナス体験も含めて)お金のかからないものであった。 本書では、そもそも教育格差も体験格差も幻想であると主張する。 職業による収入の差が大きいからこそ社会に格差が生まれ、やがて世代を通じて子どもに連鎖する。それならば、職業による収入の差をなくすべきだというのが本書の結論。 そうすれば学力や非認知能力の違いはあっても、皆んなが等しく尊厳をもって生きることができ、そこには格差が存在しない。 教育格差や体験格差の格差をなくすことは理想社会実現のための一つの手段にすぎず、目的では決してないと締めくくっている。

    0
    投稿日: 2025.06.13
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    同じく新書で話題となった『体験格差』と同類かと誤解される向きもあるかもしれないが、本書は逆に「体験格差」なる概念が子どもの世界に持ち込んでしまう諸々に対して大きな懸念を示す。 世代を超えて経済的な格差が受け継がれ固定化されてしまうのは問題であるとの前提は共有した上で、各家庭の抱える細かな違いを揃えることでかえって競争の結果の正当性が強調されてしまうことにならないか?様々な体験を外注することで得られる結果が保証されているかのような倒錯が起きていないか?そもそも体験で得られるとされる「非認知能力」とは何なのか?など、著者の様々な疑問を子ども支援の現場で奮闘する人々とともに議論する。 最後には著者が違和感を感じる『体験格差』の著者にも直接疑問をぶつけ回答を得ている。言いっ放しではないところに好感を持てる。

    4
    投稿日: 2025.05.25
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    子どもの習い事について色々悩んでいたので読んでみました。 内容は、体験格差の定義、社会的な構造などについて書かれています。 著者が教育ジャーナリストということもあり、教育に関するカタカナも多く、慣れない人はこれどういう意味だっけ?となるかと思います。 体験格差について考える機会がないまま、TV、雑誌などで取り上げられるので体験(習い事、旅行など)について新しい視点を持つことができました。 体験についての私の解釈は、以下の通りです。 体験は、多くしてほしい(チャレンジをしてほしい)。 しかし、その体験をやる前に子どもの判断でどの体験をするのかを選ぶ機会を設ける。 やりたいと思わないこと(気持ちが入らないこと)をしても能動的な作業となり、新たな学びにはつながりません。 親にできることは、この体験の種類を多く提供しすることで、何が自分の好みなのかを判断する材料の提供です。 あとは、家族で体験するのか、友達と体験するのかなど誰と体験するかを変えることでまた新たな学びになると思います。

    10
    投稿日: 2025.05.15
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    子供は子供らしく 子供のやりたいという欲求を大切にしたいと改めて考えさせられた本です。 主体的に考え、行動できること。 与えられすぎると考える事が困難になるそう思わずにいられなかった内容でした

    0
    投稿日: 2025.05.14
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    ママ友の子供で、習い事を5つとか6つとかやっていて土日ハシゴしたりしていてすごいなーと思っていた。自分の子供にももっと習い事をさせたいと思っていたところだったので、本書はなかなかに今の私にグサグサと刺さるところが多かった。 習い事のあとで「どうだった?」と聞くのは答えを強制しているようだからよくない、というのが印象に残ったので実践しようと思った。私もやってたし。 でも。本書を通読して、やっぱり女は子供を産んだら(少なくともしばらくは)主婦になって、いつでも子供に向き合える余白の時間を作るのがいいかなあ、と思い至り、そう自分が思ったことが、よい事なのか悪い事なのかは…分からなかった。もしかしたらこの本、ワーママさんたちは読んでいてつらくなることがあるかもしれない。 決して著者の結論がそう言ってるわけじゃないんだけど。でも私にはそう読めた。 著者はおそらく聡明な人だから、そう断言しない品性を持ち合わせているだけ。 (夫に余白の時間がたくさんあって私が稼ぐのもよいのかもしれないけれど、そういう男の人が夫だったら私はいずれ尊敬できなくなるだろうなあ。。) インタビューしている人たちの活動が楽しそうで行ってみたくなった。一方でちょっと左翼っぽさというか、なんだろう。そういうのも感じた。今のままでよいんだよっていう全肯定してくれる場所はもちろん必要だと思うけれど私はやっぱり上に向かって努力できる人間が好きだし子供にもそうあってほしい。と思うのは親のエゴなんだろうか。

    1
    投稿日: 2025.05.07
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    主なテーマは以下の通り。 学力から非認知能力へのシフトと体験への過度な期待: 学力だけでなく、ペーパーテストでは測れない非認知能力が重要視される時代において、様々な体験がその育成に不可欠であるという考え方が広まっている。しかし、これに伴う過度な期待や焦りが指摘されている。 体験格差の存在とその影響: 経済状況によって子どもが経験できる体験の質や量に差が生じている現状が示されている。この体験格差が、学力格差と同様に、子どもたちの学びや将来の選択肢に影響を与えている可能性が議論されている。 非認知能力の多様性と定義の曖昧さ: 非認知能力とされる能力は多岐にわたり、その定義や評価方法は必ずしも明確ではない。この曖昧さが、体験を通じた非認知能力の育成という考え方をさらに複雑にしている。 体験と経済原理の結びつき: 本来、体験は個人の成長や学びにとって価値のあるものだが、経済的な価値基準や競争原理が持ち込まれることで、体験自体が消費される商品となり、「より多くのお金をかけた体験が良い」という価値観が生まれている現状が批判的に捉えられている。 真に子どもに必要な体験とは: 経済的な価値や大人の期待に囚われず、子ども自身が主体的に取り組み、心の底から楽しめる体験、そして多様な他者と関わる中で得られる安心感や自己肯定感につながる体験の重要性が強調されている。 社会構造の問題としての体験格差: 体験格差は単に個人の経済状況の問題だけでなく、教育や社会全体の構造的な問題として捉える必要があると主張されている。経済格差が体験格差を生み、それが世代間の負の連鎖につながるメカニズムが分析されている。 「呪い」を断ち切るための社会の役割: 体験格差の「呪い」を断ち切るためには、個人や家庭の努力だけでなく、社会全体で子どもたちが安心できる居場所や多様な体験機会を提供する必要があることが提言されている。 最も重要なアイデアと事実 「体験格差」という言葉の浸透と問題意識の高まり: 「体験格差」という言葉が新語・流行語大賞にノミネートされるなど、社会的な問題意識として広く認知されている。「はじめに」では、「子どもの体験 学びと格差 負の連鎖を断ち切るために」という書籍のタイトルに「体験格差」という言葉の衝撃力が凝縮されていると述べられている。 非認知能力への関心の高まりと教育現場への影響: 大学入試におけるペーパーテストからの脱却の流れもあり、「学力よりも非認知能力が大切らしい」という言説が広まっている。「非認知能力を伸ばすには、いろんな体験をさせたほうがいいらしい」という考え方が教育現場や保護者の間で広がっている。 教育費の家庭支出の増加と体験への投資: スポーツや芸術、家庭学習、教室学習など、学校外教育への家庭支出が増加しており、特に未就学児や小学校低学年での増加率が高いことが示されている。これは、体験への投資意欲の高まりを裏付けている。 非認知能力の多義性と混乱: 非認知能力という言葉は、「コンピテンシー」「ソフトスキル」「ライフスキル」など様々な言葉に置き換えられており、その定義は曖昧である。「認知能力」と「非認知能力」という言葉が心理学と経済学で異なる意味で使われていることが指摘されている。 体験が経済的価値基準に支配されている現状: 「お金を払えばメニューから選べて誰でも参加できるような体験」や「たくさんお金を払えばもっとさせてもらえるような体験」は、「交換(消費)としての体験」であり、「子どもに力は湧かない」と述べられている。体験が経済原理に則って商品化され、消費の対象となっている現状が批判されている。 真に子どもに必要な体験は主体的な遊びと他者との関わり: 川崎市子ども夢パークの事例が紹介されており、そこでは「ありのままの自分でいられる場」「自分の責任で自由に遊ぶ場」が提供されている。このような場での体験は、経済的価値や大人の期待から解放され、子ども自身が主体的に遊び、他者と関わる中で安心感や自己肯定感を得る重要な機会となることが示唆されている。 体験格差は社会構造の問題であり、解決には公共の場が重要: 体験格差は単に家庭の経済状況の問題だけでなく、社会全体の構造的な問題として捉えられている。「地域にある図書館、体育館、公民館、児童館みたいなところを活用して、単純に居場所をつくってあげるだけでいい」と、公共の場が子どもたちの体験機会を提供する上で重要であることが述べられている。 「呪い」としての体験格差論と功利主義的な教育観: 体験格差は、学力や非認知能力といった「能力」を重視し、それを将来の経済的成功と結びつける功利主義的な教育観や社会構造の「呪い」として機能していると指摘されている。 体験格差解消プロジェクトの活動: 体験格差の解消を目指す民間プロジェクトとして、「子どもの体験格差解消プロジェクト」が紹介されている。クラウドファンディングで寄付を集めて体験機会を提供するだけでなく、体験格差の評価要因やより良い体験機会に関する研究活動、政策提言なども行っている。 「我が子」という概念の問い直しと社会の役割: 子育てにおいて「我が子」という生物学的なつながりだけでなく、社会全体で子どもたちを育て、多様な大人と関わる機会を提供することの重要性が示唆されている。「親以外の大人にも育ててもらっていると思えたら、『この社会は捨てたもんじゃないな』という安心感が得られますよね」と述べられている。 重要な引用 「子どもたちにとってさまざまな体験が大切なのは言うまでもない。しかし いま、”体験”への過度な期待や、その裏返しとしての焦りが、子育て世代に蔓延している。」(はじめに) 「巷では『正解がない時代だし、大学入試も脱ペーパーテストの流れだし、これからは学力よりも非認知能力が大切らしい。非認知能力を伸ばすには、いろんな体験をさせたほうがいいらしい』と言われている。」(はじめに) 「お金を払えばメニューから選べて誰でも参加できるような体験や、たくさんお金を払えばもっとさせてもらえるような体験は、交換(消費)としての体験。そのような体験では、子どもに力は湧かない。」(第二章) 「川崎市子ども夢パークは、誰でも、肩の力を抜いて、胸深く、息ができるところだった。常に競わされ、縛され、あるべき姿をおしつけられる現代社会において、自分が自分でいる感覚を取り戻す体験ができる、貴重なサンクチュアリだった。」(第二章) 「体験格差というものがあるならば、あそこだけ人に頼られて、育ったと一般的には見られるであろう、いのちのかからないことがときどきありますよ」(第三章) 「もしかして、体験格差というものがあるならば、あそこだけ人に頼られて、育ったと一般的には見られるであろう、いのちのかからないことがときどきありますよ」(第三章) 「それは、功利主義的な教育観、『体験格差』という概念が生まれる背景を論じることで、この社会の暗黙のルールを炙り出してみせた。そしてそれは、人間社会が進化するために経なければならなかった歪んだ土台なのだ。」(おわりに) 「私たちがなすべきことは、『呪い』を振り払い、歪んだ土台そのものを直すことだと、私は訴えたい。」(おわりに) まとめ 本書は、体験が現代社会において経済的な価値基準や功利主義的な教育観に絡め取られ、「体験格差」という形で問題化している現状を鋭く指摘している。そして、真に子どもたちの成長に必要な体験とは、経済的価値や大人の期待に囚われず、子ども自身が主体的に喜びを感じ、多様な他者との関わりの中で得られる安心感や自己肯定感につながるものであると強調する。体験格差の解消は、単に体験機会の量を増やすだけでなく、社会全体の価値観や構造を変革する必要があるという強いメッセージを発信している。特に、公共の場の重要性や、親だけでなく社会全体で子どもを育む意識の転換が求められている点が印象的である。

    0
    投稿日: 2025.05.05
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    学力などの認知能力だけでなく、非認知能力までも経済的豊かさを基軸とした評価をし、その能力を獲得するための体験を提供する。教育が社会に必要な人材を供給する、という上からの視点が根底にあると、子どものいいこと思いついた!が無視され、能力開発のための投資対効果に目がいってしまう。そうではない。子どもがやりたい、と思うことを体験できる環境を整えること。そのために人間の評価軸を経済的なものだけでなく多面的に捉えること。 木材や食材は皮を剥いで加工しやすくなったもの、人材は?という例えが秀逸。

    4
    投稿日: 2025.04.27
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    ネット上でみたこの本のための五味太郎の談話(というか毒舌)↓がよかったので読んでみようと思った。 「体験格差」という考え方が親たちを体験への課金に駆り立て子どもに格差意識を刷り込んで「体験詰め込み教育」「体験消費社会」を加速しているのではないか、という懸念・危惧を全面に出しつつ、その「呪い」の正体に迫り処方箋を提案する本。 たしかに、食べるにも事欠くとか家庭で親が料理する姿も見たことがない、というような最低限の体験の欠如への手当は必要かもしれないが、一般的には大小の体験にいいもわるいもなければ、多ければ多いほど豊かというものでもない。「コンピテンシー/非認知能力」だって、あまりに総花的すぎてけっきょくなにも言ってないに等しいし、まずは大人が落ち着こう、という話。 「大人のよかれは子どもの迷惑」というのはわたしもずっと思っていることで、いまは大人も子どもも将来の幸せや成功のために「今」をあまりに犠牲にしているのが息苦しさの正体の一つだと思っているので、著者の提言はおおむね共感できるものだった。どんなによかれと思っても「与えられた」「させられた」と感じてしまったら得らるものは意図したものとまったく異質になってしまうと肝に銘じたほうがいい。五味太郎のいう「上品だと言われるものばかりを見ている下品さ」というのも言いえて妙だった。 一冊読み通せば、衣食住の世話と安心できる家庭さえあればシンプルにほうっておいても子は育つのに(むしろ勝手に育っていくのに)、おとなになったときに困らないよう計画的に勉強させ学力をつけることも、さまざまな体験をする機会を作るのも、すべて家庭の責任のように思わせる(そして子どもは与えられたものをこなすのにいっぱいいっぱいで疲れ切っている)今の世の中に、自信を持って「ノー」を言うための理論武装になる。「学歴社会からさらに広い能力を含む序列化社会、ハイパー・メリトクラシーへ」「競争社会を内面化したキー・コンピテンシー/非認知能力」「体験=(能力主義にもとづく競争社会を生き抜く武器としての)非認知能力を得るための手段」という思い込みの呪い、「消費者マインドの内面化」⋯こういう言葉が理解できかつ説得力をもつタイプの人にまずはとどき、少しでも立ち止まる人が増えるといいいなと思う。世の中をひっくり返すのは不可能だしその必要もないけど、今の風潮は眉唾だしちょっと行きすぎだな、と思える人はもっといたほうがいいと思うので。 五味太郎×おおたとしまさ(書籍非掲載部分も含めて再構成したインタビュー) https://bunshun.jp/articles/-/78280 西野博之×おおたとしまさ(書籍非掲載部分も含めて再構成したインタビュー) https://bunshun.jp/articles/-/78234

    4
    投稿日: 2025.04.26
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    なぜ子どもの体験サービスはこんなに高いのか? 私も疑問に思っていました。 子どもが消費者にされている。 子どもがビジネスに取り込まれている。 なぜ私たちの社会はそれを許しているのでしょうか。 今は子どもがやりたいこと、好きなことを見つけてあげることが親の使命のようになり、あらゆる体験をさせて子どもの反応を見ている。そんなふうに、私には見える。 教育は「親ガチャ」のように言われて、子どもが優秀ではないこと、子どもに頭抜けた取り柄がないことは親の責任のように感じてきた。この本は、そんな視点で子どもを見ていることがおかしいんだよと教えてくれる。 体験格差を切り口に、なぜ体験が消費される社会になったのか、私たちが煽られて体験させなきゃと思わされているかを説明してくれる。 負の連鎖を断ち切るためには、子どもたちを体験の数で比較して、数が少ない人を支援するのではなくて、社会に包摂してあげることの大切さを説く。 社会を良くするためのアプローチを、知恵を絞って考えるきっかけを与えてくれた。

    7
    投稿日: 2025.04.25
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    【要は各家庭で抱え込みすぎ】 五味太郎氏と著者の対談記事を目にしたのがきっかけで本書を購入。 非認知能力の高さが収入に影響するという言説、 「体験格差」という薄気味の悪い概念の正体に迫る。 体験を「消費」する社会とはーー 社会は本来、助け合い支え合うための場なのに いつしか競い合う場になってしまった。 将来の成功のために 子供に体験をさせて「あげる」ことで、 社会を勝ち抜ける人間に武装させようとする。 子育ての家庭依存が進みすぎていることも 親の不安を駆り立てる。 あの子は体験も習い事もたくさんしているのに うちの子には「してあげられてない」。 このままだと子供の将来の選択肢が狭まってしまう。 村全体で子供を育てれば、偏りが補正される。 直接子供にかかわる大人を増やすべきだ。 子供の未来を案じすぎず、 今、子供が目を輝かすものに時間を割いては。 五味太郎氏のように下心やメッセージ性抜きで 子供と同じ目線で楽しむことが大人の役割なのだろう。

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    投稿日: 2025.04.21
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    【子どもにとって本当に必要な体験とは何か?】なぜいま「子どもの体験」が課金ゲーム化しているのか。「体験格差」という言葉の薄気味悪さを手がかりにその諸悪の根源に切り込む。

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    投稿日: 2025.03.13