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powered by ブクログ202411/どこまでが史実エピなのかはわからないけど、ドラマティックな展開・丁寧な描写・魅力的な登場人物達(特に女性陣)、とても面白かった!そしていつもひっかかりなく読みやすくわかりやすい文章なのも梶先生のすごいところ。
0投稿日: 2025.05.15
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
吾妻おもかげ 著者:梶よう子 発行:2024年11月25日 角川文庫 初出:単行本(KADOKAWA)2021年1月 浮世絵の元祖といわれる絵師の一人が菱川師宣(もう一人は〝浮世又兵衛〟こと岩佐又兵衛)。その菱川師宣(菱川吉兵衛)が、絵師となり、浮世絵師として名をあげるまでのこと、さらに、彼の代表作である「見返り美人図」が誕生するまでの経緯を書いた小説。350ページ以上ある、結構、長めの物語だが、菱川師宣については学術書を読んでいないので、どこまでが史実であるかはよく分からない。 後に師宣の画号を使う菱川吉兵衛、安房(あわ)国保田(ほた)に生まれる(千葉県南部)。父親は縫箔師(ぬいはくし)で裕福に育った。長男のため跡を継ぐことになっていた。縫箔師とは、模様を描いた布地に糊や膠をつけて金や銀の箔を押す摺箔、あるいは刺繍模様を施す職人。ずっと見て来たので、吉兵衛は必要な絵がうまく、刺繍も見様見真似で出来た。 15歳を過ぎたころから、父親に連れられてしょっちゅう江戸に出向いていたが、江戸に見せられた吉兵衛は17歳のときに父に江戸に出たいと相談、勉強になるだろうと父親は許した。江戸では、父の知人の同業者宅に寄宿したが、時々仕事を手伝うぐらいで、あとは吉原と芝居に入り浸った。江戸の二大悪所である。 父親は絵の勉強をしているという息子に、案外と寛容な態度を取る。一方、吉兵衛は10年間、どうしたものかと彷徨っている。弟子入りしたいと思って狩野探幽のところに行くが、けんもほろろに追い返される。町絵師になりたいなら画塾へ行け、と。そんな中、通い詰めた揚屋で出会った女郎、さくらのことが気に掛かる。大していい女ではないが、若い子だった。出会った時は4日も客がとれないときだった。しかし、立て板に水できつい口をきかれた吉兵衛は、そこで思い直して絵師になる決意をする。 「この世は憂き世。ここにいる妓たちがみんな楽しそうに見えるかい?違うよう。楽しくないけど、楽しまなけりゃやってられないんだ」「憂いばかりの世だと諦めたら負け。浮き浮きさせる浮き世と思っていきてるんだ」 跡を継がないことは、父親には申し訳ない。もちろん、父親は怒っているだろうが、保田から少し離れた百首村にある寿栄山松翁院(しょうおういん)から、涅槃図の縫箔と刺繍を依頼されたので、その元になる上絵を描いてくれと父親から発注が来たのだった。せめてものお返しにはなる。 そのようにして、吉兵衛は絵師の道を歩んでいく。 菱川吉兵衛:安房(あわ)国保田(ほた)、7人きょうだいの4番目、長男 吉左衛門:父、縫箔師 をかま:吉兵衛の妹 三左衛門:40代半ば、鱗形屋孫兵衛の父 小紫:格子女郎(太夫の下)、置屋は三浦屋 四郎左衛門:三浦屋主 滝乃:三浦屋の太夫 玉緒:三左衛門のご贔屓、17歳 おさわ:丸川(揚屋)の一人娘、28歳、子ひとり、婿入り亭主と離縁 おたえ:その娘 作右衛門:おさわの父、寝たきり さくら:桐屋の女郎 三次郎:元力士(松重)、絵師になり師重 おいと:大伝馬町の借家で雇った女、22歳、出戻り 作之丞:吉兵衛がおいとに生ませた次男 才蔵:縫箔屋「とみ屋」親方、南茅場町、若き吉兵衛はここに住んで時々仕事を手伝う 狩野探幽:狩野永徳の孫3兄弟の長男、次男は尚信、三男は安信、吉兵衛が通う 岩佐又兵衛:浮世又兵衛、豊頰長頤(ほうぎょうちょうい)が特徴(豊かな頬に長い頤(あご)) 多賀助之進:亀山藩医(亀山石川家の侍医)の息子、中野狩野家法眼安信に絵を学ぶ、後の多賀朝湖、英一蝶 甚四郎:通油町の板木屋、孫左衛門が組織化していたスタッフの一人 柏屋仁左衛門:挿絵が吉兵衛であることを見抜いた人物 ************** (読書メモ、ネタ割れ) 第1章 江戸に来て10年、父親の知人がしている縫箔屋に寄宿し、気が向けば仕事を手伝う。父から仕送りをたっぷりもらい、吉原で遊び、芝居を観る。吉原は、揚屋の丸川屋に入り浸る。揚屋の主は寝たきりで、その娘が一人娘を連れて出戻っていて、女将としてとりしきっていた。吉兵衛の相手は、小紫という妓だった。 <明暦3(1657)年> 1月、江戸は大火。6割が焦土に。吉原も大門だけは残っていたが、焼けた。丸川屋のおさわは逃げのびたが、寝たきりの父は「おれはもういい」とおさわに逃げさせた。 小紫は無事だったが、吉兵衛が丸川屋で出会った、若い女郎のさくらは、死んでしまった。 第2章 <寛文2(1662)年> 浅草田圃に新吉原。夜の営業が許された。吉兵衛は「とみ屋」を出て、月の半分は丸川、あとは長屋。おさわ(丸川女将)の娘、おたえは7歳。祝言は挙げていないが、夫婦のように見られている。 太夫となった小紫からは手切れ金として200両を要求されていたが、2年前、大店の若旦那に落籍された。吉兵衛が絵師になって分割で払っていた手切れ金は、2年で渡した金子がまだ14両2分だった。小紫からは文が来て、いつか屏風絵を描いてほしい、それを185両2分で買い上げると書かれていた。小紫のはからいだった。 さくらは、吉兵衛に刺繍をしてもらった小袖を取りに行こうとして焼け死んでいた。 上方の版元が出版する童向けの本の挿絵を描いている吉兵衛。三左衛門が若い男を連れて訪ねて来た。息子の鱗形屋孫兵衛だった。今はよろず屋をしているが、これからは江戸の本を作りたいとのこと。三左衛門が、探幽屋敷の裏口で足踏みした吉兵衛の画帳を持っていた。10年前に死んだ岩佐又兵衛が、この持ち主を探してくれと言っていた。描かれている絵が見事だと評価し、赤も入れている。さらに、探幽もこれを見たという。 そんな話をしていると、国の父親が死んだとの知らせが入った。縫箔屋を継がずに挿絵師になってしまった自分が、今さら帰れるはずはない。 第三章 おさわが男の子を産んだ。祖父と同じ吉左衛門と名付けた。七つになるおたえの時も難産だったが、もう30を超えているおさわはとても出産のことを心配していた。果たして難産だったが、なんとか産めた。以後、吉兵衛は絵本挿絵を描く絵師をしつつ、女将の代人を勤める。 <寛文10(1670)年、春> 女将の代人もすることになった吉兵衛。ある日、20歳ぐらいの若い男が、三浦屋の滝乃を呼んで騒いでいる。5回目だが、まだ同衾していない。 *初会:初めて揚屋に呼び出して顔合わせ、話もせずに宴席を設けるだけ。裏を返す:2度目、盃をやり取りして仮祝言、それでも太夫は男を受け入れることはない。三度目でようやく馴染みとなれるが、ここで太夫が嫌だといえばもう脈はない。諦めるか、金に飽かして納得させるか、通い詰めるか。 多賀助之進といい、亀山藩医の息子だが、中野狩野家法眼安信に絵を学んだという。滝乃を描いたが、似ていないと滝乃は不機嫌。挨拶に行った吉兵衛は絵が見たいが見せてくれない。さらに、財布を掏られたようで払えないという。この日の勘定は3両2文。過去は払っているので詐欺師ではない。家まで従業員に取りに行かせようかというと、それは止めてくれという。どうやら医師にはなりたくなく、絵師になりたいらしい。 翌日から働いて返すことになった。1年みっちり働いても3両、まだ足りないが。しかし、働きぶりは真面目で仕事もよくできた。掃除などの下働きも朝早くから完璧で、幇間もうまく、花代を稼ぐ。そして、法眼安信の弟子としても戻りづらいことを告白する。どうやら、御用絵師としての基礎訓練をするのに飽きたし、描けと言われたものではなく、自分で描きたいものを描いたという。それで兄弟子たちからもリンチを受けていた。今は妓の裸が描きたいようだった。 滝乃に対しても、裸を描かせてくれと頼んでいた。滝乃は拒否。そんなある日、少し下のランクの女郎が胸を出してモデルになっていた。文の代筆をしてやって、その代金代わりにモデルになったとのこと。しかし、吉原でのルール違反だと吉兵衛は注意する。助之進はその数日後、借金全額を払って去っていった。多賀朝湖の名前で町絵師をするつもりだと言いつつ。そして、去る前に見た、吉兵衛が挿絵を描いている絵本に対し、ヒントになるような言葉を残していった。 第4章 吉兵衛は鱗形屋を訪ねた。孫兵衛は不在だったが、父親の三左衛門に江戸の本を出版すべきと進言した。三左衛門は否定的だった。京の本屋と喧嘩になる。出版はまだ京が主流だった。 帰ってきた孫兵衛に対し、新しい草紙を提案した。今は、詞があり、次の見開きに挿絵があるが、文字と挿絵を同じページに摺る。文字が煩わしい人にも見てもらえる。 吉兵衛は匿名で挿絵を描いていたが、評判になり、誰が描いているのだと世間では騒ぐようになった。一人だけ、吉兵衛ではないかと見抜いた人がいた。柏屋仁左衛門だった。 <寛文12(1672)年> 鶴屋喜左衛門か版行した『武家百人一首』に初めて菱川吉兵衛と名を記した。 <延宝2(1674)年> 狩野探幽死亡 <延宝3(1675)年> 仕事が増え、弟子が2人できた。勘助(14)と重蔵(13)。吉原ではなく大伝馬町の借家に通わせている。 吉兵衛は江戸で一番忙しい町絵師になっていた。ちょっとしたことから、おさわと口論になって家を出る。大伝馬町の借家へ。丸川屋下男の三次郎が、絵を習いたいといいだしたので一緒に借家で住むことに。長男の吉左衛門も引き取ることになった。 <延宝5(1677)年> 前年の暮れ(延宝4年)に浅草に移転してから初めて吉原が火事。丸川はなんとか無事だったが、大伝馬町にこないかとおさわに言ったが拒否された。 この年に鶴屋から出した『江戸雀』は売れに売れた。江戸の案内本だった。菱川師宣の画号は庶民の間にも知れ渡っている。 第5章 <延宝7(1679)年3月> 『恋のむつごと四十八手』刊行 <延宝8(1680)年> 吉左衛門(師房)も作之丞(師永)も弟子になっている。 鱗形屋孫兵衛と江戸の地本を作ろうと躍起になっていたころから20年余り。色恋を描かせたら菱川師宣の右に出る者はいない。 小紫が訪ねてきた。今はお藤という名。前年の11月、130人を殺したとも言われる辻斬りの平井権八が鈴ヶ森で磔になったが、権八が惚れていたのが二代目小紫だった。磔になった後、二代目小紫は吉原を抜け出して権八の墓前で自害した。その一周忌だった。元初代小紫のお藤は頼みがあるという。亭主が信州松代(まつしろ)の真田家の品を扱っているが、江戸家老から菱川師宣の花鳥図を頼まれた、狩野ではなく、町絵師の師宣を指名してきたという。漢画ではなく、大和絵の優美さがある師宣の絵がいいとのこと。殿の息女の婚礼の品にするらしい。描いてくれ。 家老に会うと、花鳥だけでなく、婚礼行列の絵巻も頼まれた。花鳥をふんだんに入れた行列。今を生きる江戸の者の姿を描くべし、と。枕絵も頼まれた。 祝杯をあげに吉原に。丸川で久し振りにおたえやおさわと話す。おさわは、おたえが絵師になりたいと言い出すのが怖くて、わざと仕掛けて喧嘩してあんたを追い出したんだと言った。しかし、吉兵衛は見抜いていた。借家と吉原の往復ではろくに絵が描けないから、身を入れさせてやろうとわざと借家へと追い出したのだった。丸川の番頭も、それを認めた。 丸川に多賀進之助が来ていると教えられた。座敷を覗くと、もう一人いる。30歳ぐらいの剃髪に羽織袴。狩野探信(たんしん)だった。狩野探幽の跡を継いだ長男。探信は最初こそ慇懃だったが、途中から辛辣に。町絵師を見下した言い方になった。進之助は、探信が一度会いたいから引き合わせたのにと、慌てた。 後日、進之助が詫びに来た。実は、探幽が吉兵衛の絵を評価していたことが分かった。それで、探信が敵視したのではないかと分析した。 真田家ばかりでなく、青山家からも発注があった。大名家が目を向ける存在になった師宣。ある時、鱗形屋孫兵衛に酒に誘われて座敷に行くと、江戸版の『好色一代男』を出すという。井原西鶴のご指名で挿絵を頼みたいという。多忙を極める師宣だが、ご指名では受けざるを得ない。光栄なことだった。引き受けたタイミングで、隣室から川崎屋七郎兵衛が入ってきた。それを出す版元だった。まんまとやられた。 その帰り、紺屋町に立ち寄った。藍屋で、手伝う吉左衛門を見た。最近、よく出かけて行方不明になるのは、このためだったのかと腑に落ちた。娘のおさだに惚れているのか? 吉左衛門を問い詰めると、藍屋になりたいという。名が出ない職人がいいと。吉兵衛は激怒して吉左衛門の右手を踏みつける。吉左衛門は家を出て行った。 師平:書き始めて5年、作之丞の3歳上、魚屋の息子 師盛:古参の弟子、三次郎の兄弟子 川崎屋七郎兵衛:江戸版の好色一代男を出す版元 杉村治兵衛:近ごろ話題の絵師、吉兵衛そっくりの画風で画号を入れない おさだ:紺屋町の藍屋の娘 第6章 <天和2(1982)年・年の瀬> 三次郎が独立したいと言ってきた。古山師重になるという。吉左衛門の右手を踏みつけたことを信じられない行為だと言った。工房の仕事も線引きなど単純作業ばかりなので、自分が独立して手本を示したいとも言った。出て行け、二度と敷居をまたぐなと師宣は言った。 その時、駒込から発した大火が江戸を襲った。師宣の家は大丈夫だったが、日本橋もかなりやられ、師宣の絵本の版木がたくさん失われた。しかし、絵本が残っているので、再版して出そうと思っていると鱗形屋は言った。再版の版下絵は師重にさせてやってくれと師宣は頼んだ。古山師重として独立するからよろしく頼むと。 大名や旗本、豪商からの肉質は発注が多かったが、絵本はかなり仕事が減っていた。忙しくて納期が守れないことや、質が落ちたとの評判、息子や弟子が描いていて師宣は描いていないという噂がたったことなどもあったが、杉村治兵衛の人気が高まったことが大きかった。師宣が描いていないという噂の出所はどこか?調べることにした。 師宣は治兵衛を訪ねた。治兵衛は憧れの師宣が来て感激した。吉兵衛の本がたくさんあった。その様子から、噂の出所はここではないことがわかった。 おさわから文が来た。吉左衛門が頼ったのはおさわだった。おさだと所帯を持ち、おさわに裏店を借りてもらって住んでいた。子もおり、3歳になる。師宣は丸川へ行き、おさわと酒を飲む。三次郎に仕事を出したふりをして、本当は邪魔をしているのだと指摘された。再版の版下画をしなければならないようにして、古山師重としての仕事をさせないようにしていると非難した。 酔っ払って駕籠に乗ると、それは盗人だった。何とか帰宅。すると、明暦の大火で死んだ若き女郎のさくらが現れた。目が覚めると師宣は猛然と書き始めた。美人画だった。 菱川を継がない吉左衛門の右手を踏んで追い出したが、自分も父親の後を継がなかった。それを反省した。そして、弟子達には独立したいなら独立していいぞと優しく言った。作之丞は結婚し、2年後に娘のおいぬが生まれた。 元禄7(1694)年6月4日、彼岸に渡った。享年65。吉左衛門と作の丞は、多くの描きかけの画の中に、1枚の肉質画を見つけた。 「吾妻美人だ。浮世絵師菱川師宣の面影の女かもしれないな」と吉左衛門は呟いた。
0投稿日: 2025.02.03
