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続きと始まり
続きと始まり
柴崎友香/集英社
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総合評価

54件)
3.6
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    柴崎さんらしい、カメラで撮影するような視線で阪神淡路大震災、東日本大震災、コロナ禍という3つの出来事を経験してきた3人の人生を描く小説。性別も仕事も出身地も異なる3人だし、自分の家庭や子どもを持つくらいの年齢なっている(実際に持っているからどうかはさておき)ので、描かれているそれぞれが抱える思いや悩み苦しみも多様。その分、今の日本社会を切り取る精緻な俯瞰図になっている。 この手法は柴崎さんに合っているし、自分としては気に入っている。でも、この系統の小説は、対象が若い人たちだった初期の頃は正直あまりしっくりこなかった。柴崎さん自身もその当時の作品とその受け取られ方について、考えることを持っていらっしゃるように私には感じられた一節があったので、メモしておきます。 p252  わたしはあのときなにもわかっていなかった、と今は思う。撮りたいと思ったなにかは自分の中には明確にあって、それはそのときの世の中でよいとされていたものや価値があるとされていたものに対する疑義や抗議の表明も含んでいたのだが、「女の子たちの日常」「今を幸福に生きる若者たち」として都合よく枠にはめられてしまった、と気づいたのはそのあと何年か経ってからだった。  今なら、もっと別の提示の仕方ができるに違いない。あのときもっと自分が理解していれば、自分が表現したいものについて語る方法を知っていれば、「お金がなくても楽しんでいる若者」みたいに都合よく解釈されたり、もしくは「なにげない日常こそがかけがえのないもの」と判で押したように紹介されたりすることに、抗うことができたかもしれない。

    1
    投稿日: 2025.10.11
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    「続きと始まり」(柴崎友香)を読んだ。 やっ!柴崎友香、ただ者ではないな。 『帰れない探偵』を読んだ時の衝撃が忘れられずに他の作品も読みたくなったのだが、これはまた素晴らしい。 しみじみと読んでしまう。 西と東の大震災の、新型ウィルスの、ゲリラ豪雨の、過ぎ去った後であったり、最中であったり、その時その時の普通のひとたちの普通の生活を大仰にではなくさらりと描く。だけどその視線は細やかで核心を射抜く。 ああ、確かに、《の前の続き》は始まっているんだよな。何かが少し(でも確実に)違っているんだけれどさ。 以下、引用する。 「どうすればよかったのかわかるのは、いつもそれが過ぎたあとだよね」(本文より) 「なんもなかったみたいに、なんも変わってないみたいに見えた」(本文より) 何というわけではないのに沁み込んでくるのが柴崎友香さんの持つ文章力なんだな。

    3
    投稿日: 2025.10.05
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    2020年3月の石原優子から始まり、5月小坂圭太郎、7月柳本れい、そして3人のその後の生活の起伏が淡々と続き、2022年2月に3人が初めて会う、コロナ下の日常が描かれている。コロナの時期の自分自身がどんな過ごし方をし、何を感じたのか、世の中で何が起こっていたのかを懐かしく思い出すことになった。夫々デザイナー、料理家、写真家を名乗る3人はそれぞれ、1995年の阪神大震災、2011年の東日本大震災などを経験し、複雑な家庭事情、過去の傷もあり全く幸せとは言いづらいような雰囲気を感じる。私には圭太郎の中学時代の一言が同級生の女生徒を傷つけていたという気づき、その妻の貴美子もまた同級生を傷つけていたことを告白する場面が最も印象に残った。きっとこのような過去はいろんな人が持っているように思う。 2022年2月に3人が会い、ウクライナ戦争が始まったことが書かれ、1年後の2月に戦争が続いていると記されている。これから始まる3人の人生と世界はどのようなものなのだろう。

    0
    投稿日: 2025.09.09
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    読みながら、コロナで自粛していた頃がとても遠くなって、細かいことを忘れていることに驚いた。でも確実に、あの経験は自分の何かを変えた。実際被害にあった1995年の震災も、テレビを見つめて心配だけしていた2011年の震災も同様だと思う。 目の前のことに追われて、でもその時その時は何かを感じ考えて、家族や周囲の人と共に一生懸命に生きている。ふと過去のことを思い出したり、未来のことを想像したり。死ぬその時まで、時間は短くなったり長くなったり始まったり終わったりしながら続いていく。 とても読みやすい小説なのに、とても深い何かが描かれているように思った。 シンボルスカの詩集読みたい。

    0
    投稿日: 2025.08.16
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    二つの震災と感染症に翻弄された数十年で、なにが人や社会を変えたんだろうか。自分に出来たことは何かあったんだろうかとと考える人がこういう小説を書けるのだろう。文体は軽妙だけれどこれ作者に見合わない底流の重苦しさが心に残る。

    5
    投稿日: 2025.08.01
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    わたしは小説を読んでいるとき、わりと現実逃避していることが多く、つらかった思い出などもあまり直視しないタイプなので、珍しい読書体験になった。 二つの震災、コロナを通過してもたしかに降り積もっていく日常。社会の閉塞感。どうしても抜けない小さな棘。再会できる人/できない人。回収されない伏線。圧倒的に現実だった。 作家という職業の、語り部としての側面を強く感じたし、当時の空気感を文学として残す貴重さも改めて感じた。

    0
    投稿日: 2025.07.30
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    2024/7/27 読了 2020年3月~2022年2月までの3人の コロナ禍の生活を綴りながら、震災での記憶の話、戦争での思いを淡々と語っていた事に、そういえば、世の中はこうだったなー、こういう思いで生活していたと振り返りながら読んだ。 災害など起こった時は、疲弊し何も手付かずだったりで前に進まない事でも、5年10年先にはどう変わるのかわからないし、 時は進むんだなと思う。 誰かが片付けなくてはならないという言葉にそう思ったし、その事を少しずつ忘れていく感覚。 安全な場所で情報だけ見ているというのも同感させられた。 続きと始まりという題に、世の中は続いていながら何か始まるのは、その繰り返しだと気付かさせてくれた小説。 最後は3人が繋がり、会っている事に話がまとまって良かった。

    0
    投稿日: 2025.07.03
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    コロナ禍を生きる三人それぞれの日常。 時折知らずに近付いたり。 興味深くはあったけれど なんだか読み進めるのが苦痛にも思えた。

    0
    投稿日: 2025.05.12
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    このレビューはネタバレを含みます。

    「あのころ、**は、なんとなく世の中は少しずつよくなっていくのだと思っていた。」ーーそして今と、今と自分と。と、いう、印象の作品でした。うまくいっているようにみえる三人を軸に展開されるなにげない日常を読み進めるうちに、しんしんと気分が重く胃が痛くなりました。 最終盤にある森木奈央という作家のインタビュー記事、「…自分には書けないと思っていてもなにか少しでも書くべき…」云々、が、まさに柴崎友香さんが本作を書こうと思ったはじまりに感じる内容でした。 本作読了2025年3月22日、ウクライナの戦争はまだ終わっておらず、ガザの人々はすり潰されてしまいそうで、能登半島は地震から豪雨を経ながらも一年を迎え、「日本」はあいかわらず平和です。この今がつながる明日が怖いから、本作を読むと息がつまるのでしょう。 ポーランドのヴィスワヴァ・シンボルスカ「深刻な主題にユーモアをもって取り組む女性」と評されたというノーベル賞作家の詩が、シンボリックに使われています。読んでみようかなと思いました。

    0
    投稿日: 2025.03.22
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    登場人物の会話で所々、共感する箇所があった。家族との関係とか、子どもを持つ持たないとか。読後は、この小説が伝えたい一番のメッセージはなんなのだろうと考えたが、すぐ答えが出す… 自然災害•感染症•戦争のような非日常に思える出来事の中で、私たちは日常は過ごしている。世界は全て繋がっていて、全ての出来事に自分が無関係ではないと教えてくれているような気がする。

    4
    投稿日: 2025.03.16
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    コロナ禍で大震災を経験した男女の日常の話。コロナ禍は数年前のことだが、振り返れた。登場人物が最後にほんのりつながるのが面白かった。 シンボルスカの詩にそれぞれが続きや始まりを感じている。「続きと始まり」のタイトルの意味がわかった。

    1
    投稿日: 2025.03.15
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    最初は遠い存在の3人が、どんどん近しい存在になっていく。 背が低くてかわいいねと言われることに対して、 「自分より背の高い女は嫌い」と思っている男に「かわいい」と言われることが悔しいという石原優子。 自分が傷ついたと思っていた過去を辿ると、相手を傷つけ怖がらせていたという反転した現実に向き合うことになる小坂圭太郎。 4年間付き合った人は、過去を話したがらない人だったけど、それは自分が悪いとわからないから説明できないだけなのかもと、友人との思い出話で気づく柳本れい。 10年前のある時間に同じ場所にいた3人。少しだけ「かすった」3人が、それぞれの場所でそれぞれの人生を生きてきた。 ただそれだけの、その断片を映し出した小説。 私たちも同じようにそれぞれの人生を生きているのだよねと、「無数の3人」のうちの1人として思う。 こういう描き方もあるんだね。

    28
    投稿日: 2025.03.10
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    人々のよくありそうな、なさそうな日常が3人の主人公の目線で描かれる。 コロナの只中だけど阪神淡路も東日本大震災も味わってきた3人が、それぞれの接し方で当時と日常を思い返したりしている。 人のつながりは小説で描かれた外側からはよく見えるけれど、実際に自分がその立場だったら何も気づかずに過ぎていってしまうことが多いんだろうな。 今ある日々と人とのつながりをもっと味わいたいなと思った。

    1
    投稿日: 2025.01.28
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    三人の日常の話しが入れ替わり立ち替わりに語られていてなかなか読みづらかった。それにしても何となく違和感があったのは2020年はコロナが全国的に流行った時でこんな物語りの様な日常はなかったのではないかな!三人の日常会話にコロナの深刻さがうかがえないのは何故なんだろうと思ってしまった!

    0
    投稿日: 2025.01.21
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    このレビューはネタバレを含みます。

    阪神大震災、東日本大震災、新型コロナと日本を襲った節目となる天災にほんのり関わった3人の寄るべなさ。親とうまくいっていないということも併せて、より寄るべなさが出ている。 小坂パートが、1番我が身に引き寄せることができ、面白かった。 最後、3人がニアミスしていたとある2月がなんか読んでてワクワクした。

    0
    投稿日: 2024.12.27
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    うーん。 この話、どこで繋がって、どこがオチなんだろう? と考えてたけど、なかった。 いつだって今しかない

    0
    投稿日: 2024.12.11
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    このレビューはネタバレを含みます。

    石原優子、小坂圭太郎、柳本れい。どこにでもいそうな、かといって退屈ではない個性を持つ3人の視点でコロナ禍の日常を語る小説。 自粛要請(今考えると変な言葉である)やら、緊急事態宣言やら、まん坊(当時も思ったが変な略語である)…、感染拡大を錦の御旗に徹底的に抑圧された生活を送った3年ほどの期間、主人公らの生活も感性もどんより重くて、それでも生活は淡々と行われていく。 2つの大きな震災の記憶も生々しいままに、今度はパンデミック…。厄災の合間を縫って続く庶民に日常、政治は相変わらずクソだし、強かったはずの経済も日に日に弱っていって、明るい未来などフィクションの世界にも見当たらなくなった国。 口から出た言葉は戻らないし、マスコミやネットで報道する姿だけが真実ではないし、親は勝手に期待して絶望するし…。 何を書いてるのか分からなくなったが、何しろ情報量というか感情量というか言葉が丁寧にたくさん綴られていて、読み手側も思いが錯綜しまくるので、まとまらない。 とりあえず、ウクライナや能登や韓国の戒厳令や、やっぱり世の中無茶苦茶なことが多いけど、ゲー吐きながらでも乗り越えてきた俺たちは、これからも乗り越えていけるやろう。乗り越えていこう。勝たんでエエけど負けてたまるか

    3
    投稿日: 2024.12.04
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    砂地に水が染み込むような文章。 シンボルスカの詩を中心にコロナ下の3人を描く。 阪神の地震と東北の地震の記憶。それぞれのおいたちの記憶。過去からのつながり。 その時々の自分の思いがたちのぼってくるが、 コロナから2年経過した現在、コロナの頃の記憶が朧げになってることに驚く。地震のころの自分はありありと覚えているのに。。これはなんなのかな? シンボルスカの詩を読んでみたいと思った。 それから、世界は暗い方へ進んでる、という基調だったけど、そんなでもないよ、と言いたい。20年前に比べて、良くも悪くも世界の均質化は進んでる。それは良い面の方が多いんだよ。

    3
    投稿日: 2024.11.27
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    これまで、いくつかのライフステージを経験して、就職してからも複数の職場に身を置いてきた。 そのなかで、親の離婚や震災や、肉親との死別や最近ではコロナや、価値観を揺さぶられるような出来事もいろいろあった。 これまではそれらが自分の中でバラバラなこととして位置づいていたけど、それらを経て今のわたしがある以上、それらはみんな地続きなのかもしれない。 まだぼんやりとしているけど、すごく大事なことを示してくれている一冊だと感じたので、しばらく時間をおいて再読したい。

    0
    投稿日: 2024.11.16
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    確かに、ここには私がいる。 しかしそれは、共感という名の、自己愛に満ちた思いの表明ではない。 自画像を突きつけられたときの少しばかりの居心地悪さに近いだろうか。 深煎りのコーヒーを口に運び、苦味と共に微かにざらつきが舌に残る。 声高な社会への違和感と、それに目を伏せるだけの日々。 空き地を見ても何が建っていたかすら思い出せない不安。 まだ恵まれている方だよなと、いう思いが浮かんでしまう自己嫌悪。 真っ当に生きていると思う一方で、社会の“普通”の枠から疎外され、帰属感を持てないこと。 誰かを傷つけた罪悪感を、誰かに癒して欲しいこと。 「終わり」も「始まり」も掴めないまま、続きを生きることしかできない僕は、何かを始めていけるのだろうか。 ベルリンの壁が打ち壊される映像に釘付けだった中学生のときのようには、僕もまた、世の中がいつか素晴らしくなるだろうとは、もう思えなくなってしまったけれども。 作中では二つの震災後が回想として描写される。 津波に押し流された石巻を訪れたとき。  “ダウンジャケットを着込み、ニット帽を目深に被ったその人は、どんな人か遠目からはわからなかった。どんどん歩いて行く犬に引っ張られて、だんだんと夕闇が迫るその場所を、まっすぐに歩いていた。 どこを通ることもできそうだと、ここに何があったのかを知りもしない自分には見える場所で、車も、人も、道を通っていた。 犬は、どんどん道を歩いていった。 静かだった。 何もかもが変わってしまったその場所で、犬は変わる前と同じ道を散歩していた。たぶん、毎日。 悲しいと感じたのか怖いと感じたのか、もっと別の感情だったのか、いまだにわからない。” 神戸の街を六甲山から眺めたとき。  “「わたしがここ初めて来たんやったとしたら、この景色はどんなふうに見えるんやろうなぁ、 って。 穏やかな海が見える、きれいな街やなあ、ただそういうふうに見えるやろか。 それか、あれからもずっと働いてたり、住んでたりしてたら、毎日見続けてたら自分が生活してる、暮らしてる街として馴染んでいって、そういう風景に見えてたかもしれへん。 二十年以上経ったなんて、信じられへんけど、その間にあったたできごとは全部確かにあったことで、上の子は二十歳になるし、母は死んだし、私は四十四歳で、どの人にもどの場所にも、同じだけ時間が過ぎて、それは消えない”   始まりはすべて   続きにすぎない   そして出来事の書はいつも   途中のページが開けられている 失なっても、残るものがある。 目に見えなくても、消えないものがある。 忘れてしまっても、色褪せてしまっても、僕を作ってきたものは確かに存在する。 引用された詩にあるように、続きの日々を新しく生きていくこと。 決して派手でも、目新しいわけでもないが、虚しく希望のない時代の中でも、日々を歩むことは、何かを作り出すことだと信じて。 終わらせてはいけないものに耳を澄ませて。 まだ始まらないものの胎動に目を凝らしながら。 今への違和感に向き合って、こだわりながら。

    10
    投稿日: 2024.10.12
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    あの日のことをコロナ禍に思う。 淡々と日々を過ごす中、過去を振り返り、今を思う。幸せとはなんだろうか。被災地や戦場の人々のことを想うことはあれど、何か具体的に行動を起こすわけではない。いる場所によっても距離感は違うのか。 ほんの数年前のことだけど、忘れていることだらけだなぁと感じた。 夢=仕事って風潮どうにかならんかなぁ。

    0
    投稿日: 2024.09.22
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    別々の3人がコロナ禍で考える日々を追う。 2つの震災やいろいろな出来事の中で、3人とは年齢も立場も違うけれど、いくつも私もそう思った、わからなかったけれど、同じ感情だと感じたことがいくつもあった。 とにかく、文字量が凄い。ただ、感情はこれほど多く日々語ってるんだよなと思うとともに、だから疲れるんだなぁとも。

    10
    投稿日: 2024.09.20
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    このレビューはネタバレを含みます。

    阪神・淡路大震災、東日本大震災、コロナ禍、ロシアのウクライナ侵攻・・・ 柴崎友香さんの作品を読了するのは5冊目。 読了作品で感じていたヒリヒリ感はややマイルドになった気がする。うん、気のせいかな。 やっぱりこの人の文章というか視点は大好きだ。 今作は、読み進めながら、少し前に戻って確認して、また読み進めるというようなことが 何度かあった。びっくりするようなことは起きないけど、日常の中でのふとした出来事や思考を 丹念につなげていくような。そして、坦々としながらも、ぐっと引き込まれて、 しばし思考に沈んだり、自分の過去を振り返ったりもした。そんな読書体験だった。 柳本れいが、地震の揺れで棚から落ちた詩集『終わりと始まり』を手に取ってから コンビニに行く場面が読んでいてとても心に残った。 特に、本に付箋を貼った理由、その気持ちがいま思い出せないというところ。 そういうほんの小さな行動、確かにした行為がいまの自分の何を構成しているのだろう。 思い出せない気持ちも、いい形で層のように心のどこかに積み重なっていればいいなと思うけれど、 それを確かめることはできないもんな。いったいどこに行ってしまったんだろうね。 石原優子の同僚の河田さんの話。 昔に「どうしようもないくらい困ったときが来たら助けたる」と言ってくれるくらいに よくしてくれたお客さんに連絡を試みたけれど、叶わなかったという場面。 「あのとき言うてくれたことで、今、ちゃんとわたしは助けられてるってわかった」(P281)という 言葉を見て、一瞬で、眼が熱くなった。 20年前の言葉が、言葉そのものが今の自分を助けてくれている。そんな心強い言葉。 どんな言葉がいつどこで誰を支えるかなんてとてもわかることじゃないけれど、 確かにそういう言葉は存在するのだ。 そういう力強い言葉、言える人間になりたいと素直に?思ったのでした。(笑) 柴崎友香さん、もっと読みたい。定期的に読みたい。そんな感じ。

    4
    投稿日: 2024.09.07
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    別々の場所でそれぞれの人生を送る3人(30代後半の女性・石原優子、30代前半の男性・小坂圭太郎、40代半ばの女性・柳本れい)について、2つの大震災など過去の記憶も呼び覚ましながら、日本がコロナ禍の只中にあった2020年3月から2022年2月の2年間を描く叙事的長編小説。 自分自身の人生も含め、それぞれの人生、時の流れなんかに思いを馳せさせてくれる実に良い小説だった。 本書のキーアイテムであるヴィスワヴァ・シンボルスカの「終わりと始まり」という詩集から抜粋される詩(特に、「戦争が終わるたびに誰かが後片付けをしなければならない」から始まる詩)も心に残った。

    1
    投稿日: 2024.08.31
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    気づかずに忘れていたあの日々のこと、空気と、少しずつ降り積もっていった気持ちたち。 楽しいことはすべて制限されるのに仕事だけが通常モードになろうとする、働くだけの存在になれってこと? とか、 まんぼう とか、 ⚫︎度目の緊急事態宣言 とか、 また営業時間が変わるだけ とか、 え、これでもやるの?なオリンピック とか、 自宅待機 とか、 Go travelとか。 いくつかの並行世界が、なんとなく同じところで繰り広げられてるように見えていた世界が、 やっぱり並行世界は並行世界だったんだと気付かされるような出来事の数々。 もっとさかのぼって、東日本だったり阪神淡路だったり でもこの後だってたくさん更新されてしまってることたち どれもその瞬間その日々は影響を受けて少しずつ削られてすり減って なのに慣れてしまっていつしか忘れてしまう 優子が毎日川の見え方を確認する行為は、 自分自身の確認とともに、自分自身へのエールでもあったのかも。 でもほんとうに毎日は、このような些細なエールで築き上げられている

    0
    投稿日: 2024.08.24
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    コロナ禍に陥った1年間に、それぞれの阪神大震災と東日本大震災の記憶が混ざり合う。 いまでは過去の言葉となった「不要不急」「まん防」などへの違和感を添えて、自分の記憶も丁寧に引き出されるノンフィクションのような作品。

    0
    投稿日: 2024.08.14
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    2020年3月から始まり2022年2月までの物語。ちょうどコロナ禍の話。 タイトルはポーランドの詩人の「終わりと始まり」という詩集からきているらしい。 1995年の阪神淡路大震災や2011年の東日本大震災の頃を回想しつつ、コロナ禍の現在を生きている主人公は3人。 3人共ある意味普通の人達なので、自分自身と比較しやすい。震災の時に募金はしたけれど、ボランティアには行かなかった事の罪悪感とか、どんな時でも「自分よりも大変な人がいる」と思ってしまう感覚。 災害が起こると感じる、「安全な場所で『情報』を見ている」という言葉が一番刺さったかも。 『戦争が終わるたびに 誰かが後片付けをしなけれなばならない 物事がひとりでに 片づいてくれるわけではないのだから』 今ウクライナで起きている戦争は、まだ終わってもいないけれど。

    1
    投稿日: 2024.07.12
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    作品全体にコロナや震災という大きな出来事が横たわっているが、それとはまた別の小さな物語がていねいに綴られている。とりたてて特徴のない登場人物たちの、でもその人だけの悩み、気持ち、生き方。それを見過ごさないということ。なかったことにしないということ。 読み手である平凡なわたしの人生もまた、肯定されているように感じた。

    0
    投稿日: 2024.07.02
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    「老化っていうのは体が衰えることでもシワが増えることでもない、チャレンジ精神がなくなること」とあり、そうかもと思う。何事もやってみないとね。

    0
    投稿日: 2024.06.12
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    このレビューはネタバレを含みます。

     男女三人の登場人物が、2020年3月からの2年間、要はコロナ禍の間、それぞれの場所で、それぞれの暮らし、人生を、いかに送ったかが、微細ながら、淡々と紡がれる。  未曽有の国家的危機の最中、その9年まえの2011年の東日本での大震災や、さらにその前の阪神淡路の震災にも思いを馳せつつ、今を生きる市井の人びとの暮らしが、そこにある。  つまり、いろんな出来事があった「続き」の今であり、そんな中で、新たな暮らしぶりの「始まり」を描く物語。  ただ、いつまでたっても、その三人が絡んでこない。年代も、職種も、生活環境も、住む場所も異なる三人ゆえに、一向に人生が交差していかない。同じコロナ禍を過ごすことが、唯一の共通点で、なんとももどかしい。  が、終盤、やっと、一つの書物を通じて結びつく。あぁ、そういうことかと、やっと得心。  その本は、ポーランドの詩人、ノーベル文学賞受賞者である、ヴィスワヴァ・シンボルスカヤの『終わりと始まり』だ。  私自身も、この詩集をコロナ禍中(2022年10月)に書店で見つけ読んでみて、いたく心を打たれたもの。その時はもう、ウクライナ戦争も始まっていたので、これまでの何かが「終わり」、新たな何かの「始まり」を予感させるようなタイトルにドキっとしたもの。  本書の中の三者は、それ(ウクライナ戦争勃発)前に本書に触れていたという設定ではあるが、著者は、もしかしたら、私と同じころに本書に出会い、この物語を紡いだのかしれない。物語は、2022年2月まで綴られることから、そこはかとなく予想されるのだが、どうだろうか。  ただ、本書のタイトルを「続きと始まり」と、シンボルスカヤの詩集と少しニュアンスを変えている点が、お見事だと思った。   未曽有のパンデミックや、世界を巻き込むかのような、遠く忘れさられそうになっていた戦争というものが起こる今の世相を、これまでの時代の地続きと表現したのだろう。これまでの様々な要因の不用意な積み重ね、看過してきたことや、軽視してきた所業の続きとして、これからの未来が始まるとした。  今は、過去の子であり、未来は今の子。登場人物のなにげない日常も、連綿と未来へとつながっていくのだ。そう、我々の暮らしも、人生も、なにもかもが。

    2
    投稿日: 2024.06.12
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    読書備忘録828号。 ★。 「革命の話をしよう。」 という大満足の読書から一転・・・。 全く面白くなかった(#^^#)。 覚えていないくらい久しぶりに読了がしんどかった(#^^#) この作者と作品を否定する訳ではありません。全く。 個人的に合わなかった、というだけです。 ウニいくら丼はめっちゃ美味いですが、中には苦手な人もいるでしょう。そういうことです。食の好みは違っても友達です! そして個人のレビューですからね。忖度して当たり障りのない感想を書いてもしゃあないですもんね。 この作者のファンの皆様!サ~セン! 物語の時間軸はコロナ禍の2020年3月から2023年2月。 主人公は3人。 石原優子。滋賀?でなんか企業に勤めている。男性社員が嫌な野郎ばかりの設定。 小坂圭太郎。東京近郊?で妻と娘と暮らしている。飲食店勤務。妻は不動産関係? 柳本れい。東京近郊?でフリー?のカメラマン。友人の写真館も手伝っている。 コロナ禍で激変した職場、生活、社会。 更に遡って10年前に起きた東日本大震災。さらにその前の阪神淡路大震災。 直近ではロシアによるウクライナ侵攻。 これら社会環境の変化に対し、主人公3人の日常を描いた日記・・・だな、これ。という物語。 ストーリー性は感じられませんでした。私の感性が鈍いんでしょう。作者がなにかメッセージを伝えようとしているのか? 過去にあった出来事。その続きとして今があり、始まりがあるということを3人それぞれのケースで永遠に書き続けているという印象でした。 あと主人公達が、文句ばっかり言っているのがどうしても受け入れられない。読んでてイライラして堪らない!もっと前向きに発想の転換をしろよ!と逆に文句言いたくなる。笑 ああっ! やっぱり読書は、ファンタジーで「革命の話をしよう。」とか、遥か宇宙空間に思いを馳せたり、熱烈な恋愛を疑似体験して胸がキュンキュンしたりしたい! さあ!次の口直し作品を読もうぞ!

    23
    投稿日: 2024.05.21
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    石原優子、小坂圭太郎、柳本れい。 この3人の2020年から2022年までの日々や思いがそれぞれ記された小説。1995年の阪神・淡路大震災、2011年の東北大震災、そして2020年からのコロナ禍。生活も考え方も変わらざるをえない出来事のなかで、どう生活をしなにを考えてきたのか。三人三様なのだけれど、細かく表現されていて、読みごたえがあった。共感することも多かった。「じわじわと。自分が削り取られていく感じ」とか。深く考えてしまうと、人と話すのは本当に難しく思えた。「わたしは、なにを言って、なにをしてきたか。わかっているのだろうか。」ということも、自分に当てはめて考えた。捉え方は人それぞれだから、普通に話すことは難しいと改めて思った。 「始まりはすべて 続きにすぎない そして出来事の書はいつも 途中のページが開けられている」 このシンボルスカの詩の一部分が、表現していることが今日も続いているんだな、と思った。柴崎友香さんの他作品も、これから読んでいきたい。

    7
    投稿日: 2024.05.21
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    ちょうど真ん中くらいで、タイトルにもなってるフレーズが出て来たのが印象的でした。 もはや、コロナ禍、と言うジャンルが出てもよいくらい、この時期に執筆された本を色々読みました。 まだ収束してないフェーズで読んだのと、今読んだのでは全然印象が違います。もっともっと時が経ったら、これも昔の事になってしまうのかな。

    0
    投稿日: 2024.05.15
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    なにが自分の生き方を決めるのだろう。 どんな出来事が自分を形作ってきたのだろう。 この数十年の間に私たちは、コロナウイルスや大きな震災を経験し、遠い国のテロや戦争をニュースで見た。 あるいはごく個人的な、育った家庭環境があり、今も記憶に残る子どもの頃の出来事がある。 他者とのかかわりの中で、「じわじわと。自分が削り取られていく感じ。」p71 誰かと比べて、自分は「恵まれてる」p18 のだからと、飲みこむ小さなモヤモヤ。 書評家の藤田香織さんの、「自分に刺さっているトゲ」(朝日新聞)という言葉に、この物語全体に漂う、どこか漠然としてすっきりしないものの正体を知る。 私たちは、心に刺さったままのトゲを抱えて大人になり、この先も生きていく。 「前。前って?なんの前だろう」p65 「あれからって、いつから? どのできごとから?」p85 私たちが今生きている時間は、いつもなにかの、どこかの続きだ。 そして繰り返しなにかが、どこかで始まる世界だ。 この瞬間と次の瞬間では、なにも変わっていないように見えるし、まるで違っているようにも見える。

    6
    投稿日: 2024.04.29
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    はじめて読んだ作家さん。 コロナ禍での人々の生活。 大きな出来事はないけれど淡々と話は進む。 そんなに共感できる登場人物はいなかったけど、 色々な制限の中で暮らした緊急事態宣言のときを思い出した。

    4
    投稿日: 2024.04.23
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    このレビューはネタバレを含みます。

    自分が決して共感しないだろう人の心情を疑似的に追体験するのが小説の機能の一つ。そういう意味でとてもよかった。依然としてわかりはしないけれど。

    0
    投稿日: 2024.03.28
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    このレビューはネタバレを含みます。

     既刊を少しずつ大切に読んでいる柴崎友香氏の新刊がリリースされ、Sessionのゲスト回も興味深かったので読んだ。何も起こっていないように見えて、その実すべては変化している社会に対するステイトメントのような小説でめちゃくちゃオモシロかった。そして何度も身につまされる気持ちになった。普段置いてきぼりにしている気持ちや考えがこうやって立体的に小説で立ち上がってくると同じテーマのエッセイなどを読むよりも心に刺さる。見た目は限りなくノンフィクションだが、フィクションの醍醐味が詰まっていた。  3人の主人公が用意されており、2020年以降の各年月に主人公たちがどのような生活を送っていたのか一冊の詩集を軸にして描かれている。立場、年齢、性別、仕事いずれもバラバラながらもコロナ禍や地震といった共通の災禍を通じて各自の感情のあり方をあぶり出していく。今この瞬間は何かの前で何かの後である。言われてみれば当たり前なのだが、この「何か」に対して「災禍」を当てはめて物語を構築している点がエポックメイキングだ。災害大国である日本ではここ十数年のあいだ、地震、津波、洪水など災害が後をたたない。また特定の場所に依存せず猛威を振るったコロナウイルスもあった。我々は常に「何か」の犠牲者になる可能性があるにも関わらず、自分に関係がないと傍観者になってしまうことが多い。それに伴う自責の念のようなものがたくさん描かれている。生活していれば誰もが他人事ではないと頭では分かっていても行動には移せない歯がゆさの数々は多くの人が理解する感情のはずだ。  そのとき自分が何をしていたのか、どのような影響を受けたのか。メディアでは大きなトピックが扱われることが多いが、実際には軽微なことを含め皆なんらかの影響を受けており、その距離感について考えさせられる。自分自身は阪神大震災でモロに被災して人生が大きく変化したし東日本大震災のときは直接に被害はなかったものの就活真っ最中だった。こうやって過去の災禍と自分の距離を改めて見つめる作業は「何か」の前を生きる今、必要なことかもしれない。(能登半島地震が起こった後であり、海外では戦争真っ只中なので「前」とは言い切れないのですが、今の自分の肌感としては「前」ということです。)  ここ数十年で起こった価値観の変化についてもかなり意識的な描写が多い。女性が抑圧される場面の描写があるものの、泣き寝入りせず毅然と対峙していく。また抑圧に対して「相対的にみればマシだ」という一種の処世術に対しても疑問符を投げかけるシーンが多い。本著のフレーズで言えば「恵まれている」と自己暗示のように言い聞かせて現状を飲み込んでいく、その対処療法の繰り返しで我々は結果的に貧しくなってしまったのではないかと言われているようだった。  辛いことやおかしなことがたくさん起こっているにも関わらず現実はそのまま放置されている無力感をここ数十年味わってきたし、その状況に慣れてしまっている。この無力感を街で生きる市井の人たちの生活の視点から描いていく、その真摯さは正直身に応えた。日々忙しい中だと自分のことで手一杯になることも多いが、外に目を向けて声をあげて具体的な行動をしないと社会は変わっていかない。そして、その責任は大人にあることを自覚する必要がある。そういった意味で婉曲的にWokeな小説とも言える。誰かがやってくれると思っていても社会は好転しない。  また日常でよく見る場面に対する違和感の表明が各人物から放たれる場面が多く、その塩梅の絶妙さも読者の心をざわつかせる。言い切りの強い言葉による主張や否定はある程度距離を置くことができる。しかし著者は本当にいると読者が感じるような柔らかい物腰の人物像を丁寧に描き読者の心の隙間へスッと入り込んできて心を揺らしてくる。ゆえに短いラインでガツンとくるものも多かった。夫から仕事を休むことを前提に話された妻の以下のラインなど。 *「現実やとしても最初から決まってるわけじゃない」* また同世代で育児に比較的積極的に参加している料理人が主人公のエピソードは、属性として重なる部分が多いゆえにグサっとくるものがたくさんあった。ラインとして一番刺さったのはこれ。 *貴美子が若い子たちの置かれている状況や子供や弱い立場の人を考えもしない「おじさんたち」を非難するのを聞き、まあまあ、そこまで言わなくても、などと言いつつも頷きたかった。それで、自分もガールズバーに通う男たちや家事や子育てをしない男たちとは違うのだと感じられる。何かを考えた気になって、正しくなりたかった。それで楽をしたかった。* 「相対的にみれば大丈夫」と自分をポジショニングして安心感を得ようとしてしまう虚しさ、浅ましさに身に覚えがないといえば嘘になる。「絶対的」な感情の在り方をもっと大切にしないといけない。最近文庫で『百年と一日』がリリースされていたので次はそれを読みたい。

    0
    投稿日: 2024.03.23
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    なんかわかるな。 なんかそれぞれの感じ方に、共感できる部分が多数あって、なんか透明な感じにすーっと物語が続いてる感じがとても良かった。

    3
    投稿日: 2024.03.18
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    何か特筆するような出来事が起こるわけではない。2020年3月から2022年2月にかけての期間、コロナ禍で全ての人の生活が影響と制約を受けていた期間における、ごくありふれた一般市民である男女3人の身の回りで起きたことを、それぞれが主人公となる章を交互に重ねることで描いていく。 確かに、コロナ禍の生活ってこんな感じだったよなあと、ほんのちょっと前のことなのに、時を隔てた異世界のように感じられるのが不思議だ。 あの時期の暮らしや感覚を、後に記録として残す意味でも貴重な価値を持つ小説と言えるかもしれない。 登場人物たちに、ふとしたきっかけで蘇る過去の記憶、それがこの小説のテーマである。阪神大震災や東日本大震災など多くの人が共通に体験した記憶と、両親や同級生、別れたパートナーとの間で交わした会話の断片などのプライベートな記憶。 ありふれた一般市民といっても、人に歴史ありというか、記憶を紐解くことで立ち現れる、それぞれの人生の複雑性や個別性、それを丁寧に紡いでいく筆致の確かさはさすがで、読み応えがある。

    1
    投稿日: 2024.03.07
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    2020年3月から2022年2月の間の3人の日常。 そのうちの1人、石原優子の章で、リアルな関西弁の会話に惹き込まれた。ここまで正確に関西弁を表記した小説を私は知らない。 それぞれの行動、思索に2つの震災とコロナ禍が思考の端々に絡んできて考えさせられる。 最後の章で、偶然3人が一堂に会するというシチュエーションには、え…なんで?とちょっとがっかりしてしまった。

    0
    投稿日: 2024.03.03
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    最後、こう繋がるのかぁと感服。 いつかの2月に3人は(石原優子、小坂圭太郎、柳本れい)新宿のトークイベントで一瞬だけ会って少しだけ言葉を交わしてたんだね。 オリジナルTシャツの作業場でパートとして働く優子、いろんな飲食店を転々として働く調理師の小坂、カメラマンの柳本れい。 それぞれがそれぞれの環境で震災のこともコロナのことも生活の一部として語られていく。 そこでの人間関係も。リアリティがありすぎて、まるでその主人公をつかの間生きた感じがした。(特に石原優子ね) ポーランドの詩人、ヴィスワヴァ・シンボルスカの 「終わりと始まり」にインスパイアされての小説なのかな。 この詩も素敵だった。

    0
    投稿日: 2024.02.25
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    この本を読んで、久しぶりに「クラスター」と言う言葉を思い出した。 本当に、人は忘れる生き物なんだなぁと思った。 もう少し、波がある話かとも思ったけれど普通な感じではあった。

    0
    投稿日: 2024.02.18
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    コロナの日常が描かれた作品。別々な3人のエピソードが替わりばんこに出てくるのですが、あいにく、それぞれの1つ目を読んだところで挫折。最後は一つの線になる、ということだったので、最終章は読みましたが、あまり印象に残らないお話でした。 あの頃のことは、なんとまく、モヤってしていてどんどん記憶が薄くなってしまっている感じなので、”思い出す”のにはいいかも。。

    0
    投稿日: 2024.02.12
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    風化していくって怖いなって読んでて思ったほど、緊急事態宣言という言葉が懐かしいと思ってしまった。あんなに日常的だったマスクのこと、忘れてはならない震災も。大切なことたちが随所に散りばめられててハッとすることがあっていいなと思いながら最後まで楽しく読んだ

    5
    投稿日: 2024.02.05
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    『三月十一日は仕事が入っていなかったので、れいは部屋の片付けをしていた。この部屋に移ってきて以来、テレビをつけることはめったになく、代わりにときどきラジオを聴くようになった。(中略)ニュースは「震災から十年」という言葉で始まった。コロナ禍のために追悼式典は縮小され、政府からの出席者も制限されています、と各時間ごとに別のアナウンサーが同じ文言を告げた。「十年の節目」という言葉が、何度も聞こえた。「節目」ってなんだろう、と思う。なにか変わることがあるのか、れいにはわからなかった。その十日後に、緊急事態宣言は解除されることになった』―『二〇二一年二月 柳本れい』 柴崎友香を読み始めていつの間にか二十年。その間、世の中を揺るがすような大きな出来事もあったけれど、この作家の立ち位置はほとんど変わっていないということに気付く。何か流行りのものに流される様子もなく、好きなもの(特にバンド)は好きと表明しつつも、何かを断定的に判断することに常に躊躇を感じる人の心情を書き続けている。作家がそんな風に代表する立場を、あるいは「サイレント・マジョリティー」と呼んでも良いのかも知れない。けれど、そう呼ばれた人は、決して黙っていたい訳ではないし、主張したくない訳でもない、というのがより適切な言い方になるのだろう。それはもしかすると、現状を完全に肯定している訳ではない、という表現に還元され得る心情なのかも知れない。 そう言ってみてしまうと、何だか妙に内向的で、「ネクラ」な人々のことを指しているようだけれど、無理に自己主張を強いられることに抵抗感がある人の方が普通ではないだろうか。主張は、ものごとを単純化して理屈に合わせて訴えなければならないが、その過程で失われる個や感性の代償も大きい。その意味では「多様性」と集団を俯瞰した立場で表現した瞬間に失われているものがある、と言い換えても良いかも知れない。この作家は、それをいつまでも省略しない生き方を書き続けているのだとも言える。それを突き通すことによって、全ては日常生活の延長上にある、ということを柴崎友香は常に訴えてくる。訴えてくる、というのは強過ぎる表現かも知れない。だがこの作家の書くものを読んでいると、いつもそう感じてしまう。 『ヨッシーは、前にいいって言われたものをなぞっているだけに見えるし、被写体に対しても勝手な思い込みがある感じがする、と訥々と話した。他の学生たちは、そうかなあ、と首を傾げたりしていたが、撮影者と仲がよく、そのクラスの中心的な存在でもあった山岡という男子学生が、批判するならもっと明確な理由を言うべきだ、と苛立ちを隠さずに言った。(中略)説明できないってことは正しくないってことだろ、単なる感情でしかないじゃん、納得させられないんだからその時点で間違ってるんだよ、ちゃんと考えてからしゃべれよ、と、声を荒らげた』―『二〇二一年八月 柳本れい』 これは、養老先生が常々いうところの「概念」の話だ。曰く、概念は感覚を凌駕するものではない。複雑なものを人間にも理解できるように単純化するだけのこと。そしてX=3、a=bという概念上の操作を飲み込む時、何でもありの世界に踏み入れている事に気付けないでいると、倫理観を徐々に失いかねない、と教える。柴崎友香が書いていることは、まさにその感覚が「何かが違う」と訴えていることに拘るということなのだと理解すれば、やたらに風景描写や物事の変化を捉えて記すことが多い文体のことなども理解できるような気になる。変化は日々の中にあるのだけれど、いちいちそれに気を止めていたのでは日常生活は滞りがちとなる。だから、これは昨日も在ったし今日も「同じように」在る、と頭で整理する。しかしそこに違和感が残ることに、この作家は拘っているのだ、と。養老先生が自然に帰れと言うのと基本的に同じことを柴崎友香は小説に書き記す。ただしもっと間接的に。 『昨年三年ぶりに刊行した長編小説は、忘れていた過去が今の自分や周りの人間関係にどう影響しているかをテーマにした話だ、と説明されていた。これを書こうと思ったのは、コロナ禍で一人で今までのことを見つめ直す時間ができたのもあるし、東日本大震災から十年が経つこともありました。実は、震災の一年後に津波で大きな被害を受けた場所を訪れたのですが、そのとき見たことについてはいまだになにも書けないんです。一行も。なにか書くつもりで行ったわけではないのですが。私は大学生の時に阪神・淡路大震災を経験していて、でもうちの周りは被害がたいしたことなかったから、そんな自分には書けないと思っていたんですね。でも二〇一一年に東京で震災を体験したとき、自分には書けないと思っていてもなにか少しでも書くべきだったと思ったんです。直接大きな被害を受けたわけではなくても、なにか少しでも伝えられることがあったんじゃないかって。それなのに、また書けないんですよね。十年経っても、なにをどう言葉にしたらいいのかわからなくて。その思いが、今回の小説につながっていると思います』―『二〇二二年二月 柳本れい』 そして、これまでのインタビューやエッセイの中でも語られて来たように、この作家の違和感の根底に、震災の記憶というものがある。本書の中で作家の等身大の投影が最も色濃く反映されている人物(直接出てくることはない)に語らせているこの思いは、作家の思いが直接的に語られていると見ても良いように思える。「だからどうなの?」と問われても返す言葉が見つからないことは、だからといって忘れてしまって良いことではない。そんな声が、じわじわと伝わって来る。 そして『「なにげない日常こそがかけがいのないもの」と判で押したように紹介されたりすることに、抗うことができたかもしれない』と、主要な登場人物の一人に語らせている一言もまた、如何にも作家柴崎友香の心情そのもののように響く。「何も起きない」などとも評される小説は、実は「起きていることに読者が気付けない」小説なのだ、と作家は言いたいのだろうと思う。もっとよく見てください、と。その意味では今回の作品は随分と丁寧に起きていることが語られていて、作家の拘りの根源にも迫るような一冊となっていると思う。 そして、ヴィスワヴァ・シンボルスカの「終わりと始まり」。さて、自分はどんなことを感じていたのか、と振り返って見ると、 「 原因と結果を 覆って茂る草むらに 誰かが寝そべって 穂を嚙みながら 雲に見とれなければならない 『終わりと始まり』 わたしは解らない、と認識し続けること。それは逆に言い換えてみれば、わたしは考え続ける、ということ。恐らく、今、一番必要なこと。」 などと書いている。ああ、本当にそうなのだ。自分が柴崎友香の小説を好きな理由もそこにある。 最終章は、言ってみれば、これまでの柴崎友香節に戻ったようなエピローグ。ちょっと「きょうのできごと」を思い出させる。そういえば全体の構成もオムニバス風なのだった(そもそもナイト・オン・ザ・プラネット(ジャームッシュ)だものね)。と、つらつら考えていたら、頭の中で矢井田瞳の「マーブル色の日」が流れ出して止まらなくなった。

    6
    投稿日: 2024.01.29
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    地震、コロナ、、日常生活が脅かされる。 そうした中でそれぞれの境遇の3人が必死に?それなりに?生きている。 それを描いた小説、、、 みんないろいろあるけど、生きている。

    1
    投稿日: 2024.01.20
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    阪神・淡路大震災と東日本大震災の2つの災害、そしてコロナ禍をリンクさせて現代を見据えた意欲的な作品だ。 2020年3月の石原優子の章から始まって、5月の小坂圭太郎、そして7月の柳本れいへと語り手が移り、以後ほぼ2ヶ月毎の出来事がそれぞれの視点で綴られていく。彼らは住む場所も仕事も違い接点はなさそうに思えるのだが、最終章で1つになり唸らされる。 これまでに読んだ柴崎さんの作品とはいささか作風が異なるが、確かな手応えを感じた。

    3
    投稿日: 2024.01.20
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    三者三様のコロナ禍“あの日”“あの頃”の経験は、怖いほどリアルでフィクションなのに“身に覚え”があり過ぎて‥語り手達が個人的に見た景色まで、わたし自身が見聞きしたり経験してきたことに重なり、脈絡もなく記憶のページが開かれて、頭の中がパンクしそう。「どうすればいいかわかるのはいつもそれが過ぎてから」。そう言えばあの頃、大災害と同時進行であんな事もあったし、こんな事もあった。能登はまだ揺れているし、あれもこれも正解はわからないけれど、私たちなりの方法で後片付けをし続けていかなければ。

    5
    投稿日: 2024.01.18
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    閉塞感を感じた。なかなか上手く行かない人生。自分の人生は、良い様に思う。1989年に入社して、今も会社員。定年も延長になり、恵まれている。今の暇な仕事、やりがいのない仕事。まだ、マシなことなのかもしれない。

    1
    投稿日: 2024.01.15
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    柴崎さんの小説が大好きで、いつも新刊を楽しみに、読んできました。でも、これは今までの柴崎さんの作品と、全然違う、すごい・・・と読み終わって感服しました。 3人の主人公の、今の生活や仕事、生まれ育った家族や今の家族のこと、日々のささいな気づきやひっかかりが、 関わる人々との会話によって、気づきに深みが増していく。 何十年も前の後悔や痛みが、全く関係のない場所で、理解できたり納得できたり、癒えたりすることがある。 ということが、鮮やかに文章で描けることが、本当にすごいと思いました。 私たちは生きている限り、考え続けることができて、それは、続きの始まりなんだ、と。 今も、災害や戦争が遠い場所で起きていて、自分は画面の中の現実をみているだけで、何もできない、と思っているような日々の中で、 考え続ける、終わることはない、ということが身に沁みました。 フェミニズム的な視点からも、とても勇気づけられる小説で、これから何度も読み返すと思います。

    3
    投稿日: 2024.01.09
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    Amazonの紹介より あれから何年経っただろう。あれからって、いつから? どのできごとから? 日本を襲った二つの大震災。未知の病原体の出現。誰にも同じように流れたはずの、あの月日──。別々の場所で暮らす男女三人の日常を描き、蓄積した時間を見つめる、叙事的長編小説。 コロナ禍での3人の「日常」を垣間見ましたが、最近の話なのに、どこか「過去」のように感じてしまいました。 本作品は、みんなが体験した日常を描いているので、特に小説ならではの演出といったエンタメ性の要素はありません。淡々と時が流れていて、時折あんなことあったな、こんなことあったなといった出来事もあって、懐かしくも感じてしまいました。 主要の3人は、コロナをきっかけに仕事にも影響され、色んな変化が訪れます。自分はエッセンシャルワーカー(コロナをきっかけにこの言葉を知りました。)なので、あまり日常が変化した感覚がなく、3人が描く苦労の連続になかなか親近感が湧きづらかったのですが、コロナによる影響は計り知れないことを感じました。 人生を突っ走っている時はあまり感じないのですが、ふと立ち止まってしまうと、色んなことを考えすぎてしまいます。とにかく色んな場面で、色んなことを振り返ります。 あれから何年経った?の「あれ」とはいつから?「あれ」とは何か?といった具合に、今にしてみれば、どうでもいいことが描かれています。 結局考えたところで、何も変わることはないのですが、ふと人生に立ち止まった時に色んなことを考える描写は共感しました。たしかにそうだなと思うところもありますが、過去の言葉が間違っていたとしても、過去は消せません。 何かの続きを生きるしかないと感じました。 日々、テレビといったメディアで伝える情報。画面越しだけれども、日々の情報に心を痛めることもしばしばありました。その一方で、どこかで何かが起きているといったふわっとした現実と捉えることもあります。 小説に出てくる3人の日常も、どこか「情報」だけを目撃しているだけで、自分には何も影響されないといったどこか突き放した感覚もあって、どこか不思議さが生まれていました。 懐かしいと書いてしまうと、どこか言葉のニュアンスが異なるのですが、小説を通じて、あの頃が蘇ってきました。 あの頃を忘れず、また人生を駆け抜けたいと思いました。

    6
    投稿日: 2024.01.03
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    このレビューはネタバレを含みます。

    2つの地震や新型コロナの出現そのものと、そこからの時間の経過の中で、何を考えて生きていたのか・それぞれの人生が続いていくことと何かをテーマにした小説だと思う。出来事が発生した当初の自分と、その時の自分を振り返って見つめている今の自分。三者三様の立場からそれぞれの人物が思い返している。 奇しくもこの小説を読み進めている年始に、令和6年能登半島地震が起こってしまった。それを画面越しに見続ける自分、多少なりとも寄附などできないかとする自分など、この小説と現実がリンクする感覚もある。 この著者が描く風景描写は不思議なリアルさを纏い、毎回頭にくっきりと浮かび上がってきて且つそれにとても共感できるので、この本も同様に、ただただ文字を追っているだけでも静かな気持ちで味わうことができる。 要所要所で登場人物たちが読んでいる、ヴィスワヴァ・シンボルスカ『終わりと始まり』は、どこかでぜひ手に取ってみたくなった。 始まりはすべて 続きにすぎない そして出来事の書はいつも 途中のページが開けられている(p.311) これについては、星野源さんの曲「光の跡」に出てくる、「終わりは未来だ」「出会いは未来だ」という歌詞をふと思い出し、物事が続いていくことについて、悶々と考える正月になっている。 ==== 外はまだ明るかった。れいは、窓際に折りたたみのテーブルを置いて、好きなシングルモルトをソーダで割って、小鰺と焼き鳥を食べた。窓を開けていると、涼しくはないが風があって過ごしやすかった。裏が保育園で、視界が広くて日当たりもいいのも、ここに引っ越した決め手だった。昼間は子供の声が聞こえるのは楽しくもあったし、夜はとても静かだ。 ゆっくりと群青色に移ろっていく空を見上げてハイボールを飲んでいると、いい暮らしだな、と思う。(p.68) あのときあの場所での感覚は今はその通りには思い出せない。今、ここにいる自分からは遠い。 9年前の遠い街のことだけでなく、ついこの間のこの街での感覚さえ薄れている。もうスーパーに品薄の棚はないし、マスクも消毒用アルコールもいくらでも買える。人々がマスクをし、店にアクリル板やビニールの仕切りがある以外、なにも変わらないように見える。(p.96) 夜が明けるのが早い夏の初めには、3時すぎにもう空に光の気配があって、生ぬるい空気の色がだんだんと変わっていき、その中を走り抜けるのは気分がよかった。 2011年の3月11日は、自転車だったから家で帰れた。平日は新宿三丁目のカフェ、週末は神泉のイタリアンで働いていた時期で、イタリアンの店に着いて仕込みの作業を始めたところで揺れが来た。 店主や他の従業員と無事を確認しあってから外に出て近所を見て回っているとまた大きく揺れた。古いビルが揺れて隣の建物にぶつかりそうになっているのや屋上にあった大きな室外機が駐車場に落ちついているのを目撃して、ぞっとした。(p.115) 初めてフィルムを自分で現像してそこに光と影が反転した風景の一瞬が永遠にとどめられていることを知ったときも、引き伸ばし機でピントを合わせるときにフォーカススコープを覗いてぼやけた灰色が細かい粒子に変わって世界が点描で表されるのを体感したときも、現像液のバットに沈めた印画紙に自分が撮った「写真」が浮かび上がってきたときも、周りの世界が、目に見えるものすべてが、光と影で塗り変わっていくような、色彩が湧き出すような経験だった。だから、自分はこの仕事を20年以上も続けてこられたのだと思う。 道具も仕事の手順も変化したことは多いが、過去の一瞬に存在して消えてしまった光がレンズを通して別の時間に残される、その驚異というか謎のようなものは仕事として何千回、何万回とシャッターを切っても、れいの中に変わらずに存在していた。(p.146) 10年前に被害のあった場所では、どこにカメラを向けても起きたことが見えた。起きてしまったことが写った。今は、外に出ても、なにが写るんだろうか、と思う。飲食店のドアに貼られた営業時間の案内や入口に置かれた消毒液、そして誰もの顔を覆うマスクによって、いつかその写真を見ても「あの時の」とわかるとは思う。しかし、それを写せば「今」を撮ったことひなるのか、そしてなによりなぜ自分が写真を撮るのか、わからなくなるのだった。(中略)こうして誰もいない道を一人で歩いていると、自分がどこにいるのか、ニュースで見る世界と本当に同じ場所にいるのか、わからなくなる。さっき地震があったことも、ほんとうかどうか実感できない。(p.156) それが起きたのは小学校に通うのもあと少しという、6年生の1月のことだった。連休明けの早朝、まだ真っ暗な時間だった。貴美子が住んでいたあたりもかなり揺れたが、従姉妹に起こされるまで気づかなかった。なにか大変なことが起きたらしいというのはわかりつつ、学校は通常通り授業があり、なにが起きたのかをはっきりと理解したのは帰宅して倒壊した高速道路やビルの映像をテレビで目にしたときだった。遅くまで、貴美子は、次々と新しい映像が映し出されるテレビを見続けた。叔父と叔母はあまり見ないようにと注意したが、彼らもテレビを消すことはできず、貴美子はそこから動かなかった。夜になってそこら中から黒煙を上げて燃え続けるその街、行ったことのないその街の名前は、貴美子にとってはあの子と結びついていた。それから当分の間、テレビや新聞で伝えられる犠牲者の名前を、貴美子は何回も何回も確かめた。(p.222) 世のたいていの人が「世界」だと思っているのはテレビの中のことじゃないかと考えることがある。テレビを見る人が減っていると言われつつ、SNSや動画でも元はテレビでやっていたことが話題として流れてくる。いや、今はネットの動画をテレビで流しているから、映像を見なければ現実の出来事と思えない、映像があれば現実だと思うということだろうか。(p.237) 図書館で借りて11年ぶりにその詩を読んだ圭太郎は、自分が貴美子に出会えてよかったと伝えたかったのだと思った。そして、覚えていなかった、たぶん、11年前はそれほど心を引かれなかった最後の一節のほうを、じっと見つめた。  始まりはすべて  続きにすぎない  そして出来事の書はいつも  途中のページが開けられている(p.311) こうして、何かが起きて、画面を見続けるのは自分がこれまで生きてきた中で何度目だろう。 地震があり、事件があり、テロがあり、戦争が始まり、そのたびにこうしてひたすら画面を見る。2011年の震災のときからは、流れてくる報道の映像だけでなく、インターネットで情報を探すことも増えた。 しかし、それで何かが変わったことはない。 自分はいつも見ているだけだ。画面越しに、遠く離れた安全な部屋の中で、「情報」を見ているだけ、時間が過ぎていくだけだ。(p.330)

    1
    投稿日: 2024.01.03
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    過去を消すことはできない。 人を傷つけ、人に傷つけられた事実も無かったとこにできないし、あきらめた選択肢も戻ってこない。 つまるところ、みなそれぞれにこれまでの「続き」を生きるしかないのだ。 でも、新たな「始まり」のきっかけは、そんな現実や自分との向き合い方次第でいつでもだれにでも与えられるということを、この本は教えてくれる。 待望の長編新刊。読み応え十分。 もう少し刊行月が早ければ「今年の3冊」とか「2023年回顧・文学」にきっと取り上げられていたはず。

    1
    投稿日: 2023.12.29
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    かつて日常を非日常にしてしまった二つの大震災。 未知の病原体の出現。 過去の出来事だけど、それはあまりにも深く心に残っていて… コロナに関しては、今もまだ安心とはいえないが… それなりの前に戻ったかのように日々は続いていく。 この物語は、三人の住むところも違う男女の日常を描いている。 2020年3月から2022年2月までのコロナ禍の日常である。 それぞれの生活や環境やもちろん考え方も違うけれど過ぎてゆく時間は、同じように流れている。 その年に自分は何をして、何を考えていたのかを思い出していた。 自分自身の性格が変わるわけではなく、ただ世界のどこかで地震があり、戦争が始まり、事件もまたおきているというのを「情報」として見て、時間が過ぎていく。

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    投稿日: 2023.12.25