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訂正する力
訂正する力
東 浩紀/朝日新聞出版
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総合評価

105件)
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    東浩紀の本は「動物化するポストモダン」「一般意志2.0」「弱いつながり」「ゲンロン戦記」など面白く読んでいて、今回久々に手にとった本。新書なので内容は入門編で、わかりやすい語り口。語り下ろしなので余計にスラスラと読める。訂正力高めていきましょう。

    0
    投稿日: 2025.11.17
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    訂正する力ってなんだろうと思い読んでみた 実は、、だったんだってそういえばそうだなと歴史を振り返ってみるとそう思うし実際そうして歴史は語られてきていると実感した 自分を振り返ってみて実は、、だったんだってどんな時にそうなんだろうって思うと過去の失敗とか振り返る時、前に進む時とかに考えてるかもとか思ったり 喧騒が必要って本当 良い視点に気づけた本でした

    0
    投稿日: 2025.11.16
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    別の本だが、えげつないが的を射た表現があって、それをキッカケにレビューを書き始めてみたい。ー 「人間とは黒のインクに発情する生き物」 これはなんだと思ったが、つまりこれは、例えば官能小説はただの記号の連なりだが、人間の生理に確実に侵食してくるし、ただのインクの曲線的図形が卑猥にも妖艶にも見える事もあろう。 こうした学習した記憶が身体反応に直結するという現象は人間のみに見られるのだという。例えば、フェロモンはリモートでは感じ得ないはずだが、人間が映像からそれを感受するのは、視覚が経験を呼び覚ますからだ。ネット環境でリアルな知り合いではない相手の性別はジェンダーレスで本来良いはずだが、相手の性差を意識することは避けられないのではないだろうか。 この身体性こそ、意味を理解するのに重要なことだということは「思い出せてスッキリした感覚。謎解きできて晴れやかな気分」という経験からも、それこそ体感的に理解しやすい。 東浩紀はこの「身体性」にまでは言及していないが、似たような表現として「作家性」という言葉を選んでいる。 ー 良質なコンテンツが安価で無限につくられてしまうAI社会においては、あらためて本体と付加情報のずれが問われてくると思うのです。要は、作家性がますます大事になってくるということです。ここまで本書を読んできたかたはおわかりのとおり、これもまた訂正する力と関係しています。作家性を支えるのは、まさに「じつは・・・だった」という発見の感覚だからです。ぼくはさきほど、それを固有名における定義の変更の問題として説明しました。目のまえに、稚拙な子どもの絵がずらりと並んでいたとする。「ふーん」と無関心でいたところに、ある絵を指して「これはあなたのお子さんが描いたんですよ」と言われる。そうすると、突然すごくいい絵に見えてくる。だれしもそういう経験はあると思いますが、まさにそれこそが訂正の行為であり、作家性の感覚の萌芽です。 人間には「じつは・・・だった」の発見があり、真実という観念自体が言葉のなかの意味付けでしかない以上、いまの状況に合わせて再解釈をするために「訂正」する事が求められる。 支持政党も歴史認識も誰かの評価も、あなた自身のアイデンティティも社会的価値観も、何かのランキングも、一旦、共同作業のために「認識共有」して目的を果たしたなら、その後は訂正していけば良い。少なくとも人間は、文字列からイメージをデコードしてフェロモンまで感じ取ってしまうほど観念(意味)世界に生きているのだから、その意味を訂正することは、我々には、世界を作り変えるほど重要なはずだ。 またAI時代に大切なのは、その観念世界の住人として、生々しい身体性と連続性をブランドのように相手に認識してもらうことだ。その互いの身体を己に取り込む拡張・所有可能性こそ、人間存在の証明になっていくのかも知れない。 つまり、キャラを訂正しながらも同じ人物として持続でき認知され得ること。この「持続した非一貫性」というのは、「同じ身体のアドミンとしての同一性」に対し「認知の訂正による日々のアップデート」によってのみ実現する。これがAIには無理、いや、実は、擬人化されたAIにはできてしまうという人間側のバグがあるのだが。

    80
    投稿日: 2025.10.21
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    人は過去の過ちを認められなかったり、自分が正しいと思い込んでしまいがち。間違いを認めたり、謝罪したり、考えを変えたりすることは悪として、日常の出来事から政治・社会問題まで軌道修正ができないことは往々としてあること。思想・イデオロギー先行の分断社会だからこそ、今一度立ち止まって、何をもって正しいことなのか訂正可能性を踏まえながら物事を考えることがAI時代の現代において不可欠となる。

    2
    投稿日: 2025.09.26
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    白黒はっきりつけすぎじゃない? 考え変わったらそれを受け止めようよ(過去をひっくり返すのはどうなのよ) って話。視点が新しく感じれて面白かった

    1
    投稿日: 2025.09.18
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    変化が激しく、ちょっと目を離すと善悪が反転していく世の中で、矛盾なく生きていくことは不可能でそのために訂正し続ける力が必要となる。といった表面的な題材は分かったが、中身が難しすぎて、本質は理解できていないと思う。また、いろんな本を読んで再読したい。

    0
    投稿日: 2025.09.15
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    ゆる言語学ラジオでも「deduction」の時に話題に上がっていた書籍で気になっていたため読了. 図書館の哲学コーナーにあったが,肩に力を入れなくても読めるような,哲学者の頭の中の垂れ流しといった感じの本.「◯◯力(ちから/りょく)」というタイトルのよくある新書とは違い,「こうした方がいい」という人生訓が書かれているわけではない.逆にそこがいい. 通底するのは,意見や考え,仕組み・システムといったことを訂正できること・訂正する余地があることが,人や社会をより良くアップデートするのに重要なのではということ. 自分自身,白か黒かを決めつけるのが嫌いであり,そういう風潮に疑問を持っていたということもあるが,本書のいう「訂正する力」が双方にあれば,双方にとって「まあそれなら仕方ないか」と思うような政治が作れるだろうか. 他にも面白いトピックがいくつか: ・バフチンという哲学者の考えを引き合いに,発言が訂正されていくことが,他者がいるということ ・ルールが破られないようにするのではなく,ルールが破られた時に改めて考えるのが民主主義の本質ということ ・日本は訂正ではなくリセットを求めがちということ ・AI隆盛の時代に重要なのはコンテンツではなく作家性であり,そこに訂正可能性があること

    0
    投稿日: 2025.08.31
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    根拠の明確さ、論理の明快さに軽率に騙されず、よく考え、よく話し、連続性をもって変化し続ける社会の構成員でありたい。

    14
    投稿日: 2025.08.12
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    2025/08/9 第二章 じつは‥‥‥だったのダイナミズム が良かった。未来の可能性は過去の訂正によって開かれる。文系不要論に悲しくなることがあったが、東さんの言葉に少し安心した。

    8
    投稿日: 2025.08.09
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    暫定的に最も正しい答えを有する自然科学と異なり、人文系の学問はつねに新たな視点から再解釈(=訂正)することを目指す。 それが常に古典を研究し続けられる理由である。 人文系の学問が何をやっているのかということについて、自分の学生自体に説明をつけられた気がしてよかった。

    0
    投稿日: 2025.07.29
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    変わること、持続する力。併存を認め変わっていくこと、凝り固まらないこと。この柔軟さが未来を作ることもあること。自分で自分を縛り上げないこと。取り替えのきかない「固有性」を持つこと。かわいげ。意味のない二項対立は幼稚。

    0
    投稿日: 2025.06.26
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    あまりにも誤りが許されない(風潮にあると感じられる)のが辛いと日常感じていた時に、本書を手にした。この本は「訂正する力」を提言している。大事なのは「ぶれない」「リセット」の上手いバランスをとること。過去を訂正することなんてざらにあるわけで「じつは・・・だった」にあふれている。過去の解釈を変えて現在に適用することは別におかしな話じゃない。 作興、特に SNS では一度でも誤るとものすごい非難が来る。そのためにそもそも誤らないように行動することになる。生きづらい、訂正することが許されないし、訂正する余地がないとも言える。つまり過去言ったことにしばられることになる。SNSの過去の言動を切り出して言ってること違うよ、というのは一定正しいけど、それが過剰になると非常につらい。それでずっと責められる。だいたい10年20年経てば意見が変わるだろうに。やはり「ブレない」と「リセット」のバランスを見て、なんとなくうまい具合に判断することが大事なんじゃないかと思う。0と1で何でも白黒つけるなんて厳しすぎる。

    1
    投稿日: 2025.06.22
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    明確な正解がない時代において、0 か1の極論に固執するだけでは前に進めない。だからこそ、今この「訂正する」が大事だと感じました。 これは過去をバッサリ切り捨てることでなく、過去との一貫性の中で、現実に合わせて過去の解釈も含めて変化させていくこと。 日本の未来だけでなく、我々個人にとっても、課題を乗り越え、これからの時代を生き抜いていくために必要なスキルだと思いました。

    0
    投稿日: 2025.06.14
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    現代日本に必要なのは、一貫性をもちながら変わっていくこと。これを「訂正する力」と名付けて、色々と論じた本。1章は現代日本の問題点をうまく言語化していて良かった。でも、2章以降は観念的な話になっていって、イマイチよく分からなかった。 第1章で、日本で訂正する力が働かないのは、「ぶれないこと」をアイデンティティにしている勢力がいて、議論が硬直し、社会の停滞を招いているから。その背景は、日本人は対話において信頼関係を築く訓練を受けておらず、いたずらに意見を変えると攻撃の対象になるかもしれないという不安を強く抱えているから。 これは現代日本SNSの状況なんかを、よく現している気がする。 でも、それに対して本書で示される処方箋は、どう実現性があるのか、私の頭では理解し切れなかった。著者がインテリなのは分かったけど、もうちょっと一般人のレベルに降りてきて話してもらいたく。。。 なお、本書の趣旨とは全然違うけど、仕事をしていると、何か間違えたり失敗したりしても、「上手くいかなかった理由を分析して、プロセスを改善して次に活かそう」とか、「状況が変わったので、現状に合わせて以前とは違う判断をする」みたいなのは普通にある。だから、難しいことをごちゃごちゃ考える前に、結果が求められる現場で働けば良いのだ。(違

    0
    投稿日: 2025.06.14
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    変化を変化として許容するが、根本は変わったと思わせない。根っこでは一貫性を保ち続ける。この姿勢が何よりも大事だというのが、私がこの本から抽出するべきいちばんのエッセンスだと感じた。日本は様々な外からの文化を受け入れて、日本なりに「訂正」して文化を育んできた。訂正する力の土壌は十分にあるから、この力を取り戻し、日本は復活を遂げてほしい。

    0
    投稿日: 2025.06.09
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    自分の価値観、視点、過ごしてきた人生で得た経験値を「訂正する力」を活用することで、過去・現在・未来に至るまでの今生きている自分の考え方を柔軟に世の中を俯瞰できるようになるという内容である。 人間、一人が得られる価値観や視点には限界がある。人との共生のなかで、様々な価値観や考え方を知り、柔軟に自分の人生に取り入れていくことが必要と説く。 本著でも示唆されているが、論破や対話拒否とは違う捉え方であり、議論を通して喧騒あれど、その対話のやり取りは生産性があるとしている。 この本が伝えたい内容は、個人間の話では留まらず、これから、日本は移民が増え、都市開発や都市形態も変容が進み、政治も変わり、社会全体が変わることを慎重にかつ訂正しながら進むことだろう。そこには生産的でありながらも時代に合わせた適応していく姿勢が個人や社会全体への変化と変わらない変化を共生する世の中を私たちが築くことになるだろう。

    0
    投稿日: 2025.06.07
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    新書なので平易な文章でまとめてくれはいるが、それでもその思想の深淵には踏み込めないもどかしさがある。微妙なニュアンスで差異が生じる「歴史修正主義」と「訂正する力」の明確な区別が自分の中で説明しきれていない。 「組織・組合」の重要性を説いているのが新鮮であった。このご時世、人間関係がどんどん希薄になっているという常識の反面、一部のコミケや独特なサークルなんかは今も活動盛んなのかもとか考える。そのような組織で「余剰な情報」を相互提供しあえる関係性って、「私」というアイデンティティが育まれ人生が豊かになりそうー。 ともあれ、ポストモダンの脱構築にも通ずる点も感じるし、自分ごとに引き戻してみると二項対立に陥ることの危険性は常々意識して生きていきたいと胸に刻むのです。 ゲンロンの著者個人的な体験からの気づきなどエピソードも充実しており、思弁的な論に偏ることもなく読み通すには難を感じないと思われる。 気になっている思想家の一人なので、今後もどんどん訂正する力を発揮した活動が楽しみである。

    6
    投稿日: 2025.05.22
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    面白かった。 訂正可能性と交換可能性を行き来することが重要だと言っていて、なるほどなと思う一方どのような場面で訂正が必要になるかはもう少し考えたいなと思った。 クリプキのクワス算の話で、「クワス算をやってたんだよ」という人は必ず出てくる。 その場合、その異端者を出禁にするか、ルールを変えるか、運用を変えるかの選択を迫られる。出禁にする=交換の世界。ルールを変える=訂正の世界。 多様性の時代だし訂正は大事だと頭ではわかってる一方で、 自分の想定外のものにルールを合わせるのって相当柔軟な思考が求められると思う。 まだまだ未熟なんだろうなとおもった。

    0
    投稿日: 2025.04.29
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    SNSが普及し情報社会となり、いつまでも過去の発言が残り続けることで、発言を撤回、訂正しづらい時代ではあるが、訂正すべきことがあれば勇気を持って訂正したり、交換することが必要だと学ぶことができた。

    1
    投稿日: 2025.04.28
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    ひとまず読み終わった。また土日にまとめようかと思うけど、色々とターニングポイントに立っている自分にとっては面白い本だったな。ただ政治色が後半強いのでちゃんと身構えながら読まないと混乱した。

    0
    投稿日: 2025.04.14
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    序盤はあまり響かなかったが、中盤は読み応えがあった。終盤は混沌として少し不漁。シンプルで壮大な読みを提示しているようで、そりゃそうだ、と思えてもしまうあたりまえさもあり、浅いのか深いのかよく分からない。けど、立場や間合いは参考になる。オリジナルな個性の確立の仕方は、リスクをとって進む事なのかな。たくましい。

    0
    投稿日: 2025.04.13
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    本書は語り下ろし形式のためか全体として大づかみな印象を受ける一方、約1時間程度で読める手頃な新書として、非常に読みやすい一冊だった。本書は、タイトルにもある通り「訂正可能性の哲学」とでも呼べるような、新たな思考の枠組みを提唱する意欲作である。 「訂正する力」とは、過去の自らの過ちや誤解を、後から「実はこうだったのではないか」として捉え直し、訂正していく態度を指している。これは一見、科学における「反証可能性」にも通じるが、東の立場はより信念的で実存的な色合いを帯びている。すなわち、「その時には正しいと信じていたことを、後から素直に訂正すること」にこそ価値を見出す姿勢である。信じる力と訂正する力が共存することの重要性が強調されていたように思う。 また本書では、「理論」「自治」「実存」という三つの領域を横断しながら、「訂正する力」の可能性が論じられている。この三領域の統合的視座は、著者自身も重視しており、個人的にも非常に共感を覚えた部分である。 主に政治を主眼に据えた本書の切り口とは異なるが、訂正がもつ意外性の発見という視点は心理学的にみても興味深い。人間は予想に反する出来事に対してシナプスの結合が強化されやすいという神経学的知見に照らしてみても、「実は〜でした」といった訂正の表明には、意外性や再解釈といった要素が加わることで、認知的にも強いインパクトを与える。こうした語り口は、自己物語の再構築や、面接における応答といった実生活の場面においても、有効な表現技法として機能し得るのではないかと思わされた。 実際、就職活動のような場面では、思ってもみないことを口にしてしまい、後から「訂正したい」と感じる経験は多くの人にあるだろう。そうした実存的な語りの事故すらも、この「訂正する力」によって回収し、意味づけ直すことができるのではないだろうか。本書の枠組みを用いて、「語りの訂正可能性」についてもさらに射程を広げていくことができれば、より実践的な視座としても今後面白い展開が期待できるのではなかろうか。

    0
    投稿日: 2025.04.11
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     題材は抽象的で難しいはずなのですが、読み進めるのと同時に自分の考えを膨らませて理解しながら読了できました。  これには著者の書きっぷり(語り下ろしなので「話しっぷり」でしょうか)が大いに寄与しているでしょう。難しい言葉と身近な話題をつなげるのが本当に上手いのです。例えば「作家性」と「娘が小学生のころに描いた絵を飾っている(中略)ぼくには価値がある。なぜか。それは娘が描いたからです。」。自分だったら、ついついここで好きなアーティストの話をしだしちゃうんだろうなあ。  そのおかげで自分も日頃納得できないでいたことに思いを馳せ「そうか、あれは『訂正する力』が欠けていたのか」と、日常の課題と結びつけて理解することができました。(もしかしたら、ただのこじつけかもしれませんが) 「正解を選んで生きてきたつもりだったけど、いざ社会に出たら「やりたいことは何?」と訊かれるようになってしまった。自分は本当は何がしたかったんだろう?」 「今のSNSはなぜこんなに強い言葉での批判や非難が横行してるんだろう?誰も自身以外の価値観を理解しようとしないんだろうか?」 「うちの親ってなんであんなに『日本語の正しさ』にこだわってたんだろう?」  そんな「もやもや」を抱えているけど、そのものズバリなビジネス本や自己啓発本は読みたいと思えない、そんな方にお勧めしたい1冊です。  お恥ずかしながら東浩紀さんの著書は初めてだったのですが、他の著書も読んでみようと思います。

    0
    投稿日: 2025.04.07
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    訂正力、柔軟性ということなのかな? 一つのことにいろいろな方面からアプローチだけど、少し広がりが無かったかな? でも、参考になりました。 日々に今に家族に環境に感謝

    0
    投稿日: 2025.03.26
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    このレビューはネタバレを含みます。

    東浩紀さんの「訂正可能性の哲学」の直後に出版された語りおろし本。 聞き手および構成を近現代史研究家の辻田真佐憲さんが担当。東さんのコラム集的な性格を持ちながらも、各章には「本章のまとめ」が付され、「訂正可能性の哲学」と執筆時期が重なっていることから、その補助線としての役割も果たしています。 また、戦後日本の平和を「政治の欠如」と断言した点は、憲法第9条とともに硬直化している平和主義に一石を投じる可能性がある(そうなってほしい)。ちなみに本書で東さんは「軍備増強と平和外交は矛盾しない(平和のために軍備増強すべし)」という立場を明確にしており、日本のビジョンについての彼の考えを読める点でも一読の価値があります。 「訂正可能性」という概念は、ビジネスの文脈では「ピボット(PIVOT)」、IT分野では「PMF(Product Market Fit)」、あるいは「PDCAサイクルのAction(カイゼン)」と類似した概念といえる。自己都合による「(歴史)修正主義」との違いは本書で丁寧に説明されていますが、要するに新たな視点から得られた気づきをもとに、時には誤りを認め謝罪しながら、より高次の段階へと止揚(アウフヘーベン)していこうという考え方です。 議論好きなオッサンは「うるさがた」「老害」などと揶揄され、若者から敬遠されがちですが、東浩紀さんは「くまのプーさん」のような外見もあって、「愛されキャラ」が確立されている。東さんの「愛されキャラ」を支える重要な要素が「訂正可能性の哲学」ではないかと思った。思えば、ReHacQ(リハック)の高橋弘樹さん(こちらはパンダだね)も東浩紀さんと似た印象がある。両者とも大御所でありながら、祀(まつ)られることなく若者からも慕われ、多様な人々のハブの役割を果たし続けている。そういえば、ふたりは容姿の印象だけでなく「ヒロキ」という名前も共通してすね。今後も注目したいおふたりだなぁ。

    2
    投稿日: 2025.03.24
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    常に変化する不確実性の高い時代であるからこそ、確実な正解はなく、日々正解をアップデートする訂正する力が求められているのではないかと感じた。 不確実な時代にも関わらず、エビデンスや過去の発言にとらわれ訂正できないでいると、本質的な正しさを見失ってしまう。 正義を振りかざしたり、議論に勝ったりするのではなく、「自然を作為する」議論ができると、日本人はらしさが光るのではと感じた。

    1
    投稿日: 2025.03.15
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    政治家に対して「ブレないこと」を求める人は多い。政治家も「ブレないこと」を常套句として有権者に訴える。 そんな社会の雰囲気に疑問を抱いて読んだ本。

    1
    投稿日: 2025.02.16
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    初めて読んだ東氏の作品。YOUTUBEでゲンロンの無料部分を見て本人を知りました。哲学者なのに会社を経営しているという奇妙な経歴、突発などで酔っ払って語りまくる姿にこの人…何者なんだろうと興味を惹かれました。 訂正する力とは、「世間の文脈の中で変化に対して柔軟に変わりながらも、そこに自分なりの一貫性を見つけたり、定義したりして変化にさらに対応していく力」と理解しましたが、合ってるの…かな?  新書はほぼ挫折するのですが、読み終えたので読みやすかったのだと思います。他の新書も頑張って挑戦してみたい。

    1
    投稿日: 2025.02.11
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    訂正可能性の時事、実践的な論考。 ・訂正する力は、批判を受け入れる力。記憶する力。かわいげを身にまとう力 ・人文知は、古い著作を新たな視点から再解釈する「訂正の知」 ・交換可能性と訂正可能性

    0
    投稿日: 2025.02.09
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    「じつは〜だった」 p24 空気の研究という空気 水を差す 空気に水を差す 水を差すこと自体が空気に 空気と水が循環

    0
    投稿日: 2025.02.08
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    このレビューはネタバレを含みます。

    ブレないことに価値があるように思われる今日この頃。決してブレない考え、主張、政党。それらが支持されて良いものとされる。ブレたら即論破。負け。そんな生きづらい世の中になっているように感じる。職場でも、ブレてる人は信頼されない。そして、それが広がり自分と違う考えは受け入れない、徹底して戦うという人が少なくない。 本書はそれってどうなの?という出発点。過去の主張を変えてもいいし、変えなくてもいい。根っこの部分は変わってないけど表面的に変わることもあるし、全く違う意見になることもある。それでいいんじゃないか?そして変わったら変わったで、前の自分とどう結びつけるか。どう説明するか。それこれが大切。そういった言葉の力、文系的な語り。訂正する力。 戦争は政治。個人的なことこそ、政治的なこと。矛盾しながら前に進めていく。喧騒のある国を取り戻す。そもそも日本は訂正する文化が根づいている国。 個人的な息苦しさの理由がわかった気がする。そこで、自分は何ができる?凝り固まった主義主張に、振り回されずに、自己破壊していくこと。それが生きることであり、皆がそうできるようにあってほしい。そのためには、それを自らが体現しながら、人にも伝えていけるといいなと思う。

    0
    投稿日: 2025.02.08
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    ・小さな変革を後押しするためには、今までの蓄積を安易に否定するのではなく、むしろ過去を「再解釈」し、現在に生き返させるような柔軟な思想が必要です ・ルールの解釈はプレイヤー自身が決定できない。同じゲームという一貫性を保証できるのは誰かというと、ゲームには参加していない第三者しかいないのです ・「じつは・・・だった」という過去の再発見とセットになった漸進的な改良 ・新しいゲームは古いゲームを訂正することでしか始まらない ・ひとはひとにしかカネを払わない ・永遠に正しい客観的な歴史記述などない。物語しかない。誰も物語からは脱出できない。できるのは、新しい発見を前にして「じつは・・・だった」の訂正でしかない。そしてそういう訂正の行為もまた時代の影響を受ける。その点でそれも客観的にはなり得ない。訂正は永遠に続く

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    投稿日: 2025.02.06
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    訂正していく、という考え方は、プロマネとしてはフリカエリに馴染んでいるので、すんなりと入ってきた。 自分はこうだ、と肩肘張らずに、もっと気楽で良いのかもしれない。無責任すぎるのは良くないが。

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    投稿日: 2025.02.01
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    2025年1月読了。 「訂正する力とは持続する力のことです」 継続するためには、状況に応じて変わらなければいけない。一貫性を持ちながら変わっていく。 「実際、年齢を重ねれば重ねるほど、過去の自分と現在の自分の齟齬は大きくなります。そのことに失望するひとも出てきます」 たしかに笑 こういう気持ちを乗り越えるためにも、「実は○○だった!」の訂正力が発揮さされると。なんかじわる笑 相手のイメージを勝手に固めて、違う一面をみて失望してし埋葬な時も、こういう考え方で人間関係を持続する。たしかになぁ

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    投稿日: 2025.01.23
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    面白くて一気読み。 (一読なので色々読み落としてるかもしれない) まえがきから大変面白い。 印象的だったのはポリコレの"C"にcorrectingという動名詞を充てたこと。またゲンロンの動画配信という対話/おしゃべりの持つ効用は、自分もPodcastを日頃聞いてて感じるもので、納得感があった。 個別の議論については (自分はリベラル気味なので) ところどころ首を傾げる部分もあったが、地に足のついた中庸なスタンスで信頼に基づく豊かな議論を展開しようとする姿勢に最も共感を覚えた。

    0
    投稿日: 2025.01.19
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    このレビューはネタバレを含みます。

    訂正する力をもつことで 喧騒を生み、それが日本の発展につながる。 哲学的なお話です。 「じつは・・・だった」と言えることで よりビジネスにもつながる。 作家性という言葉がフューチャーされ それがSNSで人気となる、 人は人に対価を払う、 プロはコンテンツの質を重視する、 広告業界でも同様のことがいえるかもしれません。

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    投稿日: 2025.01.10
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    「じつは...だった」が人文学だ!論。 日本を代表する批評家。批評というジャンルをあまり読んでこなかったが2025年はたくさんの今の時代のものを読みたくチャレンジ。 正しさを訂正できることが人間の強みである。 憲法改正論、アニメとクールジャパン、AI 、体験価値、漱石と司馬遼太郎、と著者専門の哲学を引きながら広く縦横無尽に語り下ろし、社会契約論のルソーは訂正の人だったと結んでいく。 「じつは...だった」と訂正をして物語=論理を書き換えていけるのが(自然科学に対しての)人文学、理解しあえない前提なので対話はおわらないし終わらせないというゲンロンは特に鮮やかだった。 変わることを前向きに受け入れる力かなと読んだ。 『言語の本質』と併せて読み終えた。以下部分は言語の本質でも触れられており、良い知見になった。 ※自然科学系は必ず反証可能性があり、反証されるまでが暫定的に正しいとしか言えない。反証されたものは打ち捨てられて最新のものだけが必要である。 対して文系学問は(経済を除き)、じつは...だったで論理が復帰するところが大きな違いである。

    1
    投稿日: 2025.01.07
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    間違いを認めて改めるというのが難しい世の中にある。考え方や発言の一貫性を求められることが影響しているが、変化の大きい現在では柔軟性に欠ける。訂正する力は変化に対応する力でもあり、「実はこういうことだったんだ」という知見を獲得していくのが必要となるようだ。

    4
    投稿日: 2025.01.04
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    ヨシタケシンスケさんの表紙に惹かれて読みました。 内容は、表紙のようにわかりやすく書いているのかと思いきや保守、リベラル等の思想などがでてくるもので読むの大変でした。 仕事でも一番大変なのが、「今まではまちがっていなかったがよりよくするために変更します。」という説明を考えることです。 このヒントをもう少し分かりやすく書いてて欲しかったです。

    4
    投稿日: 2024.12.28
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    いろんなPodcastでこのタイトルを耳にするので、とりあえず読んでおきたいと思っていた。 最近は哲学的な新書を(古典はまだ手を出せないでいる)何冊か読んできたが、2023年に刊行されたこともあり、また、著者自身が明言しているように時事ネタがふんだんに散りばめられているので、1番とっつきやすく読みやすかった。 ところが読みやすいからと言ってわかりやすいかと言われると、私にとってこの「訂正する力」、定義の裾野が広すぎて読み終わってもいまいち掴めないでいる。 過去の自分の発言を訂正できないでいる人が多い(特にSNS上で)とか、 現状日本の閉塞感は、過去と現在の整合性に拘るあまり「訂正する力」を発揮できなくなっているせいではないか…、 と言うのはなんとなくわかる。 わたし自身にもそういう傾向があるな、と反省したりもする。 ただ、読んでいくうちにどんどん「訂正する力」の裾野が広がって、あれもそう、これもそう、ってなってくると…つまり何だ?と訳がわからなくなってしまった。 ところで、実は最近、音読にハマっている。 どうせなら音読をボイレコに録って自家製オーディブル作っちゃろ、と…まさにこの本でもそれを試してみた。 で、録っている時(音読している時)は、読みながら、うわっまた風呂敷広がった!、え、結局どう言うことだ、わからん…と思っていたんだが、通勤中に録った自分の拙い音声で聴いてみると、なんとなくわかる部分も出てきて面白い。 日本や西洋の哲学者、論者などの説をひいて、前述のとおり時事ネタもはさみつつ展開される「訂正の力」は、2回聴いてみてもどんどんその裾野が広がっていって、ひとつひとつの論についていくのがやっとな部分もまだ多くある。 だけど、途中でこれってなんだかヘーゲル哲学にいうアウフヘーベン的なもの?と自分なりに考えたり(ヘーゲルよく知らんけど)、左右極論の中にあって中庸を意識するってことに近い?と思ったり、いろいろ思考が整理される部分もあった。 特に明治維新時に持ち出された神武天皇の故事の話と、戦後その位置付けが変えられた天皇の存在…その整合性のつけ方がめちゃくちゃ興味深く面白かった。 訂正とは、リセットすることではなくて、なんらかの形で現在と過去をつなげること。 天皇に対する捉え方の変遷について、この考え方がすんなり理解できた。 そして音読と耳で聴くこの読書体験自体がはからずも、なんとなくだが「訂正する力」を体感する機会になった…気がするような…しないような…。 読みやすかった、面白かった、けどあまり良くはわかっていないと思う。 ただ、これからの生活で多分、「訂正する力」という考え方を意識してしまうんじゃないかな。 影響は大きい。

    0
    投稿日: 2024.12.18
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    哲学の本を初めて読みました…… 難しかった 「訂正」とは変化すること……なるほどそういうふうに考えるのかと勉強になりました

    1
    投稿日: 2024.12.15
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    本の終わりにむかうにつれて、著者の政治思想が前面に出てきて、思ってたのと違う感あり。ただ、初めの部分は普段感じていることが上手く言語化されていて、気づきがありました。 特に印象的だったのは、過去の発言を訂正することへの風当たりが異常に強い現代では、訂正自体が非常にしにくくなっている、という話の中で、とはいえ、風当たりが全くないのも問題であるという意見には本当にそうだよなあと思いました。 必要なのは意味のある議論、そしてそこからの成長なのであり、批判するかしないか、良いか悪いか、などの単純な2択ではありません。 生きづらい世の中にはしたくないものです。

    45
    投稿日: 2024.12.13
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    感想 政治的な主義主張は別にして、確かになと思うところもある。 自分個人にとっても耳が痛いところ。歳を取るに連れて固執化しちゃう。 あらすじ ・間違えたことについて謝って、訂正することが必要 ・国も個人も ・論破して勝ち負けを決めればいいものでもない ・ルールは人によって解釈が違う。訂正し続けることが必要 ・訂正する力の本質はじつは・・・だったという発見の感覚

    6
    投稿日: 2024.11.23
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    このレビューはネタバレを含みます。

    訂正する力という観点で社会課題に切り込んでいくのが面白い。 政治、メディアのあり方などよくよく考えてみると非を認めない、変わってはいけない、貫き通さなくては。という姿勢が停滞を生んでいる。 テーマ自体は政治など非常に大きいところを扱っているが、私自身も変化に対応しながら訂正できる人でいたい。

    1
    投稿日: 2024.11.20
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    『訂正可能性』たまたま兵庫県知事選挙のタイミングだったが、この『訂正』を理解することと受け入れることが今まさに人にも社会にも必要だと感じる。白黒はっきりさせることは時間軸のうちの一瞬の事に過ぎない。

    1
    投稿日: 2024.11.18
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    考えが変わったら訂正するのはアタリマエのことだと思うが、ここまで哲学的に突き詰めないといけないのだなぁ・・

    0
    投稿日: 2024.11.12
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    自分は過去の出来事や発言を振り返って後悔してしまうことが多いが、その時にうまく訂正することができたらそれがセルフケアになるのかなと感じた。 訂正できない理由は一貫性を求める社会にある。転職活動でも、退職理由と志望理由を一貫させること、一貫していないと落ちると言われた。一貫性は大事なことでもあるが、もう少し寛容な社会になれば生きやすくなるのかもしれないと思った。

    1
    投稿日: 2024.10.22
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    訂正する力とは、過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力のこと。それは持続する力、聞く力、老いる力、記憶する力、読み替える力。 相手の矛盾を指摘して論破することが流行っている昨今。それでは過去の考えを改めることが出来ず、互いの意見が交わることもなく、歩み寄れない。だから、訂正する力が必要

    2
    投稿日: 2024.10.20
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    個人、組織のあり方をしれっと変更。いま、非難されないように乗り切ろう。「実はああだった。」。 うまく訂正しないと心がついていかない気がする。

    0
    投稿日: 2024.10.07
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    2024.08.27 率直に、東さん随分変わったなぁという印象。でも、かなり同意できる。脱構築だよなぁと思った。

    0
    投稿日: 2024.08.27
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    過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力を「訂正する力」とし、その「訂正する力」が日本にいま必要だと主張。「訂正する力」について、時事、理論、実存という観点から縦横に論じ、訂正する力を使って日本の思想や文化を批判的に継承して、戦後日本の自画像をどのようにアップデートすればよいのかについて提起。 「訂正する力」が個々人にとっても日本にとっても重要なのはそのとおりだと思うし、「じつは・・・・・・だった」のダイナミズムなど、ハッとさせられる観点もいろいろあったが、訂正とそうでないものの違いなど、著者の行論にはちょっと雑に思うところもあり、全体的にあまり腑に落ちるという感じがしなかった。

    3
    投稿日: 2024.08.23
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    とても読みやすい本である。ただし、平和と軍備の所は、人のレベルと国のレベルを混同している。米国人は京都の寺社仏閣を観光客としても知っていたが、爆弾を投下した。京都には爆弾が投下されていないという言説は日本の世論操作である。中国にも大勢の日本人がいったが、軍隊を送った。

    0
    投稿日: 2024.07.28
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    おもしろ〜 新書とは思えないぐらいライトで、時事ネタもたくさん盛り込まれていて、集中力切れずに飽きずに読める。大衆に開かれた哲学者だなあと思った。 『訂正する力とは、過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力のことです。それは、持続する力であり、聞く力であり、老いる力であり、記憶する力であり、読み替える力でもあります。』 本当にその通りだと思います。ただ、それが難しい。 難しいと思う理由はいろいろあるけれど、絶えず考え続けると言うこと、相対する人も考え続けている人でないと、訂正が成り立たないということが一番かなあ それを跳ね除けられるほどの充分な思考、色々な角度からの指摘、なによりも可愛げ!!! 柔軟で可愛げがあって、色んな人と対話を楽しめる人でいることが、長生きするうえでかなり重要な素質っぽい。

    0
    投稿日: 2024.07.21
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    このレビューはネタバレを含みます。

    訂正可能性の哲学の語りおろしバージョン。 ところどころツッコミたい事はあったが、概して現代において訂正することの重要性、そしていままでの日本はスクラップアンドビルドのイメージだったが、実は訂正可能性の潮流もあったということを学べた。

    0
    投稿日: 2024.07.19
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    情勢の変化に対応することの重要さを感じた。物事の正しさを求めるというよりは、ある事象について考えることが大切だと思った。 再読したいと思えた。

    0
    投稿日: 2024.07.12
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    著者は、変化を嫌う性質と、急激に変化する現代のミスマッチから、 過ちを認め、変えていくことが重要であると説いている。 柔軟に適応しながら、一貫性は保つ。一見矛盾しそうだが、そのバランスを取ることが重要である。 たしかに、と思うけど、状況によっては実践は難しそう。ただ、考え方はとても理解できる。

    0
    投稿日: 2024.07.09
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    理論と時事と実存。 結びつきにくいことですが、最近の僕の関心事であり、ヒント満載でした。 「クレーマー」「ハッカー」「テロ」といったルールでは対抗できない問題にどう対処するか? かねて自分なりに考えていたように、全てのことは純白でも漆黒でもなく、グレーなんだと思い直しました。 セカイ系が取沙汰される中、家族や近隣、仕事仲間を守ることが大切だと再認識しました。 性急に決せず、やみくもに前進するのみにもあらず、歴史も現代社会も「訂正する力」をして見てみること。 全体を通して、旬の話題と易しい文体で、読みやすい印象でした。 時事問題を、哲学メガネを通して見ることで日本の方向性を模索するという方法は、このごろの僕のものの見方であり、著者の主張と近いと思います。 本書が多くの人に読まれて、多くの人に広まればいいなと感じました。 ただ、普段の僕の考え方に近いだけに、逆に刺激も少なく、☆4つにさせていただきました。

    0
    投稿日: 2024.07.04
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    変化を受け入れつつ、大事なところは守っていく。そのためにはどこをどうしていけば良いかという議論が出来る国であってほしいし、自分もそんな悩み方ができる人間でありたいと思った

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    投稿日: 2024.06.08
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    訂正する力とは、過去を忘れずに、でも変わっていく力。今の日本は考えを変えることを許さない空気があって前向きな議論ができない、余白がないってその通り。 過去は修正しない。でも柔軟に変われる、アップデートできる力、空気が前に進むには大切ですね。 ただ後半ついていけなくなったので、星はみっつで!

    10
    投稿日: 2024.05.31
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    会社の飲み会で酔っ払った社長に延々自慢話とも説教ともつかぬ日頃腹にマグマの如く溜め込んでいたと思しき由なし事を飲み屋の閉店まで聞かされているような本。 何でもかんでも無理やりに一貫しようとする牽強付会、持論を気持ちよく展開するために胸を借りる既存のセクトや思想や人物を単純にモデリングしてのける、などまさに。ちょいちょい「よっその通りです社長!」と膝を打つフレーズに出くわしてもそれはこっちも適度に酔っ払っているからで、よく見りゃよその皿から失敬しての摘み食いだったり。 訂正は修正とは違うと再三立ち戻りながら、やはり悪しき修正と区別のつかない危うくもアクロバティックな論理展開に思えても「いや聞け、俺のは違う!」。無論一読の雑な読みであることは重々承知の上で、でもそう読めてしまうのだから仕方ない(これもまた「自由に読む」ことには違いない)。 終いには訂正で幻想を作ると言い出す。共同幻想論を引き合いに出すまでもなく我々が多かれ少なかれ幻想に包まれて生きていることを否定する気は毛頭ないけれど、それなら明白な証拠を目の前に突きつけられない限り黒を白と言って憚らない歴史修正主義者とやはり何が違うのだろう、いやもはや別に違わなくても構わないか、などと思いながら、白み始めた窓の外を見やる。 目の前で「平和とは政治の欠如ナノダ!」と叫んだきり酔い潰れてしまった社長がちゃんと家に帰れるのか心配するともなくしながら、朝の「喧騒」を抜けて帰る街が昨日から少しだけ「訂正」されている予感で巻を掩う。

    0
    投稿日: 2024.05.25
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    語りかけるような平易な言葉遣いの文章。なのでふんふん、なるほど、と読んでいくのだけど、中盤からあれ、という気分に。自分が「わかった気分」「自分はできてる」「自分は考えられてる」etc.と思ってしまってることに気づかされ、筆者の主張を自分の中に落とし込むのが難しい内容だった。 雑に解釈すると、もっと柔軟に、もっと寛容に、他者の生き方を理解しなくても許容する、人々がそれぞれにツイートする、喧騒に満ちた社会になることで、思ってもみなかった未来の可能性が拓ける、という主張と受け取った。それを駆動するのは、過去の再解釈である、と。 ただ「寛容」や「柔軟」な態度といっても、譲ってはいけない一線は引くべきだ、同志間のエコーチャンバーに閉じこもるな、過去の修正と訂正は違う、となると、なかなか危ういバランスを取る必要があるように思われる。 このバランスを取るための仕組みが、訂正してくれる他者との組織・結社の構成することで、交換不可能な個を訂正し続けるようにすることだ、ということ。 確かにそれはそうかも、と思いつつ、組織という実践は自分にはなかなかハードルが高い。 日本社会の閉塞感打破を射程に入れてるためか、個の考え方に対する「大きな物語」を必要としてるようにも読めた(最後の方で政治の話題も出てくる)。この接続を適切に捉えられてる気もせず、難しかった。 とはいえ、すぐに答えの出ないことを頭にフックさせて、折に触れて思い返しては考えるトリガーにさせる、という意味では、あとがきの狙い通りで、成功してるのかもしれない。

    0
    投稿日: 2024.05.15
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    人は、他人を理解することはできない。だから「じつは…だった。」と訂正して受け入れるしかない。だから、訂正する力が必要なんだと理解。 訂正する力とは、過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力のことで、チェンジ=交換することは違う。 負けを認め、現実を直視する力。 老いることは訂正すること。 昨今、嫌ならやめれば良いと言った交換の思想がひとを自由にしてくれるが、何もかもチェンジしても、自分はチェンジできない。だから、チェンジ=交換する力だけでは対応できないから、訂正する力が必要。 自分も、人にレッテルを貼ってしまうことがあるが、それが違うと気づいたら訂正する力が必要で、それが老いる力だと認識した。 (以下メモ) 日本の政治家は謝らず、左派はかたくなさを「ぶれなさ」とされている。 議論をするには、お互いが変わる用意が必要。 訂正する力とは「リセットする」と「ぶれない」の間でバランスを取ること。 日本で訂正する力が機能しないのは、「ぶれない」ことをアイデンティティとするリベラル派がいるから。 一方、明治維新は、歴史の訂正。過去全肯定もせず、全否定もせず、王政復古という一種のフィクション。 ヨーロッパの強さは、訂正する力の強さ。 負けを認め、現実を直視する力 レッテルでしか仕事ができなくなる。 老いることは訂正すること。 訂正する力とは、過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力のこと。 それは、持続する力であり、聞く力であり、老いる力であり、記憶する力であり、読み替える力。 動画配信などの新しい伝達手段も生まれ、余剰の情報を提供することで、訂正する力を可惜に強める可能性も秘めている。 民主主義とは、うるさい社会。 自然科学は、反証可能性の原理に基づき、人文学は訂正可能性の原理に基づく。 人工知能で作成可能になる時代には、むしろ作家性が重要。

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    投稿日: 2024.05.12
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    考える力、考え方、現代の日本で必要な自分の持ち方を教えてくれる。私を持つには自分の頭で考えること。それは常に自身を訂正し更新していくこと。それでいいんだ、そう思える一冊。私にはめちゃくちゃ良かった。世の中を自分で見られる、それができるような気になれる。

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    投稿日: 2024.05.04
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    内容は面白いところもあるのだが、構成や表現に推敲の形跡がまったくなく、論の"強度"がかなり低いと思いながら読んだ。 あとがきには「語り下ろし」という形式をとったと書かれてあり、インタビュアーからの質問に対して著者が語ったものを書籍化したものとのこと。推敲されてない理由がよくわかった。 しかし、それならいっそインタビューのQA形式で書籍化するか、いっそ対談動画としてYouTubeやPodcastにあげたほうがずっとよいと思う。 メディアの選択肢がたくさんある中で、「書籍にすべきこと」と「書籍ではない別のメディアで発表すべきこと」を見極めるべき。この本のような内容の薄さであれば、明らかに後者。 大して構成を練らなかった編集者と、こんなクオリティのものを発表した著者の両方にがっかりした。

    0
    投稿日: 2024.04.30
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    訂正する力がないと、自分の話したことにこだわり動けなくなる。時が経てば考えかたも変わる。そういう時に、自ら訂正することは普通な雰囲気を作っておく。訂正は何か問題あるの、といった空気を作っておく。周りからは、朝令暮改かよ、と言われるかもしれないが、それが通常なのだ、と自分に思い込ませておく。

    0
    投稿日: 2024.04.21
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    優しい言葉で読みやすかった 確かに訂正する力って必要だよな〜とは思えたけど、それをどうやって実生活に落とし込むのかがピンと来なかった 訂正する力に関する当事者意識があんまりわかなかった

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    投稿日: 2024.04.18
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    正しさや価値観なんて、人それぞれだし、時が経てば変化もすることを前提に、臨機で対応していこうぜ。 一言で言えばそういうことなのかもしれない。 「訂正する力」と定義づけしてしまうからだと思うが、なかなか深いし難しい。 弁証法のようなブラッシュアップや対話の重要性、ユニーク性による価値観の見直しなど、持続可能な日本を作っていくために大事なものを説いている。 みんながそういう考えを持てれば素晴らしいと思う反面、一つの失敗で吊るし上げられちゃうんだから守りに入っちゃうよな、「にんげんだもの」とも思ってしまう。

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    投稿日: 2024.04.15
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    【人も概念も、「変わる」前提で】 訂正できる社会を提唱する本。 「訂正」については、「再解釈」や、「じつは、、、だった」と言い直すことが可能である環境。 その対象は、様々な概念や存在。国や個人、そのアイデンティティや歴史、そして特に重要だとして論じられているのがイデオロギー。リベラルや、平和主義。 過去を否定する「修正」や、切断して新しくする「リセット」ではなく、科学において、正しさを更新する「反証可能性」はなく。 バフチンのいう、「最終的な言葉がない」開放的な議論やルールのあり方のように、 定義が動的に変化し続ける、ヴィドゲンシュタインの言語ゲーム理論のように。

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    投稿日: 2024.04.04
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    訂正するとは、「正しく直すこと」ではなく「過去を見直すこと」だと解釈しました。 凝り固まった考えを捨て、常識を疑うことがこの先必要になる力だと改めて理解させられました。

    0
    投稿日: 2024.03.19
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    「訂正する力」を宿すためには持続的な組織が必要です。あるていどの数の人々を顧客にし、金のやりとりをし、しかし同時に親密な関係を守ろうとするからこそ、「じつはぼくたちがやるべきだったのは……なのではないか」という反省が働く(159頁)。「じつは……だった」という再発見の機会は、組織に過去経緯があり、それへの理解が自分にあってこそ与えられる。同じ再発見ができる人たちがいることで、組織は変わることができると理解しました。

    0
    投稿日: 2024.03.17
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    続く力と訂正する力。持続するということの大切さ。 ゼロかイチの社会ではなく友と敵の分断に支配されない「喧騒に満ちた国」こそが平和な国である。

    0
    投稿日: 2024.03.13
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    『訂正可能性の哲学』に続いて読了。こちらも素晴らしかった。訂正する力とは、成熟する力であり、決断する力であり、読み替える力であり、幻想をつくる力であり、考える力であり…と巧みに言い換えを重ねながら進んでいく語り口は、まずなんといっても社会や人間に対しての冷静な現状認識に裏打ちされていると感じた。冷静というか部分的には諦観とも取れるところもあるけれど、認識のありかが明確だから押し付けがましくないのに力強い。リベラルや保守、そして文系と理系などの整理と提言もわかりやすかったが、物語やアイデンティティ、意思などの個人の認識に関わる話も周辺の関連する議論との関連も含めてとても面白かった。いただいた視点を使って自分も自分なりに過去と現在を結び直してものごとを前に進めていくアクションをとっていきたい。

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    投稿日: 2024.03.10
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    【感想】 本書のテーマとなっている「訂正する力」とは何か。 これは「歴史修正主義」という評判の悪い言葉と比較すればわかりやすいと思う。歴史修正とは、「アウシュビッツにはガス室はなかった」「従軍慰安婦はいなかった」といった、おもに保守側による歴史の捏造を意味する言葉として使われている。この文脈での「修正」は、現実から目を逸らし、記憶をなくしていく行為のことだ。 一方で、訂正する力は歴史修正主義とは異なるものである。過去を都合よく修正する、ということではなく、過去を記憶し、訂正するために謝罪する力のことである。過去を忘却するための力ではなく、聞く力であり、持続する力、老いる力、記憶する力、読み替える力だ。過去の事実を受け止めつつ、「これからは方針を転換して、新たな形で対応していこう」と、柔軟なスタンスで物事に臨む力のことである。 私たちは「訂正する力」を日常の会話で何度も発揮している。前後の流れからある言葉を選んでしまっていたけれど、相手の反応を見て、本当はこういう言葉が良かったのではないかと思い直す。自分がこういう意味で使った言葉が、違う風に受け取られてしまったため、適切な言葉を選び直す。対話をする上での言葉遣いを訂正していく能力を、私たちは無意識のうちに発揮している。 しかし、それが「議論」の場となると、とたんに態度が変わってしまう。「変わる=ブレる=訂正する」という価値観を是とせず、「前言ったことと違うじゃないか」という批判を展開する。左派も右派もぶれないことをアイデンティティとしているため、議論が硬直してしまうのだ。 その実例が、2023年6月に可決されたLGBT理解増進法をめぐる議論だ。左派は規定が不十分だと批判し、右派は法律そのものが必要ないと反発している。彼らのなかには、「キリスト教文化圏のほうがよほど性的マイノリティを差別していた。日本にはそんな差別はなかった」と主張するひともいた。 しかし、双方ともどちらも的を射ていない。たしかに日本には性的マイノリティを受け入れる一定の伝統があり、それをすべて差別と呼ぶのはしっくりこない。とはいえ現在の基準でマイノリティの人権が十分に認められていたかといったら、それも違う。 この議論の問題点は、LGBTという多様性をゼロかイチかで選択しようとしているところだ。性的マイノリティを一切認めないか、それとも今までの規範や伝統を全て壊して作り直すか。大切なのは、それぞれの国の文化のなかで、伝統も残しながら、それをどうアップデートして未来につなげていくかという発想のはずである。ところが日本では、「訂正する」という意識が希薄なため、それがすぐに、ゼロかイチか、過去を否定するか肯定するか、リセットするかなにも変えないかという対立の議論になってしまう。そうではなく、過去を認めつつも現状に合わせて柔軟にアップデートしていこう、という姿勢が必要なのである。 本書の結びで筆者は、「訂正する力」を日本の「平和主義」の推進に役立てることを提案している。日本はWW2で多くの人々の命を脅かした。しかし、戦後の日本は平和主義を貫き、世界に向けてその概念を発信している。この「平和主義」というスタンスを、日本の持つ文化と結び付け、より広範に普及啓発していく。平和の概念を拡張し、過去を再解釈して、「日本は昔から平和を目指した国だった」という新しい物語をつくっていく、という試みである。 この提案は、かなり危険に感じてしまう。「日本は最初から平和を目指した国家だった」という主張は安易な歴史修正主義に思えるし、日本に侵略された国からしてみれば欺瞞に聞こえるだろう。 しかし、魅力的ではある。世界から認知されている日本のアイデンティティが、アニメやゲーム、食といった「戦後日本」と、自然や歴史的建造物といった「古来日本」に分かれ、戦中のイメージが欠落しているとすれば、これを利用しない手はない。アメリカや中国のような政治/経済にパワーがある国と対照的に、日本の特色が非政治的な「文化」の範疇に収まるのであれば、それは平和的外交の道具となるはずだ。 当然、一筋縄ではいかない。そして見ようによってはただの「ズル」だ。しかしそれを理解しつつ、ごまかしながら平和活動を持続していく。それが「訂正する力」であり、複雑化する世界の中で必要不可欠な態度ではないだろうか。 ――しかし、訂正する力は人生の転機において重要だし、共同体の構成においても重要である。人間はリセットできず、社会はよりリセットできない。だから過去の記憶を訂正しながら、だましだまし改良していくしかない。 ――日本はもともと文化の国だった。政治と交わらない繊細な感性と独自の芸術をたくさん生み出す国だった。その伝統のうえに戦後日本がある。クールジャパンもある。だから日本は武力を放棄したという理由で平和国家なわけではない。そもそもそういう伝統をもっているからこそ平和国家なのだ――。 ぼくは戦後日本の平和主義をそんなふうに「訂正」してみたいと思うのですが、いかがでしょうか。 ―――――――――――――――――――――――――――――― 【まとめ】 0 まえがき 小さな変革を後押しするためには、いままでの蓄積を安易に否定するのではなく、むしろ過去を「再解釈」し、現在に生き返らせるような柔軟な思想が必要である。ものごとをまえに進めるために、現在と過去をつなぎなおす力。それが「訂正する力」だ。 老いるとは若い頃の過ちを「訂正」し続けるということ。30歳、40歳になったら20歳のころと考えが違うのは当然である。老いるとは変化することであり、訂正すること。しかし、日本にはこの変化=訂正を嫌う文化がある。日本が前に進むために必要なのは、「訂正する力」を取り戻すことである。 1 なぜ訂正する力が必要か ヨーロッパの人々はルールを容赦なく変えてくる。ロックダウン後、あっという間にマスクを外し、「脱原発」や「二酸化炭素排出量の削減」を高らかに掲げたと思えば、ウクライナ戦争による天然ガスの不足で「やはり原発と石炭火力も必要だ」と言い出す。 見ようによっては「ズル」だが、ここで大事なのは、彼らが自分たちの行動や方針が一貫して見えるように一定の理屈を立てていることだ。ある意味でごまかしであるが、そういった「ごまかしをすることで持続しつつ訂正していく」というのが、ヨーロッパ的な知性のありかたであり、強さである。 日本に閉塞感が満ちている理由は、「空気」に支配されているからだ。詳細に言えば、「ルールチェンジをしなければならない」という主張があったとき、「そういう主張をするひとが現れた」という別の新たな空気が生まれてしまうからだ。声を上げることは必然的に反発を伴う。むしろ反発がないと意味がない。ところが最近は、「声を上げると周りから変なひとだと言われる。それ自体が圧力だから、『変』と言われないようにしてほしい」という要求が上がるようになってきた。 これを変えるには、いつの間にか本体の空気=ゲーム自体のかたちが変わっている、という状況をつくっていくことが大事になる。つまり脱構築である。 訂正する力は、「このルールはおかしいから変えるべきだ、否、じつはもともとこう解釈できるものだったのだ」と行動で示し、そのあとで事後承諾を求める。だからそれは、ある観点では単なるルール違反である。 しかし、その違反がとても大事なのだ。違反によって、ルールの弱点や不完全なところが見えてくることがあるからだ。 むろん、ルールに違反するということは「ルール違反だ」と非難されるということである。みんなから賛同されるわけでもないし、問題提起がうまくいかなければ犯罪になることもある。けれども、そのことによってルールが変わるかもしれない。訂正する力は、そういうリスクを取って行うことでもある。 言い換えれば、訂正する力は、「自分はこれで行く」「自分はこのルールをこう解釈する」と決断する力のことでもある。そして批判を引き受ける力でもある。 いまはみな「正しさ」をあまりに静的かつ固定的に捉えている思う。ポリティカル・コレクトネスのなかのコレクトネス(correctness)という言葉はコレクト(correct)という動詞の名詞形だが、これは本来は動詞的に捉えたほうがよいはず。コレクトは「校閲する」とか「まちがいを正す」とかを意味する動詞で、まさに本書の主題である「訂正」を意味する言葉である。 つまり、ポリティカル・コレクトネスの「コレクト」というのは、本当は、固定した正しさがあるというわけではなく、正しい方向にむかってつねに「訂正しよう」という動きのことではないか。 ポリティカル・コレクトネスとは、「昔の正しさはいまでは正しくない、だから訂正しよう」という反省のことなのだ。いまのこの正しさも、5年後にはまちがいになるかもしれないし、逆にいままちがっていることが正しいとなるかもしれない。そのような距離をもって考えることが大事である。現在の価値観だけを振りかざし、過去の発言や複雑な文脈をもった行為を一刀両断していく行為は、ポリティカル・コレクトネスの精神に反している。 だれかの正しさに便乗し、答えが出たと安心してみんなで叩くというのは、むしろ本来の正しさと対極の態度なのである。 2 じつは……だった 訂正とは、自分が無意識にやってしまったことに対して、「あれ、違うかな」と違和感をもったり、自分を見つめ直して試行錯誤することである。ひとは、新たな情報を得たときに、現在の認識を改めるだけでなく、「じつは……だった」というかたちで過去の定義に遡り、概念の歴史を頭のなかで書き換えることができる。 訂正する力とは、あらゆるコミュニケーション、あらゆる対話の原点にある力である。そして、人間のコミュニケーションは本質的に「開放的」である。 ぼくたちの社会は、どんなに厳密にルールを定めても、必ずそのルールを変なふうに解釈して変なことをやる人間が出てくる、そういう性質をもっている。社会を存続させようとするならば、そういう変人が現れてきたときに、なんらかのかたちでそれに対処しながらつぎに進むしかない。だから訂正する力が必要になる。 裏返すと、これはルールにはつねに穴があるということでもある。「ルールを守らないひとがいて困る」という話ではない。じつは人間は、ルールを守っていても、何でも自由にできてしまう。ルールはいくらでも多様に解釈可能だからだ。 民主主義の本質は「みんなでルールをつくる」ということにある。「正しさ」もみんなで決めるものだ。だから、どんなルールをつくってもそれを悪用する人間は必ず出てくるし、既存の民主主義の常識を破る人間は必ず現れる。そういう構造になっているのだ。 完璧に正しい市民を育て、完璧に正しい法制度をつくり、完璧に法が守られる社会をつくろうという発想には意味がない。むしろ、ルールが破られたとき、それにどう対処するかが民主主義の見せどころだ。この点において、訂正する力とは民主主義の力のことなのだとも言える。 人間は「じつは……だった」の発見によって、過去をつねにダイナミックに書き換えて生きている。それは人生の転機においては必要になる力だ。長く続けてきた仕事を辞める、長いあいだ連れ添ってきたひとと別れる、そういうときに、多くのひとが、いままではまちがっていた、これからは新しい人生を送るんだと考える。リセットの考えかただ。 けれども、いままでの仕事はたしかに苦しかった、いままでのひととは性格が合わなかった、でもそれは「じつは」こういう解釈ができて、その解釈をすると未来ともつながっている、だから過去と切れるのはむしろ人生を続けるためなんだ、と考えたほうが前向きになれるのではないだろうか。それが訂正の考えかただ。 いまはそんな訂正する力をネガティブな方向で使っているひとが多い。「じつはずっと騙されていた」「じつはずっと不幸だった」「じつはずっと被害者だった」という発見」はネットに溢れている。しかし、同じ力はポジティブにも使えるはずだ。 社会はリセットできない。人間は合理的には動かない。だから過去の記憶を訂正しながら、だましだまし改良していくしかない。 3 喧騒のある国を取り戻す 訂正する力を使って、思想と文化をどのように批判的に継承していくべきか。 丸山眞男は、「作為」と「自然」を対立させ、日本人は「つぎつぎになりゆくいきほひ」に巻き込まれるばかりで、作為性=主体性を発揮できない、そこが問題だと指摘した。ぼくはここで別の道、つまり「自然を作為する」という立場を提示しようと思う。変化を変化として許容しながら、それでも一貫性を保つ立場、つまり「訂正する力」による立場である。 いま日本に求められるのは平和主義の「訂正」だと思う。戦後日本の平和主義を受け継いだうえで、内実を変えて未来に引き継ぐ。そのために訂正する力を使う。 軍備増強と平和外交は矛盾しないはずだ。いかなる政府も国民の感情を完全には無視できない。仮想敵国のなかに、日本人と会ったことのあるひと、日本のコンテンツを見ているひとを増やせば、それだけ日本を理不尽に侵略する可能性は減るはずだ。右派が軍備増強を唱え、左派が平和外交を主張する。例によってゼロかイチかの対立になっているが、本当は二者択一ではない。どっちもできる。 目的は「日本を侵略したいと思わせない」こと。そのためには、一方でにらみを利かせながら、他方で日本のファンを増やせばいい。アニメやゲームをどんどん輸出し、世界中からどんどん観光客を招けばいい。それも一種のリアリズムだと思う。 ぼくはここに平和主義の訂正のひとつの方向性があると考えている。戦後日本の平和主義を観光や文化戦略と結びつける。平和の概念を拡張し、過去を再解釈して、「日本は昔から平和を目指した国だった」という新しい物語をつくる。日本の文化的な豊かさを使えば、それを「平和」に結びつけることができるのではないか。 平和とは喧騒があることだ。政治とは無関係な話題でも大騒ぎできることが平和である。平和とは戦争の欠如のこと。つまり政治の欠如である。政治とは関わらない、友と敵の対立に呑み込まれない活動をたくさん展開できる。それが平和の本質なのではないかと思う。 日本はもともと文化の国だった。政治と交わらない繊細な感性と独自の芸術をたくさん生み出す国だった。その伝統のうえに戦後日本がある。クールジャパンもある。だから日本は武力を放棄したという理由で平和国家なわけではない。そもそもそういう伝統をもっているからこそ平和国家なのだ――。 ぼくは戦後日本の平和主義をそんなふうに「訂正」してみたいと思うのですが、いかがでしょうか。

    42
    投稿日: 2024.03.01
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    なぜ大学図書館は読まれそうにない過去の古い本をあんなにあつめているのか。ムダではないか。そういう疑問に一つの解答を与えてくれた、そんな本でした。

    0
    投稿日: 2024.02.25
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    主張そのものには首肯するが、自分向きではなかった。 新書が故かもしれないが、構成としては一つの訂正する力という主題について特に近年のトピックを挙げながらその骨格や本筋を説明するものになっている。しかし、その論拠や議論の周縁に関する情報が乏しく、説得性に欠ける。自分の主張に沿うような近年のニュースを恣意的にピッキングして、一面を切り取っているだけのように見えてしまう。 主張そのもには共感する部分が多かったので、訂正可能性の哲学を読もうと思います。

    0
    投稿日: 2024.02.21
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    大胆な改革、既成概念に問われない、現状否定して変わえる、リセットすると言葉は躍るけど…。訂正する力が、ほんとうに変わること、変化し続ける力につながるじゃないかと感じた。 持続する力、聞く力、記憶する力、読み換える力。過去を安易に否定するのではなく、過去からの一貫性を持ちながら解釈を変え、前に進み、現在とこれからを変え続けていく柔軟な考え方が大切ってことかな。

    0
    投稿日: 2024.02.18
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    着眼点が素晴らしいと思ったが、なんか難しかった。スラスラと読めるが難しい。伝統も残しながらアップデートして未来につなげるとか、交換不可能な固有な存在になれというのは、本当にそうだと思った。

    8
    投稿日: 2024.02.15
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    とても分かりやすい。実に現代的。動物的に言論ごっこしている場合じゃない。まずは「訂正」に道を開こう。漠然と考えていた現代の政治の隘路を打開する道筋を、明快な言葉で示してくれた。

    0
    投稿日: 2024.02.13
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     訂正する力とは何か?それは老いる力で、持続しながら変化する力でもある。世の中に絶対なものなどなく、日々変化し続ける。そんな中で人類はルールを作り統制していくのだが、必ずルールには穴があり、そこから綻びが出る。  しかし我々は綻びに手を加えて直すことができる。その綻びから生まれるものもある。  如何に自分をメタ認知し、訂正していけるか?考えていけるか。昨今のネガティヴケイパビリティに通じる話である。  加速していく社会、時間は有限で、我々は為すべき仕事が多い。その目まぐるしい世界の変化に対して、速度を合わせることではなく、しっかりと思考しなければならないのだ。しんどいが。

    2
    投稿日: 2024.02.06
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    オトラジシリーズ。 白黒つけた方が立場がハッキリしていてわかりやすい。 だけれどそのわかりやすさが対立を生む。 分断が深まる現代において、東さんの主張は、とても成熟した大人の考え方だと思った。 人によっては、「どっちつかず」とか「優柔不断だ」とか取られかねない。 でもそんな意見さえも包括できそうな包容力を感じた一冊。

    2
    投稿日: 2024.02.05
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    東浩紀を追ってる人じゃないと前提を共有できない。「普通に考えて」とか書かれても。。。誰?どの社会?どういった集団?少なくとも僕の所属する社会ではなさそう。それに僕はもう「〜すべき」には疲れました。「わかってはいるが、できない」のではないだろうか。

    0
    投稿日: 2024.02.03
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    最後の方がよく分からなかった。リセットの文化から訂正の文化へというのはよく分かる。訂正しながら老いていく。人生をそう捉える人が増えたら良い社会になるはずだ。他者と訂正し合える環境に身を置くこと、これは現代人が抱える根本的な課題だと思う。

    1
    投稿日: 2024.02.01
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    東さんというと、『動物化するポストモダン』以来。 現代思想系の本としては読みやすい方だったが… そんなイメージで本書を手にすると、よみやすさにびっくりする。 さて、「訂正する力」とは。 「過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力」とのこと。 ものごとを持続的に問い直し、対話の場に開いておく力。 誤ったら、謝って変更する力。 忘却するのではなく、記憶に留めながら変化させる力。 その意味で、老いる力でもある…ということになろうか。 あと、ポストモダンあるあるの「何でもあり」にはならない、とも釘を刺してあった。 ルールを変なふうに解釈する個人を排除できないが、その都度、ルールを見直して訂正すればよい、とのこと。 中盤には、それを哲学的に裏付けていく。 その一つにウィトゲンシュタインの言語ゲーム論があった。 その中で、東流の解釈で、アイデンティティは当事者には決定できず、観客が必要になるという話があった。 とても興味深い話ではあったので、もうちょっと説明が欲しかった。 というのも、内部者はそれぞれの自己イメージがあるので、アイデンティティが作れないというのはわかるのだが、それは外から見ている人についても同じではないかと思えるからだ。 後半は、訂正する力の実践編? 自分の人生を「訂正する」には、ということで、ご自身の経験を例に説明されていた。 「親密な公共圏」の中で、個人が「固有名」であることが必要だとのこと。 うん、それ相当難しいね。 最後は、近代日本の思想史の点検。 平和主義と政治の関係を「訂正の力」を用いて解きほぐし、「自然を作為する」という道を示す。 これを平和論に適用していく。 いろいろな人が立場に囚われず語り合い、極論が極論のまま共存する「喧噪」の環境こそが平和だという。 空気を読むことを強いられ、間違ってはいけない、ぶれてはいけないという圧力にがんじがらめになりがちな現状に「訂正する力」は必要だと思う。 その意味で、とても共感したのだが、自分が実践できるかといわれたら、かなり難しいように思う。 あることがらを議論の場において、問い直し続けるというのは、かなりの粘り強さというか、精神力が必要ではないかと思うのだ。 本書がどう読まれていくのか、気になる。

    0
    投稿日: 2024.01.28
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    ふんだんに時事問題を盛り込み、皮肉ではなくいい意味でつとめて「わかりやすく」「間口も広く」伝えんとするサービス精神を発揮して、東浩紀は自身が執筆活動のみならずゲンロンの経営などでも培った哲学(つまり「血肉化」した哲学)を開陳する。それはリベラルな立場と保守思想を接合・融合したものであり、根底にこの著者が世界に向けて注ぐ優しい(だが同時にクールでもある)視点をうかがわせる。政治学・社会学・哲学・文学・歴史とこの著者がフットワーク軽く体得してきた知の成果の融合・結晶とも言えるこの本。なかなかの強度を誇っている

    0
    投稿日: 2024.01.14
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    年末にひとまわり下の後輩に読んだ方がいいですよ、と言われて素直にお正月読書しました。とはいっても、じっくり、と言う訳でなく、電車の中で、あっさり読了。書き下ろしという訳ではなく語り下ろしということで非常にやさしい文章です。YouTubeとかで本人が語っているより文字だと独特のクセが消えわかりやすいかも。それでも思考停止とシステム破綻に覆われた日本のイマに新鮮な気づきを与えてくれる本だと思いました。同時期にゲンロン業書から「訂正可能性の哲学」が出版されているので、そのトレイラーのような新書かな?とすると「訂正可能性の哲学」も読まずにはいられません。デビュー30年、「データベース消費」とか「動物化」とか「郵便的」とか「誤配」とか「観光客」とか「一般意志2.0」とかさまざまなキーワードを提示してきた著者ですが、今回は「訂正」。「リセット」でも「修正」でもないところが主張のポイントです。「訂正」とは正しく直す、とかではなく「じつは…だった」という気づきへの柔軟性を言うのだと受け取りました。つまり「訂正」=「訂正し続ける」という意味です。ここに人文学と自然科学の違いを見出しています。個人的には斉藤幸平の「人新世の資本論」でのマルクスの見直しをイメージしました。今回のキーワードに引き込まれてしまうのが、東浩紀がこれまで大学の外に出てゲンロンという場を作りビジネスとしてサスティナブルを志向し社長を退任する、という「ゲンロン戦記」としての実践から生まれている言葉だから、という気もします。先ずは、一月の三連休明けに、この本を薦めてくれた後輩との「喧噪」トークを行いたい!

    0
    投稿日: 2024.01.08
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    日本にいま必要なのは訂正する力。日本には訂正を嫌う文化があり、SNSでも少しでも矛盾した発言をすると集中砲火を浴びてしまう。しかし人間は成長するいきものであり、人の話を聞いて自分の意見を訂正することは必要な力なのだ。

    1
    投稿日: 2024.01.08
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    このレビューはネタバレを含みます。

    訂正する力とは、物事を前に進めるために現在と過去をつなぎなおす力で、「リセット」と「ぶれない」の間でバランスをとる力である。 明治維新や配線による国の一新という成功体験、東日本大震災後の「災後」のように、日本はリセット願望が強い国であるため、変化や老いの要素を含む訂正は嫌われ、謝罪は忌避される。 日本という空気が支配する国だからこそ、いつの間にか空気が変わっているように状況を作ることが重要。 民主主義の基本は議論だが、議論を成立させるためには相手が意見を変える可能性を互いに認めなくてはならない。 訂正する力の切除が一文字たりとも憲法の条文の変更を拒み、結果として憲法を「読めないもの」にしてしまっている。だから、「変わる」ことを恐れてはいけない。 新海誠をはじめとした10代の主人公のような日本の映像の純粋主義に対し、ハリウッドではマーベルなど家庭の崩壊した中年の主人公が多くいる。 ポリコレは名詞を用いて正しさを静的で固定的なものとしているが、本来は動的で常態的なものである。 社会全体に信頼が失われ、皆が安直な正しさに飛びついた結果が、訂正する力と対極にある今日の論破力のもてはやしである。

    1
    投稿日: 2023.12.30
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    訂正する力がまさか平和につながるとは思わなかった。 ちょうど最近、奇跡の社会学という本から、社会をラディカルに変えるのではなく、少しずつ変えるインクリメンタル的改革の方が良い、という話を読んだばかりなので、訂正し続けることが、社会を良くしていくのはしっくりきました。 でも、政治を意識しない方が平和、というのはわかるような、それでいいのかはちょっと分からなかった。意識させないような政治をするのが理想としつつ、そんな理想の政治家がいるのか、というのが疑問なのかも。 訂正し続けるために組織を作った方がよいというのも目から鱗でした。組織の中の多様性を見つけて、クローズドに訂正する練習をして、オープンになれるのかも。組織のあり方としても考えさせられました。人間、少しずつですね 最後にもう一つ良かったのが、私の最近のテーマに、気づき、があるのですが、著者の東浩紀さんがやってるゲンロンカフェがまさに気づきを与える場所になってるんだなと、めちゃくちゃ参考になりました。 知識を売るのではなく、体験を売る。「じつは、…だった」という気づきの体験を売る。 これは売るのに長い時間が掛かる。 そう、焦らず気づいてもらうことを待ち、自ら訂正してもらうのとの場作りを僕も目指していきたい。

    1
    投稿日: 2023.12.29
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    あなたのうんまあ?いれ?とれものとにらげんめつ、がんまんがそふにもてつかない、ひびやてんかいまさきのうてきさいかんや、だらいまんまみやぶるはなつきつきいたかんがだにいかたがいまたがたくてきにかたんや、ぶうたにん、おやじとおなじしきいのみかたたがやせいさいやどくさいかっこずけ、ずかいはつ、ずんずら、やまがたべんしきいて、できのわるぎに、にかたやせいさつまきや、かたかたのどろうがくれきしもう、どてわらの、たいかいかたかいまきくやきくのこえもんとおおらかのけびいしふくのしようごっけしんものわらいたかじよよくぼつよ

    0
    投稿日: 2023.12.29
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    うーん、久々に理解がついていけない内容だった。これは完全に自分の理解不足だな。後日改めて再読したい。

    0
    投稿日: 2023.12.24
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    自分の能力不足のせいでいまいち概念が理解できていない。 なんとなくだが自分の読み方では明治維新以来続く西洋普遍主義、合理主義への日本人の過剰反応に対しての提言だと取った。 人間は間違えるし、気が変わるし、気まぐれだし、そうやって社会を作ってきた。 論理的整合性にがんじがらめになると、訂正できなくなり、柔軟性がなくなる。 西洋社会はロジカルだというが、実は訂正がうまいとの事。実際には事例も少なく検証もされてないので注意が必要だがそうなのかもしれない。 もう一度熟読してみよう。

    0
    投稿日: 2023.12.22
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    朝日の書評欄をみて手に取った。書評では、著者が主張するほど日本に訂正する力が欠けているわけではないと思う、と評者が違和感をコメントしていた記憶があるが、そういうローカルな現代批評の側面も本書にはもちろんあるが、ルソーからポパー、現代社会時評と広い射程で論じている著者のTTPがとにかく面白かった。

    0
    投稿日: 2023.12.22
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    超線形性の時代に入った21世紀の人類。 ここに必要なものが、「 訂正の力 」と考えるといいか。 モダン化が、線形性の極みに至り、ポストモダンへ移行し、そこにグローバル化が、識字率拡大に拍車をかけ、更にAIの進化も相俟って超線形性を前提にする必要が生まれた、と。 いよいよもって、やっと日本人も本当の大人に、成人になることが出来る岐路に立つ、と。厨二病からの飛躍が、必要な時。 あるいは、やはり、乳母日傘のまま年老いて、死にゆく文化なのか。可愛がりと甘えは、そのままに、童が、子供を育てつつ近代風の中で滅ぶのかな。 利権と立場が、絶対の物差しではないだろうに。 クリプキの「クワス算」、独特な集合化、面白い。 「じつは… だった」の力も、面白い。陰謀論が、流行る理由だろうし。固有名の話や、作家性も。一神教のヤバさもココらかな。 ひとはひとにしか金を払わない、というのもよくわかる話。鉄道、銀行等のインフラの信頼具合の低下も、ここら辺りにあるのだろう。TOICA、Suica、券売機、ATMで済む仕組み、労働する人は不遇だ。訂正する機会すら、ろくに与えられていない。

    0
    投稿日: 2023.12.06
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    第一章が一番印象的且つ読んでいて共感できる要素が多いと感じた。 訂正=変化を恐れる今の日本社会と照らし合わせながら話が進んでいくので、読みながら危機感を感じることが出来た。論破が流行することによって訂正する力を妨げてしまっていることについても納得がいった。 後半部分は話の流れが途切れていて、伝えたいことが見えず、インプットがないと感じてしまった。 本全体としては、訂正を繰り返すことの重要性は改めて実感することが出来、批判やルール違反にも柔軟に対応する余裕を持ちたいと思った。

    0
    投稿日: 2023.12.05
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    『訂正可能性の哲学』に比べて密度は落ちるが、その分、軽快さがある。語り降ろしという本書の成立プロセスも関係しているだろう。 脱線(=余剰)が魅力的だ。 生活の全ては政治というスローガンの行き過ぎへの指摘も目から鱗だ。 リセットの限界を説くことから、訂正する力を説くことも説得力がある。 人間理解においても、社会構築においても、訂正する力を基盤にするあり方は、重要だ。 抜き書きをいくつかした。

    0
    投稿日: 2023.12.04
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    安直に言語化してしまうと「地に足をつける」や「時間をかけて考える」といった範疇に収まってしまいそうな題材でもあるが 消費としての思考が加速する中でのカウンターカルチャーとして、本著の訂正する力が埋めるべきニッチは広がっているのだと考えさせられる。 東氏の著作では専門に2,3歩足を踏み入れた哲学入門書などのイメージがあるが、「訂正する力」という人々の手元で地道に磨き続けるしかない地味な思考様式を、燦然としたものとして改めて語りあげる力を如実に見せられた思い。

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    投稿日: 2023.12.02
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    自分の存在意義をどこに置くか,ではある一方,群体としての社会は他者との相互関係によって成り立つ.我だけを通していたら,社会は成立しない.しかし,生まれた瞬間から死ぬまで時間とともに環境が変化することを考えれば,柔軟な(抽象的な)骨子と絶えず変化する自分(それが成長というものではなかろうか)があって初めて社会が成立するはずである.他者との関係があるからこそ,修正ではなく訂正,常に正の時間軸方向の行為であり,当たり前な行為とも思える.自らの哲学を具体化すると,訂正すなわちブレと認識することになるのだろうか.それは恐らく哲学ではない.

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    投稿日: 2023.11.20
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    このレビューはネタバレを含みます。

    まず、この本の感想に触れる前に意識しておきたいことがある。あえて主語を大きくするけど(その方が単に気持ちいいから)、僕らは本の内容をよく鵜呑みにする。本屋に並んでいる本に権威性を感じ、本に書かれていることを“正しい情報”として理解してしまう。読書は常にそのことに注意しておかないと、簡単に「染まってしまう」。 特にこの本は、著者である東浩紀さんの主観がふんだんに入っていると思った。“主張”という印象が強い。だから面白い。一方で、だからこそ鵜呑みにしないスタンスが大事であり、それがこの本へのリスペクトでもあると思う。 この本の“主張”に対して自分はどう思うか?何を持ち帰るか?それこそがこの本の主題である「訂正する力」だと思った。 第二章の前半で語られる「対話」の話が面白かった。世の中では、対話とは「AかBかを決めるための手段」だと思っている節がある。そしてしばしば“良い対話”とは「AかBかという二項対立ではなく、新しいCという昇華したよりベター結論を導き出すことだ」という論も見かけられる。自分も割とその意識がある気がする。 けど、この本で定義する「対話」はそうじゃない。対話とはそもそも結論を出すための手続きではない「あなたは私のことをわかっていない」ということを永遠に言い合い、どこまでも発言の訂正がつづいていくことが本質だと、本書は語る。ここはネガティブケイパビリティにも通じる話かもしれない。 そもそも、現実はAでもBでも、Cでもなかったりする。より良い結論のように見えて、どちらかが我慢してるだけだったりする。 (これは本書の内容をシンプルに解釈しすぎているかもしれないが)ある意味、「わかりあえない関係」を持つことこそが人生を退屈にしない手段なのだと思った。その関係の一例が、本書でも触れている「家族」だ。出身も年齢も性別も異なる存在が、究極的にわかりあえる日など来ない。永遠にわかりあえないからこそ、永遠に対話し続ける。その「対話し続ける」過程こそが、互いに交換不可能な存在にさせるのだろう。 結論がでないから、人は一緒に居るのだ。

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    投稿日: 2023.11.05
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    p4 ものごとを前に進めるために、現在と過去をつなぎなおす力。それが本書が言う訂正する力です p8 訂正する力は、リセットすることぶれないことのあいだでバランスを取る力でもあります。 p20 訂正するとは、一貫性を持ちながら変わっていくことです p37 訂正する力は、現状を守りながら、変えていく力のことです p39 言い換えれば、訂正する力は、自分はこれで行く、自分はこのルールをこう解釈すると決断する力でもあります。 p43 訂正する力とは現実を直視する力 p54 訂正する力は老いる力、再出発する力 p59 訂正する力は、記憶する力 p72 ネットは文脈、時間を消す。すべての情報をフラットにつなげる。けれど、そのような余剰がないと読みが単純化してしまう p72 訂正する力とは読み替える力 p77 訂正する力とは、過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力のことです。それは、持続する力であり、聞く力であり、老いる力であり、記憶する力であり、読み替える力でもあります。 p136 その余分な情報が聴衆を刺激し、それぞれの頭のなかからいろいろな連想を引きずり出す。そういう経験は、人工知能社会になるこれからの時代にこそ貴重なものです p148 固有名になれ。周りの人に対して、職業や役職といった属性を売りにするのではなく、属性を超えた何かで判断されるような環境をつくれということです。 p150 固有名になるためには、そういう期待の外で、相手に交換不可能な存在だと思ってもらわなければならない その鎧を打ち壊せば、人間はみな自動的に交換可能な存在になります。そうすると相手は自然と「じつはーーだった」とあなたを発見してくれるようになります。余剰な情報が必要なのはそのためです。 周りに余剰の情報の場をつくること。そのために時間に余裕をもつこと。それが訂正の梃子になります。 p153 訂正可能な存在になるとは、交換不可能な存在になることです p155 こちらの行動を逐一観察し、是々非々でつきあいを決めるひとばかりだと人生は行き詰まります。かといって逆に、なにがあってもついてくるひとに囲まれていても成長はありません。僕が強調したいのは、その中間が大切だということです。 p156 人生は、自分を属性で判断するひとに囲まれても決して豊かにはなりません。いつまで期待に答えなければならないからです。 かといって信者に囲まれても閉塞感がますばかりです。豊かな人生を送るためには、自分の価値を、「じつはーーだった」というかたちで何回も発見してくれる訂正する人たちが必要なのです。 p160 対して組織は訂正の運動論です。過去の失敗を記憶し、「じつは僕たちがやるべきだったのはーーだったのではないか」という反省を繰り返す。ぼくがゲンロンでやってきたのは、まさにその反省の連続でした。 p167 交換不可能な関係は人間を不自由にすることもある 親子関係、家族関係 p170 ぼくは、人間と人間は最終的にわかりあえないものだと思っています。親は子を理解できあにし、子も親を理解できないし、夫婦もわかりあえないし、友人もわかりあえない。人間は結局のところだのことも理解できず、だれにも理解されずに孤独に死ぬしかない。できるのは理解の訂正だけ。じつはこういうひとだったのかというきづきを連鎖させるだけ。 大事なのは、ひとが理解し合う空間をつくることではなく、むしろお前はおれを理解していないと永遠に言い合う空間を作ることなのです p177 平凡社 荒俣宏 世界大博物図鑑 全7巻 p184 丸山真男 歴史意識の古層 つぎつぎになりゆくいきほひ ものごとがなんとなく自然とうまれつながっていく。そういう発想が日本の思想や政治を動かしてきた 例 明治維新 はじめは攘夷 いつの間にか開国でうまくいっている p197 訂正する力は、幻想をつくる力でもあります。過去の解釈を変え、現在につながるような新たな物語を作る。そして未来に進んでいく。 ぼくたちはときに、深刻な現実に直面するためにこそ幻想を必要とする p228 きわまえて大雑把にいうならば、一方にはすべてあきらめて成り行きに任せるしかないという親鸞的な思想(自然=非政治の思想)があり、他方にはがんばって国を守るぞという日蓮的な思想(作為=政治の思想)があるそして両者が拮抗している。どうも日本は昔からそうなのです。漢意と大和心の対立も、宣長がつくったというよりも、それ以前からあった思想的対立の変奏だと考えたほうがいいかもしれません。 p229 過去を変えたのに変えたと思わせない力。ルールを変えたのに同じゲームが続いていると思わせる力。政治が続いているのに、消えたと思わせる力。それはつまり、作為があるのに自然のままだと思わせる力のことです。平和は訂正する力によって作られるのです。 p238 本書ではそこで第3の道を提示します。自然を作為するという立場です。変化を変化として許容しながら、それでも一貫性を保つ立場です。そのような立場を生み出す力こそが訂正する力です。 平和な国とは喧騒に満ちた国でもあります。訂正する力は喧騒の力でもあります。社会全体が一つの話題に支配されないこと。友と敵の分断に支配されないこと。いろいろな人が政治的な立場と関係なく結びつき、いろいろなことを語り、極論が極論のまま共存し続け、いつも新たな参加者に対して開かれていること。日本には古来そのような喧騒を重んじる文化的な伝統がありました。 その伝統を活かし、世界に発信していくこと。訂正する力を取り戻すこと。平和を再定義すること。それが日本復活の道となります。

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    投稿日: 2023.10.31
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    「じつは…だった」をキーフレーズに進んで行く本書。 どっち付かずの方法論。 何でも正しいか間違っているかと白黒つけないと気が済まない昨今。 昨日と違うことを言えば怒られる。 でもホントはゆるく考えるのが大事。 方向転換をするだけで過去との連続性を断ち切らず同じ流れの中で変化して行くようにすればうまくいく。二者択一から脱しよう。 著者も書いているように捉え方によっては、歴史修正主義とか相対主義的に見えることもあるけれど違う。 昔、英語の講義でsuccessionという単語の意味を習ったことがある。影が連続して重なりながら移動するようなイメージ。何か難しい小説の1シーンだったと思う。実体は変わらないけれどぼんやりとした周縁部の影は変化して行く。 マルセル・デュシャンの「階段を降りる裸体」の も僕が思ったイメージに近い。 変化しながら同一であることの表現。 時間上の変化をひとつの時間に重ね合わせるとああいった感じになるのだと思う。 変わらないけれど変化して行く道を探して。 過去を過去として切り捨てるのではなく過去を残像のように保ちつつ現在に合わせて行く。 そんな厚みのある生き方を選びたいと思った。

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    投稿日: 2023.10.30