
総合評価
(89件)| 28 | ||
| 39 | ||
| 12 | ||
| 0 | ||
| 0 |
powered by ブクログ暇と退屈の論理学が大変面白かったが、内容としては本書の方が難解な印象。コロナ中に不要不急の外出が禁止されたことに対する違和感を発端に、人生と目的についての関係性を哲学的に講義した内容と捉えた。
0投稿日: 2026.01.12
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
議会の議論より行政権力が物事を決める方が効率的かつスピーディは危険。 →独裁と同じ 民主主義を機能させるにはたくさんの人と会話する。 大きな物語のない社会では、楽しみ方を勉強すること、何かを信じることが解決策。 あなたのすることの殆どは無意味だが、しなくてはならない。そうしたことをするのは世界を変えるためでなく、あなたが世界に変えられないため。
0投稿日: 2025.12.08
powered by ブクログ本書の帯にも「暇と退屈の倫理学」の深化と書かれた國分さんの新作。コロナ禍の政策に対して、哲学者がいかに「社会の虻(あぶ)」として重要な提言をしていたかをわかりやすく解説。「目的の本質とは、手段の正当化にある」との指摘にハッとさせられる。Purposeを求める前に読んだ方が良いかもしれない。目的の奴隷になってはいけないことを学べる一冊。
0投稿日: 2025.11.24
powered by ブクログ面白かった暇と退屈の倫理学をより深化させた論考ということで気になって購入。 コロナ禍の2020年と2022年にあった2本の講義を再録したもの。 暇と退屈の倫理学については前半はちらっと言及があるくらいだったが、後半は浪費と消費の話から、目的と手段の話にまで広がって、暇と退屈の倫理学の補講のような感じで読めた。
0投稿日: 2025.11.03
powered by ブクログ「暇と退屈の倫理学」の國分先生の著書。 実際に開催した二つの講義を下地として、書籍化。 第一部は哲学の役割と題して、コロナ危機における権利の問題を、倫理と政治の観点で警鐘を鳴らしている。ジョルジョ・アガンベンの主張をベースに論を展開。 生存だけが価値として認められることの問題、死者への敬意の喪失からつながる政治の不成立、移動の自由の制限がもたらす支配の問題について、どれも興味深い論考だった。 第二部は不要不急と題して、目的による手段の正当化への警鐘を、ハンナ・アレントの主張をベースに論を展開。 浪費と消費の対比や、動機づけや目的の超越など、普段では考えないことを、じっくり考える機会になった。 遊びとしての政治という考え方は、自分にとっては斬新な考え方だった。 本書の続編となる、「手段からの解放」もぜひ読みたいと思う。
1投稿日: 2025.10.01
powered by ブクログ示唆に富む考察だった。 特に目からうろこだったのが、学生の頃の文化祭準備の描写。準備しているうちに、目的を飛び越えて行為自体を 楽しんでいる自分に気付く、というあの感覚を肯定していた。そうそう、文化祭準備って、子供のころ、夢中になって夕方まで遊びに夢中になったころの我を忘れる感じに似ている。 昨今の「立法権を行政権が凌駕がしてしまっている」という状況を、頻発する「閣議決定」を例に警告している箇所にも興味を持った。 良いか悪いか、をこえて、純粋に考えることを追求するのが哲学なのだ、と腑に落ちる名著。
0投稿日: 2025.09.27
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
ちょいむずかった。抽象度が高かったかな。 199 引用していた千葉雅也の言葉「抑止として他者の身体がある」がたしかにと感じた。
0投稿日: 2025.09.21
powered by ブクログ講話を収めているからかめちゃ読みやすい。 第一部のアガンペンの主張から始まる読者への問いかけ。刺激的なものをそれを理由に排斥してしまうのではなく、それを足がかりに自らを問い直すことの意義。 社会にとってチクリと刺してくる虻のような存在としての哲学の役割。 賛成/反対のテンプレを越え、自ら問うてみる姿勢で批判的に物事を見ることの重要性はそれはもうわかる。 ただ自分が考え、主張し何の意味があるのか。「何も変わらないじゃないか」という論調が強いのが昨今の潮流な気がする。 この論調を否定するでもない、フレーミングを提示してくれた。 「あなたがすることのほとんどのことは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」 第二部が深化していき面白かったな。 大量消費の市場社会が、合目的的な社会の形成の一助になっていたかもしれないというのは面白い。ごく当然の論理として、目的化された消費と浪費の反規範化が行われ、それをあまりにも当たり前に受け入れていたことか。 序章の文章「自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える」まさしくこれが、紆余曲折を経て主張される。
1投稿日: 2025.09.13
powered by ブクログ『権力は「例外状態」あるいは「緊急事態」というものを巧妙に利用して、民主主義をないがしろにしたり、人々の権利を侵害していくことがある。』 コロナ禍でアガンベンが上げた危機感の話は、自分が不安に思っているさまざまな状況にとても似ている感覚がある。自由や制約、受け入れてしまう状態など社会状況と個人が地続きになっていて今読んでいる『奪われた集中力』ととても親和性があるように感じる。 ベルリンの壁のドキュメンタリーは見てみたい。 後半は『暇と退屈の倫理学』の復習で改めて自由と責任について考える。質疑応答がとても興味深い。
1投稿日: 2025.09.11
powered by ブクログ目的こそが重要であり、目的のない言動は意味がないと思っていたが、目的に盲目的に縛られることに警鐘を鳴らす。例えば、「行動の自由」は、〇〇の自由の権利の中でも大事なものだが、コロナ禍において、私たちは、行動規制を意外とあっさり受け入れた。法律に基づいたものではなく、要請だったにも関わらず、旅行や出張は消滅し、帰省すら批判の対象となるほどであった。感染を防ぐという目的は正しいと思うが、安易に受け入れることが、その後のさらなる規制等を無批判に受容してしまうことにつながるのではないかという危機感。哲学者は社会の虻で時々ちくりと刺すことで社会を目覚めさせる、というのは言い得て妙。
2投稿日: 2025.08.10
powered by ブクログコロナとアガンベンについてなど把握していない話は興味深く、『移動と階級』を読んだあとで掘り下げ方としてこういう思索のほうがやはり楽しめた。國分氏の著作では「講話」ということもあって読みやすい。
1投稿日: 2025.08.10
powered by ブクログ目的なく、何のためでもなく楽しむことの大切さ。無駄なことをして、なにも達成していないとしてもその過程を楽しむ。
1投稿日: 2025.08.06
powered by ブクログ國分先生の本は暇と退屈の論理学、中動態の世界に続いて3冊目。 人間の自由は、生存に必要な事を超えたり、目的からはみ出す事を求める。そこにこそ、人間らしく生きる喜び楽しみがある。 本書を読んで森博嗣の著書に「本当に楽しい事は他人に伝えられない」と書かれていた事を思い出した。読んだ時は納得出来なかったが、本書を読んで目的から離れているからこそ、本当に楽しい事は他人にはうまく伝えられないという事はかな、と思った。
2投稿日: 2025.07.09
powered by ブクログ高校・大学生向けの講話を書籍化。語りかける文体なので、肩ひじ張らず読みやすい。上に、國分先生の語り口が優しく、構成力もさすが。 ジョルジョ・アガンペンの論考を引合に出しながら、コロナ禍における自粛や不要不急といった対応を分析し、人間の本質に迫る。『暇と退屈の倫理学』で述べた贅沢を楽しもうという主張から更に論考を進め、「信じる」ことの大切さ、目的に縛られない行為の自由の大切さへと思考は深まっていく。 まさにコロナ禍体験者の一人として、行政主導で人間の基本的な主権への制限を無批判に受け入れていた。 感染拡大を防ぐためには必要なことであったと今でも納得はしているけれど、一事が万事このように受け身で従っていく態度はいかがなものかと本書により気づかされた。譲れない信念・超えられてはいけない一線というのは、国からの扇動を拒絶する覚悟を持つためにも意識していこう。 シリーズ化され新刊もでているので、そちらで更に深まった論考をたどっていきたい。
2投稿日: 2025.06.14
powered by ブクログ自由の根幹は「移動の自由」 日本国憲法が示すように、場所を選び移動できることこそが自由の土台である。 行為の本質は“自己を守る営み” ガンディーの言葉を引用し、「ほとんど無意味に見える行為」でも、世界に流されず主体性を保つうえで不可欠だと強調している。 目的に縛られた行為は自由ではない 「○○のためにやっている」と説明できる行為は、動機や目標に従属しており真の自由とは言えない。 目的を超えて“遊び”へ―手段‐目的連関からの逸脱 文化祭の準備の議論が次第に楽しくなる例のように、最初の目的を超えて自発的・創造的に広がる活動を著者は「遊び」と名づける。 社会運動にも“遊び”の要素が必要 運動それ自体が目的化すると形骸化する。喜びやワクワク感を保つことで、手段が目的を呑み込む事態を防ぐべきだと述べる。 自由は“必要”や“目的”をはみ出すところに宿る 犠牲を正当化する目的論から離れ、余分(広義の贅沢)を許容する余地を持つとき、人は人間らしい喜びと楽しみを得る。 まとめると、本書のハイライトは「目的を達成するためだけに行為を閉じ込めるのではなく、そこからはみ出し“遊び”となる瞬間にこそ人間の自由と充実がある」という思想を示している。
1投稿日: 2025.06.10
powered by ブクログコロナ禍における学生への講義内容が基になっている。冒頭の目先と長期に取り組むべきことを考え、中間は思うようにならないという話は共感できた。 一方、それ以降のアガンベンのコロナ禍における緊急事態宣言に関する論説を基にした話は、正直今読んでもなぁという感じだった。
3投稿日: 2025.05.09
powered by ブクログ2025.05.06 手段からの解放を先に読み、目的への抵抗を後で読んだ。その流れが分かった。新しい本から古い本へ。次は、暇と退屈の倫理学に、さらに戻って読んでみたい。
1投稿日: 2025.05.06
powered by ブクログ・イギリスの料理が不味くなったのは、資本主義のせい? ちょっと脱線しますが、皆さんは「イギリスの食事はまずい」とよく言われていることは知っていますか。 実際のところ、最近は美味しいんですけどね。確かに一時期までは本当にひどかったようです。かつてのクオリティーの食事を提供する古い食堂は残っていて、そういうところで食べると塩味が付いていない。 というのも、食卓にある胡椒と塩で各自が自分向けに調整して味付けすることになっているからです。これには面食らいました。 しかし、イギリスの料理はずっと昔からまずかったわけではなく、それは一九世紀に産業革命と農業革命から決定的な悪影響を受けたことの帰結であるという西洋経済史家、小野塚知二氏の研究があります。 もともとはイギリスにも豊かな食文化があった。それが産業化によって破壊されたというのです。 「産業化の過程で村と祭りを破壊したイギリスは、培ってきた食の能力を維持できず、味付けや調理の基準も衰退して、料理人の責任放棄が蔓延することとなった。他国の農業革命はイギリスほど徹底的に村と祭りを破壊しなかったので、民衆の食と音楽の能力は維持されたのである」とあります (「産業革命がイギリス料理を「まずく」した」『文藝春秋SPECIAL二〇一七年季刊秋号』、六七ページ)。 >>>本書p100 イギリスの料理がまずいという話はよく聞くが、イギリスが元から料理が下手だったんじゃなく、資本主義に文化を破壊されたからだったとは.... 資本主義が真っ先に発達したからこそ、その原理をせっせと体現した結果、料理が不味くなってしまったなんてあまりにも可哀想。 その原理とは何か? それが生産と消費。消費とは、必要を満たすが満足をもたらさない経済活動。現代だったらカロリーメイトだけ食べて仕事するような姿がイメージできる。 ただ生産という目的を達成するために、労働力を復活させるためなら、料理に味はいらなくなる。生命を維持する栄養が取れればいいからだ。 こんな風に、目的にとらわれると、どんな手段でも肯定されてしまうという恐ろしさに、人間性の喪失に警鐘を鳴らすのが本書。 というのも、資本主義で料理が不味くなったのは笑い話で済むが、この目的至上主義はナチスへの道につながってもいるからだ。 >>> 決定的に重要な一節だと思います。全体主義においては、「チェスのためにチェスをする」ことが許されない。全体主義が求める人間は、いかなる場合でも、「それ自体のために或る事柄を行なう」ことの絶対にない人間である。だから芸術のための芸術も許されない。もちろん、食事のための食事も許されない。 衝撃的なのは、〈いかなる場合でもそれ自体のために或る事柄を行うことの絶対にない人間〉という言い回しは、「ヒムラー」や「SS隊員」への言及を取り除いてしまったら、現代ではむしろ肯定的に受け止められる言い回しではないかということです。どんな無駄も排し、常に目的を意識して行動する。チェスのためにチェスをすることも、食事のために食事をすることもない。あらゆることを何かのために行い、何かのためでない行為を認めない。必要を超え出ること、目的からはみ出ることを許さない。不要不急と名指されたものを排除するのを厭わない……。 >>>本書p109 食事のための食事ができなくなってしまったイギリス。現代だったら、インスタのための食事しかできなくなった若者。一昔前なら、仕事のためにしか家庭を持てなくなった労働者。 何かのための何かをし続けるのは、何にも満足できない事態と表裏一体だ。常に失格を押され続けているとも言えるかもしれない。「あなたはまだまだですよ」と。(個人的に疲れた時にビジネス書をみるとそう感じる.....) じゃあ、満足するにはどうすればいい? 国分さんが示す目的主義からの脱出口は、目的にとらわれない、純粋な手段。それは概念的なものじゃなくて、子供たちが砂場で水を通すトンネルを必死になって掘るような、真剣な遊びでいい。水を通す目的なんて、結果としてあれば十分。楽しいのは、トンネルを掘っている時だ。遊んでる時、誰から肯定される必要もなく満たされているんじゃないだろうか。 満足と自己肯定への道は、「遊び」というスコップで拓ける。いや、遊んでたら自然と満足がもたらされるだろう。 仕事を、食事を、政治を遊ぼう。
3投稿日: 2025.05.05
powered by ブクログ暇と退屈の倫理学と比べるとかなり浅い内容だった。著者の思考がこれだけの時間をかけても深まっていないことが残念
1投稿日: 2025.04.09
powered by ブクログコロナ禍で行われた自由への強力な制限について取り上げる中で、その必要性には頷きつつも、「目的のためにはどんな手段も正当化されてよいのか?」という切り口で自由とは何かを考えるという筋。 【前半】 現代の哲学者アガンベンはコロナ禍で人々の移動や経済活動、葬式で集まることさえも制限を正当化された事態について批判した。 これによってアガンベンが逆に批判される(炎上する)ことになったが、ソクラテスの言うように哲学者は社会の虻として(p45)ぼんやりしがちな人々の目を覚まさせる役割があるため、アガンベンはそれをしたのだろう。 逆に、役割を果たしていない者の例として教会と法律家を挙げている。「教会は信よりも生を犠牲にする用意がなくてはならない」(p68)、「憲法の諸規定が遵守されているか確かめるのは法律家の仕事だが、」「法律家たちよ、なぜ自分の任務について沈黙しているのか?」(p74) 【後半】 アーレントの全体主義についての議論「手段の正当化こそ、目的を定義するものに他ならない」(p150)、「全体主義の下では、チェスのためにチェスをすることが許されない」(p154)が取り上げられている。 これと、國分の「暇と退屈の倫理学」でテーマとなった「暇と退屈への処方箋は『楽しむこと』であるが、放っておいても何かを楽しめるわけではないため、楽しみ方を学んで楽しむことが鍵となる」(p101)や、 「楽しんだり浪費したり贅沢を享受したりするこたは、生存の必要を越え出る、あるいは目的からはみ出る経験であり、我々は豊かさを感じで人間らしく生きるためにそうした経験を必要としている」(p144) といった主張とを繋ぎ合わせる。 すると、「行為は、目標や動機づけという要因に規定される局面もあるが、こうした要因を超越しうるかぎりでのみ行為は自由である」(p175)というアーレントの主張が決定的に重要になる(同ページでそのように書かれている)。 自由を守り、人間らしい価値を守って生きるためには、自由への制限や楽しみへの制限に対してはいかなる理由(目的)があっても常に疑い、批判的に見ていく必要があるということだろう。
1投稿日: 2025.04.06
powered by ブクログコロナにおける緊急事態での移動制限を容易に受け入れてしまった社会に対する警告とも言えるアガンペン氏の論考をもとに自由について考える。 そこから筆者は目的以外の遊び、自由を認めない社会への警輪をならす。効率化を求め目的以外の活動を認めない。そこには楽しみもない。満足できる浪費もなくただ記号としての消費をさせられる。そんなただ生きることのみの権利を大事にする社会にアガンペンは一石を投じていると。 確かに、説明可能な目的以外の活動は組織においてどんどん排除される。そしてその影響が会社員、労働者割合の増加とともに社会にも侵食。 その際たるものが、塾や習い事漬けと受験戦争として子どもに影響を及ぼしているように思う。 不寛容な社会、まさに隙のない目的に埋め尽くされた自由なき社会。 とはいえ、仕事の中ではまさに目的に埋め尽くされた活動を求め合っている。自分もハッとさせられる。ただ、遊びと意外性の中からでないと創発は起こらない… この後、筆者は目的を整理して、手段に支配されないことへ論を進めるが、日常生活にも企業活動にも有用な論。 この中で行政権が立法権より強まりやすいこと、特に危機に際して急ぐ時に、行政権に立法権を関与する間を与えず、立法権もそれを認めてしまう全体主義化への懸念も示している。まさにナチスの教訓を今に生かさなければ、先人に申し訳ない。
1投稿日: 2025.03.31
powered by ブクログ学生に向けた講話。 目的がないと生きられない世の中になり、その目的に抗ってみようかという提案。 コロナ禍の状況を哲学の観点で考察されていたことは、医療従事者として興味深かった。 命か経済か。 命か自由か。 その二項対立は目的に縛られているのではないか。 (目的が何なのかがはっきりとわからないけれど、「社会をどう維持するか」「個人の幸福をどう定義するか」ということ?) 感染した死者とは会えない。 感染した死者をビニール袋に入れる。 その行為は、生きている者に価値を置きすぎているのではないか。死者への尊厳が失われていないか。 不要不急とは。 線引きはどこ。 (上記、私の記憶から出てきた内容だから、間違っているかもしれない。) コロナ禍の哲学的思考については、コロナ対策を批判し、炎上した哲学者アガンベンの主張が書かれていた。私もおそらく、炎上に油を注ぐ側の人間なのだろうと感じた。 過去には、ヨーロッパで人口の1/3が亡くなるというパンデミックが起こったことがある。さらに何処かの国では、微生物兵器も開発されてるんじゃないかと私は思っている。コロナ対策を軽視しすぎると、未来の日本人の存在危機がやってくるなと感じている。 医療従事者は、命に価値を置きすぎていると言われれば、全く同意してしまう。 私の仕事が生きる力になってくれたらと願いながら働いている。傲慢なのかもしれない。 でも、死者にも価値があるから死んでもいい、なんて思えない。自由を手に入れられないなら死んでもいい、とも思えない。 コロナ禍以降、コロナに感染した患者が亡くなっていく姿をみてきた。今も、ウイルスは変異しながらも死者を出している。 誰か知らない人は、亡くなっているかもしれないけれど、自由に生活したいし、経済大事ですからパンデミックでも外出制限はいたしませんとは、私はできない。 哲学者に怒られるな。 制限をたやすく受け入れるな、ちょっと立ち止まって考えてみようってことならわからんでもないけど。感染対策は、議論している間に取り返しがつかないことになるからね。哲学者は、ぜひ、パンデミックじゃない時に存分に時間を使って考えて議論して欲しい。今がその時か。 國分功一郎さんの生の価値を「目的」ではなく、「ただ存在すること」に見出すべきだという考え方が好き。 何者かにならないと無価値なんてない。
35投稿日: 2025.03.22
powered by ブクログ政治の話は苦手だけど、それにしては結構読めた。 『暇と退屈の倫理学』の一応続きのような形で読める。 「チェスのためにチェスをする」のような標語で、手段や目的、必要、自由といった概念に関しての説明が行われていて分かりやすい。 自分も大学でラグビーをしていた時、部の理念/目的を掲げて活動していたが、確かに目的のためだけの活動はあらゆる手段を正当化してしまうし、それは自由な活動にならないのだなと当時を振り返って思う。目的に奉仕するのは人間として、また組織としても避けられないとは思うが、その中で目的を超え出るような経験や充実感を得られたかどうかということを今後は重視していきたいと思わされた。
1投稿日: 2025.02.26
powered by ブクログ目的は立てるべきもの 目的があるからこそ高い成果が出せると思っていた(いる)自分にとって視野が広がる1冊だった 計画的偶発性理論に似た話かと思うが、しばしば目的を超える時があるという知識を持っておくことで、目的に縛られない生き方に繋がると感じた
1投稿日: 2025.02.24
powered by ブクログコロナ禍に感染拡大防止などの御旗のもとに取られた、移動の権利などの諸々の権利制限が我々に課されたことは記憶に新しい。 筆者や、筆者が紹介する哲学者が疑問を抱くのは、そうした権利制限をたやすく受け入れているかのように見える、言い換えると、対統治者の苦難の歴史を乗り越えて勝ち得てきた重要な権利をたやすく手放して良いものか。統治者側、肥大する行政権の恣意で世の中がおかしな方向に進んでいきはしまいか。目的のために行為するだけの人間の孕む危険性― そうした出発点から、哲学が問を発する意味(アブのようにちくちく刺すというような表現だった)、改めて、人間が人間らしく生きるということはどういうことなのか、について筆者が考えを述べる。 コロナ禍や、その前後に、社会に対して感じていた違和感に言葉が与えられ、ものを考えるヒントとなる。面白い本でした。
1投稿日: 2025.02.19
powered by ブクログ「暇と退屈の倫理学」を読んで興味を持った著者の講義形式の一冊。 目的からの全体主義への視点は、興味深く且つ恐ろしく感じた。 昨今の選挙の空気とかも薄気味悪さを感じるし、戦争前夜の世論の空気にも通ずるのかなと感じた。
1投稿日: 2025.02.14
powered by ブクログ非常時に行政のスピーディ化が支持される。 行政と立法権の一体化。 極端な例は、ナチ党。 (正しい)目的があることでその過程の作業は正当化される。 目的から脱却すると自分のその場の思いに従って純粋な活動ができる(終わりの見える活動)
1投稿日: 2025.02.09
powered by ブクログ「暇と退屈の倫理学」の続編的位置付け。 なるほど、と思うところはあれど、「暇と〜」ほどの衝撃はない。
1投稿日: 2025.02.03
powered by ブクログコロナ禍における現代哲学者アガンベンの,国家による移動制限政策への反駁を例に,常に常識に迎合せず疑い問う姿勢を説く.また,その姿勢をマジョリティとして一顧だにせず潰すのではなく,議論に基づき落とし所を探す,そんな世の中であって欲しいと願う.この姿勢が失われることで世界がどのようになったかは,ナチや二次大戦中の日本を思い返せば考えるまでもない.だからこそ,ディベートが大事であり,大事であることを理解する人々で構成される国家であって欲しい.
1投稿日: 2025.01.31
powered by ブクログ『暇と退屈の倫理学』を深化させた本ということで、気になって読了。2つの講義録がまとまっていて読みやすいにもかかわらず、すごく考えさせられる論点が詰まっていた。科学の宗教化によってコロナ禍で起こった移動制限、さらに不安が派生して自粛警察が蔓延った。そのような「目的のために行動しなければならない」は果たして正しいのかを問う。自分も趣味を旅する生活をしているので、「目的がない遊び」は共感するところもあるし、コロナの話から最近観た『SHOGUN将軍』はなぜ感動したのか言語化できたり収穫が大きい本だった。
0投稿日: 2025.01.19
powered by ブクログ東大で行われた学生向けの講義録。平易でわかりやすく、身近な話題を深堀されている。 2回の講義に分かれており、初回はコロナ禍における「不要不急」について、第二回はそこからさらに広げ、目的、手段、遊びに展開していく。 初回では、コロナ禍の中で、ジョルジュ・アガンベンを引きながら、通常の民主的プロセスを経ずに不要不急のイベントが延期され、緊急事態宣言の名のもとに行動制限をされることに関する哲学的な考察。感染症対策の是非という観点は一旦脇に置いた上で、アガンベンの批判の論点は以下3つ 1. 生存のみに価値を置く社会 a. 感染症対策の目的は、国民の健康維持であるが、健康の維持という名目であれば、あらゆる行動の自由が制限されるということは、「ただ生存することのみー剥き出しの生ーのみに価値を置いた社会」ではないか。我々は家から出れず、友人に会うこともできない中で、ただ生き続けるだけの人生を歩みたいのか、それでもよいのか。 2. 死者の権利 a. 今回のコロナ禍で、死後にも感染リスクがあることへの懸念から、葬儀を経ずに埋葬される事態も発生した。葬礼は、これまでの人類社会においてほぼ例外なく行われてきており、宗教が枠組みを構築しつつ、葬礼を通じて死者への敬意というものが形成された来た。死者への敬意は人生の有限性の自覚と共に、単に生存していること以上の価値を生きることに見出すという文化を形成してきたが、そうしたことを踏まえると、今回の葬礼のスキップというものはまさに人間社会を形成する重要な価値を毀損してしまうのではないか。 3. 移動制限について a. 今回の、国民への行動制限(「自粛」の「要請」を含む)は人間活動において非常に思い意味を持つ。移動の自由というものは支配と密接な関係を持ち、刑罰を思い浮かべれば、死刑と罰金刑の間は様々なグラデーションの禁固刑、つまり移動の自由の制限によって構築されている。人が人を支配するときに、必要条件としてあるものは移動の自由の制限であり、逆に言えば、近代国家や人権的な憲法には移動の自由というものが明言されている。行動の制限というものはそれだけ重い支配の要諦であり、そうしたものへの制限を立法なしに行政のプロセスのみで行うことの危険性にもう少し鋭敏になるべき 生存のみに価値を置く社会という言葉は、非常に理解しやすい。このような話になると、伊藤計劃の『ハーモニー』を思い出してしまうが、『ハーモニー』が描くディストピアとは、生存のみに価値を置く社会であり、そのさらに先へ進んだ国民の身体が公共財と認知される世界である。 個人的には、近年の健康経営という文脈に対して、私自身は好意的ではありつつ懐疑的でもあるのだが、そうした違和感を言語化してくれたのが本書であった。健康経営とは、企業が生産性向上のために、最も重要な資本である従業員(=人的資本)を活性化すべく、従業員の健康に関する施策を支援するものである。実際に、経済産業省が進めている健康経営というプロジェクトは、従業員が健康な会社に対しては、積極的に資本市場も投資をしていくべきとする論調の形成を目的としてきた。 私個人としては、週1-2回は筋トレをするので、健康経営でそうした支援が受けられるのであれば悪い思いはしないのであるが、私たちの身体は生産性の向上の「ために」存在しているものではなく、ましてや健康経営のために酒やタバコ等の愚行権(既にこの言葉に価値判断を含んでしまっているのだが)を取り上げられることは明らかなる資本主義の越権行為であると感じる。本書でも取り上げられているが、私たちが生きるために健康であることを望むが、健康を望むために生きているのではない。 筆が走るので、このまま第2章のメモにも進んでしまうと、第二章ではまさにこうした資本主義、特に新自由主義的な背景から、私たちもあらゆる行動が、目的に対する手段であることを求められる社会に対しての批判が中心となっている。 不要不急へ対置されるものは、必要であるが、常になんらかの行動に必要性=目的を求められる社会というものの息苦しさについて考察が進められていく。 ここでは、ハンナ・アーレントやボードリヤールを引いているが、アーレントの主な主張として、 目的がひとたび定められれば、それを達成するために効果的でありさえすれば手段として正当化されるという考え方を推し進めてきたことによる帰結(=ホロコースト)を初めて知った世代として、目的と手段の関係性の中にすべて還元してしまうことの危険性に警鐘をならしている。他にも、 「目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義に他ならない以上、目的はすべての手段を必ずしも正当化しないなどというのは、逆説を語ることになる」 という強烈なパンチラインを打ち出しており、そもそも、目的と手段という関係性への還元というよりは、あらゆる行動=手段を正当化するためのロジックとして捉えている。私たちは目的があり、それに対して手段があると考えているが、実際にはそれは後付けであり、往々にして、というよりもすべてにおいて、手段(=行動)があり、それに対して目的で糊塗するものである。 まさに、ヒトラー率いるナチスが国民に求めたものは、すべての行動が目的の下に行われるカルチャーであり、そうした運動の中で、人々の生活から遊びやゆとりが消えていった。 ハンナ・アーレントは、「チェスをするためにチェスをする」というような目的た動機付けを超越するような行為を、上記のカルチャーから対置し、理想とする。行為に対して常に、目的が求められる在り様ではなく、人生を生きるなかで、目的や動機付けを超越するような行為を行いことが、人生を生きるということではないかと感じた。
0投稿日: 2025.01.13
powered by ブクログ疫病の流行やテロなどへの危機感を煽られて、何も疑いを持たずに「自由」を放棄してよいのか? 何らかの「目的」のために、一人ひとりの自由が制限されることについて考える。大義名分のために、個人が自由をあきらめるようなことがないように、意見を表明したり、考えたり、話したりを続けないといけない。 パブコメを出すことについても、前向きに考えられるようなことが書かれていた。誰かの代わりに話すことについても。
0投稿日: 2025.01.06
powered by ブクログ大好きだった『暇と退屈の倫理学』の続編とも言えるような哲学講話。 コロナ禍で体験したモヤモヤと当時すんなり受け入れてしまったことも含め、そういう捉え方があるのかと目から鱗。 世の中で当たり前とされてしまうことを考えなしに受け入れてしまうことの恐しさは常に意識していかないといけないなとはっとさせられた。 学生からの質問に対する受け応えの仕方も凄いし、著者の中でも答えがまだ出ていないこともこういった形で残すことの意義は大きいと感じた。
0投稿日: 2025.01.05
powered by ブクログ一部では、現在のコロナ禍によって発動した(世界全体の)緊急事態宣言について、主に「移動の自由」「行政権の強さ」の観点から批判したアガンベンについての議論 二部は、『暇と退屈の倫理学』で触れられた「消費と浪費の違い」「合目的性の否定としての遊び」の話で、『暇と〜』を読んでたのもあるけど、現在の消費社会が消費者に対して「記号の消費」を押し付けてくることに対して悶々としていたから、ちゃんと明文化してくれててありがたかった さらにタイトルにもある「目的への抵抗」として「遊び」を呈示するのはすごいと思った 一部の内容についても、ボクが明るくない「政治哲学」についての話で、感動するところがいくつもあった 必要最低限のことだけやるとつまらないよね 哲学を学ぶものとして、世界から一歩浮いた目線から眺めるのが大事だと思った
0投稿日: 2025.01.03
powered by ブクログ暇と退屈の論理学ほどのインパクトはなかったが、目的達成の中にもある自由が、研究者にとっての楽しみであると腑に落ちました。他国ではこの楽しみや遊びを、全く排除した研究者が多く、何のために研究者をしているのだろうと思うことが多々あります。
0投稿日: 2024.12.18
powered by ブクログひま師匠から素敵な提案があった。 『ユッキーも「哲学」好きだから、みんなで読んで一Qさんを追い込むのだw』 素晴らしい!一休さんを追い込むのだ!! ひま師匠から一冊選んで頂き、早速読んでみた。 うん。私は小説しか読めない体だったことに気付いてしまった。 まず、哲学とは何なのかですよ! 私は分かっておりません。 でも小説を読んでいると、京極夏彦先生の狂骨とか、鉄鼠とか凄く哲学的だと感じたし、平野啓一郎先生も哲学的だなぁと感じる。 じゃ、何で哲学的だと感じるんだろ? 物事を深く、深く考えるとこなのか?? コロナ禍では、命を守るために移動の自由を制限した。 移動の自由かぁ。。。 移動出来ることが自由であると考えたことが無かった。 人間の命を守るだめなのだからと、移動の自由を制限されても、一つも疑問に思わなかった。 移動出来るって自由なんだ! 言葉を使って話をすることで、同意を取り付けて、その同意に基づいて一緒に行動ができる。僕らが話をすることが、結局は大きな規模の政治にもつながっていく。 つまり、ひま師匠が言っていた 『ひたすらに考えるのはそうなんだけど、ちゃんと問題解決の道筋を見つけるのが「哲学」の役割なんよ』 これがこの本の私なりの答えだった。
92投稿日: 2024.09.21
powered by ブクログコロナ禍における不要不急の外出の制限から「自由」や「目的」を哲学する、といった内容。 実際の大学の講義を文字起こししたような形式なので話し言葉で哲学書にしてはかなりわかりやすいものになっている。ただし、『暇と退屈の倫理学』の実質的な続編になっているため、そちらを先に読んでおくことを強くお勧めする。 二章構成になっており、前者はコロナ禍の外出制限を強く批判して炎上したアガンベンという哲学家の発言から哲学家の社会的役割を考察するというもので、後者はコロナ禍における不要不急の外出の制限から「自由」と「目的」を考察するというもの。 個人的には二章目の「自由」と「目的」に関する考察が非常に興味深かった。 コロナ禍によって不要不急の行為を自粛するという風潮になっていたが、実は、清貧の思想などに代表する、贅沢などの非効率的なことを良しとしない考えという形で、コロナ禍前から潜在的に存在していたのではないか?と語られている。さらに、今の社会は目的が先行しすぎていて、目的に縛られない自由を獲得できていないのではないか?とも語られており、真の自由とは、目的を超えてなされる事柄であり、その余裕や、アクセルやブレーキでいう「遊び」を実感することが、人間が人間らしく生きる喜びと楽しみを見出せるのではないか、と結論づけている。 この著作で特に印象に残っているのは、チェスをするためにチェスをする、などのように「AをするためにAをする」という構図以外は、全て自由ではない、としている点である。(例えば、栄養を摂取をするために食事をするなど、AのためにBをする、は完全に自由な意思での行動ではないとする、ということ) この考えは目から鱗が落ちるとはまさにこのことか、と言わんばかりの考え方であり、自分が自由意志で行っていたものは、実は自由意志ではなかったのではないか、と再考するきっかけとなった。 よりよく生きるためには、AのためにAをする、という構図を意識して真の自由を目指してみたいと思えた。 最後に、『暇と退屈の倫理学』があまりにも卓越しすぎた内容であったため、星4としたが、他の哲学本と比べたら、星5の内容であったと思う。
2投稿日: 2024.09.17
powered by ブクログコロナ禍の行動制限をきっかけとして自由にまつわる哲学的議論を整理した講演録。剥き出しの生の現実の前に不要不急のものとして容易に制限される自由に対して異を唱える哲学の役割や、目的の外にはみ出していくものの中に生きることの本質をみようとする考え方には前著『暇と退屈の倫理学』との共通点が見いだせる。講話のあとの学生との質疑応答からも色々な気づきが得られる。 本書では触れられていないが、例えば結婚や出産をコスパで評価するような考え方も経済的目的合理性を人間の生の上に位置づけているものだ。預金残高やインプレッションの数字を目的として生きる、というと誰もがそんな馬鹿なと笑うだろうが、実際にはそうした考えが人生を絡め取ろうとする力は思いの外強いのかも知れない。
0投稿日: 2024.09.15
powered by ブクログ「あなたがすることのほとんど無意味であるが、それでもしなくてはならない。世界を変えるためではなく、世界によって自分が変えられないようにするためである」(ガンジー) はい、東大教授國分功一郎先生による講話をまとめた『目的への抵抗』です 本書では主にコロナ禍においての移動の制限や、少し落ち着いてからの「不要不急の」というものについての論考です まぁ、このこと自体はコロナというものを封じ込めるために致し方ない部分もあったことは認めつつも、みんなちょっと簡単に受け入れすぎてないかい?ってことを考えてみようってことです 先日読んだ『スピノザ』でもそうだったんですが、もう圧倒的に分かりやすい!読みやすい!天才か いやね「哲学」っていったらさ、わいの中ではもう謎に包まれた小難しい、わいなんかが簡単に近付いちゃいけない学問という位置付けだったわけ それがもうむしろみんながもっと気軽に接していいことなんだとガラッと変わってしまっています すげーぜ、國分先生! 今のところ、わいの中では「哲学」ってのは「考えること」を考えるって感じなのよね だから何でも「哲学」なのよ 例えば原爆投下ね 二度とこの悲劇を繰り返さないためにどうするか?って考えることは、もう「哲学」なのよ 世界は「哲学」で出来ている! 注)國分先生はそんなこと言ってません
58投稿日: 2024.08.16
powered by ブクログ思考の組み立て方が気持ちいいくらいわかりやすく書かれていて一気に読めた。二項対立のように見える事柄についてのアプローチや、極端な例を想定する考え方がとても参考になった。 暇と退屈の倫理学に続く内容として、著者の立ち位置や別の視点について示されているところに興味が湧いた。福田 恆存やアーレントの本の引用部分から手を出してみたい。
1投稿日: 2024.08.13
powered by ブクログ「目的」という当たり前のものに対する批判的な捉え方をできるだけ噛み砕いて解説をしてくれている。 「はじめに」の冒頭、「自由は目的に抵抗する。自由は目的を拒み、目的を逃れ、目的を超える。人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間な目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある。」を読んだ時はさっぱり意味が分からず、読み切れるか不安を覚えた。しかし、読了した今思うと、目的に対して著者の言うよう、私も当たり前のものとして感じていたからこそ意味がわからなかったのだ。本全体を通して、「人間の活動には奉仕する以上の要素があり、活動が目的によって駆動されるとしても、その目的を越え出ることを経験できることに人間の自由がある」の意味が分かるようになる。 実際、当初の目的を果たせなくても、その過程に充実感があると言うことは往々にある。目的達成ばかりに囚われた仕事の仕方や人生観でなくても、仕事そのものや人生そのものから充実感を得るような生き方をしてもいいんだと思うと、なんとなくいいなと思えた。
0投稿日: 2024.08.01
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
國分によれば「自由は目的を越える」らしい。本書でいくつか例が出ていたが、誰しも目的を越えそれ自体を楽しむ(チェスのためにチェスをする)状態になったことはあるのではないだろうか。思えば、私の「読書」も「知識をつけるため」という目的のもとに行ってきたものではあるけれども時折「この本を読みたいから本を読む」という目的からはみ出ることはある。しかし、この目的からはみ出たときに案外本当の学びがあったりもする。後から考えれば目的を達成(学びに達成はないが)することになるけれども、その瞬間は目的に縛られてはいない。こうした事を踏まえると人生において主観的に目的からはみ出ていると感じる瞬間を増やして行きたいと思うが、その瞬間はどういう条件で現れるのだろうか。
0投稿日: 2024.07.25
powered by ブクログ自身の40代が見えてきた中、どう生きていくのかを模索する中で、一つの指針を示してくれた本。本書からの学びを単純化すると、「目的に縛られることなく過程を楽しもう」ということになるだろうか? 今まで学校でもキャリアでも常に強迫観念に近いものに追い立てられてきたが、やっと自分の人生のオーナーシップを取り戻してきた感じがする。見栄や誰かの為ではなく、楽しさを追求していきたい。
0投稿日: 2024.07.20
powered by ブクログ長い歴史を紐解けば? この本では目的や目標を持つこと自体を批判する。特に、コロナ禍での行政からの制約を例として、感染症封じ込めのためならば「移動の自由」を犠牲にしても良いのかというアガンベンの問題提起も引用しながら論じている。 目的や目標がしばしば個人の幸福や満足感を犠牲にすることを指摘し、目的から解放された生き方を提唱している。 学者らしく批判の矛先は政府や行政に向かいがちだが、この本を読んで私が真っ先に思い出したのは、目的のために他を犠牲にしがちな共産党や左翼活動家のことだ。一切触れられていない。
0投稿日: 2024.07.19
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
目的を超えたある種の余白や遊びの部分に、人間の本質があるのではというのは共感。それを実現した人は結果的に目的思考の人を超越している印象。稼ぎたい、子供を喜ばせたいから野球をするのではなく、野球が好きだがら野球をしている大谷選手のような存在かなと思った。
0投稿日: 2024.05.23
powered by ブクログただ詩のために、詩を書き、学び、詩自体を愉しみたい。 まとめ 195 目的合理的な社会は絶対に無くならないが、「無駄な(遊び)ことも必要」と異議することは一定の価値がある。 人間活動には、目的のために行動する以上の要素があり、活動が目的によって動機づけられているとしても、その目的を超え出ることを経験できるところに人間の自由がある。 人間の自由は、必要を超え出たり、目的からはみ出したりすることを求める。
1投稿日: 2024.05.11
powered by ブクログコロナ禍に行われた2度の講話を収録。「不要不急」の言葉を対象として、「目的」や「自由」など概念との関係を考察していく。コロナ禍で登場し今ではコロナ以外の場面でも当たり前のように使われるようになってしまったこの言葉の何が危ういのか、改めて考える視座をもらえます。
3投稿日: 2024.05.02
powered by ブクログコロナ禍における「制限」や「不要不急」の概念を問い直すことを通じて、「目的」が手段に及ぼす影響を考えた本。 『暇と退屈の倫理学』と同著者なので、思想が繋がっていて面白かった。 自分はコロナ禍の制限下において、覚えた違和感に対し衝動的に転職をしたのだけど、この本を通じてその時感じていた違和感を再構築することが出来た。 当時自分で書き残した論考をなぞる形になったが、自己の自由を守るためだったと考えられる。 ⬇⬇⬇ 感性を育てる note.com/rubbish_heap/n… #note また、高校生に向けた講和をまとめた本だったので、思考の出発点である「問いの再構築」が持つ意味を改めて再確認出来た。 人や本から見聞きした論点は披露することが出来ても使用することは出来ない。自ら再構築することで、初めて使用することが出来る。 何を考えるにしても忘れないようにしたい。 理科の実験とかも同じ構図なんだよな、と。理論は知っていても使えない、再現実験を通して初めて自身の思考武器となる。 当時は「実験ってなんなんだ…」とよく思ったものだけど、中高生の時に体得しておきたかった感覚ではある笑。 結果として同じものが構築されても、自分で再構築することが肝要。 全体としてもとてもライトな本だったので、この情報過多な社会の中で、「自分の足で生きている気がしない」というような漠然とした不安を覚えている人にオススメしたい本だった。哲学の入門としても。 あとあんまり深く考えたことがなかった「三権分立」について考える機会になったのでよかったな。 行政権/立法権、それぞれの力関係、歴史から見る暴走が起こり得るパターン、それを抑え込むための機構/思想に対する解像度がかなり上がった。
0投稿日: 2024.04.30
powered by ブクログ着眼点も面白い上に、若年層向けの講話の記録ということもあって、簡単なワードで解説されてて良かった。こんな講義が受けられるなら大学に行ってみたいな。
0投稿日: 2024.04.28
powered by ブクログ暇と退屈の倫理学を読んで 正直、お腹いっぱい状態から、でも忘れないうちに こちらを読みました。 繋がってるところも理解しやすく 続けて読んでよかったです。 ど素人では、引用文だけ読んでも ???なところも、 つまりこういうことでと、わかりやすくお話しされていて よかったです。 贅沢とか自由とか そんなに深く考えることなんてなかったので まさに、消費社会に閉じ込められて 管理されるまま、疑問も抱かず生きていたんだと 2冊読んでまず、今率直な感想です。 これから生きていく中で 思い出しつつ 楽しむこと、本当の自由でいることが できたらいいなと思います。 なかなか難しいけど 一方でなんか、気が楽になったというか これからが楽しみになってきました。
9投稿日: 2024.03.22
powered by ブクログ“人間が自由であるための重要な要素の一つは、人間が目的に縛られないことであり、目的に抗するところにこそ人間の自由がある” 本書は國分功一郎先生による講義、授業の内容を、2部構成でまとめたものである。 一つはコロナ危機の中で発せられた緊急事態宣言から考えた、危機的状況下での厳しい移動制限に対する哲学の視点からの考え。 二つ目は、コロナ禍でことあるごとに発せられた「不要不急」という言葉が内包する、必要なものと不要なものを区別するという消費社会の傾向についての考え。 自分は特に、二つ目の章の中での目的と自由に関する内容がとても興味深いと感じた。 著者は、人間が豊かさを感じるのは、「目的をはみでた部分」によってである。と指摘する。 また、本書の中で哲学者ハンナ・アーレントは“「全体主義」においては、「チェスのためにチェスをすること」が許されない”とし、すべての行為が何かの目的になってしまう世界では、それ自体を楽しむということができ無いと指摘したとの説明があり、 あらゆることが目的に還元されてしまう社会では、目的のために何かを犠牲にすることや、ある行為を目的のための手段としてしかみなさないことが当たりとなり、そこに人間本来の自由は無いという指摘がされている。 特に印象に残った箇所としては、「目的に規定された行動は自由とは言えない」という部分。 仕事で何かをする時には必ず「何が目的か」ということを考えなくてはならない。目的の無い仕事では成果をあげることはできないし、経済的な利益をあげることができないのは当然で、手段を目的化することはダメなことだとさえ言われる。 その点を著者は否定しておらず、生活の中から目的が消えることは絶対にないが、あらゆるものが目的に向かって合理化されてしまう事態には警戒するべきとしている。 目的にのみ縛られ遊びを失った活動からは自由を感じることができず窮屈だ。ある目的のために始めた活動の中で結果として自由や充実感を感じることこそが、目的合理性に対するある種の抵抗なのだと思った。 SNSが発達した現代では、私生活や趣味のような場面でも何かをする時に目的を重要視する人が多くなっていると感じる。何か美味しいものを食べる時には、それ自体を美味しく食べることではなく、インスタに投稿し共感を得ることが目的になり、趣味を楽しむ場合でも、それ自体を楽しむと言うよりも、仕事上の成功につながるだとか、自分のキャリアアップのための活動であったりということが少なくない。 例えば純粋な趣味としてある活動を楽しんでいたが、それをYouTubeで公開し収益を得る活動になってしまった場合などに、趣味がお金や評価を得るための手段となってしまい、純粋に楽しむことができなくなってしまう場合などは、目的に趣味が支配されている状況だなということを考えた。 すべての活動に意味が求められるようになってしまった時代に、何も目的のない活動のようなものに没頭したところで、周囲から好奇の目で見られることもあるかもしれない。 そんな時代であっても、自分は無駄な活動を大事にしたい。心から楽しいと思える無駄の極みのような活動に没頭し、遊びの持つ自由さを享受できるような人生を送りたいと感じた。
12投稿日: 2024.02.09
powered by ブクログ第1部はアガンベンのコロナ禍における主張を通して、哲学者の存在意義を説く。それは当たり前と思われていることに虻のようにチクリと刺す役割だ。 第2部は、『暇と退屈の倫理学』に連なる、消費と浪費の違い、目的をはみ出す行為の存在を論じる。 非常によく分かる講義だった。 質疑応答も実りの多いものだった。
4投稿日: 2024.02.05
powered by ブクログ・とてもよみやすい ・"贅沢はそもそも目的からはみ出るものであり、それが贅沢の定義にほかならない" →目的を見失ってしまうことや手段が目的になってしまうこと,手段に没頭することを悪しきものとせず,これを自覚したらその瞬間をもっと大事にしよう.それこそが贅沢なのだから. →合理的な目的設定,最短・経済的・効率的な手段だけを執行する生活は息が詰まりますな.ゲームに没頭しフロー状態に入っている瞬間に幸せを感じるのは,ある目的から逸れ,寄り道をしていることを,それ自体を無自覚になるレベルで行えるからではなかろうか. まさに"行為は目的を超越する限り自由” 消費:記号や情報の接種.上限がない.いくら求めても満たされない. 浪費:上記に該当しない行い.有限.お腹いっぱいになれる. あらゆる行動が消費性を帯びてしまった現代では,浪費だけで生きることは難しい.それでも「今自分がしようとしていることは,本書の定義上の消費か?浪費か?」と一歩立ち止まって考えるだけで消費に振り回されない暮らしに近づけるんだろう. ======================= "ものすごく遠くにあるボンヤリした関心事とものすごく近くにある課題を大切にする。その間のことはなかなか思うようにはならないと分かっておく" コロナ禍、江戸時代の日本、監獄、ベルリンの壁 →"移動の自由" コロナ危機への人類の反応に対する哲学者の警告 ・死者への敬意の忘却/生存にのみ価値を認める社会への違和感 ・移動という自由の根源的要素に対する制限を人類が受け入れている異常性 ・法なき行政執行という例外状態 行政とは:法律で決められたことを執行する機関 建前上,行政は立法に従属する しかし実際は個別具体的な問題に関する決定は立法だけではできないため行政が行う. 閣議決定も”行政”.ここで決まったことにあれこれ騒ぎを立てるのは立法なき行政の受け入れ=例外状態の受け入れ 例外状態の最悪の事例が「ナチス」 全体主義の起源 キリスト教のような信念を抱くべき対象がなかった 大義がないからプロパガンダも簡単にインストールできてしまう なぜ哲学は必要か?→社会にとっての「虻」 死者との交流→葬儀,お盆,お墓 人々が遺していったものを大切にする精神 ガンジー 「あなたのすることのほとんどが無意味であるが,それでもそうしなくてはならない.世界を変えるためではなく,世界によって自分を変えられないようにするためである」 浪費→有限、物が対象、はるか昔から存在 消費→無限、観念や記号・情報が対象、20世紀に登場 "僕らは浪費家になって贅沢を楽しめるはずなのに、消費者にされて記号消費のゲームへと駆り立てられている。" 産業革命・農業革命によりイギリスの食文化は破壊されご飯は美味しくなくなった→贅沢の破壊 ハンナ・アーレント 「人間の条件」 "目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義に他ならない" 筆者 "贅沢はそもそも目的からはみ出るものであり、それが贅沢の定義にほかならない" 目的なき手段、純粋な手段 ハンナアーレント 行為は目的を超越する限りで自由
0投稿日: 2024.01.26
powered by ブクログちょっと忘れ去られてしまったコロナ禍の自粛、不要不急など国家によって自由に行動することに制限された人々をもう一度思い出しながら、当時たたかれた哲学者アガンベンの「伝染病の発明」の解説から始まります。 当時、感染者を増やさないための政策として行動の自粛や不要不急を呼びかけて当たり前だと思っていました。 人間が生き延びることは、言うまでもなく大切なこと。しかし、ただ単に生存していることで良いのか。宗教的要素もありますが先人たちが積み上げた価値も含めて考える文化や歴史、敬意もなく、ただ単に生存だけで人間は生きていけるのかを考えさせ、分かりやすく解説。 ここには書かれていませんでしたが、もしかしたら人間は生存し続けるために生きているのではなく、常に自由でいるために生きている。と言うとスッキリするのかもしれませんね。 その自由は常に国家によって制限があるようです。三権分立の立法、行政、司法の関係も、簡単に自粛制限したり不要不急を呼びかけが当たり前になれば徐々に行政の言いなりになり、中学校で習った三角の形をした三権分立は行政→立法→司法のような一列の形に変わってきてしまうのでは。(だから安倍派の萩生田氏や二階氏をそう簡単に逮捕出来ないのかもね。) 人間はその自由を目的として行動をしている、とするとその目的とは何か。 中盤から本のタイトルらしい内容になりました。 手始めにグルメブームで例えると食べることが手段、snsにアップすることが目的だと、浪費ではなく消費であり、贅沢に当てはまらない、つまり自由とは言えない。何となくわかる。 ハンナアーレントさんの言葉を紹介して、 「目的とはまさに手段を正当化するもののことであり、それが目的の定義にほかならない」は約65年も前のこと。目的の本質とは手段の正当化という意味らしいのですが、つまり目的を立てて贅沢をしようとしたら、それは贅沢ではなくなってしまう。贅沢はそもそも目的からはみ出るものであり、それが贅沢の定義に他ならないようです。 その目的の概念に対してアーレントが「少年キム」の児童書を参照しながら、自由の概念について定義していました。 結局、目的の概念を知らずに人間が生きていると、贅沢の味わいや豊かさ、本当の満足度は上がらない、ということが良く分かりました。読んで良かったです。 自由でいるためには選挙も大事ですが、別のやり方で政治や行政を動かすことが出来る新しい民主主義も目指したいですね。 國分功一郎さんの文章は常にスッキリ感を味わえるのが、いつも楽しみです。
7投稿日: 2024.01.10
powered by ブクログ消費社会は贅沢を避けようとする。贅沢を避けようとするのは「もったいない」と思っているからではなく、全てを目的と手段に閉じ込める消費社会の倫理を徹底するため。 ワタシは贅沢を適度に取り入れられる状態でありたい。
0投稿日: 2024.01.03
powered by ブクログ大学での講演2本をまとめたもの。 暇と退屈の倫理学を政治的な側面から考察したものと捉えられる。 序盤、学生に向けたメッセージが印象に残る。 将来への不安に対して、目の前のことに懸命に取り組むことと遠い未来を漠然とでもイメージしておくことの2つが大切であるという。 近い将来の出来事は思うようにいかないことが多いから、それに一喜一憂せず、その時やるべきことに向き合うこと。 そうすると想いもよらない能力(自分への理解や他者との付き合い方など)が身につく。 一方で遠い未来にどうありたいかを考えることで、大きく道を外すことも減らせる。 たとえば、何かを成し遂げたいとか、何かを本質的に考えていたいとか、具体的でなくて良い。 目的と手段、を軸とした考察はコロナ禍の状況に対するアガンベンによる批評から始まる。 不要不急の外出を避けるなどの様々な制限を抵抗なしに受け入れる風潮を批判している。 全てを合目的的に考えてはいけない。 余剰の部分こそが人間的な生につながる。 その点が暇と退屈の、、、でいう「贅沢」の理論とリンクする。
0投稿日: 2024.01.01
powered by ブクログ『暇と倫理の論理学』の続き。 コロナ禍で國分先生が考えたこと、現在進行中で考えていることについて、大学生・高校生への講義として話したことがまとめられている。 目的が幸福を奪っている?
0投稿日: 2023.12.27
powered by ブクログアガンベン 死んだ者たちへの敬意の喪失は、歴史への畏怖の喪失へとつながり、これまでに先人たちが積み上げてきた価値への無関心へとつながるのではないでしょうか。 移動の自由が認められることが支配されないための最低条件 現代社会では、生存だけを取り出して、「精神的な生の経験」無しの「身体的な生の経験」を考えることが当たり前のようになってきている。 例外状態の最悪事例、ナチス。 権利は一度捨ててしまうとなかなか取り戻せない 日本の自粛警察、相互監視体制 オープンが加速すると批判的精神が薄まる 政治とは、話すこと 何かを信じる。それを軸にしないと影響されまくる。 自分より以前に死んだ人がいるということに実感を持てなければ、今この世の中で大切にされているものをどうして大切にしなければならないのかは分からないでしょう。 死者の権利 追悼よりも供養 死者を中心に想いを馳せる 哲学者は社外の虻 ★グレタさんは哲学者なのでは? 浪費(限界を超えて物を受け取ること)には終わりがあるが、消費にはない。 対象がものではないから。 →浪費こそが目的からの逸脱 何もかもが目的のために行われる状態とは、すべてが目的のための手段になってしまう状態として考えることができます。 =目的という概念の本質は手段を正当化するところ 全体主義が求める人間は、いかなる場合でも、「それ自体のために或る事柄を行なう」ことの絶対にない人間である。だから芸術のための芸術も許されない。もちろん、食事のための食事も許されない。 政治は本来管理ではない 身体がないからSNSは炎上する 目的を理由に言い訳をすることがない
0投稿日: 2023.12.10
powered by ブクログ『暇と退屈の倫理学』の続編的なもの。大学の講話が話し言葉で掲載されているのでとても読みやすい! 私は考えるのが好きなので考える本を読んじゃう。それが楽しくて目的は特にない。國分さん、もはやファンです。
1投稿日: 2023.11.12
powered by ブクログ『暇と退屈の倫理学』よりもさらに、わかりやすくて面白かったです。 コロナ禍に自分が考えていたことを振り返るのにちょうどいいきっかけになりました。 これからはもっと「考えること」を大切にしていきたいと思いました。
1投稿日: 2023.10.22
powered by ブクログ自分であり続けるために 考えること、すること、を放棄しないでい続けたい --- ものを考える中でチクリと刺したり、チクリと刺されたりということが起こってほしい あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためではなく世界によって自分が変えられないようにするためである 動機づけや目的が重要な要因ではないというわけではない。それらは行為の個々の局面を規定する要因であるが、こうした要因を超越するかぎりでのみ行為は自由なのである
1投稿日: 2023.10.17
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
高校生、大学生向けに話された2つの講話と質疑応答。コロナ禍で個人の自由が大きく制限されたことを問題視した哲学者が非難を浴び、緊急事態を名目にした自由の制限が人々に簡単に受け入れられ、何らかの目的のために必要とされること以外の人間活動が「不要不急」と切り捨てられる状況は、非常事態の特殊な事例ではなく、そもそもが資本主義消費社会の本性。消費社会の中で貧しい生活を送らず、人生を豊かにする「浪費」が大切ではないかという仮説はなるほどと思わされた。もやもやとする状況の分析と論の進め方が明晰、質問の回答内容も誠実で、哲学系の人が書いた本とは思えないほどわかりやすく面白い。
3投稿日: 2023.10.11
powered by ブクログタイトルからは何の本かわからなかった。 今はコロナも5類になり、行動制限も緩和、というかなくなったに等しい。 が、緊急事態宣言下、我々は政府の試行錯誤の政策で、学校の全面休校、 夜の街の制限、移動の制限等、思い切り行動制限を受けた。 コロナ禍の影響度合いがわからぬ中、やむを得ない措置であったといえるが、 ここで考えよ、と著者はいう。 唯々諾々と、無批判にこれを受け入れていいのか、と。 コロナ禍で亡くなった方は遺族に送られることも許されなかった。 それでいいのか、と。アガンベンという哲学者の言葉を引用しつつ語っている。 幸い自分はコロナ禍の影響はたいして受けずにすんだが、 それでも安倍政権の瞑想には閉口したものだ。試行錯誤はやむを得ないとしても、 その政策の無神経さはいかんだろう、というものがあった。 我々市民は任せてはいけないのだ。宮台真司さんのいう「任せてブーたれる」 ではなく、引き受けて考えなくてはいかんのだ。自分で考えないと。 なんだか考えない世の中になっている気がしてならない。 この本はそれに対する警鐘だ。 幸い?この新書は講義で、高校生もZOOMで聴講し、鋭い質問を著者にしている。 未来は明るい、と信じたい
1投稿日: 2023.10.09
powered by ブクログ本書は哲学者である著者の講演をベースにしてまとめられた書籍です。講演録なので基本的に読みやすいですし、色々と考えさせられることが多かったと思います。第1部ではイタリアの哲学者であるアガンベンの主張を取り上げます。コロナ禍のような例外状態によって、いかに我々市民が易々と権利や民主主義を放棄してしまうのか、行政権力が立法を超えて強力になり、ひいてはナチス政権のようなものを、我々市民が作り出してしまうのか、といった話になります。この話で印象に残ったのは、「死者の権利」という概念、「移動の自由」の重要さ、そして常態化する危機による民主主義の弱体化です。最後の点について著者は、「現代においては、恐ろしい独裁者が出てくるよりも、もっとマイルドな仕方での支配が行われる可能性が高い」と述べていますが、私はAIもしくはアルゴリズムによって支配される世界を想像しました。我々市民が「AIに判断を任せておけばいいじゃないか」といってある意味自主的に意思決定を手放すような世界です。 後半は目的、手段、遊びをテーマにします。目的は手段を「常に」正当化する、というアーレントの主張をベースに、目的が人間の自由を制限していると述べます。そして消費と浪費の違いについての話になって、消費は目的があるが浪費は目的を持たない、資本主義は人々に消費を促していて、人間の自由の制限だという論が展開されますが、ここは同意できませんでした。資本主義にとって、浪費は大変ありがたい存在であり、できるものなら市民全員が浪費してくれれば良いと思っているはずです。むしろ資本主義で起こっていることは、生産者から消費者へのパワーシフトであり、生産者としては、いかに「不必要なもの」に意味を与えて浪費してもらうかに腐心しているわけです。 しかしいずれにせよ、著者が主張するような目的を外れた行動の大事さについては同意します。ただ本書を通じて思ったのは、目的というのは「ある」「ない」の二元論ではないのだろうなということです。おそらく企業の利益最大化のように、かなり明確に目的が設定されているものから、無目的な行動の間に多くの中間的な「目的があるようでないような」状態があり得そうだということです。つまりスペクトラムとしての目的があるのではないかというのが感想でした。
0投稿日: 2023.09.22
powered by ブクログ人生の目的が「幸福になること」だとすれば、抵抗するのは殆ど無理だろうし、結果的にすべての行為は手段化するように思えるが、それすら超越すべきということになるのだろうか?
0投稿日: 2023.08.27
powered by ブクログ「暇と退屈〜」以来のファンであることからジャケ買いした一冊であった。またしても著者の思惑にハマってしまった。 「目的への抵抗」というタイトルからは思いもしなかったが、「科学のための科学」という考え方がどの程度世論に受け入れられるのか、段々と自身がなくなり出していた自分にとって、思考の土台となる内容だった。ここから自分なりの考えを深めていきたい。 一生懸命に何かを考えている人の一生懸命に触れると、自らも負けじと考えたくなる、自らを奮い立たせられる一冊でもある。
1投稿日: 2023.08.18
powered by ブクログ講話録ということでとてもわかりやすかった。暇と退屈の倫理学の解説も、改めて理解が深まった。目的に従属的な消費より、行為自体のための浪費をしよう、それが人間本来的な幸福な生き方のひとつのあり方、という話。一つのあり方というのが大事。全てを帰そうというのではない。考えてみたいのは、資本主義、貨幣経済が必ずしも消費だけを促すわけではなく、コンサートとか芸術とか、浪費も貪欲に取り込んでいること。資本家に促される浪費とは、どういう位置付けができるのだろうか。あと、当初あった目的を超えていく行為とはどんなものか。 面白い。これからの生き方を考えるヒントになる。
1投稿日: 2023.08.14
powered by ブクログ「暇と退屈の倫理学」で指摘した「楽しむ」ということの重要性。 人間は自由を求めているようでいて、自由になると暇になり、暇になるから退屈する。だから暇を嫌い、自由を拒否する。ここで忘れられがちなのが「楽しむ」ということ。広い意味での勉強をして楽しみ方を学んで、楽しめるようになることが暇の過ごし方だと國分功一郎は言う。 さて本書である。 その楽しみが、何かの目的のためだったとしたら?それは「目的の手段」となり、「楽しみ」ではなくなってしまうだろう。 ハンナ・アーレントの言葉を引用して作者はこのように持論を展開する。 「目的として定められたある事柄を追求するためには、効果的でありさえすれば、すべての手段が許され、正当化される。こういう考え方を追求してゆけば、最後にはどんな恐るべき結果が生まれるか」(『人間の条件』) 目的の本質はまさしく「手段の正当化」にある。 何だって目的遂行のためには許されるのだ。 目的とは、そういう性質をもったものだ。 またこうも言う。 「全体的支配はその目的を実際に達しようとするならば、『チェスのためにチェスをすることにももはやまったく中立性を認めない』ところまで行かねばなら」ない。つまり、全体主義が求める人間は、いかなる場合にも「それ自体のためにある事柄を行う」ことは絶対にない。 全体主義は一つの目的遂行のために人間を動かす。 全体主義の元では、芸術も目的のために存在するものである。芸術自体を目的として楽しむなんてことは許されない。 おそろしや。 チェスの引用だったが、この引用の部分で、藤井聡太くんを思い出した。藤井くんは目的のために将棋をやっているか?いや、もちろん違うだろう。結果として七冠や八冠を得ようとも、ただただ楽しいから将棋をしてるに違いない。 大谷翔平だってそうだろう。二刀流を史上初で達成するという名誉やタイトルのために野球をやってるんじゃないよなあ。楽しそうだもんなぁ。二人とも。 目的から解放されているからこそ楽しいのだし、我々も彼らの清々しさから楽しみのお裾分けを気持ちよくもらえていると言うわけだ。 結果として充実感を得ることと、充実感を得ることを目的として何かをするのは、大きく異なる。 確かに確かに。 この本でも例として挙げられている学校の文化祭もそうだ。本当に彼ら彼女ら楽しそうに一生懸命やるよね。受験勉強も放っておいて笑 ああ、無駄なことを楽しむって、なんて人間的! そういえば、谷川俊太郎の「生きる」という詩にも。 生きるとは「ヨハンシュトラウス」であり、「ミニスカート」であり、「ブランコをこぐということ」であると。 先達たちはとっくに知っている。大事なことを。 「目的への抵抗」という表題の意味が読み終わって腑に落ちる気持ちよさ。 大いに「浪費」し贅沢を楽しもうと思う。
23投稿日: 2023.08.06
powered by ブクログ目的を達成するために選ばれた手段が何よりも正当化・重要視されると、手段の運用にあたり、個人の自由を軽視して良いことになっていないか、立ち止まって考える本でした。目的を達成したいのであって、手段を守りたいのではない。目的を達成するために個人で判断できるはずだった余白、遊びの部分を制約されない社会活動を送りたいと思いました。
1投稿日: 2023.07.29
powered by ブクログ2023.14th 前半はコロナ禍での権利制限について、三つの論点が提示されています。①価値があるのは生存だけなのか?②死者の権利(葬儀の権利)を蔑ろにしていいのか?③移動の自由の重要性を忘れていないか?の3点です。その上で、著者は権利制限けしからん!と主張する訳ではなく、提示された論点を踏まえてちゃんと考えようね?!と問題提起しています。 後半は合目的性について。目的は手段を正当化するもの、人間が人間らしく生きていくためには目的から自由なそれ自体が目的である行為(芸術とか高級な食事とか)が必要だと言っています。 かなり要約するとこんな感じかな?前半後半共通してテーマにされているのは、考えることの重要性だと思います。別に現代の社会のあり方を否定するのではなくても、多角的に考える習慣は大事ですね! たまにはこういった本を手に取るのも考える良いきっかけになりそうです(^^)
1投稿日: 2023.07.24
powered by ブクログ第一部において、コロナ禍におけるアガンベンの問題提起という事例を通して哲学の役割について考察し、第二部において、これまたコロナ禍における''不要不急''の排除という事例を通して「目的」「手段」「遊び」と人間の自由との関係性について考察しています。講和という形式で語り口もやさしく、読みやすいですが、折に触れてアガンベン、アーレント、ベンヤミンの言説の解説なども交えながら、内容はしっかりと論理立てて組み立てられており、さすが國分先生だなと感じました。
1投稿日: 2023.07.20
powered by ブクログ哲学を思考の軸としてコロナ禍を論評した本作は『暇と退屈の倫理学』の続編として読むことができる。 コロナ禍での政府対応については、誰もが自分なりの意見を持っていると思われるので、冷静な著者の見解に触れる意義は大きいと思う。 個人的には「不要不急」についての考察が出色だと感じた。
5投稿日: 2023.07.17
powered by ブクログ近くにある課題と遠くにある関心ごとを考えることが大事。その中間領域にあるものはだいたい上手くいかないから。 あなたがすることのほとんどは無意味であるが、それでもしなくてはならない。そうしたことをするのは、世界を変えるためでではなく、世界によって自分が変えられないようにするためだある。 マハトマガンジー ボールドリヤール 浪費は生存のための必要を超えた支出の享受。言い換えると限界を超えてものを受け取ること。浪費は満足をもたらす。満足すれば浪費は止まる。例えば、十二分にしょくじをしてまんぞくひたら、お腹がいっぱいになって食事は終わる。つまり浪費には終わりがある。 一方で消費には終わりはない。なぜなら浪費の対象がものであるのに対し、消費の対象はものではない。消費は観念や記号を対象とするものだから。 たとえば流行してるお店に行くこと。そこで人が受け取っているのはモノそのものではなくて、あのお店に行ったという観念だから。だからいつまでと終わらない。 楽しんだり浪費したり贅沢を享受したりすることは、生存の必要を超えでる、あるいは目的からはみ出る経験であり、我々は豊かさを感じて人間らしく生きるためにそうした経験を必要としている。必要と目的に還元できない生こそが、人間らしい生の核心にあると言える。 目的のために行なっている行為(手段)は、それが目的を成すために行なっている限り自由ではない。目的をはみ出して、自分がその行為を楽しんでる時、それを遊びというのか、人は生を感じるんだと思う。最初は目的ありきでも良いし、目的が無くなることはおそらくないのだけど(特に政治とかにおいては)、目的を超えて、思考し、行為し、生きることに、人は人間としての喜びや幸せを感じるんだろーな。でもそれって、きっと目的を達成するために自分なりに全力にやってる時にしか訪れない領域で、まずは目的ありきでも良いと思う。仕事も遊びも、そう。
0投稿日: 2023.06.29
powered by ブクログ暇と退屈の倫理学を読んで何か残ったものがある人は読むべき。 ・コテンラジオで言うところの、宗教OSから国民国家OS,今は資本主義OSへと変遷していく中で、「大きな物語」を信じて生を全うする生き方ができなくなり、個人個人が自分の生きる意味や役割を考えなければいけなくなった(自分は、自分自身が一人で立てなくなった時の「よすが」を自分で用意しないといけなくなったと思っています)。その答えとして、言葉として平易だが「自由を享受する」ことが必要だというのが暇と〜の一つの答えだった。そしてそれを考えるためのアプローチを「自分の頭で考え始める」ことが大事なのだと。 一方で本書は、それだけでなく社会における自分の役割や「信じること」の大切さについても言及されており、新たな視座を得られたと思う。 ・改めて「浪費」と「消費」を区別することの大切さ。そして消費は目的へ還元するものであり、目的に振り回されないことが大事。 ・政治と行政管理の区別。前者は政治家、後者は官僚。ここを区別して、民衆が着目すべきは「政治」。ここが一緒くたに議論されている現状は肌感ともマッチする。 ・目的から自由である行動を忘れた時、人間は目的のためにあらゆる手段とあらゆる犠牲とを正当化することになる(ナチス、コロナ) ・行政は目的合理的だが、政治も含めてあらゆることがそこに還元されることに警戒しないといけない。 ・「目的のために手段や犠牲を正当化すると言う論理から離れることができる限りで、人は自由である。人間の自由は、必要を越え出たり目的からはみ出たりすることを求める。その意味で、人間の自由は広い意味での贅沢と不可分だと言って良いかもしれません。そこに人間が人間らしく生きる喜びと楽しみがあるのだと思います。」
1投稿日: 2023.06.24
powered by ブクログ面白い。 講義、生徒との対話がまとめられているので読みやすい。 主題はもちろんだけれど、哲学的思考に触れられるのが面白い。 引用されているガンジーの言葉が残った。
2投稿日: 2023.06.10
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
全体 読み物としてはわかりやすい →途中、読みきれないところもあったけど 学生への講義方式だから言葉は簡単に書いてる それでも、内容が内容だけに咀嚼が必要とも思える 國分功一郎先生の考えが面白いので少し他のも読んでみる 前半 考えること、疑うことを辞めてはいけない 死者を敬うことよりただ生きることが優先された 移動の自由ってとても価値の高いこと それを制限することは刑罰やベルリンの壁崩壊するパワーにもなるうる ブラック企業とかから逃げられないのも自由がないから もはや科学は疑ってはいけない宗教とかしてきた 行政は法を運用する場所で、法は万能ではないから、様々な解釈がある そこを実態と擦り合わせるのが行政 コロナ禍のときのように根拠となる法律が曖昧なときに行政に任せすぎると三権分立が歪み、行政の独裁になっていく だからこそ、根拠はなぜなのか、しっかり考えて正しいことをしていくのか監視しないといけない 立法する人達は選挙で選べるが、行政は首長しか選べない →民主主義なようでそうでもないのかもしれない →俺としてはそこまで考えたくないから、任せてしまうし、自由を手放したくなるのではないか 自由って毎回選択を迫られてすごく疲れることだとも思う 後半 上手く飲み込めず細かいメモできず 目的のないことも生活には大事 コロナ禍の不要不急を経験して、より目的のないものは排除していいよねってなりがち 元々、排除の傾向があったけど、コロナ禍で加速した オンライン授業と対面授業はやっぱり身体の重みが違うし、一緒とは思えない 無駄な遊びをどう残すか 反対活動とかは目的というか同じ目的の仲間と集まりたいから、役割を与えられたいから、ずっと反対することが目的になってしまうことがある →成田とか反基地運動とかかな たしかに、気持ちがいいけど、そこは割り切らないといけない 人間は役割を欲しがるもの 政治というもの真剣に行う遊び、目的のためだけでなく真剣に考えるもの
1投稿日: 2023.06.03
powered by ブクログ会社、ある組織を例にすれば、その組織を良くしたいという目的に対して手段や犠牲を正当化することなく、目的からはみ出て自由であることこそが組織の幸せであり楽しみが見出せる、つまり良くなることなのだろうか。
0投稿日: 2023.05.27
powered by ブクログ対談形式だったので斜め読み。心に留めておきたい言葉はいくつかあった。コロナ危機を通しての社会の在り方や責任、「不要不急」とは何かを問う。コロナで身動きとれない状態になったことは致し方ないが、マスクをしないという考え方など個人の考え方を主張することは大切だという。全く同意。コロナで恐ろしいと思ったのはウイルスそのものではなく、同調圧力や自粛警察、デマからのパニックによるマスクやトイレットペーパーの品薄、孤立による自殺の増加。「命を守る」というキレイゴトで思考停止した人々の行動そのものが恐怖だと思った。 目的という概念の本質は手段を正当化するところにある。まさに現代社会を皮肉った鋭い見方だ。この一言を一度会社で上司に放ってみたい。
1投稿日: 2023.05.25
powered by ブクログ学生相手の講義を元にしているので、読みあたりは良い。ただ平易な言葉で本質的なことを説明しているし、読後に考えさせる内容なので、中身は深い。コロナ禍で自由が制限される中で、前半はアガンベンの言説から考察し、後半が題名の通り、「目的」から自由を説明するためにアーレントを中心に考察を深める。アガンベンの論点から3つ。一つは生存のみに価値を置く社会はどうか、二つ目は死者の権利、三つ目が最も重要なのだろうが、移動の自由。移動の自由の話から日本国憲法、行政権と立法権の関係まで考察が深まる。後半は「目的」に従属することで「自由」が侵害される点を、普段、当たらい前に思っていることを改めて問い直す論点で非常に考えさせられた。「暇と退屈の倫理学」の続編なので、さっそく読み始めた。
2投稿日: 2023.05.20
powered by ブクログアガンベンの「生存以外にいかなる価値をももたない社会とはいったい何なのか?」との問題提起を軸に話は進んでいく。 始めは、なんと!と驚いたが、不要不急の外出は控えるように、となった時に仕方なしと思う反面、なんとも言えない違和感も大きく感じた。 自身が医療者でもあり、コロナ第一線におらずとも、その混乱と働く人の恐怖は容易に想像できた。だからこそ、感染症であり、治療薬がないから、と理屈で捩じ伏せるように納得した。そうした人が多かったからこそ、自粛警察なるものが出現したのかもしれない。 そんなことも思い返しながら、再度このアガンベンの問題提起に戻ると、意図も簡単に納得した自分にもうちょっと考えなさいよ、と言いたくなった。感染症を理由に人の移動、会話を国家レベルで制限できるのだ。制限を個人に委ねる日本に批判も多かったし、実際どうすればいいのだと思ったりもしたが、少なくともそのおかげで真夏にマスクを着用することについて、感染症について、自身が感染症の媒体となりうることについてを考えることができたのも一つの事実。 委ねるにしても、制限するにしても、国家レベルで行えば、大きな問題となる。人々が私のように仕方なしと納得して、従う。そこに思考がなければ言われるがままに、なんでも国家の言うことだからと、言われていることを信じていないまでも、追従してしまう。それがひいては戦争や差別につながるんじゃないかと思い、怖くなる。
1投稿日: 2023.05.17
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
國分先生の本としては平易な整理された文章で、スススーっと読めました。しかし1回読んで分かったつもりにさえなれないくらい、内容としては盛りだくさんで、あと3回は読まないと感想さえ書けないのが本音ですが記録として以下書いておきます。 コロナを軸にして、前半はアガンベンの指摘を解説する形で展開します。行政が例外状態を盾にさまざまな権利侵害を民衆に行ったのに、批判する人はアガンベンくらいだった、もっと違和感を持つべきだよという内容。以下3つの論点があった。 ①生存のみに価値を置く社会(身体性の生のみが人間としての生ではないはず) ②死者の権利(死者がいるから自分がいるという歴史の連綿性なしで考えることの危険性) ③移動の自由の制限(支配とは他者の移動を制限することで成立する) 三権分立で権力の均衡を保つ民主主義が、例外状態では、科学的でスピーディな意思決定を優先することで「リスク」を抑える、という建前で行政府の暴走が簡単に許されてしまう。という問題が顕になったと。ナチスドイツが誕生したのも同じ流れだったと書いてあり、怖かったです。まさに今の日本は同じ流れですね、、 後半は難しかった、、 コロナで不要不急というワードが多用されて、研究開発という不要不急の代名詞みたいな仕事の私はずっと肩身が狭いような気がしていたのですが、それが少し解毒されました。 不要不急ではない→必要なこと→合目的な行為→どんな手段でも正当化されうる=目的とは手段を正当化するために置かれる、というアーレントの指摘がなるほど、と。ビジネス書定番の、手段が目的化してないか常に意識せよ⭐︎、に回答出たなと。むしろ手段を行使したいがために目的なるものを置いて正当化するのが人間やぞと。平和は戦争という手段を正当化するための目的、とも言い換えられてて恐ろしいなぁと。しかしプラトンやアガンベンはそれじゃダメよと言ってると。難しいので先生自身が最後にまとめに書いてあるところを抜粋します。 「目的合理的な活動が社会から絶対になくならない以上、そのような懇願(無駄なことも必要)には意義があります。しかし、重要なのは人間の活動には目的に奉仕する以上の要素があり、活動が目的によって駆動されるとしても、その目的を超え出ることを経験できるところに人間の自由があるということです。〜人間の自由は広い意味での贅沢と不可分だと言っても良いかもしれません。そこに人間が人間らしく生きる喜びと楽しみがあるのだと思います」 國分先生の実際の講話を起こしたものなので、質疑応答も載ってるのですが、レベルが高すぎて目が点になりました笑 哲学系の人は就職厳しいらしいですが、みんな政界に入ってくれたら日本良くなるのでは、と夢想するくらいのレベルでした。以上。
1投稿日: 2023.05.14
powered by ブクログp22 哲学というものを勉強すると、世の中に溢れている紋切り型の考え方から距離を取れる p36 意見を述べることと、問うたり考えたりすることは別です。もちろん、意見を述べることが問うことや考えることにつながる場合もありますし、それはとても望ましいことです。ですが、意見を述べ、ある事象について反対か賛成かの態度表明をすることが、それ以上ものを考えるのを妨げてしまう場合がしばしばあります。 p37-コロナの三つの論点 ①生存のみに価値を置く社会 ②死者の権利 ③移動の自由 p81 三権といっても一つ一つ性質が全く違うということです。 p136 浪費は生存のための必要を超えた支出の享受を意味しました。ー浪費は満足をもたらします。そして満足すれば浪費は止まります。ーところが、消費には終わりがありません。なぜか。浪費の対象が物であるのに対し、消費の対象は物ではないからです。消費は観念や記号を対象とするのだとボードリヤールは指摘します。 p144 必要と目的に還元できない生こそが、人間らしい生の核心にあると言うことができます。
1投稿日: 2023.05.14
powered by ブクログ自由は目的に抵抗する。目的は手段を生み出し、目的の手段化は目的の本質的性質なのである。目的なきところに遊びや自由がある、という、別の視点を考えられるようになった
1投稿日: 2023.05.12
powered by ブクログ目的を(こんな言葉は使われていないが)生真面目に・コスパだけを追求してこなすこと。そうした姿勢から確実に失われるもの・奪われるものはある。逆に言えばそうした目的意識とは無縁に「遊び」の心を持ち続けてふざけてみること。「消費」に徹し楽しむ心を持ってみること。それが大切なのかなと思う。これが貶める響きとして聞こえないことを願うが、連想したのは浅田彰的な「スキゾ」や宮台真司的な「意味から強度へ」だった。コロナ禍がはからずもそうした時代を超えた生き方・考え方をあぶり出したと言えるのかもしれない。歴史の皮肉だろうか
1投稿日: 2023.05.10
powered by ブクログコロナ禍で、「移動の自由」や「死者の供養」をあっさりと明け渡した現代社会に警笛を鳴らす よりよく生きるとはなにか そこには決して”目的”や”合理性”など、ない 國分さんの本はいつも、「ああこの人は信頼して良い」と、安心しながら読める。
0投稿日: 2023.05.04
powered by ブクログ前半の移動の自由の話や死者の権利について、このあたり何度か聞いたこともあったのでまだわかりやすかった。質疑応答についても高校生が混ざっていたりするためか、身近な話題も多く読みやすかった。しかし後半はちょっと苦しい。「暇と退屈の倫理学」を僕はどう読んでいたのか。全く理解していなかったのか。贅沢が大事? カロリー補給のための食事ではなく、食事自体を楽しむ。川床で懐石料理を頂くようなことをイメージしてしまうが、誰とどういう状況で食べるのかというのが大事だろうな。目的からの解放。それ自体を楽しむ。「学ぶために学ぶ」受験に合格するためとか、偏差値を上げるためとか、誰かにほめてもらうためとか、そういうものでなく、学ぶこと自体を楽しめればいいと思う。「目標を持ち、目標に向かって努力する」ことが大切だとずっと伝えてきたが、目標なんてなくても、そのこと自体が楽しければ努力は続けられる。そんなことを、僕もあるときから考えるようになっていた。森毅が「楽しいことは伝染する、楽しいことは続けられる」と言っていた。何のために学ぶのかということをずっと考えていて、僕なりの答えは「もっと学ぶために」ということだった。そして、見田宗介の著書で「コンサマトリー」ということばと出会った。「我が意を得たり」と思った。もともと、読書後のレビューを書くのは、職場で校通信に掲載するためであった。しかしそれが30年近く続いて習慣化してしまった。書かない方が気持ち悪い。書くこと自体が楽しい。そのことで、その本の内容がくわしく知れなくても、その本を読んだとき自分が何を感じたかが分かる。だから、ときどきレビューを読み返すのも楽しい。ということで、目的フリーでそのこと自体を楽しみたい。これって、今を生きるということか。未来に拘束されないで生きるということだろうか。うーん、まだまだよく分からない。哲学カフェに参加したい。そして、本気でアーレントを読むべきか。
0投稿日: 2023.04.30
powered by ブクログ高校生や大学生を対象におこなった講話で、かなりわかりやすいものでありながら、日常的に当たり前だと思っていることを揺るがしていくまさに哲学的な視点は実にスリリング。 コロナという今の状況を踏まえつつ、アガンベンやアーレント、ベンヤミンの議論を踏まえつつ、議論が展開していき、なんだかこれまで、わたしも読んだことのある本が多いのだが、そういうふうな読みはしていなかったなと驚くことしきり。 すべてがなんらかの目的に向かっての合理性、合目的性、効率性で語られるようになったこの世界、人間の命の大切さということを強調するあまり、生命の維持以上の価値観が薄れていく社会、こうした当たり前の世界になんらかの違和感をもちつつも、みんなやっているのだからと深く考えないようになっているわたしたち。 しらないうちに、われわれは、新しい全体主義に包まれているのかもしれない。 そして、それに抵抗することは、かならずしも抗議活動をするということだけではなく、なにかちょっと楽しんでみる、心から純粋に真剣に遊んでみる、ということかもしれない。 目的を設定して、そこに向かって努力することが悪いわけではもちろんない。でも、人生って、なんらかの目標達成するためだけのものでもないはず。そんな当たり前のことを大切にしていい。 目的はなくても、経済的に意味はなくても、仕事の間のレクレーションという合目的的なものでもなくて、純粋に、真剣に好きなことを楽しむこと。 それっていいなと思う。
2投稿日: 2023.04.28
powered by ブクログ会社組織で働いていると、売上目標など何らかの経営指標の達成に対して合目的的な活動に自分自身の自由は絡め取られてしまいがちだ。ある意味、それは資本主義というイデオロギーの下では基本ルールかつ至極当然であり、これを疑うことは許されない。少しでも逸脱しようものなら、「非生産的」「非効率的」であると非難され、その会社では居場所を無くしてしまうかもしれない。しかし、こうした暗黙の了解に対してあまりにも服従的であることに、著者はアガンベンの論考を引きながら問題提起をする。コロナ禍で移動の自由を制約する政府の政策を受け入れていたことは、どこかで「仕方のないことだ」と安易に割り切りすぎてしまっていたのではないか。民主主義の歴史に対して、盲目的になりすぎていたのではないか、と。 「目的は手段を正当化する」というハンナ・アーレントの指摘はとても印象深い。タイパやコスパ、不要不急、効率化・生産性──これらの言葉の節々に、すべてを目的化する社会的圧力を感じて止まない。『目的への抵抗』という書名から察するに、安易に新書に解を求める読者への牽制とも言えるのかもしれないが、書名として掲げられている命題に対する期待は少しだけ下回った。
1投稿日: 2023.04.24
powered by ブクログ感想 自由を議論する奢り。次の瞬間を迎えることすら恐ろしい。そんな世界だから人間は自己決定感を求める。目的を作り自分の生を歩むという錯覚。
0投稿日: 2023.04.16
