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「自傷的自己愛」の精神分析
「自傷的自己愛」の精神分析
斎藤環/KADOKAWA
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総合評価

26件)
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    自分事として読んだ。物心ついた頃から自分に対して嫌い/汚い/気持ち悪いと思うことが常で自信がなかった。 そこから勉強、容姿を磨く、その他努力に傾くが、何か達成しても褒められることがあっても自分を嫌いな意識は変わらず認めることができない。 自嘲することで自分を保つ、動かない自分を正当化するというのが凄く共感する。 自己肯定感/自信というワードにもずっと関心があったが、本来のどんな自分でも肯定するという意味と、私の思っていた何か得られたら自分を好きになれるというのは全く違うのだと知った。 本来の自己愛を体現したいと思った。

    1
    投稿日: 2025.10.18
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    『俺はいいけど、YAZAWAはなんて言うかな?』の感情を徹底解説した一冊。 ・自傷的な言葉は自分にも誰にも向けない 「私おばさんだから〜」という自傷的な発言が昔から気になっていたが、それが自己愛の裏返しであったからという分析に納得した。 ・自傷的自己愛を認める社会 「引きこもり」「自傷行為」など、蓋をされがちな社会問題は、“そこにあるもの” としてただ存在を認めれば、当事者にとって少しは生きやすい社会になるのではないか。実際に存在していることは事実だ。 ・自己愛とは not 「自己肯定感が高い」 but 「自分であり続けたい」という感情。

    1
    投稿日: 2025.10.09
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    ついったで見て気になったから借りてきた!面白かったというか興味深かった!! 自己批判を繰り返す人ほど自分と他人の比較や自分の価値について思い悩み、自分のことばかり考えることに忙しい。自傷的自己愛についてな本 個人的に本書の中で定義されてる健全な自己愛を与えてもらえた側の人間なので、生きてきてなんで自分はこんななんだろうとか価値がないとか思ったことはないです。仕事でミスしたらそりゃ凹むし反省はするけど。なので読んでてふむふむが多かったし、友達はこう言う気持ちなのかなって思ったりした。 自分はダメだ〜って自傷的自己愛な人に対してそんなことないよ!あなたは素敵!って言っちゃってたのでそこは一旦相手の意見を受け止めた上で私はこう思うよって言おうと思う。 中井先生の、自分は世界の中心であると同時に世界の一部に過ぎないって一見矛盾した在り方はすごくしっくりきました。 ここで言う「自己愛」とは、自分大好き!ではなく「自分が自分でありたいと思う気持ち」なので注意。 自傷的自己愛について、当事者と思う人もそうでない人も結構おすすめ!!最後の方にはどうしたら自傷的自己愛から少しでも離れられるか〜も載ってます。 【以下長めのメモ(ある意味ネタバレ注意)】 自己愛の発達のもっとも望ましい条件は、青年期や成人期を通じて自己を支持してくれる対象が持続すること。(ex親友や恩師) そうした対象との相互作用が事故愛を成熟させる 自己愛の成熟とはよい「自己-対象」をふやすこと。 76:自己批判を繰り返す人ほど、自分と他人を比較したり自分の価値に思い悩んだりするなどして「自分について考え続けることで忙しい」状態に陥りがち。自分に対する尋常ならざる関心ゆえに「自己愛」 107:若い世代は自分を承認することが苦手 他社の承認に依存しており、自ら自己承認できない 137:自傷的自己愛者はしばしばあえて「他責的で事故中なキャラ」を演じることがある。意図的かどうかはわからないが、そうすることで自己愛を守ろうとしていることは間違いない。 191:安直に高められた自己肯定感は意味がない 自傷的自己愛に陥っている人に典型的な発想として、仕事などの成功などで価値を高め自己肯定を試みることがよくある。が、危険!なぜなら ・高すぎる目標設定が行動を阻む ・実際に達成できても自己肯定感があまり上がらない ・この発想自体が優生思想 202:精神科医の中井先生 健康的な精神のあり方をは、「自分が世界の中心であると同時に世界の一部にすぎない」 中心と一部の両立が大事! アサーション:他者に配慮しつつ自分の言いたいことはしっかりいえる状態 周りのいうことを聞くだけ/自分の主張ばかりするのは成熟した自己とはいえない(50:50が大事) 205:親子関係の中でほどよい自己中心性を育め無かった人・家族以外の対人場面で尊厳を傷つけられてきた人は自傷的自己愛を懐きがち ではどうやって修復すれば?? →安心できる環境でアサーティブな会話を経験すること!それを積み重ねること 219:再度一番基本的なことをおさらい! 「高いプライドと低い自信」が当てはまるなら、その自己否定は確実に自己愛にゆらいする。 ここで大事なのは、自己愛とは自分大好きではなく、自分が自分で有りたいという感情のこと。 自己愛ゆえに今の自分の在り方を受け入れられず、自分自身を否定している。 本来、一人の人間の属性は無数の長所も短所も含まれており、ひとことでイメージはできない。こんな自分は価値がないと断定している時の「こんな自分」は、その人のほんの一部でしかないのにそれを自分の全てと思い込み攻撃することでプライドと自己愛を守っている。 オープンダイアローグはやっぱ効果がすごいらしい 他の精神医学の本でも見かけたな〜

    2
    投稿日: 2025.10.06
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    二次的ナルシシズムの説明が面白かった。 自分自身を他者として発見しなおし、他者のように自分を愛する段階。 赤子は鏡に映った像(虚像)を拠り所に自分の身体イメージと自分が自分であることを統合していく。鏡に映った像=ウソの像であるので人間はウソの力を借りて自分を認知している。   こうありたいと思う自分と実際の自分のギャップから今の自分はダメだと思って、ダメさを永遠と追認していくような回路に陥った時、「これは自分がダメであることを一番よく知る自分」というポジションを自分の中に作ることで自己愛を決定的に損なわないようにしていると客観的に思えるかもしれない。その自分のダメさをよく知る自分というのは、なんだか集合的な承認に即した自分のような気がする。つまり母娘問題でいう母の身体性が言葉によって娘へと乗り移ろうとする際の娘側の苦しみのように、自傷的自己愛は集合的な承認の漠然とした空気が個人を内側から抑圧する際の軋轢のようにも思える。 自己愛の定義が最終的にぼんやりしてしまった印象。自己愛はポリフォニックな状態?なのだろうか。自己愛は何かの配置を説明する言葉ではなく、むしろその配置を生み出す力のことではないかと自分は考える。赤子が鏡に映った虚像を頼りに自分自身を認識していくように、成人でも自分がどういう人間なのか、良い奴なのか、悪い奴なのか、立派なのか惨めなのか、男なのか女なのか、どういう体を持ってるのか、誰が好きで何が嫌いなのか流動的に揺らぐ認知は自己を不安定にする。前は似合っていた服が全然似合わなくなったり。不安定な自己は「こうありたい」という虚像を自己を再編集するための縁にしようと探し求める。その〜しようとする力が自己愛だと思う。そこには修復可能なズレと修復不可能なズレがあるが、問題は修復できないズレをそれでも受け入れて自分として生きる場合だ。自己愛は、その時「ここにいる自分を自分だと受け入れて許せる」「ここにいる自分が自分であることを喜べる」ように修復不可能なズレを折衷させていこうと働く。自分ではなかったものに自分がなり(老いや病、喪失などによって)愛せるものとそうではない部分が変化するということがあるが、それは自己愛の力学が働いているのではないか。

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    投稿日: 2025.09.03
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    自分には自傷的自己愛に当てはまる部分があり、共感できる部分が多かった。 プライドは高いのに、自信はない。能力的には他の人より格段に劣っているとは思っていないが、自分の人間性に自信がなく、褒められても素直に喜べない自分がいることはわかっていた。似たような人がたくさんいることが分かってよかった。少しでも、自傷的でない自己愛を確立していけたらと思う。

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    投稿日: 2025.07.25
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    メモ→ https://x.com/nobushiromasaki/status/1905445234772943322?s=46&t=z75bb9jRqQkzTbvnO6hSdw

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    投稿日: 2025.03.28
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    自傷的自己愛を抱える人が「プライドが高くて自信がない人」というのは分かりやすかった。また、「自己愛」というとどちらかというとネガティブな印象がある言葉だが、自己愛自体は生きるために必要なものであり、それは「自分自身でありたい」という願いなのだということがよく分かった。

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    投稿日: 2025.01.31
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    (2025/01/24 2h) 『スマホ時代の哲学』にて紹介されていたので読んでみた。 同著者の『まんが やってみたくなるオープンダイアローグ』も面白く読んだ。 わたしは引きこもり当事者として、「自傷的自己愛」をもつ傾向があると自覚している。 ただ、より傾向が強かったのは不登校だったときで、いまは気分の浮き沈みに関しても徐々に乗りこなせるようになってきた。 そのため、本書の助言も抵抗感なく受け入れられた。 著者は引きこもり介入のパイオニアみたいなひとなので、不登校や引きこもり当事者がいちばん共感して読めると思う。 ただ、SNSで「自分なんて…」と自己卑下するような投稿をした覚えのあるひとたちなんかも、読むべき。 弱者男性を自称するひと、ちょっとした優生思想を持ってますよってひとも対象になってる。 自己嫌悪と自分が嫌いは違う。 自己愛と自己肯定感も違う。 少しの言葉や生き方の解釈を変えてみると、楽になれるかもしれない。そういう希望がある本。

    2
    投稿日: 2025.01.24
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    「自分が世界の中心であると同時に世界の一部でもある」「他者に配慮しつつ言うべきことは言う」という「健康的な自己愛」を身につけるべきという内容。 全体的に話がやや専門的かつ複雑で小難しい部分もあるが、それだけ一般的に言われている「発達障害」とか「新型うつ」といった様々な「用語」が氾濫し、ざっくりと語られ過ぎているからとも言えるだろう。

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    投稿日: 2024.12.05
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    911 264P 半分読んだ 斎藤環 1961年生まれ。岩手県出身。筑波大学医学研究科博士課程修了。医学博士。爽風会佐々木病院・診療部長を経て、筑波大学社会精神保険学教授。専門は思春期・青年期の精神病理学、「ひきこもり」問題の治療・支援ならびに啓蒙。漫画・映画・サブカルチャー全般に通じ、新書から本格的な文芸・美術評論まで幅広く執筆。著書に『社会的ひきこもり』『母は娘の人生を支配する』『承認をめぐる病』『世界が土曜の夜の夢なら』(角川財団学芸賞)『オープンダイアローグとは何か』『「社会的うつ病」の治し方』ほか多数。 アメリカ精神医学会(APA)の編纂した診断基準である「DSM‐5」によれば、それはこんな人物を指すようです。とにかく自分が重要な人物であるという誇大な思いが強く、さほどでもない業績や才能を過大評価してみせたり、周囲にも称賛を期待するようなところがあります。そんな自分には限りない成功や権力、才気と美しさ、あるいは理想的な愛が与えられるのが当然であると確信しています。それほど特別な自分は同じように特別な人々から認められたり関係を持つことができるはずで、どこにいっても自分は高く評価され、特別な扱いを受けるのが当然であると信じています。だから、いつでも態度は大きく傲岸不遜です。そのぶん他人の気持ちへの共感や配慮に乏しく、自分の目的のためなら相手を利用しても良いと考えています。また、たいへん嫉妬深く、また自分自身もいつも人から嫉妬されていると感じています。 現代の王侯貴族階層というべき「セレブ」界隈には、こういう人がいてもおかしくはないと思います。もっとも、周囲の環境がこうした振る舞いを許容している場合は、環境に適応できているわけですから、診断など余計なお世話、ということになるでしょう。パーソナリティ障害の診断は、その問題ゆえに本人や周囲が困っていることが条件ですから。 ナルシシズムという言葉は昔からありました。性科学者のハヴェロック・エリスが、自慰行為に没頭する女性に対して「ナルシス的」という言葉を用い(一八九八年)、これを読んだドイツの精神科医パウル・ネッケがはじめて自己愛の意味で「ナルシシズム」という用語に言及したとされています(一八九九年)。この論文を読んだジークムント・フロイトが、「ナルシシズム」という言葉を『性欲論三篇』の中で用いました(一九〇五年)。かくして精神分析の創始者であるジークムント・フロイトは、人間心理の説明にナルシシズム概念を体系的に応用したわけです。フロイトは「自体愛」「一次的ナルシシズム」「二次的ナルシシズム」といった概念を提唱していますが、それぞれについて簡単にみておきましょう。 自体愛というのは、まだ生まれたばかりの赤ん坊が、自分と他人の区別も十分についていないような段階で、自分自身の身体に向ける欲動を指す言葉です。指しゃぶりやマスターベーションのような行為は自体愛的な行為、と呼ばれます。 次の「一次的ナルシシズム」というのは、幼児がリビドー(性的なエネルギー)のすべてを自分自身に向けるような、他者がまだ存在しない段階での自己への愛を意味しています。もっとも、最近の研究では、乳幼児がかなり早期から外的対象を認識できるとされており、フロイトの説はだいぶ分が悪いようです。ただ、乳幼児期にこうした欲望の閉鎖系を想定することは、その後のさまざまな病理を考える上で意義があるとする意見もあります。私自身も、後で触れる「二次的ナルシシズム」が「一次的ナルシシズム」から派生すると考える方が、自己愛と対象愛の入れ子状の関係を説明する上で有利になると考えてはいます。 ナルシシズムに浸る人は、幻想に騙されやすいとされています。昨今、世にはびこる荒唐無稽な陰謀論を信じてしまう人もまた、強烈な自己愛の持ち主だと思われます。マスメディア報道に見るような標準的社会理解に囚われない自分でありたい、という思いは、自己愛そのものです。人は、安直に自己愛を満たす手段に走りがちです。この点については後でも触れます。 さて、未成熟な自己は、「野心」と「理想」の二極構造であると述べてきました。しかし現実世界を生き延びるには、それだけでは不十分です。エンジンとゴールは人を動かすでしょうが、正しくゴールを目指すには、さまざまなスキルが必要となるからです。たとえば母親のような人間になりたいと願ったとしても、そのためには社会に参加し、他者とコミュニケーションを重ね、さまざまな知識や技能を習得する必要がある。そういうスキルを与えてくれるのは、友人や知人、先輩や教師といった「自己─対象」ということになります。なぜ家族はスキルを与えられないのか。典型的には「性愛」があります。性愛のスキルを家族が与えることはできません(「性教育」とは異なります)。それは必然的に、家庭の外で、家族以外の他者から学ぶべきものです。 人がひきこもってしまうことについて、私が一番危惧するのは、実はこの点です。家族以外の他者との接点を持たないことによって、人は生きる上で必要な「スキル」を獲得する機会から遠ざかってしまうのではないか。「そんなものはネットがあれば学べる」という考え方もあるでしょうし、確かにそういう形で補える場合もあるでしょう。私が危惧するのは、ここで想定されているスキルというものが、単なる知識や手続きとは異なると考えるからです。 もともと私は「〈家族以外の対人関係〉なくしては人間の成熟はあり得ない」と考えていました。別に「人はすべからく成熟すべし」と考えているわけではありませんし、成熟せずに生きられる社会は良い社会であるとも考えています。ただ、この社会には成熟によって避けられる苦痛がたくさんあるとは考えています。長期にひきこもってしまった人が成熟から遠ざかっているように見えるのは、まさに「家族以外の対人関係の欠如」ゆえではないか。そのことに起因する成熟困難が、当事者を苦しめている可能性はないか。ひきこもることそれ自体を問題視したり病気扱いしたりすることは間違いですが、それとは別に、こうした視点はもう少し維持しておきたいと考えています。 松本俊彦氏らによれば、自傷は死に至る行為ではありますが、自殺企図ではありません。むしろ自傷は、少なくともその初期においては「死なないため」の手段とされています。自傷経験者はしばしば「切るとすっきりする」と言いますが、自傷には不安やいらいら、緊張などを解放するためのガス抜き的な効果があることがわかっています。自傷の瞬間にはエンケファリンと呼ばれる脳内麻薬が分泌され、それが心の苦痛も緩和してくれるというメカニズムも知られています。 また自傷行為には、周囲に自分の苦しい状況をアピールするための援助希求行動という意味もあります。ただ、何度も繰り返すうちに周囲も無関心になって本人が孤立していき、その苦痛をやわらげるためにさらに自傷が習慣化する、という悪循環が生じがちです。こうした悪循環が最終的に自殺既遂に至ることが非常に多いため、「自傷は死に至る行為」と呼ばれるのです。 先ほども述べましたが、自己批判を繰り返す人ほど、自分と他人を比較したり、自分の価値について思い悩んだりするなどして、結果的に「自分について考え続けることで忙しい」状態に陥りがちです。この、自分に対する尋常ならざる関心ゆえに、私はそれを「自己愛」と呼ぶのです。それはともかく、自己批判的な人ほど、他者からの好意や愛情に対して鈍感になりやすく、また好意に気づいても自分で否定してしまいがちです。まして他者を愛したり好きになったりといったことは、いっそう困難になってしまいます。社会的には成功していながら自傷的自己愛を有すると思しい女性を何人か知っていますが、美人で聡明な彼女たちは一様に「自分がモテている」ことについて驚くほど鈍感か、無関心でした。この傾向はかなりの程度、一般化できるように思います。 このことと矛盾するようですが、自傷的自己愛を持つ人が、他者から向けられた好意を過大評価してしまい、その相手に強く執着してしまうこともあります。特に異性関係においては、「こんな自分でも愛してくれる貴重な他者」として過剰に執着し、相手が自分の期待に応えてくれないと、逆に激しく攻撃したり、ストーカーめいた振る舞いに陥ってしまう場合もあります。 就職が「承認のため」というのは、こういうことです。望む職業に就くことで、友人知人から「すごい」と評価されること。そればかりではありません。恥ずかしくない就職に成功することで、同世代の友人たちから見放されないという安心感、合コンを含め異性関係の獲得に有利になること、そして結婚し家庭を持つこと……これらすべてが「承認強者」の条件となります。実際にはこうした懸念の大半は杞憂で、多少条件の悪い職場に就職したからといって友人から見捨てられるなどということはそうそうないのですが、承認に依存してきた人にとっては、そうなるとしか思えない。周囲からあまり評価されない(と予想される)仕事に就くことは、たとえそれで食べていけたとしても、十分な承認が得られないだろうという予期ゆえに、自己愛は大いに傷つくでしょう。その結果、友人たちは何とも思っていないのに、自分から友人を遠ざけてしまう人も少なくありません。こうした状況下では、社会的評価の高い会社(職業)に、回り道をせずに就職できるかどうかが、誇張ではなしに死活問題になるのです。

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    投稿日: 2024.06.18
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    あなたが他者をむやみに否定しない倫理的理由があるのなら、全く同じ理由で自分自身も否定しないでほしい。 あなたに自分を否定させているのは、あなた自身の価値観というよりかは、世間的な価値観や同調圧力といった要素。 自分自身でありたい気持ちこそが自己愛。 本来1人の人間には無数の長所も短所も含まれていてそれを一気にイメージすることはできない。 あなたの尊厳はあなた自身が守るべきだ。 成長や成熟は、自分自身でありたい気持ち、自己愛を大切にすることからこそもたらされる。

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    投稿日: 2024.05.02
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    大学の先生が書かれた本ということで拝読。 ✏こういう場合の「正解」は、いわゆる「アイ・メッセージ」、「あなたが自分を責めたい気持ちはわかったけれど、私は同意はできないよ」と言うことです。 ✏繰り返しますが彼らは、「自分がダメであることに関しては、誰よりも自信がある」ので、その自信までも否定され傷つけられたくないのです。こういった人々は、自己愛が弱いのではなく、むしろ自己愛が強いのではないか。つまりこれらの発言は、自己愛の発露としての自傷行為なのではないか。その根拠の一つとして、彼らが自分自身について、あるいは自分が周囲からどう思われるかについて、いつも考え続けているということが挙げられます。 ✏この社会には成熟によって避けられる苦痛がたくさんあるとは考えています。 ✏コフートによれば、自己愛の発達のもっとも望ましい条件は、青年期や成人期を通じて自己を支持してくれる対象が持続することです。特に青年期には、たとえ一人でも、無条件で支持してくれる人の存在が重要です。 ✏自傷的自己愛の一番わかりやすい構造は、この「高いプライドと低い自信」というギャップです ✏万能感はその本質からして開かれた幻想なので修正機会がありますが、無力感は徹底して閉じた幻想なので、修正がきわめて難しい。つまり自傷的自己愛は、徹底して閉じているという点で、もっとも完結した自己愛と考えることもできます。 ✏別にキャラいじりをされたわけでもいじめられたわけでもないのですが、「そう思われているだろうな」という思い込みだけで、その経験はトラウマ化するようです。 ✏「同一化」とは、簡単に言えば、母親が娘に「自分の人生の生き直し」を求めることです ✏健康な自己愛こそは親が子に与えうる最上のプレゼントではないかとすら思います。ここで私が「親」というのは、「子どもの身近にいる人」という意味なので、必ずしも母親であるとか肉親を意味するわけではありません。いかなる家庭環境でも健康な自己愛を与えることができますし、あえて言えば「コスパ」も最高です。成人してから自傷的自己愛の修復にかかるコストを考えるなら、健康な自己愛を育む価値はいくら強調してもしたりないほどです。 ✏ 母との関係に問題があると気付いた娘が、こうした母娘関係から自立するには、どうしたらいいのでしょうか。先述の著書で私が提案した解決策は、第一に「問題の存在に気付くこと」でした。私がほとんど極論のように「すべての母は毒母であり、すべての母娘関係は支配関係である」と主張しているのは、かなりどぎつい表現を用いないと、当事者にこの問題に気付いてもらえない、という危機感があるからです。 ✏問題の存在に気づいたら… ①母親の権威を相対化する。母親は娘のあなたにとって特別な存在だけど、その前に一人の不完全な人間であることを理解する。結婚前の話を聞くのもおすすめ。 ②両親の前で一回全部吐き出す。親の何が嫌だったか繰り返し語っていく。繰り返し口に出すことで思いが緩和され関係が修復されることがある。 ✏最も高度に達成された自己愛は透明化する、という考え方もあります。経済的にも養育的にも恵まれた環境の中で育った人の中には、そういう人がいます。自己愛の最も健全で望ましい形は、それが空気のように透明化することかもしれません。もはやいちいち「自分が好き」とすら思わないほど、安定した自意識の基盤になってしまうわけです。 ✏それに比べれば、常に「自分大好き」の人は、いくぶん不安定のように思います。常に内省的に自己愛を確認している人は、わずかな傷つきにも動揺しやすい。その意味で「自分が好き」であることが誰の目にもわかりやすい人は、その自己愛も案外盤石ではないのかもしれません。 ✏対話でなされているのは基本的に「主観と主観の交換」です。対話の相手がどんな主観の世界に住んでいるか教えてもらうわけです。その世界がどんなにおかしなもので、間違ってるように思えたとしても、いったんは受け入れます。反論や説得、批判はタブーです。 ✏もし社会がひきこもる自由を容認してくれたら、ひきこもりへの偏見は減少し、自分自身への偏見故にひきこもりをこじらせる人も減るでしょう。その意味で、ひきこもりの容認こそが、ひきこもり対策の究極の解とも考えられます。

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    投稿日: 2024.04.22
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    面白かった! 健全な自己愛を育むことの何と困難なことか。 自分自身が本作で言う所の自傷的自己愛で長年悩み、根深い自己否定、嫌悪を抱えながら生きてきた。 だからこそ刺さる部分が多くあり、これからの人生では、少しずつでも健全な自己愛を育てていくことが出来るかもしれないという希望が持てた。  ''自己愛とは、自分が好きという感情ではなく、 自分が嫌い、自分がわからないという感情も含まれる。自分自身でありたいという欲望の事である。 成熟した自己愛を構成する要素には、自己肯定感のみならず、自己批判、自己嫌悪、プライド、自己処罰といった様々な否定的な要素までもが含まれる。"

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    投稿日: 2024.03.24
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    自己愛って持っていてもいいんだ、無くすことはできないんだ。 刺さる言葉が沢山あって、メモ取った。 またしばらく経ったら読み返したい。

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    投稿日: 2024.02.09
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    自分が良く落ち込む理由、「プライドが高いが自信が無い」について語られた(考察された)本だった。 病気では無いし、これを読んで治るとかそういう本では無い。しかし、自分の状態がラベリングされて、少し客観的に見られた。

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    投稿日: 2023.08.05
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    すべて自分に当てはまると思って読んでいるわけでもなく、でも、自分に該当する側面はちらほらとあるので、読んでいて少し平静でいられないところある。周りのひとについても。 とくに、最終章の「健全な自己愛を育むために何ができるか」。病んだひとを多く見てきたひとならではの言葉。

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    投稿日: 2023.07.23
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    著者の別の書籍を読んだことがあり、個人的に読みやすい文章だったことを思い出して購入。今回もどんどん先に読み進められた。 日頃から自分を卑下して止まない自分、あるいは知人のことも考えながら読み進めた。自分をこき下ろしながら、でも変わることをしない/できないのは、結局のところ自分を守るためである。らしくない行動はしたくない。自分らしくありたい。この書籍で言うところの「自己愛」は肯定的に使われていて、自分が精神的にざわざわと落ち着かなくなった時に書き散らす日記のようなものを見返して感じる、何だかんだ今の自分を肯定している、恐ろしくて行動に移れない時の自分を守るためなんだと言う言い訳をしている時の自分の在り方に名前をもらったように思った。

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    投稿日: 2023.07.17
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    日本の全大学生が読むべき本 自分もそうだが,多くの人は,自分に卑屈になってしまう傾向がある。SNSが発達してきて,自分より上位種がSNSで散見されるからだ。学校では一番の成績だったとしても,Twitterを開けば,自分より遥か彼方の成績の人がいくらでもいる。容姿やスポーツなどの面をとっても格上はいくらでもSNSで見れるため,つい卑屈になってしまう。この本を読めばその問題が解決できるわけではないが,なぜ現在そのような状態に,社会がなってしまっているのか,どのようにしたら少しずつでも改善を図っていけるのか,その一助になるのがこの本書だと私は思う。

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    投稿日: 2023.07.04
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     一から十まで自分ごととして読みました。自分が自傷的自己愛なる心性を保持しているという自覚は当初から強くありましたが、本書の「キャラ」概念の導入によってその解像度がさらに増したと思います。  つまり、2000年前後の「解離の時代」以降、「承認の可視化・定量化」とともに人々の承認依存=つながり依存の傾向が強まり、その中で「キャラとしての承認」が重要化し、そして「本来の自己」=身体と「キャラとしての自分」のずれこそが、自傷的自己愛のあり方を生んだのだということ。  個人的に、自分自身のことを「クズ」であると強く感じていましたが、このようなセルフスティグマに再帰的傾向があることも確信していました。つまり、自分は「クズ」であるが、自分を「クズ」と断定することにより、ある意味で自分の居場所を作り安心する。そのことが、また自らの「クズ」としての人格的特徴を再帰的に増幅する。このようなあり方を(モノローグ的に)「再帰的クズ」と呼称していましたが、本書を読み終わった今ならば、まさしくこの「再帰的クズ」こそが「キャラ化された自分」であるということに思い至ります。そして、「あるべき自分」の立場から、「キャラとしての自分」を徹底的に貶める(自傷)ことで、なんとか自己愛を保っていたのだと強く感じます。本書の言葉を借りるならば、「枯渇してしまった自信を高いプライドによって補い、必死に支えている」(p71)状態です。  著者も仰るように、自傷的自己愛は大変「閉じた」自己愛のあり方だと思います。自分について考えれば考えるほど、このモノローグ的思考から永遠に抜け出せなくなるのではないかという不安が募っていきます。本書を読んだことは、改めて自己を社会や他者との関係性の中で考え直す良いきっかけとなりました。「自傷的自己愛」という言葉を冠したこの新書を世に出していただいたことに、深く感謝したいと思います。

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    投稿日: 2023.06.08
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    私はこの本を読むまでは、自分に自信がない人や 自分を否定する人には、根気よくその人を肯定し続けてあげれば良いと思っていた。 というのも、「これでもか!」というほどの肯定であり褒める言葉を欲しているための「わざと」の自己卑下だと考えていたからだ。けれどそんな単純なものではなく、もっと根の深いものだったのだなとこの本を読んで感じた。

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    投稿日: 2023.05.29
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    「自傷的自己愛」とは他者や環境などの外的要因によって与えられた「キャラ」を自己批判することで「こうでありたいという自分」を守ろうとする姿勢といえるのかなと思った。ただ「こうでありたいという自分」がその人にとっては手が届かない部分であることが多いから、なれない自分とのギャップに苦しんじゃうのかな~と感じた。

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    投稿日: 2023.03.26
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    「自傷的自己愛」の精神分析 斎藤環 面白くはないけど、突き刺さってくるような内容だったなあ。 この本の中に出てくる坂口恭平とは一度 twitter上で、ケンカしたことあり 一度は 直接、電話で話したことがある。 真夜中の3時に電話がかかってきたんだぜ。 マジで気が狂ってると思った。 本の中では 無自覚なまま、無我の境地に到達した人、みたいなことが書いてあったけど、そうは思わないけどなあ。 ただ、単に、田舎のエリートなんじゃないかなあ。 むしろ、自意識がすげー過剰なような気がするんだけど。 双極性障害、っていうのは、彼の強烈な個性ではあるけれど。 まあ、オレには理解できない、特殊な人格だ、というのは分かる。 033 自殺願望と自己肯定感の低さは、必ずしもイコールではない 芥川龍之介 太宰治 三島由紀夫 川端康成 彼らは、自信がない弱気なだけの作家であったわけではない。 044 トランプ元大統領は自己愛性パーソナリティ障害か 048 性愛学者ハヴェロック・エリスが1898年にナルシス的という言葉を用いた。 ドイツの精神科医パウル・ネッケが1899年、はじめて「ナルシシズム」という用語に言及した。 この論文を読んだ、ジークムント・フロイトが、ナルシシズムという語を用いた。 056 ラカンの理論 ことさらに「自分が大嫌い」というほど自己愛的である、という逆説。 068 ひきこもっている人は、しばしば「生きている価値がないから死にたい」と言う。 069 プライドは高いが自信がない プライドとは、こうあるべき自分のこと 自信とは、今の自分自身に対する無条件の肯定的感情のこと。 070 現在の自分に自信がないからこそ、あるべき自分の姿(プライド)にしがみつく。 198 我執すなわち自己愛を捨てた人 坂口恭平 双極性障害の当事者 何度も強い希死念慮に襲われてきた人 219 自傷性のやわらげ方 1.環境調整 尊厳を傷つけられない環境に身を置く 納得行かない状況があれば、動画に撮影したり録音して記録を残し、弁護士に相談する。 2.対人関係 家族以外に親密な対人関係を持つ 孤立した状況で自傷性をこじらせていく悪循環に陥らないこと 3.損得勘定 自傷的自己愛は、しばしば自分が損をするような行動をあえて取る。 彼らの多くは自責感が強いために、そうした行動に陥りがちになる。 そういうときは、あえて、損得で考えること。 4.好きなことをする 自傷的自己愛者は責任感が強いので、いつも、やりたいことよりもやるべきことを優先してしまうが、これは逆。 常に、やりたいことを優先させるべき。 やりたいことが見つからなければ、散歩でも、家事でも、ペットと遊ぶこと、でも良い。 5.体のケア 自傷性が強い人は、セルフ・ネグレクトのように、健康や、食事や、清潔さに配慮しなくなる。 あるいは、自ら、過度の飲酒や、喫煙、薬物乱用などによって、自分の健康を害してゆく。 249 自傷的自己愛は、病気ではなく、診断名でもない。

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    投稿日: 2023.03.17
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    このレビューはネタバレを含みます。

    自分が大事だから、自分を守るために「わたしなんて」と言ってしまうとは、目から鱗だった。 わたしも岸辺露伴のように自分自身を貫く生き方をしたい。健全な自己愛を持ちたい

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    投稿日: 2023.03.09
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    自責は自己愛の裏返し。自己保存のためにあえて自分を傷つけようとする。自分を責めることも大事だが、過度に痛みつけてしまうとあらぬ方向へ向かってしまう。時には楽観的に、力を抜くことが大事。

    1
    投稿日: 2023.02.13
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    「自傷的自己愛」は自分のこと全てにおいて全く自信が持てない人で、かつ自分がダメな人間だということに絶対の自信を持っている人。 なんか矛盾しているようで的を射てる… 著者も同様のことを書かれているが、自分がもし現代の学校生活を送らなければならないとしたら、スクールカーストの最下層になる自信がある(汗

    5
    投稿日: 2023.01.20
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    このレビューはネタバレを含みます。

    深掘りTVで少しお話を聞いて面白かったので早速拝読。 大事だと思われるところ 問題に気付き、相対化する そのためには筆者の主張である、 すべての母は毒母であり、すべての母娘関係は支配関係である ということが、問題の存在そのものを気づくための促しとなる。 母親の権威を相対化すること、 母親からできることは、母となる前の自分、自分が自分であった時の話をすること(娘がそれを聞いてみること) めちゃくちゃ大事なこと。 孝を最高原理とする儒教倫理的な抑圧が、親による虐待、体罰、ネグレクトといった行為を隠蔽してきたという事実。 自分の価値観はもちろんだが社会の価値観のアップデート、変化、古い道徳観念からのの解放。(日本の公教育では逆行してるのではないか。子どもの教育はリベラルな校風教育目線をもつ私立でなければ、、ここで格差との絡みも出てしまうのではと、読んでいて感じた) 186ページ、坂口恭平氏がご友人だとか。坂口氏は双極性障害に罹患しているが、うつの時に大量の文章を書かれるそうだ。また書くことは自己治療となるそうだ。 ヤマギシ会について。カルトと規定。確かに激烈なカルト、財産没収だけでも当然カルト認定。 自己肯定感を高めたいという欲求。悪あがきと言っても良いか?それと優生思想との関係。自己肯定感がえられず、自傷的自己愛に陥ると自分が無価値だから死にたいという考えにいたる、それは、著者によると優生思想の萌芽といえ流。優生思想とほぼ同一。なぜなら良い悪いなど、生についての価値判断は不可能だから、だそうだ。生はあらゆる価値の上位概念だから価値判断の埒外とのこと。日本社会では、生に対しそのように崇高には捉えられていない、残念ながら。 生の平等性は担保されておらず。明らかに憲法違反だけど、自民党や、一部のお間抜け野党政党は、生の分別を平然とやらかしてるしな、、などとぶつぶつ言いたくなる。 198ページに坂口恭平氏再登場。 スリランカ上座仏教スマナサーラ氏の無常を知る人、つまり我執を捨てた人 我執のない人の特徴が坂口氏に合致。 本当に自傷的自己愛に陥り苦しんでいる当事者であれば著者がおすすめしている坂口恭平氏の著書やスマナサーラ氏の著書の方が本書より読みやすいかもしれないと思ったし、すごい人とは感じていたが改めて坂口恭平氏の稀有な存在に脱帽 自分が世界の中心という認識(そうおもうこともできる、、というふうに理解したが。そう思えるような子ども時代が大切ということか)そして自分は世界の一部に過ぎないという認識。これが社会性、相手への共感やコミュニケーションの必要性につながる。 著書がいう自己愛とは、自分大好きの言い換えではなく、自分自身でありたい欲望。 ここには、事象的自己意識に陥りがちな承認への欲求や不満とは関係なく、自分そのものがある。 自分が好き自分が嫌い自分が判らない、が全て、自分自身でありたいという欲望の中に含まれているという。これは、発見。 著書は、この強い欲望はしばしば好奇心の形をとるという。これは本当にわかる、納得。 健全な自己愛を育むための方法。さまざまな提案。具体的でわかりやすい、無理なくできるところから提案されているところもよい。個人の尊厳を守る、自分の尊厳は自分で守る。そのための環境調整、必要ならされたこと、経験したことを記録する、我慢しない! 日本的な耐えて我慢して成長するみたいな気持ち悪い言い分は間違い、そこに自分を置かない我慢しない。大事だな。 対人関係の拡張少なくても今ある関係を失わないこと!!利他的になりがちならあえて損得勘定で自分を利するような考えをすること。問題発生時には健全な被害者意識を持つこと、自分のせいにしない。 少しでも好きなことをする。身体をケアし運動したり体調や見た目を整える。 オープンダイアログ。対話というアプローチ。医療の現場で有効。 家庭や学校職場でも有効。対等な対話忖度なし。 リフレクティングという手法による本人への緩いアドバイス効果。 最後の方は大変実用的に、自傷的自己愛に悩む人へのストレートな呼び方になっていて、さまざまな、社会や家庭で人と関わる=つまり誰でも誰もがこの本に目を通したら良いと思う。 今の世の中、自分だったら、、という想像力が自然と欠如してしまいその裏返しとして、強い承認欲求やそれが得られないことからくる自己否定、自己肯定感の低下などになっているのかな。他者にも自分にもなんらかの共感やなんらかの違和感を正常に当たり前に持つことが入り口でもあり出口でも入り、平静であろうと思った。 坂口恭平氏の作品しっかり読もうと思った

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    投稿日: 2023.01.19