
総合評価
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powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
「侮蔑によって乗り越えられぬ運命はない」 死ぬまで永遠に岩を山頂へ押し上げ続ける運命にあることを ただ受け入れたり、何かに縋るのではなく、その運命を意識的に反抗し、岩を押し上げる意味を見出し、不条理な世界を生きていく 頭の中にイメージがこびりつき影響を受けた本 自分で自分を不幸にしては死んでいるも同然か・・・ 異邦人のムルソーが最後に「私がより孤独でないことを感じるために、この私に残された望みといっては、私の処刑の日に大勢の見物人が集まり、憎悪の叫びをあげて、私を迎えることだけだった」といった心の内がシーシュポスの神話を読み、前よりわかったような気がする。
1投稿日: 2025.10.26
powered by ブクログ生きているとふとした瞬間に、世界というものの意味がわからなくなる。 何か意味ありげな異様な流行の熱狂、やりがいは感じるもののそれ以上に意味があるのか分からなくなる仕事…ふと世界が引いて見えてしまった時に感じる感情はカミュのいう不条理の感情なのだろうか。 こうした認識を受け、バルトの『神話作用』を連想した。神話の意味作用を剥ぎ取ってしまったかのような、字義的な世界の現れ、それはこの不条理に近いのかもしれない。 不条理の分厚い壁はどんな明晰な理性も受け付けず、世界を理解することは到底かなわないとバルトいう。まさに悲劇だが、カミュとしてはそうした不条理に反抗せよということ。 確かに我々は無意味なことで落ち込んだりすることも多い。そうした時に響く内容かな。 カミュの不条理と反抗、それはある意味で、露わになった世界に新たな意味付けを提示しているとも読める。 乱読のために機会があればもう少し読み込んでみたい。
3投稿日: 2025.07.19
powered by ブクログhttps://opac.lib.hiroshima-u.ac.jp/webopac/BB01854176
0投稿日: 2025.04.10
powered by ブクログ何回も挫折してる本。 ちょっとは理解できたかも? 世界は不条理で、不条理だからこそ幸福もある。 不条理への反抗が生きるということ。 目的、将来、価値などを考えるのではなく、ただ反抗し生きることが美しい。
0投稿日: 2025.04.09
powered by ブクログ不条理について見つめ、自殺について熟考し、その先にある筋道の通った哲学的反抗について言葉と論理によって紡ぎ出したカミュのエッセー。文章からほとばしる情熱がすごく、論考を読むというより、カミュの持つ自殺及び不条理に対する哲学思想を、ときに詩を読むような感覚で、ときに文学作品を読むような感覚で、ときにむちゃくちゃな日記を読むような感覚で、通読することとなった。 カミュいわく、反抗とは、人間と人間が抱え続ける暗黒との対決を指し、この不透明で不確実な世界において反抗は不条理に対する手段になるという。対して自殺は、不条理な世界を受け入れることと同義であり、限界ぎりぎりで生きている私たちが世界に屈することを意味するのだ。だから、私たちは、この目まぐるしく変転し、何もかもが不確定で断定のできない残酷で不条理なこの状況に抗い続けなければならない。それは不条理の否定ではない。不条理こそが世界であり、世界とは不条理なのだから、不確かなものと共にあろうとすること(自殺を選択しないこと)、それは死への反抗にほかならない。 といった論考が激烈な文章となって隙間なくページを埋め尽くしており凄まじい。自殺を否定せず、不条理を否定せず、しかし哲学的論考によって生き延びることの肯定に着地する展開は見事と言うしかない。 また、『カラマーゾフの兄弟』や、カフカの諸作品に対する鋭い評論もエッセーのひとつ(であると同時にこれもまたシーシュポスの神話につらなる文章なのだが)として併せて組み込まれている。カミュが『異邦人』において語らんとしていたことが明瞭となり、さらには生きる縁が見えてくるような形容しがたい感動を覚える本だった。折を見て、何度も読み返すことで、カミュの言葉と思考を内に溶け込ませたい。
10投稿日: 2025.03.07
powered by ブクログ『シーシュポスの神話』を読んでみた。 ……。 ペストよりも複雑。訳のせいなのか、原文もやはり複雑なのか。 カミュの思考の断片を読む…みたいな目的があるなら楽しいかも知れない。けど、個人的には回りくどく延々と同じ事を違う言葉で言ってるだけにしか見えなかった。 この辺りの思考が『ペスト』のあのあたりに反映されてるんだな。という部分もあったけど。 知らなくてもペストはペストで十分、疲れる物語だった。私には『ペスト』で意味が分からず疲れた部分を、ぐっと深堀してもっと疲れるため作品でしかない。 頑張って読んでみたけど、何を読んでるのか分からなくなる。 物語ではなくて、エッセイなのでなおさら、『個人の思考』の話。個人的すぎて、分かるケド……分かるケド、そんなのを長々と綴られたらこっちが発狂するわ。と思った。 不条理がどうのこうのと書いてあったけど、こんなのを読んでると『この本を読む事が不条理である』という思考に行きつきそう。 タイトルにある『シーシュポスの神話』とは、岩を山の上まで運ぶと、その岩が転がって再び山の上まで運ばなければいけないという地獄の物語らしい。 この本の事だろうか? 一度読んだと思える部分が再び繰り返される。 ……で?何の本だった?と聞かれると、 『意味の分からないモノを延々と繰り返す本』と言ってしまいそう。 もちろん、繰り返して読む気はない。本棚の奥深くに眠らせてしまいたい一冊。本棚の奥深くから引っ張り出したけど、再び戻そうと思う。
0投稿日: 2023.12.14
powered by ブクログ難解な本だった。おそらく、まだ内容を理解できてはいないだろう。 世界に「永遠なるもの」の存在を否定した結果、本能的に世界に真理を求めようとする人間の生は、無意味なものとなる。我々は、何の希望を持つことも許されず、無基準の「自由」で不条理な生活を強いられる。それでは、今ここで自殺することは、不条理な生に直面した人間にとって、優位な選択となりうるだろうか。 いや、違う。なぜならば、自殺は不条理を不条理でなくそうとするものだからだ。不条理に対する人間にとってそれは、一種の欺瞞である。 それでは、どうやって我々は生きるのか。それは、不条理な運命に対する反抗であるとカミュは述べている。その反抗を通じて、我々はこの無意味な世界とその人生に満足感を得ることができるのだ。 時期的にもナチスへのレジスタンス精神の影響を感じる内容だった(もちろん、元からそのような人物であった可能性もあるが)。 個人的には、彼の考えに同調できない部分があることも事実である。 まず、反抗により得られる幸福は、明晰な見解のもとでは空虚なものとなりうるのではないか。つまり、不条理に対する反抗を通じて満足感を得ようとする試み自体が、その幸福を、たとえ自己欺瞞的なものであれ、希望と化することにつながるのではないかということである。 こうしたことからも私は、彼らは不条理な人間というよりも、反抗する人間と呼んだ方が正しいのではないかと思われた。彼らは不条理な世界で存在しない意味を見出すべく反抗しているのではなく、ただ単に反抗したいから反抗しているのではないかと考えたのだ。手段と目的が混同されているように感じたのだ。 不条理な世界や運命に対する反抗とは、つまるところ自由の回復である。そして、彼らは自由であるために悲劇的なのだが、そこに自己陶酔的な満足感を感じているのだ。それこそまさに、哲学的自殺ではないのだろうか。
2投稿日: 2023.10.15
powered by ブクログシューシポスとはギリシア伝承で言うところのシジフォスである。石を山の上に運び上げる重篤で虚無的な刑罰に処せられた悲劇の男である。そんな虚しさ空しさに就いてを徹底的に語り尽くしたアルベール・カミュの代表的な評論。シューシポスの神話を読んだらぜひとも旧約聖書の伝道の書またはコヘレトの言葉を読んでみよう。此の世の空しさが痛いほどに理解できることだろう。
1投稿日: 2023.08.30
powered by ブクログ最近良くある自殺の話題に、参考というかある意味ひとつの見方だな。と思うことが書いてあった。不条理なことについて特に、入念に書かれていて、『生きることへの絶望なしに、生きることへの愛はない』のようなことが印象に残った。また、ドフトエフスキーやカフカについても触れており、参考になった。
0投稿日: 2023.05.30
powered by ブクログ何をグダグダ書いてるのだ?と最初は思ったが、読めば読むほど染みる。人間は皆、死という運命から逃れられない。平和に暮らしていると忘れがちだが、80歳90歳まで生きられる保証もない。では何のために生きるのか? 本書は、異邦人の著者として有名なカミュによる、哲学、小説評論のエッセイである。短いのだが、他の哲学、小説の知識が前提なところもあって全ての文意を理解するのは難しいが、全体として言いたいことは一貫しているので、分かったような気になれる。人生への態度として共感できたので、手元で時々読み返したい。
0投稿日: 2023.03.17
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
不条理について メモ ・人生に意味などなければ、人生はずっと生きやすくなるだろう ・人生は無意味だし、不条理なものであるが、それを受け入れることでわれわれは自由に生きることができる ・重要なのはもっともよく生きることではなく、もっとも多くを生きることだ(※意識的に生きるということ) ・人間の心には、自分を圧しつぶすものだけを運命と呼ぼうとする困った傾向がある。だが、幸福もまた、人間にとっては自分のほうで避けるというわけにはいかないものである以上は、これはやはり理性の手に負えぬものなのだ。ところが、現代人は、いつでも幸福を勝ち得たのは自分の手柄なのだと考えるくせに、じつは自分の幸福に気づいてはいないことがときにあるのだ ・幸福と不条理とは同じひとつの大地から生れたふたりの息子である。このふたりは引きはなすことができぬ。幸福は不条理な発見から必然的に生れると言っては誤りであろう。幸福から不条理の感情が生れるということも、たしかにときにはある。
1投稿日: 2023.02.26
powered by ブクログ人生の不条理について、自殺、人物像、小説、神話を軸に説いた本。 刊行から半世紀が経っているのでしかたないが、absurde =「不条理」という訳語のせいで深遠な雰囲気が先行してしまい、言葉だけがひとり歩きしていないか。たとえば「ばかばかしい」という訳語に刷新するだけでずいぶん印象が違うはず。 ともあれ『幸福な死』のMersault←mer(海)+soleil(太陽)、『異邦人』のMeursault←meurs(死ぬ)+soleil、海と太陽と死はカミュがくり返し語った3つの主題、という解説がおもしろかった。 【引用】 ●哲学上の自殺 ガリアニ神父がデピネ夫人に語ったように、重要なのは病から癒えることではなく、病みつつ生きることだ。キルケゴールは病から癒えることをのぞむ。病から癒えること、これがかれの懸命な願い、かれの日記を終始つらぬいて流れている願いである。(70-71頁) ●征服 ひとは、口に出して語ることによってよりも、口に出さずにおくことによって、いっそうそのひと自体である。ぼくは多くのことを口には出さずにおくだろう。(151頁) 観想と行動とのどちらかをえらばねばならぬときが、かならずやってくる。こういう選択、それが人間になるということだ。(153頁) そう、人間自体が人間の目的である。そしてまた、それが唯一の目的でもある。人間がなにものかであろうと欲するのは、この生においてだ。いまやぼくにはそのことが充分すぎるほどよくわかる。(156頁) ●哲学と小説 大切なのは、不条理とともにあって呼吸すること、不条理の教訓を承認し、その教訓を肉体のかたちで見いだすことである。こう考えた場合、最高度に不条理な悦びは芸術創造である。ニーチェはいっている、「芸術、ただ芸術だけだ、われわれは芸術をもっているからこそ、真理ゆえに死ぬということがなくてすむのである」。(166-7頁) 創造するとは二度生きることだ。プルーストの、不安におののきながら、手さぐりで進むような探求、花々や綴織りや苦悩の細心な蒐集は、二度生きるということ以外のなにものも意味しない。(167頁) 真の芸術作品は、つねに、人間の尺度に釣合っている。それは本質的に、《よりすくなく》語るものだ。芸術家の経験の全体とそれを反映する作品とのあいだには、『ヴィルヘルム・マイスター』とゲーテの成熟とのあいだには、ある関係が存するのだが、作品が説明的文学の花文字で飾られた仰々しいページのなかに全経験をもりこんでいると自負している場合、それは悪い関係である。作品が経験のなかから切りとられた一片、いわばダイヤモンドの一切子面──ダイヤモンドの内部の輝きがみずからにすこしも制限を加えずにそこへと集約されているような一切子面──にほかならぬ場合、それはよい関係である。前者の場合、そこに見られるのは経験の詰めこみすぎ、そして永遠への意図だ。後者の場合、作品のなかに直接もりこまれていない経験が言外に匂わされており、その豊かさが推測できる、──したがってそれは豊饒な作品だ。(173-4頁) ●キリーロフ ドストエフスキーの主人公たちは、だれもが、人生の意義について自問している。その点でかれらは現代人だ。つまり、かれらは滑稽になることをおそれない。現代的感受性と古典的感受性とのちがいは、古典的感受性は道徳的問題によって養われるが、現代的感受性は形而上学的問題によって養われるという点にある。(185頁) ●フランツ・カフカの作品における希望と不条理 カフカの芸術のすべては、読者に再読を強いるというところにある。カフカの作品における物語の解決のされ方、というかむしろ解決の欠如を読むと、読者はさまざまな説明を思いつくが、そうした説明はどれもはっきりとしたかたちで浮びあがってはこないので、それを根拠のある説明たらしめるためには、どうしても物語を新しい角度から読み直さざるをえなくなるのだ。(221頁) 【目次】 不条理な論証 不条理と自殺 不条理な壁 哲学上の自殺 不条理な自由 不条理な人間 ドン・ファンの生き方 劇 征服 不条理な創造 哲学と小説 キリーロフ 明日をもたぬ創造 シーシュポスの神話 《付録》フランツ・カフカの作品における希望と不条理
2投稿日: 2023.01.15
powered by ブクログ表題作はあくまで論の中の一つで、「不条理な論証」、「不条理な人間」、「不条理な創造」、「シーシュポスの神話」、「付録フランツ・カフカの作品における希望と不条理」から本作はなっている。 これはベースとしてシェイクスピア、ドストエフスキー、カフカの作品をある程度知らないと勿体ないので、私の知識最弱なドストエフスキーを読んだ上で、読み直さないと行けないなと思いました...カフカはこのあと再読しよう... 好きだったところ、印象的だったところをいくつか。 ・この世界はそれ自体としては人間の理性を超えている、--この世界について言えるのはこれだけだ。不条理という言葉のあてはまるのは、この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死者狂いの願望が鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態についてなのだ。(p.35-36) ・人生は意義がなければないだけ、それだけいっそうよく生きられるだろうと思える(p.78) ・自殺とは、飛躍がそうであるように、ぎりぎりの限界点で受入れることだ。いっさいが消尽されつくしたとき、人間はその本質的歴史へと帰る(p.79)
0投稿日: 2022.08.25
powered by ブクログ「自分の生命・存在以上に重要な事実なんて存在しない。事実、ガリレイは地動説の正しさの主張より、自分の命を優先した」なんて素晴らしい文章だ。
0投稿日: 2022.07.22
powered by ブクログ『シーシュポスの神話』 "反抗が世を価値あるものたらしめる" 世界は理性的と捉えるから「不条理」を嘆く 「現実の非人間性」が日々に意識的になり、挑戦することを可能にさせるのだと捉えてみる。世界の「不条理」を受け入れ人生に意味を見い出そうと今日も反抗するとしますか! #読了 #君羅文庫
0投稿日: 2022.06.08
powered by ブクログ異邦人の主人公、ムルソーの大ファンでありながら、今ひとつ理解できないもどかしさを解消したくて読んだ。表現が難解でさらに分からなくなってしまった。不条理=非論理的、不合理という簡単なものではないらしい。理屈にならない理屈ってなんだ。それ自体に矛盾を孕んでいて、荒唐無稽なものということなのか。自分で書いててさらに分からなくなってきた。一つだけ印象に残っている例え話をメモって逃げよう。未来の自分に任せよう。 183ページ、カフカの不条理を比喩する物語である。 狂人が風呂桶の中で釣りをしている。 精神病に独自の見解をもっている医者が「かかるかね」とたずねたとき、気違いのほうはきっぱり答えた、「とんでもない、馬鹿な、これは風呂桶じゃないか」。 カフカの世界とは、何も出てきはしないと知りながら風呂桶で釣りをするという身を噛むような贅沢を人間が自分にさせている言語を絶した宇宙である。
0投稿日: 2022.02.02
powered by ブクログ高校生の時に読んで以来、およそ50年ぶりに読んだ。相変わらず難し過ぎてさっぱり分からなかった。実存主義の言わんとするところは、神が死んだ現代に於いて、それでも現実に存在する我々人間は孤独に耐え不条理と向き合って力強く生きていかねばならないということだと勝手に理解しているが、最後のシーシュポスの神話の挿話はその事を言っているのだと思う。難解な部分はあえて分かろうとせず、ラップミュージックを聴くように気楽に読み流せば良い。そうすると、時々心に響くフレーズに出会える。
0投稿日: 2022.01.05
powered by ブクログ1969年 内容が全然入ってこず、ドロップアウト。 また機会があれば、再読してみよーかな。 てゆーか、誰かの解説見ないと理解できん。 NOTE記録 https://note.com/nabechoo/n/ncbb174c9b9d9?magazine_key=m95e2f346041d シーシュポスの神話 「頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりる。 いまや、シーシュポスは幸福なのだと」 最後の解説部分読むと、 カミュについて、 少しは理解できた。 気がする。だけ。 地中海、アルジェリア、貧困、病、自殺の誘惑。 海、太陽、死、カミュの世界をつらぬく3つの主題。 世界の不条理性、英雄的行為、形而上的幸福? 「生きることへの絶望なしに、生きることへの愛はない」
0投稿日: 2021.10.25
powered by ブクログ難しかったの一言。とりあえず意味がわからなくても文字を追いかけていこうと、どうにかこうにか読み終えて、カミュの世界観みたいなものをどことなく感じられたかな、と言うレベル。決して作品が悪いのではなく、私の読解力不足かと。でも、ドストエフスキーの作品を採り上げて論じていく章だけは、少し理解しやすかったかな。
0投稿日: 2021.04.10
powered by ブクログ年配の方に勧めて頂きました。若い頃、中年期、老齢になって読んで、それぞれに感じいることが違うとおっしゃってました。 読み始めた初期は、何も頭に入らなくて苦戦しましたが、段々と脳が慣れてきたのか、最後の方は抵抗少なく読めた気がします。また数年後に読んでみようかな。
0投稿日: 2020.08.16
powered by ブクログアルベール・カミュの本を読むのはこれが初めて。 事前知識が少ないため、正直かなり難しいと感じた。 タイトルになっている「シーシュポスの神話」部分だけは短くて分かりやすい神話となっていて理解できたが、その他の部分は ・不条理という概念を中心に、難しい言葉が多い ・他の哲学者や思想、古典作品を知っていること前提となっている で、まだまだ自分はリファレンス先の作品や作者のことを知らないので理解ができなかった。 また、リベンジしたい作品。
0投稿日: 2020.08.12
powered by ブクログペストを読み終えた勢いでチャレンジした。カミュの世界観に慣れた頭で読んだにも関わらず、やっぱり難解だった。懐かしい難解さを味わい深く噛み締めながら読了した。 「不条理とは、身体を途方もなく超えてゆくものが、ほかでもないその身体に住まう魂なのだということである」。 カミュ、ありがとう。
0投稿日: 2020.07.29
powered by ブクログ哲学書を高校の倫理以降読んだことが無い私としては難解な思想がずっと続いて読むのが大変だった。 不条理性をテーマに人間の生と幸福を考えさせられるエッセイであり、常にカミュが大事にしてきた思想が伺える作品でもあると思う。人間の死と、それに対する反抗的思考を冷静に思考する。飛躍した希望的思想になりがちであった宗教への評も、気づかされる事ではある。 人間が人間自体の目的であり、それ以外の何でもないと思う事により、自決や夭逝を避ける事も可能なのではないかと思う。 これ以上の批評は出来ないが、常に自分自身の生に置き換え人生を見つめる作品となった衝撃作だ。
1投稿日: 2020.07.24
powered by ブクログ少しずつ読み進めてますが、若いときの読書体験の影響力とは凄まじいもの 僕が普段、何気なく心の芯においてる在り方みたいなものの多くはここに書いてあったことなのだなーと発見をしている 「人間の尺度を超えている、だから超人間的なものでなければならぬ、という。しかし、この、「だから」は余計だ。ここには論理的確実性などいささかもない。経験的蓋然性もいささかもない。僕の言い得るのは、なるほどこれは僕の尺度を超えている、これだけだ。そこから僕は否定を抽き出しはしない。いや、少なくとも僕は、理解不可能なものの上にはなにひとつ築きたくない。自分ははたして、自分の知っているものとともに、ただそれだけとともに生きられるだろうか、ぼくはそれを知りたい。」「不条理とは意識的人間の形而上的状態であり、神へとひとを導かぬものなのだ」 これだよ、まさに、ここから出発して、この後、カミュが言うシーシュポスの状態こそが、僕が10年以上前、この本こそ僕の本だと思ったそのことだ 言いたいこと全部書いてあるし、ここでカミュが保つ態度がカッコよすぎ 不条理を凝視しながら、意識を途切れさせず、神や永遠などに逃げ道を見つけず、ただひたすら生きることにしか価値はない、そう生きればそれが王だろうがサラリーマンだろうが、価値に差はない、生きる長さだけが価値になる、という最も過酷な生き方のみを推奨する 凄くざっくり言うと、神仏をバカにしながらも認める鷲巣のように生きるよりも、アカギのようであれ、ということかと いや、ほんとに
1投稿日: 2018.11.23
powered by ブクログ論の繰り返しが多いなーと思ったので 全部は読んでいないが。 がんばれ、カミュ。一緒にがんばろう、カミュ。 人生に対して "すべていいよ"と言えるように。 そんな気持ちになった。
0投稿日: 2018.11.07
powered by ブクログカミュ 「 シーシュポスの神話 」 不条理をテーマとした重厚エッセイ 不条理な論証(筋の通らない論証) 自殺を 哲学上の重要問題として、不条理ゆえに自殺するのか(不条理に基づき生きることはできるのか) 論証。「不条理な自由」は 論証に対する結論、生きる力がすごい 不条理と自殺 *哲学の根本問題=人生が生きるに値するか→人生が生きるに値しないから 自殺する *自殺に至る不純分子=人の心の内部を食い荒らす虫 *自分を異邦人と感じる→人間と生の断絶の感覚=不条理の感覚→死に至るまで 論理的か 不条理の壁 不条理は 人間と世界から生まれる *人間と世界を結ぶ唯一の絆 *人間的な呼びかけと世界の不当な沈黙が対置 不条理な自由 *人生は 意義がないほど、よく生きられる *生きるとは 不条理を生かすこと〜不条理を生かすとは 不条理を見つめること 反抗とは *不条理を見つめる哲学的姿勢のひとつ *運命に伴う諦めを切り捨てた確信 *自殺は 反抗の論理的到達点をなすものではない *自殺は 不条理への同意→反抗と正反対 不条理とは 死を意識しつつ死を拒否すること→こうした反抗が生を価値あるものにする
0投稿日: 2018.09.02
powered by ブクログ自殺するかどうかが哲学的問題であるといい、「不条理な論証」でそれを証明することを試みているようなのだが、あまり説明しているようには見えない。明晰であることを目標として掲げるが、なぜ明晰であると良いのか、肝心のその理路が見えない。ただ彼がそう決意したというだけではないか。 しかしながら、それでいて不思議と自殺を遠ざけるように心を揺さぶってくる。 宗教や理性への信仰や、その根拠を問うことをやめてしまう態度を「思考の自殺」と名付けるところまでは鮮やかなのかもしれない。私という個による懐疑を徹底することは、裏返しとして、私という個を少なくとも自分は盲信するということでもある。懐疑を勧めるようで、懐疑の裏面であるところの盲信を勧めている、ということだろうか。
0投稿日: 2017.11.06
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
通勤の地下鉄でこの本を読んでいると、荒涼とした世界の無機質さや奇怪さが迫ってきて気持ち悪くなってくる。哲学が辿り着いた理性の限界という結論には同意しつつ、だから神を信じるというのは「飛躍」だとして、キルケゴールに代表される実存哲学を退けるカミュ。クリスチャンとしてはカミュの示す生き方を受け入れるのは難しいが、悲惨な戦争を経て生み出されたカミュの思想をクリスチャンも無視はできない(教会がその戦争を止められず、加担すらしたことも考えると尚更)。「飛躍」がないからなのか、より近い時代だからなのか、訳文のためなのか分からないが、キルケゴールよりは難解でない気がする(それでもかなり難解だが)。
0投稿日: 2017.03.16
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
自分なりにカミュの「不条理の哲学」を要約すると以下のようになる.人間はその理性から,世界の全て,万物の理を知ることを欲する.しかし,世界は自ら何も語らず,そこに存在する.人間の理性では,世界を理解することは到底敵わない.つまり,人間は世界に産み落とされた段階で,わかるはずのないものを知ろうとするという絶望を体験することになる.この二つに引き裂かれた状態を「不条理」と呼ぶ.この不条理な状態に対しては二種類の対応の仕方が思い浮かぶ.一つは,不条理を生きることであり,もう一つは,不条理な世の中から逃避する,即ち,自死である.究極の選択である自死に対して,生きることを選択するということはどういうことか.それこそがこの本の主題である.例えば,実存主義の哲学者キルケゴールは,その不可知であるという性質から,世界に神を見た.つまり,全能の神を用意し,それに跪くことで,不条理を克服した.しかし,カミュはこれを逃避だと断じた.では,シュストフはというと,彼は,世界をわからないものだと諦め,それによって不条理を懐柔する.しかし,カミュは,人間の理性を信頼しているため,この姿勢を受け入れない.カミュにとってこれらの思想は「哲学上の自殺」なのだ.そして,カミュは以下の三つのものを提示する.一つ目としては,意識的であり続け,反抗し続ける姿勢である.不条理を生きるためには,現在その一瞬において醒めており,自分の内面から世界を知り尽くそうという努力が求められる.それは安住とは対極の緊張感を孕む,反抗である.二つ目は,死の意識によってもたらされる自由である.死は絶対不変の帰結点として存在する.それを思えばこそ,人は生きているその瞬間に意識的であると言える.三つ目は,生きている現在時から得られる経験を多量に感じ取ろうとする情熱である.世界は同じ年数生きた人間に同等の経験を授ける.しかし,そこから何を得るかはその瞬間の生き方に依存する,と考える.これら三つがカミュの主張する,不条理から出発した,反抗,自由,そして熱情である.しかし,カミュの不条理の哲学は現在という一時点に重きを置きすぎていると考えられなくもない.この哲学には未来への希望や,過去の反省といったものの介在する余地がないのだ.
2投稿日: 2016.09.05
powered by ブクログカミュ シーシュポスの神話 真に重大な哲学上の問題は一つしかない。自殺。人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えること。それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるとか、精神には9つの範疇があるとかはそれ以降の問題。 ニーチェの望んでいること-哲学者たるもの身を以て範をたれてこそはじめて尊敬に値するというのが真実ならこの根本命題に答えるのがどれほど重要かわかる。(これによって自殺を左右する) ある問題の方が別のある問題より差し迫っているということを一体何で判断する? -その問題が引き起こす行動を手掛かりにして(カミュの意見) ガリレオの自殺は根本的でない。取るに足らない問題。 これに反して多くの人々が人生は生きるに値しないと考えて死んでゆく。他方また、生きる理由のためを与えてくれるからといって、様々な観念のために、というか幻想のために殺し合いをするという自己矛盾を犯している多くの人々を僕は知っている。(生きるための理由と称するものが同時に死ぬための見事な理由でもあるわけだ) だから僕は人生の意義こそ最も差し迫った問題だと判断する。 あらゆる本質的な問題(ときに人を死なしめるかもしれぬ問題、あるいは生きる情熱を10倍にもする問題)について、おそらく思考方法は二つしかない。 ラ・パリス的思考方法とドンキ・ホーテ的な思考方法。この二つのもの、つまり自明性と抒情的態度との均衡によってのみ、僕らは感動と明晰とに同時に至ることができる。それゆえ実に目立たぬものだが、同時に悲痛きわまるこのような主題においては精緻な学識に基づく教壇的弁証法は良識と共感との両者から発するより謙譲な精神の態度に席を譲らねばならないことがわかる。 これまで自殺は一つの社会現象としてしか扱われなかった。しかしここで問題にしたいのは個人の思考と自殺の関係。自殺というこの動作は偉大な作品と同じく、心情の沈黙の中で準備される。当人自身もそれを知らない。思考を始める、これは内部に穴が開き始めるというこよ。発端は人の心の内部。 実存に真っ向から向き合った明察から光の外への脱出へといたり死をもたらすあの動き、それを追跡し、理解せねば。 ある一人の自殺には多くの原因があるが、一般的に言ってこれが原因だと一番はっきり目につくものが実は一番強力に作用したという試しがない。熟考の末自殺するということはまずほとんどない。 自殺はある種「生を理解できない」と告白すること。「苦労するまでもない」と告白すること。習慣や日常の馬鹿ばかしさを認めたことを前提にしている。とすれば精神が生きていくのに必要な眠りを精神から奪ってしまうこの計り知れない感覚とは一体どのようなものか。 とかく説明できる世界は親しみやすい世界だ。だが反対に幻と光を突然奪われた宇宙の中で人間は自分を異邦人と感じる。(離人感) この追放は失った祖国の思い出や約束の地への希望を奪われている以上、そこではすがるべき綱はいっさい絶たれている。 人間とその生との、俳優とその舞台とのこの断絶を感じ取る、これがまさに不条理の感覚。自殺を想ったことのある健康人なら誰でも、これ以上説明をしなくてもこの感覚と虚無への熱望との間には直接のつながりがあるとは認めることができよう。 この試論の主題はまさしく不条理と自殺の間の関係、自殺がどこまで不条理の解決となるかというその正確な度合い。 生に意義を与えることを拒んだ思想家のうち、キリーロフ(文学)、仮説に属するジョージルキエを除いてはこの人生を拒否するに至るほどまでに自己の論理を貫いたものはただ一人もいない。 ルキエは知識と自由意志の不可分を主張、自殺? 悲劇性を真面目に取ろうとしない態度が人間としての値打ちが低いということに。。 いっさいを退けて真の問題へと直進しなければいけない。 論理的であるというのは常に楽にできる。しかし極限まで論理的であり続けるのはほぼふかのう。「論理的」にも強さというか広さがあるな。 死に至るまで貫かれた論理が存在するか?(正当で論理的な自殺はあるのか?と) ヤスパースは統一的世界像の構成の不可能性を明らかにした「この限界はわたしをわたし自身へと導く、そうやって辿り着いた地点では客観的視点など私がただ表象しているに過ぎない。そこでは私自身も他者の存在も私にとってはもはや客観的対象とはなりえない」ここで多くの人が自殺する。思考の自殺。 しかし真の努力とはそれとは反対に可能な限りその場に踏みとどまって、この辺境の地の奇怪な植物を仔細に検討すること。 不条理と希望と死とが互いに応酬しあっているこの非人間的な問答劇を特権的立場から眺めるためには粘り強さと明徹な視力とは必要である。 その時この基本的でしかも同時に微妙な舞踏について精神はその様々なフィギュアを分析し、続いてそれを明示して、自らそれを再び生きることができる。
0投稿日: 2016.01.07
powered by ブクログ原書刊行は1942年(昭和17年)というのだから第二次世界大戦の真っ只中である。アルベール・カミュ(1913-1960)は繰り返される戦争の中で不条理を見つめたのだろうか。彼は立ち木に衝突する交通事故で死んだ。KGBによる暗殺説もある。不条理を説いた男の不条理な死。 http://sessendo.blogspot.jp/2015/10/blog-post_8.html
0投稿日: 2015.10.08
powered by ブクログ無限の神に有限の身体。その間に挟まれてしまった"ぼく" 届かないからそっぽを向いた。 「死ぬべきものとしてとことん生き抜いてやろうじゃないの」 不屈の反抗児カミュ。 このひとのことばは緻密さにあるのではなく、反抗という飛躍によって突き動かされている。 だから、どうしたってどうしようもなくへそまがりで頑固。前を見ながら後ろを見るということを平気でやってのける。それは有限と無限の合わせ鏡によってなされる。キルケゴールとヤスパースの比較がそれだ。 永遠という神にはどうしたってこの有限の者はなりえない。だったら永遠なんて幻からは背を向けてもう一度有限の身体に戻ろうではないか。目覚めた精神によって、存在する者から実存へ飛躍する瞬間。 これが哲学上の自殺だ。永遠から背き、限界を受け容れる。無限に辿り着くことが叶わない。そんなものならいらないと、再び有限に帰っても、そこに映るのは無限によって映される己の姿だったのだ。 有限と無限の合わせ鏡の間に立つこの"ぼく"はそれゆえにどこまで行っても異邦人なのだ。 死にながら生きる。これが不条理でなかったらなんだというのだ。 ニーチェはこの間に立ってついに発狂した。カミュはそうならないためにも、実存に帰れと反抗を説く。岩を押し上げてはまた戻されるような、くり返される無意味な日常。そこで目覚めてしまった精神はとどまることを知らず、身体からの脱出を試みる。それに抗い精神をつなぎとめて生きよと。 どうしてこうも力強く反抗できるか。それは「すべては許されている」この一点に尽きる。 有限と無限に引き裂かれてもなお残る、この"ぼく"はなんなのだ。どんなに反抗しても、不条理は今、ここに在る。無限でもあり、有限でもある。無限でもなければ、有限でもない。 在るようにしか、在れない。ぐるっと回ってまた戻って来てしまう。そう「すべてよし」だったのだ。「ある」と「ない」から、「存在」が抽きだされる弁証法。 では実存として、存在として、不条理として立ち返ってしまうことはどういうことをもたらすのか。彼は演劇や小説、芸術に触れて考える。不条理を表現することで、不条理を見つめ続けよ。表現しえないものに反抗して表現をし続けろ。この不毛な行いの中に希望などない。そんなものまやかしに過ぎない。しかも、やめることなどできない。やめたら表現しえた可能性としての不条理が表現されなくなる。それはふたたび有限と無限に引き裂かれる苦しみにさいなまれることを意味する。夭折や死刑が罪だというのはここで初めて言えるのだ。 ところが、それでも不条理にとっては、表現されてもされなくても、なんら不条理に変わりがないのだ。書くことに慰め以上のことはない。この恐ろしいまでの自由。その自由に則って死に赴く。これが幸運と呼ばれるものだ。
1投稿日: 2015.02.17
powered by ブクログカミュは本当に頭がいいなぁ。 正直難しかった(笑) こんなにも不条理についてこと細かく書けるというか思考できるというのがすごい。 ドストエフスキー論とカフカ論は大好きな作家なので、なかなかおもしろく読めました。 偉大な作家とは哲学者的小説家である。バルザック、サド、メルヴィル、スタンダール、ドストエフスキー、プルースト、マルロー、カフカっておれが好きな作家多し(笑) やっぱカフカやドストエフスキーってすごいよな~って思ったし、カラマーゾフの兄弟がよりいっそう楽しみになった。 いっさいは許されているとは、なにひとつ禁じられていないという意味ではない。不条理は、ただ、これらのどの行為の結果も等価値だとする。 死が不可避な唯一のものだというこの事実を除けば、悦びであれ苦しみであれ、いっさいが自由である。
0投稿日: 2015.02.14
powered by ブクログ「『異邦人』の哲学的翻訳」(サルトル) サルトルは、「シチュアシオン1」で、『異邦人』について言及している。
0投稿日: 2014.10.27
powered by ブクログギリシャ版賽の河原といえるシーシュポスの神話。終わりなく続く徒労、報われない努力という不条理を前に「すべてよし」と言い切って何度でも岩を押し上げる覚悟。その強さに「幸福」の在り方を見た気がした。
0投稿日: 2014.10.04
powered by ブクログ肌感覚で分かるというのは難しい。 文化や歴史の違いなのか、原語で読めれば違うのかもしれないけれど。
0投稿日: 2014.09.21
powered by ブクログ「真に重要な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。」ああ、全くもってその通りだ。兄に自殺された身にとって、その言葉はより実感を伴って響いてくる。世界はいつも割り切れず、生はいつだって不条理だ。カミュの哲学は難解だが、それは安易な跳躍を良しとせず、不条理という困難さから決して目を逸らさないが故の必然的産物である。「すべてよし!」と未だ断定に辿り着けない生、だが大事なのは到達することではない。カミュは不条理に引き裂かれながらも、それでも「すべてよいものか?」と絶えず問い続ける敗北の人生を肯定する。
0投稿日: 2013.02.04
powered by ブクログ世界は人間の理性では把握しきれない、しかしながら人間にはこの世界をすべて理解したいという救いがたい欲求がある、そしてその世界と理性との間の関係こそが「不条理」である。 であるから人間の救いがたい欲求を捨てようという努力や、不条理を肯定し受け入れるような方法は本来の不条理の姿を変えてしまう。 カミュは明徹な視点でこの不条理を見つめ直そうとする。 ……実を言えば今回の読書で僕がこの本の全部とより深いところをはっきり理解したとは言い難い。 特にp.90の質から量への価値の転換がいまいちつかみきれない。 けれどもここのところ読む本はどれも、この「質から量へ」を示唆しているような気がする。 わからないながらとっても惹かれてしまう本だ。 サルトルやキェルケゴールを読んでからもう一度読みたい。
0投稿日: 2012.11.19
powered by ブクログ小説かと思いきや完全な哲学論考でかなり難解。 途中でいきなり挿入されてるドストエフスキー論が面白い。 カフカ好きな人には終章のカフカ論も。 『異邦人』読んでカミュの言う「不条理」についてもっと深く知りたいと強く思った人向け。
0投稿日: 2012.10.12
powered by ブクログ「すべてよし」 不条理について様々な観点から行われる試論。 わたし自信どこまで理解できたかはわからないが、自分自身が時折感じる不条理さについての出口(というと少し大げさだが)、いや出口を見付け出す必要がなく、向き合うことが、意識することが必要であると感じた。 意識的な姿勢で人生を生きなければ経験などなんの意味ももたない。時に量は質を生むことがある。 意識するということ、それが重要だ。 この本に登場する、数々の不条理な作品や、人物についての考察、それらについて触れたのちにまた読んでみたいと思う。 なので評価はつけずにおこうと思う。
0投稿日: 2012.10.01
powered by ブクログ神々がシーシュポスに科した刑罰は大岩を山頂に押し上げる仕事だった。だが、やっと難所を越したと思うと大岩は突然はね返り、まっさかさまに転がり落ちてしまう。――本書はこのギリシア神話に寓してその根本思想である“不条理の哲学”を理論的に展開追求したもので、カミュの他の作品ならびに彼の自由の証人としてのさまざまな発言を根底的に支えている立場が明らかにされている。
0投稿日: 2012.09.23
powered by ブクログ小説だと踏んで買ったら、論説文とか哲学エッセイの類いでした。「不条理」についての論考を諸哲学者・文豪を引きつつ展開しています。 最後に付録として「フランツ・カフカの作品における希望と不条理」という項が加えられていました。カフカファンとしては嬉しい。得した気分。 またドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」についての言及がありました。未読の本についてしゃべられるとそれを読んでみたくなりますな。
0投稿日: 2012.08.11
powered by ブクログ生きることそのものが不条理。でも、それを認めて、いつか来る死と現実に相対峙しながら生きるしかない。しかも、長く、多く。
0投稿日: 2012.06.20
powered by ブクログ読んだのは1年も前だけど感想書いてなかった。まとめないと忘れる。 不条理と自殺との関係についての本。 曰く、「不条理」とは”この世界が理性では割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴りひびいていて、この両者がともに相対峙したままである状態”、或いは“欲望する精神とそれを裏切る世界とのあいだのあの背反状態”、或いは”人間と世界とを結ぶ唯一の絆”。 実存哲学者達は人の理解を超えたものを神と呼び、不条理を生きる苦しみから逃れようとする。世界の不思議を全て神様の仕業にして受け入れてしまう。が、カミュは「不条理=神」とするのは飛躍だ、逃避だと批判する。 “シェストフにとっては、理性はむなしい、が、理性を超えたかなたになにものかが存在する。不条理な精神にとっては、理性はむなしい、しかも、理性を超えたかなたにはなにもないのだ。” この絶望の中で、生きるべきか、死ぬべきか。カミュは生きるべきだと言ってる。 不条理は人間と世界との関係、対立のなかにあるから、対立の一方の項を否定すること(自殺)もまた不条理から逃げ出すことになる。神を信じることも自殺することも拒むとき、残った選択肢、“筋道の通った数少ない哲学的姿勢のひとつは反抗である”。 “反抗とは、人間と人間固有の暗黒との不断の対決だ。不可能な透明性への要請だ。” “この反抗とは、圧倒的にのしかかってくる運命の確信―ただし普通ならそれに伴う諦めを切り捨てた確信―それ以外のなにものでもない。” “意識的であり続け、反抗を貫く―こうした拒否は自己放棄とは正反対のものだ。人間の心のなかの不撓不屈で情熱的なもののすべてが、拒否をかきたてて人生に立ち向かわせるのだ。重要なのは和解することなく死ぬことであり、すすんで死ぬことではない。自殺とは認識の不足である。不条理な人間のなしうることは、いっさいを汲みつくし、そして自己を汲みつくす、ただそれだけだ。不条理とは、かれのもっとも極限的な緊張、孤独な努力でかれがたえずささえつづけている緊張のことだ、なぜなら、このように日々意識的でありつづけ、反抗を貫くことで、挑戦という自分の唯一の真実を証しているのだということを、かれは知っているのだから。” 生きる。具体的には、より多くを生きる。 “同じ年数を生きたふたりの人間に対して、世界は常に同じ量の経験を提供する。それを意識化するのは受取るぼくらの側の問題だ。自分の生を、反抗を、自由を感じとる、しかも可能なかぎり多量に感じとる、これが生きるということ、しかも可能なかぎり多くを生きるということだ。” こんな感じだったと思うけど、腑に落ちない点もある。 全てを知りたいって欲求はめちゃめちゃ大きいし、どこまでも理性的でありたいって気持ちも理解できるけど、神(どんな神かにもよるけど)を信じるからといって、そこで思考停止に陥る人ばかりでもないと思うけどなぁ。 それから不条理=神とすることを拒むのは、どこまでも理性的であるって前提で納得できるけど、自殺によって不条理から逃げちゃいけない理由、反抗しながら生きなきゃいけない理由が、“偏見のない人間にとっては、知力が自分の力をはるかに超える現実と格闘している姿ほど素晴らしい光景はない”、つまり「抗ってる自分かっけぇ!」だけなのはすごく弱い気がする。人生の意義は意義などない人生を生き抜くことだ、それを生き抜くのがカッコイイんだと言われても、そう思えない人には自殺を思いとどまらせることができない。 あと、“重要なのはもっともよく生きることではなく、もっとも多くを生きることだ”っていう具体的な生き方に関して。“生の意義を信じることは、つねに、一連の価値の階梯、ある選択、ぼくらの好みを前提としている。不条理を信じることは、これまで定義したところにしたがえば、それとは反対のことを教える。”ってことで、不条理を生きる人間には良いも悪いもない、”どの行為の結果も等価値”だと言ってる(これは犯罪を勧めるものではないとも言ってる)けど、何だかあらゆるものから自由でいることにこだわりすぎてるんじゃないかって気がする。“自分の人生に何か一つの目的を思い描いている限り、かれは目的を達するのに必要なことをしようと従順で、自分の自由の奴隷になりつつあったのだ。”なんてことも言ってるし。なにものからも自由でありたいがためにこの論理をつくり上げたんじゃないかって気もしなくもない。 ただ語り口はやたらかっこいいのでぐいぐい読ませる。以下は一年前の自分が付箋貼った箇所の一部。 “おのれを殺す、これはある意味で、告白するということだ。生に追い抜かれてしまったと、あるいは生が理解できないと告白することだ。” “ごまかしをしない人間なら、真実だと信じていることがその行動を規定するはずだということを、原則と認めることができる。” “ひとりの人間にとって世界を理解するとは、世界を人間的なものへと還元すること、世界に人間の印を刻みつけることだ。” “まったく道徳的だと思えるひとつの明々白々たる事実がある。人間は常に自分が真実と認めたもののとりこになってしまうということだ。” 他にも印象的な言葉がたくさんあるよ。
0投稿日: 2012.06.18
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
む、難しい。 けれども、 彼の「不条理」「反抗」という姿勢は、 絶えず変化する、という信念は変化しない、 というわたしの考えに近くて、 なるほどと得心する部分が多々ある。 理性に依るのでもなく、 神性に依るのでもなく、 両者を相対峙させたままの状態(不条理)に置いておくこと。 ガリアニ神父がデピネ夫人に言った 「重要なのは病から癒えることではなく、病みつつ生きることだ」 という言葉を引いているが、 おそらくそれが「反抗」なのだろう。 「確実なものはなにもない」という確実性。 その中に身を置くこと。 なんともしんどい生き方であるが、 わたしはこういう生き方を望んでいる。 本書で特筆すべきは、 たったの6ページしかない、 表題の「シーシュポスの神話」。 短い小論にもかかわらず、 表題になる理由も読めば納得である。 彼は神々がシーシュポスに課した刑罰から、 「不条理な人間」を説明している。 その刑罰とは、 休みなく岩を転がして、 ある山の頂まで運びあげるというもの。 けれど、 ひとたび山頂まで達すると、 岩はそれ自体の重さでいつも転げ落ちてしまう。 無益で希望のない労働を課したのである。 この話から、 「無益で希望のない労働」をする自分の悲惨な在り方を認め、 その上でまた労働を繰り返すシーシュポスは、 自らの運命をその手中に収めたということだと言っている。 つまり、 人生が無意味であることを意識し、 なおそれでも「すべてよし」と言える、 それが「不条理な人間」なのである。 賽の河原の石積みも同じことが言えるだろう。 「すべては等しく意味がない」 カミュの哲学はここから始まり、 意味がない故に何者にも縛られない「自由」が立ち上がる。 これはややもすると自殺へと行きかねないが、 彼は「反抗」という言葉でそれを退け、 多く生きることに重きを置いている(カミュの夭折は皮肉としか言いようがない)。 なんだかんだで、 けっこう実存主義的な感じがするので、 サルトルとの違いを確かめてみようかしら。 ちなみに、 「99.9%は仮説」という本に、 「科学はすべて仮説であるが、 科学はすべて仮説である、という説だけは仮説ではない」 というようなことが書いてあったけれど、 こういう科学的な態度もこれに近い気がする。
0投稿日: 2012.05.03
powered by ブクログ読み進めるのが難しく少しずつ読みました。 後半へいくほど高揚感が高まり、 読後には爽やかな気持ちになりました。
0投稿日: 2011.12.14
powered by ブクログ11月24日 成田くん紹介 生きる不条理性を超越したシーシュポスについて、気鋭カミュによるによる論証
0投稿日: 2011.11.25
powered by ブクログ日本で言う賽ノ河原ですな。繰り返し繰り返し同じ現象をすると頭がイカレるっていいますね。不条理だ。不条理だ。てか、カミュの作品なのにカフカの解説はいってません?これ?不条理だ。
0投稿日: 2011.11.07
powered by ブクログこのレビューはネタバレを含みます。
不条理についての考察が前半でなされています。 カミュは繊細で優しくて大好きな人間です。 ゆっくりしっかり読み進めたいと思います。 不条理は西田幾多郎先生の絶対矛盾自己同一性と一致する部分が多いように感じます。
0投稿日: 2011.10.11
powered by ブクログ難解な本である。思考の水平線をカミュと同じ高さに保ち続けないと、論理を維持するのが困難だ。 自分が10代に考えていたことを明らかにしてくれた箇所があり、深く感動した。
0投稿日: 2011.08.06
powered by ブクログ人間は終わりの見えない、無目標の作業をする時が一番つらいらしいです。そんな類の話を、わざわざ難しく書いています。でも今作は少し神話に題材を置き、自身の哲学を出すあたりはさすが。痛烈なことを言いながら、決して声は荒げない、紳士カミュに座布団一枚!
0投稿日: 2011.05.08
powered by ブクログカミュが自らの文学の主題である不条理について論じた、哲学的エッセイ。 カミュは「不条理」を次のように捉えている。人間には世界を理性(logos)に基づいて意味付けしようとする本質的な志向性があるが、世界の側は人間の理性を一切受け付けずこの志向性を常に裏切る。このように人間と世界が相対立した状態、人間と世界を結ぶ唯一の関係性が、「不条理」である。この不条理を自覚してしまった人間にとって、人生は生きるに値するのか。不条理は人間に自殺を要求するのか。これが本書の唯一の問題である。この問いに対峙するに際して、カミュは断固として不条理から目を逸らさない、不条理の自覚を手放さない。ヤスパース・シェストフ・キルケゴール・フッサールの"実存哲学"は、不条理(=人間と世界の和解不可能な絶対的断絶)を解消してしまおうとしている(「飛躍」「(生を超えたものへの)上訴」と表現されている)として「哲学上の自殺」であると批判される。 問いに対してカミュは答える。不条理を自覚しそれと不断に対峙し続けねばならぬ。反抗せよ。自殺は不条理に対する屈服である。人間は世界に対して意味を付与しようと反抗し続け・そして敗北し続けよ、不条理というその反抗の絶対的な不可能性を自覚しつつ、その上でなおその不条理に対峙することを決して放棄することなく。希望などない、何も解決しない、問題は先鋭化されるばかりだ。しかし「こうした反抗が生を価値あるものたらしめる」。 更に論を進め、人間の凡ゆる秩序付与を世界が峻拒するという不条理こそ、自由の根拠だとする。そして、凡ゆる価値判断が無効となり事実判断のみが為される不条理のもとで「重要なのはもっともよく生きることではなく、もっとも多くを生きることだ」「自分の生を、反抗を、自由を感じとる、しかも可能な限り多量に感じとる」ことだ。不条理を自覚し、瞬間(「現在時」)を生きよ(「明日というものはない」←連続的な時間の継起という観念は生を目的-手段連関で埋め尽くそうとする合理性による意味付与から生じる。『美と共同体と東大闘争』参照)。 私は、不条理というものを冒頭に書いたカミュの定義とは若干異なる仕方で捉えていた。則ち、「logos(理性、言語、論理、自己意識)による世界の対象化は虚偽であり私はそれを否定しようとするが、否定を遂行した瞬間その対象は logos による別の規定を不可避的に受けるしかなく、それがまた虚偽として否定の対象となり、以下この否定運動が無限に続き・決して何らか積極的な実体には到り得ない」という事態として(cf. 否定神学、ロマン主義的アイロニー)。人間は世界を覆う虚偽を否定し続け・そして敗北し続けよ、否定を完遂することの不可能性を自覚しつつ、その上でなお否定運動を決して放棄することなく。他にしようがない。これは、カミュの描く「不条理のもとでの反抗」という生の在り方に近いと思う。ただ、カミュは"人間"が世界を意味付与しようとして"世界"がそれを拒否するとしているが、私は"人間"が世界を対象化しようとして且つ"人間"がそれを否定するとしている点で異なる。また、カミュは自殺を認めないが、私は否定運動の極限に於ける自己否定としての自殺は・認めないとしたところで意味がないと思っている。こうした差異を自分なりに解釈し直した上でならば、カミュの描く「不条理のもとでの反抗」という生の在り方を、私は受け入れられる。 そして、不条理を自覚し反抗という形で不条理を生き抜くことを通して、自分の運命は――自分を超越した何か(神など)ではなく――まさに自分自身が支配しているのだということを知る。そのとき、不条理を自覚し・それを肯定する以外にはないということを知ったシーシュポスと同様に、不条理を生きる人間は「幸福」である。 何と苦悩に満ちた「幸福」であろうか、その苦悩には自分独りで対峙する以外にないのだ。 カミュの傑作。
1投稿日: 2011.03.26
powered by ブクログ無知な自分には、全て理解することができなかった。 大げさかもしれないが、人生を変えるだけのパワーをもった作品。 人生は不条理だと感じ、劣等感を持つ人にこそ読んで欲しい作品。
0投稿日: 2011.01.10
powered by ブクログ人生が生きるに値するか、あなたは悩んだことがあるだろうか? 今はつらくても、何かに納得ができなくても、明日になれば、もう少し大人になれば、どうにかなると思っているだろうか? けれど、本当に明日がやって来るのかはわかりえない。 いつか、必ず死ぬときがやってきて、その希望を打ち砕くときがくる。 死が訪れる日を肉体は全否定しているのに、精神は明日の存在を渇望している。 では、人は自ら死ぬべきなのだろうか? 明日への不安、肉体と精神がもたらす「不条理」から逃れるために、自殺するべきなのだろうか? それは間違っている、そうするべきだ、どちらを判断したにしても、カミュの書いたこの本を是非読んでいただきたい。
0投稿日: 2010.06.27
powered by ブクログシーシュポスが科された罰は、生きることそのものです。人間は死ぬのがわかっていながら、なぜ生きなければならないのか・・・。
0投稿日: 2010.05.01
powered by ブクログ購入済み 内容(「BOOK」データベースより) 神々がシーシュポスに科した刑罰は大岩を山頂に押しあげる仕事だった。だが、やっと難所を越したと思うと大岩は突然はね返り、まっさかさまに転がり落ちてしまう。―本書はこのギリシア神話に寓してその根本思想である“不条理の哲学”を理論的に展開追究したもので、カミュの他の作品ならびに彼の自由の証人としてのさまざまな発言を根底的に支えている立場が明らかにされている。 Le Mythe de Sisyphe by Albert Camus
0投稿日: 2010.04.23
powered by ブクログうーん。かなり難しかったです。 いい年ですが、最近、読書の面白さに目覚めいろいろ読んでいますが、これは、ちと早かったかな。でも何となくは解ったような... 是非、もう一度、読んでみよう。
0投稿日: 2010.04.19
powered by ブクログ真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。自殺ということだ。人生生きるに値するか否かを判断するこれが哲学の根本問題に答えることなのである。 どんな偉大な行動、どんな偉大な思想もその始まりはささやかなものだ。 自らの挫折の中に信仰を持つものは自らの勝利を見出す。 人生は意義がなければないだけ、それだけいっそうよく生きられるだろうと思えるのである。 思考するとはなによりもまず、ひとつの世界を作ろうと望むことだ。 わずかな哲学は人を宗教から遠ざけるが、多くの哲学は人を宗教へと連れ戻す。 わずかな思考は人を生から遠ざけるが、多くの思考は人を生へと連れ戻す。
0投稿日: 2010.04.04
powered by ブクログジャンル:教養 原書には「不条理についての試練」という副題が付いている。 社会に出ていくまでには読みたい。
0投稿日: 2009.10.20
powered by ブクログよりよく生きるのではなく、より多く生きる。不条理の生きかた。未だ汲み尽くせていないじぶんがある。その姿が美しい。
0投稿日: 2009.10.01
powered by ブクログカミュのほぼすべての作品に貫かれている『不条理の哲学』を理論的に展開追究した作品。 彼の自由の証人としての様々な発言を徹底的に支えている立場が明らかにされている。 この作品全体のテーマは「死」であるように思うが、「死」というものが不条理といかにかかわっているのかということを、カミュはこの本の中で書いているように思われる。 カフカの作品に対する論考も載っており、文学を哲学的に考えるならばぜひ一度読むべき作品。
0投稿日: 2009.05.20
powered by ブクログカミュてんてーはお神話で、遠いギリシアの神殿のように荘厳にそびえ立っているよ。遠くにどっしりと荘厳にかまえているからとりあえず安心て感じだよ。好きだよ。この辺の何かを大学の講義で知らん人が真面目に語るのを「くだんねえつまんねえ」と唾吐きながら聞いていた時のトラウマ(BAKA)を引きずっているため、ここで☆の数を上げられなかったという意味のないおれ。←要は私が語れないだけのきわめて低俗なうんこ。 だってコレ意味わかんねーもん!わかるけど。(なにそれ)
0投稿日: 2009.01.27
powered by ブクログ不合理の哲学。人間の実存。生きることへの戸惑いと肯定。『異邦人』や『ペスト』のなかで物語にした哲学を、評論として描いたもの。なかでも、ギリシア神話中の脇役であるシーシュポスに光を当てた表題作が、こころに刺さる。落ちてくる岩をそれでも彼は頂上へあげる。そして彼の苦行は幸福である。
0投稿日: 2008.09.05
powered by ブクログこれを大学で読んでいたらとある教師に「こんなの読んでる人がまだいたんですね〜純文学を読む人間とか、もうとっくの昔に滅亡したと思っていましたよ〜」と言われた。感慨深い思い出。
0投稿日: 2008.04.17
powered by ブクログ合理性のみに埋没し続けるのも、あるいは非合理性のみに埋没し続けるのも、両方、哲学上の自殺と呼んでいるのが印象的であった。合理性と非合理性の間で揺れ、葛藤する・・・それが不条理。前半はおもしろかった。全体的に、あまりカミュの考えに同調できないが、それでもおもしろく参考になった。10.16-23.
0投稿日: 2007.10.23
powered by ブクログ異邦人はおもしろかったがペストはつまらない、そう思ってる人にはぜひ読んでもらいたい本。ペストの登場人物からは異邦人よりも社会に則した形での不条理を読み取れると思う。 自覚的であれば気持ちがいい、無自覚ならば虚しくて仕方がない。
0投稿日: 2007.10.13
powered by ブクログ神々がシシューポスに課した刑罰は、休みなく岩をころがして、ある山の頂まで運び上げるというものであったが、ひとたび山頂まで達すると、岩はそれ自体の重さでいつも転がり落ちてしまうのであった。
0投稿日: 2007.09.15
powered by ブクログ何度も何度も読み返した。これからも何度となく読み返すだろう。たぶん、人生とは修行なのだ。そうでなければ、なぜこんな理不尽でむごたらしい出来損ないの世界に生きなければならないのか。
0投稿日: 2006.11.29
powered by ブクログ人と話していて、ついたとえ話にシーシュポスやプロメテウスが出てきてしまう。 普段は意識していないけれども、深いところに染み込んだ本。
0投稿日: 2006.08.10
powered by ブクログアルベール・カミュの不条理は現代人にも通じるのか? 読み進めると、哲学の勉強が足りない自分に気付いてがっかり。まだ半分も理解してない。不条理。
0投稿日: 2006.03.19
powered by ブクログ不条理の論証 僕らが日常に感じる不条理の感覚を、カミュは言葉をつくして説明しようとする。とりあえず、凡庸であるがカミュはハイデガーのいうところの≪憂鬱≫が不条理感の端緒であると教える。つまり、「日常→倦怠→なぜ→無意識的日常への回帰か決定的な目覚めか」。不条理は人間をとらえて放さない。そして、「不条理という言葉の当てはまるのは、この世界は割り切れず、しかも人間の奥底には明晰を求める死に物狂いの願望が激しく鳴り響いていて、この両者がともに対峙したままである状態についてなのだ。不条理は人間と世界と、この両者から発するものなのだ。いまのところ、この両者を結ぶ唯一の絆、不条理とはそれである。」と、喝破する。ここは彼の小説『異邦人』にも関わりのある部分である。非常にかっこいい表現として「重要なのは病からいえることではなく、病みつつ生きることだ」というものがある。文章が美文といわれてはいるが、非常にわかりにくい。一度だけでは理解できないかもしれないが、読むたびに美しい表現に出くわす。
0投稿日: 2005.05.07
