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暇と退屈の倫理学(新潮文庫)
暇と退屈の倫理学(新潮文庫)
國分功一郎/新潮社
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総合評価

651件)
4.2
264
218
85
16
5
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    このレビューはネタバレを含みます。

    「自分を悩ませるものについて新しい認識を得た人間においては、何かが変わるのである。」 これからもいろんなことを吸収して、新しい認識を増やしていこうと思った。 そして、情報社会の今、周りの情報にあわせて自分の欲しいものやしたいことを決められがちだけど(自分で決めているようで、本質は情報に踊らされているのでは?という視点)、自分の心と対話しようと思えた。 あぁ、難しかった‥

    1
    投稿日: 2025.02.24
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    一定の豊かさを得た社会での退屈との付き合いについてハイデガーの退屈考を批判しつつ提示 暇は退屈と別の事象であり、退屈と一体の気晴らしの中を生きられるのが人間らしさという観点に一定の幸福を感じる(激しいミッションに身を焼かれる状況は充実しているようで相当キツい) 「今の日本の若者は〜、それに対して途上国の若者は〜」といった意見への嫌悪感は、熱情を尊ぶあまり人は不幸や狂気に陥れられるべきとの思想を感じるからかもしれない 歯止めなき消費から満足に至る浪費へ、のあたりは昨今の丁寧な暮らしや一部のミニマリズムへの類似性を感じる ペットの鳥の生活は退屈の苦痛を感じているように見えるケースもあるため、ハイデガーの人間特別視は馴染まない

    0
    投稿日: 2025.02.19
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    退屈しないためには、〈動物になること〉。 熱狂、没頭、没入、何かに夢中になるのは退屈なんて微塵も感じさせないほどにおもしろい。 改めてそう感じさせられた。 著者が述べているような贅沢ができるのはお金持ちじゃないと厳しそうだな〜とは思ったけど、「今日は贅沢しちゃおう!」みたいなノリで美味しいご飯とかコンビニスイーツとか食べるような心持ちって大事かもって思った。 消費と浪費の話もすごく面白くて、印象に残っている。 「観念的な価値を追い求めてるといつまで経っても満足しない。」 とても納得した。 振り返ってみれば幼い頃は何もかもが新鮮で、色んなことに興味津々で、それこそ〈動物らしく〉生きていたなと。あの頃は退屈を感じることなんて殆ど無かった気がする。 色んな発見や気付き、学びを得られた本。 いつかまた読み直すこともあるのかな、と思った。

    7
    投稿日: 2025.02.18
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    人間は暇な時間を望む一方で、暇な時間に対して苦痛を感じることについて、その矛盾を面白く読むことができました。 今後の人生における様々な経験を通して、暇な時間を作りながら、尚且つ経験も重ねながら、退屈な時間を減らしていく考えに至りました。

    0
    投稿日: 2025.02.16
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    難しい、、 (正しく理解もできていないのに評価するのは失礼ですが、、) ただもう一度読み直したいと思える本。 消費ではなく浪費を楽しむべきという意見は自分に刺さった。ゴールが見えないものを追い続けて満たされない状態が続くより、刹那的なものを感じることが重要なのは共感ができた

    4
    投稿日: 2025.02.15
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    ずいぶん時間がかかってしまって、やっと読み終えた本論は様々な展開を見せながらも、「退屈と気晴らしが入り交じった生、退屈さもそれなりにはあるが、楽しさもそれなりにある生、それが人間らしい生であった」との一文に同意はする。しかしでは補足で「何もやることがないので(中略)心の中に沈殿していた痛む記憶がサリエンシーとして内側から人を苦しめる」これが退屈の正体だという文脈は危うい気がする。それは次に「サリエンシーに慣れるだけの時間と余裕をもって生きてくることができた人は、何もすることがない時間を、休暇として比較的長く、快適に過ごすことができるだろう」と述べてしまって、じゃ大切なのは余裕ということとなってしまわないだろうか。確かに元々余裕のある人は時間を持て余すこともなく退屈は感じない気がする。退屈は痛む記憶の切迫感によって受け止めの差が出るというのは折角の展開を台無しにしていると思う。

    0
    投稿日: 2025.02.13
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    このレビューはネタバレを含みます。

    日常に感じる暇や退屈を当たり前に受け止めていた。この本を通して、暇とはなにか、退屈とはなにか、なぜ暇するのかなど当たり前のことに疑問を持ち、考える過程がいかに大事かを学んだ。 この本を読む目的は、「どのようにすればやりたいことを見つけられるのか」だった。そして、暇、退屈をどう過ごせば解決できるのかを知りたくて読んでいた。結論、人間は暇、退屈から逃れられることはできないため、気晴らしと退屈の混じり合った生を生きなければいけないことを学んだ。 しかし、この退屈と気晴らしが入り交じった人間らしい生活ができない人たちが世界にはたくさんいるから、人間らしい生活ができていることに感謝しつつ、色んな国の歴史や現状を勉強してみたいと思った。

    0
    投稿日: 2025.02.11
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    レジャー産業は余暇を与えられた人々に「したいこと」を与えた。高賃金によって労働者のインセンティブを維持できた。また、質の安い製品をモデルチェンジなく安い価格で何年も売り続けることができた。いまはモデルチェンジが激しいので機械や人に投資することができない。非正規雇用の問題はこれで部分的に説明できる。

    0
    投稿日: 2025.02.08
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    いろいろな哲学者の話をわかりやすく書いてくださってました。 2回、3回と読んでいくともっと内容がわかると思います! ちょっと僕では、1回で理解するのは難しい(^_^;)

    0
    投稿日: 2025.02.06
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    漠然と感じる退屈感に罪悪感を感じていたが、それを感じるのは自分だけではないこと、またその退屈を言語化してくれて心が楽になった。 結局のところ、退屈を感じながら、それに抗うべく、動物になれる囚われを探すしかない。

    1
    投稿日: 2025.01.31
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    面白かった。 『暇』ということについて様々な切り口から考察されている。 なぜ暇だと思うのか、ということについて考えさせられるし、全く関係のなさそうな雑学まで知ることができる。 友達に紹介したくなるような一冊。

    0
    投稿日: 2025.01.29
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    歯切れの良い語り口が痛快で、倫理の本ですが小難しくもなく、スラスラ読み進めてしまえるので、グイグイ引き込まれました! 暇と退屈について、自分も考えてみたいと思います!

    0
    投稿日: 2025.01.28
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    このレビューはネタバレを含みます。

    オーディブルで聴いた。 途中、完全に理解できなかったところがあったり、結論がよくわからなかったが、面白かった。 結論は、退屈を楽しめってこと? この本の解説が読みたい。 自分の行動を思い出したり、最近読んだ朝井リョウさんの「生殖記」を思い出した。

    2
    投稿日: 2025.01.23
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    退屈と暇を棲み分けて考える。 没頭、熱中が人生を豊かにする。 消費は買った瞬間に無くなる。浪費(豊かさ)を大事にしたい。

    0
    投稿日: 2025.01.22
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    暇と退屈をベースに、思想家たちを戦わせている…。 哲学エアプだから凄く単純な疑問なんだけど、当時の思想家たちの文言を、暇と退屈の文脈から捉えて再構築し直していいんだろうか。 読みやすい。国語の現代文の問題、作りやすそう。 消費社会に関する考察は、すごく合点がいった。 筆者は、消費を、物を消費するのではなく、物に付与された観念や意味を消費することと定義した。モデルチェンジした物を求めるのではなく、モデルチェンジしたという観念を消費する。個性という観念も消費の対象。消費者が消費によって個性的になることを求められ、強迫観念を抱く。そして、消費社会とはものの過剰性ではなく、モノの希少性で特徴付けられる。モノがなさすぎる。そしてそのわずかな物を記号に仕立て上げ、消費者が消費し続けるように仕向ける社会と述べている。 個人的には、この社会、これ以上発展してどうするの?という感覚があるし、逆に、発展しなくてもいいのに、何か見えない力で「発展しているように見せなきゃいけない」という圧を凄く感じる。やっていることはちょっとしか変わらないのに、見せ方を仰々しくしてさも変わっているような感覚を味合わせないと、資本主義社会にフォローアップしきれない。例が正しいのか分からないけど、「月額会員制」を「サブスクリプションサービス」と言って新しい感じを出したり、テレビがない古い宿を買い取ってリノベーションしたんだろうけど、「テレビのない空間で非日常を」とアピールしたり(←宿はよかったんだけど、なんか、こんなことまで広告しないといけないのか…と思ったり)、アクセルとブレーキさえあればいい車が滅茶苦茶多機能になっていたり…。ここまでして消費を喚起しないといけないの…と思ってしまう。わずかなものに希少性で記号として特徴づけ、人々の消費を喚起する。そして人々はそこからしか楽しみを見いだせず、退屈してしまう。この考察は同じく、消費社会について論評した、山崎正和の本を思い出す。モノを作る企業ではなく、消費者のニーズを見つけてそれを形に作り上げていく企業。その中ではデザイナーやコンサルが重要な立ち位置を占めている。 すっごく月並みな言葉で感想を言ってしまうと、人間、本来は退屈な存在なのだから、その中でいかに楽しみを見出すか、そして、何か、自分を動物的にしてくれる物事に取りさらわれる準備をしておこうと思った。我々が理想として見出している「何かに熱中している狂信者」という物は、幻想にすぎないのだと心がけておこうと思った。 あと、また山崎正和の本と絡めてしまうが、山崎の述べる「消費する自我」が、まさに筆者が述べる、退屈の第二形式を楽しむ存在だと思う。人間には、満足を引き延ばす欲望がある=消費する自我。消費する自我は、内部に他人を含むものであって、それが現に満足している自分を確認して、そのことによって二重に満足する存在である。つまり、過程そのものを味わうことを目的としている。 (疑問) 何となく腑に落ちなかった点が2点。 ①人間は遊動生活が本来の姿じゃないの?  筆者は、第七章で、人間が元来、物事を習慣化、シグナル化することで快を得る動物だとしている。 しかし、物事を習慣化、シグナル化することで快を得る動物だとするならば、第二章で言っている、遊動革命は何だったんだろうか?人間が物事を習慣化、シグナル化することが快ならば、新しい刺激が生まれる遊動生活が元来の姿と言っているのは矛盾するのではないか? ②退屈の第一形式のイメージがつかない。  筆者は、「何となく退屈だ」という声(退屈の第三形式)に動かされた人間が、退屈の第一形式に移行し、物事の奴隷になる、と述べているが、このイメージがつかない。退屈の第一形式は、「暇であり退屈である」状態=駅舎で電車を待っていて、駅舎の理想の時間と自分の過ごしたい時間がずれている状態である。そうなれば、「何となく退屈だ」という声に突き動かされて、人が向かうのって、「暇ではなく退屈である」第二形式じゃないのか?わざわざ、「何となく退屈だ」という声に突き動かされて、電車を待つ駅舎に行く人がいるか?筆者は、「何となく退屈だ」の声に突き動かされた人が旅行に出て、その先で電車を待つ例えで、第一形式まで導いているが、「何となく退屈だ」の人がまず直面するのって、暇を埋める行動じゃないの? (以下、すっごい簡単なまとめ。) 人々は豊かになるため社会を変える、努力をする。ではその豊かになった後は? 時間的、金銭的余裕を持っても、不幸になる。それは、それらの余裕が生産者によって作られた娯楽でしか消費できないから。それが今の社会である。 この本は、そのような暇と退屈に向き合う本である。 原理論・系譜学・経済史・疎外論・哲学・人間学・倫理学の章に分けて暇と退屈について考察している。 暇:客観的な条件 退屈:主観的な状態 ⇒そこから4象限を立てる  「暇であるし退屈している」  「暇ではないが退屈している」  「暇であるが退屈していない」 (=有閑階級 貴族のような 暇を楽しめる余裕のある人)  「暇でないし退屈していない」 (あまりこの本で議論になっていない) ハイデッガーの退屈の3形式。 退屈は引き止めと空虚放置(むなしい状態に放っておかれること)に特徴がある。 第一形式→何かによって退屈させられること。「駅で電車を待っていて、やることがなく時計を見て、何かで時間を潰す」引き止めは、ぐずつく時間によって引き止められている。駅舎は我々の期待する物を提供せず、いうことを聞いてくれない。だから空虚放置される。列車発車の直前の時間という、駅舎の理想的時間と我々がおかれている時間とのギャップによって、引き止めと空虚放置が生じている。「暇であり退屈している」 第二形式→何かによって退屈させられること。第一形式に比べて、何が退屈にさせられているか、明確ではない状態。パーティーに出たのに退屈。第一形式では気晴らしは存在しなかったが、第二形式では、退屈と気晴らしが独特の仕方で絡み合っている。 パーティーそのものは気晴らしであり、これ以上何も求めないように揉み消されてしまう。だから、私自身の中に空虚が生育する。空虚があるのではなく、自分が空虚になり、空虚放置される。そして、時間は我々を放任するが、放免するわけではない。根源的な時間において引き止めする。「暇ではないが退屈している」私たちが普段もっともよく接する退屈ではないか。 第三形式→なんとなく退屈だ。気晴らしがもはや許されない。第一形式では気晴らしがなく、作る必要があった。第二形式では、気晴らしの中にいるが退屈と絡み合う。第三形式でほ、気晴らしはもはや許されない。退屈に耳を傾けることを強制されている。空虚放置されているのは自明。何もないだだっ広い空間にぽつんまで1人取り残されている状況に引き止められている。あらゆる可能性を拒絶されているが故に、自らが有する可能性に目を向けるよう仕向けられている。「自由」の可能性に直面する。 人間とは、普段は第二形式の退屈を生きている。 そして、時に「なんとなく退屈だ」の声に動かされ、第三形式に陥る。 その後、第三形式に陥ったものは、決断し、決断された内容の奴隷になる。「なんとなく退屈だ」の声から逃げることができたが、第一形式の退屈にとらわれるのだ。 すなわち、第三形式=第一形式である。 つまり人間は、普段第二形式の退屈を生きており、何かの拍子で第三形式=第一形式に移行することを繰り返す存在である。これが人間の基本的な姿なのである。 我々が生きる術は、第二形式の中で楽しめるものを享受し生きつつ、第三形式=第一形式に陥ったときに、動物が一つの環世界に浸るように、人間も、<動物となること>。 取りさらわれないようにすること。そのためには、楽しむ訓練も必要。<動物となること>を待ち構えるのである。

    2
    投稿日: 2025.01.22
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    とてもよく考えられた本だった。話の流れの展開がとても丁寧で、最初から最後まで意味が分からず困惑させられることなく、ともにその思考の歩みに伴走(伴歩?)していくことができた。それはひとりよがりな思い込みを展開したりすることなく、自分の考えを適切な例を挙げて理解させ、また過去の哲学者の思想を的確に引用することで、筋の通った議論を進めていくことができていたからだと思う。特に後半のハイデッガーからユクスキュル、コジェーヴの流れは見事で、ハイデッガーの議論を自分のものとしたうえで、よく乗り越えられていると感じた。 ただし、結論に納得したかというと、それは別の問題だ。 国分は言う、「本書の結論だけを読んだ読者は、間違いなく幻滅するであろう」。 実際、その結論はあまり魅力的とは言えない。なぜそうなってしまったのか。それにはちゃんと理由がある。 この本の冒頭で掲げられるのは次のようなラッセルの幸福の逆説である。 「豊かな社会を達成することによって、人々は『達成すべき課題』を失い、不幸になってしまう」 これに対して国分の結論は、「豊かな社会も、楽しみ方を身につければ、楽しめる」というものだ。それは全くその通りなんだけれど、どうにも弱くないだろうか。 たとえば、今のこの社会に虚しさを感じ、「この社会、こうあるべきだ」という強い信念を持って、自爆テロに走るような(周りからすれば迷惑このうえない)若者を、この考えで引き留められるんだろうか。自爆テロにまで走らないにしても、切実なリアリティを取り戻したい「希望は、戦争」という考え方に対する対抗軸になれるのか。 これに対して国分が持ってきているのは、ハイデッガーの「自分の信じたものに囚われる」生き方が、不自由であり、人間らしくないという理屈だけだ。 国分は、ハイデッガーの議論に矛盾を指摘し、ハイデッガーが理想とした、「決断」によって自分の生きる道を主体的に選ぶという選択の先の生き方は、結局、ハイデッガー本人が批判していた「囚われ」を生むに過ぎないとする。このハイデッガー批判は見事だけれど、このハイデッガー批判によって、自分の生き方を見直そうと考えるような人は、根本的にハイデッガー的な(あるいはカント以降のドイツ的哲学の支柱をなす)「動物的必要と欲望から自由であれ」という考え自体は受け入れている人だけだ。 何も信じることのできないと思っていたこの世界で、唯一信じるに足ると感じた何かを見つけたという人に、「そんな生き方は、自由でない」といったところで何になるというのだろう。 ナポレオン戦争後の世界が「歴史の終わり」であり、人類はその歴史の目的をすでに達成してしまった、というコジェーヴの思い込みの愚かさを指摘する筆者もまた、現代については概ねそれを達成しているという前提で、この本が語られているように思う。 実際、僕が今所属している大学の社会科教育の分野で、学生が数十年前の社会科教育の優れた実践を真似して、「身の回りの社会の問題に目を向ける」というような授業をしようとしたとする。でも数十年前にはリアルだった貧困は今はもうなくて、当時、「これが不満で困っている」というような問題は今はほとんど解決してしまっている。今でも残っているのはその多くが個人的な問題のように感じられてしまい、子どもたちが自発的に「身の回りの社会の問題」を持ち出すなどということはほとんど起こらなくなっている。 そういう意味では、現代はまさに「歴史の終わり」であって、これ以上社会をよりよくしていけないという認識には実感が感じられるだろう。 だからこそ、この本が今大学生に受けているのだと思う。 でも、豊かになればなったで、新たに生まれる問題もあるわけで、それらに気がつかないでいられるのは、おめでたいけれど、幸い私たちには気がつけば何とかしたくなるくらいの共感的感性はそなえている。 少なくとも、「豊かな社会を達成することによって、人々は『達成すべき課題』を失い、不幸になってしまった」と感じている人には、「まだまだこの社会にはこんな問題が残っている」ということを教えることができるだろう。 それは、「何かいいことをしたい」という欲望を、誰かに助けてもらいたいという必要性へと結び付けていくという、高度資本主義社会の新たな需要の掘り起こしという側面もある。 この本では、欲望の自己再生産的な消費社会のあり方に対して批判的だが、そうしたシステムが円滑に回ることによって、私たちはやりがいのある仕事を見つけることができて、こんなに生産力の高まった豊かな社会において、いまだに何かなすべきことが供給されているのだということも忘れてはならないことだと考える。 そういう意味で、今の若い人たちには(ロジックも大事だけれど)ロジックだけに目を向けるのではなく、この社会についてもっと学んでほしいなあとは思った。

    0
    投稿日: 2025.01.22
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    暇じゃないが退屈のそれ。巨人の肩の上に立った考察なのを感じさせない口調がちらほら。敬意を欠くというか顕示欲の現れなのか。 それはそうと、僕の修行中に至った仕事は人生の暇つぶしという考えもあながち悪くないのかもと思った

    0
    投稿日: 2025.01.18
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    snsを通じて同年代の人と比べてしまいがちですが、今の自分には退屈を楽しむこと、楽しむための教養も必要だと感じました。

    0
    投稿日: 2025.01.17
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    久々にガッツリと哲学の本を読了。人間はなぜ暇・退屈になるのかという普遍的なテーマを平易な文章で考察がまとめられている本。はたして自分の好きなことは本当に好きなことなのか、消費の奴隷として好きにさせられているのかを考えさせられた。自分がこうしたいと思っていたことがこの本の向かう先に近いのかもしれないと感じているので、引き続き『目的への抵抗』などを読んでいきたい。

    1
    投稿日: 2025.01.16
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    このレビューはネタバレを含みます。

    大学生活は退屈な日々が多かった。その退屈をサークルや飲み会で紛らわしていることにすぎなかった。「なんとなく退屈だ」という声を聞き続けたくなかったからかもしれない。 本書は哲学の面白さがぎゅっと詰まった一冊であった。普段の生活では、“「退屈」「暇」とはなんだろうか?”ということなど考えたことはなかった。人の行動や気持ちの原因を考えることは楽しい。何回も刺さるものがあった。それを以下に備忘録として残す。 「人間の不幸などというものは、どれも人間が部屋にじっとしていられないがために起こる。部屋でじっとしていればいいのに、そうできない。そのために、わざわざ自分で不幸を招いている。」42 「退屈する心がもとめているのは、今日を昨日から区別してくれる事件である。ならば、事件はただ今日を昨日から区別してくれるものであればいい。すると、その事件の内容はどうでもよいことになる。」65 「時間とは何か?ー時間とは瞬間の連なりである。」306 考えること 376

    1
    投稿日: 2025.01.16
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    日常生活の中で暇や退屈を感じずにすむ、仕事や家事育児に没頭している「動物になる時間」も実は自分にとって大切なものなのだと気付かされました。 暇や退屈が今の世の中を作ってきたのかと思うと人間てすごい!マダニやトカゲの例も面白かった! 今日から楽しむ訓練をしていこうと思います。 出会えて良かった本です。

    4
    投稿日: 2025.01.15
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    暇と退屈について多くの哲学者があらゆる角度から分析していることに驚いた。國分先生がバサバサと哲学者の論を切り、あるときは持論に加えながら最後に結論を述べる文章展開に脱帽。読み終えたとき、哲学書にエンパワーメントされるなんて思ってもなかったから不意に涙腺を刺激されて泣きそうになった。決して易しくはないが、最後の最後に勇気をもらえる一冊。

    1
    投稿日: 2025.01.13
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    なんとなく感じてる今や退屈について、根拠を元に説明していて面白かった。 漠然と生きていることがもったいなく感じました。

    1
    投稿日: 2025.01.13
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    まず、第二章「暇と退屈の系譜学」でグッと心を惹かれた。遊動生活から人々が定住するようになったことで、能力の過剰⇒退屈が生まれたという論は目から鱗。さらに、ハイデッカーによる退屈の分析、ユクスキュルの「環世界」、環世界移動能力、フロイトの「快原理」と話が進むたびに、暇と退屈のメカニズムがクリアになっていく。人間は退屈の第二形式の中、気晴らしと退屈の混じり合いの中で生きている。消費社会はそれを悪用して、気晴らしをすればするほど退屈が増す構造を作り出した。そのことは身をもって感じる。自分の仕事だってそれを助長している。しかし、悪用されないように、時には、あえて悪用されるような態度で、のらりくらりと第二形式の中で生きようと思った。日々の仕事(これは職のことには限らないのだろうが、職のことでもいい)に追われている人たちや、何者かにならなければと追い込まれる人たちは、第一形式=第三形式を生きている(時間が多い)。かつて自分もそうだった。今でも時々、その形式に足を突っ込みながらも、第二形式に居を構えられているような気がする。気づけば、環世界を変えることが好きな自分がいる。様々な事柄に「不法侵入」されることを好み、わざと「不法侵入」されに旅や散歩に出かける。時には大きな挑戦もする。そういった生き方が第二形式での過ごし方を教えてくれたのだと思う。最近は、この生活にも慣れてきた。また段々と第一形式=第三形式を生きる自分が現れ始めている。そんな苦しいときだって、また<動物>になれる日が来るんだと思わせてくれた。

    1
    投稿日: 2025.01.04
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    「退屈」というありふれた概念を哲学者たちが分析してるのが読んでて面白かった 退屈にキーワードに注目して読んでみたら 哲学者たちはとても頻繁に「退屈」を分析してることがわかった 色々な概念も分かりやすくて面白かった 環世界の概念が有用すぎる それをボクに初めて提示してくれたこの本には感謝してもしきれない 原作(?)の『生物から見た世界』も読みたい 「どうしようもない」退屈の話題も面白かった

    1
    投稿日: 2025.01.03
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    現代日本の哲学者である國分功一郎(1974-)が、古今の思想を手がかりに「人は退屈をいかに生きるべきか」を問う。原著は2011年、増補新版は2015年。 参照される思想家は、パスカル、ハイデガーをはじめ、ラッセル、アドルノ、モリス、ジュパンチッチ、ニーチェ、シュトラウス、スヴェンセン、ヴェブレン、ガルブレイス、ボードリヤール、マルクス、ユクスキュル、コジェーヴ、フロイト、スピノザなど、多岐にわたる。哲学だけでなく人類学や生物学の知見も活用し、決して思弁的な議論に終始していない。 □ ︎ 退屈の何が問題か 「人間の不幸というものは、みなただ一つのこと、すなわち、部屋の中に静かに休んでいられないことから起こる」(パスカル『パンセ』中公文庫p92) 何もすることがなく暗がりでひとり横になっていると、自分は一切の関係から絶たれ、一切の理念的なものから引き離され、全く孤立した無内容で無意味な存在である、という事態に直面させられる。そして眼前には、何に供していいのかわからない茫漠たる時間の塊だけがある。自分の存在が空虚になっていきながら、にもかかわらず自分自身に対する異物感だけが最後までその空虚の中に存在し続ける。この存在論的な不安を忘れられるなら、平日昼間に日常的な仕事で時間をつぶしているときのほうがよほど心安らかにしていられる。 生に意味などなかったのだと暴かれてしまったニーチェ以降、知性的な「理念」や「真理」は相対化されてしまい、情念的な「血」や「大地」などといった代物をいまさら信じられるはずもなく、結局はいつものように「美」に縋りつくしかないのかとも思うが、しかしその「美」ですらも、文化産業に取り込まれてしまって久しい。 退屈は、根源的にはこうした生の無意味さと、その無意味さに自足できない過剰さからくる。この退屈、則ち生の無意味さを前にして、それでもなお、我々はいかにして生きていけばいいのか。これが「暇と退屈の倫理学」が取り組む課題である。 「暇と退屈の倫理学」を構築していくために取り上げられる論点は多岐にわたるが、特に興味深かったものとして、退屈とファシズム、定住革命、モリスの「民衆の芸術」論、有閑階級の「品位あふれる閑暇」、ポスト・フォーディズムの労働と消費の形態、消費と浪費の区別、本来性なき疎外、ハイデガーの退屈論、環世界間移動能力による人間と動物の区別、を挙げておく。 □ ︎ ハイデガーの退屈論 本書の議論の中核は、ハイデガーが『形而上学の根本諸概念』で展開した退屈論の批判的検討にある。以下、この点に絞り、議論の概略を整理しておく。 退屈の第一形式とは、(実際に退屈であるところの)何かによって退屈させられるということ。外からくる退屈。或る物事が自分が期待するようには展開していかない状況に宙吊りにされて、いま為すべき仕事を実行することができないという空虚に放って置かれ、退屈させられてしまうということ。 なぜ為すべき仕事を実行できずにいることが時間の無駄遣いであるとして空虚であると見なされるのかといえば、そうした日常的な仕事を効率的にこなすということがそれ自体として自己目的化してしまっているからであり、それは謂わば仕事に自己を喪失してしまっているに等しい。 つまりこの第一形式においては、退屈とはあくまで日常的な仕事が不意に中断させられた事態としてのみ見出されるのであり、そこでは根源的な退屈(退屈の第三形式、後述)という事態を反省的に認識する可能性は閉ざされている。 退屈の第二形式とは、(実は退屈から目を逸らすための「気晴らし」であるところの)何かの折にふと退屈してしまうということ。内から湧き上がる退屈。退屈から目を逸らすために半ば無自覚に為される「気晴らし」において、それでもなお影のようにまとわりついてくる根源的な退屈(退屈の第三形式)によって、退屈してしまうということ。根源的には為すべきことなど何もないのに、さも為すべき何かがあるかのように「気晴らし」に自らを投げやっているとき、通常の意味での退屈(退屈の第一形式)からは逃れられても、決して根源的な退屈(退屈の第三形式)に浸された時間から解放されることはなく、ただ自己の内に空虚が増幅されていき、退屈してしまうということ。 しかしこの第二形式においては、第一形式のように日常的な仕事に自己を喪失しているがゆえに非反省的に退屈させられているのではなく、少なくとも自分が根源的な退屈(退屈の第三形式)と背中合わせになってしまっているという事態を反省的に認識する可能性には開かれているのであって、謂わば「気晴らし」を通して根源的な退屈(退屈の第三形式)とアイロニカルに戯れている。 退屈の第三形式とは、何によることなくただなんとなく退屈であるということ。無条件にただそこにある根源的な退屈。そもそも人間には為すべきこと、果たすべき役割、かくあるべき本質などといったものは予め一切与えられていない、人間は世界において予め一切の意味連関から切断されている、つまり人間の生は無意味である、という人間の存在論的条件からくる退屈。いかなる「気晴らし」をもってしても決して打ち消すことができない退屈。そこにあるのは、わけもなく、何にもよらず、ただ退屈である、という全面的な空虚。「余すところなき全くの広域」に一人取り残されている、という空虚。世界が自分に対して全面的な無関心のうちにあり、世界から何も与えられるものがない、という空虚。 この退屈の第三形式によって、なぜ為すべきことをもたないという事態が人間にとって耐えがたいのか、その理由が説明可能となる。それは、為すべきことをもたないという事態によって、根源的な退屈、さらにはそれが由って来たるところの人間の生の無意味性を、直視させられることになるから。逆にいえば、仮初にも為すべきことをもつことでそれによって時間を埋めることができれば(「気晴らし」)、この自らの生の無意味性から一瞬でも目を逸らすことができる。 ところで、この根源的な退屈を通して、世界において一切の意味連関から切断されていることを突きつけられた人間は、かえってそこに自らの根源的な可能性としての「自由」を見出す。この「自由」の可能性はそのつど「決断」(無根拠に何かを選び取ることで、自己を世界へと投げやること、自己を世界へと曝すこと)によって現実化される。「現存在の自由というこのことは、現存在が自分を自由にするということのうちにのみある。しかし、現存在が自分を自由にするというこのことが起こるのは、そのつどただ、現存在が自分自身へと向けて、決断するときだけ、すなわち、現存在が現-存在としての自分のために自分を開くときだけである」(『ハイデッガー全集第29/30巻 形而上学の根本諸概念 世界-有限性-孤独』創文社p248-249) しかし、根源的な退屈を経て「自由」を自覚し、「決断」に退屈からの「突破」の可能性を賭けようとする態度は、「決断」というものが「決断」に対する懐疑や逡巡ひいてはそれらを惹き起こす思考そのものを許さないものである以上、それは謂わば「決断」に自己を滅却してしまっているに等しい。つまりこの第三形式においては、根源的な退屈という退屈の第三形式に対する反省的な認識は放棄され、根源的な退屈それ自体が抹消されてしまうことになる。 こうして、根源的な退屈を前にして、日常的な仕事に自己を喪失してそれを反省的に認識することができない第一形式の道でもなく、「決断」に自己を滅却してそれに対する反省的な認識を放棄してしまう第三形式の道でもなく、それを見据えた上でそれとアイロニカルに戯れる第二形式の重要性が見出される。 □ ︎ 無意味な生を楽しむために、学ぶ 本書の結論はこうだ。第二形式のように根源的な退屈と戯れるために、「気晴らし」としての文化や学芸を楽しもう(ただし、記号として消費するのではなく、贅沢として浪費しよう)、そのためには趣味(美意識、審美眼)を磨いていろいろなことに楽しみを見出せるようになろう、そのためにはいろいろなことを学ぼう。とても享楽的で素敵な結論だ。学びこそ最良の暇つぶし。 しかし、何かを楽しもうとするとき、記号(モノではなく、観念や意味)を全く消費しないことはありうるだろうか。そもそも何かを楽しもうとしているとき、それが消費としての楽しみではなくて、贅沢としての楽しみであると、どうやって判定することができるのだろうか。文化産業とは、まさに文化や学芸を商品として消費させるものとして現在隆盛を誇っているのではないか。 結局のところ、消費ではなく贅沢としての楽しみの在り方を、文化産業によって提供される文化産業にとって都合のいいだけの楽しみ方ではなく自分なりの楽しみ方を、自分自身の学びとそれによって磨かれる自分自身の趣味(美意識、審美眼)を通して模索していくしかない。例えば、ただ受動的に記号を消費するのではなく、能動的に何がしかを産出するということも、そのひとつだろう。アレントのいう「仕事(work)」のような、自分で何がしかを作り上げる楽しみに興じるということ。 「ゆえに芸術の目的は、人々に彼らの暇な時間をまぎらし、休息にさえあきることのないようにするために美と興味ある事件とを与えることによって、また仕事をする際には希望と肉体的な快楽とを与えることによって、人々に幸福感を味わせることにある。要するに、人々の労働を楽しく、休息を豊かにすることにある。したがって真の芸術は人類にとって純粋の祝福なのである」(モリス「芸術の目的」『民衆の芸術』岩波文庫p44-45) これを、職業芸術家にお任せするのではなく、自分で自分のことを楽しませてみるということ。楽しみと楽しみ方を、自分の手元に取り戻すということ。 「これに対して共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでもすきな部門で、自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全般を統制しているのである。だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に評論をすることが可能になり、しかも、けっして猟師、漁夫、牧夫、評論家にならなくてよいのである。」(p224、マルクス/エンゲルス『ドイツ・イデオロギー』より) 「人はパンがなければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラももとめよう。生きることはバラで飾られねばならない。」(p33)

    21
    投稿日: 2024.12.31
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    暇を退屈せずに過ごしましょう。 ということかな。 違うか? 何となくわかったつもりで読んでみたけど、わかんない。 あと2回は読んでみよう。 一昔前は、ひまじんが尊敬される時代。 実は、今もそうなんじゃないかと思うけれども。 FIREした人は、尊敬の的だもの。 でも、現代人は、FIREしたところで、暇が苦痛になる所が異なっている。 私なんて、暇すぎる職場が苦痛で転職した経験あり。なんか、笑える。 教養は、楽しむことが目的だったという内容が、ハッとさせられた。資格とか稼ぎとかじゃないんだよ。 ニーチェとか、スピノザとか、ハイデッガーとか、馴染みの哲学が引用されていたので、まだ何とか読めた気がする。でも、難しい。 パスカルとルソーは、来年の課題。 気晴らしの中で気晴らしを探してる。

    26
    投稿日: 2024.12.30
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    このレビューはネタバレを含みます。

    重厚な内容だった。 メモをとりながらじゃないと作者の意図を読み取るのが難しいくらい。 哲学、世界史、社会学、生物学、人間科学、脳科学など様々な分野の著名人の著作を引用しながら「暇と退屈」を分析。 最終的には「倫理学」として結論を出す。 ①退屈について考える機会を持つこと。 大切なのは「理解する過程」。 本書の「通読」は〈暇と退屈の倫理学〉の実践の一端。 ②贅沢(消費ではなく浪費。)を取り戻す。(ハイデッガーの退屈の第二形式の気晴らしを存分に享受する。) 衣食住、芸術、芸能、娯楽を楽しむ能力を訓練する。 ※消費社会とは退屈の第二形式を悪用し、気晴らしと退屈の悪循環を激化させる社会のこと。 ③人が退屈から逃れるのは「人間らしい生活から外れた時」=〈動物になること〉。 環世界移動能力が高い=退屈。 「不法侵入」によって環世界移動能力は下がり、思考が必要となり「なんとなく退屈だ」はなくなる。 「楽しむ」ことは思考につながる。 楽しむためには訓練が必要。 「待ち構える」…自分にとって「不法侵入」となりうる、夢中になれる何かを探し当てる、〈動物になる〉心構えを持っておく。

    2
    投稿日: 2024.12.28
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    このレビューはネタバレを含みます。

    暇とは何か?人はなぜ退屈するのかを書かれた内容。 読む時間をあけてしまったからか、自分が頭悪いだけかもしれないが、正直途中から理解しづらかった。 説明が回りくどいと感じたのは自分だけなのか、、 メモ 生きるために移動しながら色々なことを、こなしていく遊動生活と余裕を持って物思いに耽り、調理の仕方を工夫する定住生活。余裕が退屈へと移行する。どちらの生活がよかったか悪かったの判断はできない。 暇=何もすることのない、する必要のない時間。客観的な条件。 退屈=何かしたいのにできないと言う感情や気分。主観的な状態。 暇=退屈ではない。退屈しているとき、必ず暇な状態なのか?必ずしも暇ではないのか? 第一形式の退屈 気晴らしをあとどれくらい続けなければいけないのか、時間がのろく感じる 時間をやり過ごすための気晴らし(木を数えたり) 期待する時間とじっの時間のギャップによって退屈させられる 例:列車の待ち時間で見ること木を数えたり 第二形式の退屈 その行為自体が気晴らし パーティ自 例:パーティの気晴らし(会話、葉巻、)をしていたがパーティ自体が気晴らしだった 第三形式の退屈 なんとなく退屈 全てがどうでもよくなっている→それゆえ、自分の持っている可能性にきづく 日曜日の午後に大都会の大通りを歩いているときにふと感じる退屈 なんとなく退屈大3の退屈から逃げるために、12が出てくる じぶんならもっとできるという理想とのギャップで退屈が起きる? 結論 下記結論に納得する為には本書を読んで考えること自体ご重要であり、結論だけ読むものでは無い ①退屈に対して、それぞれのやり方で切り開く必要がある ②退屈にならない為には、楽しむ訓練を受ける必要がある →食事を楽しむ(美味しい、美味しくない 古典を楽しむためには古典を知らないといけない 絵画を楽しむためには、絵画の歴史を知る 学ぶことで楽しみとして受け取ることができるようになる

    2
    投稿日: 2024.12.28
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    【なぜ読むか】 タイトルに惹かれたため。 哲学(考えること)が好きだから。 【感想】 前半と後半で思ったことが異なる。 ⚪︎前半 ハイデッガーが発見した退屈の第二形態の話を読み、自分が転職を決断したことも暇と退屈に耐えられず、奴隷になることを選択したからだと思った。そう俯瞰で考えると実に自分が愚かで滑稽に思えてきた。人生は暇つぶし、気晴らしに満ちている。だとしたら(死ぬのは嫌だが)死にたくなる気持ちもわかってしまうと思った。 だって、自分のなすことは全て「暇つぶし」言い換えると「気晴らし」にすぎないのだから。 ⚪︎後半 結論を読んで、この本を通読して本当に良かったと思った。 結論は3つあったが、著者がこの本を通読しないと後半2つはわからない、と言ったのが頷ける #頷けることがそもそも、議論に置いていかれずについていけたことを示しているように思われ、より満足感を増した。 ①ああしなければ、こうしなければなどと思わなくていい ②人間らしくなろう 気晴らしを楽しめるようになろう。勉強して、目の前の事象・事物を味わえるようになろう ③動物的になろう 「とりさらわれる」にはどうしたらいいのか、とりさらわれの状態になれるような場所を把握しよう。 私は博物館巡りと旅行が好きだ。そして、以前日経新聞に「旅行が消費になってしまった」という記事や、インスタ映えに象徴されるような観光や、観光地が観光客向けに用意したコンテンツに反発を感じることが多かった。これは俺自身が保守派であることを示しているからなのか?新しい楽しみ方を拒否しているだけなのか?とも思うことがあった(ただ自分が捻くれているだけなのかな?と) しかし、そうではない。自分は旅を、博物館を浪費できている。気晴らしとして没頭できている。その土地について知ろうとし、味わおうとしているし、実際に味わうことができている。 何かを体験した時に「自分のフィルターを通して、言語化することが大切だ」となんとなく思っていたけど、それはコンテンツを消費する側ではなく、味わって浪費する側として自分自身が存在しているからだということがわかった。 また、読書もいろんなものを読むのが好きだし、新聞も幅広く読みたい、博物館もオールジャンル行く。そしてそこにずっといられる。それは、本書で言うところの「理解する過程」を私自身が大切にしているから。そのようにいろんなことに対して向き合って、自分の知性や本性を発見して自己理解を深めることが自分の日々の楽しさを作ることにつながっているのだと思った。 そんなふうに学ぶことが、世界を自分なりの切り口で切るための道具になるし、それによって日常的に俺は楽しめる訓練をしているんだと思った。無意識的にそういったことの大切さを理解していたのか、と俯瞰的な視点を獲得できた。 いろんなスキーマを持つことが、人生を楽しむことにつながるのではないか?という仮説が立証された気持ちになった。 また、結論で最後に述べられていた、退屈と向き合える人は他人に対する事柄を思考できるようになる、という言葉があったけど、これはまさに私がすごく共感している「ノブレスオブリージュ」の考え方だし、他者貢献ができることにこそ、生存価値を見出せるんじゃないか、という考えにつながっているように思われる。 補足資料で述べられていた「傷と運命」の最後にある人は生きていく中でサリエンシーに傷つけられ、傷跡(記憶)をおっていく。しかし、この記憶は1人で消化するには限界があり、他者を介して始めて消化できるものがある、という文脈があった。 私は他人と会うことで、他の人が生きてきたコンテクストで、その物事をどう解釈するのか、どう考えるのかを聞きたいと思うし、議論したいと思う。純粋な知識欲でそう思うのだが、それはつまり、他者を介して自分の記憶を消化し、自分を涵養していきたいという欲求なのだと思った。「人は、人でしか磨かれない」という言葉があるが、「人は、人で磨くこともできる」という言葉が適切なんだね。

    1
    投稿日: 2024.12.27
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    圧倒的に読みやすい! 幾多の哲学者の考え尊敬しつつ,時にディスりながら進めていくスタイルが面白い。 この哲学者はこういうふうに考えた。この部分は素晴らしい。でもここはおかしくない?これって納得できる?というように,哲学者たちの力を借りながら一緒に結論に辿り着こうよ,という筆者の温かさを感じた。それからちょっとユニークに、コミカルに語ることで、パスカル、ニーチェ、ラッセル、ハイデッガーがとても身近に感じられる。 暇と退屈について論じる中で, 西田正規の「定住革命」やユクスキュルの「環世界」にも触れられていて,とても面白い。 そして,クライマックスでは筆者の考える結論についても,余すことなく説明してくれる。こういう本によくある「結論は皆さん自身が導きだしてください」ということではなく,私は現時点でこう考えているよ,ということを伝えてくれる。 今は2週目で読書メモを残しながらじっくり読み進めています。 読後は世界の見方が変わったなと思える一冊でした!

    2
    投稿日: 2024.12.27
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    これまでの概念をいくつも壊された良著。 安定状態を作り出すことが快原理であるというところは、サウナで整うこと 性的に満足することの共通項を見出してくれた。 最終的な結論は無理にまとめた感もあるが、いろんな環世界に浸ること、そのために労働時間を少なくしていくことが大事というのはなるほど、となった。退屈の解消を根本から解決するために消費型社会を否定していくこと、記号を消費しないことは今すぐ始められる一歩だと思う

    0
    投稿日: 2024.12.22
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    暇とはなにか、退屈とはなにか。 そんなテーマを据えてパスカルやニーチェを借りて原理的に考えたり、マルクスを頼り労働史に思いをはせたり、はたまたそこからレジャー業界へと展開し、資本主義と暇について考える。 さまざまな思想を暇と退屈というテーマで縦断していくのは読みやすく面白い。 結局として明確な結論は出ない。しかし、この本を読んでいる間、暇と退屈について考えていたあなたは間違いなく確実なものだ。デカルトの論を借りれば。

    0
    投稿日: 2024.12.22
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    倫理や哲学の授業で出てきた人がオールスター感謝祭ってくらい出てきて、伊達に授業受けてなかったじゃんってシンプルに嬉しかった。(倫理と哲学だけはハマってた笑)数年読みたいと思って頭の片隅にいた「環世界」もどっぷり解説・応用してくれていて、とてもわかりやすかった。 わかりやすかった分、読みやすい分、日常にまで落としてくれているが、重複と強調が多く、再三Netflixにある「前話のおさらい(recap)」のスキップを押したくなる気持ちになった。 - 安定した環世界に不法侵入があると、考えざるを得なくなる。退屈することが運命付けられた人間にとって、考えることにとりさわられる時は、動物に近付くことができる。 - 教育は、楽しむ能力を訓練すること。食べることだって、映画を見ることだって、体験を通して訓練されたもの。 - 楽しむの先に、考えるがある

    1
    投稿日: 2024.12.16
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    難しかった…読み切るのに1ヶ月異常かかった 燃え尽きて増販付録の所は読んでない 数年後の自分に期待 書かれ方が現代文の問題文で、かなり頭使いながら読んだ 意欲と集中力が薄れた中盤あたりはあんまり内容入ってない ハイデッカーの暇の第1形態駅舎の話らへん (後々章で要約やまとめが度々記述されてたから回収できた感あるけど) 全体の理解度としては半分前後ぐらいな感じする

    0
    投稿日: 2024.12.14
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    私はよく落ち込む。 その時はたいてい「暇で退屈なとき」だと気づいた。 だから落ち込まないよう気晴らしにそそくさどこかへ出かけたり、何かしら動いたりしていた。(それによって無駄な出費が増え頭を抱えていた) 落ち込む自分を変えよう、といろんな本を試したが、う~んしっくりこない。いやいや原点に返ろう、そもそもなんで「暇になるんだろ」と手に取った本です。 暇と退屈ってそもそも定義が違うんですよ、皆さん知っていました? さらに、暇って3形式あるんです。その内容はこの本を読まないとわからない。 この本を読んで、自分の暇の形式を自己分析できるようになったおかげで落ち込む暇が無くなったのは事実。(笑) 人間の生活様式の変遷から現代の大量消費社会まで幅広い範囲で暇を考察している、この本。絶対読んでほしい

    2
    投稿日: 2024.12.14
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    時間かかりました。難解だけど、この分野にしては読み易かった。人間生活は、退屈や暇と向き合う事であり、それが故に自由と不自由を行き交っている。そんな感じ?時間をおいて再読するのもいいかも。

    12
    投稿日: 2024.12.06
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    個人的には、途中で読むのをやめようかと思うほど難解な箇所もありながらなんとか読了。 暇を克服するには「人間であること」を楽しむこと、そして「動物になること」。 これだけ書いても何のことやらですが、本書を読めばその意味が分かります。 いやーこの本はあと3回くらい読まないとすべての内容が理解できないです。 いい読書体験となりました。

    2
    投稿日: 2024.12.02
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    このレビューはネタバレを含みます。

    初めてこういった哲学の本を読み切った。 原理論、哲学、人間学、倫理学といった普段触れないものから物事を整理していくのは新鮮だった。 結論をまとめると以下のような感じ。 ・消費(=スペックを得るため、何かを自慢するための活動。企業や社会に踊らされる終わりのないもの)ではなく、贅沢をし浪費(=必要を超えて物を受け取ったり、吸収したりすること。終わりがあり満足ができる)をすること。贅沢は味方。 ・そのためにはそれらの物(衣食住や芸術)を楽しむこと。楽しむための訓練=学んで楽しめるようになること ・そのためにたくさん思考し<とりさらわれる>こと=退屈を忘れるほど没頭すること すなわち、この状態になるためには、ただの消費に踊らされず、いわゆるアンテナを張って世間や物事を解像度高く見て夢中になったり深く突き詰めたり没頭できることを探すということに帰結するだろうか。 教訓とせねばと思っている茨木のリ子の「自分の感受性くらい」をまた思い出した。 以下は、なるほどと思ったところ。 第一章 ・退屈した人間はより刺激や苦しみが欲しくなる。何をして良いかわからないから逃げるため、何かしら理由を与えられたら喜んで苦しむ。 ・今日と同じ明日が耐えれない。今日から区別してくれる事件が何でも良いから欲しい。 第三章 モデルチェンジするものを人が買うのは、「チェンジした」という情報そのものを消費してるから。 気晴らし・退屈しのぎ。 第四章 ・消費は物を受け取るのではく、観念を消費する物で上限がない。その店に行った・モデルチェンジをしたということに付与された観念や意味。 ・広告は消費者の「個性」を煽り、「個性的」であることを求め、消費者は「個性的」でなくてはならないという強迫観念を抱く。が、個性の定義は曖昧であり、完成しないため終わりがない。 ・余暇は消費の対象となっている。「好きなことをしている」と周囲にアピールする時間となっており、何かをしなければならなくなっている。 第七章 ・何となく退屈だを避けるために人は働いたり消費したりと奴隷になる。何かに飛び込むべきなのではと苦しくなる。好きだからやるのではなく仕事やミッションの奴隷になることで安寧を得る。 ・過激派や狂信者は何となく退屈から解放されてるように思えるので人は羨む 何か違う明日はないかと思い、仕事やミッションを与えられて苦しむことで退屈をしのぐ。 自分の思っていたことは、一般的だったのだなと感じた。自分のやりたいこと夢中になれることを見つければ変な羨望や消費に踊らされたりせずに済むということ。働からずに生きるのは無理だけど、退屈だ〜〜〜で辛くならないためには楽しまないといけない、そのために楽しみ方を学ばなければならない。 生きることはバラで飾られねばならない。

    1
    投稿日: 2024.11.30
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    3ヶ月くらい前に読んでた本だから、少し忘れてるかもだけど記録として。 暇からくる漠然とした不安に悩まされている時にとても参考になる本。具体的な暇の潰し方ではなく、なぜ暇なのか、なぜ不安なのかを倫理学等の様々な観点から考えることが出来る。時間の捉え方や、人生を充実させるための考え方としてとても有益だと思った。 また、最後のまとめ部分で、「この本は結論だけを読んでも意味がなく、本書を読み通すことで、読者一人ひとりが暇と退屈について考えることこそが重要な目的である」というような内容が書いてあったが、読んだ上で、まさしくその通りだと感じた。 暇について考えたい方はぜひ。

    4
    投稿日: 2024.11.28
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    ● 2024年11月25日、八王子・くまざわ書店。帯に「2023年、東大・京大で1番読まれた本」と書いてある。ふーんて感じの中身だけど。 ● 2024年12月4日、Tiktokで医者の田口先生がよしたぐ動画で、頭いい人が読んでる本3選で紹介してた。ついこの前、書店で見たやつだと思った。 ● 2025年2月26日、グラビティの新着で、この本と「読書の腕前」の2冊の写真を投稿してる人がいた。「本を送りあえる友達がいるって凄い事だと思う」 ●2025年8月21日、グラビティで私がフォローしてる、たぶん株投資してる女性の投稿にのせてた画像にこの本が写りこんでた。「スフレパンケーキはじめて食べた、美味しい...ふんわりとろけて無くなったの、まるで夢のようなパンケーキだった♡」 今日→「アーンお金減っちゃってりー!!給料1ヶ月分以上余裕でへっちゃてりー!!アーンアーン」

    3
    投稿日: 2024.11.25
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    具体的身近な例に序盤はなるほど!なるほど!と思いながらサクサク読めるが、中盤からハイデガーや抽象的な表現も多めで段々と読みにくくなる。退屈や暇が連呼されているのもあって途中から飽きてしまった。 もう結論だけちゃんと読もうと思ったら、そんな読者にも釘を刺していて苦笑い。しかし哲学書としては比較的読みやすい方に分類されると思う。ぜひ時間のある人はトライ。

    1
    投稿日: 2024.11.24
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    大変充実した読書時間でした。 漠然とした不安を持っている人や、何かを始めないと!と焦っている人は一度この本を読んでみるといい気がしました。 そういった不安や焦りは実はこの本に書かれている事が前提で起きている事なのかもしれません。 この手の本はオチがなく終わってしまう傾向があると思うのですが、しっかりオチもついているので、驚きです。 しかもオチに納得感がある! オチに持っていくまでに、様々な角度から「暇と退屈」を分析していくのですが、その流れが非常にスムーズなのです。遠回りしている感が全くない!! ファイトクラブが具体例に登場するのですが、この本読むまでは「ブラピの映画でしょ?!」程度の気持ちだったのですが、「コレは見なくては!」に変わりました。 (人の行動を変えさせるってすごくないですか?) 心境的には「本全部に付箋!」です。 私は二十代~三十代に漠然とした不安から資格を取得しまくる行動に出ていたのですが、その謎もこの本で解明されました。 あんまり細かく書くとね、ネタバレになるのでこの辺に留めておきますが、今を生きる人たちはこの本の内容を知っているかどうかで生きやすさは変わってくるんじゃないかな、と思いました。 それくらい人生の価値観を変えさせる本ですし、今後の人生戦略を考えるうえでも参考になる内容だと思います。 これからの時代を生き抜くために、この考え方を知っておくと生きやすいんじゃないかな、というのがありました。 ”大切なのは、魚釣りはしなくても漁師にはならなくてよい、文芸評論をしても評論家にならなくていいということではないだろうか?それは余暇を生きる一つの術である。” 好きな事=職業に縛られる必要はないんですよね。 好きを副業に、趣味を仕事に、などお金が絡んでくると楽しかったものが一気に苦しいものに変わっていく気がするのは私だけでしょうか?? そもそも、自分の好きをマネタイズする必要があるのか。必要があるのであれば、今がスタートのタイミングなのか。世の中の流行り・情報に惑わされていないか。 抜粋しておきながら言うのもなんですが、正直一つの言葉を切り取って「ここが」という本ではないのです。 漠然とした不安がある人には情報の宝庫だと思います。 私は難しそうな本だと思い、図書館で借りてきて試しに読んでみたのですが、読んでいるうちに再読熱が高まってきました。手元に置いておきたいので、購入したいと思います。

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    投稿日: 2024.11.23
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    結局何の結論もない。何も言ってない。偉大な哲学者の論の一部を、知った顔で、わかりやすくとかいいつつその実分かりにくく、悪意を感じる程に理解されにくく難解に響く様に一部だけ、原書を読んでないと思って馬鹿にして並べて、しかも小難しいところを抜き出しているので読みにくく、日本語訳も微妙で、キーポイントとして抜き出した単語がまずい。だって本来使われている意味とずれ過ぎていて余計に混乱する。 この本を平積みにして人々に広く買わせようとした本屋を恨む。パッと見良さそうに思った自分を悲しむ。懐かしく哲学書を読みたくなった思いを全力で踏み躙る。何も言ってない本である。 とりあえず批判したりなんだりしているのも憎たらしい。偉人達もお前に批判される義理はないでしょうよ。大学生が、選ぶって書いたらこうなるかな、特に、遊文学部のボンボンの馬鹿どもが。 ダメです。一般の人にはもちろん読みにくい。でちょっと賢い風に思う人たちの事はおそらく惑わせたりわかった風にしたりするかもしれない。でもこの本は何も生まない。何の解決にもならないばかりか、何の提言もしていない。 うにゃうにゃ、とか、ふにゃふにゃ、とかしか書いてない。あーだこーだ、と言う本です。残念。

    0
    投稿日: 2024.11.22
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    なぜ働かないとダメなやつだと思われるのか?って考えてるときにこの本を思い出して読んだ。 とても読みやすくて、夢中で読んだ。 退屈から逃れるために労働してまうんじゃないか?というのがとても腑に落ちた。 労働以外のことで、退屈しないことをやりたい。 みんなそうだと思う。 労働じゃない、退屈じゃないことを追求して生きたい。 みんながそうできる社会にならなきゃいけないと思った。

    10
    投稿日: 2024.11.22
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    本当は読み終わってない。 100ページくらいまでは読んだけど、にじおの本だからこの前返しちゃった。面白い本だったのでいつか最後まで読もうね。 何をしても楽しくないな〜って感じる時がもし来たら、読んでほしいかな。

    0
    投稿日: 2024.11.17
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    タイトル見て、なんてわたしに ぴったりな本なんだろ?と思って 購入 ⁡ 難しいかな?と思ったけど 結構面白くて読了出来ました ⁡ 暇と退屈は似て非なるもの わたし、退屈はしてないけど 暇なんだろーなぁと改めて思った

    1
    投稿日: 2024.11.16
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    おもしろかった。 まずは退屈の発生メカニズム。本書の記載順とは異なるが、まとめると「定住生活」によりエネルギーのやり場を失ったことが、より具体的に言うと周囲で生じることについての予測モデルを構築して省エネで安定した生活を送りたいのに新たな刺激による負荷を与えられたことで蓄積した苦痛の記憶が、やることがなくなった時に立ち上がってくることが原因であり、その苦痛の記憶の再生により経験することとなる苦しみが退屈である。 次に退屈の形式。完全な自由に向き合う際の虚無的な退屈(第三形式)は、その中で何かやるべきことを求めてそれに没頭することで解消するかに見えるが、今度はその没頭対象に取り組めない状態がくると退屈する(第一形式)。これらはいずれも狂気のプロセス上にある、一方で、安定した状態を保っているのが、気晴らししているなかでぼんやりと立ち上がる退屈(第二形式)である。 そして退屈の解消法。一つは、気晴らしとして行う行為やそこから得られる刺激に関して、観念を消費するのではなく(観念の消費はいつまでも満足できない)、その刺激自体を味わう「浪費」「贅沢」を行うことである。 そして、もう一つは、新たな刺激のうち夢中になって没頭できる対象を常に探し、新たな集中の対象を得ることである。 以上が著者の主張の軸だが、さらにこれらを説明するための付随的説明として、定住生活という革命、環世界の理論、自己の正体(生まれてすぐは刺激による興奮とそれを抑える作用が複数立ち上がっている状態で、それが統一された状態が自己であるに過ぎない)など、興味深い話題もふんだんにあって、それこそ退屈せずに読めた。 この世界で人間が生み出しているあらゆる災厄は、つまるところ、退屈が嫌だという人間の癖の発露に過ぎないのではないかという気が確かにした。

    1
    投稿日: 2024.11.15
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    思ったより難しかったー。ただ、わからないなりにとても刺激的でたくさんの気になる言葉に出会えた。なんで人は「退屈」するのか。「暇」との違いは何か。なんで人は刺激や興奮を避けつつも求めているのか。「慣れ」とは。「学ぶ」とは。「楽しむ」とは。暇と退屈についての考察は、とんでもなく深いところまで繋がっていく。読んでいくうちに、結論よりも理解する過程が大事、という言葉に出会う。まさに今じゃ、と思う。え?と思ったことをとことん考えて調べて煮詰めていくことの楽しさ。楽しむとは考えることであり、生きることであり、退屈を追っ払ってくれるものなのでは、と思う。それ、すなわち読書では、と思う。私の、結論。

    2
    投稿日: 2024.11.15
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    大学の長期休みになんとなく手に取って読んでみたけれど、かなり時間をかけてしまった。 内容は非常に興味深い。しかし全部理解したとは到底言い難い。 筆者は様々な分野から暇と退屈について論じている。 特に気晴らしの例や消費社会の例は自身も陥ってると思われるものであったためハッとさせられた。 本書の結論は、そんな痛快な例から想像されるものよりずっとやさしかった。 いつかまた読み返したい1冊である。

    5
    投稿日: 2024.11.12
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    ベストセラーになった哲学書。 おっかなびっくり読み始めたが、たしかに自分でも読み進められた。 「暇」とは何もすることがない、する必要がないこと。 「退屈」は、何かをしたいのにできないという感情や気分だとのこと。 最初に、「暇と退屈」の原理的な考察がある。 出発点はパスカル。 パスカルは人間の不幸の原因を退屈に求め、追い求める対象の中に幸福があると思い込んでいるというシニカルな指摘をしたと紹介されている。 筆者はこの延長上にラッセルとスヴェンセンの議論を位置付ける。 ラッセルは情熱を見つけるよう説き、スヴェンセンはありもしない生の充実を求めるのをやめよと説く。 個人的にはスヴェンセンに寄りたくなるが、本書では本質的な解決にならない、と退けられていた。 次には人間の生活様式と退屈の関係が俎上にあがる。 定住が退屈を生み出したということだが、ここで面白かったのは人類史の見方が大きく変わったという「定住革命」観のところ。 食料生産ができないために遊動生活をせざるをえなかったというこれまでの説明が覆されているのだとか。 ところが、例えば日本では稲作が到来する以前に定住が始まっていたように、どうやら定住の結果食料生産が始まったという説なんだそうだ。 そして、定住生活によって人類はトイレとごみ処理の問題を抱え込むことになる…とのことで、そうだとすれば、現代人は1万年経ってもなかなか習慣が身につかず、問題解決にも至っていないということで、根の深さを思い知らされる。 その後、近代から現代の社会の暇との向き合い方が整理されている。 旧時代の貴族や有閑階級は、他の階層の人々を搾取しつつ、「暇を生きる術」を持っていた。 この人々が没落し、やがて大衆社会がやってくるのだが、労働者たちは(管理された)余暇を与えられ、暇を持て余すこととなる。 今度は、この人々の余暇を消費させるために、さまざまな文化産業が生まれ、人々は消費ゲームに巻き込まれてしまう。 というところで、後半の山場、ハイデガーの議論が紹介されていく。 正直、ここへきて、やっと話がどこへいくか、なんとなく見えてきた気持ちがした。 人間は自由である。 だから退屈する。 「なんとなく退屈」で、気晴らしの力もなくなっている、最も深い状態(第三形式)から逃れるため、人は仕事を作り出し、没頭する。 時間に追われ、自分の求めるものが得られないとき、退屈を感じる状態(第一形式)になる。 一方、退屈を紛らす気晴らしをしているのに、その気晴らしの中にすでに退屈が含み込まれているのが第二形式。退屈に浸っている状態。 そして、ハイデガーは退屈は人に自由であることを教えているのだから、それを発揮するため決断せよ、と言っているのだそうだ。 この話になって、自分の状況がどこに置かれるのか見えてきた気がする。 将来仕事を辞めたら、いったいどういう生活があるのかを考えると、恐ろしい気持ちにもなる自分の状況のことだ。 さて、筆者の議論は、ハイデガーが認めなかった環世界(ユクスキュルによる。生物の個体それぞれが生きている具体的世界)の議論を導入する。 人間には、異なる環世界を移動する高い力があり、この力のため、一つの世界に留まっていられない。 そこで、人は自らに気晴らしを与え、退屈の中で生きていく。 筆者は、自分の環世界をこわしにくるものを受け取り、新しい環世界を形成することに希望を見出だしているようだった。 ということで、退屈は各自が自らの力で切り開いていくものだという結論に向かう。 そして、「浪費」の価値を再発見していく。 消費社会では観念を求めるように作られているため、どこまでいっても欲望が満たされることはない。 これが現代社会の退屈を生み出すものだとした上で、物を楽しむ道、「贅沢」を求める道を開かないといけないという。 結論を出してくれたことは、読者の立場からはとてもうれしいことだが、ちょっと居場所がない気がする。 自分はきっと退屈の第一形式にいる。 現代人が基本的には第二形式にいるという議論で結論が出されていくので、ちょっと置いてけぼりにされた気がするのだ。

    1
    投稿日: 2024.11.10
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    誰もが体験したことのある暇と退屈を様々な角度から考察してみる本。哲学のあーそういう考え方も出来るなぁがやっぱり読んでて楽しい。

    1
    投稿日: 2024.11.07
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    本屋の平棚に積んであるのはずっと目にしていた。衒学的な本だろうと思っていたが、まえがきからよく判らない熱いに文章に引き込まれる。 暇と退屈をテーマにグイグイと突き進んでいく本。常識と思っていたことに揺さぶりをかけてくる。 人が遊動生活を捨て定住を選んだのは、そうせざるを得なかったから。むしろ、遊動の方が人類には適している。 パスカルは経済学の完全競争のように現実にはあり得ない概念として自然人を提示した。有り得るべき姿としての本来性を排除して疎外を示した。パスカルは自然に還れなどとは言っていない。 ハイデッカーに纏わる本は読んだ。NHKの100分de名著のテキストを買い番組も観たが、それ知っていると思うことが無かった。本書とアプローチが違うとは言っても、ホントに僕はバカじゃなかろうか。 著者のハイデッカーの批判的検討は、やはり本書の眼目と思う。人間と動物の違いを環世界移動能力としている。人間も環世界に生きているが、不安定な環世界しか持ちえない。一つの環世界に浸っていることが出来ない。相当な自由度を持って環世界を移動できるから退屈するのである。 批判的に読むハイデッカーではあるが、著者の徹底的な検討の進め方がこの結論に至る。 人間は考えないで済む生活を目指して生きているなんて、哲学者が云うんだから驚き。 人はパンが無ければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく。バラも求めよう。生きることはバラで飾られなければならない。 本書の結論が胸に落ちてくるのは、もう少し時間がかかりそうだ。第7章と結論はときどき読み返そうと思う。 読了後、再度まえがきに立ち返る。スポーツ観戦に熱中している姿を周囲に見せつけることに意識を集中していたバーの客。留学の案内カウンターで美術の関心があるとだけ言って長時間カウンターで黙って説明を受けていた女学生。久しぶりに見たNHKの無名のサラリーマンを称えるドキュメンタリー番組のテーマソングへの違和感。本の主題に直接関係ないようで、何となく納得してしまった。

    1
    投稿日: 2024.11.02
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    本棚内を検索してみたら2018年に読んでいたようだが、ほぼ記憶になかった。文字面を追っているだけで読めてはいなかったのだろう。 再読になるのだろうが抜群に面白かった。ベストセラーになるのも頷ける。日々の悩みのいくつかは解消されたような気もする。國分功一郎氏の著作では古典の範疇に入るのではないか。

    4
    投稿日: 2024.11.01
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    おもしろかった! これまで哲学書と名のつくものに何回か取り組み、その内少なくない割合で返り討ちにされてきたけど、この本は通読できた。取り扱う内容は概念的で何回も部分部分を読み返したが、読者が丁寧に追っていく事を手助けしてくれる心優しき本だった。 暇と退屈は違う。暇で退屈はもちろんあるが、暇だけど退屈じゃない、逆に暇じゃないけど退屈、なんてのもある。その一つ一つの説明に難しいながらも納得した。 自分の好きな映画、ファイトクラブが例として出てきたのだが、ファイトクラブの背景を暇と退屈の観点から掘り下げる考察は目新しく、この映画をまた違った見方で鑑賞したくなる。

    0
    投稿日: 2024.11.01
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    おもしろい!途中つまんないかもとおもったけどやっぱり面白い!! 第二形式こそが退屈とうまく付き合い人間が人間らしく生きている正気の状態というが、退屈だという声を聞かずに済むように何かの奴隷になっている状態も至極自然だし、成長や向上を目指す流れが当たり前のように存在し正義とされている世の中においては第一形式や第三形式も人間らしい状態なのでは?と思った。まあ人間らしい、の定義によるか。 基本的に快楽、つまり興奮量の減少を求めるが故に習慣が形成される。習慣により囚われの状態になっていれば退屈は起こらないが、環世界は形成されるものの複数の環世界を往復していたり相当な自由度を持って移動できたりと、他の動物に比べて環世界が不安定な状態だからこそ、とりさらわれ続けることができなくて、結果退屈してしまう。(中途半端な習慣づくりしかできないということ?)折衷案としての気晴らしが第二形式の退屈。(たまに退屈の声が大きくなって何かの奴隷になる)これこそが退屈が運命付けられた人間的な生。気晴らしと退屈がちょうどいい塩梅でまじっている。(気晴らしちゃんとあるけど何となく退屈だ、っていうのがベストな状態なのかも?) 自分の環世界が破壊される、つまり習慣により、周囲の環境を経験=シグナルの受信という状態にして自分の環世界への不法侵入に対する盾を構築していた状況が崩れることにより思考を余儀なくされ、思考に囚われた状態になるのは、ある物事にとりさらわれているという意味で動物的な生とも言える。不法侵入の存在を受け止めることができるのは、環世界移動能力が優れているから。環世界移動能力が乏しければ、自分の環世界を揺るがすようなショックすら知覚し得ない??この環世界の崩壊は、規模は様々だが小規模なものなら日常的にあり、その度環世界が再構築されている。つまり日常的に思考にとり攫われている → 快を求めるが故に習慣化するが一つの環世界に入り浸り続けることはできない、新しい環世界構築のタイミングで思考に没頭する(動物的)(けれどもすぐに再構築されてスムーズに移動可能になるから→)and環世界観をスムーズに移動できるがために生まれた退屈に気晴らしで付き合う(人間的)(この際第一、第三の退屈に陥ってしまうと思考の隙間がないから思考没頭もない? 思考すらも決断、第3や第1の退屈の一種では?試行の奴隷になっていると言えてしまうのでは?不法侵入が決定的なもので思考が完全に外的なものの影響、つまり自然発生的なものなら、退屈の一環ではないのか?? 結論として消費ではなく浪費を楽しむべきだと言っていたが、これは本当にその通りだなと。 終わりがないものを追い続けてずっと満たされない感覚を抱くより、浪費する感覚をつかみたい。刹那的なものを味わえるようになることが1番重要ではないかという今までなんとなく持っていた考えと一致。かといって芸術や音楽とかきちんと学ばないと良さが分かりにくいものは、学んでわかるようになってきている、ハイカルチャーを嗜めているという感覚を消費することに繋がりそうで怖いな。 第二形式の退屈において気晴らしを退屈に感じるのではなく、気晴らしとしての機能を存分に発揮させるためには、贅沢を味わえる必要がある。そのためには訓練が必要だけど、それはそれで訓練の奴隷になってしまうのでは?と思ってしまった。日常生活の中で自分をとりさらってくれるものを探す作業が訓練なのか? 自分が消費活動に勤しんでいるだけなのか、それとも真にとりさらわれているのか判断するのはなかなか難しい気がする。 消費社会が、第二形式の退屈における気晴らしと退屈の悪循環を増幅させるということは非常に納得がいく!最後の最後の結論は微妙でした、私は自分にしか興味がない。 この筆者にとっては、このお題こそが最高の気晴らしであり、人間的な生において動物的になれることなのだろう。そういったものに出会える機会を得るという意味では、勉強は訓練の一環であり浪費への一歩となるものなのかもしれない。

    8
    投稿日: 2024.10.25
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    題名を見てもっと軽い話かと手に取ったところ、大変難しい哲学の話しではあったが、新しい気付きを得ることが出来たと思う。 人が退屈と感じるようになったのは温暖化に伴って「定住革命」が起きたからで、それ以前に何十万年も意識してこなかったことが始まった。 ハイデッガーが提唱した退屈の形式、第一形式、第二形式、第三形式は、ハイデッガーの論説に誤りがあるものの第二形式を「発見」したことは、極めて重要であり、我々はこの第二形式を生きている。云々。

    0
    投稿日: 2024.10.23
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    このレビューはネタバレを含みます。

    筆者の論理性の高さに脱帽。難しく入り組んだ概念が順序立てて論理的に説明されており、哲学に縁のない私でも議論を理解出来た。 ハイデッガーの退屈の3形式の関係及びそこから導出される本書なりの結論も説得力のあるものであったし、現代人は「チェンジ」しているかどうかではなく、「チェンジした」という情報そのものを消費しているということや、運命と本性の区別などは、身近なるもこれまでにあまり意識してこなかった事柄であり、ハッとさせられた。私はまんまとiPhone15 proに買い換えている。 一点、浪費と消費の違いに関してはあまり腹落ちしなかった。消費が観念・記号を消費しているという説明は理解出来るが、浪費が必要以上に物を受け取り吸収するためにどこかで限界が来るという説明には首肯し難かった。この原因はひとえに本書での浪費の定義が世間一般のそれとずれているためであると思う。例えば、毎年高価な衣料品を大量に購入して中には数回程度しか身につけないものがあるという事例があったとする。これは辞書的には浪費と定義して差し支えないと思うが、本書では浪費ではなく消費に該当する。独自の定義を出発点に議論が展開されれば都度定義を思い出す必要が生まれ、そのために議論に集中できなかった読者が一定数存在するのではないかと感じる。 総じて、示唆に富む素晴らしい本であった。筆者の別の本も読んでみたいと思った。

    1
    投稿日: 2024.10.22
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    このレビューはネタバレを含みます。

    ”生きることは、バラで飾られねばならない”。本書の最初と最後で語られるこの言葉こそ、個人的には最も語られれるべき言葉だと思う。  生存のために全頭脳を集中していた状態から解き放たれたこと、また、誕生後に教育を必要とするほどに脳が発達し、その教育によって環世界が目まぐるしく変化するようになってしまったことが人間特有の現象。それが理由で暇を感じるようになってしまったというのは皮肉かもしれないが、それを肯定的にとらえて、それが人間の人間たる所以なのだから、その状態を楽しむこと。ただし、それなりの準備と努力をもって楽しめる体制を整え、思考にとりさわられた状態と暇な状態を積極的に行き来できるように生きていくこと、という視点が新鮮であった。  ある目標に向かって、決断してわき目もふらず進んでいくことが唯一良いことであるかのように語られがちだが、それは中庸でなく極端を生みかねない。掲げられる哲学/社会学が主に中世~近現代によっているのは著者の意図的なものかわからないが、古代ではいずれかの両極端に偏ることなく中庸を良しとする考えがあったように思う。そのためには、決断して一直線に突き進んでいくだけでなく、常に俯瞰しつつ極端に寄らないように綱渡りを心掛けないとならない。もしかすると、中世以降に暇が積極的に取り扱われるようになってきたのはそのような考えが失われた故、という理由もあるのではと思った。  ハイデガーの掲げた退屈論について批判的にみられている視点の一つに、なぜハイデガーはパーティを楽しめなかったのか、それは彼が楽しむという準備ができていなかったから、という考察がなされている。この理由として、キリスト教の影響が一部表れているのではとも思えた。神に仕え、神の王国に迎えられることが唯一絶対の目的(予定説などはその極端な例?)とすれば、それ以外のことは一切が”無駄”になる。目的に向かってただ進むこと、決断してそのために行動すること、目的のためであれば世界を自分の(=彼の中では神の)ために利することはむしろ正しいこと、と考えていけば、神に仕える”努力する”人間こそが”高尚”であり、それ以外の一切の脇道や努力できない存在は”下等”となる。ハイデガー自身は宗教の影響を否定するかもしれないが、西洋社会に深く根付いた神に至る道こそ唯一正義、神に至る努力こそ高尚(=パーティなど娯楽は下等)、という文化が影響していないとは言い切れないように思う。  その点では、絶対的な正義という概念からやや距離を置きがちな、無宗教に近い日本人(もっとも、最近はタイパの良い唯一解を求めがちかも)のほうが、著者の主張は受け入れやすいかもしれない。南直哉さんの”答えを出すことを、断念せよ”という言葉は、決して人生をあきらめることではなく、何か絶対的な目的、正解があるという思い/執着を捨てよということではないかと思う。その先に、人生をバラで飾りたいという思いは初めて芽生えるのではないか。  文庫版再版で読んだのだが、付録の文章がまた、実に面白い。人に暇を感じさせる仮説として、記憶野からくる心的な痛み、に注目しているのだが、何もない安定的な状態に置かれた人間が、心の中に蓄えられた慣れることのなかったサリエンシーが痛みとなって退屈として感ぜられる、という視点は考えたこともなかった。だとすると、退屈とは人が過去に不快に感じかつ昇華できなかった感情のプレイバックという一面を持つことになる。  例えば、退屈の中で漠然とした不安を感じることはよくある。この不安は将来に対する、その未知さからくる不安(例えば、「このまま何もしないとどうなるだろう」)と考えていたが、この退屈そのものが過去の記憶に起因するとすると、もしかするとこの不安も、過去の記憶によるものなのではないか。考えてみれば、完全なる未知の、想定外のものには(認識していないのだから)恐れは生じないはずで、それを恐れるとすると、過去に教えられた様々な不安が無意識のうちに形を変えて将来の不安として現れてくるのであれば説明可能かもしれない。この不安は過去の不快な記憶、誰かと解消していく機会を持てなかった記憶の変形ということになる。  飛躍しすぎかもしれないが、”○○しないと××になるよ”とひっきりなしに吹き込まれ、”××にならないにはこうするしかないよ”とだけ、一つの目的への向かい方だけ教えられてきた人は、不安を感じやすく、もしかすると退屈も感じやすくなるのではないだろうか。少なくとも、ルソーの言う自由人は、退屈も感じなければ、このような不安を感じることもないのだろう。さらに考えてみたい。

    6
    投稿日: 2024.10.13
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    再読しなければならない本がまた1冊増えてしまった… 著者と同じように、退屈に悩まされてきた自分にとっては出会うべくして出会った本なんだろう。

    3
    投稿日: 2024.10.10
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    400ページという大作かつ哲学の本であるにも関わらずとても平易な表現や文体で書かれていてとても読みやすかった。 退屈の第二形式とそこから導かれる結論は納得感のあるものであると同時にそれらを美化しすぎているようにも思えて、そこも今後の論点足り得るのかなと思った。

    9
    投稿日: 2024.09.25
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    暇と退屈、という一見すると同義語のようにとれる2つの意味について哲学の観点で紹介している本。 この本を読んだ後、学びを得るか?という点については人それぞれであり、それが哲学書チックであるからと言える。ただ、少なくともこの本からは気づきを得られる。 この本を読むと、映画『ファイトクラブ』を観たくなることは間違いない。まさかそういう作品と取れるとは。

    0
    投稿日: 2024.09.23
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    第6回ビブリオバトル全国大会inいこまオンライン予選会3で発表された本です。 https://www.youtube.com/watch?v=25pStIUcXfM 2021.2.13

    0
    投稿日: 2024.09.16
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    論の進め方は合わない部分が多いが、「孤立と本質」「定住と移動」など、本論以外の部分がとても楽しかった。

    0
    投稿日: 2024.09.16
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    このレビューはネタバレを含みます。

    1ヶ月かかったが読了 倫理学と銘打ってることもあり途中難しいところもあるが、きちんと要所でこれまでの話を整理してるので苦にはならない 何かに興味を持つと視野が広がるし退屈も防げるのだろう、この点を大事にしたいと結論づけたい

    1
    投稿日: 2024.09.16
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    初めて物語じゃない小説を最初から最後まで読んだ。ずっと積読されていたものを読了できて達成感。 暇と退屈は別のものであることにすごく納得がいったし、退屈とは人間たる故、詰まるところ思考し自分の世界を自由に生きることができる故、感じる感情だなと理解した。 「退屈」と「気晴らし」を繰り返して生きていると自覚させられた。「なんとなく退屈」という感情に耐えられないから「気晴らし」をして、「気晴らし」の楽しみのために「退屈」なる感情が必要とされているまであるのだろうという思考になった。 最後まで読み切れて、筆者の思考に触れられたことが嬉しく、また自分の思考を深められた一冊になった。

    8
    投稿日: 2024.09.14
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    ハイデッガーの退屈分析が中心であったが、結局完全なものではないから、たとえ受け身だとしても自分で選び決断し、何があっても「それも人生」と思うのがいいのかなと考えた。

    0
    投稿日: 2024.09.12
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    哲学の本はあまり読まないので時間はかかりましたが読了。 『暇』と『退屈』に対して過去の哲学者や時代的な背景から著者の解釈をひたすら説明していく。 『暇』になるのは今の時代仕方がなく、またとても恵まれている事と感じた。その『暇』なときに何をするか、その瞬間にそれを『退屈』と捉えるかどうかは人によって感じ方が異なる。その瞬間にある物・出来事に対して楽しむ訓練を〈人間として〉常にしておく必要があるし、またそれはいつか来るであろう〈動物になる〉瞬間に花開く。その時『退屈』と切り離され喜びを享受できる。 この本を通して喜びを享受するために何をすれば良いのか考えさせられる一冊でした。

    3
    投稿日: 2024.09.09
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    一部飛ばしながらも時間をかけて読了。 仕事に満足できていないときに読んだ。じわじわ効いてくる刺さり方をしている。 暇と退屈を歴史的に紐解くアプローチと、ダニの環世界の話が面白くて印象に残った。 人は暇から目を背けたくてタスクを探しているし、他の生命にはないのに人間に使命なんてあるわけがない。後者はポインティも言ってたなあ。

    0
    投稿日: 2024.09.09
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    わかりやすいエピソード的な話を折りまぜつつ難しい話も入ってきて、集中力が途切れそうに何度もなりながらも、何とか読了。面白い部分もあって、暇と退屈っていうのも、学術論文になりうるんだな、っていうか昔々から賢い偉い人がたくさん考えてきたことなのですね。特に消費社会と退屈、まことに興味深いです。

    0
    投稿日: 2024.09.08
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    じっくり時間をかけ読了。 調子に乗るなと言われそうだが、昨年すんごく暇があり退屈していた時期に、自分の中で非常に似たことを考え、似た結論に辿り着いていた。おかげで今は暇はあるが退屈していない人生になったと思う。 私にも哲学者としての才能があるかもしれない。

    1
    投稿日: 2024.09.08
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    「この本が一番退屈だったわ!」というのが流れとしてはありがたいんだが、面白かったわ!どうしてくれんねん!(どんなクレーム?) うーん、やっぱ「哲学」面白いわー そして國分功一郎さんわかりやすいわー 出発点となる「問い」の設定が秀逸すぎるのよね そこがまず共感できるのよ 「それ、自分も思ってたー!」 それを、ほんとはめちゃくちゃに難しい概念とかを引っ張り出してきてるんだけど、分かった気になるのよね そして結論としては、ぼんやりとまぁそんな感じだろうな〜って思ってたことで、特別凄い!ってことでもないんだけど(これはご本人も仰っている)この色々考察した過程を一緒に進むことで、ふにゃふにゃってしてたことがカキーンてなるのよね でもって、そのカキーンが自分の力で成し遂げたようにちょっと思えるのね 要するにうまく乗せてくれるの つまり、色々考えたり、勉強したりすることが、ちょっと楽しく思えて来るんよね 退屈を打ち破るのは國分功一郎先生と学ぶ「哲学」やったんや!と言ったらちょっと褒めすぎかな〜w

    71
    投稿日: 2024.09.08
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    初めて哲学と呼ばれる分野の本を手にしました。文体自体は非常にわかりやすくなんとか読み切れましたが、理解度は多分半分くらいだと思います。 国分さんの本はまた機会があれば読んでみようとおもいます

    2
    投稿日: 2024.09.04
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    消費社会で自らが操作されているという気持ち悪さ、ミニマリストに憧れる気持ち、贅沢における考え方、 あらゆる私の考えが繋がって、漠然としていた思いを言語化してくれていた部分があった。 哲学でありながら、社会学チックなアプローチであったのが、ちゃんと大学で学んだことの延長として、私の知の蓄えとなりそうで、ありがたかった。 本当に私がしたいこと、欲しいものはなになのか を考えて、流されず生きたいと思った。 第6章の暇と退屈の人間学では、生物学(生態学?)チックな知識をもとに、世界を見ることができたが、大変面白く、そういった分野の本にも手をつけてみたくなった。

    1
    投稿日: 2024.08.31
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    暇と退屈なんて今まで考えたこともなかったから手にとった。 哲学って面白い!読み出すと最後まで止まらなかった。新たな気づき、今まで自分になかった視点に出会えた。

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    投稿日: 2024.08.31
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    この一冊を読んで、まず思ったことは「哲学ってやっぱり面白い」。 これだけ時代は進化して、身の回りのものは変化しているのにも関わらず、人間の思うこと・考えることは変わらないのだなと感じる。 だって、どことなくパスカルやハイデッガーなど哲学者の言っていることはなんとなくでも理解できるから。 特に、人間が環世界を容易に行き来できるという話は面白かった。流れている時間は個体によって違うということも。 人は何かを得たようで、何も得てなくて、むしろ退化しているのかもしれない。 これを読んだら、人生がきっともっと深く楽しくなる、そんな一冊でした。

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    投稿日: 2024.08.30
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    暇と退屈の違い、消費社会がもたらす満足感の得ない行動など、第5章までは面白かったものの、環世界を取り上げたところからハイデッガーの理論を解釈できなくなった点で残念に思った。 ハイデッガーの言いたいことは、環世界ではなく、人が使っている言葉と概念だと思う。それが動物と決定的に違うのに著者が気づけていないために第6章から偏った考えになり、ハイデッガーを批判する表現によって最終的な結論が全く頭に入ってこなくなった。

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    投稿日: 2024.08.28
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    現代人がなんとなく感じている退屈さを哲学的に論じている本。 結論を導くまでの道筋が非常に興味深い。哲学書で文庫本で400ページを超える量であるのにページを繰る手が止まらない。 実践書ではないので、具体的に〜すればよい!という倫理本ではないのだが、今抱えているなんとなく退屈、という気持ちがどこから来るのかがわかるため、読めばなにかしらのヒントは得られるにちがいない。 哲学書を読んだことがない人でも読むのは辛くないだろうが、一通り哲学史を学べる本を読んだ後に読んだほうがより楽しめるだろう。

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    投稿日: 2024.08.26
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    (メモ)環世界の説明に疑問が残った。環世界は知覚によって形成されるものではないのか?学習によって知覚は変化するのか?盲導犬が人間に都合のよい行動を学習することは知覚の変化と言えるのか?天文学者が宇宙について学んだ知識によって世界の認知が変わるのか?

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    投稿日: 2024.08.21
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    なんとなく本屋さんに行って、パラパラと中身を少し読んで、あっ!これ面白い!と思って買いました。 なんで私達は暇なときソワソワしてしまうのか、なんで幸せだと思うような時に退屈を感じるのか、いろんな角度から解き明かしてくれます。筆力がとても高く、平易な言葉で読んだ人間の哲学を考える土台を作ってくれるような、そんな素敵な本です。

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    投稿日: 2024.08.21
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    暇とは 退屈とは 結局それは自分で見極めなきゃいけないのかもしれない。 暇を暇と思える感覚。 暇とは自由だという事を思い込む。 退屈との向き合い方。 退屈だと思い込んでしまった瞬間退屈だという感情に気づく。そこで自分にとっての退屈とはを知ることになるだろう。 一度読んだだけでは自分自身に落とし込むのは難関 日々の感じるところからスタート。 今自分は暇か?それとも退屈しのぎか?ただの気晴らしか?考えれば考えるほど答えはどこに? 自分に落とし込める日が来る事を思う。

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    投稿日: 2024.08.20
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    仕事帰りの電車の時間に、少しずつ少しずつ読み進めながら読了。一気に読むエネルギーは私の中になかったものの、とても読む価値のある本なのはずっと感じていたし、その印象は最後まで変わらず、結果読むことが出来て良かった。 ハイデガーのように、意志を持って意義あることに取り組むのがいちばん!って思ったこともあったなあ。人間という生き物がいかに暇や退屈と無縁でいられなくて、それには一見無駄と思えるものなしに生きては行けないことなど、説得力ある言葉で書かれている。 暇と退屈だけではなくて、いろんなことに示唆に富むことが書かれてて、色んな気付きがあったので、読了できて良かったと思う。

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    投稿日: 2024.08.20
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    随分と長い時間をかけてしまった。すごくよく“わかる”感覚と“わからない”が、交互にきて“わからない”ところで多くの時間を使ってしまった。 本書はタイトルの通り、「暇と退屈」についてを学ぶ本。倫理学、とあるけれど(通読するとなぜ倫理なのか?ということがわかるわけだけど)多くの、そして幅広い学問(そして、その道の“学者”の理論)の交差や重なりや違いを何重にも重ねていった先に、この本の言いたいことが出てくるという。途中、「で、これ何の話でしたっけ?」という場面には何回も出くわしました。 いくつか印象に残っている話はあり、ルソーとホッブスの「自然状態」に対する理論の違い(ルソーは自然に帰れ、とは言っていない、というのが面白い)、環世界をの話をもとにした人間と動物の区別、境界線はどこにあるのか?という話など。 ふと、ハイデッガーの第一形式の退屈、については、昔「社畜」という言葉で自分を自称して嬉々としていたころを思い出した。今は社畜という言葉は本当に嫌いな言葉だけど、当時はその言葉の醜悪さに気づかず、むしろ、その言葉に自ら囚われにいくような働き方、生き方をしていたのでまさに奴隷だったなと。 まとめとしては、暇を暇でなくする言葉に暇つぶしがあるわけだけど、つぶすのではなく、暇を暇として受け止め、暇に甘えるとか、暇に頼るとか、暇に会いに行くとか、そんな感覚で暇と向き合っていければ良いのかな、と思いました。

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    投稿日: 2024.08.19
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    韓国からカンボジアに向かう飛行機の中で読了。 この旅もまた、暇つぶし、気晴らしなのか。私の中の余剰時間を何か有意義に見えるもので埋めたい。 人は何かしていないと落ち着かない。移動生活は忙しかったが、定住生活は暇を生んだ。筆者の話はそこでは終わらない。 人間は、1人の中にたくさんの世界を持つ(環世界)→絶えず世界観を移動しながら生きる→ 新たな世界に出会ったら、そのひとつの世界に慣れるために努力する→ その世界に慣れたときに、退屈さを感じる→ 次の世界を求める→次の世界に出会う→ショックを受ける(自分なりの理解をすべく考える)→順応の努力をする→順応する→退屈さを感じる 。。。。をひたすら繰り返す。 より満たされて幸せに生きるためには、①暇を紛らわす何かを学び心から楽しむこと ②よく考えること であるらしい。 わたしが無意識に繰り返してきたことは、人間の性であったらしい。 読みたい本や理解したいこと、やるべき仕事があれば気は紛れる。だけど、手隙の時に感じる罪悪感。焦り。息苦しさ。何かしなければいけないような、だけど、なにをしていいのか思いつかない時の、不安な行き詰まり感。何にも目的や目標のない、自由な時間を楽しむことができない。それは何なのだろうと思ってきたが、この本で解が見えたように思われる。 毎日忙しく、決して暇な人生ではないけれど、もっと良い人生にできそうだ。生きていることを楽しみたい。 哲学者ってすごいな。こんなに抽象的に、一般化して、人生の普遍的な問題を解決している。

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    投稿日: 2024.08.16
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    30超こどおじ独身彼女たちなしと、生きてるのが退屈になってきたと感じこの本をとった。 本書は、なぜ暇で退屈なのか、そのためにどうしたらよいか?を作者が過去の哲学者や研究者の論文等を出しながら説明していき、結論まで導いていく。 哲学や倫理等には全く疎い人でも、身近な例等を出してくれるため、頭にスッとはいりやすい。 また、作者の結論にもあるがこれは結論だけでは意味がなくなぜその結論に至ったのか?を知ることでより一層深い認識につながるため、読了後の満足感もある。 また後書きで触れている、 スピノザという哲学者のわかる感覚ということには大変腑に落ちた。 なんとなく退屈な人生だと感じている人におすすめ。

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    投稿日: 2024.08.16
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    ウサギ狩りをする人が本当に求めているものは? 冒頭の問いから早速引き込まれた。 暇と退屈に対する自分なりの考えを持つきっかけに間違いなくなる一冊! 自分なりの結論は以下! 人間は習慣化の生き物。 習慣化とは思考を避けること。 退屈を避けるには思考を楽しむことが必要。 すなわち、思考を楽しむ習慣が答え!(哲学的…!)

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    投稿日: 2024.08.16
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    難しい内容だったけど、学びの多い本でした。 非常に面白い内容だけど言葉が難しく、少しずつ読み進めて、数日かけて読み終えました。 何度か読み返して理解したいのでまた読むと思います。

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    投稿日: 2024.08.16
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    哲学の本ということもあって、読むのに時間がかかったが、すごく興味深く面白かった。暇が戦争による破壊やギャンブルによる自滅などを生み出す可能性がある一方、暇を回避しようとすることは何かの奴隷になることである。本書では、この取り扱いの難しい「暇」について論じている。人間は常に暇の中にいるのである。 結論としては、適度な暇を持ち(何かの奴隷になった状態ではなくて)、暇を楽しむ能力を身につけるてゆき暇を楽しむことが、人間らしく生きることである、とされている。貴族の楽しみは教養がないと楽しめないことを思い出せば良い。勉強が人生を豊かにすることも、当然である。 また、何かに囚われている状態(動物的状態)をコントロールできるようになることが理想的である。自分自身を破滅する可能性のあるものや、何か強制されたものに囚われることは危険だと言わざるを得ない。しかし、自分を捉えてしまいそうな経験に身を投げる(小説や旅行など)ことで、暇を忘れられるし、人生に楽しみが与えられる。

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    投稿日: 2024.08.15
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    このレビューはネタバレを含みます。

    ハイデガーの【退屈】 退屈の第一形式 (暇でありかつ退屈している)面白くない映画、何もない駅、のように、「何かによって退屈させられていること」。退屈の声を聞かなくて済むよう、何かやることを探し、気晴らしによってかき消す。 第二形式 (暇ではないが退屈している)なんとなく、なぜか、いつの間にか…楽しかったパーティーのはずなのに終わってみると時間を無駄にしたような退屈を感じる。気晴らしの状況そのものに退屈しているのではなく、その状況の中で自分自身が空虚(なげやり、周り任せ)になる。 第三形式 (なんとなく退屈だ)ここでは、周囲の状況も私たち自身も、すべてがどうでもよくなっている。なんとなく退屈だという声に耳を塞ぐことはできなくなり、自分に目を向けることを強制される。すると、「人間としての自分が授かることができ、授かっていなければならないはずの可能性を告げ知らされる。この事態を切り開いていくための可能性を自分の名前に見出すことを強いられる」。あらゆる可能性を拒絶されている(どうでもよくなっている)が故に、自らが有する可能性に目を向けるよう仕向けられている。 ・・・・・・ 「なんとなく退屈だ」の感情に人間は自分の可能性を示される。 その可能性とは「自由である」という可能性である。 この段階ではまだ自由は可能性にとどまっている。ではそれをどう実現するか? それは、「決断することによってだ」。 ハイデガーは、退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよと言っているのである。 「退屈はお前に自由をおしえている。だから決断せよ」 しかし決断とは、人を盲目にする。決断を欲する者は、ものや人との関わりを絶つからだ。 決断とは、心地よい奴隷状態に他ならない。 決断した後の人間はどうなっていくのか?決断したものは決断された内容の奴隷になる。 第一形式において日常の仕事の奴隷になっている状態にそっくりである。第一形式の状態も、その人間はもしかしたら、決断によって選び取ったかもしれないのだ。 決断する人間にも甚大な自己喪失がある、と言わねばならない。 第一形式と第二形式は、第三形式から生まれている。 普段第二形式→何かが原因で第三形式→自分は何かに飛び込むべきではないかと苦しくなり、第一形式に逃げ込む。(自分の心や体、周囲の状況に故意に無関心となり、ただひたすらミッションに打ち込む。 そのミッションの奴隷になることで安寧を得る。) 「なんとなく退屈だ」という苦しさの声が響いてくると、他に大きく鳴り響く世間の声を探す。その声に耳を傾けていれば、苦しさから逃れられる。そうして決断し、奴隷になることはこの上なく楽だ。しかも世間からも褒めてもらえる。 ハイデガーはそれを狂気と言ったのだ。好きで物事に打ち込むのとは訳が違うのだから。 「あれも、これも、できるのに、私はこんなことをしている…」という声は耐え難く、第一形式の構造へと身を投げ、第三形式と第一形式のサーキットの中に身を置くことになる。だから、気晴らしをしながらの第二形式を生きることが人間の「正気」なのではないか。 人間にとって、成長していくこととは、安定した世界を創造していく過程。 贅沢とは浪費。浪費は持ちきれなくなると贅沢になる。ものを受け取るとは、その物を楽しむことである。衣食住や、芸術を楽しむこと。楽しむことと消費は違う。楽しむ訓練、教養があれば、より深く享受できる可能性がある。 贅沢を取り戻すには、物を受け取れるようになるしかない。受け取って楽しむための訓練として。 退屈は、物を楽しむことができなかったからに他ならない。第二形式の中の【気晴らし】を存分に享受し、つまり人間を楽しむことが必要。 楽しむことは思考すること(思考を強制され退屈を感じない状態≒夢中)に繋がる。 自分は何に対して思考を強いられ楽しみを受け取ることができるのか。人はそれを楽しみながら学んでいく。楽しむことを学び、思考の強制を体験することで、人はその対象を受け取ることができるようになる。 退屈と気晴らしが入り混じった生、それが人間らしい、正気の人間の生。 暇=自由。その第一歩は、贅沢の中から始まる。

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    投稿日: 2024.08.15
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    このレビューはネタバレを含みます。

    暇は物理的なもの。退屈は精神的なもの。 かつて貴族の特権だった暇は、今や皆の悩みの種であり、暇をどう見せびらかすか?を争っている。(貴族の気晴らし=パーティ、今の気晴らし=趣味やバエ?) 暇と資本主義とは相性が良く、与えられたパッケージの気晴らしをあたかも自ら望んだかのように振る舞う。

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    投稿日: 2024.08.14
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    教えて貰うことたくさんありすぎて読んで良かった。普段から活字に慣れていないと読み通すのがかなり難しい。何度もいったり来たりしながらなんとか読了。一冊読むのにこんなに時間をかけたのも久しぶり、でも読み応え十分でした。

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    投稿日: 2024.08.11
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    退屈な労働環境に悩んでいた時に目に留まってすぐ購入した本。 定住革命の部分が特に目から鱗で、だから退屈なのかも、と今の自分を納得させられることが書いてあってありがたかった。 後半は難しかったけどどうにか読破。 私の人生変える本になるかもしれない。

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    投稿日: 2024.08.10
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    日々、何気なく感じる「退屈」に関して考えることができた。読み終わったあとでも自由な時間をどのように過ごせばいいのか、はっきりとした答えは自分の中で導き出せていないが、今後より良い人生を生きていくためにもこの本に出会えたことは良い機会だったと思える。

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    投稿日: 2024.08.09
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    平日は仕事で忙しい忙しい言っているのに、休日は別に見たくもない動画をダラダラ見続け自己嫌悪に陥ってしまうそんな時に、タイトルに掴まれて思わず購入してしまった本。 哲学好きなのでとても面白く読み進めることができた。 こんな毎日を変えるには何をすべきかといった具体的なハウツーを求める人は自己啓発本を読めば良いと思うけど(私もつい答えを求めてしまいたくなるので、それは分かる)、あれこれ人間が普遍的に持っている特性だとか思考する方が私は考えに深みが増していいなと思う。 暇の過ごし方が単なる消費者行動になってしまっていないかは意識していきたいし、「第二形式」において楽しみを感じられるように自分の感性や思考を磨いていきたいなと思った。 最後に「哲学とは郷愁である」って言葉と作者の解説がとても好き。

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    投稿日: 2024.08.04
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    暇と退屈を遣り過ごすヒントでも得られるかと本書を手にとったが、私には難解な哲学書だった。しかし、浪費と消費の持つ意味の違い、人間と動物のことなる環世界 等々興味深い話しばかりだった。どなたか本書をもう一段階解りやすく東大生でなくても読める様に書き直して出版してください。

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    投稿日: 2024.08.04
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    難しいけど具体例も多く読みやすい。 その瞬間瞬間、満足していないから退屈になると認識した。漫然と生きるな!浪費せよ!楽しめ!というメッセージと受け取った。

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    投稿日: 2024.08.02
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    『東大・京大で2023年に一番売れた本』というポップに釣られて図書館で予約していた本がやっと回って来たので早速読んだ。(外山滋比古の「思考の整理学」に続いて) 全七章のうち、読むのが苦痛だった章が半分くらいあったが、以下2章はとても刺激的で面白かった。 第一章 暇と退屈の原理論 ー ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか 第六章 暇と退屈の人間学 ー トカゲの世界をのぞくことは可能か? 特に第六章に登場する、理論生物学者ヤーコブ・フォン・ユクスキュルの『環世界』(Umwelt)という考え方は、(似たような考えは理解していたつもりだったが)新鮮だった。 具体類として挙がっているマダニの世界観は人間との違いが際立っていて分かりやすい。曰く、 ①マダニのメスは、哺乳類が発する酪酸の匂いを察知すると木の枝から手足を離してその場でダイブする②(どこかしらに)着地後37℃の温度を探す、③触覚を使って毛の少ない場所を探し、獲物の皮膚組織に頭から食い込んで血を吸い、産卵して死ぬ(精子はあらかじめ手に入れた上で袋にしまってあり、吸血後に袋が破られ受精する)、というたった三つのシグナルに基づいて生きているそう。このプログラムが通しで実行されるのは一生に一回だけで(途中でシグナルが途絶えたら木に登り直して一からやり直し)、酪酸の匂いを嗅ぐ迄18年生きた例もあるらしい。マダニにとって、自分が取り付く相手が哺乳類である、という認識はないし、酪酸の匂い検知をすっ飛ばして37℃の世界でいきなり吸血を始めることも無い。 ハイデガーは、この『環世界』は動物についてのみ成り立ち、人間だけがモノをモノとして正しく認識出来る、と説くが、著者はこの考えを全否定する。人間も環世界で生きており、他の動物に比べて相対的にしかし相当に高い環世界間移動能力を持つに過ぎない、と説く。動物でも環世界の移動をする例として盲導犬の例が挙がっているのがまた分かり易い。

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    投稿日: 2024.07.28
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    哲学の本を読みたいと思っていたので、まさにぴったりの本を見つけたと思った。タイトルに惹かれて読んでみたが、意外と「暇」や「退屈」は歴史があって驚き。私ですら聞いた事がある哲学者も考えていたテーマと知り、さらに驚き。 この本を読んで印象に残ったことは、浪費と消費の違いである。私は最近、何にお金を使おうか、とか今までは即決で買っていたものを悩んで買うようになってしまった。この変化はもしかしたら、浪費から消費というよくない変化の表れだったのかもしれないと思った。これからは、浪費ができるように少しずつ学んでいこうと思った。

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    投稿日: 2024.07.25
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    暇と退屈を分けて考える。浪費と消費を分けて考える。分けることによって全く違うものであることに気づき、考えることによって自分なりの正解を探す。本書に結論は用意されているが答えはない。 一般的とは違う扱いをされている浪費と消費が印象的だった。私にとっての最適な浪費を探したい。

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    投稿日: 2024.07.16
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    帯の『まさか哲学書で涙するとは思いませんでした…』という文に惹かれて読みました。 心に残る部分はたくさんあって、きっと何度も読むと心に残る部分が変わるんだろな。 ちょっと私には難しく、劇的に人生が変わる!という本ではないけれど、なんとなく思考が深まった気はしてます。 星5をつけている人が多くて、みんな頭いいんだなとびっくり。

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    投稿日: 2024.07.14